自由民権 請願の波

  馬上の人

 河野広中こうのひろなかといえば、東北では板垣退助とならぶほどの評判だった。

 福島県三春みはる郷士ごうし、呉服太物ふともの、魚問屋をいとなむ家の三男に生まれ、明治維新のときには会津戦争に草奔そうもうとして走りまわった。その後、明治六年(1873)、磐前いわさき県の一介の副戸長ふくこちょうとして赴任するとき、馬上でジョン=スチュアート=ミルの『自由之理』をよみふけり、精神に一大革命をきたし、自由民権の大義を翻然として悟ったという逸話の持ち主である。広中、その時二十五歳だったという(『河野磐州伝』)。

 そのころから、かれは地方民会の開設に熱心に動きまわっていた。明治八年(1875)六月の第一回地方官会議のおりには、上京して審議のなりゆきをみまもっている。そして、いっこうに民会の件がとりあげられないのをみて、傍聴人会議をひらき、建言書をさしだした。

「わたくしたちが今もっとも嘱目渇望しょくもくかつぼうしているのは、ただ民会を開くという一事であります。これは一般人民もまたひとしく嘱目して、わたくしたちの帰村を待っているところです。なぜなら、国家の憲法はこれより確立すべく、人民の権利はこれによって振起するにちがいないからです」

 その傍聴人のなかには、酒田県ワッパ事件の森藤右衛門や、立志社の社長西山志澄しちょうなどもふくまれていた。しかし、地方官会議はさまざまな論議のすえ、三十九票対二十一票で公選民会論をしりぞけ、官選の区戸長会をもって民会とする、という議を可決してしまった。

 河野ら傍聴人会議は、それは民会とは認められないと宣言した。いわゆる、「下流の民権説」が擡頭したのである。

 肥後の白川県で、公選民会開設を要求する民権党豪農のたたかいが起こり、ついで九年(1876)二月の熊本県民会、九年七月の浜松県民会、同九月の静岡県民会の、県令とのたたかいに発展した。そのなかから、進歩した選挙規則をもつ熊本県民会規則や、高知県民会議事章程などがうみだされた。この波紋はさらに下部の町村会に波及していった。

 地方官会議のとき、河野広中はすでに土佐の西山志澄とともに傍聴人グループの組織者であった。八年(1875)八月、故郷に帰るや、石川村の同志吉田光一らとはかって、その地に石陽館をひらき、石陽社を設立して、活動家の育成にあたった。

 石陽館の細則は、土佐の立志学舎などの経験にならって、しだいに整理されていったらしく、十二、三年ごろになると本科員と科外員との区別ができ、さらに本科員は甲乙丙の三組に分けられて、かなり高いレベルの学習がおこなわれた。

 そこには、モンテスキューの『万法精理』、スペンサーの『社会平権論』、ルソーの『民約論』、ミルの『自由之理』、リーベルの『自治論』などの当時評判の新刊書がとりいれられている。細則第五条には「論弁研究ノタメ、毎土曜日ノ夜ヲ以テ演説或ハ討論ノ会ヲ開キ、一般学員ヲシテ出席シ、弁論討議セシム」とある。

 校長吉田光一はそのとき二十九歳、石川村の農民であった。

 こうして村落の底辺で地道な努力をつづけた河野たちは、明治十年(1877)、西南戦争が勃発しても、主戦派にひきずられることなく、四月には三春に三師社を設立し、さらに不穏の動きがつたえられる土佐へ飛んで、立志社員に自重論を説くなど、着実な行動をとることができた。

 

  東北の村から

 明治十一年(1878)の十月、愛国社再興の声をはるかに聞くや河野ら石陽社の幹部は、福島県下の政社、三師社・興風社・明八会などと合併し、仙台に進出して東北七州の組織のかなめになろうと建議した。そのためには、まず「我福島県下、三国二十三郡ノ公衆結合ヲ以テ最モ今日ニ急要ナル事」と考え、「三国公衆結合要旨」を発表した。そこには河野ら豪農指導者たちの考えがはっきりとしめされていた。

 明治十二年(1879)七月二十四日、福島県下岩代国・磐城国の豪農指導者ら二十一名の連署による東北同盟の「盟約」が発表されたとき、その同盟条例の第二条には、次のようなきびしい規律が定められていた。

「我々同盟者ハ則チ我道ノ首唱者ナルヲ以テ平素言行ヲ方正ニシ、其動作ヲ厳格ニシ、人ノ師表タルヲ以テ自任スベシ」

 ここには、国民的な運動をめざすものとしての高い道義性がみとめられる。この点を、前章に紹介した笠津社や共立社などの士族民権家のそれとくらべてみるとどうだろう。民権運動が国民的運動となるためには、革命家ひとりひとりの主体において、このような精神の健康さが必要だったのである。

 河野は、その二ヵ月後に石陽・三師の二社を代表して、ふたたび土佐をたずね、愛国社の決議をもって、「国憲ヲ立テ国会ヲ起スノ要求ヲ政府ニ向テ発スル」ように要望した(河野広中『南遊日誌』)。この東北農民の要望はいれられて、愛国社第三回大会による国会開設請願運動の開始となったのである。

 このころの河野の心境をかたるものに、ほほえましい一詩がある。

  人生、無已辛艱むいしんかんふ 

  大喝奮身禁関を破る

  吾に自由を授けよ 然らずんば死を

  丈夫骨をうづむるに青山せいざんあり

 ここにはアメリカ独立運動の闘士パトリック=ヘンリーと広瀬淡窓の有名な一句とが仲良く同居している。この雑炊のような詩のなかにみられるものは、その老成した政治活動に比してあまりにも稚い文藻である。このたぐいの詩なら、わたくしたちは当時の豪農の詩稿のなかから一ダースでもひろいだすことができよう。

 かれらの志士的な心情のすなおな表白である。

 

  地租から国会へ

 明治九年(1876)から十二年(1879)のあいだには、右にのべた地方民会から民権運動へのコースとは別に、それに並行して、地租改正に反対する運動から自由民権運動へ発展する事例もあらわれた。これは後藤靖氏によってあきらかにされた。

 それは、この困難なたたかいをねばり強くつづけているあいだに、地租問題の解決の本質は、出さきの係官の見据みすえいかんや、査定方法などにあるのではない、地租条例の実施を強硬にうながしている現政権の性格それ自体のなかにある、ということを、指導者たちが知りはじめたことによる。つまり、「地租」を通して「国家形態の変革の問題」にめざめてゆくのである。

 たとえば、和歌山県粉河一揆の指導者であった児玉仲児ちゅうじ八塚やつか林之輔は、しみじみと、「法は人民のため之を設くるの一大要語を体認」する政府が実現されなくては、地租問題の合理的な解決はできないと反省している。その後、児玉は愛国社の大会に参加してゆく。

 また信州下伊那郡全村民の地価改定の要求を達成しようとした豪農森多平は、地租改正局の官吏をまえにして、そもそも地券発行の趣旨は、不公平な租税をなくすようにとの至仁至徳の聖旨だと拝し奉っているのに、人民が生命を保存することができないような「重租」をかけることは、「人民在りて政府在り」という道理を無視するものだといい放った。それほどまでに、この運動を通じて、かれらは思想的に成長した。それは経験から学びつつ、手さぐりでさぐりあてた道であった。

 また、杉田定一が、越前三郡二十二ヵ村の人民の地租改正反対運動の指導を乞われて、敢然とこれにこたえ、いらい二年間、その先頭に立って活躍するなかで、政社自郷社じごうしゃを創立し、のちの越前自由党の基礎をきずいていったことも同例である。

 杉田は早く『草莽そうもう雑誌』の主幹として、全国にも名を知られた豪農民権家であった。十一年(1878)愛国社再興のために、かれは植木枝盛えもりとともに紀州・北陸・九州を遊説ゆうぜいして、帰郷した翌日に、新聞紙条例にひっかけられて投獄された。

 その間に、村民たちは県令との抗争をつづけ、さらに直接解決にのりだした内務省と対決すべく、代表を土佐の立志社に送って指導を求めていた。ちょうどそのとき、杉田が出獄したのだ。村民は狂喜してかれを迎えた。

 二十七歳のかれは感動してこれにこたえ、政府の地租改正事務局をあいてに一歩も退かぬ抗争を開始した。かれがみずから校長として教鞭をとり、自宅の酒倉を改造して教室にあてた自郷学舎は、この十二年(1979)から十三年(1980)のあいだに、塾生二十四人から七十九人に発展した。しかも、その生徒は坂井郡四十九ヵ村にひろがっていった。

 こうした活動をもとに、杉田らは越前七郡にげきをとばし、十三年二月、南越七郡連合会を結成し、各郡・各組・各村、一致共同して政府にあたる態勢をかためた。そのため、ついに大蔵卿大隈重信は、異例の再調査をみとめ、地租額にして三万九千円、反別一千町歩分の減少という、大きな譲歩をしたのである。

 政府は後退をよぎなくされ、杉田と愛国社の名声はとみにあがった。

 この勝利によって、福井の民権運動は躍進し、翌十四(1881)年九月には、越前一円をつつむ大政社天真社の結成へともりあがっていった。民権運動は農民闘争と結びつくことによって、新しい展望をきりひらいた。

 以上あげた事例は、もちろんわずかな例である。大多数の農民はこうではなかった。しかし、この少数の例は、当時の歴史がこのように発展できるという可能性を、つまり、ひとつの本質的な要素を鋭くあらわしている。そのために、歴史学においては、停滞している一般ではなく動きはじめた部分をつねに重視する。もちろん、だからといって、動かなかった、立ち上がろうとしなかった大勢を考慮外におくことはゆるされない。

 

  「偽民権」

 他方、国家を支配するものはまた、時代の先ぶれをしめすこのような少数の動きには敏感になる。

 とくにその支配が、弱体で不安定な政権であればあるほど、保身の本能からしても危険な徴候には過敏たらざるをえない。わが明治国家の統治者集団のばあいも大いにそうであった。だが、その高感度を誇る政府首脳でさえ、人民の深部での胎動は容易にとらえることができなかった。

 明治十二年(1879)の『佐々木高行日記』の全体をみても、民権運動は依然として「偽民権にせみんけん」としてしかとらえられていない。

 佐々木のところに寄せられてくる報告では、四国・九州の民権家が密会しては、「刺客を放って機をうかがい大臣参議を暗殺」し、「自然、政権を自滅」におとしいれようとしているとか、そうした方法で挙兵の時機をつくりだそうとしているとか、と報じられている。

 自由民権の在村的潮流の、大地の深部でひたひたと流れる潮音は、かれら政府探偵や要人の耳には、まだ聞こえていなかったのだ。

 当の一等侍補じほ佐々木高行自身は、十二年十月、侍補職を廃され、天皇のそばから遠ざけられて、元老院議官にもどっていた。ところが、二十三日には、とつぜん宮内省御用掛ごようがかりを命ぜられ、同日、東北地方へ「民情視察」の名でとばされてしまった。

 伊藤博文をはじめ、参議勢力に内から批判を浴びせてきた佐々木ら侍補勢力の完全な敗走であつた。

 十月二十九日、佐々木は旅装もあわただしく東京をたち、翌十三年(1880)三月末に帰京するまで、五ヵ月にわたり東北を行脚しつづける。

 時はまさに北国の厳冬、寒風吹きすさぶ野を渡り、山をこえ、海浜を踏破し、佐々木は五十歳の春をまえに、僻地を視察しつづけていった。

 そこでかれは何にぶつかったか。

 いたるところで困窮した士族の訴えにであう。紙幣価値が下落し、人民までが政府の発行する紙幣を信じなくなっている事実にであう。国会開設の請願にであう。米価騰貴の苦情を聞かされ、地方の学校教員の乏しすぎる実情にであう。開墾地の困難をのあたりにし、殖産興業の容易ならざることを痛感させられる。そして、紹介状をたずさえ、コネを求めて、自分に訴願してくるうぞうむぞうにもであったであろう。

 こうした実物教育によって、佐々木高行の眼は幅広い政治家のそれとして成熟してゆく。

 

  桜井提案

 佐々木たちが、参議勢力と望みのない抗争をつづけているあいだに、そして、日本じゅうの人民がこれまでにないコレラの大流行にふるえおののいていた十二年(1879)の夏に、民権運動史にひとつの画期点をつくりだすようなよびかけが、千葉県の一村会議員の手で発表された。

 それは、七月二十四日の『朝野ちょうや新聞』をはじめ全国各紙に掲載された桜井しずかの「国会開設懇請協議案」であつた。そこには、

「本年において地方県会が開設されたが、その権限があまりにもせまく、議決事項を制限されていて、如何いかんともすることができない。このように人民の参政権と収税法を審議決定して、人民の福利を増進する県会の効力が僅少である以上、これは国会を開設するのでなければ、真の鴻益こうえきをうることができない」

と主張されていた。

 桜井静は安政四年(1857)に香取郡東条村に生まれ、明治三十八年(1905)に死んだ、北総の生んだ民権の先覚である。かれは、地方三新法の本質にたいして明確な批判をくわえた。

 まえにもふれたように、明治十一年(1878)七月の府県会規則をふくむ地方三新法とは、危機に立ちいたった政府の財政的・政治的苦境を打開するための政略からでていた。それは一見、人民への譲歩とみせかけながら、じつは、地方税規則による実質的な増税をねらい、地方の財政権・行政権をいっそう強く中央に集中しようとする妙策であった。

 戸長の民選や府県会議員の財産資格による公選、そして府県会の開設は、たしかに豪農層の民会要求を部分的にみとめている。しかし、戸長の民選とは、「村」をこれまでの行政機構からとりのぞき、民費の大部分を「地方税」という名目で府県財政に編入してしまうことと抱きあわせにみとめられていた。

 (明治10年代国庫収入と地方収入の対照表 割愛)

 府県会ですら同様である。これまで国費でまかなっていた公共事業費や警察・監獄費などの支出を府県財政におしつけてしまったために、増税が避けられなくなることを見こして、民心を緩和しようとのねらいをもっていた。

 桜井静が全国の農民の不満を代表して発言したように、このような府県会では、地方税徴収のためのたんなる下問かもん機関にすぎなくなる。この指摘が、多くの人びとの共感を博したのはとうぜんであろう。

 じじつ、三新法の発布以後、上の表で見られるように、地方税の負担は飛躍的に増大し、たえがたい重荷を年ごとに農民の肩にくいこませていた。

 こうして桜井は、最後に全国の府県会議員にたいし、次の三つのことを提案した。

  第一、全国の県会議員よ、親和連合しよう

  第二、東京に一大会議をひらいて国会設立法案を議決しよう

  第三、政府に懇請して国会開設の認可をえよう

 そして、この趣旨は一万部ほど印刷されて全国の府県会議員に配付されたという。

 この桜井静という人は、千葉県香取郡の生まれで、明治七年(1874)まで千葉県庁に出仕していたが、明治八年東京に遊学し、十年、武射むさ郡小池村(現山武郡芝山町小池)の桜井家の養子となった。かれが村会議員をしていたのはその村である。十四年(1881)には『総房共立新聞』や『東海新聞』を発行して民論を張ったが、廃刊を命ぜられた。のち渡米したりして殖産興業に活躍している。

 

  波紋

 この桜井の提案は、愛国社第三回大会の国会開設請願の決議より四ヵ月前にあらわれ、各地に大きな波紋をよび起こしていった。

 まず、茨城県では県会議長以下三十余名全員が賛成した。

 岩手県では、上田農夫県会議長が同意の回答をし、新潟では山際七司やまぎわしちしらがこの提案をきっかけに、県下の組織運動にのりだすことになった。

 岡山県会では満場一致でこの提案を採択し、十月一日を期して山陽道諸県の県会議員連合会を岡山でひらき、国会要求などを協議することを明らかにした。広島県会議長も大いにそのことに賛成した。

 機は熟していたのだ。桜井提案にたいする反応は「無慮三百余」にのぼったという。

 桜井静はこれにはげまされ、十三年(1880)五月十五日を期して、地方連合会をつくり、それをもとにして一大請願運動をくりひろげようと、よびかけた。

 こうした事態の重大さにようやく気づいた政府が、集会条例を公布し、府県会議員相互の連絡通信を禁止したのは四月五日であった。

 しかし、それより早く、十三年二月二十二日、地方官会議の傍聴にきていた各府県会代表百四名は、岡山代表のよびかけにより、東京両国の中村楼にあつまった。かれらは、すぐにでも国会開設を建白すべきだと話しあい、さらに国民運動としてこれをもりあげるために民衆組織にのりだす方針を確認しあった。

 

  東陲民権史

 両国の中村楼で全国の県会代表たちが、熱っぽい議論をかわしていた一週間前、筑波おろしの吹きあれる筑波町では、二十一名の茨城県下の代表があつまっていた。

 そこには豊田郡宗道そうどう町の森隆介や飯村丈三郎の顔が見える。行方なめかた潮来いたこ町の磯山清兵衛や関戸覚蔵の顔が見える。そして猿島さしま郡岩井町の県議中山三郎の顔も見える。

 かれらはいずれものちに名のでる豪農で、飯村と森は県下三郡に社員三百余名をもつ有力政社同舟社の幹部であった。磯山と関戸は、行方郡と鹿島かしま郡とに勢力をもつ公益民会の幹部であり、中山三郎は、猿島郡・西葛飾にしかつしか郡に社員二百名という喈鳴社の社長であった。かれらは桜井提案の実行にそなえて、茨城県下の各社の連合会議をもとうとあつまったのである。

 十三年(1880)二月十五日、十六日、代表たちは議事をすすめ、次のことを決定した。

 名称は茨城県連合会とする。事務は提案者の同舟社にまかせる。県下十八郡を十一の加盟結社によって分担する。その遊説受持区域は社の実勢に応じたものとする。国会請願のため「夜を日に継いで」遊説を遂行する。目標は全県下の八十余万の人民。目標期間は二十日間とし、三月二十日、ふたたびここに会して請願委員をえらんで上京させる。請願書の起草は、斎藤あやと関戸覚蔵にたのむ、と。

 この夜の光景は関戸覚蔵の『東陲とうすい民権史』にいきいきと写されている。

「この日酒宴を楼上に張り、一献一酬いっこんいっしゅう、客皆面紅おもてくれないに耳熱す。舌端堂々、古来の豪傑を罵倒し、眼界茫々、関東の大野たいや睥睨へいげいす。議論いよいよかい、意気益々そうなり、ここに於てか献身的運動は、いざ去らばとて、決然盃をなげうちて起ち、各々山をり去りぬ」

 そして、かれら数十名のオルグたちは、腰弁当、わらじがけで、地元の町村戸長はもちろん、ふつうの人民にいたるまで洩らさず歴訪して、日本内外の現状や国会開設の急要なること、また参政の権利は人民が進んでとらなくてはならない理由を説得した。そして、その同意を求めると、到るところ響きの物に応ずるがごとくで、あえて一人の反対者もなかった。さらに群馬・埼玉・千葉の三県人もまた茨城・栃木の動きに相呼応した。その遊説者たる者は、あしたに星を戴き、ゆうべに月影を踏み、時として風雨をき、泥濘でいねいをおかし、山村や僻地のきらいなく、人民多数の誘導につとめた。そのため、思ったより日数をついやし、茨城県のごときは、四月下旬までに一万一八一四人の同意と連印を獲得した。多くが戸長または門地家もんちかで、じゅうぶん郷党きょうとうを代表できる人びとであるから、ここに遊説を中止し、すみやかに請願委員を上京させることにした。

 

  毛細管方式

 茨城県で遊説に参加した政社は、同舟社・改進社・同倫社・公益民会・有隣社・薫風社・喈鳴社・茶話さわ会・愛交社・同義社・民風社などの農村政社で、分担地域をこまかく定め、競争のようにしてはじめた。

 遊説日数は約七十日間、のべ数千人の社員が、草の根を分けても同意者をさがしだすというやり方で説得に奔走した。

 これは十数名の都市知識人(民権派ジャーナリスト)が、なじみのない土地を、わずか一、二日間、人力車を走らせて巡回演説してあるくというやり方とはまったくちがっていた。ひとつの強力な、民衆組織の方法であった。

 この人民という「巨人」の、毛細血管のすみずみにまで浸透しようという、茨城型の毛細管オルグ方式は、それが各地で徹底的にくりかえされたならば、明治政権にとってもっとも恐るべき敵をむかえることになったであろう。

 いかに国家が、壮麗を誇る天皇大巡幸のパレードをもって村々を魅了し、威服させていったとしても、それが畢竟台風一過のごときものであり、よそものに容易になじまぬ農民心理の深部を、ただちにつかむものにはなりえなかったであろう。

 それにたいして、農村にがっちりと定着し、伝統的な共同体規制を有効につかいながら、農民生活に直接している村落の名望家・門地家に、たえまなしに反政府運動をつづけられたら、これに対抗しうるいかなる手段もなかったはずだ。こうした運動方式にたいしては、力による弾圧は、火に油をそそぐ結果しかもたらさないから。

 当時、三十七歳の円熟した民権家であった水郷潮来すいごういたこ村の関戸覚蔵は、中江兆民より三歳の年長であり、郷党の人びとからすぐれた学者として尊敬されていた。その関戸の記録では、十三年(1880)春、栃木町にも、栃木県下の政社代表百余名があつまって、おなじような遊説方式と請願運動とが決定されている(明治三十三年に出版された野島幾太郎の『加波山事件』によると、この三月の会合は、栃木町近龍寺に県下の有志「無慮三百有余名」をあつめてひらかれたという)。

 この遊説委員のなかに、若き日の田中正造はじめ、のちの加波山かばさん事件の鯉沼九八郎や大阪事件の渡鮮隊長となる新井章吾や塩田奥造らの名まえがある。この人びとの猛然たる活動開始によって、半年後には三波さんぱの建白書が政府や元老院の岸辺にうちあげられる。

 こうした在村的潮流は関東六県から東北七州へ急速にひろがっていった。東日本だけではない。それは東海・北陸・山陰・山陽の村々に、史上かつてない活況をうみだしたのである。

 政府はあきらかに先を越された。俊敏をうたわれた秀才官僚たちも、この時期には神通力を失い、嘆きの声をあげた。

 大久保(利通)が懸命に築いてきた明治国家の外濠は、みるみるうちに潮にひたされ、政府はあきらかに離島のように孤立した。

 

  檄文

 「同胞兄弟に告ぐ

 嗚呼あゝ我同胞三千五百有余万の兄弟よ、嗚呼我同胞三千五百有余万の兄弟よ。仰いで芙蓉峯の高きを望み、ふして琵琶湖の深きをよ。に美なる山川に非ずや、豈に愛すべきの邦土に非ずや。此の美なる山川に、此の愛すべき邦土に、居住棲息する我々同胞三千五百有余万の兄弟よ、今日は是なにらの時ぞや、貴ぶべきの民権すでに伸張するか、おもんずべきの国権すでに拡張するか……(中略)

 嗚呼我同胞三千五百有余万の兄弟よ、兄弟はすでに我輩と感をおなじふし、情を同ふせば、なんぞ進で国会の開設を懇望せざる、なんぞ奮って民権の伸暢を欣慕きんぼせざる、なんぞ誓つて国権の拡張を企謀せざる。

 嗚呼、仰いで芙蓉峯の高きを望み、俯て琵琶湖の深きを瞰よ、この美なる山河の風光、この愛すべき富饒の邦土、なんぞ美とせざるや、なんぞ愛せざるや、てよ愛国の精神、奮へよ独立の気象、かくの如きの邦土山川、いながら人にするか。

  明治十二年(1879)十二月二十九日 岡山県両備作三国有志人民」

 

 この檄文アピールは、福岡・岡山の人民が、全国に先がけて国会開設の請願をしたというニュースとともに、手から手へ、口から口ヘとつたえられた。その熱っぽい美文が、当時の若者の心をとらえていった。「この時分の人で暗誦しないものはなかった」(小久保喜七)といわれるほどに。

 さきに桜井提案が発表されたときに、岡山県議会では、一致してこれに賛成し、山陽道諸県の県会議員連合会をもとうとよびかけた。だが、岡山県令の中止命令によってつぶされた。そのためかれらは、郡長や戸長とともに独自に建言書をだそうとし、運動をはじめた。しかし、これもまた県令の圧力で中止をよぎなくされた。そこで最後に県議有志は両備作三国親睦会を母胎として、大衆とともに国会開設の請願に立ち上がったのである。

 そのときの大衆の反応はどうであったか。

 はじめ有志者たちは心配していたが、いったんよびかけてみると、「何ぞはからん、諸方にして一時に大奮発をなし、人民一般の意見を以て協議すること当然なり、決して有力者に依頼すべきに非ずとて、我も我もと会員に列する者十万人近く」という景況に、眼をみはらざるをえなかった。

 この朝野新聞の記事には例によって誇張があろうが、十二年(1879)十月四日の岡山での臨時大会には七百人が参加して国会開設建白書の提出を決定している。

 それから二ヵ月余、岡山県下、三国三十一郡一区一千一百七十一ヵ村一百六ヵ町の人民二万五千余の意志を結集して、「国会開設建白書」を元老院に提出した。そこには参政権の要求とともに、熾烈なナショナリズムの叫びがあげられていた。

「今日ノ急務ハ国会ヲ開キ全国ノ智力ト精神トヲ活用シテ、以テ進歩ヲ図リ……国権ヲ伸張」しなくてはならない、と。そして、

「国会ニシテ一タビ開設セラルレバ邦土ヲ愛重スル公同ノ精神勃然トシテ興リ、其民愈々増殖セバ国威ヲ増殖スル愈々多ク」なるであろう、と。しかも、

「此レガ開設ヲ熱望スル者ハ、タダニ上流ノ学士論者ニ止マラズシテ、全国一般中位下等ノ人民マタ均シク是レヲ熱望シ」ているのだ、と。

 

  作州の在村活動

 この署名運動の母胎となった郷党親睦会は、十三年(1880)に入るといっそう日常生活に基礎をおいた確固としたものになっていった。

 内藤正中氏の研究によると、この親睦会は、ほぼ郡単位の四つの小会部にわかれ、それぞれ中島まもるや立石わたるらの豪農民権家がその中心になっていた。しかも、そこでは、第一に農事会話、第二に時事討論、第三に勧農・教育・風俗にかんする演説などが順序としてきめられていて、養蚕の改良や、産米の改良などが真剣に討議され、そのとりきめが実行に移されていた。政治運動とは直接かかわりをもたなかった老農たちによる農談会や農事研究会の上に、この波は重なったのである。

 さらに注目させられるのは、美作みまさかの三郡親睦会が、十三年の大水害をきっかけに、永久的な相互扶助組織として「永代共済規則」をつくりだしていたことである。

 この主導者中島衛は、明治六年の大一揆を説得した西北条郡の大庄屋おおじょうやであった。その後、戸長・県議をへて、『美作みまさか雑誌』の発行者、養蚕業の指導者、美作酒造業者懇談会の主幹として活躍し、さらに明治十五年には美作自由党の委員として先頭に立った人物である。

 中島は、十四年(1881)三月、西一宮での親睦会の席上、百数十名の会員を前にして、「現今欧米諸国に行わるる人命火災等保険の趣意に基き、会員非常の災害にかかりたるものある時は、之を救わんが為に二円ずつの株金五百株を集め」共済組織をつくろうと演説して、賛成をえている。

 このように、自由民権の政社が、農事研究のサークルや、生活改善あるいは殖産興業の結社を母胎としてうまれたり、これと結合して村落に根をはっていった例は、けっしてめずらしいものではない。

 武州北多摩郡には、豪農たちによる製茶改良の実業懇談会が、そのまま自治改進党(自由党系)に発展していった例がある。また、相州愛甲郡には、農事研究と学習サークルの相愛社が、やがて自由党の母胎に発展し、さらに民権運動が挫折すると、ふたたび養蚕改良協会としての相愛社に変ずるという例もある。

 山形の特振社が政社でありながら、特産紅花べにばなの振興を第一にうたい、また、静岡の扶桑社が、社内に演説・起業などの四課をおいて、製茶・養蚕・通船事業にまで手をのばすなど、この種の例は意外に多い。

 明治政権が本来もっとも怖れてよいものは、このような実生活に根をおろした共同体的な結束と、それの抵抗体への転化であったろう。ところが政府は、眼さきの士族たちの志士的行動のほうに眼をうばわれて、かれらを慰留することに懸命であり、底辺で起こっているこうした地すべりのような現象は、じゅうぶんとらえることができなかった。

 

  信州奨匡社

 明治十三年(1880)五月、二万一五三五人の人民を結集して、元老院にねばり強い国会開設の上願をくりかえした信州奨匡しょうきょう社の松沢求策たちは、どのようにしてこのように広範な民衆の組織に成功したのだろうか。後藤靖氏の研究によってみよう。

 松沢は安政二年(1855)に松本の醤油造りの家に生まれた。松本新聞主筆の有名な民権家坂崎さかんの下で記者としてはたらいているうちに、思想的に成長し、教員の上条磑司がいし、県議の市川豊造らと十二年(1879)十一月に、猶興ゆうこう社を創立した。

 この社は、教員九名、新聞人四名をふくむインテリ臭のつよいものであったが、松沢が農村活動をくりひろげるにつれて、しだいに内容を変えていった。

 かれは農民に民権論をうけいれさせる媒介として、かつて百姓一揆を指導した郷土の義民多田嘉助のことを調べ、それを脚本にしたて、「民権鏡嘉助の面影」と題して、上演してあるいた。また、松本新聞主筆となり、紙上を通じて、ひろく郷党の名望家層に、結束して政府にあたるように訴えた。

 社員は、十三年(1880)二月に三百余をかぞえたが、三月初旬には四百名、下旬にはさらに八百名に倍増し、四月には千余名となり、当地の法律研究所と合併して、奨匡しょうきょう社を発足させた四月十一日の発会式には、七四五名が参加したという。これらの人びとのほとんどは、県会議員・村会議員・戸長クラスの「農商社会」の名望家であり、それに「軍人、教員、及び師範学校の生徒」たちであった(『奨匡雑誌』第一、二号)。

 十三年四月五日、集会条例が発令されたとき、奨匡社の大勢は、この条例による弾圧を避けるために、しばらく「農工商等ノ如キ実際ニ利用厚生・開物成務かいぶつせいむノ道ヲ拡張スルノ労働社トナスベシ」という方向にかたむいた。この社の生産者的性格を見るべきであろう。

 しかし、ひとたび国会開設請願の署名運動が開始されるや、奨匡社のこうした性格はたちまち別の強みを発揮する。

 まず、県下の名望家五十名をあげて発起人とし、その五十名が手わけして各町村の戸長・村会議長・教員などの有力者にたのみ、あらかじめ運動の趣旨を全町村人民に通じさせておく。そして、日を期して戸長役場や学校などのもよりの場所へ人民をあつめ、発起人が臨んで演説し、捺印を得る、という方針で進めていった。

 こうした署名獲得の方法は、大槻弘氏が紹介された福井県自郷社のばあいにも共通している。自郷社のばあいには、政談演説会をひらいて、そこにあつまってきた人民から同意をえて直接署名をとるやり方と、村ごとに総代をきめて、この総代(ほとんどが戸長)によって、署名をとりまとめるやり方とが併用されている。

 わたくしたちが調べた神奈川県下、相模国の二万三五五五名の署名者獲得のばあいにも、有志の郡長や郡役所書記、県会議員や戸長が先頭に立って、村ごとの名望家の印をあつめるというやり方がとられている。そして、いったん署名した人びとは、郷党懇親会やさまざまな農村結社のゆるい組織につなぎとめられ、運動推進隊の外郭としての役割をになわされたのである。

 

  共同体型

 こうした組織方針を名望家→勢力家→人民という村落共同体の序列に沿った古い方式だとして、その弱点を批判する考え方もある。それは、共同体秩序そのものが「下剋上げこくじょう」という混乱状態におちいれば、同時に組織の解体をまねく危険性をはらんでいるからである。そういう事態は、幕末から明治初年に、世直し型の百姓一揆としてすでに経験ずみであった。自由民権運動の指導にあたった豪農層のなかには、作州さくしゅうの庄屋たちのように、かなりの者が、そうした苦い過去をもち、新しいリーダーとして脱皮しようとしていた。それにもかかわらず、ふたたびこうした村落全体を共同体規制によって上から包みこんでゆくような組織形態をとったのは、明治十年代という時期が、まだ寄生地主制が一般的には成立せず、全農民と国家(統治者集団)が、地租や参政権をめぐって根本的に対立できる最後の一時期であったからである。

 そうした基本的な対立が存在しているかぎり、豪農層が村民ひとりひとりをじゅうぶんに説得し、その納得をえ、下から自発的に立ち上がるときを待たずに、中貧農を村ごとひっぱってゆく共同体的な抵抗形態をとったことは、むしろやむをえない戦術であったとおもわれる。

 大久保(利通)が三新法で切り崩そうとしたのも、また天皇の地方巡幸でねらい打ちをかけたのも、さきの明治九年の地租改正反対の大一揆に猛烈な形であらわれたこの種の共同体型抵抗にこりて、そのかなめをなしているものを慰留し、政権の側にひきつけようとしたためではなかったか。

 この組織コース、これこそ明治政府を震憾させてきた農民一揆の伝統型で、民権家がこれを活用しなかったとしたら、むしろ政府に逆用され、かえってこのとき民権運動は孤立に追いこまれていたであろう。

 しかし、明治十四年(1881)の政変までは、運動の主導権ヘゲモニーは政府の側にはなかったと考えられる。

 

  国会期成同盟

 国会開設を要求する請願の波は、十三年(1880)に入って巨浪のごとく高まっていった。それは、茨城・福井・高知・岡山・福島などで高まっただけではない。

 十三年三月十五日から二十数日間、大阪でひらかれた愛国社第四回大会には、愛国社に加盟している二十四団体のほかに、未加入の三十五団体(このほかに土佐から多くの政社が参加している)の代表が請願署名簿をたずさえてあつまってきた。

 あわせて二府二十二県からの代表一一四名の集会となる。その委託された請願者数はあわせて約十万名。しかも、その中には総代の名しか記されていないものもあり、実数ははるかにこれを上まわっていたろう。

 その代表の半数近くが土佐人であったり、先に紹介した岡山県・神奈川県・栃木県・山梨県・千葉県などの多くの有力地帯がまだ加わってはいなかった。けれども、この大会が全国民の意志のむかうところを示したものとして、国民的運動にむかって第一歩をふみだした、民権史上画期的な意味をもったものと考えられよう。

 その画期となったのが、この大会によってきめられた国会期成同盟の発足であった。

 ただ、現在のところ議事録の前半が発見できないでいるため、この重大な転換が、どのようないきさつと討論をへて決議されたのかが判明しない。さらに問題の愛国社と期成同盟の関係もあきらかでない。

 しかし、同盟の輪郭はわかっている。福島の河野広中や、高知の植木枝盛、福井の杉田定一、宮城の村松亀一郎ら七人の委員によって作られたこの国会期成同盟の規約は、同盟の目的として、国会開設の准許じゅんきょがえられたばあいには、国会憲法制定の全国代議員の選出方法と、国会憲法草案とをそれぞれ建言することをきめている。

 また聞きとどけられなかったばあいには、十一月に東京に集会して方針をきめる、ただし、百人以上の単位組織を最低五十組以上あつめて参会しようと申し合わせていた。

 このように同盟が、その後の運動推進の具体的な目標と、組織拡大への姿勢をはっきりとしめしていたことは、民権運動の発展にとって重大であった。これから秋の同盟第二回大会にかけて、請願の波は未曽有の高まりに達する。在村的潮流の高潮たかしおは、愛国社系の流れと合流し、さらに都市知識人の奮闘とあいまって国民的な政治運動にと展開していった。

 全国十万人の委託を受けた国会開設願望書は、松沢求策と永田一二が起草委員となり、片岡健吉・河野広中・植木枝盛・杉田定一・村松亀一郎の五人が審査委員として合作された。

  代表激怒す

 四月十七日、捧呈委員に選ばれた土佐の片岡健吉と河野広中は、太政官に出頭して、太政大臣三条実美さねとみに会見を申し入れた。しかし、三条は会わない。書記官の応答も要領をえない。元老院に申し入れて、執拗にくいさがっても願望書は却下されるばかり。さらに三条に謁見えっけんを乞うたがどうしても容れられず、その間二十余日をむなしくついやし、ついに断念した。

 五月十日、そのてんまつを細記して、委員の箱田六輔に送り、箱田はこれを印刷して全国の願望者総代に配布した。

 激怒した全国の有志は、あらそって個別に建白や請願をはじめた。信州の松沢求策などは二万一千余名を代表して、太政官や元老院に、じつに五十日間にわたる熱狂的な運動をつづけた。

 近衛の軍人小原弥惣八おばらやそうはちは抗議のため宮内省の門前で屠腹とふく、新潟の人赤沢常容じょうようもまた屠腹を企ててとらえられた。

 山梨県の有志古屋専蔵などは、明治天皇の中央道巡幸の機をとらえ、天皇にせまって国会開設を直奏しようとはかった。かれはイギリスの人民が、国王にせまって大憲章マグナカルタに調印せしめた故事にならおうとしたのだという。

「陛下はまだ、このことを御存知ないのか。時勢のめぐりきたがためか、人民の激するところか。去年の初夏のころより日本全国往く所として五ヶ条の誓文せいもんをそらんじない所はなく、到る所として漸次に国会をひらくという明治八年の詔勅を誦しないものはない。士農工商や老若の別なく、異口同音いくどうおんにみな国会ひらくべしと唱道し、資産をおしまず奔走し、四方に遊説して同志をつのり、社を結び党を立て、甲は乙に先んじようと欲すれば、乙は甲におくれまいとのぞみ、その競争興起の情は、あたかも維新革命のときの尊王倒幕の志士たちのそれと同様である。

 臣らの同志は福岡・岡山の諸県をはじめ、すでに五十余通の建白書を奉ったが、今なお起草もしくは組織中のもの数十ではまない。これによって判断しても、国会を開くべしという説は、日本全国七百余万戸の大半を占めるものであって、これを称して、日本の公議輿論こうぎよろんというもあえて不可ではないのです」

と、信濃国人民総代平民松沢求策の上願書は訴えている。

 これにたいして、政府首脳は容易にその偏見——民権運動を不平士族や失意の旧官吏らの煽動だという——をすてえないでいた。滋賀県近江国片岡村の平民片岡伍三郎はその建白書中に、いま国会願望者を不平士族のやからという者があるが、それは「人情ノ視察ニ暗ク迂闊うかつノ極トイフベシ」といいきり、伍三郎ら「寂寞せきばく寒郷かんきょう」に住む百姓ですら、このとおりなのです、「請フ一隅いちぐうあげテ三隅ヲ知ランコトヲ」と訴えた。

 請願や建白の数は、現在、内容のわかっているものだけでも五十通をこえている。

 十三年(1880)中の請願参加者実数は、少なくとも二十四万名をこえている。当時の状況から考えれば膨大な数といわざるをえない。

 

  集会条例

 こうした人民の昂揚をまえにして、明治国家の統治者集団はいかなる反応をしめしたか。まず、愛国社大会の開催中の四月五日、政府はプロシアの弾圧法にまなんだ集会条例を布告して、政治活動に強力な制限をくわえた。

 そのおもな内容を見ると、

 政治に関する演説会や集会は、三日前に警察署に届け出て認可をうけなくてはならぬ(第一条)。

 結社をするばあいも社則や名簿をそえて届け出、認可をうけよ。そのさい尋問されたら社中のことは何事たりともこれに答えなくてはならぬ(第二条)。

国安こくあんニ妨害アリト認ムトキ」は、これを認可しない。(第四条)。

 警察官は会場を監視することができる(第五条)。そして、「公衆ノ安寧ニ妨害アリト認ムル」ような演説をした者は退去を命じ、これに従わないときは全会を解散させる(第六条)。

 政治に関する集会に、陸海軍人の籍にあるすべての者、警察官、官立と私立すべての学校の教員・生徒および見習生は、これに出席したり、結社に加入したりすることは許さない(第七条)。

 演説会の趣旨を広告したり、文書で公衆を誘導したり、他の社と連絡したり、通信往復することは許さない(第八条)。

 政治に関する屋外集会は許さない(第九条)。

 以上の規程にそむいたときは、それぞれの条項に応じた罰金および二年以下の禁獄に処する(第十~十五条)。

という苛烈なものであった。

 愛国社の第四回大会の代議員はこれに屈しはしなかった。しかし、地方政社のなかには動揺するものも少なくなかった。当時、東京にも、十七、八の政談結社と一万六千余人の社員がいたが、届け出のわずらわしさと社員資格の規定にふれて、解散するものが少なくなかった。しかし、全般的にはこの条例は、かえって民心を激昂させる効果のほうが大きかったといえる。

 政府はここでも失策をおかしたようだ。この条例を実施するものが、ほかならぬ全国各地の警察官吏であること。しかも、その警吏の大部分は政治の事理をわきまえない、人民には人気のない、横柄おうへいな存在であったことを計算に入れていなかった。

 そうした下僚どもに、このように強大な人民抑圧権をあたえることは、明治政権の専制的性格の攻撃を大義名分としていた民権陣営に、かえって絶好の宣伝材料を提供することになった。

 警察官が人民の集会にのりこみ、不当に弾圧すればするほど、「このような専制政体だからこそ、われわれは一致して立憲政体に改めさせ、国会を開催させねばならぬのです」という、演説者の主張をうらづけることになった。

 人民運動の上げ潮のなかでの、このような拙劣な弾圧は、火に油をそそぐ結果しかもたらさない。しかし、そういう真理は、この時分の伊藤(博文)や岩倉(具視)の頭脳では理解することができなかったようである。