月夜野に

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 部屋のテーブルの上の写真に、みんなの目が吸い寄せられた。

 川べりに立つ少年の胸に、兵隊の銃剣が突きつけられている。

 少年の顔は恐怖にゆがみ、絶望に、目をいっぱいに開いている。

 うしろの川に点々と浮く死体。おとなも、子どもも、赤ん坊まで、あお向けや、うつ伏せになって、流れていく。

 ひと呼吸の後には、少年も死体になって流されていくのだろうか。

 高校受験の準備が本格的になって、文化祭のビデオ制作から離れていく三年生。その三年生が置いていった写真。強烈だった。

 哲夫は、写真の少年の目に射すくめられて、動けなかった。秋の文化祭へだすビデオ作りへ消極的だった哲夫を、少年の目は、ただしている……。

 さやかも、くい入るように見つめていた。

 戦争の写真は、「こわい」「気持ち悪い」と、いままで逃げていた眞弓まで、じっと見入っている。

「この兵隊、日本の兵隊さんじゃない」

 さやかの声がふるえていた。

「あっ」

 成績抜群で、いつも冷静な部長の青木まで、声をあげた。

 二年生の部員、五人の目が、銃剣の兵隊に集まる。ビデオ作りの下調べで、勉強をしてきた五人には、兵隊が日本軍の軍装をしているのがわかった。

 深い深い谷底をのぞきこんだようなおびえが、哲夫たちみんなを襲っていた。

 原の、

「ああ、ゆううつなもの見ちゃったな」

という、いつもの軽口にだれも乗っていかない。青木が、かすれた声でいった。

「やっぱり決めないか、ビデオのテーマ、〈戦争――再びくりかえさないために〉に。どこまでできるかわからないけれど……」

「青木君に賛成よ、わたし。でも、とってもこわい」

 まず、さやかが、やるといい、哲夫、原、眞弓もうなずいた。決定だ。

「戦争のこと、ほとんど知らないもの」

「あまり興味が持てない」

 そういったいままでのためらいや反対意見も、ふき飛んだ。もめていたビデオ作りの案が、すんなりと決まってしまった。

 テーブルの上、モノクロの残虐写真の少年と日本兵のアップに、夏の陽が当たり、くっきり際立って見える場面を、哲夫は胸におさめた。

 このテーマは、入賞するかもしれない。大賞も、ねらえそうだ。

 一学期末のいまから取材を始めて、早くはない。

 今年は、一年生の新入部員がいないので、三年生が去ったいま、手不足だ。部員、五人が頭をつき合わせて、秋の文化祭出品作の計画を練り上げることになった。

「戦争中、戦闘機に乗っていた人を、ぼくの親が知ってるんだ。まず、その人を日曜にたずねてみようよ。どう、田宮くん」

 青木が提案した。

 日曜日には、美術館に行くつもりにしていた哲夫が、うーんといっているまに、眞弓が、

「わたし、いっしょに行くわ」

と言いだし、原も行くという。

「それじゃ、別行動で取材しようか。全員で一つのことをやるよりいいかもしれないよ」

「そうよ、その方が合理的だわ、わたしは田宮くんと組むから。当分、それでやってみない」

 青木の提案を、さやかが引きとった。

「哲夫くん、寄り道できるかしら?」

 帰り、校門を出るとすぐ、さやかが言いだした。

「うん、いいよ。今日は早いし」

 哲夫はそう答えたが、二人だけのときは田宮くんと言わないで、哲夫くんとさやかが呼ぶのに気がついていた。哲夫って名、哲学の哲だなんて気はずかしいと、哲夫は思っているのに……。

 さやかは、セーラー服の紺色のリボンを整えながら、

「制服のままだけど、いいよねぇ。放送部の取材なんだから」

 自分を納得させるように言う。

「うん」とうなずいたが、哲夫は苦笑いをした。

 ――さやかって、真面目なんだな。

 哲夫の同意で気持がふっ切れたのか、さやかは、いきいきとしてきた。地下鉄の駅へ向かいながら、訪問先の場所、自分との関係などを手短かに説明してくれる。

 切符も、さやかが、さっ、と二枚買ってしまった。

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ゆり一輪

 二十分ほどで着いたK駅からは、地図を見ながらだったので十四、五分も歩いたようだ。有楽荘という木造アパートの一階に、「川瀬」という白い陶板の表札を見つけた。さやかの遠い親戚になるおばさんの住いだ。

 ベルを押すと、青っぽい和服をしゃきっと着た六十代のおばさんが、むかえてくれた。髪はほとんど白髪なのに、顔つきや雰囲気が若々しい人だ。

「さやか、さんね。このかたは」

「はじめまして。この人、放送部でいっしょの、田宮哲夫さんです、クラスも同じなんです」

 さやかの紹介に合わせて、哲夫がおじぎをした。

「さあ、どうぞ」

川瀬さんに案内されて部屋へ入ったとたん、すうっといい香りがした。窓ぎわの花びんに白いゆりが三輪、ほころんでいる。

 あとは、戸棚とテーブル。よぶんなものの一切ない、すっきりした部屋だった。哲夫とさやかは、テーブルの前に置かれた座ぶとんにすわった。

「この間、お電話いただいてから、いろいろ思いだしていましたのよ。遠い遠い昔のこと。けれど決して消えないこと」

 川瀬さんは、さやかに話すために、頭の中で整理しておいた、と言ってから、

「お役に立てばいいのだけれど……」

と微笑した。

「昭和二十年、わたしが女学校五年生のときでした」

「ええっと、一九四五年、いまでいうと高校二年のときですね」

 さやかが、生真面目に念を押すので、哲夫は目くばせをした。そういうことは後にしたほうがいいよ、という合図だ。

「ええそう。わからないことは、どんどん聞いてくださいね」

 そう言いながら川瀬さんは、哲夫をちらっと見て、また話しだした。

「そのころ、わたしは、父母、弟妹三人と日本橋に住んでいました。すぐ下の弟と妹は、中学と女学校でした。末っ子の妹は小学校三年で、集団疎開で友だちや先生と田舎へ行くのが本当でした。でも敏感な子で、空襲などでおびえるとそのあと、おねしょをするの。それで母が不憫がって手離さずにおりました。

 そのころは、学校での授業はとうになくて、わたしたちは軍需工場に行かされて、兵器を作っておりました。わたしが組み立てていた爆雷は、これを持った兵隊さんが、敵の戦車に体当たりをする武器でした。だから、わたしが工場でせきたてられて爆雷を作るたびに、兵士を一人殺していたことになりますの。また、敵だって同じ人間なのですからその人たちもね。

 そのときは、〈敵の戦車を爆破する武器だ〉とだけ教えられていましたが。いま思えば十六、七歳でりっぱに戦争に加わっていたのですね。わたしたちは、生まれたときから戦争が始まっていて、そういう教育を受けて育ちましたから、当時は、疑うこともしませんでしたけれど。

 朝早くに家を出て、工場に近い駅に集まり、そこから隊列を組んで工場の門を歩調をとりながらくぐっていました。

 空襲はもうひっきりなしで、工場にいるときの空襲では、班ごとに野外の防空壕に入りました。壕は、たたみ一枚ほどの広さの穴を掘って、上に盛り土をしただけの簡単なものでした。

 防空壕、おわかりになりますか」

 川瀬さんが問いかけた。哲夫とさやかは首をかしげる。

「そう、何にたとえたらいいのか……。サザエが、からにこもって、ふたをしますね。あの程度のものでしたが、空から落とされる爆弾から身を守るのに、わたしたちには、これよりありませんでした」

 川瀬さんは、話を続ける。

「壕に入ったときに、みんなが持っている木の名札を集めて班の番号が書かれた袋にいれ、班長が駆け足で本部に届けます。名札でどの壕にだれが入っているのかわかるようになっていました。

 わたしは班長でしたが、あるとき、本部へ行く途中、低く飛んできた敵の飛行機に、機銃掃射っていうのですが、飛行機の機関銃で撃たれかけたことがありました。

 撃ってくる敵兵の顔も見分けられるほどの距離でした。〔鬼畜米英〕などと言われていましたから、鬼のような恐ろしい者が乗っていると思っていましたら、色白のハンサムな若者でした。

 運よく撃たれずに帰って、壕の中でそのことを話しましたら、美幸さんという人が、

『あなた、その米兵にウインクしたんじゃないの、それで助けてくれたのよ』

などと、とんでもないことを言いだしました。

 なんで敵兵に。それにわたし、将来を約束していた学生さんがおりましたし……。あらっ、あの、いえ、当時はいまでいうブラックユーモアに興じたりして、防空壕を〔共同墓地〕などと、わたしたち言ってましたの。直撃弾が壕に当たれば、そのまま埋まって防空壕が共同墓地になる、って。木の名札は、みんなの墓標ということですわ。

 食べる物もほとんどなくて、やせこけた女の子たちが、穴の中で、そんなことを言って笑い合っているなんて、気味が悪いでしょ」

 川瀬さんがことばを切った。さやかは心打たれたのだろう、目にいっぱい涙をためている。哲夫も、淡々と話している目の前にいる人の、おもい過去が、まぎれもなく戦争によってひきおこされたのだという実感に、身が引きしまる思いだった。ふたたび川瀬さんは話しだした。

「わたしたち家族への最後の空襲は、三月十日の未明でした。その日限りでわたしに家族はいなくなりましたから……。あとから東京大空襲と呼ばれるようになりました。

 そのころは夜中の空襲が多いので服のまま休んでいましたが、救急袋と貴重品袋を手ばやく十文字に肩にかけて、父母弟妹と壕に入りました。畳を上げ床下を掘った屋内の防空壕で、家族六人が入ってじゅうぶんな広さがありました。壕の中には、水と乾パンに梅ぼしが置いてある棚があって、ニュースを聞くための鉱石ラジオを持ちこんでいましたの。

 この防空壕は、町内のとび職の人が掘ってくれたものでした。おおいもじょうぶに作られていて、

『そばに爆弾が落ちてもへいきですぜ』

と製作者の折り紙つきでしたのよ。まあ、小さな爆弾でしたら、そうだったかもしれません。

 その日は壕へ入ってまもなく、『いつもとちがう』という予感がありました。

 ズシーンという地響きが間近になり、シューッという落下音まで聞こえだしたのです。とつぜん目の前で、フラッシュを百もたいたような閃光が走り、壕の空気抜きのすきまが、広がったようにみえて、その光は飛び込んできました。

 南の道路に焼夷弾が落ちたのです。

 父が壕から飛び出し、わたしが続きました。あのときなぜ中学生の弟妹が壕を出なかったのか。当然あの子たちも消火を考えたはずなのに。いまとなっては悔やまれますけれど、おそらく母が、少しでも安全にと二人を引き止めたのでしょう。とび職の人の自信たっぷりな言葉も、頭をかすめたのかと思います。

 わたしと父は、二、三個かたまって道で燃えている焼夷弾に向かっていきました。準備していた砂をかけ、まわりに散った火は火叩きでたたいて消し止めたのですが。

 気づいたときには、我が家から炎が上がっていました。家の屋根をつらぬいて焼夷弾が部屋に落ち、あっという間に燃えひろがったのでしょう。そのときは、ひどい地鳴りと爆発音に、周囲のさわぎがまじって、肝心のわが家に焼夷弾が落ちたのに気づかなかったんですね。

『あゝ、お母さんが、よっちゃんが……』

 みんなの名を呼んで助けに行こうとしたわたしですけれど、すでに玄関にまで火がまわっていました。

『幸子、お父さんがみんなを助けだす。お前は早く逃げなさい。早く』

 父の叫び声にも、このときばかりは従えません。気が狂ったように火の中へ飛びこもうとしました。そのわたしのほおを、父は力いっぱい平手打ちしました。

 生まれてはじめて父に打たれたショックでわたしは、父が叫びながら指さす方向へ、ふらふらと歩きだしました。

 このときが、家族全員との別れでした。家の中の防空壕は、家が焼けはじめては逃げようもなく、全員むし焼きに……。

 父は、なんとかして助けようとしたのでしょう。家の裏手で焼死体になって、後日、見つかりました」

 きゅうに口をつぐんだ川瀬さんの、のどが、ぐぐっと鳴った。そして窓ぎわのゆりの花を、ぼんやり見つめてつぶやいた。

「家族はみんないなくなりました。殺されて」

 哲夫とさやかは、いたたまれない思いがした。

「あっ、続けますね。もう少しですから」

 川瀬さんはまた話しだした。

「火は、自分で消せなければおしまいなのです。消防車など一台も見ませんでしたわ。けれど、油が燃えている焼夷弾が、空から大量に落ちてくるのを、わたしたちだけでどうやって消せましょう。もう燃えほうだいでした。

 ともかく、そのときのわたしは、一人で火の中をにげまわりました。どこへにげても家が燃えていて、火の壁から外へ出られません。大ぜいの人が、うろうろ走りまわっているのにつれて、わたしも走りました。

 そのうち、逃げまわるわたしたちを、ねらい打ちするように爆撃機のB29が低くおりてきて、焼夷弾を落としました。焼夷弾が服に燃えうつり、火だるまになって走っていく人たちの姿と、ものすごい叫び声は、いまも目と耳に焼きついています。

 わたしは、道ばたに置いてある防火用水を頭からかぶっては、風上をめざして逃げることにしました。そう、父から最後に聞いた言葉が、

『風上へ逃げろ』

だったのを思いだしたのです。

 道路わきのコンクリート製の防火用水槽に、顔をつっこんで亡くなっている人は、水が飲みたかったのでしょうか。火が雪のように降ってくるのに、わたしは軽い火傷だけですんだのがうそのよう。炎のようすを見ながら逃げているうちに、火の壁が切れた所を見つけて、わたしは、外へ出ました。

 その大通りは、黒焦げ死体の山でした。死体をよけながら隅田川へ出ますと、川辺にも死体が重なり合っていました。地獄だ、と思いました。

 大人たちにまざって、赤いリボンを頭につけた女の子や、おもちゃの刀をにぎって死んでいる男の子の姿が、あわれでした。

 大川には、溺死体が浮かび、その間に筏につかまって浮いている七、八人の女学生がいました。突然、女学生たちは『海ゆかば』を歌いだしました。

「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍……」

 歌の途中で、対岸から火が突風で川を渡り、あっと思ったときには、女学生たちの姿はありませんでした。

 まったく地獄としかいいようがない一夜でした。

 こうして三月十日の深川・本所・浅草・日本橋などを中心にしたB29による二時間半の空襲は、十万人という死者をだしたのでした。

 焼夷弾を周囲をぐるっとかこむように落として、火災にして、わたしの父母や弟妹たちのような、直接たたかっていない庶民が、逃げ場をなくされてしまうというもっとも残忍なやり方で、殺されたのです。ひどいと思いますわ。そう言っても、戦争そのものが残虐なのですから」

 話し終わった川瀬さんは、ちょっと恥かしげな表情をして、

「いけない、私が体験した事実だけをお話しするつもりでしたのに」

と言った。さやかは、「いいえ」と、強く首をふってから、聞いた。

「将来を約束していた学生さん、もしかして」

「ええ、学徒兵で出陣して帰って来ませんでした。南の島で戦死とのことでしたが、遺骨もなくて……。『君と富士山をもう一度見たい』という手紙が最後でした」

「その人、着物がすきだったんですか」

 唐突な、さやかのことばだった。

「まあ、よくご存じだこと」

 川瀬さんの顔が、華やいだ笑顔になった。

 気がつくと外がうす暗い。二人はお礼をいって外へ出た。哲夫は、体がぐったり疲れているのに気づいた。肉体的な疲れとはちがう感じだ。

「川瀬さん、ずっと独身だって。戦死した学生さんが忘れられないんだ」

 駅への道を急ぎながら、いつになく興奮した口調で、さやかが言いつのった。

「その学生さん、きっと大島紬が好きだったんだわ。川瀬さんが着ていた着物ねぇ、大島なのよ、うちのおばあちゃんが、もっと地味な柄だけどよく着ていたの。それに、着物って平和な感じがするじゃない。川瀬さん、その人が好きな大島紬を着て、二人で平和に、しあわせに暮らしたかったんだとおもう」

「そうかなあ」

 着物のことがよくわからない哲夫は、あいまいに答えてから、つけ加えた。

「なんだか、かなしすぎるなあ」

 自分たちとあまりちがわない年齢で、地獄を見て、家族全員を死なせてしまった。そして戦死した婚約者が忘れられないで生きている。ずっと五十年も、いや、おそらく一生……。

 一生を左右してしまう不幸なんて悲しすぎる。こんな不幸にあった人は、人一倍、その後、幸せになってほしい。その想いで哲夫の胸はいっぱいだった。

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母の秘密

 空襲や原爆による悲惨なありさまを、哲夫は知らないわけではなかった。本やテレビだけでの知識だけれど、とくに八月十五日、終戦記念日の前後には、年中行事のようにくり返されていたから、しぜんに見たり聞いたりしていた。

 けれど、目の前で東京大空襲と当時のありさまを語ってくれた川瀬さんの言葉は、授業中でも、家でのファミコン遊びの中でも、哲夫の頭に断片的に浮かんだり消えたりした。何とかしてぼくらの手で、ぼくらの仲間に、このことをしらせる映像を作りたい、と心がもえてきた。

 広島、長崎についで犠牲者をたくさんだした、東京大空襲のなまなましい体験談、戦争中の女学生たちのくらし。

 男子学生たちは、どうだったんだろう。やはり軍需工場で働くか、大学生は学徒兵として戦争へかりだされて……。

 そうだ、川瀬さんの婚約者、学徒兵で戦死したんだ。大学生がキャンパスを出て戦場へ行くって、どんな情況だったんだろう……。

 哲夫は、強制的に大学生が兵隊にされたという学徒兵のことを、とても知りたいと思いはじめていた。同時に、哲朗おじさんのことを思いだした。おじさんは、母の兄さんで、母より十五歳も年上だったそうだ。学徒出陣で戦死したとしか、哲夫は知らない。

「哲朗おじさんて、どんな人だったの。どこで戦死したの」

 何回か聞いたことがあるけれど、母の答えはきまっていた。

「年がちがいすぎたし、第一お母さんがまだ五つのときに別れたからねぇ」

 それで、何もわからないというのだけれど、そうだろうか。もし、そのときわからなかったとしても、まわりの大人から聞いたりして、少しは知っているんじゃないだろうか。

 母は、なぜか哲朗おじさんのことを話したがらない。ふと、そんな気がした。

 哲夫は、川瀬さんの、一生をかけたような学徒兵だった人へのとらわれ方を知って、学徒兵に興味を持ちはじめていた。さやかが、川瀬さんで戦争中の女学生の取材をリードしたので、男子学生はぼくが、という気負いも少しはあった。

 さやかと、約束していた取材の前日のことだ。哲夫は、アイリスをクリスタルの花瓶に生けている母を見ていた。

 何本目かの花を、どこにさそうかと迷っている母の手にした花が、ふわりと開いた。ほころびかけていた紫の大きな花弁が、高速度写真のように一瞬のうちに咲いたのだ。

「すごいね、母さん」

「え、母さんも初めてよ。いけているときに開いたなんて」

 母のはずんだ声が、かえってきた。いまだ。

「母さん、聞いて。ぼくたち放送部はいま、校内テレビ用のビデオ制作にかかってるんだ」

「そう。それで」

「それで取材をはじめてるんだけど、テーマは戦争と平和。戦争中の若者像を浮かびあがらせる作品にしたいんだ。それでね、母さん、ぼく学徒兵だった人のことをしらべたいんだけど、哲朗おじさん、学徒出陣で戦死したんでしょう」

「戦死……」

 母の手がふと止った。〈ぱちん〉と、ひときわ高い音を立てて、茎が切り落とされた。

「ええ」

 哲夫は、母の気を引きたてて、今日こそは哲朗おじさんのことを聞きだしたかった。

「哲朗おじさんって、すてきな人だったんでしょ。母さんの最初の息子のぼくの名前に、一字もらったくらいなんだから。それともさあ、ぼく、母さんが四十歳すぎてから生まれたんだから、最初から一人息子って思ってた?」

「まあ、いやな子ねぇ」

 苦笑した母に、ね、ね、すてきな人だったんだよね、と哲夫はたたみこんだ。

「ええ、ええ。大学へ入ったころは兄さん、もう学者みたいでしたって、わたしの母が言ってたわ。専攻は万葉集で、教授にも、とても信頼されていたそうよ」

「で、さ。どういうふうにして、戦争へ行かされたの」

「そのころ、昭和十八年。わたしはまだ五歳だったけれど」

 母がことばを切ったので、哲夫は目に力をこめて、母をみつめた。

「もう中二だものね、哲夫にもわかるわね、きっと。母さんがきちんと知ったのは、だいぶたってからのことだけれど……。昭和十八年、終戦の年から二年前のことよ。中国から南方へまで戦いの手をのばした日本は、兵隊がたりなくなったのね。

 なかでもいちばん不足していた下級士官をおぎなうために……。下級士官はね、戦場では小隊長として、自分が先頭に立って戦わなければならなかったから、戦死することが多かったのね。それで、文科系の学生の徴兵猶予がなくなったの。徴兵猶予って、学生は大学卒業までは、軍隊に行かないでいいという制度なのよ。その制度がなくなって、大学生も軍隊へ入ることになったの。

 ほかの使いみちのために理科系の学生には、まだ勉強や研究をしばらく続けさせていたのだけれど……。

 それで、大学生も兵隊にされてしまった。その大学生たちの行進が、終戦の二年前、昭和十八年十月二十一日に、明治神宮の外苑競技場であったのよ。雨の降る暗い日で、女子学生たちも、大ぜい見送ったんですって。

 大学ごとに学生が整列してね、次つぎと行進していったの、学生服のまま。ズボンには小幅の長い布で巻きあげたゲートルをまいて、肩には銃をかついだ姿で……」

「ふーん、かっこいい」

「かっこいい、だなんて……」

「だけど変だな、みんなそろって戦争へ引っぱりだされたなんて。ちがう考えの人だっていたはずでしょう?」

 哲夫は思わず質問した。

「もちろん、いたと思いますよ」

「だったらなぜ? ぜったいぼくは、戦争なんかしない、って頑張った人は、いなかったの」

「そんなことができるものですか!」

 哲夫の言葉を、思いがけないほど激しい声で母が打ち消した。

「上の人たちは――皇族や、特権階級の人たちは徴兵されなかったらしいけれど、ふつうの人では無理よ。兵役拒否は銃殺だと言われていたわ。近所の酒屋の息子さん、自分でたくさんのおしょうゆを飲んで死にかけて、兵隊になるのを逃れたってうわさはあったけれど……。でもね、兵隊になるのを拒んだ人は、とても少なかったみたい。もう、大きな流れに巻きこまれていたのね。

 それに、戦争はいやだと思っても、反対意見を言ったり、反対を行動であらわすことなどできる時代じゃなかった。といっても哲夫にはわからないわねぇ」

 母は、ため息をついた。

「それにね、当時の男の人たちには、自分たちが国を守るんだ、戦って天皇陛下のために死ぬんだという使命感があったのよ。そして父母や弟妹たちを守るためにも戦わなくては、と思っていたの。毎日、毎日、戦場へ行く出征兵士がいたわ。そう、小さかったわたしにも、忘れられない光景があるの」

「どんな」

「出征する兵隊さんを見送るときにね。見送るわたしたちの目の前で、輪になっておどり狂っていた学生たちの出征風景。それを思いだすと、いま、胸がきりきり痛むの」

「どうして? いま」

「それは、わたしが哲夫のお母さんになったからですよ。小さいときの記憶だけれど、ほんとうに思いだすと痛ましくて」

「わかった。母さんが見た学生たち、きっとわあわあ泣いてたんでしょう、それで」

「まさか……。人前で泣くなんて」

 あきれたように、母は哲夫をみつめた。

「母さん、お願い。哲朗おじさんの遺品を何か見せてよ。ビデオ制作のとき、実物をうつしたら、ぐっと迫力ますんだから。資料のリストに入れたいし」

 哲夫は、ここだ、と真剣になった。

 ――いままで話してくれなかった学徒兵だったおじの、その時のありのままの姿を知ったら、母をあきれさすような言葉を、ぼくはいわなくなるだろう。そのとき事実にちかいビデオがとれるんだ。

 その哲夫の気持ちが通じたように、母が立ちあがった。

「ここで待っていてちょうだい。持ってきてあげますから」

 母が取りにいったのは、仏壇の部屋らしいと思いながら、哲夫は待っていた。母がいけた花をぼんやり眺めていた哲夫のひざに、何枚かの紙片が置かれたのは、しばらくしてからだった。いつの間にか戻ってきた母が、目顔で読むようにうながした。

 上の一枚は、母あてのハガキだった。田宮道子様と、達筆で宛名が書いてある。道子は母の名だ。うらは、五歳の母むけに、やさしい文面である。

 ミッチャン

 キョウハ、ダイガクノトキ、白イホヲイッパイニハッテ、ヨットデハシッテイタコトヲ、オモイダシテイマス。

 マルデ、ヨットト、ジブンガヒトツニナッテ、ウミノ上ヲ、トンデイルヨウダッタナア、ッテ。

 タイヘイヨウヲヨットデコエテイク、トイッタラ、ミッチャンモ一ショヨ、ッテイッテイタネ。オボエテイマスカ、カワイイイモウト、ミッチャン。

 ――ヨットに乗ってたのかあ。すごいな、哲朗おじさん。母さんも、みっちゃん、なんて呼ばれてたんだ。ウフフ。でも、こんなにすてきな兄さんのことを、いままでかくすようにしてて、母さんてずるい。

 次の紙は、四つにたたまれていた。折り目がやけていて、粗末な紙は、いまにも破れそうだ。哲夫は、そっと開いて細かく書かれた字に目を走らせた。

 月の光がさしこんでくる。

 あれは、いつだったか、ぼくが高等学校へ入ってだいぶしてからだったと思う。万葉によまれた歌のあとをたずねて、関西を旅したことがあった。

万葉集の傑出した作者、志貴の皇子は、

 石激る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも

  巻八の歌で広く知られているが、その志貴の皇子の死を悼んでよまれた歌が残っている。

  高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに

 この歌ゆかりの、奈良・高圓山を歩き、いまも咲く萩の花を、志貴の皇子に代わる想いで見めぐった。

 つぎの日、京都、宇治郊外、湯谷谷の山中を歩いた。ここにも野生の萩が咲き乱れその花陰にまだ幼いキツネが居て、丸い目でこちらを見ていた。

 幼いとはいっても、親から離れて独立する直前らしく、すらりとした座り姿をみせていた。その美しい姿は三村の妹、冴子を思い浮かばせた。

〈三村よ、冴子と呼び捨てにするのを許してくれ。まるで、ぼくのリーベのようにこう呼ぶことを〉

 つぶらな目は、何の邪心もなくすんで、あどけない顔でぼくを見ていた。

 紅色の星のようにちりぼう、一面の萩の花のせいか、一瞬、ぼくは幻に冴子の姿を見た。なだれ咲く萩の中に、花の精のように立つ冴子。月夜野の幻影の清らかさ。

 長い髪にも、両手にも、しとど露にぬれた紅いろの萩が溢れていた。幸せなときだった。

 身動きできぬきびしいときを過ごすいま、しきりに想われる。ああ、冴子!

 これが、哲朗おじさんの戦地からの通信(?)。哲夫は、なにかはぐらかされたような気持になった。これで学徒兵の何がわかるというのだろう。もっとはげしい、戦いの記録を母の話から想像したのに。

 ――なんてのんきな人だろう。それに古くさい文章だなあ。ちょっとロマンチックな感じがするけれど。

 そう思って母へ返そうとしたとき、四つ折の裏の一面にくっついている小さな紙切れをみつけて、はがしてみた。そこには、俳句のようなものが書かれていた。

 月夜野へ愛憎負いて歩み入る

 月夜野に釈迦も父母もおわしまさず

 月夜野に冴子出で来よ我へ来よ

 なぜか哲夫は、重いものが胸にのしかかってくるのを感じた。とくに二句目の〈釈迦も〉にひっかかる。それにいま読んだおじさんの文章にも、月夜野の文字があった……。

 気がつくと哲夫は、紙切れをポケットへしまっていた。ゆっくり、一人で考えてみたい。そんな思いがした。

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哲朗おじさんのなぞ

 夏休み一日目。哲夫は、哲朗おじさんの紙切れをだしてながめていた。昨日から何度そうしてながめたことか。

 ――何かある。

 そう思えてならない。

 釈迦は、救いを求めるときに思い浮かぶ存在だ。父母は、どうしようもないときでも、まあ、見はなさないでいてくれる唯一のものだ。その三人がいないという。

「月夜野に釈迦も父母もおわしまさず」には、何か、絶望感がにじみでていないだろうか。

 たまらなく、その何かが知りたくなって、哲夫は仏壇のある部屋へ走った。きのう、母が哲朗おじさんの書いたものを、取りだしてきたらしい部屋だ。

 戸棚の引出しを開けかけたが、手を止めて考えた。

 ――長い間、母が話してもくれなかった哲朗おじさんの遺品だ。知らせたくないことが何かあるなら、こんな普通の場所にはないな。

 目についたのは仏壇。おじさんの句の〈釈迦も〉に引き寄せられたのかもしれない。仏壇のいちばん下の引出しを引き抜いてみた。線香やローソクが入っている。ふと引出しを引き抜いたあとをのぞいてみる……。あった!

 取りだしてみると、古ぼけた油紙の小さな包みだった。すぐにひもをほどきながら、哲夫は自分のしていることに、何の抵抗も感じなかった。

 それほど、知りたい一心だった。

 包みの中は、手紙に手帳が三冊、高等学校、大学時代のメモのような日記だったが、その下にきのうと同じ四つ折の紙があった。

 哲夫は、そっと開いてみた。

 よく皆とさわいだものだ。輪になって歌いおどった。

〈デカンショ デカンショで半年暮らす後の半年寝て暮らす〉

 ああ、デカルト、カント、ショーペンハウエルも、はるか遠い。わが万葉の世界もしかり。出征の日も、駅前で輪になって歌い踊ったものだった。学生であることの最後の名残に。

 哲夫は、きのう納得できなかったことが、一つわかった気がした。

 ――そうか、母さんが学生の出征風景がつらいのは、兄さんたちが学問をすてて、学生生活とも別れなくちゃならないのを、かわいそうに思ったんだな。

 なぞ解きを始めたような気持で、胸がはずんだ。同時に、どこかの国の民話の絵本でみたことのある丸く輪になっておどっている生贄の祭の絵も、浮かんできた。学生たちが、生贄? なぜか、おじさんの文章から浮かんだ連想だ。

 次に哲夫は封書を開けてみた。きちんとした楷書で書かれている。

 父上様、母上様

 最後のお便りをしたためます。先立つ不孝を、お許しください。御恩を受けた方々をお守りしたのだと、いまも私は信じて居ります。

 哲朗は、何等恥ずることなく責を負って死んで行きます。

 思えば、良き上官、同僚、部下に恵まれ、兵役につきてよりの日々にも、悔いはありません。

 私が大切にして居りました国文学関係の書物は、母校への寄贈を望みます。私の成し得なかったことを、次の世代が引きついでくれることで私は生かされます。

父上様、母上様、道子の御多幸を祈って居ります。

 昭和二十一年三月二十五日                   哲朗

 昭和二十一年三月!

 その意外な日付に、哲夫の口はかわいてきた。敗戦は、戦いが終ったのは、二十年の八月十五日なのに……。この日付は、テストに二度でたから、よく覚えている。手紙の内容よりも、おじさんの書いている日付が哲夫をとらえた。

 どうして、戦死した哲朗おじさんが、戦争が終った後の昭和二十一年に手紙を書いているんだ。じゃ、戦死ではなかったんだ。そう思ってみても、これは遺書だ。ととのった書き方から、おじさんの緊張した想いが流れ出てきて、心がしんと引きしまる。

 外からわかるのではないかと思えるほど、どうきがはげしくなって哲夫は深呼吸をした。もしかして恐ろしい秘密を、あばこうとしているのだろうか。こわくて逃げ出したい気持になったとき、

「ただいま」

 母さんの声が、かすかに聞こえた。

 哲夫はあわてた。落ちつけ、自分にいい聞かす。

 ――買物から帰った母さんは、必ず台所へ入って荷物を置く。生ものを冷蔵庫に入れる。それから居間へ入るか、寝室へいって着がえるかだ。仏壇の部屋へは、もし来るとしてもその後だ。

 気持を落ちつけながら、紙を元通り四つ折りにして封筒と重ねた。ほかの紙は見当らなかった。ついでに、きのうポケットへ入れた紙片も、手帳といっしょに油紙で包んだ。

 引出しを抜いた穴にそれを押しこみ、引出しをおさめた。やっと息をつく。部屋の中はそっと歩き、あとは、だーっと走って玄関わきの電話にとびついた。

「あ、さやか。今日の取材、昼から図書館へ行こう。しらべたいことができたんだ」

 いきごんだ哲夫の言葉を受けて、さやかは、

「うん、いいわ、じゃ一時に駅前で」

 さっと時間も決めて、はぎれいい返事を返してくれた。

 それから、声の調子を変えて、頼みこむような口調になった。

「わたし、哲夫くんに、ぜひ聞いてもらいたいことがあるの。戦争に関係する話なんだけれど、いいかしら」

「オーケー。いいよ」

 さやかは、おてんばなところと、静かで考え深いところがみょうにまじりあっている。

 ――さやかってチャーミングだ。

 そんな思いが、哲夫の胸の中をかけぬけた。さわやかな風のように。

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踏みにじられて

 電車の中で、哲夫とさやかはほとんど口をきかなかった。

「けやきの下のベンチにしよう」

図書館のある公園に入ったとたん、二人はそういって駆けだした。

 ベンチにすわると、けやきがみどりの屋根を作っていて、気持がいい。

 さやかは、すぐ話しだした。

「親戚のおじいさんで、とっても優しいひとがいたの。紙すきが趣味でね、押し花を入れたきれいな葉書をわたし、ずいぶん作ってもらったわ。

 この間、会ったとき、おじいさん、戦争中シンガポールにいたってわかったの」

「シンガポール、南方戦線だね」

「そうなの。でも、いまのシンガポールは、アジアのビジネスセンターを目指してるんですって。

 シンガポールのチャンギー空港では、乗りつぎのお客をあきさせないために、プールを空港内に作ったり、短い時間で市内観光のバスに乗せたりしてるそうよ」

「やるねえ。空港で乗りつぎの時間は、外へも出られないし何もすることがないって、父さんが前にぼやいてたっけ」

「でしょう。だからとても評判がいいらしいわ。いまは一年で千五百万人乗り降りする空港ですって。わたし、まだ決まってなかったけれど、文化祭のビデオ作りに役立つかもしれないと思って、聞いてみたの。戦争中のことを。そしたら……」

 さやかは、きゅうに泣きそうな顔になった。

「どうしたの、そしたら」

「おじいさん、きちんとすわり直してね、チャンギーは戦時中、軍事空港だった、っていうの。

 われわれのしたことを話そう、といって話してくれたんだけど。それがもう、すごくて、とても信じられないくらいなの。日本兵が大きな穴を掘って、そのふちへ敵の捕虜を立たせて、じゅんじゅんに首を日本刀で切り落として穴へ埋めていったんですって。

 兵隊だけじゃなくて、老人や女や子ども、赤ん坊まで、村人を皆殺しにしながら、進軍していったんだよって言うの」

 ベンチで隣にかけているさやかの、体のふるえが伝わってきた。

「あんなに優しいおじいさんが、『われわれのしたことだ』と言ったの。いま思うと、あの時の自分は人間ではなかった。上等兵に命令され、なぐられなぐられて、仕方なくやっているうちに、ふつうの心を失くし、殺人になれていった。そして、しまいには、人を殺しても心を動かさなくなっていく。これが、戦争だよって」

「あの時の写真!」

「えゝ、あの時のも……」

 二人は、見つめあった。放送部の企画が、最終的に決まったのは、想像もしなかった日本兵の残虐写真にショックを受けたからだとも言える。もっと知りたいと思いながら、誰も手をだせないでいたことが、向こうから近寄ってきたなんて。

 けれど、あの写真が訳のわからない力で、ぼくたちを前へ進めさせてきたのかもしれないと、哲夫は感じた。

「そのおじいさん、どこにいるの」

「死んだわ、わたしに話してくれてから十日ほどして。あっ、その時に、いまシンガポールで写真展が開かれている、って言ってたの。死体の山の写真が並ぶだろう。あれだけ虐殺をされた国民にとっては、日本の軍人は、みな同じ顔に見えたはずだ。わたしは無事に帰ってきたが、戦争中の仕返しに何もしていなくても殺された日本兵も、少なくないって」

 さやかは、一気に話し終えて、口をつぐんだ。哲夫は、驚きで言葉がでなかった。いままで、戦争というとひどい目に合う場面ばかり哲夫は思い浮かべてきた。この間、聞いた川瀬さんの空襲の話が、まさにそれだった。

 それだけにシンガポールの話は、ショックだった。日本人もあんなひどいことをしている! 考えたくない話だけれど、その事実をいま突きつけられている……。

 血の気が引いたさやかの顔は、哲夫自身のものだった。

「シンガポール、遠いな。ちょっと行けない」

「ええ。それにわたし、見たくない」

 いつも積極的なさやかが、たじろいでいる。

 このことは部会でみんなにも話して、ビデオ制作にも役立てなければ、と二人で決めた。だが、混乱した気持は、すぐにどうなるものでもなかった。

 今度は哲夫が、午前中にしたこと、見たこと、考えたことを、さやかにぶちまけた。自然にわいてきた疑問も、そのままに話した。田宮哲郎というおじさんの名も告げた。

「そう、そうなの」

 哲夫の話を聞いていたさやかは、手分けして学徒兵の記録をしらべようと、哲夫が考えていたのと同じことをいった。すこし元気がもどったようだ。

 そして、ぽつりと言った。

「わたし『チャンギーの悲劇』って映画みたの。BC級戦犯の話だった。それも当たってみたいわ」

「ああいいよ。学徒兵の次に、それいこうや」

 さらりと哲夫は答えたのだが……。

 図書館に着いた二人は、学徒兵の記録をしらべだした。『学徒出陣』という雑誌は、写真が多くてとてもわかりやすい。写っている学徒兵は、いまの大学生よりずっと大人にみえたり、あどけない子どものように写っていたりする。

 ビデオ撮りのとき、参考になると思って哲夫は、発行所名と本の値段をメモしておいた。

 そのあと『きけわだつみの声』を読む。戦没学生の手記を集めたこの本は、一つひとつが心にしみるものなのだが、正直いって哲夫は手記の書かれた日付にばかり目がいってしまう。

 当然、日付が昭和二十年八月十五日以前の遺書に……。

『わだつみのこえ消えることなく』と『昭和の遺書』を熱心に読んでいたさやかが、遠慮がちに言った。

「ねえ、いま三時。戦犯に移らない」

「うん、そうしよう。どうせ一回で終ることじゃないから」

 哲夫も、声をひそめて答えた。陽射しいっぱいの明るい図書室は、私語する人はほとんどいない。みな熱心に本を見ている。二人は本をかかえて棚に返し、次の作業にかかった。

「戦犯の資料、ここにかたまっているわ」

 さやかが、書棚の上段を指さしながらささやく。

「うん、ぼくもずっと見てたけど、ほかにはないみたいだ」

 答えながら、哲夫は何冊か抜きとってみた。ほかの本とちがって、ほとんど読んだあとがない。新本同然の本ばかりなのは、人々の関心が低いからだろう。机に本をはこんで、さやかと手わけして、しらべようとしたとき、

「オス!」

 原の声がして、青木、眞弓の三人がそばに立っていた。

「おどろいた、いつ来たんだ」

「朝から。やっぱり昔の話を聞くと正確な裏付けがほしくなるねぇ。もちろん本当のことを話してくれても、個人的な思いちがいもあるだろうしね。第一、五十年以上も前のことだから」

 小声で話す青木。

 ――うーん、やっぱり優等生らしいことを言う。

 哲夫が感心していると、眞弓がささやいた。

「ゼロ戦で戦った人のお話、すごかったわよ。敵機を五機も落として、自分の飛行機もハチの巣のように弾でうたれながら、基地へ帰ったとか。そっちはどう」

 哲夫は、言葉につまった。

 いま、しらべていることは、ひと口では言えないし、また、かんたんには話したくない。

「東京大空襲にあったおばさんの話を聞いたわ。その時、女学校五年生だからテーマにもぴったりでしょ。いろいろのことがわかったわ」

 さやかが、とっさに第一回目の取材を話してくれた。そうだ、そこから、学徒兵—哲朗おじさんと発展してきたのだった。

「よかった。空襲もぜひ取り上げたい一つだったよ。じゃ、ここであんまり喋っていてもいけないから」

「五日後だぞ、部会。七月二十六日。忘れるな」

 青木と原が、口々に言い、眞弓が手をふって三人がいってしまってから、借り出した本の上に、うまくノートがのっているのに気がついた。別に秘密にするつもりはないけれど、もう少しまとまってから三人には話そうと、哲夫は思った。

 さやかと哲夫は、机の上の資料を手分けして読むことにした。

「A級戦犯」という本に目がいく。そうだ、敗戦のとき、元首相で陸軍大将だった東条英機たちのことをいうんだ。

 読みはじめてすぐ、おやっと哲夫は思った。戦争をはじめて、それを指揮した最高の責任者である人々の起訴が、たったの二十八名で、絞首刑が七名と記してある。戦犯として処刑された日本人は、こんなに少なかったのだろうか?

 天皇のことも、戦勝国の連合軍が、日本を混乱なくうまく占領するためなのか、戦犯にならなかったし。

 哲夫は、A級戦犯一人一人のことをくわしく書いた部分は読まずに、本を閉じた。

 何かわからない不思議な思いで、頭の中がいっぱいになった。いそいで開いた、BC級戦犯の本では、目をうたがった。

 裁判にかけられた人の数、五千七百人。うち死刑執行が九百二十人。

 九百二十人!

 そこには農民や労働者、学業を捨てさせられて戦った二十代の若い人たちもたくさん含まれて、九百二十人も死刑にされた。それを強制的にやらせ、指図した人達は七名だけの死刑なのに……。これはどういうことなのだろうか。

 ABC級の分け方の部分を、哲夫は一心に本から書き写した。ビデオを作るにしてもこの説明は必要だと思ったからだ。でも、だいぶむずかしい言葉が続く文章だった。

「極東軍事裁判所条例」

〈第五条〉本裁判所は個人、又は団体員として平和に関する罪、又は平和に対する罪を含む犯罪につき訴追せられたる極東戦争犯罪を審問および処罰する権限を有す。左に掲げる一又は数個の行為は、個人責任ある犯罪とし、本裁判所の管轄に属す。

(a)平和に対する罪――宣戦を布告、又は布告せざる侵略戦争、もしくは国際法、条約、協定、又は誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、又は遂行、もしくは右行為のいずれかを達成するための共通の計画、又は共同謀議へ参加。   A級

(b)通例の戦争犯罪――戦争の法規、又は慣例の違反。   B級

(c)人道に対する罪――戦前又は戦時中、なされたる殺人、せん滅、奴隷的虐待、追放、その他の非人道的行為、もしくは犯罪行為の国内法違反たると否とを問わず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、又はこれに関連してなされたる政治的又は人種的理由にもとづく迫害行為。   C級

上記犯罪の何れかを犯そうとする共通の計画、又は共同謀議の立案、又は実行に参加した指導者、組織者、教唆者及び共犯者は、かかる計画の遂行上なされたる一切の行為につき、それが何人によってなされたるを問わず、責任を有する。

 このa、b、cの記号によって、A級、B級、C級と呼ぶようになったようだ。

 書き終わった哲夫は、読み直してみた。むずかしいけれど、(a)と(b)はわかった。

(a)は、A級戦犯の顔ぶれでもわかる戦争そのものを支配した人々なんだ。

(c)は、もしかしたら、(a)(b)ふくめた、戦争そのもの全体にかかることではないだろうか? それとも、実行犯ということなのだろうか?

 ――どうして分けてあるんだろうか。

 哲夫の頭は、また混乱した。

「あっ!」

 さやかの叫び声に、哲夫はわれにかえった。

 資料を指さして、半ば口を開けたまま、青い顔をしているさやか。

 BC級戦犯の裁判の判決が書いてある表の中に、

  銃殺刑――田○哲○

の文字があったのだ。並んでいるどの氏名も二字か一字の伏せ字がある。伏せ字に宮と朗をあてはめれば、ぴったりではないか!

 階級を見る。少尉、おじさんと同じだ……。まさか、だっておじさんは戦死したんじゃないか。

 その時、哲夫の胸を稲妻のように刺しとおす記憶があった。このあいだ、哲朗おじさんのことを、母さんに聞いたときのこと。

「学徒出陣で戦死したんでしょう」

という哲夫の問いに、

「戦死……」と、つぶやいた母に、短い沈黙があったことを。

 そして、哲夫が勝手にみてしまったおじさんの手紙の日付、昭和二十一年三月二十五日。戦争が終って半年たった日付だ。

 背筋が冷たくなる感覚の中で、哲夫は思った。

 ――空いているところへ入れる文字は、無数にある。まず、田の次には、中が来て、田中という名字が一番多いはずだ。田村だって多いし、田原というのだって田宮を考えるより自然じゃないか。哲のつく名は、ぼくのまわりには、ぼく位しかいないけど、ぼくの哲夫、または、哲雄か哲一、哲次が考えられる。てつろうだって、哲郎と書くだろう。哲朗なんて字がめったにあるはずがない。

 田宮哲朗という名が、めったにないことと、この記録がおじさんではない、ということには、何の関連もないのに、ひたすらこんなことを考えていた。

 口が乾いてしかたがない。目を上げるとさやかが、じっと哲夫を見ていた。

 その目は、「どうする……」とたずねている。

「ここんとこ、コピーしとこうと思う」

「コピー、四時半までだから、すぐなら間に合うわ。いそぎましょう」

 びんしょうに動くさやかの後を、資料を持って哲夫が追った。コピーサービスはぎりぎりで間に合って、ラストだった。

 受けつけるとき、係りのおじいさんが、

「ここ一枚だけ?」

と、聞いてくれた。やさしい笑顔だった。

「ええ、放送部の資料集めなんです」

 哲夫は、胸の中のもやもやを、どうしようもなく吐き出したくなっていた。

「そしたら、ここにおじさんの名前らしいのがあって。どうしてもしらべたくて」

 そういって、田○哲○の所を指さしたとき、哲夫は、ほとんど自分の予感を信じていた。

「ああ、その記録ね。だけど君、田中っていう人も多いよ。田村かもしれないし」

 おじいさんは、哲夫が思ったのと、同じ名字をあげた。

「いえ、田宮なんです。田宮哲朗」

 その言葉で、おじいさんは、ぽかんとした顔になった。あっけにとられた、という感じだった。それから、すぐ真顔になって哲夫に質問した。

「きみは、ほんとうにその人のことを知りたいんですか」

 うなずくと、おじいさんは小声で哲夫の耳もとに、ささやくようにしていった。

「もうすぐ仕事が終るので、五階の食堂で待っていてください。すぐ行きますから」

 閲覧室そばのエレベーターで、哲夫とさやかは五階の食堂へいった。三方が窓の明るい食堂からは、下の公園の木々が見おろせる。窓際にすわって丸く茂った木のみどりを眺めながら、哲夫は思いがけない事の進展を胸の中で何べんもたどっていた。さやかも今日知ったたくさんの事を思い返していたが、ふと、時計を見ていった。

「おじいさん、おそいわね」

 時計の針は、五時半を指している。一時間が過ぎていた。

「行ってみよう。すぐ行くっていってたものね。用事が終らないのかもしれない」

 哲夫が立ち上がりながら言う。二人は、コピーサービスの前で呆然とした。忙しく立ち働いていた人影は消え、しずまりかえったコーナーは、冷えびえとしていた。

 受付でたずねると、

「あゝ、コピーサービスの人たちね。そろって帰って行きましたよ。四、五十分ぐらい前だったかなあ」

 ――おじいさん、忘れちゃうなんて。

 期待が大きかった分、哲夫はくやしくてくちびるをかんだ。図書館をでて植え込みの間をあるいているとき、二人は無言だった。

「明日、またきてみない。コピーが終る時間に」

 さやかが、ぽつりと言う。

「そうしよう」

 哲夫も短く答えた。《田宮哲朗》の大事な手がかりのためには、また行くよりないと思う。どんなに腹が立っていても。

 つぎの日、再び図書館を訪れた二人は、まっすぐに、コピーサービスの前に立った。待っていたように近づいてきたおじいさんが、深ぶかと頭を下げた。

「申しわけないことをした。昨日はあまりびっくりしてしまって、はじめはお話しようと思ったのだが、はたしてそれでよいのか迷いましてね。年甲斐もなくうろたえて、そのまま家へ帰ってしまいました。もう一度、待っていてください」

 哲夫とさやかは、また五階の食堂で待つことになった。今度は、間もなくおじいさんが足早にあらわれて、オレンジジュースの缶を三本、そっとテーブルへ置いた。

「暑かったでしょう、どうぞ」

 遠慮がちにいう。

「いただきます」

 さやかに続いて、哲夫も冷たいジュースで息をついた。

「わたしはね、定年退職してから、コピーサービスの仕事をしています。だから、当然この前の戦争の体験者ということなんだが」

 そういってから、おじいさんは、

「いやあ、こんなこと言わなくても、その年に見えるよね」

と、笑った。哲夫たちも思わず微笑んだ。

「きのうの話だが……、私は戦争には行ったが、敗戦後、いちおう事もなく日本へ帰れました。だが、方々で抑留の苦しみを味わった友人は多い。その一人でラバウルに残されたやつが私の親友でね。さいごはBC級戦犯の裁判まで見てきているんだ。矢島というんだが、会ってみますか」

「ええ、ぜひおねがいします」

「きのうのうちに連絡をしておきました。これから電話を入れておくから、行ってごらんなさい。そう遠くもないし。君たちのような若い人に聞いてほしいことですから」

 おじいさんは、手早くメモ用紙に地図を書いて、矢島さんの住所も書き添えてくれた。すばらしく達筆だった。

「あの、おじさんの、田宮哲朗のこと、その矢島さんは……」

 哲夫がさいごにたずねると、もう立ちあがっていたおじいさんは、ぽつりといった。

「矢島のね、話の中にいつもでてくる名が、その田宮哲朗さんでしたよ」

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おじさんと収容所

 図書館を出る前に、さやかが家に電話するのを、少し離れて哲夫は見ていた。ううん、と首を振ったり、うなずいたりするたびに、さらさら髪が揺れる。哲夫の方は今日は自由だ。商社マンの父は例によって帰りは遅いし、母もお花を教えに行く日だから。

 十五分ほど町を歩いて、目当てのオーストリア大使館の前に出た。地図の通りに進むと、リッチな元麻布にしては意外なほどこじんまりした玄関に、木の古い表札がかかっていた。

「ごめんください、矢島さん」

 細目に戸を開けると、浴衣姿のおじいさんと目があった。もうそろそろ、と思って玄関へ出てきたんだ、と言いながら、矢島さんは風のよく通る居間へ案内してくれた。

 縁側に朝顔市の短冊をつけた朝顔の鉢が二つ、あい色と空色に大きくふくらんだつぼみをいくつもみせていた。

「朝顔、きれい」

 さやかがつぶやくと、矢島さんは、

「入谷の朝顔市の花ですよ。今年も、早朝から大にぎわいだった、平和になったんですねぇ」

と、五十年以上も前の戦争が、ついこのあいだ終ったような言い方をしてから、

「ばあさんが出かけてるんで、何もおかまいできませんが」

と、冷たい麦茶をついでくれた。

「あのころのこと、何から話せばいいか……。まあ、まとまりはありませんが」

 そういって矢島さんは姿勢を正した。哲夫とさやかも緊張して耳をかたむける。

「一九四五年八月十五日、敗戦軍の兵士となった私たち日本軍全員が、戦犯に問われたのではもちろんありません。まあ、あちらをふくめて殺しあいをお互いにやってきたのが戦争だから、その点では全員有罪のわけですがね。

 戦争犯罪人として罰せられるのは、戦争法規などに違反した行為、俘虜虐待や殺人、略奪などを犯した者で、私たちはその疑いで収容所へ入れられたわけです。その疑いというのも、いい加減なもので、戦争中、現地人に親切をつくしたものが、逆に現地人に訴えられた、というケースも多いんです。

 くやしいことに田宮哲朗さんなどは、そのケースでしたよ」

「え、なぜですか」

 哲夫は、思わず口をはさんでしまった。強い口調だったと自分でも思う。田宮哲朗という戦犯で、銃殺刑になった少尉がおじさんだという確証はまだないのに、哲夫の中で、なにかがひっかかってしまう。

「それはね、日本軍が戦争にやぶれてからは、日本軍に協力した現地人は、反逆罪として自分の国に死刑にされてしまう。それで、自分が日本人に大切にされ親しかったことをかくすために、やさしくしてくれた人物を逆に残忍非道な人物だ、と、うそを裁判でのべて、自分が助かろうとしたんですな」

「ああ」

 さやかが、つらそうな声をだした。さやかの親戚のおじいさんと同じだ。

 ――まったく、戦争ってやつは、人間性なんか踏みつぶしてしまうしろものなんだ。

 哲夫は、憤りがふつふつとわいてきた。

「まあ、そのくらいにして、あと、具体的な事柄を話していきましょうか」

 矢島さんの言葉は、淡々としていた。哲夫も、これからは黙ってまず聞こう、と決心した。矢島さんは、なにから……とちょっと考えてから話しだした。

「オーストラリアの北東にあるニューブリテン島。その島の、航空基地のあるラバウルを私たちが占領したのは、昭和十七(一九四二)年の一月ですから、それから日本海軍の基地として、重要な役わりを果たしてきたわけです。

 それと同時におおぜいの敵の捕虜たちをあつかうのも、大きな仕事でした。やつらはわれわれとちがって、命令を守らないし、理屈をいうインテリもいる。捕虜といっても、なかなかあつかいにくい連中でした。

 でも、田宮少尉の働きは際立っていましたよ。オーストラリア兵と英語で話し合って、みるみる友好的な関係をつくりました。それから彼らは、とても協力的になりましたね。

 同時に、現地人もなついてよく働きましたよ。食糧補給とすいじがおもな仕事でしたがね。なかでも十一、二歳の少年が、

『ミスターターミヤ。マタキタヨ』

と、白い歯を見せて笑いながら、通ってきました。田宮少尉は、少年にあいさつの仕方から計算まで、手を取って教えていました。〈チエン坊、チエン坊〉といってね。

 内地から慰問袋がとどくと、ノートやえんぴつ、ドロップスなどもあたえて可愛がっていましたよ。

 そうだ、紙ヒコーキを折って飛ばせ方を教えたら、チエン坊は、

『ターミヤ。すき。あいしてる』

といって、田宮さんの首にとびついて、大喜びしましたっけ。

 あのころ、ラバウルの日本軍陣地は堅固だと、米国のマッカーサー元帥も認めて、占領をあきらめ、その代り猛烈な空爆をくり返してきました。そうしたなかでも、われわれは周辺の島への援助もやっていましたよ。

 敵の海域になってふつうの輸送ができなくなったガダルカナル島へのドラム缶輸送をね。ドラム缶へ米をつめ、かつお節やマッチもつめて密閉します。それをラバウルの岸壁へ並べる。そこまでが私たちの仕事です。それを駆逐艦が積んでいって暗い夜、ガダルカナル島の近くの海へ百個近くすてて、全速力でもどってくる。ガダルカナルでは浮いているドラム缶を小舟で曳いてきて、ジャングルへ運ぶという寸法でした。

 やがて日本内地からの補給がとだえて現地自活の日々になると、食糧不足には悩みましたよ。おおぜいの捕虜の食べ物にもね……。しかし、前にもいいましたが、田宮少尉を中心に捕虜たちも友好的になっていましてね。われわれに協力して、畑仕事で収穫もおおいにあげてくれましたよ。なにしろ暑いんで、作物は早く育ちました。週に一回、田宮少尉が開いた歌の交流会、お互いの国の歌を歌いあうのは、楽しいものでした。やつら、『さくらさくら』が好きで、よく歌ってました。まあいえば、お互い、同じ空爆から身を守らにゃならん、一種の、運命共同体の親しみも生まれてきてた気がします。

 さて敗戦になって、今度はわれわれが、戦争裁判までの間、収容所に入れられていました。ここは本当は判決のでていない人の収容所なのですが、犯罪者、いやそれ以下の仕打ちでした。

 はじめのうちは、ローラーを駆け足でひきまわす作業。汗だくの重労働で、ちょっとでも止まると拳銃をつきつけられました。これを朝から日暮れまで続けます。作業といってもこれは、私たち元日本兵へ報復するためのもので、面白半分にやらせていたものでした。戦勝国の立場は強い。

 それに、われわれの体力を限界まで落とせば、歯向かわれる恐れがなくなると思ったんでしょう。

 そのつぎが、レンガ運搬でした。まず作業場の公園までの二十キロを、一分の休憩もなしに歩いて行ってからのレンガ運びです。炎天下で重いレンガを運ぶのですが、兵隊が銃剣をかまえて、早く早くと追いまくり、息つく間もない作業でした。兵士が倒れると現地人が踏んだり、蹴ったりをくりかえします。

 こうした作業の終了は、午後の七時。昼食もゆるされない上に、休憩さえありません。これもまた、相手にとっては面白がってやらせている報復作業だったんですが」

「ひどい」

と、今度はさやかが口をはさんだ。

 矢島さんはひと息ついて、麦茶をのんだ。

「ついこの間までの敵ですからね、憎くてたまらなかったのでしょう。それは、こちらも同じはずなのだが、敗れたことで一切をあきらめていたような気がします。まあ、われわれは、丸腰で、何も持たずに拳銃に囲まれていては、何かできるわけではありませんが。

 明らかな報復作業はまだありましたよ。深さ二メートル、はばはやっと体が入るくらいの穴を掘らされました。一口に二メートルといいますが、身長より深い穴ですからね。なかなかたいへんな仕事でした。だんだん深くなると自分の頭より上へ、シャベルで土を投げ上げなければならない。下手をすると投げ上げた土を自分が頭から浴びてしまう。

 となりの間隔をつめて作業をさせられているので、つるはしをふるっているときは、仲間を傷つけてしまうこともある。血だらけ汗まみれの、どろどろ、ふらふらの炎天下の作業でした。一瞬でも手を休めたら、

『ハリ・アップ』

の、どなり声といっしょに、手あたり次第にこん棒でなぐられる。もう限界にきた体を、気力だけが支えていました。

 ところがです。そうして掘った穴を、今度は埋めろ、という。やはり拳銃をつきつけられながら、元通りに埋めもどしです。このときは、さすが全員、男泣きになきました。屈辱も極まれり、という思いでした。

 田宮少尉はさすがです。われわれの気持を収容所長へぶちまけて抗議してくれました。田宮さんは国文学出でしたが、英語力も抜群で、

『タミヤの英語は、パーフェクトだ』

と、所長がほめたくらいでした。そのおかげで無意味な作業はなくなり、一同どんなに田宮少尉に感謝したことか。

 人間というのは、役立つ作業なら相当つらくても頑張るものなのですよ。しかし相変らず食事はひどいものでした。朝晩少量ずつのかゆに、いもか豆少々。野菜はたまに、もやしがつく。魚や肉はほとんどなし。全体のカロリーが極端に低いうえに味付けはぜんぶ塩だけ。そして昼間の重労働でしょう、衰弱して死んでいく者以外も、皮膚病にかかり、目はかすみ、足はふらふら、もう全員、半病人でした」

 哲夫が聞いた。

「そんなひどいこと、日本側は捕虜にしてなかったんでしょう。でも……」

 哲夫の頭を、さやかのおじいさんたちの、残虐な話が、かすめた。

「していません。われわれは、田宮少尉に従っていましたからね。捕虜になった者を友好的にあつかうのは、ごく自然なことだったのです」

 矢島さんは、きっぱり言い切ってから、ぼそっとつけ加えた。

「戦後になって、日本側のいろいろな話は聞きましたよ。捕虜の鼻と口から水を注いで苦しめたり、トビウオという拷問をやった部隊もあるらしい。両手をうしろでくくった捕虜を鉄条網のなかに突っこむ。そして鉄条網をゆさぶる。捕虜の体中に鉄条網の針が食いこみ、皮ふは裂け、苦しくて跳びはねるのでトビウオと名づけたらしいのです」

 哲夫とさやかの、つらそうな顔へ矢島さんは小さくうなずいてから、話を続けた。

「生きるか死ぬかの戦場では、一つ歯車が狂うと、こんなものです。わたし達が虐待を受けたのは戦後でしたが、まだ戦争の続きのようでした。そう、忘れもしませんその年の暮れでした。

 理由もなく、わたし達を整列させておいて、こん棒でなぐってまわったのです。ものすごいなぐり方で、やつらが立ち去った後も、倒れて苦しむ声が満ちました。やつらを指揮していたのは、〈赤えんま〉とあだなをつけた、赤ら顔の軍曹です。恐ろしい顔が、地獄の閻魔大王を思わせましたし、性格もまったく恐ろしいやつでした。こん棒の傷もなおっていない次の日、猛烈なリンチが起こりました。

 山田という二等兵の動きが鈍く、態度も不良だと呼び出され、例の赤えんまが口をきわめてののしって押し倒したんです。その上、砂をつめた水筒で頭を割り、食事用のホークを力いっぱい胸に突き刺しました。

 山田二等兵は、二時間の虐待で死亡しましたが、シャツの胸に丸く赤い朝顔のように、血がにじみでていたのが忘れられません」

 矢嶋さんが口をとじ、哲夫は自分の鼓動が激しくなっているのがわかった。さやかは胸に手を組み、二人は同時に縁側の朝顔に目をやった。

 空色とあい色のつぼみが、さわやかだ。矢島さんは、赤い色の朝顔は決して買ったり、植えたりはしないだろう……。

「今度も、われわれを代表して田宮少尉が、厳重な抗議をしてくれました。所長は調べて善処すると約束しましたが、どうしたことか、赤えんまはその後も収容所にい続けました。それから間もなくでした。田宮少尉が、ごく簡単な裁判で、死刑囚房入りとなったのは……。

死刑確定は、田宮さんが目をかけていたチェン坊が、

『タミヤは残忍なやつだ。うじのついた瓜を捕虜に食べさせた』

と、叫んだからですよ。たった、それだけで死刑です。これを公平な裁判によった、と彼らは記録しています。ばかな……。どんなに田宮さんは口惜しかったか。これは、食糧不足のなかで現地で作ったキウリを、ゴマ和えにして食べさせたのに。チェン坊は、

「ミスタータミヤ、ウマイヨ」

 にこにこしながら捕虜たちにくばったくせに、ゴマをうじだなんていいやがって……。

 チェン坊が、日本軍の田宮少尉と親しかったことをかくすために、ついたうそです。さすがにうつむいたままで、やつはついに田宮さんを見ることはできなかったようです。田宮さんほどやさしくておおらかな人は、いなかったのに。

 わたしが、こうして生きているのは、運が良かったというか、そういう自分自身を助けるために、うその証言をする人間が出現しなかっただけですが、元をただせば捕虜をあつかっていたとき、特に役に立っていなかった、彼らに人望がなかったからでね、まったく運命とはわからんものです。

 これ以後の田宮さんとは、会っていません。しかし、死刑囚房でも人望あつく、田宮少尉と共に死刑を望む者が多かったと言います。最後も、じつに堂々としたものだったと聞きました。所長が手配して、田宮さんの希望通り絞首刑でなく、銃殺刑で逝かれました」

 矢嶋さんが話し終えてしばらくしてから、さやかが、たずねた。

「あの、亡くなった方のお墓は、あちらにあるんですか」

「そうです。だが、ナンバー板を立てただけの粗末なもので、それもなかなか氏名と一致しなくて。いや、一年ぐらいでナンバーは消えて、ほとんど読めなくなってしまいました」

 苦しそうな矢島さんの声だった。哲夫は、ふと川瀬さんが、防空壕を共同墓地といって、爆弾に当たったら自分用の板切れに書いた名前が、墓標になると言っていたことも思いだしていた。

 矢島さんが、不意に哲夫にむかって言った。

「田宮哲夫くん、でしたね」

「はい」

「田宮哲朗少尉の遺品は、私が日本人牧師からあずかって大切に持ち帰ったんです。けれど、恩を受けた田宮さんをおいて生きながらえている自分が、つらくてつらくて、この遺品をご家族へ届けることがどうしてもできなかった。そのりっぱな遺書をね。

 やっと二十年後に決心して訪ねたときは、ご両親は亡くなられていました。十五歳下の妹さんがいるとうかがっていたのですが、その道子さんが……」

「あっ」

 哲夫は叫び声をあげた。十五歳下の道子は、母さんのことだ。これで、田宮哲朗がおじさんだと、確定した。矢島さんは、田宮少尉が哲夫がさがしているおじさんだと、はじめから信じ切っている口調で話を続けていく。さっきの電話で、図書館のおじいさんから聞いているらしい。

「妹の道子さんが一人で家を守っておいででした。その後は、父親のような気持で、接してきましたっけ。

 それからだいぶたってあなたのお父さんと結婚されたとき、〈道子が一人でつらい想いをして守ってきた家だから、姓も一緒にそのまま続けていこうね〉と夫が言ってくれましたと、道子さんから嬉しそうに告げられましてね。

 もう安心です。わたしは、そこで音信を絶ちました。そのほうが、亡くなられた田宮少尉の意にかなう気がしたんですよ」

 遺書――あの昭和二十一年三月の、哲夫がだまって読んでしまった手紙は、この矢島さんが二十年も悩んで持っていたものだったのだ。

 それは若い学徒だった哲朗おじさんが、死と向き合いながら、家族や、つぎの世代のことまでも考えている、りっぱな手紙だった。矢島さんのとてもやさしいまなざしが、自分にそそがれているのを感じながら哲夫は思った。

 ――こんなにもたくさん、前の世代の人が苦労をしてきたということ。そして、いま知った哲朗おじさんの戦犯・銃殺刑。ぼくはどうやってこの重い事実に応えればいいのだろうか。

 さやかの手がのびて、哲夫の手をとった。

 やわらかなさやかの掌が、哲夫をはげますように、強くにぎりしめられた。

 哲夫もぎゅっと、にぎり返した。

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人間を悪魔に

 矢島さんの話を聞いてから哲夫は、母を別人のように思うことがある。お花を教えにいくことも多く、都心部のカルチャーセンターの講師を三つも受け持つ母は、活動的で明るかった。何でもよく哲夫と話した。哲朗おじさんのこと以外は……。

 戦犯、銃殺刑という自分の兄さんのおもい事実を、息子にも気づかせずに、いままできた母の心の中を思ってみる。すると、矢島さんの話を母にぶつけたい気持が、音もなくしぼむ。

 仏壇の下のおじさんの手記を見せて、と母に言うことも、前のように黙ってのぞくことも、もうできない。

 矢島さんが、心底から哲朗おじさんを思ってくれていることを感じた。それは哲朗おじさんの人柄だとわかって、哲夫も誇らしい。また遺書のりっぱさには、しんと心が改まる。

 けれど、胸にひっかかっているあの句

  月夜野に釈迦も父母もおわしまさず

から伝わってくる、淋しい絶望感が忘れられない。母に何も彼も打ち明けて聞きだしたい衝動にかられては、かろうじて押さえこむ。

 図書館へいった日から三日目に、原から電話があった。

「ビデオ制作講座が、区民館であるそうだ。青木が見つけてきた。今日と明日、十時から五時まで、一時間ごとに同じことをやるから、都合のいい時に参加しとけって。

 うん、さやかには言っといたよ。今日の一番のに眞弓とさやか、行くそうだ。おれもその回のに行くよ。おまえもそれにこないか」

 たのしげに声が、はずんでいる。

「わかった。気が向いたときに行くよ。知らせありがとう」

 まったく気が向かなかった哲夫は、次の日になってようやく出かけたが、誰とも会わなかった。講座は、撮りはじめに数秒はカメラを動かさないのはなぜか、などという基本的なことを、くどく質問する中年の人が多くて、盛り上がらなかった。

 けれど、心にしみる注意もあった。

「ないカットはつなげない。じゅうぶんに撮れ」

 ――そうだな、疑問のままの空白のところは、きちんと調べなくちゃ。第一、台本も書けず、撮影もできない。

 その夜、哲夫は明日の部会へ提出する資料をまとめてから寝た。

 部会は、青木の家で集まった。家といっても十五階建てマンションの十五階。大きなガラス張りの居間から、町が見下ろせる。

「すごいな。地球が丸いとこまで見えまーす」

 原がとんきょうな声をあげた。町のむこうまでずっと見晴らせて、すこし曇った果ては、気のせいか、かすかに丸みを帯びて見えた。

「あれが、新宿の超高層ビル街だよ」

 青木が指さす方向に、ひとかたまりのビルの群れが小さく見える。哲夫たちは、都会的なその風景にみとれた。

「あ、富士山よ」

 さやかの声に横を見ると、富士山が小さくすっきりと浮かんで見えた。新宿ビル街の左手に、突然出現したかのように見える富士は、神々しくて清らかだ。

 むかし、女学生だったあの川瀬さんへ、婚約者の学徒兵が、

「君と、富士山を、もう一度見たい」

と、最後の便りに書いた気持がわかるような、富士山だった。

「そろそろ始めない?」

 遠慮がちなさやかの声をきっかけに、みんなでテーブルをかこんだ。青木が口を切った。

「ぼくたち、シナリオのための取材から始めていたけど、手順としては正解だったよね。ビデオ制作講座でも同じように言ってたし。制作目的は、戦争と平和。〈戦争――再びくりかえさないために〉というタイトルで、戦争中の若者に焦点を当てる。じゃ、まず……」

 青木がノートを開く。講座でメモしてきた通りにやりたいらしい。

「ねえ、タイトルのバックを最初に決めない」

 眞弓が言いだした。青木は、

「構成からいきたいけど。シナリオ書くのが大事だから」

 すぐ、原がはしゃぐ。

「うわっはぁ。じゃ、ぼくもシナリオ・ライターね」

「シナリオ・ライターってことば和製英語らしいよ。シナリストって英語がある。ま、いいでしょう。何かタイトルバックに考えのある人」

 首をかしげていたさやかが、言った。

「炎はどうかしら。燃えさかる炎の中へ〈戦争――再びくりかえさないために〉のタイトルを浮かばせるの」

「じゃラストは、水にしたらどうだろう。きれいな流れでも、静かな湖水でもいいし」

 さやかの発言で浮かんだ、哲夫の発想だった。

「それでいこうや」

 原がすぐに賛成の声をあげ、青木が同意した。眞弓もそれでいいらしい。

「よかった。あたしって、表紙がまず気になるたちなのよね」

 そこで五人は、何とはなしに笑ってしまう。こんな具合に部会は進んだ。

 構成は、炎のタイトルからの続き具合もあって、東京大空襲を最初にと、意見があった。

 川瀬さんの語りに、当時の写真をところどころ入れる。川瀬さんが出演してくれなかったら、写真や遺品を撮りながら、さやかのナレーションを流す、の二段がまえにすることにした。

「零式戦闘機の話は、きっとおじさん、登場してくれるよ。よぶんの命を生きてるんだから、役に立つことなら何でもするって言ってくれたから」

 原の言葉に、青木と眞弓が、「よかったね」と合づちを打った。

「ここへ、さやかがおじいさんから聞いた、シンガポールでの日本軍の残虐をいれよう。写真もぼく、二枚みつけたから」

 そう言って哲夫が出した写真を、全員がみつめながら、うなずいた。先輩が置いていった写真は、まだ場所が確定しない。

 次は、学徒兵。BC級戦犯にかかわること。これも哲夫が、図書館で見た写真集『学徒出陣』を買ってきたのを見せながら、説明した。

「学徒出陣って言葉、聞いたことあるでしょう。戦争中、戦いの手をのばした日本では、兵隊が不足してね、勉強中の大学生を兵隊にしたんだ」

「希望者、多かったんか」

 原が聞いた。

「いや、国の命令なんだ。昭和十八年の秋には、文系の大学生が出陣したんだ。当然、敗戦後は、学徒兵の戦犯もでた。学徒兵でBC級戦犯。これはぼくのおじさんのことなんだ。

いまつっこんでしらべている。銃殺刑になったらしい。おじさんの妹に当たる母は、ずっとかくしていたし、ぼくもまだ、この企画は、母に打ちあけていない」

 さいごにそう言うと、四人はしんこくな顔になって無言のままだ。

「つらいだろうけど、頑張ってな」

 やがて青木が、静かに言った。昔の、戦争中の資料を見せ合って話していると、近代的なマンションの一室が、いや、窓外の現実が、びゅんびゅんと音を立てて、戦争中の昔へ逆もどりしていく感覚があった。

 そのとき電話のベルが鳴った。受話器を取った原が、さやかを呼ぶ。

「さやかさーん。お母上さまから電話だよ」

「あら、何かしら」

 不審そうに受話器を当てたさやかの耳へ、母の急いだ口調がとびこんできた。

「あ、さやかちゃん。さっき由香さんから電話があったの。ほら、あなたがシンガポールの話をしてもらったおじいさんの孫の由香さん。今日のうちに、ぜひ会いたいって。亡くなったおじいさんのことらしいから、ビデオ研究会のこと話したら、そちらへうかがいたいって。それで青木君のお宅をお教えしたけれど、よかったかしら」

「よかったかしらって、もう教えちゃったんじゃ、みんなに聞けないわ」

「あっ、ごめん。それも四十分ぐらい前のことなのよ、それから電話がひっきりなしに鳴っててね。れんらくするの遅れたの。由香さん、もう着くかもしれないわ」

 思いがけないさやかの母からの電話だった。さやかは、以前、おじいさんと話しているときに、紅茶をだしてくれた由香の、浅黒い肌と、チャーミングな目を思い浮かべた。

 おじいさんの、シンガポールで日本軍が残忍な行いをした話は、前もってさやかと哲夫が部員に伝えてある。今のところ掘り下げようがないので、亡くなったおじいさんの話として、そのままビデオに入れる手はずだった。さやかが由香のきたことを告げると、中三の女子と知っている皆は、新しい仲間を迎える気になって、由香をまった。

 だから、四、五分して由香がドアを開けたときは、全員が立ち上ってむかえた。黒の半袖ワンピースの由香は、青木がすすめたコーラをひと息にのみほすと、むぞうさに額の汗をぬぐった。

 さやかが部員たちを、紹介した。

「こちら原くんに本田眞弓さん。部長の青木くん、田宮くん」

「哲夫さんね」

 由香が、哲夫に笑いかけたのが、さやかは気になってしかたなかった。哲夫さんという呼びかけは、二人でいるときに、さやかが呼ぶ名だった。それに、

 ――おじいさんの話を聞いたときに、ビデオ制作のコンビだといって彼の名を言っただけだったのに、ちゃんと覚えてる……。

 一年上だけなのに、さやかには由香がひどく大人にみえた。黒い服もよくにあっているし……。

「突然うかがいましたが、今日、祖父の五十日祭だったのです。祖父はだいぶ前からクリスチャンでしたから。さやかさんと哲夫さんがご存知の祖父の戦争中の……」

「田宮くんだけじゃなく、あたし、みんなに話しました」

「あ、それなら話が早いわ。あなたにお話した日に、祖父が書いたものが今日でてきたの。これね、哲夫さん、どう思う?」

 由香は、こんどははっきり哲夫にだけ話しかけていた。目をみはり、思い切り首をかしげるので、長い髪が、哲夫の肩にかかった。

「あとで田宮くんと、みんなとで、検討します。ありがとうございましたっ」

 さすがに部員たちは、さやかがいつもとちがうのに気づいた。とくに原と眞弓は、由香が言う「哲夫」を「田宮」に、そのたびにさやかが懸命に言いかえていることにも。

「田宮くんのテーマの、BC級戦犯とも重なるかもしれません」

「田宮くんを中心に、研究させてもらいます」

 原と眞弓は、田宮、田宮とフォローした。

「じゃあ。用はそれだけですから」

 由香はさっと立ち上がると、気に入ったらしい哲夫に、ほほえみかけて帰っていった。さっと緊張がとける。部員たちは、かたぶつで通る青木までが、ほほをまっかにして頑張っているさやかを、かわいいと思った。

 哲夫は、さやかの自分への気持が、清々しく胸に流れこんでくる想いがした。

 ――哲朗おじさんの手記にあった万葉の歌、〈萌え出ずる春になりにけるかも〉って、こんな喜びの気持を歌ったんだろうか……。

「読んでみよう」

 青木の声で、さやかが白い封筒を開けた。手紙は短かった。

 私が話したことは事実です。私は逃げも隠れもせず、自分のやったことを恐ろしいと思い天地にひれ伏して謝しても、許されることはないと思い居ります。

 ただ、あなた方が〈戦争――再びくりかえさないために〉というビデオ作品を作ると言われるので、ぜひとも伝えていただきたいことがあります。われわれは、もとから残酷な悪魔だったのではありません。

 命令という、軍隊においてはそむけないもの、そむけば精神的にも肉体も殺されてしまうものに、従わされた上のことでした。

 これは言い訳ではない。たまらなく口惜しいことであります。

 さやかは、やさしくて純朴だったおじいさんの日常を思いだして身ぶるいをした。戦争がもたらす、救いがたい残酷さが、せまってくる。青木や原、眞弓も、それぞれに、自分たちが足を踏みこんでいることが、重大なことだという思いに、揺り動かされていた。

 哲夫は思った、どうしても、振り返って伝えなくちゃならないことってあるんだ。おもしろくないとか、知りたくないと言っている連中にも伝えたい――哲夫は、武者ぶるいするほど、この企画へ熱中していく自分を感じていた。

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まぼろしの月夜野

 ビデオ撮影の第一回は、八月三日。青木のマンションに全員集まって始めることに決めた。後は、出張収録だ。矢島さんも、

「いまとなっては、田宮少尉の供養のために大いに語りたい」

と、言ってくれた。まちがいなく迫力あるビデオになるだろう。

 ただ、凛としたおじさんに漂う、暗くさびしい影を見極めないまま一週間後の撮影に入りたくない……。

 思いあまって空を見上げた哲夫は、白雲がゆうゆうと一つ流れているのにであった。とたんに、あわただしさですっかり忘れていた、山口華楊展を思いだした。

 見にいこう。夏休みって何て自由なんだろう。行きたいと思えば展覧会へも、すぐに行ける。

 すっと光が射しこんできた気分で、哲夫は美術館へ急いだ。

 アカシヤの樹にかこまれた町の美術館は、夏の強い日差しもさえぎられて、すずしげに建っていた。アカシヤの葉が風にゆれ、ちらちらうすみどりのかげをつくっている。

 閉館も近くなった展覧会場は、人影もまばらだった。第一室から見てまわる。

 絵の中に、柿の木があり、柳がなびき、椿が一面に花を咲かせている。

 日本画に多い植物の絵だが「木精」という老木の根を描いた絵はすごかった。うねうねとからみ合う根は、木というより動物のようだった。

 いつまでも観ていたかったが、時間がないので次の部屋へ移った。

 ここには、馬や犬や、鹿などの動物たちが、つぶらな目をして並んでいて、とても心がなごんだ。

 展示室の中ほどまで進むと、「月夜野」と題された絵に吸いつけられるように哲夫は立ち止まった。草むらに、やさしい姿をしたキツネが三匹すわっている。

 画面いちめんにひろがる緑の背景にこまかく散っている紅色は、咲き始めた萩の花か、黄色は蛍か。しぜんに心が誘われていくようだ。

 画面には月の淡い光が充ちていて、なだらかな肩をしたキツネたちを浮きあがらせている。すらりと足を並べた、うす茶色のキツネたち。まっ白な胸毛。

 哲夫がみつめていると、草むらが、ずっと奥まで続いているように見え、ゆらゆら透明にゆれた。両端のキツネがゆらいで消え、中央に白いブラウスの少女が一人、座っている。

 うす茶のジャンパースカートを着た長い髪の少女は、あどけない笑顔を哲夫に見せた。

 ――あ、どこかで、いつか見た光景……。

 一歩ふみ出すと、哲夫はもう草むらにいた。しめった心地よい冷気が、まわりにあって、いちめん紅色の萩の花が、なだれ咲いている。

 もう少女の姿はなく、ただ月の光に照らされて、人が座ったかたちに、草がねていた。

 ――これは……。

 母さんが、哲夫に見せたおじさんの手記にある月夜野ではないか。このとき母は、哲夫が疑いを持つなど思いもせずに、手記を読ませてくれたのだろう。

 ――冴子という名前だった。哲朗おじさんの好きなひと。

 花野の中に呆然と立っていた哲夫は、うしろに視線を感じてふりむいた。

 兵士、いや、サーベルを下げているから士官というのだろうか。背の高い人が、こちらを見ている。

 どこかで見たことがある顔だ。見覚えがある……とおもったのは、哲夫自身に似ていたのだ。哲夫より眉が濃くて、ずっと凛々しいまなざしだけれど。

「じゃ、哲朗おじさん?」

 思わず声にでた。にこりとしたその人は、鮮やかな手つきで、右手をひたいの右横へあてて、軍隊の挨拶をしてくれた。

「おじさん、いま、冴子さんに会えたんじゃないですか」

「ああ、一瞬だったが。美しかった。花の精のように清らかで」

 おじさんは、ひたむきな目をして言った。ひとを一心に思いつめる目を、哲夫は始めて見た気がする。それは、心が洗われるようなここちよさだった。が、次の瞬間、哲夫はおじさんを質問ぜめにしてしまった。

「哲朗おじさん。月夜野の手記は、母に、母って田宮道子に、見せてもらいました。ぼくは、その息子の哲夫です。おじさんの哲の字を母は、ぼくの名につけたんです……。けどそれ以外の昭和二十一年三月の遺書は、ぼく、勝手に読んでしまいました。ごめんなさい。りっぱな手紙で、ぼくも感激したんですが、あれぜんぶほんとうの気持ですか」

「ほんとうだよ、ぜんぶそこに書いたことは本当だ。しかし……」

「ぼく、矢島さんっていう哲朗おじさんの部下の人からも、たくさん、話を聞いたんです。〈戦争――再びくりかえさないために〉のビデオを作るために……。とてもおじさんのこと尊敬していました。捕虜たちにも優しくて、同輩からも慕われていたって。田宮さんほどの平和主義者はいなかったって」

「いや、ぼくは運よく人を殺さないで済んだけれど、戦いはそれを拒否できない場なんだよ。

 戦争では、加害者になり、同時に被害者にもなるんだからね。

 戦いによって解決できるものは何もない。ことに戦いに勝った国は、解決したと思いこみがちだけれど、それは一時の幻想なんだ。虚しいものだよ」

 静かなおじさんの声には、沈んだひびきがあった。

「それでですか。おじさん」

哲夫は、心にわだかまり続けていたものをいっ気にはき出す思いで、口ずさんだ。

「月夜野に釈迦も父母もおわしまさず」

 その時の哲朗おじさんのショックは、痛ましかった。がっくりとひざをついたおじさんの顔が、苦痛にゆがんだ。切れぎれの声が、ほとばしるように聞こえてくる。

「たのむ、哲夫くんといったね。ほかのわたしの手記を探しだして読んでほしい。矢島は道子に、それも渡しているはずだから。

 めめしいと思われるかも知れない、批判もあるだろう。私のその手記は。しかし、ぎりぎりの命の淵に立った人間のありのままの姿を世にさらすことを、わたしはいま、とても望んでいる。

 戦いの流れに巻きこまれてしまうと、一人の人間の一度だけの生がどうなるかを。これは真実の声だ。

 つぎの世代の者のために、祖国の人々のために、喜んで死をむかえたのも、本当のことだが。そして、戦争になってしまったのは、ぼくたち大人、みんなの責任といえるのだが……」

 言い終ると、おじさんの姿はぼうとかすんで消えていった。一人になった哲夫の前を萩の花が咲くいちめんの草むらが遠のいていく。

 足の下のやわらかい草が、固い感触に変ったとき、哲夫はわれにかえった。目の前は華楊の「月夜野」の絵だ。

 陽光が長くのびてきて画面中央のキツネの目が、うるんで光った。

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大空へ、命いっぱいに

 おじさんに頼まれたことは、哲夫が望んでいることだった。それなのに、哲朗おじさんの手記は、なかなかさがしだせなかった。

 ――仏壇の下でも、本棚でもない。戸棚の引出しも見たし……。

 今日、七月二十七日は、隅田川の花火だ。夜には、さやかと見に行く約束をしてしまっている。早く見つけたい。

 哲夫は、救いを求めるように、月夜野で見たおじさんの幻を、思い浮かべた。濃い眉で、凛としたまなざしだけれど、どこか哲夫に似た顔のおじさん。そのとき、ひらめいた。

「あ、アルバム」

 古いアルバムなどは、押入れの上に作られた、天ぶくろに入っている。とっさに哲夫は押入れを開け、中の棚にのぼりついて、天ぶくろを開けてのぞいた。

 いくつもの箱がつめこんである後に、古いアルバムが、束になっていた。哲夫は結び目をにぎって、飛び降りた。アルバムといっしょに転げたが、夢中で起き上がって表紙を開いた。

 一冊目、二冊目におじさんはいなかった。三冊目は、最初からでなく、しぜんに開きやすい所を開いてみた。

「哲朗おじさんだ! あの時とそっくり」

 軍服に、サーベルを左手で軽く押さえたポーズで、おじさんが立っている。セピア色になった大きな写真は、四隅を黒いコーナーで止めた昔風のもの。それが異常にふくらんでいる。

 写真の裏側からは、四つにたたんだ、あのばらばらにした手記が、何枚かでてきた。

 哲夫は、アルバムにある……と思ったものの、こんな子どもっぽいやり方で手記をかくしている母が、ふといじらしくなる。

「これだけは、人に見られたくない」とがんばっている、むかしの小さいみっちゃんのようだ。折り目のやけた、破れそうな紙を静かに開いて、細かく書かれた文字を哲夫は読んだ。

 戦犯としてここラバウルの獄中にあると、さまざまの思いがわく。

 まず、戦犯裁判とは、戦勝国が、敗戦国側を、戦争犯罪人として処刑する行事だ、ということだ。この内容は、とても裁判とはいいがたい。

 次に、われ等戦犯は、捕虜の取り扱いに関して裁かれているが、軍隊組織においては絶対である「命令」によって動かされていたことが忘れられている。

 これは、戦犯の誰もが不満足に思うところだろう。

「俘虜を不健康または危険なる労働に使役すべからず」のジュネーブ条約をわれわれは知らされていなかったが、わたしの身辺の者に、この条約に違反する行いはなかった。

 また、現地の民間人が自分の身を守るために、苦し紛れに発した虚言を唯一の証拠に、死刑を宣告するのも愚かなことだ。

 特に〈人道に反した〉とされることは、無念だ。極めたかった学問を捨ててきた身だが、学徒兵としての矜持は常にあった。

 しかし、思う。戦いへの疑問に悩みながら、次代の明るさを信じて散っていった友、自分と友の差は偶然でしかなかったが、なお、生き残ったという責めは消えぬ。

 友のもとへ、と思うことは大きな安堵だ。

「ああ」

 哲夫は、声をあげた。BC級戦犯のことがいくらかわかったいまでは、哲朗おじさんの書き残したことがよくわかる。短い五百字くらいの文なのに、戦犯裁判の現実が浮きぼりにされている。

 それにしても、これには、戦犯、ラバウルの獄中、と最初にはっきりかいてあるではないか……。心せいて次の紙を開く。

 汽笛が鳴る。

 港に停泊している船か。続いて爆竹の音が十数回。椰子の樹々をこえてひびいてくる。花火の打ち上げ音に似ている。

 ぼくは、夢うつつに大川の川開きを思った。花火の打ち上げ音がひびき、夜空に開く光の花。

 川面にゆれる光彩。屋形船のきしみ。華やかな打ち上げは多かったが、ぼくは、小粒の紅色が散る萩の花のような花火が好きだった。萩の花は、あのひとを思わせるからだろうか。

 人間の成すことの美しさ、はかなさ、また恐ろしさ。

 ――おじさんも、大川の花火のことを……。そうだ。おじさんも、ぼくも、同じ所で生まれて、育ったんだ、時代をへだてて。もしぼくがおじさんの時代に生まれていたら……。

 哲夫は思った。

 だが数々のできごとの後で、哲夫に身近な隅田川――大川の花火のことを書いた手記に出会って、哲夫は何だか、哲朗おじさんと自分が、どこかで一体化するなつかしさを感じていた。その想いのままに次の紙を開いた。

 とたんに、あの三句が目にとびこんできた。

 月夜野へ愛憎負いて歩み入る

 月夜野に釈迦も父母もおわしまさず

 月夜野に冴子出で来よ我へ来よ

 前に見た小さな紙切れは、思いついたままにメモしたもので、それをこの手記へ書きうつしたのだろう。次に書かれた文字は、しょうげき的なものだった。

 この心乱れを正直に記そう。

 矢もたても堪らず、父母に、道子に、逢いたいことを!

 二十余年の歳月、親しんできた肉親とのあれこれが去来して堪らない。

 そして冴子! ぼくの短い生涯を豊かに充たしてくれた冴子、ありがとう。しかし、逢いたい!

 この想いをもてあまし、狭い獄内を駆けまわり、逆立ちをした。堪らない。床を手で打つ。号泣しばし。

 人、これを、死を恐れての狂態と見るなかれ。死への覚悟は出来ている。りっぱに死んでいこう。ただ、大洋をへだてて遠く在す父母が、あのひとが恋しい!

 ――かかる結果を招きし「戦争が起こりしこと」は吾等の咎なり。再び繰り返さぬため、冷静に考うるに、「万人が基本的な個人の権利を守ることに敏感になり、自分の心を管理されぬ強さをもつこと」につきると思う。日本のかたがたに、愛する祖国の再建を願う。

 明後日、昭和二十一年三月二十五日。

           ラバウル刑場において、海軍少尉、田宮哲朗

                   戦犯として死刑確定。享年二十四才。

 おとうさん、おかあさんお達者で。ああ、もう一度、おかあさんのやさしい手に、抱かれたい。おかあさん!

 紙片の文字は、そこで終っていた。哲夫は、体がこきざみにふるえだすのを、止められなかった。

 目を閉じると、碧い空と海が見えてくる。珊瑚礁のひろがり。椰子の樹。鉄格子。

 哲朗おじさん、いや、若い大学生、いつかテレビで見た学徒兵の中の一人と同じ、哲朗さん。

 哲朗さんの絶叫、逢いたい! 戦争が起こりしことは吾等の咎なり!

 銃殺……。

 ズドドーン ドドーン

 突然ひびいた爆発音は、銃声ではなかった。花火開始の打ち上げの音。外はいつか夕闇だった。いつの間にか、さやかとの約束の時刻になっていたのだった。

 哲夫は、戸締りもそこそこに、家を飛び出した。しもたやが続いてから、明るい商店街へ出た。

 走っている哲夫に、手記の興奮はそのままついてきた。さやかと約束したあずま橋は、まだ遠い。が、まず川へ出て川沿いに走っているので、花火が見渡せた。

 シュルル、銀色の火柱が闇をのぼり、体中にひびく音と共に、花火がさっと開くと、つめかけた人々が、どよめく。

 オレンジに、紅に、青に、光の花が開いては散る夜空。哲夫は、思わず立ち止まって空を仰いだ。同じ火薬が、人殺しの爆弾になり、こんなに美しい花火にもなる。

 カメラでのぞくと、遠近感がちがって見えるように、時を越えて、大学生の哲朗さんの目で花火を眺めている気が、ふと、哲夫にはした。

 ついいま読んだおじさんの手記にも、書きとめられていた、この大川の花火。

 ――はかなくて、美しくて、恐ろしい人間の成すこと、と哲朗おじさんは書いた。一度しか生きられない人生を、どんなに思うまま生きたかったろう。それが戦争のために哲朗さんは……。

 考えるうちに哲夫は、どうあっても戦争を起こしてはいけないのだ、と強く思った。

 ズシーン バリリリン

 真上で開く花火のさく裂音は、生きているあかしのように、心をわき立たせる。

 ――そうだ。いま作っている〈戦争――再びくりかえさないために〉のビデオを、いいものに完成させよう。おじさんの手記にも、この言葉があったから、遺言と思ってもいい。戦争を起こさない方法も、手記をちゃんと理解すれば、わかるかもしれない。

 哲夫がそう思ったとき、さやかが人波の間から現れた。花柄の浴衣姿が、かわいい。

 哲朗さんが、月夜野の手記で、萩の花になぞらえた冴子への想いを、ふと自分のことに重ねて、哲夫は、どきりとした。

 ――生きよう! 命いっぱいに。

 闇が深まった空に高く、紅色の花火が開いた。夜空一面に咲く、天空の萩の花の群れ。

 花火明りに、ほおを輝かせた、さやかが、手をふっている。

 さやかは、いきいきと哲夫に近よってきた。

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あとがき

 私たちの国が、そのとき生きていた人々が、体験した戦争の残虐・悲惨・不条理を、一つの象徴的な物語にまとめました。ある人物にまつわる物語ではありません。長い間、多くの書物や資料を読み、自分自身の中に醸成させ、紡ぎだした物語です。巻末に記した参考文献は、そこに記された事実を参考にさせていただいた三冊です。

 戦いの日々を読んで、物語に同化させていく作業は辛く、終りにしてしまいたいと思うこともありました。でも、そんな私を奮い立たせたのは、戦時中、十代半ばの私が涙を浮かべて眺めた、学徒兵の出征風景でした。

 戦争を当然のことと教え込まれてきた子どもが、理屈でなく感性で、痛ましいと捉えた真実を軸に、書きあげました。

 日本が戦争のさなかにあったのは、遠い日のことと言えます。けれど、かつて、西ドイツのワイツゼッカー大統領の感動を呼んだ演説を、思い起こします。

 自らの歴史と取り組もうとしない人は、自分の現在の立場、なぜそこにいるのかが理解できません。過去を否定する人は、過去を繰り返す危険を冒しているのです。

 世界のそこここで戦争の悲惨は絶えないのに、戦争の教訓が風化しかけている日本の恐ろしさ。今、戦争の芽生えへの危機感を、心ある人たちは、集まれば口にするようになっています。

 ただ一度の生を全うするには、戦争の無い世界でなければなりません。そして、児童文学は、私たちみんなの〈全けき生〉を守るためにも、灯を掲げてきたはずです。

 私は戦時下の子どもでした。当時の小学校では、国語の時間に戦地の兵隊さんへ慰問文を子どもたちに書かせました。そして、学校を通じて受け取る兵隊さんからの返事の手紙が、とび抜けて多かった私は無邪気に喜んだものです。

 そのとき、母に言われました。

「それは、あなたの名前のせいです。和代(本名)は、平和な御代を想わせます。それで戦っている兵隊さんは、返事を書きたくなるのよ」

 戦意昂揚一色の中に生きた、市井の一人の主婦に過ぎない母、初子の言葉も、私の芯の一つです。

 二十世紀最後の年に《慰問文に励んだ幼い戦争協力者でもあった》私の、二十一世紀へ差し出す平和への祈りが、この作品です。

 いま強く想うことがあります。四年前の大病の時、挫けそうな私をおどろくほど大勢の児童文学に係わる方々が励ましてくださり、この世界に生きる喜びで私は立ち直れました。御礼の心を込めて皆さまへこの作をデジケートいたします。

 また、中華人民共和国、北京在住の郭健生氏は、再発予防食を送り続けてくださり、隣国からの友情を有難くお受けしております。

 口絵に、小さくしか掲げられませんが、私の大好きな山口華楊画『月夜野』を収めることができました。私の作品が清められる想いです。

 この素晴らしい絵を味わっていただけましたでしょうか。山口画伯の著作権継承者、山口和子さんそして、山口さんから絵の所蔵者にもご連絡いただき、お二人から快くご承諾いただきました。感謝しております。

 原稿を読まれて「こういう作品に出会ったことがない。ぜひ描かせて」渾身の画を描いてくださった、戦争を知らない世代の広野多珂子さん。長い間、励ましと助言をくださった畏友、阿部正子さん、相田美沙子さん。この作品の出版にご尽力いただいた北川幸比古先生。国土社の丹羽直博さん。皆さまに、心からお礼申し上げます。

 終りに、お若い頃から反戦平和の信念を見事に表現し続けておいでの、すべての面で尊敬する松谷みよ子先生に、推薦していただけた幸せをかみしめております。

二〇〇〇年四月

森下真理

《参考文献》

茶本繁正『獄中紙すがも新聞』晩聲社、一九八〇年

茶園義男『BC級戦犯・チャンギー絞首台』紀尾井書房、一九八三年

茶園義男『BC級戦犯・豪軍ラバウル裁判資料』不二出版、一九九〇年

(推薦文)

 気がついたら周囲に深くカーテンが垂れこめ、その奥からモンスターのうめきが聞こえてくる。

 そんなとき、一枚、また一枚、カーテンをかかげて踏み入る勇気がありますか。

 哲夫とさやかには勇気がありました。カーテンの奥へ歩み入ったとき、おそろしい秘密と出会います。BC級戦犯という名の殺戮を。

 いままで日本の児童文学が採り上げたことのない、戦争というモンスターの側面をえぐり出し、なのにファンタジックで悲しみに満ちた作品として完成させた、森下真理さんに御礼を申し上げたいのです。

 ――松谷みよ子