熊谷次郎直実八百回忌の舞台上演
源平合戦で勇名を馳せた武将、熊谷次郎直実(一一四一~一二〇八)をご存じでしょうか? 熊谷直実は一ノ谷合戦で一六歳の平敦盛を討ち取ります。自分の息子と同年の若き命を奪ったことで直実は武士の無情を感じ、出家を決意しました。
歌舞伎「一谷嫩軍記」で、熊谷直実は源義経にこう告げます。
「我は心も墨染めに 黒谷の法然を師とたのみ教えをうけん いざさらば」
それから八百年が経ち、私は不思議なご縁を得ることになります。そのきっかけは京都東山の「黒谷」こと浄土宗大本山・金戒光明寺(左京区)からの電話でした。金戒光明寺の拝観チラシに、印刷の誤植で私の電話番号を載せてしまったとのお電話があり、家に来られました。チラシを拝見すると「熊谷直実鎧かけの松」という文字が目に留まり、私が熊谷直実の末裔だと名乗ると、お寺の方々は驚かれ、黒谷には直実の住房として知られる熊谷堂(蓮池院)があるとおっしゃいました。
私の主宰する市民参加型ミュージカルを京都府立文化芸術会館で公演する直前の出来事でした。舞台を終えた晩秋、私は熊谷堂を訪れます。お堂に足を踏み入れた瞬間、私は強烈な香りと圧力を感じ、体が震えました。
先祖の存在を身近に感じた私は、折に触れて熊谷堂を訪れ、直実の史実を調べ、「熊谷直実・蓮生法師一代記」(総本山光明寺遠忌執行本部発行)を書きました。そして熊谷蓮生が開基である長岡京市の西山浄土宗総本山光明寺の方から連絡があり、熊谷直実・蓮生八百回忌大法要での舞台上演が決まりました。
末裔として直実の心を演じる
熊谷直実八百回忌大法要の舞台、いったい何をすればいいのだろう、と思案する日々、不思議な夢を見ました。亡き父が書をたしなんでいる夢です。私が質問をし、父が筆を止めて答えています。「自分には音楽がある。伝えたいことがある」と目が覚めました。
舞台は歌物語「わが本願のあらん限り」と題し、熊谷直実の史実に沿って構成、お話とピアノ弾き語りを一人で演じます。プロローグはお坊さま八名による声明、ラストは私とお坊さま全員での合唱になりました。一ノ谷合戦で直実が平敦盛を組み敷く場面。出家して蓮生となり、敦盛や合戦で亡くなった武士たちの菩提を弔うため、私財を投げ打って粟生光明寺や法然寺、美作誕生寺など、寺院を建立する姿。念仏三昧の日々を経て、人々の見守る中での予告往生。光明寺本堂や周りの自然も意識して、一体感を大事にしました。
二〇〇七年、熊谷直実八百回忌をきっかけに音楽を交えた講演活動が始まりました。日本各地を訪れて思ったのは、自分の生まれ育った環境を大切にすること。講演の中で、「ふるさと」の替え歌を皆さんと考え、「ご当地バージョン・ふるさと」を合唱します。足を運んで出会える笑顔こそ大切だ、と思うのです。
「先祖が歴史上の人物で少し不思議な体験をした」人はそう思うかもしれません。私自身、先祖に恥ずかしくないようにまっすぐ生きたい、と思っています。
市民参加型ミュージカルの魅力
私はKyoto演劇フェスティバルの委員をしていた時に、劇作家の右来左往氏と市民参加型のミュージカルを作ったのがきっかけで、一九九七年マイミュージカルカンパニーを結成しました。地球温暖化防止京都会議の啓発ミュージカルを京都府立府民ホールで上演。企画・脚本・音楽・演出・主演、そして資金のことまですべて手作りです。
全部自分でプロデュースするのは大変ですけれど、出演者・スタッフが一致団結して作り上げる舞台は、私のまいた種がすくすく育ち、大輪の花をさかせる表現の園です。環境・命・未来をテーマにした創作ミュージカル。出演者は、二十名から三十名。年齢・経験の有無を問わない市民参加型で、やる気があれば誰でもOKです。親子出演や外国籍の方、さまざまな年代が集まり舞台を作っていきます。稽古は一人ひとりが人間関係の大切さを感じ、協力して問題解決の力をつける場でもあります。公演ごとに一般公募し、みんなで築いていく舞台作品。深刻なテーマでも、ミュージカルという手段で音楽の魔法にかかったような公演にできるのです。
明治維新の京都
明治維新の頃、岩倉具視から御所への献金を命じられ奔走した京の町衆がいました。鳩居堂七代目当主、熊谷直孝(一八一七~一八七五)です。
彼の功績として有名なのは、日本最初の小学校を作ったことです。私はその玄孫にあたり、生まれてきたら偶然そうだっただけで、私の努力・才能ではありません。けれどこれも何かのご縁だと思い、鳩居堂熊谷家文書を研究しています。古文書を紐解いて浮かび上がるのは、町衆が京の文化・歴史を動かしている光景です。
鳩居堂の始まりは、江戸時代にさかのぼります。熊谷直実の二十代末裔である熊谷直心(一六三九~一七三一)が、一六六三(寛文三)年、京都寺町に鳩居堂を創立しました。
そんな歴史のお話をしていると、「鳩居堂熊谷家には、代々の家訓はあるのですか」と訊かれることがあります。熊谷家の家訓というものではありませんが、鎌倉時代初期に、熊谷直実・蓮生が子々孫々への置文、遺言を書いております。直実自筆と認められたもので、埼玉県熊谷市熊谷寺に現存し、私は熊谷寺を訪れ、じかに読むことができました。
『至子孫々能々可令存知旨
一、先祖相傳所領案堵御判形七ツ井保元々年以来壱建久年中軍忠御感状廿一有之
一、対主君不可成逆儀井武道可守事
一、上人御自筆御理寫弁迎接曼荼羅可成信心事
右参ヶ條之外依其身器量可覚悟者也、仍置状如件
建久六年二月九日 蓮生(花押)』
大意を記しますと、子々孫々までよくよく承知しておくべきこととして、一条目には、相伝の所領や保元の乱以来の感状(表彰状)が二十一あることを記し、二条目には主君に対して武家の忠節を守るべきこと、第三条にはとくに法然上人から授かった自筆の書状や迎接曼荼羅に信心のことを忘れず、子孫それぞれの才覚によってこの三ヵ条を銘記するよう勧めています。
私はこの書を拝見したとき、八百年を超えて存在する置文に感動し、自然に涙が溢れてきたことを覚えています。
四代目当主・熊谷直恭・蓮心
ところで、なぜ熊谷直孝が日本最初の小学校を作ることができたのか。それは直孝の父、熊谷直恭(一七八三~一八五九)の布石があってのことでした。
熊谷直恭は、鳩居堂四代目当主、法名蓮心。蓮心自筆の「施行の日記」(「熊谷家文書」)には、天保飢饉の惨状が綴られています。その時、直恭は村の共同性を力に、地域リーダーとして役割分担しながら救済を進めました。官許を得て三条大橋の河原に自費で数棟のお救い小屋を造り、飢えた人々に粥を与え、病人に医療を施し、住まわせました。内務省の史料に救済者の数は千五百人、期間は十五ヵ月に及んだと出ています。
一八四四(弘化元)年長崎に種痘の痘苗がオランダから渡来したと知ると、直恭はいち早く人を派遣して医師のもとで学ばせます。一八四九(嘉永二)年痘苗を持ち帰らせると、三人の京都の医師と相談して、寺町姉小路上ルの持家にわが国最初の種痘所・有信堂を開設しました。種痘所は無料で、嫌がる子どもたちには菓子を与えて種痘を施したそうです。
三人の医師は楢林栄建、小石仲蔵、江馬榴園の諸家。楢林、小石両家とも後のご子弟は、明治、大正、昭和にかけて京都一中に学ばれて医家を継がれ、江馬家の江馬務氏(京都一中明治三六年卒)は著名な風俗史家(日本風俗史学会長)となられました。
京の夏の風物詩で知られる大文字の送り火が、天明の飢饉後の財政難で中止されたとき、地元浄土寺村の代表者と語り合い、費用を負担して復興させています。また、鳩居堂が取り扱う筆毛に、馬や鹿、兎、狸などの毛を用いることから、動物に感謝せねばならぬと、比叡山の山中越えや山科、草津などに道中の牛馬のため水や飼葉を与える関をつくる、などしたのも熊谷直恭でした。
一八五五(安政六)年京都にコレラが流行った時、直恭はまず患者の隔離場所を設けねば、と先の有信堂を拡張してそれに充てたが足りず、のちの京都ホテルオークラ東側にあたる一之舟入町の私有地に「病人世話場」を造るなどする中、自分自身がコレラに感染して、同年九月六日七七歳の生涯を終えました。
七代目当主・熊谷直孝
熊谷直恭の長男熊谷直孝(一八一七~一八七五)は父に輪をかけた活動家で、幕末から明治維新にかけての京都で、勤皇の志士を匿ったり、一八六三(文久三)年八月の三条実美らの七卿落ちの手助けなど、国事に尽力します。
直孝は豪毅豁達、父直恭の思想信条を受け継ぎ、いよいよ大政奉還と決まった時、明治天皇の京都御所が打ち続く出費にお手許不如意と知るや、岩倉具視からの献金の呼びかけに応じて、そのとき店先にあった売上金の銭箱を引っ提げて御所へ馳せつけ、献納します。ところが中には六六両しか入っていなかったと知ると、工面して改めて金千両を献納しました。鳩居堂は御所のすぐそばですから、意気揚々と馳せ参じたのでしょう。このエピソードから当時の日常が窺えます。
明治開花の世となり、七代直孝は寺子屋を組織化した教育塾をつくります。当時著名な学者だった小林卓斎に委任して、子女教育を始めました。自らも教師となって読み書きを教え、妹の熊谷かうも女教師として裁縫や作法を教えました。女子教育の始まりともなったわけです。
そして、一八六八(明治元)年十二月京都府の「学校設計方法」の布告があり、直孝は大いに喜び、自ら大年寄を勤めていた上京第二七組に、それまで自分の経営していた教室を提供する決意をします。府から交付された金八百両は手をつけずに返して、東洞院通姉小路上ル東側にあった舎屋を柳馬場御池角に移設し、その地名をとって「柳池小学校」と命名し、一八六九(明治二)年四月開校しました。わが国最初の小学校であります。
直孝は鳥羽・伏見戦後の窮民救恤にも尽くし、一八七五(明治八)年五九歳で亡くなりました。長男熊谷直行が八代目当主となり、一九〇三(明治三十六)年、特旨をもって七代目熊谷直孝に贈従五位という栄冠をあたえられています。
先祖たちの夢を叶える
京都の行政・治安の混乱期に生きた熊谷直恭・直孝父子。時代を駆け抜けた鳩居堂当主たちは、薫香・書道用具の商いで得た財産を惜しみなく窮民のために投げ打ち、京都の町衆のために奔走しました。なぜそのような人生を送ることができたのか。私はその心中をさまざまに想像してみました。そうして鎌倉時代の先祖である熊谷直実・蓮生の生きざまを崇敬し、利他の心を見習ったのではないか、と思い当たりました。これからも私は彼らの軌跡を追って、その精神の拠りどころについて考えていきたいと思っています。
そして温故知新です。伝統文化が変化を遂げながら繋がり、今日に至る京都のまち。平成の世から新たな時代に向かう私達も、ジャンルを越えて人々とタッグを組み、模索していければ、と思います。
京都からの文化・宗教・芸術のインターナショナルな発信ができれば素敵なことではないでしょうか。日本文化が伝統的にもつ「相手を思いやる心」は、深い慈愛のパワーを伝えられるはずです。先祖たちが願った平和な時代を実現するのが私たちの使命ではないかと思います。手を取り合って未来を創りたい。音楽や笑顔や祈りを武器にすれば、そんな夢が夢でなくなる日が来ると信じています。