煤煙(抄)

    三十二

 

(前略)

「短刀なら、私が持つてゐますが。」

 短刀! 要吉は右の腕が痙攣するやうに覚えて、そつと自分の掌の甲を見遣つた。

「此処に?」

「直ぐ自宅うちへ帰つて取つて参ります。」

 男はやゝ躊躇ためらつた。

「是非それにして、是非――私はそれが好い」と、女は急に子供の強請ねだるやうな容子をして見せた。

「ぢや、私は何処で待つてゐませう?」

 女は腫れぼつたい眼瞼まぶたを伏せたまゝ、少時しばらく考へて、「停車場なら、田端が一番近いんですが!」

「田端に?」

 二人は落合ふ先を約束した。それから又電車に乗つて、上野山下まで来た。男は人力車をやとつて女を載せながら、

「貴方の来るまで、私が耐へさせられる苦痛を記憶おぼえてゐて下さい。」

 朋子は眼で点頭うなづいた。女の乗つた車は見る間に屏風坂の方へ走り去つた。

 それを見送つたまゝ、要吉は二たび上野の停車場へ出て汽車で田端へ来た。

 崖についた坂を上つて、道の二筋に分れる処に、一軒御休憩所おやすみどころとした家を見附けた。二階へ上つて見たが、気ならぬまゝに又その家を出た。その辺の雑木林の中へ這入はいつて、小路といふ小路を隈なく歩いた。

 午後一時になつた。前の家へ戻つて見たが、朋子は未だ来てゐない。何よりも考へるのが怖ろしいので、又引返して村の中へ這入つた。裏の菜畑の中に的を設けて、白髪の隠居と酒屋の御用聞きらしいのとが夢中になつて大弓だいきうを引いてゐた。其処にもしばらく立つて見てゐた。

 何時の間にか、空がどんよりと曇つた。一歩二歩と村を出て、われにもなく駒込へ行く道を辿つた。この辺は一体につい先頃迄田圃たんぼの中であつたが、両側に新しい借家が建つて、だんだん町を形造つて行くらしい。今も屋根に梯子を掛けて、「酒醤油卸小売所」と筆太に看板を書いてゐる男があつた。犬が二疋駈けて来て、往来の真中に咬み合つてゐたが、又向う裏の空地へ駈けて行つた。何だかこんな些細な事にも心を取られるのが自分ながら可訝をかしい。

 駒込避病院下の坂まで来て、一寸立停つたが、又徐々そろそろ上つて行つた。

 避病院の側の細い路を曲つて、板塀の尽きる所迄行つて見たが、又中途迄引返した。塀に添うて立てた往来安全の角燈の下に、長い間行き所のない人間のやうに佇んでゐた。衣嚢かくしから巻煙草を取出したが、生憎あひにく燐寸マッチがない。四辺あたりは日が暮れるやうに薄暗くなつて、霰が二つ三つ帽子の縁を掠めてはらはらと降つた。又半町ばかり歩いて、駄菓子だの草履だのを売る店の前に立つた。裏口まで見透せるやうな小さい家だが、火の気の無い火鉢の側に、六つばかりの女の児がしくしくと泣いてるばかりで、店の人は居ない。

「燐寸をお呉れ。」

 女の児は両手を離したまゝ、戸口に立つた人の顔をじろじろ眺めてゐる。

「燐寸をお呉れでないか」と、要吉はわざと微笑むやうにして言つた。

 つかつかと立つて薄汚れた手に燐寸を掴んで差出した。

幾許いくら?」

「一銭お呉んな。」

 要吉は蟇口がまぐちから銭を出して払つた。其処を去つて、富士神社の前から吉祥寺の通りへ出た。雨まじりの霰がばらばらと降つては、又小止む。

 町の角に小さい稻荷堂がある。此処を曲れば、朋子の家に一町とはない。一寸足を留めたが、顔を見知られぬを幸ひに、その家の前まで行つて見ようかと云ふやうな心持になつた。二三歩足を移した時、そこの人力車宿くるまやどからつと一人の女が出て来た。女は朋子だつた。平常着ふだんぎに紅い帯を締めて自宅の使ひにでも出たものらしい。

 朋子は男と顔を見合せたまゝ、側へ寄つて来て、「十時迄には屹度きつと出て参りますから――十時迄に。」

 何やら酷く昂奮してるやうに見える。要吉は唯黙つて点頭うなづいた。そして直にきびすを返した。女も急いで戻つて行つた。

 男を待たせて置いて、平常着に変へて平気で自宅の用をしてゐる。要吉も変に思はずにはゐられない。が、一旦家へ戻つたら、そんなに容易たやすく出られない事情もあらう。それには又家の人達に油断をさせる必要があるかも知れない。さう思ひ返して、女の言ふがままに待つことにした。

 が、それにしても――要吉の考へは再び同じ所をさまよつた。此処でし朋子に逢はなかつたら、二人の運命はう変じたらう。それは自分にも解らない。何だか此処で逢つたと云ふことだけが、二人の運命を支配してゐるやうにも思はれる。併しかうなつた上は仕方がない、仕方がない。

 十時まで――それ迄は何処かに時間を消さなければならぬ。やがて追分へ出たが、今朝出た丸山の家も程遠くない。あの家にも六年近く棲んだ。他所よそながらもう一度見て行きたいやうにも思はれる。が、それと心を決し兼ねてゐる間に、又大学の前迄来た。

「二たびこの土を踏むことはあるまい」と、そんな思ひを味ひながら、街の上に立つて見渡した。不図ふと、向うから一人高い襟をした男の遣つて来るのが眼に着く。要吉を見て、遠方からにやにや笑ひ掛けたが、通りすがりに帽子をつてお叩頭じぎをした。自分を知合と思つてゐるらしい。

 何と思つたか、要吉は青木堂へ寄つて、ウィスキイの大壜をあがなつて下げた。又三丁目へ出て、切通しの坂から池のはたの賑やかな街を抜けて、二たび上野の停車場へ着く。汽車に乗つて田端へ戻つた。

 崖の家の二階へ上つて、障子を開けると、冬枯の樹の間から八州の平野が見渡される。窓のしきゐの上に肘を突いて、暮れて行く空と野原とを見守つた。

「この日は二たび来ない。自分は取返しの出来ぬ一歩を踏み出した。」

 こんな感じが犇々ひしひしと胸に迫つた。自分はこの日を失つた。過去を失つた。總ての持てる物を抛つて、一瞬時に殉じようとしてゐる。その一瞬時は未だ来ないのに、既に總ての物を失つた。生れて、この日ほど取返し難いと思つたことはない。

 要吉はつと立上つて、薄暗くなつた部屋の中をぐるぐると廻り出した。そこへ女中が洋燈ランプを持つて来た。で、又その前に坐つたまゝ、凝乎ぢつ火影ほかげを見詰めてゐた。死刑囚が刑の執行をの苦しみはんなものか知らない。要吉は一生の間にこの一夜を経験した。

 やがて又女中が膳を持つて来た。づぶの山出女やまだしと見えて、何かと物を言ふたびに、いッいヽヽヽと身体を揺つて、殆ど声を立てないで笑ふ。それがはたの目にも苦しさうに見える。要吉は可厭いやな心持がしたので、箸を附けたまゝ、すぐに膳を下げさせた。

 又一人となつた。死の覚悟して、ひとり火影に対する人の心持はこんなものだらうか。昔から死んだ人の心理を書いたものはない。あれば皆、死なない人の書いたものだ。自分は死なない人の空想を実現しようとしてゐる。死を決したから總ての物を捨てたのぢやない。死を決するために總ての物を捨てたのだ。何を捨ててもあの女の運命について、最も重大なものを我手に握りたいと思ふ。唯この思ひに、人間に許されざることを敢てしようと決心した。この決心は飽迄あくまで動揺しない積りだ。唯、この決心が動揺しなければしない程、何ういふものか、それが不合理で、奇怪で、てんで遂げられないことのやうにも思はれた。勿論自分では、一番善い道を執つてゐる、この外に執るべき道はないと信じてゐるのに、自分の意志に反して、そんな心持が絶えず頭をもたげた。が、これ迄自分の生涯は一つとして此処へ到着する準備でないものはない。一歩々々此処へ近づいて来たのだ。今日迄の何れの日も取返されないやうに、明日も最早動かされない。運命は二人を連れて行く処迄連れて行かねば止むまい。

 が、併し――と、要吉の心は再びわれに反つた。此処迄出て来てから、なほ運命に依頼し、相手に依頼してゐる自分は、何といふ卑怯者ぞ。この上は只朋子が待遠しい。早く朋子が来て呉れれば可い――

 九時を打つた。要吉は外套をはおつて戸外そとへ出た。木下闇の暗い坂を降りて、停車場の時間を見に行つたが、十時五分に高崎行の終列車があることを見定めて戻つて来た。この家の勘定を済まして、何時でも立たれるやうにして置いて、壁に凭れたまゝ眼を閉ぢた。

 戸外の夜風が耳に附く。幾度か物音に驚いて立上つた。最後に一輌の人力車くるまの駈けて来る音がして、坂の上で停つたかと思ふと、車夫くるまやが声高に物を訊ねる声がして、車上の女の声も交つた。

 要吉が梯子段を駈け降りた時には、車夫が気立けたゝましく大戸を叩いて、女中があわてて戸を開ける所であつた。朋子は黒絨くろせるのコートを着て、せいせい息を切らしながら土間へ這入つて来た。

 二人は二階へ駈上つて、少時しばらく顔を見合せたまゝ、何とも言ふことが出来なかつた。

 朋子は終に親の家を棄てた。要吉は人の世に許されざる罪を犯した。あゝ、二人とも失はれた。

 女は男のかひなに身をゆだねたまゝ長く離れなかつた。

「ぢやア直ぐに。未だ終列車には間に合ふ。」

 朋子は点頭うなづいた。その儘二階を駆け降りて、戸外へ出たが、終列車は恰度ちやうど凄じい音を立てて停車場へ着く。二人は転ぶやうにして暗がりの坂を降りた。停車場の入口へ着いた時、死ぬ場所と云ふことがこの間際になつて急に頭へうかんだ。

「山か、海か。」

 要吉は声に力を込めて叫んだ。

「山」と女は一言答へた。

 直ぐに切符売場へ行つて、西那須野駅行の切符を二枚買つた。

 女はこの時既にブリッヂを渡つてゐた。要吉は後から走り着いた。車掌が二人を乗込ませて、はたと戸を閉めた時、汽車は動き出した。

 二人は車室の片隅に座を占めて、ほつと息を吐いた。二三の旅客は頭を擡げて此方を見遣つたが、何やらものうげに呟いて、又背後へ凭れるのも横になるのもあつた。何だか沙漠をうろついて、隊商の天幕テントの中へでも闖入ちんにふしたやうな心持である。

 汽車は武藏野へ出た。平野の暗闇をつんざいて走るので、車輪の音が一層大きく聞えた。それが遠く遠くなるかと思ふと又自分の身体の上へ突掛けるやうに大きくなる。天井から下つた薄暗い洋燈ランプの光を見詰めてゐると、汽車は前へ進むのか後へ退るのか分らない。

 その薄暗い洋燈の下に、殺す人と殺される人とは無言で相対した。女の顔は影に包まれて動かない。男は二たび殺されるものは女ぢやない、自分だと思つた。女が憎い、汽車はこの二人だけ乗せて暗闇の中へ突入つたまゝ、再び帰らないやうにも思はれる。

 やがて大宮へ着く。要吉は女を促して汽車を出た。明日の朝汽車を待つて東北へ向ふ積りである。他に行くべき場所も手段も残されないやうに、此処で降りたのは何のためか分らない。二人は停車場を出て大通りを一町ばかり行つたが何処の家も寝鎭つてゐる。唯一軒大戸を開けた家を見附けて、その二階へ上つた。

 要吉は女中が出て行くのを待兼ねたやうに、何か言出さうとして、不図ふと、女の容子に眼を留めた。女は座蒲団の上に端然きちつと坐つたまゝ、一人で考へてゐる。何を考へてゐるのか、それも解らない。が、そんな筈ぢやない、うもそんな筈ぢやない、──折角言ひ掛けたことも言ひそゝくれて少時しばらく手持無沙汰にしてゐたが、やがて、

「二人とも失はれた。今夜は再び返らない」と、独言のやうに言つて見た。

「今夜ぢやない」と、女は自分の前を見詰めたまゝ「最初お手紙を頂いた時から、私は二たび取返されないと思つてゐた。」

 要吉は思はず女の顔を見返した。何か言ひたいと思つても言ふことがない。少時して、

「お宅ぢやもう知れたらうか。」

「今夜は大丈夫でせう」と言つて、やゝ俯向き加減になつたが、「表の方から出ようとすると、一寸開けても門が鳴るやうになつてますから、裏から出たんです。夕方雨戸を自分で閉めて、わざと一枚だけ残して置いて──」

「それでお家の方の気が附かない?」

「えゝ、でも少し狭過ぎたから、それを開けるのに気がいらつて、大変でした。」

 男はうつそり女の額を見詰めた。この女の無教育な小娘らしい仕業しわざを聞くのが、訳もなく心嬉しい。

「今日途中で逢つた時は、何をして被坐いらした?」

「彼岸だもんですから牡丹餅おはぎを作らされちやつたんです。」

 それを聞くと、要吉は始めて女の家庭に面したやうな心持がして、何とも言はれなくなつた。

「一週間ばかり私の容子が変だものですから、内の者も気を附けてゐるので、わざとそんな事をしてつたのです。」

 かう言つて、少時考へてゐたが、「私はつひぞ子供なぞを抱いたことがない。それが子供にも分ると見えて、たまには抱いて遣らうと言つても、向うから嫌つて抱かれないんですが、今日は何うしたのか急に抱いて遣りたくなつて、姉の児を遊んで遣つてゐると、余り強く抱き締めたもんだから到頭泣出して仕舞つた。」

 女の話が眼の前に見える。要吉は胸をとゞろかせながら聴いてゐたが、「で、その姉さんと云ふは、んな方?」

「姉は私と違つて、母に似てひとなんです。」

「貴方には一人のお姉さんでしたね。」

「私が子供を抱いてると、姉が母の側へ行つて、私のこと、何だか平常いつものやうぢやない、彼方あつちの部屋で泣きかけてゐたと、そんな事を言つて告げるんです。それが聞えた時は──」

「その時は?」

「それだけでいのです」と、朋子は急に言葉を切つた。

 そこへ宿の男が寝床を伸べに来て、ついでに火鉢を下げようとするから、もう少し置いて行つて呉れと頼んで見たが、「へえ、もう一時を打ちましたので、階下したでも皆就寝やすみますから──それに、近頃は火の用心が悪う御座いましてな。」

 幾度頼んでも、ねつく同じ事を繰返してゐるので、うるさいから、その儘持つて行かせた。

「ね、就寝やすみませうか」と、要吉は後を見送りながら言つた。

何卒どうぞ、私はかうして居ますから」

 男は思はず女の顔を見遣つた。何と思つてそんな真似をするのか。女はかうして一身をまもらうとしてゐる。それだけなら未だ可い。このに及んでなほ自分をそんな男だと思つてゐられたら──もう取返しが附かない。が、まさかこの女にそんな事もあるまいと思ひ返して、

「えゝ、それぢや私も起きてゐませう。」

 春の宵ながら、夜深けては底冷えがして、曠野の一つ家の様に四辺あたりしんとした。二人は膝を突合せたまゝ、少時しばらく物を言はなかつた。やがて、

「あれは、あの物は持出された?」と、男の方から訊く。

 女は黙つて、左の手に懐を抑へて見せた。

「それぢや、この包みは?」

「先生からのお手紙が這入つてる。」

「最初からの?」

 女は点頭うなづく。男は微笑みながら手に取上げた。

「私、先生に済まないことをしました。」

「何を?」

「あの『死の勝利』を、日記だの、その外いろんな物を庭で焼棄てる時に、つい間違へて火の中へ抛り込んで仕舞ひましたから。」

 要吉は再び女の顔を見詰めた。

「その方が好い」とは言つたが、何うも知らずして焼いたものとは思へない。星月夜の下に、女が半身を火影に照されながら、反古ほごを焼く姿が眼にうかんだ。

「貴方は始終日記をつけてゐるのか。」

「えゝ」と、女は微かに点頭いたが、「私には本当に談話はなしの出来る友達がないから、友達と談話をする代りに日記を書く。そして三箇月位に焼いて仕舞ふんです。」

「何故?」

「その位経つと、自分が書いたもののやうな気がしないから。」

 朋子は急に黙つて仕舞つた。

 今夜家を出る前に、女は手紙と一緒に焼くつもりで、久しく捨てて置いた日記を取出した。一枚づつはぐつて行くうちに、不図、一月末の或日の下に真黒に塗消した跡を見附けて、胸をざわつかせながら、あわててその前後を読んで見た。あゝ、あの日から始まつた、あの日から──だが、こんなにして自分にさへ隠さうとした事を、何うして男の前に打明けたのか、男の手に自分の生命を委ねたのか。矢張り自分は弱かつた──左様さう思ふと堪らない。男に対する女の憎悪はいよいよ容赦がなくなつた。女は自分を滅した男を滅さずには置かない。

 日記の反古が白い灰になつたのを見済まして、女は筆を執つて二三行書下した。

 

我生涯の体系システムを貫徹す。われは我がcauseに因つてたふれしなり。他人の犯す所に非ず。

    三月二十一日夜    真鍋 朋

 

 今一枚には

 

拝啓、我が最後の筆蹟に候。今日学校に行きませんと申せしは、実は死すとの事に候。願はくば君と共ならざるを許せ。君は知り給ふべし、われは決して恋のため人のために死するものに非ず、自己を貫かんがためなり、自己の体系システムを全うせむがためなり、孤独の旅路なり。天下われを知るものは君一人なり。我が二十年の生涯は勝利なり。君安んぜよ。而して万事を許せ。さらば。

    明治四十一年三月二十一日

 

 宛名は王子の友にした。併し読ませるのは相手の男であつた。自分が息絶えて、男の心の中の記憶と化した後、この遺書を読んだとしたら、男の失望は何んなであらう。若し又光の薄い獄窓の下で読んだとしたら、恐らく悶え死なない者はあるまい。女は自分の死後になほ男の運命を支配する力を自覚して、唇を噛んだまゝ、片頬にやいばのやうな冷笑を泛べた。

 朋子は今その時の形相ぎやうさうを自分ながら眼に見るやうな気がした。何でも可い、もう何でも可いから早く決行して仕舞ひたい。

「出ませう、早く此処を出ませう」と、俄に男の腕を掴んで飛立つやうにしたが、又うつとりと坐り直した。

 わが生命を爆発させて、相手の生命を砕かうとする。男は女がそんな恐ろしい報復の手段を執つてゐようとは知る筈がない。

「何うしたのです、え。」

「いえ何うもしない」と言ひながら、朋子はぼんやり座敷の隅を見詰めた。

 隣のへやか、それとも一つ置いて向うの室かであらう、野獣の寝てゐるやうないびきの声に交つて、時々歯をきしむ音が聞えてゐたが、

「あゝ」と、不意に遣瀬のない女の声がして、

「もう間に合はない」と明白に聞えた。

 二人は思はず顔を見合せた。後はむにやむにやと寝惚ねぼけた欠伸あくびに代つて、鼾の音もはたと止んだ。暁方近い空気は身を斬るやうに人の肌に迫つて来た。

「お寒かアありませんか」と、やがて女は襟を掻合せながら言つた。

「えゝ」と、要吉も一寸女を見返したが、頭の中へ群がつて来る感想を掃ふやうに、「ね、談話はなしをしませうよ。貴方の小さい時分の話をして下さい。私は未だ貴方のことは何も知らない。」

「小さい時分の?」

「二人が現在してゐることとは、全然まるで関係がないことが可い。」

 朋子は少時しばらく黙つてゐたが、

「私のこれね」と襟に刺した燻銀いぶしぎんの襟留をいぢつて見せて、

「五つの時から失くさないで持つてるんです。」

「そりや何です。」

「四葉の苜蓿クローワ゛でせう。これを持つてる者は何だと云ふぢやありませんか。」

「えゝ?」

「心迄も捧げるんだつて」と、一人で笑つた。

「私は知らない。で、それを?」

「父が佛蘭西フランスから帰つた時、土産に呉れたのです。これと女持の時計とを姉妹きやうだいの前へ出して、お前の方が小さいから、何方どちらでも好きな方を先へ取れと言はれて、私は此方こちらを取つて仕舞つた。」

 要吉はまじまじとその襟留を見詰めたまゝ、黙つて聞いてゐたが、女の言葉が途切れたので、と眼を上げてその顔を見遣つた。

「それからもつと外に。」

「えゝ、姉はその時分から私に親切でしたが、私は矢張いけないたちの女でした。」

 かう言つて、女は男の眼を避けるやうに、顔を背向そむけながら、

何日いつかも姉が大切に飼つてゐた金絲雀カナリヤを殺して仕舞つたことがあるんです。矢張七つか八つの頃でしたらう。何を怒つてだつたか、今は記憶おぼえてゐません。姉の居ない間に鳥籠の中へ手を突込んで、金絲雀の頭へ留針をぐつと打込んだら、二三度ばたばたと羽翼を動かした切りで、鳥は死んで仕舞つた。血も出ないし、やはらかい毛が被さつてるので留針も分らない。到頭何うして死んだか知れずに仕舞つた。今でも未だ私が殺したとは誰も知りますまい。」

「今でも」と、要吉は息を詰めた。

「併し姉はもうそんな金絲雀のことなぞ忘れてゐませう。」

 男は両手に女の両手をつた。そして、始めて見るやうにしげしげ女の顔を見守つた。

 遠方で一番鶏が啼く。

 

    三十三

 

 やがて宿でも起き出したと見えて、階下したががたつき出した。ばたばたと廊下を歩く草履ざうりの音も聞える。要吉は何度も女を呼んで見たが、皆忙しさうにして返辞をしない。

「何うしたのでせう。昨夜ゆうべ一番汽車で立つからと言つて置いたが」と、又時計を出して見ながら、「もう汽車の着く時間ですね。」

 朋子も何やら落着かぬらしい。で、

「この儘立ちませうか」

「えゝ。」

 二人は身仕度をして立上つた。

 街には朝靄あさもやがかゝつて、未だ人通りはない、人力車くるまや立場たてばらしい家の軒から一本の竿が出て、その頭に汚ない旗が湿しつとりして垂れてゐる。楊枝をくはへた男が車の輪を拭いてゐる。

 停車場の振鈴ベルが鳴る。二人はあわてて駈附けた。プラットフォームに立つて、待つ間程なく、上野発の一番列車が霧の中から現れた。

 二人は又北に向つて行く。朝のはやいためか、同乗の客は肥つた商人ていの男一人切りで、大きな革鞄に凭れたまゝ、昨夜の夢を続けてゐた。時々手枕の肘を外して、ぼんやり赤い筋の張つた眼を開くが、直に又うとうとと寝附く。

 二人は湯丹婆ゆたんぽの上に足を揃へて腰掛けてゐた。晨朝あかつきの寒さは一しほ身にこたへる。

「これを着ては」と、要吉は手に持つてゐた女のコートを差出した。

「いえ、これで可いんです」と、朋子はそれを受取つて、「ぢや、かうしませう」と、言ひながら、二人の膝の上にけた。

 その下で二人は手を繋いだ。

 何時の間には、客車の中へ朝日が射し出した。霜枯れた田圃の上に、煙の渦が影を落して、千疋の猿が狂ひ廻るやうに後へ後へと転がつて行く。要吉はしばらくそれに見恍みとれてゐたが、不図女が口元に笑つてゐるのを見て、

「何?」

「えゝ、唯。」

 朋子の視線は前の男に注がれてゐた。昨宵ゆふべから始めて女の顔を日影の下で見た。朋子は一寸羽織の袖をかざして、

「こんな色、全然まつたく私とは調和しないでせう。」

「なに、単色だから?」

「えゝ、何日いつかリボンのこの色が所好すきだと仰有おつしやつたでせう、だから態々わざわざこれを着て出たんです。」

 女の髪には、濃いお納戸なんど色のリボンが差してある。男がそれに眼を遣ると、一寸右の手を上げて頭髪あたまを抑へる真似をした。

「あゝその手嚢てぶくろは──」

「これ?」と男の前へその手を突出して、「早く一対にして下さいな。」

 要吉は衣嚢かくしから手袋を出して、片方の手に一本づつ指を持つて穿めて遣つた。女は黙つてさうされながら、だんだん男の前へ凭れかかるやうにした。何だかそんな事で男の心を繋がうとするものらしい。

 やがて宇都宮へ着く。その時迄鼾の音を立てて眠つてゐた商人体の男は、急に眼を開いて、大革鞄を提げながら、あたふたと降りて行つた。少時しばらく窓の外に物売の声が騒々しい。

 やがて汽笛が鳴つて、列車はがたりと動き出した。今度は二人の外に乗客もない。汽車は平野の中をはしつた。

 何をしに行く。二人になると共に、一層厳しくそれが男の心に迫つた。女を殺しに行く。最初自分が「貴方なら殺せる」と口走つた時、女は一番自分に接近して来たやうに見えた。あの時から見ると、今は又ずつと離れて仕舞つた。終局に於て人間は矢張一人のものかも知れない。一人だ。が、一人だとすれば、この女とした約束を果すには、自分の女に求める力──愛の力に拠る外はない。併しむくいられざる愛の力が、それ程力あるものであらうか。

 で、それが駄目だとすれば、後は只一種のエキスペリメントとして、藝術の徒の好奇心に手頼たよるばかりだ。好奇心の犯罪──この上は只狂人になる外はない、飽迄自意識を失はぬ狂人になる外はない。

 男は凝乎ぢつと女の横顔を見詰めた。赤い絲のやうなものが、一筋女の首を周つて連なるやうに見えた。女は堅く口を結んだまゝ物を言はない。一人で考へてゐる。自分が自分のことを考へてゐるやうに、彼女も自身のことを考へて居るのであらう。只黙つてゐられるのが気懸りで堪らない。

「二人は」と、男は思はず口に出した、「二人は別々の事を考へてゐるのだらうか。」

「え」と、女は何やら解らなさうな顔をしたが、急に男の手頚を掴んで振りながら、「別々ぢやない別々ぢやない。」

「ふむ、別々では死ねない。」

 二人は長い間無言をつゞけた。汽車は小さい停車場へ着く。

 やがて又汽車の出るのを待つて、要吉は独言ひとりごとのやうに言出した。「二人の何が――これが、普通なみの金に詰つたとか、添ふに添はれぬとか云ふやうな、さういふ原因で死にに出たのなら、こんな圧迫は感じまい。その方がの位好いか知れないだらう。」

 朋子は一寸男を見返したまゝ返辞をしなかつた。男もその儘口を噤んだ。

 幾つも同じやうな小さい停車場がつゞく。新に田舎者らしい三人の客が乗込んだ、要吉はぼんやりそんな人達の容子を眺めてゐたが、

「ねえ」と、女の方へ振向いて、「貴方は東北を旅行したことがあるか。」

「えゝ、一度平泉まで。」

「ぢや、衣川や高館の跡も見て来たんですね。」

 女は鷹揚おうやう点頭うなづいた。

 夏草やつはものどもが夢の跡。要吉は目の前に死後の長い時間と広い空間とをうかべて見た。で、何か言はうとした時、汽車が停車場へ着く。西那須野駅と聞いて、女をうながして、遽てて客車を降りた。

 うねうねと東北の野に向つて遠ざかり行く列車を見送りながら、二人は停車場を出た。別に行くべき処もない。車夫くるまやの親方らしいのが傍へ来て勧めるまゝに、人力車くるまを二台塩原まで急がせた。塩原は此処から五里に余るといふ。

 那須野は只ひろびろと霜枯れた草野がつゞく。一面に灌木の木の葉が赤く枯れて、所々に蒼い松の葉が交つた。行手の雪を被つた山脈から吹卸ふきおろす風は春のものとも思へぬ。

 一筋の街道が枯野の中を真直に走つた。上りだといふので、車夫は緩々のろのろと曳いて行く。もとより何んな人を乗せて行くかは知る筈もない。薄い日影が女の肩を照してゐた。

 原の真中で、朋子は俄に人力車を停めさせた。

「何うかした?」と、後の人力車に乗った要吉が訊く。

「いえ、只風が眼に沁みて痛いから。」

 二台の人力車は又はしり出した。山の麓に杉の樹立がある。この村迄来れば道の半ばだといふ。少時そこで休憩やすんだ後、いよいよ坂道へ差懸つた。雨の降つた後で泥濘ぬかるみが多い。

 山路は九十九折つづらをりうねつて、深い谷底には箒川の浅瀬も見え出した。湯の宿へ近づくに伴れて、山の気が冷やかに、山蔭に雪が積つて、木の葉の落ちた枝が黒い網のやうに連なつた。車夫はくどくどと塩原の名勝を説く。うるさいから黙つてゐると、心得て更に言葉を継ぐ。

 日暮近く湯の宿に着いて、二階の新しい座敷に案内された。山国の朝夕寒く、大火鉢に炭火の青い炎を上げるのが懐かしい。二人はその側へ寄つて坐つたが、ひどつかれたやうで、向ひ合つたまゝ物を言はない。一夜の合宿に知らぬ同士が泊り合せたら、こんなものかも知れない。

 下婢をんなが来て、「お風呂へ御案内しませう」といふ。山国の男が着るやうな袴を穿いてゐる。

 要吉は黙つて朋子を見返つた。女は頭振かぶりつたので、

「後にするから」と、断ると、

「それでは、直ぐ御膳を差上げます。」

 白い円笠の台洋燈ランプが持出された。二人はその下で夕餉の箸を上げた。

「私はこれ迄貴方の前で何度物を喰べたらう。あの時この時、殆ど数へられる。これからも何度喰べるか。」

 朋子はたゞ下を向いてゐた。

 やがて食事が終つた。長い廊下はせきとして、客は二人の外にありとも覚えぬ。早くから雨戸を繰つたが、山嵐は絶えずひさしを吹きまくつて、早瀬の音が耳につく。

「一寸その手紙を見せて下さい。」

「え、これ?」

 女は包を開いて手紙の束を男に渡した。

「随分ある」と、要吉は自分を冷笑あざわらふやうに言つた。

「尤もヂョールヂオは三年間に一人の女へ二百何本といふ手紙を書いた。」

「えゝ、でも私達はそれより烈しいことがあつた。一日に二本のことも。」

 二人は洋燈の下に頭を寄せた。要吉はその中の一本を手当り任せに取つて中味を抜き出さうとしたが、と今見たら修辞的レトリカルな誇大な文句ばかり並べて、死んだ人の墓銘を見るやうに、空虚な文字に代つてゐるやうな気がしたので、手に持つたまゝやゝ躊躇した。

「何だか出して見るのが怖い。いつそ止めませうか。」

「お止めなさい」と、女は引たくるやうに取上げた。

 そこへ宿の主人が出て、茶代の礼を述べてから、宿帳を出して引退つた。要吉はそれを取上げて、有体ありていに二人の住所姓名をけた。

 朋子も傍から見てゐたが、につと笑つたまゝ、何とも言はなかつた。又自分一人の中へ引込んで、相手の男のことも忘れたやうに見えた。要吉は少時しばらくそれを見守つてゐた。何も言ふことがない。強ひて言へば、この場にふさはしくない聯想を招くのが心苦しい。

「湯へ入らうか」と、やがて男が堪へ兼ねたやうに口を開く。女はたゞ頭振かぶりつた。

「汽車の煙にも吹かれたから、一寸汗を流して置いた方が可い。」

「お留守番をしてますから、先づ行つてらして。」

「ぢや、後からね」と、男は立上つた。

「えゝ、清冽きれいな湯だつたら」と、追掛けるやうに言ふ。

 それを聞捨てたまゝ、手拭を下げて湯殿へ降りる。板の間に着物を脱いで、浴槽ゆおけの中に立つた。槽は木の臭ひのする程新しい。湯は絶えず樋を伝つて流れて来て、槽の縁を越して落ちて行く。天井の下に立罩たちこめた湯気は夜深の寒さに凝つて、一しほ息苦しい。

 要吉は片肘を槽の縁に託したまゝ、柱に掛けた洋燈ランプの火影を見詰めてゐた。濃い湯気の玉がその前をぐるぐると廻つて、月暈つきかさのやうな輪をゑがく。眼を離さないで、凝乎ぢつとそれを眺めてゐると、だんだん燈火ともしびの光が遠くなつて行く。かうして幾重にも白い湯気に包まれて、その奥に閉籠められたまゝ、自分は二たび帰らないのであらうか。だんだん気も遠くなつて、樋を落ちる湯の音だけが、山の猪が来て水を飲むやうに、ぺちやぺちやと聞えてゐる。只、それだけでこの世に繋がれてゐるやうだ。このまゝ、水の上に泛んだまゝ、二たび眼を開かなかつたら――二たび二階に残した女を見なかつたら――

 不意に湯殿の戸を開く音がして、われに返つた。誰やら這入つて来たらしい。恰度ちやうど洋燈の下に立つてゐるので、男とも女とも見分け難い。何か物を言つたらしいが、好くは聴取れなかつた。間もなく、板仕切りを距てた女湯の方から、ひそやかに湯を使ふ音が聞えて来た。

 要吉は匆卒そこそこに濡れた身体を拭いて風呂場を出た。薄暗い廊下伝ひに、裏梯子から二階へ上つた。の部屋も灯火あかりが点いてゐない。

 座敷へ戻つて見ると、有明ありあけを一つ点火ともして、二つとも寝床が延べてあつた。何処へ行つたのやら、朋子の姿は見えない、要吉はひとり火鉢の前に坐つて待つてゐた。

 やがで女も湯から上つて来た。髪を洗つたと見えて、ちゞれ毛が肩に波を打つてゐた。その足で衣桁いかうに濡手拭を掛けて来たが、真中へ鏡台を持出して、その前に坐つた。油気のない髪だから直に束ねようとするらしい。要吉は只その女らしい手附を眺めてゐた。あの長い髪をあの細い頚に巻附けて、力任せに引いたら――ふらふらと、そんな心持にもなつた。恰度女は彼方あちらを向いてゐる。何だか腕の力が抜けたやうな気がして、わづかもたげた腰を卸した。今自分が何をしてゐるか、それを知つてゐて人殺しが出来ようか。無意識になる外はない、一瞬の誘惑に駆られる外はない。自分の力で、自由意志を以て、人間が人間を殺せるものか。殺すものは――何か知らぬ――自分以外の或物だ。或物の道具とならなけりや殺せるものではない。

「ね、髪を束ねないで、その儘で居て下さい。」男が急に声を掛けた。

「え」と、朋子は振返つた。

「髪を垂れた方が美しい。」

 女はつと立上つて男の側へ来た。男は女の背へ手を廻して抱へた。指が濡れた髪の毛の中へ這入る。不図ふとそれが血汐のぬめりのやうな気がした。その時女は男の腕に身をゆだねたまゝ、そつと懐の短刀を出して、男の手に握らせた。有明の灯に透して見ると、黒鞘の短い懐剣である。

「早く、早くして。」

 男はそれを握つたまゝ、思はずたじたじとなつた。この儘では――この儘では何うすることも出来ない。

「ねえ、貴方は」と、水に溺れる人のやうに、女の手を掴みながら、「貴方は私のために死に、私は貴方のために死ぬ。さう言つて下さい。私を愛すると、唯一言。」

 その一言で自分はすくはれるのだ。我を忘れることも出来る。そしたら――けれども、女は只黙つてゐる。

「言へない、え、言へない?」

「その時迄、その時迄言へない。」

 要吉は女を引起して、凝乎ぢつとその顔を見入つた。女はその眼を避けるやうに、彼方此方あちこち自分の顔を持扱ひながら、つと男の膝に突伏して泣く。涙は着物を透して煮えるやうに熱い。

 男は女を抱へたまゝ、何とも言はれない苦悶を経験した。何故言へない、何故その一言がこの女には――が、言へぬものなら仕方がない。今更何と言つた所で、それがどうなるものか。女は一直線に思ひ込んでゐる。それに自分は――自分は生温なまぬるい水だ、熱くもなければ冷たくもない、基督の口から吐出されるやうな生温い水だ。一種の実験エキスペリメントとして、人殺しの出来るやうな超人でもなければ、又われを忘れて狂暴を敢てするやうな狂人でもない。矢張自分には人間以上の力はなかつた。そんな物があるやうに思つたのは、真個まつたく一時の妄想に過ぎない。あゝ、自分は一生の危機に臨んで居る。何と言つた所で、自分はこの女を失ふ外ないかも知れない。この女を失ふばかりでなく、自分といふものの霊魂たましひをも――

 かくて夜の白むまで、二人はこの姿勢の儘動かなかつた。それは人間の一生のやうに長たらしい、又人間の一生の様に短い夜であつた。

 二人は又次の日の光を見た。

 有明の丁字ちやうじが落ちて、ぽつと薄白い炎を上げたが、その儘夢のやうに消えた。火皿に油が尽きたのだらう。何処かで雨戸を繰る音が聞える。

 女は男のかひなに顔を伏せたまゝ、息があるものと思へない。要吉はそつと身体を揺振つてゐた。

「ね、又夜が明けた。」

 女は動かない。

「今頃御宅おうちぢや――阿母様には何んな夜が明けたらう。」

「そんな、そんな事を言ひ出しちや厭だ。」

 女は男の口をふさぐやうにして、泣く。

「実はね」と、要吉は女の脊に手を掛けたまゝ、「夜が明けたらお宅へ電報を打つて、迎への人に来て貰はうと思つてゐた。その人達に貴方を渡して置いて、私は――矢張北を向いて、山越えに行ける所まで行かうと決心した。」

「そんな事をされちや耐らない」と、女は頭を上げて、手当り任せに獅噛しがみつく。

「その外に仕様ない」と投出すやうに言つた。「私は思ひ違ひをしてゐた。死ぬ時は、互に手を取つて、めそめそ泣き合つて、溶けて行くやうな心持にならなきや死ねない。私のために泣いて呉れる相手でなきや手は下せない。」

 何か言ふだらうと思つて待つてゐたが、女は突伏したまゝ返辞をせぬ。又じろじろ女の耳の後ろを見守りながら、

「貴方は未だ私に対して敵意を持つてるんだ。」

「敵意?」と、声の下に呟く。

「敵意さ。昔から打解けたことのない――両性間の旧い怨恨うらみ」と、ぽつりぽつり言つたが、「敵同士ぢや一緒には死ねない。」

「さうぢやない。そんな事は十九日から解つてゐて呉れた筈だ――あの手紙を読んで呉れたら。」

「それぢや何故――」と、男は思はず腰を立てた。

 不意に襖を開けて、下女が有明を下げに来た。二人はつと座を開いたが、顔を見合せたまゝ、少時しばらく物を言はなかつた。

 やがて女は想出したやうに、男の手を執つて揺振りながら、

「私は行く、先生の行らつしやる所まで行く。」

「樺太迄も?」と、男は女の顔を見返した。

「何処へでも。」

「死ぬ処まで。」

 女は笑顔を見せて点頭うなづく。

 要吉は何やら考へてゐたが、「ねえ、お宅では田端停車場ステーションに気が附きはすまいか。」

 女も一寸考へて見て、

「参ります、屹度きつと参ります。」

「それぢや、あの晩の終列車で、二人が西那須野駅までの切符を買つて乗込んだことは、直に知れるわけだ。」

 朋子も不安らしい容子をして聞いてゐたが、「早く立ちませう、早く。」

「さう、猶予してはゐられない。」

 二人は立上つた。折柄戸を繰りに来た宿の男を急き立てて、あたふたと出立の用意をした。

 

    三十四

 

 朝飯の給仕に出た下婢をんなに、それとなく様子を聞くと、この奥の道は尾花峠と云つて、会津へつゞく街道、冬の間は雪が丈余も積つて、月を越さなければ人は通れないといふ。

 二人は近辺を見物すると言ひ置いて、宿を出た。上の塩原迄は、昨日きのふ人力車くるまに乗せられて行く。山の中の寝惚ねぼけたやうな町であつた。昔風な湯の宿が何軒も並んでゐる前を、がらがらと町外れ迄曳いて行つたが、後の車夫は急に振返つて車上の人を見上げながら、

「もし、旦那何方どちらへ着けませうか」要吉は夢から覚めたやうに四辺を見廻した。「うむ、もう可いんだ。此処で卸して呉れ。」

「でも、何方どちらかお宿を。」

「うむ、可いんだ。この辺を散歩してから勝手に宿を取るから、もう帰つても可いんだよ。」

「さうですか」と、車夫はしぶしぶ楫棒かぢぼうおろした。

 町の出外れに、壊れかゝつた木の橋がある。二人は橋の袂に立つて、空車が帰つて行くのを見送つてゐたが、その影が見えなくなると、あわてて橋を渡つた。又北へ向つて行く。

 麓の村迄は三里だといふ。二人は落人おちうどのやうに道を急いだ。街道は箒川の上流に添うて絲のやうに続く。早瀬の水のよどむ辺りに、二人の男が岩の上にしやがんで、禅定ぜんぢやうに入れる人のやうに黙々として絲を垂れてゐた。十二三の女の子が、背中に赤ン坊を結ひ附けながら、弟の手を引いて来た。二人とも裁附たつつけを穿いてゐる。その外には滅多に人にも出逢はない。

 空が晴れて、雪の積つた山のいたゞきが白くくつきりと際立つて見えた。あの山越しに行くのである。朋子は袂を上げて、額に滲む汗を拭いた。山から吹いて来る風は冷たいが、日はぽかぽかと暖かい。

 谷合の平原はだんだん迫つて、やがて麓の小村へ着く。村外れの一軒家で、のき草鞋わらぢを吊して障子に煙草の葉の描いてある家を見附けて、要吉は女をかへり見ながら、つとしきゐを跨いだ。つゞいて女も這入つて来た。その後から直に障子をて切つた。

「一寸休ませて貰ひますよ」と、縁鼻に腰を掛けたが、誰も応ずるものがない。家の中はがらんとして居る。

 不図囲炉裡ゐろりはたうづくまつてゐる爺さんに目を附けて、も一度声を掛けて見た。

「ねえ、一寸休ませて貰ひましたよ。」

「えゝッ」と、爺さんは頓狂な顔を上げた。眼の縁が赤く爛れてゐる。

「これはこれは、お出でなされや」と言ひながら、急須の茶をれて、二人の傍へ持つて来た。

「何うでせう、峠は未だ雪が深いでせうね」と、要吉は爺さんに眼を附けながら訊いた。

 爺さんは耳が遠いらしい。要吉は声を大きくしても一度訊いて見た。

「あゝ、峠か」と、爺さんはきよとんとして、「峠の開くのは、さうぢや、月を越して十日も経つてからなう」と言ひながら、二たび囲炉裡のそばへ戻つた。

 その儘うつらうつらとしてゐたが、又急に眼を開いて、

「さうぢや。一昨日をとゝひもな、一人旅商人のやうな若衆が峠を越すと云うてぢやで、俺がつて留めたが、無理に振切つて出掛けたぢや。あれも無事に越せりやえがと、案じてゐるのぢやわい。」

「でも、戻つて来なけりや無事に越したのでせう。」

 要吉は口を挿んだ。が、爺さんは矢張聞えないらしい。

「裏山が難所でな」と、独言のやうにつゞけた。「上り一里に下り三里、三里の下りが難所でな。それに午前ひるまへぢやと未だ可えが、これから日が下りかけると、雪の下が緩んでな。裏山の雪崩なだれ、此奴が怖ろしいぢや」

 要吉は朋子と顔を見合せて点頭き合つた。雪崩れの下に葬られる──自然の手に身をゆだねるほど容易たやすいものはあるまい。自然の前に人間の意志はない、不和も憎悪もない。凡てを混沌のうちに葬ることが出来る。暗黒の裡に──あゝ未だ此処に最後の手段が残つてゐた!

二人は少時しばらく思ひ思ひの考へに耽つてゐたが、やがて一人が、

「立ちませう」と言出した。

 一人も直に立つた。

 要吉は幾許いくらかの茶代を下に置いて、

「爺さん、何うもお邪魔でした」と声を掛けた。

 爺さんは眠つてゐるのか返辞をしない。その儘、其処を出ることにした。

 二人は又目の前に山を見て急いだ。村を抜けて板橋を渡れば、直に山路へかゝる。本道は未だ人が通らない。炭焼小屋の在る処まで、抜路の方が却て道が開いてゐると聞くまゝ、山の麓から右へ折れて、谷川に随いて登る。山は浅いが、鳥も啼かぬ。雪の下行く谷水に添うて、炭焼の通路は枯木の中を縫うて走つた。

 水の中の石を伝つて、背負梯子に炭俵を背負つた男が、むづむづと谷川を渡つて来た。二人は此方の岸に立つて待つてゐたが、その男は通りすがりに、被つた手拭を取つて、

「御免なされや」と挨拶した。

「炭焼小屋まで、道程みちのりの位かな」と訊く。

「さやうさ、もう五六町もあらうかな。つい其処ぢやいな」と言ひ捨てて、又のそのそと行く。

 不図、女のリボンが水に落ちた。くるくると渦を巻いて、見る間に下の巌蔭へ隠れた。女はそれとも心附かない。

 二人は又雪を踏んで登つた。谷間の行詰つた処に、二つ三つ炭焼小屋が見え出した。その前迄辿り着いて、小屋の中を覗き込むやうにした。土の中へ囲炉裡を切つて、自在鍵に煤びた茶釜も懸けてある。燃えさしのほだの灰が白い。

 要吉は入口に立つて、二三度声を掛けた。

「おゝ」と小屋の裏から炭焼の女房が出て来た。

「湯が一杯無心したい。」

「湯かいな」と、女房は無愛想な返辞をしながら、茶釜の湯を汲んで出した。

 二人は小屋の前の丸太に腰を掛けた。樹の間を洩れる日影がちらちらして、茶碗にひゞは入つても中の水は美しい。

 上の岨路そばみちから、五つばかりの女の児が素足に藁沓わらぐつを穿いて、よちよち降りて来たが、二人の前に立停つた。時々洟汁はなじるを啜り上げながら、目瞬またゝきもしないで、代る代る二人の顔を見上げてゐる。

 朋子もにつこりして、「何か遣りませうか。」

「さう。」

「でも、何にもありませんのね。」

「おあしでも可いでせう。」

 女は蟇口から銀貨を出して、子供に持たせようとした。

「お出でお出で、これを上げるから。」

 子供は手を出さぬ。立上つて、側へ行かうとすると、わつと泣き出した。

「何を泣くんだよ、これを遣るとぢやに。」

 さう言ひ言ひ、小屋の中から女房が駈け出して来て、遽てて子供の代りに受取つた。この女房が取上げて、汗臭い巾着にきりきり巻いて、何時迄も所藏しまつて置くらしい。要吉は息苦しいやうな気持がした。

 日も傾かう。二人はやがて其処を立つた。本道へ出る路だと教へられたまゝ、小屋の裏から坂を登りかけたが、勾配の急な上に、未だ人の通つた跡もない。三町とは行かぬ間に、路が雪に埋もれて、何方へ続くとも分らなくなつた。少時しばらく途方に暮れて立つてゐたが、丁々たうたうと斧を揮ふ音がこだまに響いて、谷の向ひの雪の上に木を伐る黒い男が見えた。

「おうい」と呼べば、やゝあつて、

「おゝ」と応へる。

 本道へ出る路はと訊いたが、向うで何を言ふのか解らない。唯、左の方を指さすやうに見えたので、木の枝に縋つて、無闇に山の腹をよぢ登つた。幾度か足場を失つて転げ落ちさうにしたが、やつと小山の背へ出た。本道は山の背をうねつてつゞく。

 二人はしばらく雪の中に倒れてゐた。又起直つて歩み始めた。路の上は雪が平なので、道には迷はないが、一足毎に膝の上まで踏み込む。女はその足跡を辿つて随いて来た。一町に休み、百歩に休んだ。休むたんびにウィスキイを仰いで、僅に息を継ぐ。

 山の腹をめぐるとて、幾度も上から土砂を落して来るのに出逢つた。雪崩なだれの跡と見えて、路が半ば崩れたまゝ、谷間へ落込んだ所も二三箇所あつた。

 到頭道は絶壁に消えた。要吉は手に持つた外套を雪の上に敷いて、その上に女を坐らせて置いて、懸崖の縁を伝ひながら、半町余り先迄路を求めに行つた。岩角に手を添へて瞰下みおろせば、数十丈の深い谿底に枯木の林が見えて、鼓を打つやうな水音が微かに聞えた。

 彼方此方あちこち見廻したが、迚も路が続いてゐさうにもない。又崖伝ひに戻つて来た。

 男の姿を見ると、朋子は立上つて二三歩近づく。男は頚を振つて留めた。二人は又元の所へ戻つて、外套の上へ倒れるやうに坐つたが、少時しばらく言葉がない。

 やゝあつて、

「労れたの」と、男が訊く。

「いゝえ、先生こそ。」

 女の顔には、明々ありありと疲労の色が現はれてゐた。それがために、一際ひときは誘惑の力を加へて、別人のやうにも見える。男は女を見詰めた。家を出てから、未だ女の唇に触れない。

 二人は長い接吻を交はした。

 やがて、つと離れて、互に顔を見合せたが、又ひしと唇を合せた。

 空にはいやな雲が湧いて、おひおひ日影も薄くなつた。暮れるに間もあるまい。

 二人は又よろよろと立上つた。一町ばかり後へ戻ると、土砂交りの雪に埋まつてよくは見分けられぬが、路は左へ折れて、坂の上へ続くやうにも見える。とかくして坂を登つた。山巓迄雪に蔽はれて、一木を留めぬ草山の腹を路らしいものが蜿蜒うねうねとつゞく。

 日が落ちてから、急に肌寒うなつた。口の中は乾燥はしやぎ切つて、足を持上げるだけの力もない。十歩に休み、五歩に息を継ぐ。朋子は一歩も後れないで、男の後から随いて来た。何だかそれが自分の意志を支配する魔性のものの様に思はれて忌々しい。

 路傍に一本取残されたやうな白樺が立つてゐる。兎に角その下迄辿り着かうとして、男は泳ぐやうにして前へ出たが、両足とも一時に雪の中へ踏込んだ。その儘ぐらぐらと眼がくらむ。

「あゝ、ウィスキイを──」

 女は前へ廻つて、掌から男の口にふくませた。要吉はしばらく横に倒れたまゝ物を言はない。

「何んなです、お心持は。」

 男はやつれた顔に笑つて見せて、

「もう好い。唯、動きたくない。」

 雪の山は寂として暮れて行く。

 二人は黙つて、黒い夜の色の襲ひ来るさまを眺めてゐた。

「手紙を焼きませう」と、女は意を決したやうな声音こわねで言つた。男の顔を覗き込んで、「もう可いでせう、ね、ね。」

 要吉も点頭うなづいた。

 女は包を解いて、手紙の束を雪の上へ投出した。その上ヘウィスキイの残りを注ぐ。男はしやがんで燐寸マッチを擦つた。小さな青い火がぼぼと燃えて、その儘すうと煙を出して消えた。二たび擦る。燐寸が半ばから折れた。三たび、四度目に燃え上つた。男の恋を連ねた文字が燃える。黒くくすぶつて消えようとしては、又ぶすぶすと燃え上つた。

 要吉はそれを見詰めてゐた。眼を離さず見詰めてゐた。いよいよ黒い灰となつて仕舞つたのを見済まして、不図女をかへり見たが、自分の顔に泛んだ失望の色が自分の眼にも見えるやうな気がした。

 俄に山巓からどつと風が落ちて来た。灰を飛ばし、雪の粉を飛ばし、われも人も吹飛ばして仕舞ひさうな。二人はひしと相抱いた。風は山を鳴らして吹きに吹く。

「死んだら何うなるか、言つて、言つて。」

 女は男の腕を掴んで、かすれた声に叫ぶ。

「言つて、言つて。」

「私には──言へない。」

 女は凝乎ぢつと男の顔を見守つてゐる。それを見ると、男の心には又むらむらと反抗心が起つた。生きるんだ、生きるんだ、自分は何処迄も生きるんだ。

 つと内衣嚢うちかくしから短刀を取出して、それを握つたまゝ立上つた。女はその気色を見て、

「何うするんです」と、突走るやうに訊く。

 あなやと言ふ間もなく、要吉は谷間を目蒐めがけて短刀を投げた。

「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分ぢや死なない。貴方も殺さない。」

 二人は顔を見合せたまゝ声を呑んだ。天上の風に吹き散らされて、雲間の星も右往左往に乱れて、見えた。女は又叫ぶ。

「歩きませう、もつと歩きませう。」

「うむ、歩きませう。」

 二人は雪明りをたよりにして、風の中を行く。風のために雪が氷り始めたやうだ。只、その上層うはかはを破れば、底迄踏み込まずには置かない。やつと半町程進んだ時、ばたりと背後で倒れる音がした。朋子は崖を踏み外したまゝ、声も立てずにゐる。あわてて、それを引上げようとして、一緒にずるずるとり落ちた。三間ばかり落ちて行つたが、危く雪の洞に引かゝつた。

 二人は折重なつたまゝ動かなかつた。だんだん風の音も遠くなるらしい。要吉は腹の辺りから冷たい水が沁み込んで来るのを覚えながら、ついうとうとした。その後は何うなつたか知らない。

 不図、誰かに喚び起されるやうな気がして眼を開いた。朋子が凝乎ぢつと自分の顔を見守つてゐる。「ね、歩きませう、もつと歩きませう。」

 女は急に男の手を持つて、同じ事を繰返した。

 要吉は黙つて立上つた。見返れば、月天心に懸つて、遠方の山々はさながら太洋のなみがその儘氷つたやうに見えた。わが居る山も、一面に雪が氷つて、きらきらと水晶のやうな光を放つた。あゝ氷獄! 氷獄! 女の夢はつひに成就した。到頭自分は女にれられて氷獄のうちへ来た。──男の心には言ふべからざる歓喜の情が湧いた。う可い、もう可い! 二人は手を取合つたまゝ、雪の上に坐つてゐた。何にも言ふことはない!

二人は又立上つた。堅く氷つた雪を踏みしだきながら、山を登つて行く。

 山巓も間近になつた。

 だんだん月の光がぼんやりして、朝の光に変つて行く。

──完──

(明治四十二年一月~五月「朝日新聞」)