巨星落つ
欧陽可亮 享年七十三才 国籍 中国 あれは平成四年五月一日未明のことだった。
一人の偉大な中国の甲骨文字の学者が、八王子の郊外にある老人ホームで、家族に看とられることもなく、ひっそりと息を引きとった。
この老学者の死は、書の聖祖として高名な欧陽詢の直系の子孫が歴史上では四十四代目をもって終ったことを告げていた。
欧陽家は、中国でも屈指の由緒正しい名家である。その家系からは多くの逸才が生まれており、可亮氏の父君は清朝末期(一九十一年頃)から、中華民国二十年後半(一九三五年頃)まで、公使として英、米、チリー等に長く滞在して活躍した外交官であった。そのような栄光を背負ったこの老学者が、人生流転の末に、遂に祖国中国の土を踏むことなく、異国の地日本で、しかも八王子の奥深い山裾の老人ホームで淋しく世を去って逝ったのである。語らずとも、この老学者の生涯がいかに数奇で壯絶なものであったか想像出来るのではないだろうか。
気も遠くなるような苦しく長い人生の斗いを終えて、今、欧陽可亮は白木の棺桶の中に生まれながらに備わる大人の風貌をそのままにして静かに横たわっていた。
私は棺の傍に立って、その見事な白いあごひげに、そっと指を触れてみた。私は鳴咽が喉をついてほとばしりそうになるのをぐっとこらえ、唇を噛みしめて心の中で死者に語りかけた。
『先生、とても立派なお顔ですよ。本当に長い間ご苦労さまでした。これからは何も心配なさらずに、ゆっくりとお休みになって下さいね』
七十三才という年は、老人ホームでは高令の方ではなかった。可亮氏と、この老人ホームで寝食を共にしてきた八十才、九十才のご老人達が、亡き人を慕って棺の周りに集り、がっくりと肩を落とし、首をうなだれて立っている姿が、ひとしお哀感を誘った。
この老人ホームの周囲の山々は、とりたてて特徴がないだけに、何時まで眺めていても、倦むこともなく疲れを感じることもない。
可亮氏は、東京の雑踏から離れて、この平凡なたたずまいの自然を友として、七十三才までの人生の最後の二年半を心静かに充実感に浸って過すことが出来た。
よく氏は私にこう言った。
「川合さん、老人ホームとても良い所です。みんな大変親切。わたし大滿足です」
その言葉を聞くたびに、私はほっと胸を撫でおろしたものである。
第二次世界大戦に直面し、日本と中国の狭間の中で、時代の激流に翻弄され、生命の危険に幾度もさらされながら生き拔いてきた可亮氏にとっては、たとえ短かい日々ではあってもこの老人ホームの生活は万感の重味を持つ時の流れであっただろう。
可亮氏は八年前に、長年に亘る心労から脳溢血に倒れ、甲骨文字学者として、書道家として、命ともたのむ右腕の自由を失った。しかし、持ち前の強靭な意志力をもって左手の訓練に励み、左手の巨人とまで言われるようになっていた。
老人ホームは、そうした経歴を尊重して、氏が作品を書きやすいようにと細やかな心配りで最善の設備を整えてくれていた。そのおかげで、左手の字は、老人ホームに入ってからめきめきと上達し、右手の字には見られなかった重厚さと風格を備えるものとなっていった。
実は、主人と私は氏が亡くなる二日前の四月二十九日に、この老人ホームを訪ねたばかりだった。その日は丁度、私達の息子同様に懇意にしている青年が車に乗せて来てくれていたので、私は保母さんの許可をもらって氏を秋川へドライブにお連れした。
あの時はとてもお元気そうだった。死を予感させるものは何も感じられなかった。
結局、外来者としては、氏に会った友人は私達夫婦が最後だということだった。
「中国では死ぬ前に最後に会った人が一番縁が深い、言うよ」
可亮氏が養女だと言って可愛がっていた中国の若い女性が、悄然と棺の傍に立っていた私に近寄って来てそう言った。
「そうね、そうかも知れないわね」
私は彼女の黒目がちの涙にぬれた瞳をじっと見つめてそう答えた。
通夜も告別式も、この老人ホームでしめやかにとり行なわれた。外部からの参列者はほんの三~四人だった。欧陽可亮という人のもろもろの背景を考えれば淋しい弔いだったと言えるかも知れないが、心の底から哀悼の意を捧げて冥福を祈ってくれるこのホームのご老人達に見送られるということは、可亮氏にとってはこの上なく幸せなことだったと思う。讃美歌を歌い始めると、再び私の脳裏に三年半前の冬の日の、あの不思議な欧陽可亮という白ひげの老人との出会いが甦った。そして二日前の秋川のドライブが氏との今生の別れとなろうとは。私は欧陽可亮という人と、私達夫婦とのえにしの深さを改めて思わずにはいられなかった。
えにしの糸
私は、しばしば自分に問いかけてみる。
私は、何故いつまでも、こうして欧陽可亮とのえにしを大切に温め続けずにいられないのだろうか。すると、いつも自分が仄暗い鐘乳洞の中を、出口を求めてさ迷ようような、そんな心境におち入ってしまう。それは記憶の糸をたぐっていくというものではないようだ。私は、更に、思いを凝らして考える。そうだ。それは手さぐりで、可亮氏と私との過去の接点に遡っているのだ。仄暗い光を見つめながら岩壁づたいにたぐっていく過去。でも、その中で私は確信している。私達は、きっと北京の街のどこかですれ違っているのだと。
私が五~六才の頃、可亮氏は二十才前後。
欧陽宅は北京の中心地紫禁城から北方に一直線に位する景山の近くにあった。私の住んでいた家も景山から遠くはなかった。私達親子は殊の外景山が好きで、よく両親と共に散歩したものである。
前述の如く外交官を父とする可亮氏は小さい頃は、チリー、ロンドン等、あちこちと移り住んでいたが、その年令の時は北京に暮らしていたはずである。
今ひとつの接点は、可亮氏(母系)の伯父に当る王克敏が、私の父、梨本祐平と親交が厚かったということである。当時、政客として知らぬ者のない王克敏は、よく北京の我が家にも訪ねて来られた。可亮氏は、この偉大な伯父の恩恵を蒙むること大だったそうだ。王克敏についてはあとで触れることにしたい。
こうして、私なりにたぐればたぐるほどに欧陽可亮とのえにしの糸は、からみ合い、もつれ合いながらもつながっていることに気づく。
しかし、そんなお互いの背景を持つ私達だったが、幾星霜を経て数十年の時の流れを刻まなくてはめぐり会うことが出来なかった。ところが、平成元年一月、チャンスが到来した。それも北京から遠く離れた東京三鷹市大沢のこの地で。
その時の私は、最愛の一人息子に先き立たれるという、大きな悲劇に見舞われたあとだった。そんな私にとっては、まるで霊界の息子が欧陽可亮と私とを見えぬ力で引き合わせてくれたとも思えるような、この上なく感銘深い出会いだった。
欧陽可亮先生との出会い
思いの外に私の挨拶文はスムースに筆が進んだ。おそらく、この一年の間に自分では気づかぬうちに、一つの理念が私の中で形成されてきていたのだろう。我れながら意外だった。
私は書き上った原稿を持ってコピーをとるべく近くの文房具店に出掛けて行った。小さな店に入ると、私の前に一人の老人の先客がいた。その老人の白い立派なあごひげに私は胸を打たれる思いで立ちすくんだ。ところがよく見ると、どうもその老人は半身不随らしい。固く握りこまれた右手はお腹の上部のあたりに、まるで固定されてしまったかのように動かない。自由の効くらしい左手に白い杖を持って、もたれかかるようにして立っていた。足許を見ると、右足に鉄製で支えられた重い皮靴を履いているのが痛々しく私の目に映った。
親切な文房具店の奥さんが、その老人の言われるままにコピーを取ってあげていたので、私は見るともなくその原稿に目をやると、それは中国の新聞や中国語で書かれた原稿等だった。その方は中国の方だったのだ。
「どうもありがとうございます」
コピーをとり終ると、老人は文房具店の奥さんに、ていねいに頭を下げて礼を言った。そして、白い袋を左手に下げて、杖をつきながら、不自由な足をひきずるようにして帰って行った。
私は、その老人の後姿を見つめながら、遠い昔の、ノスタルジアのようなものが、私の頭の中に彷彿として甦ってくるのを感じた。
どこまでも礼儀正しく、悠々として迫らぬ往年の中国の大人の風貌が今、私の目の前に再現しているのだ。
私は、店の奥さんにたずねた。
「今の方は、どういう方なのですか」
「ああ、あのご老人ね。欧陽可亮さんといって、何でも甲骨文字のとても偉い学者さんなのだそうですよ」
「甲骨文字」
一瞬、私の頭の中が、くるくると回転した。
確かに聞いたことはある。でも、およそ、自分には縁の遠い学問だと思っていた。その甲骨文字とやらが、こんなにも身近にあったとは。私は何だか魔術にでもかけられたような気持で家に帰った。
私は、すっかり考えこんでしまった。まるで、墨絵から抜け出て来たような、あの白ひげの老人の姿が、目の前にちらついて離れないのだ。私は思い切って、その老人を訪ねてみることにした。文房具店の奥さんに、老人の自宅の住所と、電話番号をきいて、私は早速電話をかけてみた。
「もしもし」
少し、しわがれているが、温かく優しい声が耳に響く。
私は簡単に、経緯を説明し、自分も北京育ちなので、懐しさから、こうして電話をかけたこと、そして、是非、ゆっくりお話したい旨を告げた。
「わかりました。でも、わたし、身体障害者です。あなた、こちらに来てくださいますか。」
「はい。主人と一緒に、私の方から伺います。明晩はいかがでしょう。夕方、七時頃に参りたいと思いますが」
「どうぞ来て下さい。わたし、待ってます、待ってます」
老人の声は最初よりもはずんで聞えた。
平成元年二月十日、この日が欧陽可亮氏と私達との運命的な出会いの日となった。私は朝から気もそぞろだった。お土産は何がいいかしら。ご高令のようだから柔かいものが良いだろう。私はクッキーを用意した。又、父の著、『中国のなかの日本人』も一冊持って行ってみよう。
夕方、主人が帰宅すると、私達は急いで食事をすませて欧陽氏宅に出かけた。番地を聞いていたので、大体の見当はついていた。私達の住んでいるマンションから二百歩ばかり歩くと、ジローフィオーレというしゃれたドライブインがある。その少し先きをバスの通るままに左に曲ると、まるで崖をくり抜いたようなところにガラス窓が見えて扉があった。その扉の前に立つと私は、子供の頃に読んだ童話のアリババの物語を思い出した。「開けごま」と叫ぶと、あの扉がひとりでに開くのではないだろうか。よく見ると看板がかかっている。
「春秋学院」かつて、欧陽可亮氏は、ここで留学生のために教室を開いていたのだ。長年の風雪にさらされて、すっかり薄汚れてしまった木版の看板が、欧陽可亮氏の苦難のあとを如実に語っているかに思えた。
欧陽可亮氏は、この崖の上に建てられた木造の家に住んでおられた。
「ごめん下さい」
私は、カーテンの向う側から、仄かな明りが洩れているガラスの戸を、おそるおそる開けながら声をかけた。部屋の中を見ると、古い大きな木のテーブルの上に、魔法瓶がおかれており、お茶の用意がされている。貭素なお暮らしのようである。
「いらっしゃい ちょっと待って下さい」
あの多少しわがれた、人懐つこい声が聞えて来た。やがて、こつんこつんと杖の音が響いてきて、白ひげのご老人が奥から姿を現した。前に、文房具店でお会いした時と違って、詰衿の胸に、幾つものバッチをつけた、中国の人民服をきちんと身に着けて威風堂々たる姿である。おひとりで暮していらっしゃるのか、それとも、ご家族はどこか外出していらっしゃるのか、家の中は静まりかえっている。
「おお、おお、よーくいらっしゃいました。私、欧陽可亮と申します」
「私、川合と申します」
主人と私は、交る交る、ご老人の左手を固く握りしめて握手した。とても、初めての訪問とは思えない。まるで、昔の友が何十年ぶりかで再会したような、ほのぼのとした出会いだった。
椅子に腰を下すと、まず、主人が会話の口火を切った。
「先生は、この三鷹に、もう長くおすまいなのですか」
「はい、三十年ぐらいになりますね」
「まあ、それでは私共よりも長くていらっしゃいます。私は十七年ですから三鷹は先生の方が先輩ですわ」
先生の日本語は吶吶としていた。それは、脳溢血の後遺症のための言語障害であることが、あとになってわかった。先生は、用意してあった茶器に、左手で魔法瓶から湯をさして、私達にすすめて下さった。
又私共に贈って下さるために先生が左手で書かれた甲骨文字の和紙を広げて見せて下さった。畳一帖ぐらいの大きさだったが、そこに薄墨で記された甲骨文字は、
日中同舟
風雪相殺
と読むのだという。
「まあ見事なこと、私もこの通りだと思います」
「いや、どうもありがとうございました。家の宝として大切にいたします。」
主人も深く頭を下げる。
しかし、それだけではなかった。「集契集」という、先生がまとめられた甲骨文字の著書を私達に下さるという。箱入りの立派な装幀の御本である。甲骨文字については知識のない私達にも、それがどれほどに価値の高い本であるかは察しがついた。
そこで、私は『中国のなかの日本人』を袋からとり出して、先生の前においた。
「先生、これは、私の父の自叙伝です。先生に贈呈させて頂きたく持参いたしました」
「ほう。あなたのお父さんの本ですか。それはどうもありがとうございます。私、読ませてもらいます。」
その本を手にとって、先生はパラパラと頁をめくり、最初の部分に、さっと目を通された。
すると、急に心を許したかのように、ご自分の身の上話をはじめられた。
「わたしのお父さんは清朝時代の外交官でした。お父さんは最初の奥さんをサンフランシスの地震で亡くしました。私のお母さんは二度目の奥さんです。お父さんとお母さんは、年がとっても、とっても離れていました。お父さんは五十才、お母さんは十六才でした。でも、お父さんはお母さんを大変愛していました。お母さんは、はじめは、そうでもなかったようですが、だんだんに、お父さんを愛するようになりました」
白いおひげのご老人が、お父さん、お母さんという言葉を使うと、まるで、四~五才の、幼児が、親に甘え、慕うようなあどけなさが、そこはかとなく漂よってくる。よほどご両親を愛して、尊敬しておられるものと思われる。
会話が進むにつれて、先生と私との縁が、いかに深いものであるかが、次第にわかってきた。
先生は、更に続けて語られる。
「わたしは、戦爭中、東亜同文書院で講師をしていました」
「まあ、東亜同文書院でですか。では、小岩井淨という方をご存知でいらっしゃいますでしょうか。」
「ええ、ええ、よーく知ってますよ。あなた、どうして小岩井さんを知ってますか」
「はい、小岩井さんの奥さんは、私の父のいとこです。えーと、何ていうお名前だったかしら」
「おお、そうですか、小岩井さんの奥さんわたしも知っています。ちょっと待って下さい」
先生は、又、こつこつと杖の音を響かせて、奥の部屋に入っていかれた。ごそごそと本を探している音がして、やがて、一冊の書物を抱えて出て来られた。
「これ、東亜同文書院の名簿です。ここに小岩井さんの名前ありますよ。奥さんは多加子さんと言いますね」
「あらほんと、ほら見てごらんなさい。これ、ここにあるわ」
私は横にいる主人にも見せながら、何という奇遇だろうと思った。
張作霖爆死事件のこと、当時の日中間に起きた、さまざまな事件、更には汪兆銘のことなど、次々に話がはずんで時間のたつのも忘れるほどだった。
「そういえば、王克敏という人物もいたね」主人が思い出したように言うと、間髪を容れず可亮氏は答えた。
「そう、その王克敏は私の伯父さんです。お母さんの方の親戚です」
「まあ、それは又、私共とご縁の深いこと。私の父は王克敏先生と、大変懇意にしていました」
王克敏については前の稿で触れたが、昭和十二年、父は、王克敏新政権の組織化に尽力したことがあった。王克敏は、もともとは外交官だったが、辛亥革命後の民国政府で中国銀行総裁となり、その後中国有数の政客となった人である。父の記を引用すると、
『彼は今や六十四才、五尺足らずの短身痩躯、その上、片目がつぶれて、いつも黒い色眼鏡をかけている。一見、不気味な妖気が漂ようが如き人物である。彼は自ら信ずることきわめて高く、なかなか人の言うことなど耳を傾けようとしない硬骨漢である』とある。
私も我が家に訪ねて来られた、王克敏氏の風貌は覚えている。
これだけ聞いただけでも、欧陽可亮という人物は、中国でも屈指の名門の出であることが想像できるが、可亮氏と会う回を重ね、時を追って、可亮氏の背景は、それだけではないことが次第に明らかにされていった。
二・二八事件と欧陽可亮
ここで私は、この欧陽庚が外交官として活躍した頃の中国の政治的背景を考えてみたくなった。というのは、この欧陽庚が爪哇総領事、駐英公使等に任じられた任命状が出て来たからである。爪哇総領事は中華民国二年(一九十三年)十一月十三日、英国使官の方は、中華民国九年(一九二十年)四月二十日、いづれも袁世凱に依るものである。
一九十一年十月十日、孫文は清朝政府を廃絶して共和政体の開始を宣言した。このことは辛亥革命として世に知られているが、中華民国は、こうした経緯のもとに誕生したのだった。十月十日の双十節、即ち国慶節の所以でもある。
ここに、宣統帝、のちにラストエンペラーとして知られる愛新覚羅・溥儀は退位して、二百七十七年に及んだ清国は滅亡した。
孫文は袁世凱を臨時の大総統としたが、結局は老獪、陰険な袁世凱が権謀術数を弄して本格的に大総統としておさまってしまった。
中華民国二年とは、このような大きな変革の時期だった。欧陽庚は孫文と同郷であり、一八九六年孫文が赴米の際には入国保障手続に尽力している。
可亮氏は、こんなことも言っていた。
「わたしのお父さん、チリ国のほかに七ケ国の公使をしました」
欧陽庚は、一九一六年に袁世凱が急死したあとも、長く海外で活躍している。およそ半世紀におよぶ外交官生活だったことになる。老後は故国に戻り、中華民国三十年二月五日、北京の欧陽宅(東四弓弦胡同三十號)に於て、八十四才でこの世を去った。
前にも書いたように古い北京の地図を拡げてみると、この欧陽宅の番地は景山から程近い所である。紫禁城の北側の隣に位して、北京の中心部である景山は、私も子供の頃に両親に連れられて、しばしば訪れた懐しい場所でもあった。そして、ここは又、一九一八年五月二十三日欧陽可亮が産ぶ声をあげた故居なのだ。
可亮氏の話はまことに断片的であった。
九才の時にチリから中国に戻って来たそうだ。チリからということは、当時、父親、欧陽庚がチリ公使をしていたので、実父の許から帰国したことになる。
一度はアメリカ大統領の養子となるべく海を渡ったはずなのだが、うまくゆかず、欧陽庚が再び我が子を引き取って育てたらしい。
中国に戻った可亮氏は、小、中学を経て、蘇州の東吾大学に入学した。そこで日支事変が勃発した。日本軍に追われた可亮氏は漢口に逃げた。それからのち、西安を通って延安に行き、抗日大学に席をおいた。
その頃、延安ではかの有名な詩人艾青が農村工作隊の隊長をしていた。可亮氏は、この艾青の下で書記を務めながら、しばらくは充実感に浸っていた。農村工作隊員として各地をまわっていた時に、視察に来ていた周恩来の目にとまった。扭秧歌(田植踊り)を元気良く歌い踊っている青年可亮を見て、周恩来は両手を大きく拡げ、顔をほころばせて
「ミヤオトンチ(小同志)がんばっているな」
と叫んだと言う。
しかし、時がたつにつれて、次第に可亮青年はこの延安の生活から坺け出したくなってきた。何故なのか。私が知る限りでも、欧陽可亮という人は、学徒として、又甲骨文字研究については驚くべき根気をもって打ちこんできた人であるが、そのほかの部分では、かなり気まぐれであきっぽい面が多かった。
当時の農村工作ということは、不屈の根気と忍耐力がなくては出来ることではない。又、その努力が果して実を結ぶのかどうか。もし、結ぶとしても何時の日のことなのか、果て知れぬ泥沼の中の斗いだった。
欧陽可亮氏は、ヨーロッパ風を身につけた華やかな外交官の家庭で育った坊ちゃんである。
そういう青年が、延安の生活に次第に焦燥感をつのらせていったことは当然と言えば当然ではないだろうか。可亮青年は北京に戻り、中国大学に通いはじめた。その頃、可亮氏は母恋しいホームシックにかかっていたのだという。私はこの話を聞いた時、先生は、やっぱり大変な甘えっ子なのだと思った。
しかし、折角帰って来た北京であるのに、ここで一大事件に捲きこまれることになる。
「わたしの一番上のお兄さんは無線技師でした。お兄さん、妙峯山の八路軍総司令部と延安との連絡のための無線装置を組み立てました。そのためにお兄さん日本憲兵隊につかまりました。一度は釈放されましたが、又つかまりそうでした。今度つかまったら銃殺されます。お兄さんアメリカに逃げました。」
「まあ、すごい話ですこと。それにしても、どうやってアメリカに渡ったんでしょう」
「わたし、よくわかりません」
とに角、この兄の逃亡によって可亮青年は弟や友人達と共に、日本憲兵隊にいっせいに検挙されてしまったのである。
可亮氏は、ここでしばし目を閉じて昔に思いを馳せているようだった。そして、首をかすかに振りながら更に話を進めた。
「わたしは甲骨文字学者です。日本の憲兵隊、わたしを殺すことは考えていませんでした。でも、わたし、電気拷問四回かけられました。」
「まあ」
私は言葉も出なかった。この時、私は昭和十九年十二月におきた、父、梨本祐平のあの事件のことを思い出していた。翌、昭和二十年八月の日本の敗戦がなかったら、父はどうなっていたのだろう。おそらく殺されていたに違いない。
日本の憲兵隊という所は、何という馬鹿げたひどいことをくり返してきたのだろう。
しばらく沈默が続いたあと私は口を開いた。
「では 先生の今のお身体も、その時の影響があるのでしょうか」
「さあ どうですか。きっとあるでしょうね」
この事件を知らされた前述の王克敏(華北政務委員会主席)は、自分の甥である欧陽可亮とその関係者を救うために、日本の有力者(この中に私の父もいた)に尽力を乞い、日本憲兵隊とかけ合って、夜を日についで奔走してくれたのだそうだ。そのおかげで関係者一同は全員無事に釈放された。
望郷の念止みがたく戻って来た北京だったが、こんな事件に遭遇して可亮青年はすっかり落ちこんでしまった。これから先き、どうして生きていこう。
「わたし ずい分迷いましたね」
「そうでしょうとも。大変なご苦労でしたものね。」
可亮氏と相対していて、私は自分が日本人であることが、たまらなく恥かしく辛かった。
冷いお茶を入れかえて、そっと差し出しながら、これからは、この方のために私に出来るだけのことをさせて頂こうと固く心に誓わずにはいられなかった。
「わたし 上海に行こうと思いました」と可亮氏は続けた。
しかし、当時、大陸の各地で日本軍が厳重に見張っている中で上海に行くことは容易なことではない。可亮氏は思い切って歩いて上海に行くことにした。食料にもこと欠きながら、先ずモンゴルに出た。そして四川省から香港に出て上海に辿り着いた。
「やっと上海には来ましたが、わたし仕事ありません。その時ですね、東亜同文書院で中国語の講師探している新聞広告見ました。」
早速応募し、何十倍の難関を突破して東亜同文書院の講師になることが出来た。昭和十七年四月のことだった。昔の中国の人の恩義の厚さは、我れ我れ日本人も鏡とせねばならない。八王子の偕楽園老人ホームで暮した人生最後の日々の中にも、可亮氏は自分が最も苦しかった時期に、講師として迎えてくれた東亜同文書院の学長への感謝の気持は少しも薄れることがなかった。可亮氏は、こうして同文書院の学生との触れ合いに心の傷を癒しながら、やがて昭和二十年を迎えた。戦雲いよいよ急を告げる時だった。米軍による杭洲湾上陸が避けられぬ事態とみた日本の支那派遣軍総司令部はゲリラ戦を展開しながら徐州付近まで引き下がって一大決戦の覚悟を決めていた。日本軍は中国人に中立を守らせるために、新上海特務機関を設立し、中国語の新聞『国風』を発刊することにした。可亮氏は日本軍からこの新聞の編集を手伝うよう依頼された。
私は、どうも欧陽可亮という人は中立という言葉に弱いような気がしてならない。日本軍のいう中立とはどんなものであったのか、一面聞えの良いこの言葉の奥に何が潜んでいたのか、可亮氏は思い及ばなかったのだろうか。つい三年前に、日本憲兵隊によって、あんなに手痛い目に遭ったばかりではないか。
私はたずねた。
「でも先生は、本当は日本のファシズムがお嫌いだったんでしょう。抗日大学に席をおかれたぐらいですもの」
「そう そう、あなたの言う通りです。でもわたし、アメリカはもっと嫌いでした」
私はハッと気づいた。そうだ、可亮氏は子供の頃にアメリカの家庭にいたことがある。肌の色の違いによって受けたその時の傷みが心の奥底に根強く残っていたのだ。その思いが、可亮氏を敢えて『国風』への編集にかりたてていったのだ。外交官の子として生まれたばかりに、小さい頃から特殊な体験を余儀なくされ、そのような屈辱感をずっと抱き続けねばならなかったのだ。私は溜息が出た。先生は何て数奇な星のもとに生まれた人なのだろう。何故なら、『国風』の発刊にたずさわったことが、やがて可亮氏の運命に大きな翳を落すことになっていったからである。
昭和二十年八月十五日、日本は敗戦国となった。となると、可亮青年が『国風』の編集に手を染めていたということが、日本軍に協力したとみなされて漢奸(売国奴)の嫌疑をかけられることは間違いない。
あの頃、父、梨本祐平と親交厚かった親日派の立派な中国の方達が、日本が敗れたことによって漢奸という汚名を着せられて、次ぎ次ぎに処刑されたことを私は今も鮮明に記憶している。私はその方達すべての人が祖国を売るつもりだったとは思えない。本当に日本と中国の和平を願っていた人達も数多くいたはずである。こんなところにも、戦爭がもたらす悲劇が存在しているのだ。日本と中国と二つの国の狭間の中で苦しんだあの人達は、どんなに無念の思いにかられて死出の旅路についたことだろう。あれから五十年を経たが、私は一日としてその人達を忘れたことはなかった。私の日々は朝目覚めてその方達を偲び、祈ることから始まっている。そんな私であってみれば、可亮氏の話は長い間ずっと、私の胸の奥深く疼き続けていた痛みに対してひしひしと迫ってくるものだった。
思案の末、可亮青年は古い友人を頼って台湾に逃れることにした。
ふり返って、東亜同文書院で教鞭をとっていた三年間は、欧陽可亮という人間性とその才能の発露に大切な時期だったようだ。一九四三年(昭和十八年)可亮氏は大学中国語文講師合格、書道教授合格、中国外交官試験合格とめざましい成果を収めている。又、一方、華日大辞典の編纂に心血注いでとり組んだ。後年、可亮氏が日本に於て中国語辞典編纂にかけがえのない土台となった要因はこの時から培われてきたものだったのだ。
欧陽可亮という人の運命は最初のスタートは目覚ましいが、終りにきて悲劇を伴うように思える。
台湾に渡った可亮氏を待っていたのは、思いがけない幸運だった。友人林茂生の世話で大同鋼鉄機械公司の副総支配人となり、大同工業職業学校の理事、教務主任を兼務することになった。その他にも、台北州立第二中学校教諭、台湾省立成功中学校教務主任、台湾大学、師範大学講師等の名誉職についた。やはり欧陽詢直系の名門の出であることと、上海東亜同文書院の頃に取得した、いくつもの資格が大きくものを言った結果であろう。
こうして可亮氏は吶吶としてご自分の過去を語られていたが、ある日、私がそれまで全く耳にしたことのない言葉が飛び出した。
「二・二八事件」
「えっ 先生は、二・二六事件にも関係があったのですか」
私は、てっきり、日本でおきた昭和十二年のあの雪の朝の二・二六事件のことを二・二八と言っているのだと思いこんでしまった。
「いいえ、二・二八事件です。このこと知られていませんね、台湾であった事件です。」
「あら そうだったのですか」
「わたし国民党政府の軍隊に捕えられて銃殺されるところでした。手、こういうふうに縛られて(先生は自由な左手を背中の方にまわして、後を向いて私に見せた)沢山、沢山の人、川の渕に立たされて 次ぎ次ぎに殺されました。」
「まあ 恐しい」
「わたしの隣の人殺された時、『欧陽可亮いるか。欧陽可亮殺してはいけない』と声がして、わたし救けられました。だからわたし神樣信じています」
「先生、その事件は何時頃のことなのですか」
「一九四七年(昭和二十二年)です」
又々、私はわからなくなってしまった。終戦後の台湾にどうしてそんな事件がおきたのだろう。又、いくつもの名誉職についていたはずの先生が、どうして、そんな事件に捲きこまれることになったのだろう。
それからの私は、この二・二八事件について少しづつ関心を持つようになっていったが、この事件に関しての情報、資料はまるで見つからなかった。何だか秘密の箱の中に閉じこめられてしまったような感じの事件だった。
可亮氏の話によると、終戦後の台湾の人達は中国大陸の祖国の同胞が来るのを大変喜んで待っていたそうである。ところが、台湾に来た蒋介石の国民党政府軍は汚職にまみれ、軍紀は乱れ、最低の人間の集団だった。そのために台湾は社会の治安の乱れとインフレが進んで絶望的な状況におち入ってしまった。更に国民党政府軍は、台湾人民をなぶりものにしてはばかるところを知らなかった。
当時の台湾の長官公署は、タバコを専売局の専売品として大切な財源としていたそうである。にも拘らず、彼等は自ら平気でタバコの密輸を行なうという厚顔ぶりだった。この厚顔な悪徳のしわ寄せは、密輸の大元締めを野放しにして、末端の小売業者ばかりが摘発されるという許しがたい成り行きとなっていた。
そういう状況下にあった一九四七年二月二十七日の夕刻、台北市で密輸のタバコを売っていた一人の台湾人の老婆が取締員達にとがめられ、商品のタバコを没収されたばかりでなく、この老婆の所持金まで取り上げられるという事件がおきた。老婆は手をついて泣きながらお金を返して欲しいと哀願したが、聞き入れられず銃で頭を殴られて血を流して卒倒した。これを見ていた周囲の群衆が取締員達に激しく抗議したので、取締員達は逃げながら発砲し、その流れ弾が一市民に当って即死するという結果を招いた。
翌二十八日、怒りに狂った台北市民は、つぎつぎと抗議の行動をおこし大デモがくり拡げられた。それは都市のみにとどまらず、台湾全土に波及して、国民党政権に対する蓄積された日頃の憤滿は最高潮に達して爆発したのである。当然、多くの犠牲者が出た。国民党の軍と憲兵隊は群衆に向って機関銃を掃射して鎮圧にかかったが、事態は増々悪化してゆくばかりだった。この一件を二・二八事件というのだが、それだけでは、何故欧陽可亮氏がこの二・二八事件に捲きこまれていったのか、その実状を把握することは出来ない。
可亮氏の話は更に続く。
三月一日、台北市では台湾人の民意代表による二・二八事件処理委員会が設置された。この委員会は自分達は政治改革を要求するもので、他には全く意図のないことを強く主張していた。にも拘らず、時の国民党の陳儀行政長官は、陰険にも、この処理委員会と交渉をしながら、これまで国民党政権に批判的であるとみなされていた台湾人リストを作成し、大弾圧の準備を進めていたのである。大陸本土から国民党の増援部隊が到着すると、陳儀は手の平を返したように二・二八事件処理委員会は不法なものであるとして解散命令を出した。そして、ただちに残忍極まりない殺戮を開始し、虐殺の手は市民のみにとどまらず、知識人や社会的指導者にまで及んだ。
可亮氏の古い友人であり、可亮氏が台湾に来た時に職を斡旋し身の立つように、いろいろと世話をしてくれた林茂生も、国民党政権の腐敗を痛烈に批判していたために逮捕され処刑された。その遺体は麻袋に詰められて淡水河に投げこまれたということである。
林茂生は東京帝国大学を卒業し、のちにコロンビア大学の哲学博士の称号を得た人物である。当時、彼は台湾大学文学院院長の地位にあり、自分でもいくつかの会社を経營し、台湾の平和と発展のために巾広い活躍をしていた。
林茂生のほかにも多くの優秀な人材が逮捕され処刑された。
要するに、国民党政権は二・二八事件をきっかけとして、根こそぎ台湾の知識人の殺戮を行なったということになる。
鈴木明著『台湾に革命が起きる日』によると、これら台湾のインテリ層の人達は、日本帝国主義時代に台湾の民主化のために心を砕いて、一番苦しかった地位にあった人達であったと記されている。これらの人達は、親日、反日には関係のない真の民主主義者であった。それ故に、国民党政府の暴力的な政策に批判的であったので、狙い撃ちにされてしまったのである。処刑された知識人は、みな可亮氏の親しい友達だった。ここまでくると、可亮氏が二・二八事件に捲きこまれてしまった経緯がわかるのではないだろうか。
可亮氏は台湾に住していたとはいっても、もともとは大陸本土から渡って来た人である。捕えられても、すぐに処刑には至らなかった。三ケ月間獄舎につながれて呻吟した。その間の拷問は言語に絶するものだったという。肋骨は折れた。肺を病んで熱を発し、呼吸するのも苦しかった。可亮氏は、この三ケ月間は、まるで三十年を生きたような長さを感じたと言っていられた。又、殺されてしまった沢山の懐しい友を偲んで、この余りにも理不尽な国民党政府のやり方に、憤りの念を抑え切れず、涙にくれる日々でもあった。
そんな時、白崇禧という国民党の將軍が台湾に赴任してきた。白崇禧は、かつて蒋介石が南京政府を樹立した時の軍閥の最高峰にいた人物である。白崇禧は軍人ではあっても学識の高い人だったので、中国でも有数の優れた甲骨文字の研究者であり、欧陽詢の直系の血をひく由緒正しい欧陽可亮を良く知っていた。白崇禧は欧陽可亮の留置を知ると、すぐに自らが保証人となり、可亮氏の釈放を命じた。こうして可亮氏は奇蹟的に救われたのである。
釈放はされたものの、財産は全て沒収され、職を失ない、挙句の果ては、獄中で受けた拷問のために長期間の療養生活を送らねばならなかった。
三ケ月の間に、台湾はすっかり面変りしてしまっていた。変らないのは、台北の街路を吹き抜けてゆく風だけのように思える。温かく手をさしのべてくれた心の友は、もうどこを探しても見つかるはずがない。皆んな二・二八事件の虐殺の犠牲となって、この世から消えていた。今や、欧陽可亮は、浦島太郎となってしまったも同然だった。鏡を見れば頭髪は急に薄くなり、白髪と化していた。ベッドに身を横たえて、ひたすらに身体の快復を待ちながらも枕は涙で濡れた。身を切られるような悲しさと寂蓼感に悶々として苦しむ日々が続いた。可亮氏は、奇しくも自分ひとりがこうして命あることを思うにつけ、己れの宿命の数奇さを、前にも増して考えるようになっていった。
しかし、もともと頑健に生まれついた人である。日を経るに従って、めきめきと健康をとり戻していった。
これから、どうして生きてゆこうか。亡き友人の分までも生き抜いてゆかなくてはならないのだ。可亮氏は、いろいろと思案した。そうだ。日本に行こう。日本には東亜同文書院の頃の友人がいるではないか。
昭和二十九年十一月、あの二・二八事件から七年の才月が流れていた。それは窮乏と病との斗いの年月だった。
かつては抗日大学に席を置いたこともある可亮氏にとって、日本に渡るということは皮肉なまわり合せのようにも思えるが、その時の可亮氏の胸中は、日本に対して、同じアジアの同胞としての連帯感の方が強く燃えていたのだった。
日中同舟風雪相殺
私の筆は再び欧陽可亮氏が来日した一九五四年(昭和二十九年)年に戻って行く。
上海の東亜同文書院で、又新聞『国風』の編集等、日本とは縁を深くしていた可亮氏ではあるが、いざ、日本の土を踏んでみると複雑な思いが胸の中を去来してやまなかった。一九四二年(昭和十七年)北京で兄の身代りだといって日本憲兵隊に逮捕され、四回の電気拷問に苦しんだ記憶がズキズキと疹き始める。
『日中同舟風雪相殺』
可亮氏はこの言葉に自分の全ての心情を委ねて日本での生活を築いてゆくしかなかった。
先ず東亜同文書院の頃の友人を訪ねた。可亮氏が予想したように皆温い手をさしのべてくれた。国際基督教大学、一橋大学、産業能率大学、愛知大学の講師、拓植大学教授の職を得、特に愛知大学では中日大辞典編纂の責任者として、台湾時代に培った力量を忌憚なく発揮した。外務省研修所で中国語も教えることになった。一九五四年から、わずか数年の間に可亮氏は見事に生活の安定を得ることが出来たのである。
住居は縁あって三鷹市大沢に定めた。現在私もこの三鷹市大沢に住んでいるが、前にも書いているように、東八道路という巾広い道路が出来て、少しは以前よりは開けているのだろうが、東京の中心部から帰ってくると、空気を美味しく感じることは絶妙である。まして、四十年昔のこの辺りがどんなものであったか。きっと広々として、地平線を臨むような趣きであっただろう。緑豊かに、その水貭の良さは今以て変らない。こんな地に住んで、長い間激動の中で斗い続けてきた可亮氏にとっては、まさに天の楽園にも登ったような心地であったに違いない。
この頃に、かつて上海時代に可亮氏と恋仲だったという中国の女性が、結婚もせずにいると知って、この三鷹に迎えたものらしい。
しかし、常に可亮氏の脳裏から離れないのは、中国にいる年老いた母親のことだった。時代の波に翻弄され続けたとはいえ、親孝行らしきことは何も出来ずにきた自分だった。母には心配のかけ通しだった。可亮氏は、今こそ親孝行がしたかった。
可亮氏は語り続ける。
「その頃、わたしのお母さん、一人で北京にいました。わたしはお母さんを日本に連れて来て一緒に暮したいと思いました。」
「それで先生はお母さんを迎えに北京にいらしたのですね」
「そうです」
こうして、一九六〇年(昭和三十五年)春、可亮氏は母を迎えるべく、祖国中国に向って機上の人となる。思えば、中国を離れてから十八年の歳月が流れていた。可亮氏は政治家になろうと思ったことは一度もないと言っていた。東洋の文化を愛し、世界に東洋の文化を紹介し広めることを理想として生き続けてきた。
「わたしは学者です。わたしは政治家ではありません。」
何度、私にこう語ったことか。しかし、生涯を東洋文化の研究に身を捧げようとした、この偉大なる人物にも、時代の波は容赦なく押し寄せて、この人の運命を狂わせてしまったのだ。命の危険にさらされながら、上海から台湾へ、更には日本へと。十八年は、激動と波瀾に充ちて、歴史のうねりと共に生き抜いてきた流転の歳月の積み重ねだった。
十八年ぶりにくぐる北京の家の朱色の門は、幾星霜を経てさすがに色褪せていたが、可亮氏にとっては、一日として瞼から離れたことのない懐しい故居だった。
「マーマ」石庭の向うに母の姿が見える。
「おお、可亮か」
若い頃にはふさふさとして美しかった黒髪も、今、目の前にみる母からは遠いものとなっていた。櫛の目がくっきりと見えるほどに薄くなって、胡麻塩に目立つ白髪が、これまでの母の苦労のほどを物語っていた。
四十二才の男盛りの息子は、年老いた母を両手に抱いて涙にむせんだ。
「可亮よ、よく生きていてくれた。ほんとによく生きていてくれたね」
母の涙はとどまることを知らない。
「マーマ、わたしはもうマーマを一人にはしない。わたしと一緒に日本に行こう。わたしはマーマを迎えに来たんですよ」
「ありがとうよ、可亮 わたしは日本でもどこでもお前についていくよ」
親と子の熱い涙は、長い苦難の年月を流し去るかのように胸から胸に激しく浸透していくのだった。
可亮氏は、この帰国の際に友人に連れられて周恩来総理を訪ねている。周総理は、昔、青年欧陽可亮が、延安で農村工作に加わり、扭秧歌(田植踊り)を元気よく踊っていたことを覚えていた。
「おお あの時の小同志か。よく来てくれたな」
可亮氏はその時の周恩来総理との思い出をこう私に語る。
「周総理は、わたしの頭の毛をつまんで 『パーツン』(拔葱)と言って、笑いながら撫でてくれたことを覚えていてくれました。わたしは周総理の記憶力のすごさと人間性の大きさに改めてびっくりしました。周総理と握手した時、その手はとても温かかった。」
更に周総理は可亮氏にこんな言葉を残した。
「いずれそのうちに、私の手紙が君のところに届くことになるかもしれない。君は日本に在住しているのだ。その時には、どうか大いに祖国中国のために尽してもらいたい。」
熱情多感な欧陽可亮氏である。この周総理との再会に、感激に胸躍らせて日本に帰って来た。
左手の巨人
一九六一年(昭和三十六年)四月、可亮氏はある東亜同文書院の教え子の紹介で三井物産の中国語の講師を引き受けることになった。
三井に就任して一年ぐらいたってから、可亮氏は社長水上達三氏と会った。
ごく世間一般の挨拶ののち、水上社長は三井物産は今後優秀な人材を中国問題、国際間題に専念させる計画なので、語学教育と共にその方面の指導もよろしく頼むと言い、三井物産に於る中国語教育の重要性を熱をこめて語った。そして、殷時代の銅器に刻まれた金石文の鑑定を可亮氏に依頼した。
欧陽可亮という人物の学識の高さと、その由緒ある家系を熟知していた水上達三は可亮氏を単なる中国語講師(表向きはそうであったが)にとどめるつもりはなかった。
各大学の講師という職務と三井の中国語講師を務めながら、比較的平温に何年かが過ぎていった。
一九七〇年(昭和四十五年)が明けると、松村謙三、藤山愛-郎、田川誠一、川崎秀二等が中国を訪問することになった。この時の周恩来総理宛の親書が三井を通して可亮氏のもとに届けられ、中国文に翻訳するよう依頼された。可亮氏は夜を日についで、正確の上にも正確を期して翻訳に専念した。が、その翻訳の原文は何故か三井の社員がすぐに持ち去り、可亮氏の手許には一切残されなかった。それにしても、どうして、このような国家的な重要な文書が、三井物産というところを通さねばならないのだろう。この時、可亮氏は言いしれぬ疑惑を感じたという。
しかし、可亮氏のそんな思惑などにおかまいなく、それから間もなく可亮氏は三井から託される書翰の翻訳に多忙な日々を送らねばならなくなった。その親書の差出人は佐藤栄作(総理大臣) 田中角栄 三木武夫 大平正芳 福田赳夫 藤山愛一郎 宇都宮徳馬 二階堂進 井出一太郎等であり、全て周恩来総理宛のものばかりだった。可亮氏はその時のことを述懐してこう語る。
「犬猿の仲のような自民党の派閥の親書がどんどん三井に集められてくるのをみて、わたしは水上社長の力量のすごさにびっくりし、こわくなりました。
まさに、影の政府というべきでしょう。これでは、内閣を造ることも潰すことも、外交政策も意のままに動かすことが出来ること当り前です。」
日本の財界人のどろどろとした実態と政界人の癒着のありようを可亮氏はつぶさに目の前に見てきた人物なのだ。
それでも可亮氏は默々として親書の翻訳を続けた。可亮氏の脳裏には常に周恩来総理の言葉が刻みこまれていた。
「君は日本にいるのだ。時期が来たらどうか祖国中国のために尽してくれよ」
時期とは、日本と中国の長年の悲願である日中国交回復を指していることは明らかだ。
日本と中国の友好のために、今、自分が出来ること、それは、こうして数多くの親書を翻訳し、両国の意思を正しく伝えてゆくことなのだ。可亮氏は固くそう信じていた。
「川合さん、わたしのお母さん、こんな忙しい時に脳溢血で倒れました。救急車で三鷹中央病院に運びました。わたしは看病のため毎日病院に通わなくてはなりませんでした。」
その頃、私の母も脳血栓で倒れて同じ病院に入院していたことは前述した。病院のどこかで可亮氏とすれ違っていたかも知れない。
「先生、お辛かったでしょう。先生は本当に親思いでいらっしゃるから」
「はい、どうもわたしは十三日という日は良くありません。十三日に良くないことがおこります。お母さんも十月十三日に亡くなりました。」
可亮氏の母堂は息子に迎えられて日本に来てから約八年ぐらい息子と共に暮してこの世を去った。
最愛の母を失った可亮氏の胸中は察して余りあるけれども、とに角可亮氏はその間に孝養を尽し、母の最后を看取ることが出来たのだ。私はこれは大変に幸せなことだったと思う。可亮氏の親を思う一念と努力が天に通じたのだろう。戦爭は終っていても、あの激動の時代の余波を受けて、親の死に目に会えなかった人は沢山いたのだから。
母の告別式を終えると可亮氏は母の遺骨を北京に持ち帰るべきか、日本に埋葬するべきか、今迄考えていなかった問題に直面した。母思いの息子は、『マーマは一番どうして欲しいのだろうか』と母の気持に思いをめぐらせるのだった。遺言では愛する夫の欧陽庚と一緒に埋葬して欲しいと言っている。しかしその頃、中国では文化大革命の風が吹き荒れていた。思案の末、可亮氏は八王子霊園に墓地を買い求めることにした。父、欧陽庚の遺骨は、いずれ北京に行って、日本に持ってくればよい。そして、母と一緒に埋葬することにしよう。
その頃の八王子霊園はまだ樹木は少なかったが、果てしなく広々として静かだった。ここには都心特有の騒音も届かない。可亮氏の胸は滿足感でみなぎった。『マーマもきっと喜んでくれている』いつの日にか、自分も母と共に、ここに眠ることになるのだ。余り大きくはないが茶色がかった朱色の石碑に甲骨文字で母の名を刻んだ。それが一際目立っていかにも欧陽家らしい墓となった。
刻々として日中国交回復の日が近ずいていた。八王子に墓を造り、ますます日本に骨を埋める覚悟を決めていた可亮氏にとっても、それは待ちに待った悲願であった。しかし、その日を前にして、可亮氏は自分の身体に不調を感じるようになった。これまでの長い斗いの年月の疲れが出たのであろうか。朝はさわやかに目覚める可亮氏が次第に起き上るときに頭が重く、苦痛を感じるようになっていった。でも責任感の強い可亮氏は休まなかった。中国語教室で自分の講義を待っている人達のことを思うと寢てはいられない。又、可亮氏がどんなに日本を愛していても、島国的思考の日本にとっては、可亮氏はどこまでも一外国人、一人の異邦人に過ぎないのだ。有給などあらうはずもなく、休めばそれだけ収入は減ってしまう。無理に無理を重ねた末に、遂に可亮氏は母と同じ脳溢血で倒れる結果となってしまった。
この時を境に運命は下降線の一路を辿っていった。不要になれば紙くず同然に捨てられてしまう。それが商社のエゴというものか。その頃の可亮氏は三井の強い要請で、ほかのあちこちの学校の講師もほとんど辞めてしまっていた。可亮氏が倒れたとき、家族は一体どこにいたのだろう。私の疑問を解く鍵は可亮氏亡き今は皆無である。とに角、たまたま訪ねてきた友人に発見されて救急車で病院に運ばれた時は再起不能と思われるひどい状態だったという。もう少し早くに処置をほどこしていれば半身不随は免れたかもしれない。しかし超人的な可亮氏の生命はここでも絶えることはなかった。
可亮氏は語る。
「気がついた時、わたしは右手が動かないだけでなく、全く言葉を忘れてしまっていました。わたしの頭の中は眞白でした。母国の中国語も日本語も英語もスペイン語もみんなどこかに消えてしまいました。ただ覚えていたのはヘブライ語だけです」
「へえ- ヘブライ語ですか」
またまた私は目を丸くした。
「そう旧約聖書のヘブライ語です」
可亮氏はアメリカでキリスト教の幼児洗礼を受けている。私はこれまでの会話から、可亮氏が聖書にも通じ、一方仏教の涅槃経をも学んでいることは知っていたが、まさか生と死の狭間にあってヘブライ語のみ思い起していようとは、これが驚かずにいられるだろうか。
『はじめに言葉ありき』という聖書の一行が私の頭に浮んだ。
私は改めて目の前にいる白ひげの老人をみつめた。本当に不思議な人だ。
欧陽可亮と甲骨文字、三千年の昔にさかのぼる難解な甲骨文字にとりつかれた男。きっと彼は、過去世に於て、それも遠くこの宇宙が創造される頃に最初にこの世に生まれていたのではないだろうか。そして言語と文字の基となる学問を究め、その発展に身命を捧げた人物なのかもしれない。
私の想いも途方もなく太古に向って拡がるばかりだったが、仙人のような可亮氏の風貌をもってすれば、そんな想像もあながち荒唐無稽とばかりは言えないような気になってしまう。
私は可亮氏は三井物産にのめりこみ過ぎたと思っている。老獪な水上達三は、安住の地を求めて、ようやく日本に辿り着いた一人の異邦人を、甘言をエサに利用するだけ利用し、役に立たなくなるとタダ同然に追い出してしまったのだ。可亮氏の家庭はこのあたりから崩壊していったものと思われる。恐らく家族にとっては、人を信じ過ぎてだまされた最も愚かな人間としか思えなかったのだろう。それは正直なところ、話が進むにつれて私も等しく感じたことだった。
『欧陽可亮という人は天才なのかしら。それとも大馬鹿なのかしら』
かつて私がしばしば父梨本祐平に対して抱いた疑問を今、再び可亮氏に感じなくてはならないとは。私は自分が背負っているこの因果な星のめぐりにひとり苦笑せずにはいられなかった。
結局可亮氏は心血を注いで築いてきた社会の土台を根こそぎ失ってしまったのだ。その上に家族は離散し、身体は半身不随という障害を背負うことになった。これからはどうして收入の道を得たらよいのだろう。人の何倍もの険しい人生を斗い抜いてきた可亮氏であるが、さすがにその身を切られるような狐独感を克服することは出来なかったのではないか。
安陽に可亮氏からみれば孫のような年令の一人の娘が日本に来たがっていた。可亮氏は早速その娘と彼女の恋人を日本に呼んで、春秋学院に住まわせた。そして先ずその娘を拓植大学に入学させ、その恋人には仕事をみつけて、彼女が卒業したら、そのあとに大学に行くよう手筈を整えてやった。
私が可亮氏とつき合うようになってからも可亮氏が彼女に注ぐ愛情は並大低のものではなかった。時には目の中に入れても痛くない可愛いくてならない我が娘のようであり、時には年の離れた恋人に思いを寄せるかのようだった。一日として人を愛さずにはいられない可亮氏の性格からみれば当然のことかもしれない。絶望と寂蓼のどん底から這い出して生きる力を見出していくためには、可亮氏のような人には傍にこよなく愛せる人間がいることが必要だったのだ。第三者からみれば特に何ということもない娘だったが、可亮氏が揮身の力をふり絞って逆境から起ち上るためには、案外大きな役割を果した存在だったのだろう。
こんな辛く苦しい暮しの中にありながらも、可亮氏は祖国中国への熱い思いを失なうことなく、沢山の中国の人達の面倒をみつづけた。教え子を含めてその数は三万人にのぼると言われている。それらの人達がどこまで可亮氏に深い恩恵を感じているのか、可亮氏が老人ホームに入ってから偕楽園に訪ねて来た人は、私の知る限り前述の安陽から来た娘のほかに、前記の女流美術家一人しかいない。
私は中国の誇る儒教の精神も次第にすたれてきていると思わずにはいられない昨今である。
日中国交が回復して十年近い歳月が流れていった。その年月は右手が駄目ならば左手でと、毎日左手で甲骨文字を書くことに身魂打ちこんで修練を重ねてきた日々であった。『左手の巨人』いつしか可亮氏は人々からそう言われるようになっていた。
可亮氏には、今ひとつやらねばならぬ大事業が残されていた。それは甲骨文字研究の集大成ともいうべき集契集を出版することだった。
『集契集』の出版は、欧陽可亮氏が心から崇拝し、師事した二人の大学者、汪恰、董作賓両先生の遺志であり、その両先生の悲願を継承し、結実させることの出来るのは、欧陽可亮氏をおいてほかに人はいなかったのである。
ここに、集契集出版の際に『集契集の物語』と題して記された編集者の手記がある。その一文を紹介する。
『集契集』の物語
漢字の先祖にあたる甲骨文字は、紀元前一三八四年から一一一一年にわたり使われたもので、商(殷)時代の貞人(史家)が亀甲や獣骨に彫刻して朱獣を塗った古代の美術文字であります。別称『契文』とも言います。『契集』は、この甲骨文字を集めた書物です。
本書は、非常な苦心の末、できあがった貴重なもので、使用されている一千余の文字はすでに解読されたものばかりです。廃字となったもの、または商時代以後につくられた文字は省かれております。書中の対●(耳偏に咲の旁)、詩、詞は書家が甲骨文字を、学者が甲骨文の研究に、あるいはてん刻家の彫刻に、または美術愛好家の鑑賞用、はたまた蔵書家が愛蔵するのに価値あるものです。すなわち文学、考古学、美術、書道の各方面に関係のある宝典とも言えましょう。
本書の詩、詞、対●(耳偏に咲の旁)の作者、汪怡先生は、『中国大辞典』および『漢語詞典』の編集責任者であり、文学者として教養の高い学者でした。したがって、中国語を研究する学者は、洋の東西を問わず高名な先生の辞典を使っております。しかし、先生が甲骨文の收集方面に優れた才能を有していたことを知る人はわずかでした。
後年、汪怡先生の中国語界における功績を記念するため、この『集契集』を一刻も早く出版するように多くの人びとが望みましたが、残念なことにその原稿が紛失したのと、この仕事の面倒さを敬遠して出版の引き受け手がないままに今日に至ってしまいました。
その後、汪怡先生は、一九五〇年一月に現代の文字で『集契集』の原稿を完成しました。それから一九六〇年三月のはじめ、高令と健康状態を考慮された結果、無二の協力者である董作賓先生の賛成を前提として、欧陽可亮先生にこの原稿を貸与する旨を自署し、後事を董先生に託しました。そして、惜しくも同年七月、八十四才をもって他界されました。
汪先生とともに、本書の甲骨文字の鑑定にあたった董作賓先生は、甲骨学に多大な貢献をなさったこの道の大家であります。唐蘭氏は『卜辞の研究は、雪堂(羅振玉)が最初で、観堂(王国維)がその歴史を調べ、彦堂(董作賓)が時代区分をなし、鼎堂(郭沫若)がその倒証を挙げて隆盛を極めた』と言っていますが、現在、雪、観、彦、鼎の四堂はすでに亡く、遺著の出版は残った者の重要な仕事でもあり、また責任でもあると思います。
貞人如水と号される欧陽可亮先生は、幼少のころから葉爾愷先生について甲骨文字を学びました。羅振玉氏など清朝の遺臣が著わした『集殷虚文字楹帖』や『楹●(耳偏に咲の旁)彙編』の内容が古く時代遅れなのを遺憾に思っておりましたところ、たまたま董作賓先生書の『集契集』の上品で美しいのを見て喜び、早速、同書の借用を申し出ました。しかし、董先生はこの研究を人に伝えるつもりがなかったので、えん曲に断る方法として書中から二首の詞を選び上書をつけて贈りました。その上書には『欧陽先生は書道家ですから、この二幅の書に誤りがあったら正してください』とありました。すこぶる謙虚なこの文を読んだ欧陽先生は、すぐこれは借用拒否であるということがわかりました。けれども知識欲旺盛な同先生は、ぜひとも他の全部三五六首の詩、詞を見たいという思いが強く、あきらめられません。そこでこの本を借りるために長い間人が行わなかった中国伝統の礼儀、謙遜、眞ごころのこもった次ぎの方法をとりました。
一九六〇年三月一七日、欧陽先生は、董作賓先生の門下生として入門希望の書面をしたため、謝礼を入れた赤の包み紙を持参し入門の許可を請いました。そして、酒席を設け上座の董先生に向かって二本の赤いローソクをともし、うやうやしくひざまずき『三跪九頭』(三拝九拝)の礼をとりながら同先生を師と仰ぐことを誓いました。そうして『汪怡先生の集契集』を三日間貸していただきたい旨の懇請をいたしました。ここにおいて董先生はようやくこの原稿を手渡され、三日後自分で取りにくることを条件とされましたので欧陽先生は、これを守り、三日間熟覧、熟読の未約束どおり返却しました。
このとき董先生は、欧陽先生に対して『柬字一貫三』とその他の書籍を贈られ、自ら題して『可亮はよき弟子なり、この契文を受領されたし』『可亮はよき弟子なり、誤りあらば正されたし』と書かれ、欧陽先生を門弟としました。
董先生の甲骨学における造詣は極めて深く『集契集』の現代漢字を見ながら、すぐに一幅ずつの甲骨文字を書くことができ、また求める人があれば、随時揮毫しては与えていました。ですから董先生は汪先生と合作で甲骨文の『集契集』を出版すべく鋭意努力されましたが、残念にも未完成のまま一九六三年に死去いたしました。時に六十九才でした。したがって故汪、董両先生の遺志は、比較的年令の若い欧陽先生が代わって仕上げるほかありません。もちろん、これには多くの方がたの協力があってこそ、初めて成功するものです。
欧陽可亮先生は、董作賓先生の指導を受け『集契集』を二年間学びました。そしてこの『集契集』を甲骨文で書き上げ、自らの書法研究の一助としていました。また、先生は中国語の指導と研究、辞典の編集、さらに毎年一回の甲骨文書道展覧会の開催などで忙しく、またたく間に十五年は過ぎ去りました。この多忙にまぎれ『集契集』はまだ印刷されておりません。それから風のたよりによると汪、董両氏が他界されてから『集契集』の原稿は散逸し、行方がわからなくなったとのことです。これを聞いた欧陽先生は、文献の所持者として責任の重さを感じてしまいました。
この度、同好の士ならびに学生諸氏の再三の要望にこたえて、欧陽先生の書による、汪、董両先生の遺稿を出版することになりました。
貞人如水欧陽可亮先生は、書道亜聖(楷書の書聖)欧陽詢の四十四代目の子孫にあたり、一九一八年北京に生まれました。好学の徒で北京の西山石居漢文塾で励むこと十年、東吾大学、中国大学を卒業後、上海東亜同文書院大学講師および華日大辞典編集に従事されてから中国教育の教鞭をとること三十四年間におよんでおります。
この間、先生から教えを受けた日本の学生数は無慮三万余人となりました。いわば、門下生が天下に滿ちているというありさまです。先生は四種の中日大辞典編集に参加のほか、毎年少なくとも一回開かれる甲骨文書道展覧会は十八回の多きに達しております。
なお、先生の著作、甲骨文『丁香集』の菩薩蛮と山野吟の二首は、選ばれて中国歴史博物館に收められております、また、毎年日本で発行される美術年鑑、美術名典、美術名鑑、朝日芸術年鑑などには、すべて先生の名前と作品の評価が記載されております。在日中国文化人の中でも、ひときわ知名度の高い方だと存じます。
欧陽先生の一生の喜びとするところは、学生を愛し甲骨文を愛することです。この出版は、先生の外務省研修所講師二十年、国際キリスト教大学講師十八年、拓殖大学教授七年、産業能率大学教授十四年の永きにわたる教育業蹟と中日文化交流に尽くされた労に対する記念でもあります。
『集契集』の出版は治命
私の手許に大きな全紙の書道用紙の束が残されている。腰痛持ちの私には重くて一人では持ち上げられない。集契集の版下である。墨の色と朱の色と、可亮氏が左手で一字一字ていねいに書きあげていった筆のあとを眺めながら、私は欧陽可亮という人の量り知れぬ底力を目の前にみせられたような気がして戦慄を覚えた。五体滿足な人間でも、これだけの稿をまとめる労は大変なものである。まして、半身不随の老人が衣、食等、毎日の不自由な生活と斗いながら完遂したという、この事実をみて畏敬を感じない人間がいるだろうか。
更に、集契集を出版するためには資金が必要である。しかし、可亮氏には全く蓄えがなかった。可亮氏は重い靴をひきずりながら、杖をつきながら、あちらの銀行、こちらの銀行と訪ね歩いたが、春秋学院を抵当に入れるとは言っても、障害を背負った身寄りのない異国の老人に融資してくれる銀行などあろうはずもない。
遂に可亮氏は春秋学院を担保にして高利の金融機関から借り入れをする決心をした。その時の借金が、のちのちまで可亮氏の苦悩の種となっていくのだが、可亮氏にはそうするしか、集契集を出版する術がなかったのだ。
今ひとつ忘れてはならないことがある。何がここまで可亮氏に集契集出版の責任を痛感させたのか。その大きな要因を述べなくてはならない。
集契集の中に『治命に従って広く伝える』という可亮氏の論文が掲載されている。私はこの論文を読んで、学徒欧陽可亮のイメージを更に深めたが、それ以上に、これまで聞いたことのないある思想に触れて非常に興味を感じた。『治命と乱命』私はなるほどと思った。どちらが治命であり、どちらが乱命であるか、その判断を下すことは大変勇気のいることである。又、正しい判断の選択をなし得る人こそ眞に英知ある人というのだろう。
可亮氏は前にも述べたように、現実に生きていく上には天才か馬鹿かの疑問を私にいだかせた。そして、どちらかというと後者に近いように思えた。
しかし、学問上の判断は天才的だった。
集契集出版は、可亮氏が何の迷いもなく、治命であると判断したものに従ったことだったのだ。
ここに、その論文を転載したいと思う。
治命に従って広く伝える
泉堂欧陽如水
昔はひとりの人を師と仰ぎ、その教えを受けた。その師の門を根拠として一門系を結成し、それから分派して、それぞれ自己の門戸を樹立した。すなわち、師が名門の出身であれば、それを光栄と感じていたのである。且つ『天地君親師と尊び、師一家のみならず、師祖、師父、師母、師伯、師叔、師兄弟、師姉妹』など、すべて家族と同様に親しかったのである。しかも師弟の関係は国籍を問わず、国境をも越えていた。日本の水戸瑞龍山の徳川家の墓地に『明舜水牛之瑜墓』がある。これはおよそ三百年前、徳川光圀の師・朱舜水先生を埋葬したところであって、東洋での師を尊び、道を重んじる精神はまことに称讃に値する。
しかし、現代人は、指導してくれた先生の名前すら覚えず、その後もなお師弟関係を保っている人はもう奇特というべきほどである。時代の大変化につれて、師弟関係もちぐはぐになり、ただ学問の形式的な伝授が行われるだけで、政治にはあまり波及しない傾向となった。
私は農作と勉学の名門に生まれ、祖先は農業に励み、父欧陽庚は清朝の初期に外交官となった。私は北京に生まれ、一九二一年に啓蒙の師観堂王国維先生に師事し、有形無形の中にその恩惠を蒙り、亀甲文に興味を持つようになったが、印象としては甚だ薄かった。のちに外遊して帰国後は北京で勉学にいそしんでいたが、その頃駐米欽差大臣の初代大使張陰棠が、乾隆皇帝の宦官和珅の廟を入手して、西山石居漢文塾を開き、名師を招聘して専ら外交官の子弟を教育していて、葉赫・賀舎里先生や陳宝琛師伯、雪堂羅振玉師伯もここで教鞭をとっておられた。一九二七年から一九三一年まで、私もお陰で初歩的な甲骨学を学ぶことができた。その頃私は亀甲を愛好していたので兄弟たちは私のことを愚かな老四と呼んでいた。
西安事件後、国共の第二次合作がはじまり、政府は郭沫若の指名手配を取り消し、彼が帰国して抗戦に従業することを歓迎し、彼を軍事委員会政治部の第三庁庁長に任命した。一九三八年私は機会を得て●(冫に馬)玉祥、李徳全の保証の下に武漢の珞珈山で鼎堂郭沫若について甲骨卜辞辞例を学んだが、郭老は私を『泉堂』と名付けてくださった。この間の経歴を台湾では敢えて口にしなかったが、現在甲骨学を研究している人はみな書中で『郭某説』というのはすなわち鼎堂郭老の学説であるということを知っている。
さらにその後、私は一九五四年東京に居を構え、一九五九年母を北京から連れ出し、香港経由で東京に迎えたのは一九六〇年、母はここで老後を過ごすことになった。同年私は一庵汪●(忄に台)先生と彦堂董作賓先生にお目にかかり、『集契集』等十数冊の書籍がいただけたことは私の望外の喜びであった。各国で中国語を研究している人はみな汪●(忄に台)編纂の『国語大辞典』を知っており、『汪●(忄に台)速記学』を知っているが、しかし『汪●(忄に台)集契集』を知っている人は極めて僅少である。しかも、汪●(忄に台)は世上はじめて甲骨文集詞を創り出した人である。世間一般では董作賓が親しく自ら甲骨を発掘し、殷墟の断代文化を研究した功労者であることは認めているが、董大師が学術論著のほかに、甲骨文の芸術的才能を兼備していたことを知っている人は、これまた極めて少ないのである。この二老人は師に代わって私に集契集出版ならびに各国に推奬するように命じた。とりわけこの人たちは故郷を思うの情から、多くの『別情詩詞』を書いて故郷に持ち帰った。私の判断では、このお二方は生前理智のハッキリした『治命』で、汪董二師は私に『治命』に従わせようとしたのである。その頃私はまだ『乱命』なるものをも知らなかったのである。
しかし、私にも理解できなかったことは、二人の大師が相次いでこの世を去ったのち、台湾大学および学術界の多くの学者から手紙がきて『集契集』の原稿は葬儀の混乱中に遺失したとか、甚だしきは董先生自身が焼却したとかいう者すら現れたことである。私は汪先生が世を去ったのち『集契集』の原稿が董先生の机上にあったことを知っている。董先生は毎日これを繙き、手から離さなかった。拜借に行っても三日以内にお返ししなければならなかったぐらいだから、ご自分で焼却するわけなどまったくありえない。仮にそれが事実としても、それは老人の病中の意識がハッキリしない『乱命』であって、我々は『治命』に従って、広く伝えなければならず、『乱命』に従って文化を絶滅させてはならない。ここに浅学非才の私からこのことについて少し説明してみたいと思う。
『古文観止』に『晉文』という一篇があり、李密の書いた『陳情表』に『臣生当隕首・死当結草』(臣生きてはまさに身を殺しても義をなし、死してはまさに結草すべし)とあるが、注解に『治命に従い、乱命に従わず』という名言がある。
『左伝』の魯宣公十五年の記録によると、魏武子に嬖妾がいた。最愛の年若い妾で、子はなかった。武子が病床についたとき、その子魏顆に「私が死んだら、彼女を他に嫁がせよ」と命じた。病が篤くなるや、また魏顆に「私が死んだら、彼女を殺して殉葬せよ」と命じた。その死後、魏顆は「父は危篤のため、考えが錯乱していたと思われる。私はやはり最初の命令どおり父の愛妾を他に嫁がせてやる。彼女を殺して殉葬させてはならない」と言い、家人の反対を押し切り、他人の誹謗をも構わず、亡父の最後の遺言にも従わず、父の愛妾を他に嫁がせた。その時代は東周の襄王二十五年のことで、まさに封建時代であったことを知っておかなくてはならない。魏武子、名は犨といい、晉の文公の功臣で魏に封じられた。晋は春秋戦国時代の大国で、のちに分裂して戦国七雄の韓・趙・魏の三国となった。魏犨は魏国の始祖で、その頃は人を殺して殉葬しても差し支えなかったのである。魏顆が亡父の遺命に反したことは封建時代最大の不幸であって、このように進歩的な思想「治命に従い、乱命に従わず」はなかなか容易なことではなかった。それ故「陰徳大恩に報ず」と言われるのである。のちに紀元前六二七年、輔氏の役で、秦と晋が激戦を交えた。秦將杜回は有名な力士で、晋將魏顆はこれと戦ったが、とてもかなわなかった。そのとき、ひとりの老人が草を結んで杜回に抵抗し、杜回を躓かせて倒したので、勝負が逆転し、魏顆はついに杜回を生捕りにしたのである。その夜、夢にその老人が現れて「自分はあなたが殺さず嫁がせてくれた女の父親である。あなたは尊父の(治命)に従われたから、私は(結草)してそのご恩に報じたのです」と言った。このときから、「結草」は二千六百年の後においても報恩の成語となっている。そして「治命に従う」ということも、一つの大徳を学ぶ規範となったのである。
話を本題に戻そう。『集契集』は甲骨文字の内の現代●(耳扁に咲の旁)・詩・詞に限られている。董作賓師が汪●(忄に台)師を指導して作ったものであり、董先生は現代文詩詞の原稿を見て甲文に書き表す才能を持っていた。この才能があったため、文字を集めて『集契集』に書き出して出版するという公約がついに実現できなかったのである。師は私に「柬字一貫三」をくださり、自分に代わって『集契集』を出版せよと言われた言葉が、未だ耳に残っている。私はどうしても董先生が生前に自分で焼却したという説に承服できない。もしそれが事実であったとしても、それは高熱時の乱命であって、私は治命に従い広く伝える。
『集契集』は偉大な文献であり、各国の図書館・文庫・各大学でもその一部を保存し、珍蔵して研究に供すべきである。『集契集』の中国語版はすでに五百部を出版し、それぞれ友人や国内外の大学図書館に保存されている。この稿を得るまでの一九五九年から一九六〇年の二年間は、まさに私が慈母を迎える百二十日間の長期旅行や、師に対する誠意や、現代文原稿を写しとるための三日三晩の辛労や師に対する謝宴の盛況さが、今でも私の眼裏にまざまざと残っている。宴席には胡適之、賈景徳および斉鉄恨の三老が彦堂董作賓を中央に囲んでいた。董師は私を「演堂」と呼んでくださった。私ははじめて、愚か者にもそれなりの福があるという眞実を悟ったのである。私は生家の家柄と戦禍の混乱により、このような機縁を生み出したのであった。唐蘭氏は次のようなことを述べている。「卜辞研究は、雪堂が先導となって道をつけ、観堂が継いで史を考じ、彦堂がその時代を劃し、鼎堂がその辞例を発す、もとより一時の盛況を極めた」と。しかして、これは当然公正を持した論であって、決して誇張や阿諛のものではない。ただ私は亀甲学を愛好したが、生まれるのが遅く、亀甲文を発見した鉄雲劉鶚にお会いして師と仰ぐことができず、劉鶚の第一部材料書『鉄雲蔵亀』と孫詒譲の第一部研究論著『契文挙例』を購入し得たにすぎない。しかし機縁があって、政治的地位の違う四堂とお会いし師と仰ぎ、それぞれ堂号を贈られた。こう申しては人びとは信じないかもしれないが、すべて事実である。私は四堂の学問を尊敬するが、政治にはかかわらず、また参加もしなかった。二年の時日をかけて甲骨文を集めて稿を成し、かつ甲文を書くことを学び、甲文を集めて詩を作った。毎年生活のために奔走し、教学の余暇に甲文書展も開いた。『集契集』のあとにもいくつか自作の詩詞を続貂したのである。母がこの世を去った一九七四年から一九七五年にかけての服喪中は門を出ず、やっと出版に手をつけ、汪董両先生を記念し母の描いた花の絵四幅に、私が甲骨文で題し、母子合作として世に問うたのである。
一九八〇年私は脳溢血を患い、危くあの世へ行くところであったが、幸い一命をとりとめた。今、鍛練運動を強化し、これまで使ったこともない左手で字を書いている。これを万能の左手に訓練したいと思っていたが、一九八四年になってやっと曙光を見い出した。私は一九四二年、上海の東亜同文書院大学に臨時講師として招聘されてから、一九八四年、東京の拓殖大学教授を辞職するまでの四十年にわたる学園生活に終わりを告げ、甲骨文を書くことに専心努力する。私は二十年来甲骨文を蒐集し、どれほど論文や詩詞を書いたか自分でもはっきり記憶していない。私が今簡単に計算しただけでも、一九八〇年の十カ月間に十冊の手帳いっぱいに計五四三一首を書いた。私は毎日の電車の中でも専ら甲文を書き続けているから、ここ二十年間には、その数はこの十倍にもなると思う。私はまず書くことからはじめ、浅きより深きへ、甲骨文三一五六字、十六卷全一冊はすでに完成した。あとは一冊ずつ私の療養期間中の左手で書くとすれば、九十才まで書き通したとしても、到底書ききれないほどの甲骨文資料がある。ちょうど董彦堂師と私の立場のように、將来有縁の弟子に惠まれ、私に代ってこの資料を世に出してもらいたいと思っている。私は將来『集契集』の英語版も出版されることを希望している。
また、平山郁夫先生、平野忠嘉先生、菊地三郎先生、桑原翠邦先生、松原治先生、岡田晃先生、坂本一郎先生、清水安三先生、竹内実先生(ABC順)から『集契集』の日本語版が順調に出版・発行されるよう、懇切丁寧な推薦状をいただいたことに心から感謝する次第です。もし私に、晩年甲骨文に成果があったとするならば、それはみな各先生方のご推薦の賜物です。厚くお礼申しあげます。
一九八四年三月十二日
『集契集』の眞価
『集契集』は日中国交正常化十周年記念として、A四判、二八〇頁、定価八万五千円という豪華本として出版された。
第一頁を開くと平山郁夫画伯の簡潔な序文が載せられている。
古代のロマンを知るよすがとして
この度欧陽可亮先生が甲骨文字の集大成であります『集契集』を出版されることになりました。長年にわたる研究のご成果の賜として誠に喜ばしいことです。私も中国へは度々旅行をしております。必ず各地の博物館を訪ねますが、貴重な資料の甲骨文を見ることがあります。
それと同時に出土した土器や銅器などと比較しながら古代を思うことがあります。
欧陽可亮先生は気の遠くなるような古代の文字を苦労されて研究されたのだと思いますが、その恩恵で私共が古代のロマンを知ることができます。
長年にわたって日中文化交流にもご尽力された欧陽可亮先生の益々のご健勝を祈りながら『集契集』御出版のお喜びを重ねてお祝い申しあげます。
更に各界の著名人から数多くの称賛の言葉が贈られた。
その中から愛新覚羅・溥傑氏と浩夫人の手紙を紹介しよう。
今般、甲骨文研究家欧陽可亮先生の『集契集』が出版されましたことに、一首詩を吟じて敬意を表します。
河南省安陽市からの甲骨文の輝きが流れてまいります。
残念なことは、その意味を理解するのが難かしいことです。
『集契集』大成はお目出たいこと。
喜ばしいことは、その文化が日本で発展することです。
欧陽可亮先生
お手紙を大変嬉しく頂戴致しました。ありがとうございました。
先生は甲骨文の立派な専門家でいらっしゃいますが、先生が最近関心が高まっている『集契集』を出版なさったことを聞きまして、これは、この界初めての甲骨文についての大成功だと思っております。
私達は、貴集の発行は私達の祖先の伝統文化に輝やく業績や成就に対して、更に広がり発展させるものと信じております。
特に私達にお世話下さいましたことは、私達の何よりの喜びでございます。
昨年の日本での滯在中、先生とお目にかかりまして、御親切にもご馳走になり、お見送りしていただき、自筆の書を頂いたり、詩集を貴贈して頂いたり等々、先生は私達に対して、特別のご配慮や叱打激励など無限の愛情を充分に示して下さいました。私達は心から感謝申し上げ、何とお礼の言葉を述べたらよいかわかりません。
先生の御力作は、海外同胞と祖国との心と心を結ぶための計りしれない仂きをするだけでなく、中日両国民族の歴史や文化的相互の勉強や理解にも大きな役割を果すものと信じております。それと同時に両国人民のこれまでの友好のもとでの交流・進展の良い結実になるものと信じております。
今後の一層のご発展、ご健康とご家族のお幸せを心からお祈り致します。
溥傑、浩より
こうして、『集契集』は中国が世界に誇るべきもっとも優れた文献であることが証明されたが、残念なことは余りにも高邁な三人の大学者(汪●〈忄に台〉、董作賓、欧陽可亮)の志と研究は欧陽可亮氏存命中には、その後継者を生み出すことが出来なかったことである。
『集契集』は出版されたが前述の高利の借金を返済することは到底不可能なことだった。可亮氏はそれからのち、増々貧窮の中に追いこまれていった。
私がここで言いたいことは、五百年のちか一千年のちか、きっと後世の人々によって改めて欧陽可亮氏の学問が今以上に高く評価されるときがくるであろうということである。
一九一八年五月二十三日、中国の古都北京に欧陽可亮という一人の男の子が産ぶ声をあげた。彼は心ならずも戦爭の荒波に捲きこまれ、激しく数奇な運命を生き抜き、驚くべき意志と努力をもって、パイオニアとしての甲骨文の研究を貫いた。
この事実は、これから先き幾段階を重ね、幾星霜を経て、改めて認識されるときがくるだろう。その時こそ広く脚光を浴びることが出来るのではないだろうか。
人間の意思の仂きは、遠い過去のひとつの歴史に触れて、思いがけない感動を呼び起こすことがある。時代の変遷は、そういう人間を生み出し、その役割を演出する。歴史の形成とはそういうものではないだろうか。そんな考えはむなしい想像だという人もいるかもしれない。又、そうであるかもしれない。でも私は、果てしなく未来に向ってはばたいてゆくこの思いに、大きな慰めと滿足感を覚える。
欧陽可亮のあとに続く優れた後継者の出現を信じて。