怪 力
1
「あぶないッ、逃げろッ」
「突かれるぞッ」
とつぜん、わきおこった大声に、『腹くじり』の春王は、おどろいてうしろをふりかえった。
暴れ牛だ。
荷はこび用の、真っ黒な大牛が、なにを怒ったか、背に青竹の束を山なりに積んだまま、ひきちぎった手綱をひきずりひきずり、街道をまっしぐらに狂奔してくる。
「とめてくれえ、……だれか、おさえてくれえ」
牛飼いであろう、わめきながら追ってくるが、手を出す者など一人もいない。店棚の中、曲がり角……。われさきに逃げこむのに、通行人はだれもが、せいいっぱいなうろたえぶりである。
(とっつかまえてやろうかな)
日ごろの腕じまん、力じまんが、とっさに頭をもたげた。春王はでも、
(ばかばかしい。だいじな勝負を目の前にひかえた身体じゃないか。万一、角にかけられて怪我したからって、だれがほめてくれるもんか)
思いつくとすぐ、身をかわして、彼もまた他の旅びと同様、かたわらの路地へとびこんだ。
せつな、ダダッと土煙をあげて、猛牛は路地口をよこぎっていった。
(通りすぎたぞ)
往来へ出て、行く手を見ると、しかし牛は、道のまん中に立ちどまっている。
そのうしろに、女が一人いた。茜色の小袖の背が見える。髪を桂包みにたばね、頭に魚籠をのせて、右手をそれにそえただけの、へんてつのない姿だ。ちょっと見は、なにをしているのかわからない。
「とまったぞう、牛がとまったぞう」
ともあれ牛飼いはじめ、通行人がよろこんで、かけつけてみると、とまったのも道理であった。足半草履をはいた女の足が、牛の手綱の先端を、しっかり踏みつけていたのである。
「いやあ、あねさま、おかげで助かりました。この通りじゃ」
ぺこぺこおじぎしぬく牛飼いへ、
「なんの、礼などおっしゃるにはおよびません」
女はニコッと笑顔を返して、なにごともなかったように歩きだした。
牛は? と見ると、これも憑きものが落ちた顔だ。巨大な腹をまだ、いくぶん波打たせているけれども、もう道ばたの草へ寄って、もぐもぐ口をうごかしている。
春王が目をむいたのは、土に残った草履の跡だった。ぐいッと深く、石ころ道にくいこんで、女の力の、尋常でない強さを、それははっきり証拠だてていた。
(へええ、世の中はひろいや。とんでもない女もいるもんだ)
舌を巻いたが、このくらいの力なら、おれにだって朝めし前に出せると、たかをくくった。力よりも、女の顔だちの美しさに、春王は興味をそそられたのである。
大力なだけに、なみ
よりやや、背丈は大きい。むっちりと肉もついている。髪が黒く、たっぷりして、肌はぬけるほど白い。
魅力的なのはその眼の表情だ。なんともいえず情の濃い、愛嬌あふれるまなざしに、春王の好きごころは、そそられずにいなかった。
「ねえさん、おまちよ」
女を、彼は追いかけた。
「たいした力持ちだねえ。このあたりの人かい?」
「もっと北よ。私の村は……」
「ご亭主や子は、むろんあるんだろう?」
「いいえ、独り身」
女は首をふった。微笑している。どこやら淋しげな笑顔だが、独りときくととたんに、春王の心中には侮りが芽ばえて、
「そいつはもったいないや。こんなべっぴんさんをさ」
女の左の二の腕へ、するッと手をさしこんだ。ふりはらうと思いのほか、
「ホホホホ、いやらしい。なにをするのよ」
脇の下を、女はじんわりしめつけてきた。
(気があるな。こいつはまんざらじゃないぞ )
春王は舌なめずりした。
うららかな小春つづき――。道中、思いのほかはかどって、もうここは琵琶湖の南岸、大津の宿駅である。十日以上のゆとりを蹴出して、あすは都入りできる勘定だった。
(三日四日、道草くったってじゅうぶんまに合う。ひとつこの女、ものにしてゆくとするか)
ならんで歩きながらも、うきうきと、春王の胸は弾んだ。
「名はなんというのかね?」
「高島の、大井子」
「おれは人呼んで『腹くじり』の春王というんだ。『腹くじり』は角力の手さ。ねえさんにおとらず、おれも故郷の越後では、名を知られた力持ち、角力の達者でね。こんど国衙の長官に選び出されて、宮中でもよおされる角力の節会に参加するために、はるばる都へのぼる途中なんだよ」
「まあ、あなた、力士なの?」
「そうとも。晴れの勝負に打ち勝って、日本一の誉を獲得するつもりさ」
それはいいが、はさまれた手がぬけない。大井子は、ずんずん歩く。
歩幅も歩速も合わないくるしさに、どうかして手をぬこうと春王はあせる。しかしだめだ。脇の下をしめつけている女の力は恐ろしいほどだった。
はじめてゾッと、春王は鳥肌立った。
「はなしてくれ」
口もとまで出かかった哀願を、それも口惜しいのでのみこんで、しかたなく手をはさまれたまま、とうとう女の家までひきずられてきてしまったのである。
2
さほど広くはないけれども、豊かそうに住みなした百姓家だ。
「森女、いまもどったよ」
召し使いにちがいない。大井子の声に、
「お帰りなさいまし」
十三、四の少女が、洗足の水を汲んで小走りに出てきた。
「とりたてのボラを見かけたので買ってきた。塩をふっておいておくれ」
魚籠を少女に渡して、やっと大井子は脇をゆるめた。
「さあ、足をゆすいであがりなさい。えんりょはいらないのよ。 家族はこの森女と私の、二人きりですから……」
女の力に圧倒された春王は、日ごろの傲慢もけしとんで、神妙に板敷きの、炉の間へ通った。
大井子も、その向かい側に坐って、
「春王さんとやら、あなた越後では、どれほどの力士かしらないけれど、あれくらいの力で都へのぼったからって、とうてい日本一の呼称など得られやしないわよ」
さとすように言い出した。
「だめだろうか」
さしもの天狗の鼻も、折れまがった。
(女でさえ都ちかくなると、これくらいの化け物があらわれる。まして国々から選ばれて、われと思わん剛の者がきそいあつまる宮中角力…… 。日本一の最手どころか、ろくに勝ち目もないかもしれないなあ)
こころぼそげなその顔へ、
「あきらめるのは早いわ。およばずながら私が加勢して、あなたに力をつけてあげます」
たのもしげに、大井子は約束してくれた。
「まだ、日にちはあるわね」
「ある。十日の余もあるよ」
「しばらくこの家に逗留しなさい」
森女をよんで、飯びつと塩の小壺、半挿に汲んだ冷水を、大井子ははこばせた。よくよく手を清め、さくら色の爪がきれいにならぶその手で、キュッキュッとむすんでくれたのは、一個のにぎり飯である。木皿にそれをのせて、
「さ、食べるのよ」
と彼女はすすめる。
なんの気もなくパクリとやりかけて、
「うッ」
春王はうなった。歯が立たないのだ。
たかがにぎり飯、米の飯ではないか。そんなバカな……と苛らだつのだが、どうしても、なんとしても噛み割れない。つくづくあきれた。かぶとをぬいだ。
「その屯食が、すらすら食べられるようになるまで、がんばるのよ」
翌日も一つ、大井子はおにぎりを作った。やはり歯が立たない。
五日目になって、ようよう噛み割れた。
「わあ、割れたぞ割れたぞ」
「あとひといきよ」
八日目――。どうやらふつうに、食べられるようになり、九日目にはもう、まったく、ただのにぎり飯同様、むしゃむしゃ味わえるまでになった。
「これで百人力だわ。あなたはかならず勝ちぬくわよ」
「ありがたい。恩にきるよ」
「ただしその力、けっして悪用しないでね」
「わかっているさ 。――それより、ものは相談だがね」
春王は、思いきってきり出した。
「あんた、おれと夫婦になってくれないか」
大井子の力に恐れをなして、はじめて出会った当座の、みだらな欲望から遠ざかっていた春王も、にぎり飯の威力で自信をとりもどすと、やはりこのままその身体に、指ひとつ触れずに別れるのが、惜しくてたまらなくなったのである。
「あなた、年はいくつ?」
問い返してきた女の、ながし目の仇っぽさに、脈があると春王は弾んで、
「二十四さ」
にじりよった。
「あんたは? 大井子さん。おれとおっつかっつだろう?」
「三十二よ。八ッも年上だわ」
「ふーん、とてもそうは見えないけどなあ。なぜあんたほどの女が、独り身でいるのさ」
「力がありすぎるのもよしあしね。気味わるがって、なみの男はよりつかないのよ」
「おれならちょうどいい。つりあうよ」
「私もねえ……」
しみじみ、大井子は言った。
「力のある男があらわれるのを、じつはながいこと、待ちのぞんでいたんだわ」
「じゃ、承知してくれるね?」
「帰ってきてくださいよ。晴れの勝負が終わったら、かならずここへ……ね?」
「帰らずにいるものか。力のつよい子供を生もうよ。おれたちの子なら、きっと鬼ガ島を征伐するほどの力持ちになるぜ」
「親ゆずりの田畑、宅地を、私すこしは持っているのよ。くらしにこまることはないはずだわ」
――その夜、二人は結ばれた。
そしてあくる朝、逢坂の関まで大井子に送られて、春王はいさましく、都入りして行ったのであった。
3
宮中の角力は、馬場殿の広庭でおこなわれた。
全国から選抜されてあつまった力士たちは、くじ引きで左右にわかれ、控え所には幕が張られる。
念人――つまり応援団の公卿、殿上人らも左方、右方にそれぞれ陣どり、正面、寝殿の簾のうちには、天皇はじめ貴族、高官れんちゅうが、威儀をただして居流れた。
力士は、はだかになどならない。
衣服をつけたまま土俵にあがり、力と技をきそうのだが、とり組みが五番すむごとに、伶人どもの詰める幕舎から、ピーロロ、ドドドンと笙や笛、羯鼓や太鼓の楽がひびきわたるという悠長な競技ぶりなのである。
勝ち力士には念人たちから、あらそって纒頭がさずけられる。
にぎり飯を仲だちにして、天賦の力の上に、さらに大井子の怪力をあわせ持つことのできた春王は、まさに向かうところ敵なし……。出る相手、出る相手を片はしから倒して勝ちすすみ、とうとう女の予言にたがわず、優勝の栄冠を勝ちとってしまった。
「どんなもんだい」
彼の得意や思うべしだ。
みかどから天盃と、日本一の折り紙が下賜される。そのほかの被けもの、くだされものにいたっては、絹、綾、米、太力、馬、砂金……。とても持ちきれるものではない。
「屋敷へまいれ。馳走してとらせよう」
招宴も、連日連夜 …… 。あかぬけた都上*のもてなしに、酒びたり、色びたりになり、春王はすっかり思いあがった。大井子のおかげで勝てたてんまつなど、けろッと棚にあげて、
「へん、あんなトウのたった姉さん女房に、一生、飼いごろしにされてたまるもんか」
帰るといった約束を、勝手にやぶり、洛中に家を借りて、気ままざんまいな日を送りはじめた。
もともと春王は、男ぶりのよい若者である。勝負に勝ったおかげでひと財産でき、おまけに力はありあまる。三拍子そろっているから、こわいものなしだ。
酔っぱらって、人にけんかを吹っかける。けがをさせる。器物をこわす……。
しまいには色町の女を、むりやり手ごめにしようとして、窒息死させるという大それた事件までひきおこしたが、召し捕る側の役人たちにひいきが多く、顔もきくため、事はうやむやに葬られて、被害者は泣きねいりとなった。
ますます、春王は驕った。肩で風きってのし歩くが、
「それ、『腹くじり』だぞ。言いがかりつけられて痛い目をみるな」
逃げまどうばかりで、こらしめようとかかる者など一人もいない。
たった一度、あまりに腹をすえかねて、蹴りグセのある荒馬を、春王の通る道すじにつないでおいた者があった。うしろを通過しかけたせつな、あんのじょう馬はしたたかに春王を蹴った。しかし足を折ったのは馬の側……。蹴られた人間はアザ一つ、負わなかったのである。
「不死身じゃ」
ひとびとは、ふるえあがった。魔神のように、春王を恐れ合った。それをよいことに、ほんのすこしでも気にくわぬことがあると、彼はたちのよくない腹いせをして、溜飲をさげるようになった。
大石をはこんできて用水をふさぎ、あたりを水びたしにしたり往来を止めたり、力をたのんでの悪行をほしいままにするばかりか、とりのけ作業にひとびとが大さわぎをするのを、
「ざまァみろ。人夫や馬力を百人前使おうと、おれ一人の力におよびはしまい」
そらうそぶいてながめているといったありさまなのだ。
――月のうつくしいある晩。
そんな春王が、例によって大酔して、都大路をわがもの顔に、あちらへよろよろ、こちらへよろよろ、猪熊の色町から宿所へ向かって、もどりかかった鼻さきへ、
「おまちッ」
大手をひろげた人かげがあった。
「やッ、そなたは大井子!」
ゾッと、春王の背すじに寒けが走った。
「あなたを見そこなったわ。うわさは村まで聞こえています」
大井子は、じりじり寄ってきた。
「力を善用できないバカ者に、力をあたえたのは私の落ち度……。責めは私にあるし、いまや天下に、あなたのその力を封じられる者も、私ひとりしかないと知って、迎えにきたのよ。――さあ、帰りましょう」
「どこへ?」
「私の家へ……」
「しゃらくさい。おれはもはや、あのときのおれじゃないぞ」
肩ひじを、まんざら虚勢でもなく春王は怒らせた。彼自身の力に、大井子の力が上積みされている今なのだ。
(くらべるまでもない。おれのほうがずんと優秀なはずではないか)
大井子は、だが春王の言葉になど、耳をかさなかった。いきなり近づきざま、その二の腕をむんずとつかんだ。
「おのれ、なにをするッ」
満身の力をふりしぼって、春王はあばれた。地ひびきが立つ。かたわらの小家が震動する……。大井子はしかし、ビクともしない。春王をとってひきよせ、身をひるがえすと、あっというまもなくその背へおぶさってしまった。
「さ、歩きだしなさい」
「ちきしょう、おりろッ」
ふりもぎろうといくら猛っても、大井子は落ちない。あべこべにすごい力で、その両足は春王の腰をしめつけてきた。
「あッ、痛ッ、いたたたッ」
思わず悲鳴をあげた。腰骨がくだけるかと思う股の力である。
「前非を悔いた? けがさせた人、殺した人、迷惑のありったけをかけた世間さまに、心からわびる気持ちになった?」
「なったよ大井子、だからかんべんしてくれ、ゆるめてくれこの股を……」
大井子は力をぬいた。観音さまの緊箍咒から、一ッ時のがれた孫悟空にひとしい。
「やろうッ」
すきをねらってまた、春王はふり落とそうとし、大井子の股はその腰を、ふたたび猛然としめつけてきた。
「ひゃァ、助けてくれッ、肉がちぎれる、腰骨が折れるッ、おれがわるかった、ゆるしてくれえ」
「本心ね?」
「しんそこ悔いた。誓うよ、誓うよッ」
力はゆるんだ。春王はもう、抵抗しなかった。底しれない相手の力に、いまこそ一言もなく、屈服しきったのであった。
「では、もどりましょう、わが家へ……」
「このままそなたを、おぶってか?」
「お月さまがきれいねえ。琵琶湖のほとりは、なお、すてきでしょうよ。あなたの背中でお月見してゆくことにするわ」
春王はうなだれた。
(女じゃない。おれの背中にのりかかり、首すじをしっかりおさえつけているのは、たぶん……たぶん、“運命”とかいうえたいの知れない怪物なんだろうな)
青い月光の下を、彼はとぼとぼ歩きはじめた。
猫をこわがる男
1
勝尾明神社の社司たちのあいだに、近ごろ、おかしな噂がささやかれだした。
「禰宜の大中臣助友は、どうやら猫が苦手らしいぞ」
でも、だれもがはじめのうちは、
「まさか」
本気にしなかった。
「可愛らしい生きものじゃないか。猫の、どこがこわいのだろう」
「わからんさ。おれにも……。しかし中には、変わった人間もいるぜ。蛇、百足、蟇などを毛ぎらいするなら話はわかるが、蝶を気味わるがったり、流れる水に目まいを起こしたり、兎の耳の、長いのを見ただけで、ゾッと鳥肌立つという奇妙なやつも、ひろい世間にはいるくらいだからね」
「猫が、助友をひっかきでもしたのかな」
「なあに、ただニャゴウと鳴き鳴き、身体をすりつけていっただけさ。それなのに助友め、まっ青になってとびあがった」
「ほんとうか?」
「ほんとうとも。なんなら、ためしてみろよ」
巫女溜りで飼っている『讃岐の御』という牝猫を借りてきて、大中臣助友のそばへ放つと、あんのじょう、
「ぎゃッ」
彼の口から悲鳴がほとばしった。
顔色をかえ、ぶるぶる慄えながら、それでも中腰になって猫とにらみ合っていたが、たちまち我慢が切れたのだろう、
「助けてくれえ」
こけつまろびつ逃げ出してしまった。
「これは面白い。あんなやつにも、泣きどころがあったんだなあ」
手をたたいて、人々はよろこんだ。
神職にたずさわる者にあるまじき、助友は守銭奴であった。親ゆずりの田から穫れるわずかな米を、知人友人に貸し廻って、倍にして返済させる……。
ながいあいだに、そんなあこぎなやり方で万石もの米を貯えたので、世間の口は彼を『万石の助友』とよび、爪はじきして憎んでいたのだ。
「よし、吠えづらかかせてやれ」
というわけで、それからは悪戯好きの若い禰宜、祝、神人など、すきさえあれば猫をけしかけて、助友の狼狽ぶりに溜飲をさげるようになった。
評判は、巫女たちのあいだにもすぐ、ひろまった。
「人は見かけによらないって、ほんとうね」
「こんどから『万石の助友』じゃなくて『猫怖じの助友』ってよびましょうよ」
「それがいいわ」
染め供御をつくりながら、巫女たちは笑いころげる……。洗米のひと粒ひと粒を青、赤、黄などに染めて、筒型にした生漉き紙のぐるりに貼りつけ、きまりの文様を浮き出たせる神饌の一種だ。
うつむいて、巫女の左由良も、染め供御づくりに精出していたが、{猫怖じの助友……? 訝しいなあ}
朋輩たちの談笑に、ふっと、疑いを持った。
彼女は助友を憎悪していた。恋人との仲を裂き、助友は強引に、左由良の姉を宿の妻にしながら、その妻が病死すると、まちかまえていたようにこんどは義妹の左由良に挑んだ。ゆだんを襲われて、左由良は男の力に屈した。十五にしかならない骨細な、小がらな身体は、相手の猛りの意味を、とっさには理解できなかったほど、まだ幼かったのである。
気性の勝った左由良は、しかしそれ以後は、二度と助友を許さなかった。おなじ社に勤める身だし、杉、檜のおいしげった神域は、ひるまも薄ぐらく危険だったが、彼女はたえず男の動静に注意し、つけ入るすきを与えなかった。
さすがに神のみそなわす浄地では、助友もはばかって、無謀なふるまいには出なかったけれども、
「男に汚されながら口をぬぐって、神前に奉仕しつづけるとはずぶとい女だ。大宮司に事実をばらすぞ」
と、威嚇した。清浄な処女であることが、巫女の資格の第一条件だったのだ。
「おお、どうとも言うがよい。斎き女を汚した男こそ、万石の助友ですと、私も大宮司に告げてやるから……」
左由良は応酬し、けっして怯みを見せなかった。それを憎んだ助友は、こんどは彼女の両親を責めて、うるさく貸し米の催促をはじめた。
左由良の父は、萎えた烏帽子によれよれの白水干……、袴のくくりを膝まであげて、寒中でも痩せ枯れた空脛をむき出し、境内の落葉を掃いたり灯籠に油さして廻るしがない仕丁のひとりだ。母が病身なため生活はくるしく、米の返済はながびいていた。
「婿舅の義理も妻が生きていてこそだ。やもめになった今、そんな遠慮はなくなった。貸したものは返してもらおう」
と、助友はいう。
「それがだめなら左由良を後添えに……」
とも、あからさまに申し入れている。
両親にすれば、亡くなった姉のあと釜に、妹むすめが坐るのを、あながち不都合とは思っていない。
「なぜ合点できぬのじゃ、左由良よ」
もどかしげにたずねるが、じつは彼女には、ひそかに想っている相手があった。小宮司をつとめる佐伯師純である。
位階を持ち、昇殿さえゆるされている貴族の子弟だから、彼女とは、身分がちがいすぎる。とげるあてのない片想いだとは、じゅうぶん承知していた。おくびにも、だから左由良は、想いを外にあらわさなかった。巫女仲間は知らない。当人の師純も、むろん気づいてはいない。鼻のきく助友すら、左由良の胸の内を嗅ぎつけてはいないのだ。
神事の夜、燎火の揺れに、若々しい束帯すがたを浮かびあがらせて、祝詞をよむ師純のうしろで、倭琴を弾き、鈴をふり、神楽が舞える巫女づとめの、身のひきしまる充実感……。同じ神に共に仕えるよろこびに、さわやかに酔うだけで、左由良はまんぞくしていたのに、助友とのあいだにあやまちを犯してからは、そのよろこびに翳がさすようになった。
なにもかもを、見透しておいでの神のおん眼は、むしろ恐くはなかった。罰せられるべきは、助友の側ではないか。
左由良が悲しんだのは、小宮司の明澄な挙措進退に、ひけ目を隠しているおびえから、もはや気持ちの上で彼女一人が、ついてゆけなくなってしまったことだった。遠かった恋人とのへだたりが、さらにはるかなものになりはてたのを、左由良は感じ、
(おのれ、助友……)
煮えたぎる思いに、歯をくいしばっていた昨日今日なのである。
猫をこわがる男――。
猫怖じの助友と、人々は笑うけれども、亡くなった左由良の姉は、生前、猫を飼っていた。助友もそのころは、平気で頭などなでてやっていたのを、左由良はおぼえている。{なぜ急に、猫ぎらいになったのだろう}
その疑問を、彼女は口にしてみた。
「そういえばずっと前、助友どのは昼餉の残りを『讃岐の御』に食べさせていたことがあったわ」
と、巫女の一人が言い出した。
抱いた、じゃらしたなどと、つぎつぎに思い出して言う者があらわれ、こんどはだれもが、左由良と同じいぶかりを、やかましく話題にするようになった。
2
噂はすぐ、助友の耳にはいった。
「もっともな疑いだ。私自身、いままで何とも思わなかった猫が、なぜこの年になっていきなり、恐ろしくなったのか、ふしぎで仕方がないのだから……」
そう前置きして、彼は禰宜仲間を相手に、つぎのような打ちあけ話をはじめた。それは、なんとも凄惨な、身の毛のよだつ見聞だった。
「半年ほど前だ。みなも知っての通り、私はすこし身体をこわし、大宮司に申し出て十日の休暇をもらった。紀州の温泉に、ゆあみに出かけたのだよ」
その、途中のことである。
ある村里を通りぬけ、山路にかかってまもなく、助友は農民とみえる五、六人が、一枚の平板の上に何やら乗せて、こちらへ近づいてくるのに出遇った。
道幅はせまい。やりすごすつもりでかたわらによけながら、見るとはなしに板の上に目をやって、彼は思わずあとずさった。まだ八ツか、九ツぐらいにしかならない切りさげ髪の少女と、その少女の身長とおなじくらいにみえる黒毛の大犬とが、組みちがうかたちで板に乗せられていたのだ。
少女の口は犬の片耳を噛みきり、両手は犬ののど首をかたく緊めつけている。そして犬の口は、少女ののどを深く咬み裂いて、双方ともが血まみれのまま、すでに息絶えている様子だった。
あまりのふしぎさ、少女と犬の形相のすさまじさに、助友は行きすぎかねて、一行のあとについていま一度、里へひき返した。
村道には、いつのまにか里人たちが大ぜい立ち群れてい、あきれ顔に、
「やはりやられた!」
「けっく、こうなる宿業だったのか」
二つの死骸をとりかこんだ。うちの、一人の袖を引いて、
「どうしたわけです?」
助友はたずねた。相手は首をふり、嘆息まじりに言った。
「前世は、仇同士ででもあったのかなあ。この小娘は村長の家の召し使い、犬は隣家の飼い犬だが、おたがいに嫌いあうこと、ひと通りではなかった。綱を放たれていれば、犬はつけ狙って娘に襲いかかろうとし、つながれているとみると娘は娘で、願にかけて犬を苛みぬいた」
そのうちに少女が疫病にかかった。医者も匙をなげる重症だった。こんな場合、どこの主人もがするように、村長の家では少女に少量の食物を持たせて山の中に捨てた。他の召し使いへの感染をおそれたのである。
「おねがいです。どうぞ聞いてください」
立ち去ろうとする主家の人々の裾をとらえて、少女は哀願した。
「捨てられるのは恨みません。ただ、私が息をひきとるまで、犬を放さないでくれるように、隣の人にたのんでください。こうして身うごきもできずに草の上に打ち臥しているのを知れば、あいつはきっとやってきて私を咬み殺すでしょう。病死するのはいといませんが、あの犬にやられて死ぬのだけは、がまんできないのです」
日ごろの仲の悪さを、主家の人々も知っているから、少女のたのみ通り隣家に申し入れて、犬を厳重につないでもらった。
ところがその翌日、綱を咬み切って犬は姿をくらました。
「すわこそ!」
と、村びとたちが棒ちぎれをつかんで、山へかけつけたときは遅かった。両者は死闘のあげく、血海の中にこと切れていたのである。
「なんという憎しみの深さだろう、犬と娘のあいだには、目に見えないどんな悪因縁が結ばれていたのだろうと、気味わるくなったけれども、なに、これだけならば旅の土産話にすぎなかったのさ」
助友は語りついだ。
「紀州の温泉に着いて湯治しているうちに、行脚の乞食坊主に遇った。観相の術にたけているという。そいつが私の顔をつくづく見て『お前は前世、ねずみだった』というのだ」
聞き手の禰宜たちは、ここで、いっせいに吹き出した。
「いや、笑いごとじゃないぜ」
助友の表情は、しかし、深刻だった。
「お前はねずみだと言われてみると、どうも真実のように考えられてくる。小娘と犬の、あの容易ならない関係を思い出してみても、人間には、生まれながら相容れない仇敵というものがあるのかもしれないという気になる。……と、とたんだ。なにやらおれは、猫が恐ろしくてたまらなくなった」
「はははは」
「笑いごとじゃないってば……。おぬしらにはわからないのだ。自分をどう、はげましてみても、猫への恐怖がとりのぞけない苦しさ……。つくづくあの乞食坊主がうらめしいよ」
ばかげた妄想だ、湯治に行って、かえって脳をこわして来おったと、譏る者がいる。いやいや、あんがい世の中には、そんなふしぎもあるかもしれぬと、助友の述懐に共鳴する者もいる。
「毛虫がこわいところをみると、おれは前の世で、桜の葉っぱだったのかな」
などと、しばらくは神社じゅうが、この話で持ちきったが、やがて申し合わせでもしたようにぴたッと、だれもが猫とも、助友とも言わなくなった。それどころではない災難が、とつぜん、神官たちの身の上に、ふりかかってきたのだ。
いきなり、ある日、検非違使庁から召し捕りの役人がのりこんできて、境内をくまなく捜査した上、大宮司、小宮司をはじめ、おもだった神官を一網打尽に、つれ去っていってしまったのである。
3
勝尾明神社は京都の西郊に位置し、祟りするどい荒神ということで、洛中の人々の畏敬をあつめていた。
その奥宮に人形を立て、神職たちは呪誼の祈祷をおこなった。呪った相手は関白と、いま堂上に勢力を持つ関白の一族。呪術を依頼したのは彼らとは、政敵の立場にある某有力公卿というのが、逮捕の理由だった。
身におぼえのない濡れぎぬだ。
老大宮司は、必死になって弁疏したが、じきじき取り調べにあたった検非違使別当は、
「うごかぬ証拠がある」
と、あとにひかなかった。
「庁に投げこまれた落とし文にしたがって、走り下部、放免らを神域にはなち、密々、探索させたところ、奥宮の祠のうちより毎夜、怪しい灯火が洩れ、祈祷の声が聞こえたばかりか、召し捕りの当日ふみこんで祠を調べた廷尉の手で、呪法に使う品々まで押収された。のっぴきならぬ証拠――。この上はすなおに、事実をみとめたがよかろう」
胸に釘を打たれた人形、幣、灯明皿、生きながら蠑螈を封じこめた壺など、ぶきみな法具をつきつけられても、知らぬものは知らぬと言い張るほかない。
別当は業を煮やして、
「看督の長に命じ、拷器にかけても白状させるぞ」
と息まいた。
さすがに身分をはばかって、大宮司、小宮司には手を出さないが、下っぱの禰宜、祝らから、まず責め問うてみようということになったのを、放免の一人が聞きつけて、耳よりな進言をした。
「猫怖じの助友と仇名されている男が、禰宜の中にいるそうです。猫を使って、まず、この男の口から割らせてみてはいかがでしょうか」
「よし、ためしてみろ」
さっそくあちこちから、猫が集められたが、効果は、なるほどてきめんだった。
素裸にされ、全身にまたたびの粉をなすりつけられて、大猫が十匹も待機する小部屋に閉じこめられるといなや、助友は殺されそうな声をあげ、
「申します申します。なにもかも逐一、申しあげますから、どうぞ外へ出してくださいッ」
板戸を叩いて号泣したあげく、
「某公に依頼され、神宮一同、関白家呪誼の秘法をおこなったに相違ありません」
すらすら白状してしまった。
抗弁は、もはやきかない。
罪が決定し、大宮司は隠岐へ、小宮司の佐伯師純は、佐渡ガ島へ配流された。
禁獄、追放など、以下の神官もそれぞれ処罰されたなかで、大中臣助友ひとりは、
「猫におどされて口を割るとは可笑しなやつ。手間ひまかけずに事を落着させた功に免じて、連坐の罪はゆるしてやれ」
関白家の鶴の一声で赦免となった。
いそいそ、助友は自宅へもどってきたが、思いがけず待っていたのは、巫女の左由良であった。
「ごめんなさいね」
恥ずかしそうに、彼女は言った。
「いままで、私はかたくなでしたわ。どうか亡き姉と同じように、これからはいとしんでくださいましね」
「ほうほうほう。この固い木の実は、やっと熟したな」
風向きの、とんとん拍子の変わりように、助友はすっかりやにさがった。そしていつとはなしに気をゆるして、左由良がおずおず飼いはじめた猫にも、さほど注意をはらわなくなった。
彼の役割は終わったのだ。面倒な『猫怖じ』の仮面など、いつまでもかぶっている必要はなかったのである。
助友のこの、態度の変化を、左由良はじっと、観察しつづけた。
共棲みの二年間――。
もういくら、猫が近づいても、いっこうに助友が、こわがらなくなるまで見とどけたあげく、忠実な召し使いを幾人も証人に立てて、
「いま一度、勝尾明神社の呪詛事件、調べ直しをねがいます」
と、要路に訴えて出たのであった。
政局は、二年前とはちがってきていた。
天皇が交代し、官界の情勢は、そのころ、大きく逆転しつつあった。関白家の一族は、先帝時代の権勢をうしない、かわって、敵対関係にあった某公卿とその一派が、ぐんぐん廟堂に、勢力をのばしはじめてきていたのである。
検非違使別当も更迭した。新別当は左由良の訴えをとりあげ、ふたたび助友を逮捕して、こんどは本ものの拷器にかけた。
「く、くるしい。鞭をとめてくれ。枷を、ゆ、ゆるめてくれい」
苦痛にたえかねて、助友はついに、企みのいっさいを白状に及んだ。政敵を蹴落とすため、罪もない神宮たちを巻きぞえにしてまで、呪誼事件をでっちあげた張本人――関白家の人々の名を、片はしから並べあげて、
「片手落ちをするなよ。黒幕はこいつらなんだ。おれはほんの手先にすぎない。罰するなら忘れずに、大物のほうこそ罰してくれよ」
わめきたてた。
それにしても、利にさとい『万石の助友』を、褒美の金銀で釣り、ふだん人の行かない奥宮の祠の中に、あやしげな呪法の品を置かせたばかりか、半年も前から『猫怖じ』の演技をさせて、まんまと偽りの自白にまで持ちこませた関白家派の周到さ、根気のよさに、あらためてだれもが眼をみはった。
二ヵ月のあいだ、助友は北堀川の獄屋につながれていたが、性のわるい牢湿に身体中をむしばまれ、斬罪をまたずに獄死した。
配所へは、赦免の使がさしたてられた。
老大宮司は、しかし隠岐で病没し、天下晴れて都へ帰ってきたのは、小宮司の佐伯師純ひとりであった。
「あなたの冤罪がはれたのは、助友の後添えになった左由良が、夫を訴えたからなのですよ」
と、赦免使に、師純は告げられた。
「ひとこと、礼を言いたい……」
つれそう夫を罪に落としてまで、なぜ、自分たちを救ってくれたのか、その理由を聞きたかった。
左由良はだが、師純の帰洛と入れちがいに、都から姿を消していた。さがしても、さがしても、それっきり、とうとう行くえはわからなかった。
「なぜだ、なぜ、いなくなったのだ左由良」
師純はつぶやいた。
おぼろげな記憶の底から、彼はかろうじて、愛らしく悧発そうな、一人の巫女の面輪をよみがえらせたが、その内奥にひそむ女ごころにまでは、ついに一生、理解はとどかずに終わってしまった。
蘆刈りの唄
1
狛直方は、宮中の楽所に所属する伶人である。笛、笙、琴、琵琶、それに舞まで、いちおうはくろうとの水準に達しているけれども、特になにか、ぬきん出た技があるかといえば、それはなかった。
まじめで、気だてはおとなしく、口べた、社交べたなため、楽所でも目だつ存在とはいえない。上司にも同僚にも、かくべつ憎まれもしないかわりに、目をかけられ、可愛がられて、出世してゆく型からは遠い。
よく見れば、顔だちはわるくない。緊った、なかなか凜とした風貌なのだが、局歩きをするわけではなく、たまになまめいた歌など渡されても、どぎまぎして、返歌もできない無器用さだから、ことし、二十四という若ざかりのくせに、女とのうわささえ、ろくに立たない男なのである。
――そんな直方が恋をした。
しかも相手は、選りに選って、ひとの家の畑仕事、厨仕事に追い使われている婢であった。
そのころ直方は、軽い瘧を病んで、半月ほど勤めを休んだ。そしてちょうど、近所にすむ虫麿という扇折り職人が、有馬の温泉へ出かけるのに同行して、保養がてらの湯治をたのしんだが、恋の相手には、この、有馬からの帰り道、摂津の国、生瀬の里のはずれで、はじめて逢ったのである。
秋の気配が濃くなりだした七月末だが、日中まだ日ざしがつよく、だいぶ軽快したとはいっても、病みあがりの直方には、道中がつらかった。
「だいじょうぶかね? すこしそこの木かげで休んでいこうか」
虫麿はいたわってくれた。
大きな槐が枝をひろげ、道ばたに涼しげな蔭をつくっている。そのしたに腰をおろして、竹筒の水を分けあって飲むうち、
「なんだろう直方さん、へんな声が聞こえるじゃないか」
「女の、うめき声のようですね」
二人は異常に気づいた。
かたわらの、桑畑の中だった。踏みこんでみるとあんのじょう、桑つみ娘であろう、籠を背に負った十六、七の少女が、土にうずくまってみぞおちのあたりをおさえていた。
「腹痛かね?」
虫麿が声をかけた。
「はい……」
ふり仰いだ顔には、いちめん油汗がにじんで、死人さながら、血の色がまったくない。
「こりゃひどそうだ。直方さんなんぞ薬の持ち合わせはないか」
「あります」
肩荷をほどいて丸薬をとり出し、竹筒といっしょに娘に渡した。
「申しわけございません」
おしいただいて口へ入れる手が、痛々しいほどふるえている。直方はにじり寄って娘の背中を押してやった。胃が痛むときそうすると、ふしぎなほどらくになるのを、直方は知っていたのである。
「比左女ッ、比左女はどこだッ」
畦道をこのとき、わめき声が近づいてきた。粗末な麻の労働着を通して、直方の手に、ぶるッと娘の戦慄がつたわった。
「ここだよ、娘さんならここにいるよ」
虫麿が応じた。
「なんだお前ら、どこの者だ」
畑の持ち主にちがいない。鞭がわりのつもりか、片手に弓の折れをにぎった、見るからに憎々しい髭男だ。
「どこの者でもない。通りがかった旅びとさ。この娘さんが腹痛を起こしていたので、いま、薬を飲ませたところだよ」
礼をいうと思いのほか、男はにがりきった仏頂づらで、
「ちッ、またぞろ病気か」
舌を鳴らした。
「役立たずめ、頭が病めるの腹をこわしたのと、年がら年じゅう弱音ばかり吐きおって、ひとの半分も仕事をしくさらぬ。――さあ、とっとと桑の葉をはこばんかい」
娘を追いたてたあと、聞こえよがしに、
「金で買った婢を姫さまあつかいしていたら、こちとらの顎が干あがるわ」
うそぶき散らして去ってしまった。
「無慈悲なやつだなあ。田舎地主には、えてあんなのが多いんだ。あの娘もかわいそうに、病身そうだが、ろくに食い物ももらってはいまい」
虫麿の同情も、しかしそこまでで終わりらしい。けろッと気をかえて、
「とんだひまをつぶした。――行こうぜ直方さん」
先を急ぎはじめ、やがてそのままつれだって、京都四条の自宅へ帰ってきてしまったけれども、直方の、比左女に対する感情は、もうとても、そんな通り一辺の、行きずりなものではなくなっていた。
彼は娘が、愛しくてならなかった。あの年ごろにしては肉づきが薄く、骨ぐみなども驚くほど華奢だったが、身分の卑しさに似合わない気品が、身体ぜんたいから匂い立っていたし、女らしい血のあたたかみも、ほんのりと手に感じられた。心より先に触覚が、魅せられてしまったのだといえるかもしれない。
母や乳人の思い出は、直方の記憶に残っていない。じつをあかせば女の肌に、衣服をへだててでも手をふれた経験など、生まれてはじめての直方なのである。ふだんの彼なら、できっこはない行為だ。それがあの、比左女にかぎって何のためらいもなく触れられ、触れた瞬間、前の世からの約束ででもあったように、すうっと脈博がひとつに溶け合って、なんともいえない安らぎに浸れた。恍惚とさえなったのだ。
「恋と、これをいうのだろうか」
直方には判断がつかない。ただ、比左女を、むざんな境遇から救い出したい、そばに置いて、いとしんでくらしたいと、憑かれたように願望しただけだ。
さいわい彼には、故障を言い立てる親兄弟、親戚など一人もなかった。日ごろ、したしくしている虫麿にさえだまって、直方はいま一度、摂津にくだり、因業な傭い主に会って、
「比左女をゆずってください」
交渉した。
足もとにつけこんで、髭男は法外な値を吹きかけた 。それはとうてい、直方の手に負える値段ではなかった。
2
彼はしかし、くじけなかった。
親からゆずられたたった一つの財産である住居を、人に売り、たりないぶんは楽所の同僚三人にたのんで借金してまで、砂金十両という傭い主の要求を通した。
虚弱な比左女の体質に、業を煮やしつづけていた髭男は、買い値より高く彼女を売り渡せたことに、内心ほくほくしていながら、いざ、つれて出るときには渋面つくって、いかにも惜しそうに比左女と直方を送り出した。
「ありがとうございます。おかげで地獄から救われました」
泣いてよろこぶ娘を見ると、
(十両ぐらい何だ。借金がなんだ)
苦にならないどころか、むしろ砂金ひと袋が、生き身の女に変わったふしぎさに、直方は呆然とするのである。
(買える相手だからこそ、とげられた恋なのだ)
ありがたかった。運がよかったとさえ、彼は思った。
虫麿は眼をむいた。宮中での、伶人の身分は低い。俸給は多くはない。しかし天皇、皇族はじめ、公卿、殿上人の面前に出て仕事をする特殊な技能の持ち主である。市井の職人、労働者などとは、世間も、同列には見ていない。
「それに直方さんの男ぶりなら、もうちっとましなところから縁の話もあろうじゃないか。なにも好きこのんで、婢奉公の女などを、借金してまで引っぱってくることはあるまいになあ」
こっそり、妻にだけは譏って言った。
――比左女をつれて帰洛したものの、住む場所に、直方はさっそく困った。
「わしの家でよかったら、きていいよ」
虫麿が助け舟を出してくれた。一介の扇折りだが、虫麿は職人を四人も使い、大きな仕事場、間かずの多い家、妻子眷族をたくさんかかえて、毎日をにぎやかに、食うにはもちろん、事欠かずにくらしている男であった。
空いている西のはじの部屋を、厚意に甘えて直方は借り、比左女とつつましい新世帯を持った。
「私にも、こんな日がめぐってきたのか」
信じがたい思いでつぶやくほどに、毎日が直方は幸福だった。ぜいたくはできない。でも、人なみに食べさせ、着せているうちに、土中に埋もれていた白珠が、研磨師の手に渡って光芒を放ちはじめるように、比左女の天性の美しさは、めきめき磨きだされてきた。彼女自身は人がほめるほど、それを自覚していない。誇り顔も、だから当然、しようとしない。
なによりは性質が温順なのだ。じつは没落した、ある富農の娘だったのである。父母の死後、田畑を親類の者に横領されたあげく、人買いの手に渡って婢の身分に堕ちたのだが、その悲境から救い出してくれた直方を、たんに夫とだけ思うことはできないらしい。
「一生の恩人……」
口にこそ出さないけれど、感謝を身体中にあらわして、慕い、縋ってくる様子は、いじらしいばかりだった。
「いやあ見そこなった。顔だちといい気だてといい、比左女さんは掘り出し物だよ。砂金十両でも安かった。どうしてどうして直方さん、あれであんがい目がたかいや。すみにおけない眼力だぜ」
自分の妻に、やがては虫麿も訂正して言うようになった。
帥の宮から調律を依頼され、楽所の楽器置場の戸棚に、大切に保管してあった高麗笛が、なに者かに盗まれて消えうせたのは、そんなさなかだった。
この夜、陣の宿直に詰めていた不運から、直方にまず、嫌疑がかかった。責任を問われ、追求されたのだといってもよい。
どう、糺されても、しかし覚えのないことは、知らぬと言い張るほかなかった。
紛失した高麗笛は唐から舶載された高価な名器で、その価値は伶人がいちばん知っている。いっさい他の、楽器類には手をつけず、荒らしもせずに、高麗笛の戸棚だけを狙った点も、内部の事情にあかるい者の仕業とみえた。
調べてゆくうちに、同僚三人に、直方が少なからぬ借金をしていることもわかって、立場はますます不利になった。好事家にたのまれて、金ほしさに盗み出したのではないかと、上司にあたる楽所の預りは疑った。
帥の宮の意見もあり、事件はだが、外部には伏せられて、楽所の中だけで処理された。
直方の住居――虫麿の家の一室を、床板まではがして捜しても、笛は出ない。直方自身の身がらを内密に帥の宮の屋敷に移して、侍たちの手で拷問させもしたが、
「ぞんじません、宿直しながら大切なお品を賊にうばわれた責めは、私にございます。そのための罰ならば極刑もいといはしませんけれども、盗人の汚名だけは承伏しかねます。まったく身におぼえのないことでございますッ」
彼は白状しなかった。
「強情なやつ……」
うしろ手にしばった両腕のあいだへ、棒をさし込んで、骨にひび
がはいるまでねじあげた。背中が血みどろになっても、打ちすえる皮鞭の手を休めなかった。苦痛に耐えかねて幾度も気を失いながら、しかし直方は、犯行を否認しつづけた。
上司は、あぐねた。はっきりした証拠もないまま、結局、宿直としての責任だけを負わせて、彼を楽所から追放したのであった。
3
「ざんねんだ。賊はかならず仲間のなかにいるはずなのに、その糺明もせず、私ひとりにあさましい疑いをかけるとは…… 」
男泣きする直方の背を、やはり涙で頬をぬらしながら、桑畑で、あの日、自分がされたように、比左女はただ、せいいっぱいの愛情をこめて撫でさするほかなかった。
同僚三人からの多額の借りが、疑惑の根になってい、その借りは、彼女自身を買い取るために、直方がつくったものなのだと思うと、比左女はすまなさに胸が凍った。
……生活は、みるみる窮迫した。
直方は衰弱して寝たきりになったが、回復してももとの身体にもどることは不可能だった。なさけ容赦のない拷問の結果、左腕が、常人の半分も曲がらなくなってしまったのである。
「あんたたちの口すぎぐらい、私がまかなってあげるとも。家族のつもりでいていいのだよ」
虫麿の善意によりかかって、しかし夫婦二人、いつまで居候しているのも心ぐるしい。
楽器を鳴らし、舞を舞い、唱歌するほかの能力を、直方は持たない男だし、不具になっては、まして肉体労働などむりだった。
比左女は女房づとめの口をさがしてきた。
「身体を使っての仕事には、私のほうが慣れています。なんの、お屋敷奉公など、むかしのくるしさにくらべれば、極楽でしょうよ」
大納言藤原行成の邸宅――。
その北ノ方のそば近くつかえる青女房の一人に、比左女は採用されたのだ。
「月に一度はおひまをいただいて、かならず帰ってまいります。あなたもどうぞ、訪ねてきてくださいね」
言い置いて、大納言邸へ移って行ったが、約束通りには、なかなかもどってこられなかったし、直方のほうも人目がはばかられて、妻の曹司まで忍んでゆく勇気は出ない。
『でも女房たちはだれでも、夫や愛人を局にひき入れて夜をすごしています』
手紙のはしに、邸内の略図まで描いて比左女はうながしてくる。逢いたかった。
はなればなれにくらしはじめて、すでに二ヵ月ちかくになる。
とうとう、たまらなくなって、直方はある雨の夜、大納言の屋敷に出かけていった。
男たちが利用するという築地の崩れから、図が教えるとおり彼も邸内へはいって、菜園をぬけ庭をよこぎり、前栽のささ流れを廻りこんで比左女の部屋のそばに出た。
遣り戸をすこしあけてのぞいたが、まだ退っていないとみえて、なかは暗い。しかたなく軒の雨だれを避けながら、中門廊の階のわきにたたずんでいるうちに、北の対の渡殿をもつれ合って、人が二人、走り出てきた。
男と女である。ふり切って逃げる女を、男が追っているらしい。
「いけませんッ、お離しあそばせ少将さま」
比左女の声だ。直方は息をのんだ。
「何度も申しあげたはずです。わたしには夫がございますッ」
「あってもよい。たとえそなたが帝の女御であろうと、これほどまで思いこんだ恋、とげずにはおかぬ」
その声を、大納言家の次男、左近少将行径と知った瞬間、直方は気力のすべてを失って、ぬかるみの中へ膝をついた。
「いえ、いえ、いけません」
比左女は必死にあらがっていた。
「夫を持つ身にいどむなど、ご無体というものです」
「いいや、私は真剣だ。夫がのぞむなら、男らしく剣に訴えてもよい。頭をさげろというなら、地べたに額をこすりつけてもかまわない。そなたが欲しい。誇りに代え、名に代えてもそなたを自分のものにしたい」
「お離しなさらなければ人をよびます。声をたてますが、ようございますか?」
さすがに怯んだすきをついて、比左女は相手の手をふり切り、夫がひそむ廊の上を、それともしらず走りぬけると、自室にとびこんで掛け金を内から閉めた。
「あんまりだ。あまりといえば冷たい。あけてくれ、せめて話だけでも聞いてくれ」
あたりの耳を気にしながらも、低く、さけびつづける行径の声に、うそでは出ない涙がまじっているのを、直方は聞き、自由のきく右腕を目にあてて、これも懸命にこみ上げてくる嗚咽をこらえた。
『私のことは忘れて、自分自身の幸せをつかんでほしい。いまはもう、それだけが、ただ一つの願いだよ比左女』
妻にあてて一通――。虫麿へも、世話になった礼手紙を残して、直方はまもなく行くえ知れずになった。
八方、手をつくして探したけれども、消息は不明のまま年月がたってゆき、今は、
「死んだのだ。それにきまっている……」
あきらめて、虫麿も手を引いた。
親木をうしなった蔦かずらにひとしい。
二年後、辛抱づよく待っていた行径の腕に、比左女はついに抱かれた。
正妻に準じるあつかいを受け、少将どのの想い人とうやまわれ羨まれる華やぎの中に、身を置ききながら、しかし一日として、彼女は直方の上を思いやらない日はなかった。
(ほんとうに死んでおしまいになったのだろうか。……どこかで、生きておられるのではないか)
住吉詣でを思い立って、はるばる出かけた車の中でも、摂津の生瀬から、夢のようなよろこびに酔って、直方とともに上京した旅の日の記憶ばかりがよみがえった。
「ちと、景色でもごらんあそばしませ。難波の入江にさしかかりました」
ふさぎがちなのを見かねたのか、同乗していた女房の一人が、物見窓の外をさしてうながした。
「あれあれ、蘆刈りたちが、脛まで水に漬かりながら蘆を刈り取っております」
男ばかりであった。呻きに似たひくい声で、蘆刈りたちは何やら唄をうたっていた。淋しい陰欝な節まわしであった。
車をとめさせて、比左女はしばらくその光景を見入っていたが、ふと、うちの一人に目を据えると、
「ああッ」
いきなり、顔色を変えた。
「どうなさいました?」
「あの人を…… あの蘆刈りをよんでください。ここへ……この、車のそばへ……」
侍がかけてゆき、岸に立って男を招いた。
左手をぎごちなく腰に回して鎌をはさみ、男はいぶかしげな顔で岸に上がると、侍の背について歩きかけた。
ほんの二、三歩で、しかしその足はとまった。こけた頬、おちくぼんだ眼……。やつれきってはいても、男は直方にまぎれもなかった。女車を見、前後にしたがう行列を目にして、彼の直感は、待つ相手を、とっさに覚ったらしい。たちまち横へとんで、姿は蘆原のかなたに掻き消えてしまった。
「こら、どこへゆくッ、なぜ逃げるッ」
追おうとする侍を、
「いいのです。もう…… いいのです」
比左女は制止し、袂を噛んで、そのまま簾のかげへ泣き倒れた。
蘆刈りたちの唄は、重く、にぶく、つづいていたが、よく聞くとそれは、
月のおもてを、さ渡る雲の、
まさやけく見ゆる、秋なれば……
一節だけの、単調なくり返しにすぎなかった。
ただ一人、欠けている声を――直方の声を、比左女の耳は幻聴の中で捉え、いつのまにかくちびるは、嗚咽とともにきれぎれに、同じ旋律を追っていた。
釜の湯地蔵譚
1
朝からうろうろ、湯にはいったり出てみたり、巨勢の大笠は落ちつかなかった。
(いよいよ今日、小笠のやつが、地蔵さまになりすまして、やってくるぞ)
そう思うと、ちょっと可笑しいやら心配やら、なんとなくじっとしていられないのであった。
大笠と小笠は、兄弟分のコソ泥である。
村から村へ、旅かせぎの泥棒行脚をつづけて、越の国まできたのだが、ここで耳よりなうわさを聞きこんだ。地獄谷の、釜の湯の評判だ。
「名前はおっかねえけど、熱い、まっ白な硫黄泉が、ぷくりぷくり湧いている湯治場でね、このあたりの者は身体をわるくするてえと、みんな煮炊きの道具を持って、釜の湯へへえりにゆくんだよ」
と、里の者は言うのであった。
なんでもむかしむかし、脚を折った鷺だの矢きずを負った鹿だのが、沐浴しに集まってくるのを見て、廻国修行中のえらい聖さまが、その薬効を発見したとかいう霊泉なのだそうである。
「ひとかせぎ、やらかそうじゃねえか。え? 小笠。釜の湯とやらへ乗りこんでよう」
大笠は、弟分に相談を持ちかけた。
「なにか、もくろみがあるのかね?」
「あるから言うんだ。おめえ、お地蔵さまに化けてみろ」
「あの、くりくり頭で、錫杖ついている地蔵菩薩かい?」
「そうだよ」
「よせやい。坊主になんぞされてたまるかい」
「なりはそのまんまでいいんだよ。まあ耳を貸せったら……」
大笠はひそひそ、小笠に一策をさずけた。
そして三日前、ひと足先に釜の湯へやってくると、
「あーあ、くたびれた。ちっとのあいだ横にでもなるかな」
ごろと、手枕でうたた寝したあげく、目をこすりこすりやがて起きて、
「いま、奇妙な夢を見ましたぜ」
そばにいる湯治客に、手あたりしだい話しかけたのだ。
「へええ、どんな夢かね?」
と、退屈しているさいちゅうだ。寝そべったり、雑談したりしていた連中が、みんな大笠のそばへ寄ってきた。
「とろとろッとしたと思ったらね、夢の中に、すてきもなくこうごうしい、頭から後光のさしている人があらわれてね『われこそは、地蔵菩薩であるぞよ』って、おっしゃるんでさあ」
「なんじゃあ? おぬしの夢に、お地蔵さまがあらわれたと?」
「ええ。『釜の湯に集まる病者どもに、結縁してとらせたい。いまから三日のち、正、午の刻に、人間の姿をかりて出現しようぞ』と言われるのでね『いったい、どんなかっこうで来られるのですか』って、あっしゃあ訊いてみたんですよ」
「ふんふん」
「そしたら『紺の綿入れの水干に、侍烏帽子。鹿の毛の行縢をはき、弓矢を手にした二十二、三の若者になって行くだろう。そういうなりをした者が湯治場にあらわれたら、この地蔵と思えよ。ゆめゆめ疑うことなかれ』って、なんともいえねえ尊いお声でおっしゃったとたん、スーッとお姿が消えて、目がさめたわけでさあ」
「ひゃあ、そりゃおどろいたこんだのう」
とみんな顔を見合せた。
今は、冬の農閑期――。泊まりがけで入湯にきているのは、ほとんどが近くの淳朴なお百姓たちである。
「そういえばここは地獄谷の釜の湯……。地蔵さまちゅう仏さまは、地獄に堕ちた人間どもを救うて、極楽往生させてくださるおかたじゃげな」
「わしらみな、けが人か病持ちじゃ。それを哀れんで助けにきてくださるおつもりじゃあるまいか」
手もなくコロッと、だまされてしまった。
「まあ、お待ちなせえ。夢は五臓の疲れなどといいますからね。あんまりみなさん雲をつかむような夢物語など、本気にしねえでくだせえよ」
わざと大笠はそのとき気の無い顔をしてみせたのだが……。
今日が、いよいよ約束の三日目――。
あらかじめ打ち合わせてある正、午の刻に、もはや間もない。
小笠を地蔵さまに仕立てて乗りこませ、口から出まかせをならべさせてお百姓連中をけむに巻いたあげく、賽銭や供え物をごってりせしめて、ドロンしてしまおうというのが、大笠の考えついた悪だくみなのであった。
内心、そわそわしながら、しかし表づらはあくまで落ちつきはらって、湯治宿の炉ばたで大笠が、ひる飯をかきこんでいるところへ、
「たいへんじゃあ」
わめきたてる声がきこえた。
「みなの衆、来てみろよう。地蔵さまがほんとにござらっしゃったぞう」
大笠は、ほくそえんだ。
(やってきたな、小笠め)
彼は、だが、
「ほ、ほ、ほんとかあ」
びっくりして外へ飛び出した人々の、あとにつづいて、自分もいかにも肝をつぶしたといわんばかりな顔を作りながら、
「どこだどこだ、地蔵さまはどこだ」
かけ出した。
釜の湯をぬけて、越後の国府へ達する一本道……。
なるほどその、谷底のうねうね道を、紺の水干、侍烏帽子、鹿の行縢をつけた若者が、すたすたこちらへやってくる。手に弓矢を持っているところまで、地蔵菩薩のお告げそのままだ。
「やれ、ありがたや」
「お迎えにゆけ、それゆけッ」
とばかり、若者めがけて湯治客は殺到した。
釜の湯は、野天風呂である。もうもうと噴きあがる湯気の中から、すっ裸のまんま飛び出して、走りはじめた男や女もいる。
いそいで大笠も近づいたが、
「あれれ?」
相手の顔をひと目見るなり、棒を呑んだように立ちどまってしまった。服装はまぎれもなく、しめし合わせた通りなのに、かんじんの若者が、仲間の小笠とは、似ても似つかぬ別人だったのだから、むりもない。
2
いきなりわッと、裸ン坊までまじえた湯治客にとりかこまれて、仰天したのはその、若者である。
「なむ、地蔵大菩薩さま」
ひざまずかれても、おがまれても、なにがなんだか、いっこうにわけがわからない。
「どうしたのですみなさん。私は国府までゆく旅人です。田辺の真人という者ですが……」
「お地蔵さま、おとぼけなされてはいけませぬ。ま、ま、こちらにご鎮座あそばしてくださりませ」
湯宿の中へ、むりやり招じ入れられのを、大笠は横目ににらんで、
「ちえッ」
舌打ちした。手ちがいが起こったにきまっている。
「小笠め、なにをしていやがるんだろう」
みんなとはあべこべに宿を出て、街道すじを見張っているうちに、
「きたッ」
やっとこさ、相棒の小笠があらわれたが、どうしたことか、荷運び馬の背に米俵といっしょにおぶさって、海鼠さながらグニャグニャ揺られてくるではないか。
「このばか野郎、なにをぐずついていやがったんだ」
鞍脇へ寄って行って、大笠は腹だちまぎれに、小笠を馬からひきずりおろした。
「いてててて」
と、小笠は悲鳴をあげた。
馬子はそのまま、
「はいよ。おさきに……」
馬を曳いて行ってしまう。
「痛いとは、どこがいったい痛いんだよッ」
「足だよほら……。朝がた、ゆんべ泊まった辻堂を出ようとして、釘をふみ抜いちまったんだ」
右足だ。ぎりぎりしばったぼろ布に、なるほど血がにじんでいる。
「それで正、午の刻の約束が、こんなに遅れちまったのか」
「ごめんよ兄貴。なんしろ痛くて歩けやしねえ。馬に乗っけてもらってここまでくるあいだも、ウンウン唸り通していたんだぜ」
「まぬけめ。ドジをふみやがったおかげで、とんだ番狂わせが起こっちまったぞ」
偶然にしても、まったく呆れかえった一致だが、そっくりそのまま同じなり、同じ年ごろの若者が先にきたために、お百姓連中はてんからその男を、地蔵菩薩と信じこんで、
「いま、下にも置かねえちやほやの、まっさいちゅうなんだよう」
と、いまいましげにかたる大笠の言葉に、
「へーッ、おったまげたなあ」
小笠もあんぐり、口をあけた。
しかたがない。彼は肩荷の中から別の衣類を出して着かえ、びっこをひきひき大笠の背について、湯治宿へはいっていった。
中はえらいさわぎだった。
いっさい弁明に耳をかさなかったらしく、人々は田辺の真人と名乗る若者を炉部屋の正面に据え、その頭上に注連縄、膝さきに香や花を供えて、すっかり地蔵さまにまつりあげ、
「お助けくだされ。脚気がひどうて、畑仕事も思うにまかせませぬのじゃ」
「わしゃ、頭が病{や}めるのでござります」
「この子の瘡が三年越し、癒る気配も見せませぬでなあ」
あらそって願いごとを、訴えているのであった。
困りきりながらも、気だてのやさしい若者とみえて、真人は脚気の老人の足を、
「どれどれここですか?」
なでたり、さすったりしてやったが、なにしろしんそこ地蔵さまと信じこんでいる相手だから、指がふれただけで、
「うう、もったいない」
びりりと慄えて、病は気からのことわざにたがわず、たちまち気分だけで痛みが軽くなってしまったし、がんこな頭痛に悩まされていた婆さまは、
「きのどくに……。なんとかすこしでも、よくなるといいのですがね」
自信なさそうに言いながら、それでも真人が一心こめて、その頭をもみほぐすうちに、
「おうおう、ありがたや。痛みがすっきり、とれましたぞ」
さけびだしたのだから、気というものは恐ろしい。
瘡に苦しむ十二、三歳の男の子は、これはいかになんでも、急に癒るわけはない。でも真人が、温泉のかたわらへつれて行って、
「せめてかゆみだけでも、うすくなってくれますように……」
念じながら懸命に、硫黄の湯をその肌にそそぎかけてやった結果、わずかながらかゆみが消えてきたのである。
「けッ、ばかばかしい」
人垣のうしろにたたずんで、大笠は小声で悪態をついた。
「あいつがなんで、地蔵さまなんぞであるものか。ちきしょう。こうなったら賽銭はあきらめて、湯治客の持ち物をかっぱらってずらかろうじゃねえか。なあ小笠」
だが、それにしろ、小笠の足のけがが、いますこし、よくならなければ動きがとれない。
「まったくしゃくにさわるなあ」
と、ぼやきながらも、大笠は弟分につき合って、しばらく釜の湯に泊まりつづけなければならなくなった。
3
人々の素朴な信仰に、熱くとり巻かれているうちに、田辺の真人は自分自身も、
「もしかしたら私には、ほんとうに地蔵菩薩がのりうつって、お手を貸してくださっているのではなかろうか」
なかば疑い、なかば信じるようになった。
そして、そうなると、ますます使命感のごときものにとりつかれたらしく、国府への用事を二の次にして、彼は専心、病人の看護に没頭しはじめた。
気でなおる病は、なおる。
しかし、気だけではどうにもならない病気も多い。でも、そういう病人たちも、
「地蔵さまに結縁できた。たとえこの世では病苦にさいなまれても、死後は往生、疑いないにちがいあるまい」
と、よろこんで、心に張りを持つのである。
――そんなさなか、旅の侍が一人、釜の湯へ湯治にやってきた。見るからに勇猛そうな髭武者だ。
「なんだと? あの若造が地蔵の化身? わはははは、愚にもつかぬことをぬかしおる」
と一笑に付したばかりか、どうやら、
「世間を、瞞着し、ゆだんさせて、悪事でも働こうとたくらんでいる痴者ではないか」
とさえ、彼はカンぐったようだった。
大笠は、この侍の太刀と持ち金に目をつけた。
「砂金だぜ。にぎりッこぶしぐれえの革巾着にぎゅうぎゅう詰めて持ってやがら……。太刀もおめえ、銀蛭巻だあ。売っとばしたらいい値になるよ 」
と、小笠にささやき、
「それにしても、しようがねえなあおめえの足……。ちっともよくならねえじゃねえか」
じれったがる。
冷淡な仲間よりも、はるかに親身になって、小笠の足を心配してくれたのは、むしろ真人だ。
「痛そうだなあ。ずいぶん腫れましたね」
巻き布をほどいて、眉をひそめた。はじめの手当てが雑だったせいか、ふみ抜きした個所は膿んで熱を持ち、ここ二、三日、小笠は寝たきりのありさまなのである。
「でももう、見たところ膿みきっているようです。口があいて、膿汁が出てしまいさえすれば、きっとたちまち、よくなりますよ。私が吸い出してあげましょう」
「およしなせえ、きたねえや」
あわてて足を引こうとしたが、真人のくちびるが、きず口に近づくほうが早かった。
「だいじょうぶ。膿汁ぐらい口にはいったって、きたないことはありません。みなさんに心から敬愛され、信じ、慕われているうちに、私はほんとうに自分が、地蔵尊であるような気がしてきました。菩薩の口に入れば、膿汁も、膿汁ではなくなるはず…… 。気がねや遠慮は無用ですよ」
腫れあがった足をかかえこんで、吸っては吐き吸っては吐き、とうとう一滴のこらず、膿汁を出してくれたのである。
「ありがとう真人さん」
小笠の目は、涙でいっぱいになった。
げんきんに熱はひき腫れはひき、痛みもとれて、歩きだせるまでに小笠が恢復したのを見ると、
「さあ、それじゃはやいとこ、ひとかせぎして、ずらかろうぜ」
さっそくある夜、大笠は盗みにかかった。
「仕事はおれがする。おめえはおれが合図したら、すぐ外へ逃げ出す用意をしとけ」
かねて目をつけていた泊まり客の持ち物……。中でも金目の品は、侍の巾着と太刀である。
浜にならんだ鰹さながら、板敷きにごろごろざこ寝している人々の枕もとを、手さぐりで這い廻って、大笠は盗品をかきあつめ、大きな布包みにまとめあげた。そして最後にぬき足さし足、侍のそばへ忍びよって、太刀に手を、のばしかけたとたん、
「ううん」
と呻いて寝返った相手の、脛のあたりに、いやというほど蹴つまずいてしまった。
「なにやつだッ」
おっとり刀で侍ははね起きた。大笠はうろたえ、布包みをかかえたまま奥へ走って、突き当たりのひと間にとびこんだ。
そこは、みんなが掃ききよめて、
「地蔵さまの御座所じゃ」
真人ひとりを寝泊まりさせている塗籠だった。
「助けてくれッ、殺されるッ」
灯のそばで、つくろい物をしていた真人が、
「ここにかくれなさいッ」
いそいで大笠を、壁代のかげに押しこんだ瞬間、
「ぬすびと、待てッ」
侍がおどりこんできた。さわぎに驚いた湯治客たちも、
「なんじゃ、なにごとじゃい?」
ねぼけまなこでかけつけた。
うなだれて、何もいわずに、その場に手をつかえた真人を見、布包みを見た侍は、
「さてはやはり、貴様は愚民をたぶらかすまやかし地蔵。しかも化けの皮の一枚下は、盗賊ですらあったのだなッ。ゆるさんッ、成敗してくれるぞッ」
さけびざま太刀をぬき、やにわにその肩さきを割りつけた。血しぶき、
「わッ」
空をつかんで若者は倒れた。
「やや、地蔵さまを斬りおったッ!」
「この外道ッ、罰あたりッ、叩き殺せッ」
と興奮し、息まいて、群衆は侍めがけて突進しかけた。多勢に無勢だ。さしもの髭武者もたじたじして、色をうしなった。 「まってくださいッ」
と、このとき、断末魔の息の下から、人々を制したのは真人だった。
「お侍さまの推量はただしい。私は地蔵尊なんかじゃなかった。もったいなくも地蔵のお名を騙った泥棒です。ご成敗はあたり前……。どうかみなさん、気をしずめてください。乱暴はしないでください。たのみますッ」
それだけで、気力が尽きたのか、血海の中にのめったきり、真人はうごかなくなった。
ぬすびとの濡れ衣を着たことで、壁代のかげに慄えている大笠の命を助け、同時に殺気立った群衆の棍棒から、侍の命を救って死んだのだ。
「どいてくれ、おがましてくれッ」
人立ちをかき分けかき分け、灯のそばへにじり出て、
「あんたは地蔵さまだ、地蔵さまだよう」
亡骸にすがりついたのは、小笠である。
ただの人間にちがいないが、真人の行為は菩薩の慈悲に通じる。ほとけは遠くにいるものではない。人間めいめいの、愛の心に宿るのだと、さとりはしたが、口でうまく言える小笠ではなかった。彼は、ただ、
「地蔵だ地蔵だ。やっぱりあんたは、地蔵さまだったんだよう真人さん」
まだ、ぬくもりの残る若者の身体をゆすぶり立て、身を揉んでいつまでも、泣きじゃくりつづけた。
かぶら太郎
1
京都への、出はいり口は七つある。
その一つ、粟田口の往還を、二人づれの尼が東へ向かって歩いていた。
ひとりは若い。いまの一人は、年のころ七十に余る老尼である。そのくせ若い尼僧のほうがくたびれたのか、顔いろも青ざめ、うつむきがちに、足をひきずり老尼のあとにしたがってゆく……。
「どうしたのじゃ善信、いつものそなたらしくもないのう。どこぞ、かげんでもわるいのではないか?」
ふり返って、いたわる老尼へ、
「い、いえ、なんともありませぬ」
あわてて首をふってみせるが、そのまにも、善信とよばれた若い尼は、くるしげに肩で息をしているのだ。
愛くるしい、いかにも悧発そうな尼だった。年もまだ、十六か七らしい。花なら、ほころびかけた蕾の年ごろを、墨染めの僧衣に清々とつつんでいるが、なまじ着かざった在家の娘より、かえって立ちまさって魅力的に見える。
「ひる日中を、歩きつめたので、暑さあたりをしたのであろ。寺はもうじきじゃ。しんぼうして歩きなされ」
「はい」
つらそうに伏し目になるのを、老尼は単純に、暑気にやられたと解釈し、また、先に立って足をはこびはじめたが、じつはそれどころではない悩みに、善信はひとり、胸を痛めていたのである。
月のものが止まって、もう、四ヵ月になるのだ。
(信じられない。…… 信じたくない)
身体に起こった変調を、はじめ、懸命に否定していた善信も、どうやら、悪阻まではじまっては、
(みごもってしまったのだ )
みとめないわけにはいかなかった。
口惜しい。女体とは、なんと哀しく、そして呪わしいものなのか。
ゆだんと責められれば、たしかにゆだんではあったけれど、善信の妊娠は、堕落でも破戒でもなく、まったくの災難からひき出された二重の災厄であった。
石山の観世音に、お籠りに行った夜――。
うとうと、まどろんでいる身体の上に、重いものがのしかかってきた。はじめは、夢の中のことと思っていた。くり返し、知覚される異様な感覚に、はッとほんとうに目がさめたとき、
「さわぐんじゃねえよ尼さん、もう、こうなったら、されるままになっているほうが身のためだぜ」
聞いたこともない男の声が、耳もとでささやいていた。あたりはまっ暗だった。さけぶまもなく、口は、口でふさがれ、息がつまった。
恐怖になかば、気をうしなった善信を、飽きるまでむさぼると、
「あばよ」
闇のどこかへ、男はすばやく、消えてしまったのである。
たった一度きり……。それも善信にとって、苦痛しか覚えなかった交わりでも、子というものはできるものなのだろうか。
(どうしよう。こんなこと、長老尼さまには申しあげられない)
弟子仲間の尼たちにも、むろんうちあけられる話ではなかった。老尼に目をかけられている善信を、日ごろから嫉んでいる尼たちなのだ。
「どこかで、いたずら事をしてきて、うまうまウソをついているのでしょうよ」
としか、受けとられないのは、わかりきっていた。
善信は捨て子だった。小さいときから老尼の手もとにひきとられ、学問仏典、尼としての修業をきびしくしつけられた。生まれつき聡明だったためか、めきめき素質はのび、
「ゆくゆくは、寺の跡をつがせよう」
と、この若さで、老尼にも期待されているまじめな、勝気な尼僧なのである。
「なんじゃろう善信、あの人だかりは……」
ふいに、老尼は足をとめた。
(いっそ、死んでしまおうか)
考えあぐねながら、あとについて歩いていた善信は、あやうくその背につき当たりそうになった。
「ほんに、人がたくさん集まっております。なんぞ、あったのでございましょうか」
行く手の往来……。それも道のまん中に、通行人が垣をつくって、ガヤガヤさわいでいる。
「なにごとでございますかな」
近よってたずねる老尼へ、
「やあ、浄泉寺の尼公さま、行き倒れでごぜえますだ」
顔見知りの馬子が、したり顔に教えてくれた。
「ごらんなせえ。まだ屈強の男ざかりだが、頓死だねえ。身体のどっこにも、かすりきず一つねえのに死んでまさあ」
なるほど体躯堂々とした偉丈夫が、炎昼の日ざしにさらされたまま、仰向けざまにころがっている。ふしぎなことに、下帯ひとつの裸だった。
「つついてみろやい」
「さんざ、つついただ。でも、ピクリともしねえよ。卒中にやられたのじゃあんめえか」
「そんな年じゃなかろうが……」
「なんにしても、行き倒れにまちがいねえ。やれやれ気の毒に……。なんまみだぶ」
口々に勝手なことをいう見物のうしろから、
「どけどけ、ご通行のじゃまだぞ」
郎党らしい権柄声を先立てて、馬に乗ったりっぱな侍がちかづいてきた。
2
狩りに出かける中途らしい。身分もなかな高そうな武者にみえる。
六布の小袴の、下をくくり、鎧直垂の片袖をぬいで、生絹の綾の射籠手をかけ、左右の手には皮のゆがけ(=蝶のヘンが、虫ヘン)をはめている。折り烏帽子の上にいただくのは、これも皮でふちどりした綾藺笠……。黄金作りの太刀をはき、腰に弦巻、背に箙、片腕に重籐の弓をかいこんだいでたちは、ものものしいし、なにより人目をそばだたせたのは、物射沓の先までをおおっている行縢の、鹿皮のみごとさだった。
下民どもはおそれをなして、先を払う郎党の叱咤に、いっせいに逃げ散った。
「なに者じゃな、あれなる男は……」
馬をとめて遠くから、侍は死人を見やった。
「行き倒れらしゅうございます」
郎党の答えに、
「ううむ」
なお、目をこらして、じっと死人を凝視していたが、なに思ったか、いきなり馬からとびおりると、侍は弓に矢をつがえた。
射るのかというと、そうではない。狙いすましたまま用心ぶかく、死人からできるだけ遠ざかって、道のはじっこを抜き足さし足、通りぬけていくのである。
主人のこの、警戒ぶりに、供の郎党たちもおっかなびっくり、足音をしのばせて死骸のかたわらを通過する……。
だいぶ行ってから、やっともとどおり馬に乗り、あとも見ずに立ちさるのを、遠まきにながめて、
「なんだ、ありゃァ」
「臆病な侍もあったもんだな」
「いくら、こけおどしななりをしたからって、死人を見てふるえあがるようじゃァ肝ッ玉もしれてらァ」
「ばかばかしい」
ヤジ馬はわいわい笑い、もう、それで、ひまつぶしにも飽きたのだろう、三々五々どこかへ見えなくなった。
老尼はだが、一人、小首をかしげて、
「いまの、お侍さまのそぶり、なんとしても腑におちぬ。いましばらく様子をみてみようではないか」
弟子の善信尼をうながすと、道のほとりの木立ちのかげにかくれた。
――まもなく、また、おなじ、京の方角から、馬に乗った武者がやってきた。これは、こんどは旅すがただ。供は一人もつれていない。前の侍にくらべると、太刀も馬も、だいぶ劣るが、ひととおり武具を身につけ、路用とみえる砂金の皮袋まで、腰にぶらさげている。
「なんだ、こいつは……」
やはり死人に目をとめたものの、
「行き倒れだな」
この侍のほうは用心もなにもなく、うかうか馬からおりてそばへ寄り、
「やい、もう息はないのか」
持っていた弓の先で、チョイチョイ死体をこづき廻した。
その瞬間だ。やにわに死人の腕がのびた。弓をひっつかむと、
「やッ」
おどろいて引こうとする侍自身の力を利用して、ぱっととび起き、相手の腰から差し添えを抜くやいなや、横一文字に高股を割りつけた。
「ぎゃァ ……」
悲鳴をあげて、侍はうしろへ尻もちをつく。
おどりかかって、その身体から胴鎧をはぐ直垂をむしり取る太刀をうばう……。熟練した料理人が、筍の皮をむく手ぎわである。またたくまに身ぐるみ強奪したあげく、馬にとび乗ってどこともなく、“死人”は一散に逃げて行ってしまった。
「にせ死人じゃった。あれは音にきこえた盗賊の、袴垂じゃよ善信」
老尼は身ぶるいして言った。
「先刻の武者は、さすがな者じゃ。ひと目でうろんな死人と見やぶったからこそ、あのような用心をしたものを、ひきかえてこのお侍の、考えなしなことはどうじゃ。おなじ、もののふとは言い条、こころがけは天地のちがいじゃの」
それにしても、けが人はうんうんうなっている。
「しかたがない。寺へつれていって、きずの手当てをしてやりましょう。仏者の勤めじゃ」
ちょうどさいわい、さっきの馬子が、空馬を曳いてもどってきた。
「やァ、尼公さま、まだこんなところにござらっしゃりましただかい」
「よいところにきてくれました。このお待、寺まで運んでくださらぬか」
「やァやァ、えらい血じゃ。目を廻してござらっしゃるの。こりゃまた、どうしたことじゃ」
かいつまんで事情をはなし、馬にかき乗せて寺へもどった。
「薬はないか」
「それより、医者どのをよびましょうか」
「なんの、それにはおよぶまい。思いのほか浅手じゃ。血止めを出しなされ」
「尼公さま、お召しものがよごれます。わたくしどもがいたしましょう」
と、寺では尼たちが総出で、一時、ごった返したが、善信尼ひとりは、さわぎもいっこうに身に添わなかった。
(お腹の子……このままずんずん、大きくなっていったら……)
その心配一つをめぐって、心はどうどうめぐりするばかりなのだ。
(死ぬほかない。とても生きてはいられない。尼の身で、だれともわからぬ男の種を孕むなんて、この上の恥はないもの……)
でも、いざとなると、実行はなかなかむずかしかった。
(首をくくろうか。それとも川へ……)
とつおいつ、考えあぐねているうちに日かずがたち、けが人のきずのほうは、めきめきよくなってきた。
3
侍は、名を三善小太郎信光といった。用があって、駿河の国府までくだる途中なのだという。
「なんともわれながら、不覚をとりました。あの死人が、盗賊の袴垂とは……」
「これからもあることじゃ。のほほんと、なんの用意もなく、面妖なものに近づきなさるなや」
老尼に意見されて頭をかきかき、
「ご教訓、肝に銘じました。以後、くれぐれも気をつけます」
誓うけれども、どれほど肝に銘じたかは、予測のかぎりではない。まのびのした馬面は、おでことアゴが出ばってしゃくれて、人は好さそうだが、およそ威厳に欠けていた。若い男の逗留なら、歓迎しそうな尼たちまでが、さっそく『馬さん』だの「三日月さま』だのと仇名をつけて、
「はやく出立してくれないかしらねえ」
爪はじきする始末である。善信尼だけが、小太郎の存在にまったく無関心だった。
床あげにこぎつけ、足ならしの散歩がてら、境内をあちこち、小太郎が歩き廻れるまでになったある宵、いよいよ善信は、死を決意した。
庫裏のうらには、尼たち手づくりの菜園がひらけている。その向こうは松林だ。善信は、こっそり林の中へはいってゆき、松の木の枝の一つに紐をかけた。
「仏さま、長老尼さま、おいつくしみは忘れません。どうぞわたくしをおゆるしください」
小さなふみ台を下に置き、しばらく瞑目合掌して、先だつ罪をわびた。さすがに、とめどもなく頬がぬれた。でも、善信は涙をはらうと、台に乗って、輪にした紐を、その細い首に二重にかけた。
「南無!」
あわや、台を蹴ろうとした瞬間、
「なにをするッ」
大声といっしょに、抱きついてきた者があった。男の手だ。小太郎の声だ。
「はなしてくださいッ、死なしてッ」
もがいたが、
「だめだ、その若さで死ぬなんて、とんでもないはなしだ」
小太郎はしゃにむに、あらがう善信を地上へおろしてしまった。
「わけをきかせてくれないか尼さん。――あんたは善信とよばれている尼さんだね」
「なにも言いたくありません。長老さまにさえ、申しあげられないわけを、行きずりの、あなたなんぞに……」
「風来坊のおれにだからこそ、かえってこだわりなく話せるんじゃないのか? ここの尼公さまに、おれは命を助けられた。その恩返しに善信さん、ない智恵をしぼってでも、あんたを助けたいよ。相談にのろうじゃないか」
口ぶりはあたたかかった。兄が妹にいうような、親身の情があふれていた。四ヵ月ものあいだ秘密をかかえて、一人、なやみつづけていた善信の胸の氷が、ふっとと(=ニスイに、解}けた。
「きいてくれる?」
声がうるんだ。
「あたし……あたし……」
参籠の夜の出来ごとを、善信はうちあけた。
「それで……赤ちゃんができたらしいの」
「なんという畜生だ。こんな清純な尼さんを、汚すなんて……」
歯がみして、宙をにらんでいたが、
「そうだッ、名案を思いついたぞ」
小太郎はいきなり立ちあがると、松林を走り出てゆき、しばらくして、もどってきた。片手に、菜園から抜いてきたらしい大蕪、いっぽうの手には包丁をにぎっている。
借り着の袖で蕪の泥を落とし、まん中からすぱッと割って、中央をくりぬいた。
「さ、これを持って厨へお帰り。そして仲間の尼さんたちにこう言うんだ。『だれのいたずらか、こんな穴あき蕪を畑で見つけた。もったいないから食べてしまおう』そういって善信さん、汁にしても煮てもいい、一人でこいつをたいらげておしまい」
とっぴな進言だ。善信は目をまるくした。
「食べて、どうするの?」
「どうもこうもない。それだけさ。あとはおれがよいように、かならず始末をつけてあげる。あんたは身体をいたわって、だれがなんと訊こうと知らぬ存ぜぬの一点ばりを押し通し、月が満ちたら子を生めばいいのだ」
「生むの? 赤ちゃんを!」
「生むのさ。だいじょうぶ。……いま四月とか言ったね善信さん」
「え、四月……」
「あと半年のうちにきっとまた、おれはこの寺にもどってきて、あんたの名誉を挽回してあげる。親船に乗った気で待っていなさい」
馬面が、ふしぎにたのもしく、緊って見えた。
善信は信じた。小太郎の救いを信じて、厨にもどり、言われたとおり、
「ほら、ごらんなさい。半分にたち割った上、穴まであけた大蕪が、畑の畔にほうり出してあったのよ」
仲間の尼たちの見る前で、蕪を煮つけて食べてしまった。
小太郎が全快し、駿河へ旅立っていったのは、それから五、六日あとだった。旅仕度の一切を、老尼はととのえて出発させたのである。
さすがに心細かったが、善信は耐えて、なりゆきにまかせた。
腹部はしだいに目だちはじめ、
「善信さん、あんたまあ、そのお腹はどうしたの?」
あんのじょう、非難攻撃の嗷々が善信をとりまいた。老尼も案じぬいて、
「相手はだれじゃ。かくさずに、わしにだけは話してみやれ」
根ほり葉ほりしたけれども、これも小太郎の言いつけを守って、
「知りません。なぜこのようなお腹になったのか、まったくわたしには、身におぼえのないことでございます」
善信は、かぶりをふりつづけた。
そのうちに産み月がき、男の子が生まれた。
(どうするの? 小太郎さん、約束をわすれたの? 助けにきてくれないの?)
気が気でなかったが、そんな善信の不安が通じでもしたように、赤子の誕生から十日ほどして、ひょっこり小太郎がたずねてきた。
「おかげさまで、駿河での用はのこりなく片づきました。これから都へもどります」
すっかり日やけして、歯ばかり白い。
「それはよかった」
「ですが長老さま、尼寺には似合わぬ泣き声がいたしますな、あれはどこの赤児です?」
いぶかしそうに、小太郎はきょろきょろ、あたりを見まわした。
「こまっているのじゃ」
老尼はそっと、ため息をもらした。
「じつはそなたの留守のまに、弟子尼の善信が、だれの種ともわからぬややを生み落としてなあ」
「ほう、あの道心堅固な尼さんが……」
しかつめらしく、腕を組んで考えこんだあげく、その腕をいきなりほどいて、
「こいつはしくじった。その子供の父親、かく申すわたしに、ちがいありませんよ」
小太郎は笑い出した。
「なんじゃ。ではそなたが、善信を……」
「いえいえ、長老さま、早合点なさってはこまります」
いそいで小太郎は手をふった。
「指一本、善信さんに、わたしは触れてはいません。――ただし、凡夫のあさましさ……。寺とはいえ若い尼僧がたにきずの看護をされているうちに、どうにも煩悩がさし起こりましてな。歩けるようになったある日、うらの畑へ出て大蕪をひっこぬき、穴をくりあけて……」
「前へ、押しあてたと申すのか」
「ははは、お恥ずかしい。でも、それでさっぱり、身体が軽くなりましたが、もしや善信さん、その蕪をめしあがって、懐妊されたのではありますまいかな」
蕪を犯した男……。
その蕪を食べてみごもった尼……。
「なるほどのう」
感に耐えた顔で、長老尼は幾度もうなずいた。
「世の中には、そのようなふしぎも、あるものなのじゃのう」
謎はとけた。疑惑もはれた。
「と、わかれば、この子はまさしくわたしの子。かぶら太郎とでも名づけて育てましょうよ」
馬面をニコつかせ、大事そうに赤児をかかえて、小太郎は都へ帰って行った。