二人で一人の物語(抄)

   『平凡』創刊号

 

 久しぶりに、ほんとうに久しぶりに、私は作家の龍胆寺雄氏と再会した。つい先日の、九月一〇日(昭和五十八年)のことである。中央林間に住むこの老作家は八二歳という齢にもかかわらず矍鑠かくしゃくと元気であった。むしろ老作家という言葉が似つかわしくなく、壮年作家のように意気軒昂としていた。頭髪はすっかり白髪だが、若いころからの童顔をそのままに、血色のいい風貌で、

「やァ、清水君…… キミは太ったなァ、すっかり貫禄だなァ。」

 と、私の顔をしげしげとみて

「外ですれ違ってもまったくわからんねェ……」

「昔はガリガリにやせていましたから、外でお目にかかってもわからないでしょう。」

「ほんとうに……。」と、かたわらの正子夫人もうなずいて、

「なつかしいですねえ……。」

 と、昔のはなやかだった龍胆寺邸のサロンの様子を思いうかべているまなざしになった。

 昭和六、七年ごろ、私は当時高円寺にあった龍胆寺雄氏のサロンに毎週木曜日にあつまる作家志望の文学青年たちの仲間に加わっていた。旧制の中学を卒業して間もなくだったからまだ一八歳ぐらいであった。龍胆寺雄氏は、昭和三年に『改造』の懸賞小説に「放浪時代」という作品で当選し、モダニズム文学という都会派小説を旗印に颯爽さっそうとした文壇へのデビューであった。一八歳の私はその新鮮な作品に感動し、自分も、こんなモダンな文学を目指したいと、彼の家をたずねたのである。そこに、私のような同じ志を持つ若者がすでに大勢集まっていて、毎週木曜日がその定例の集いであった。そして、その若者たちで『ロマン』という同人雑誌を発行し、龍胆寺雄氏が主宰していた。私は、その『ロマン』に二つの短篇小説を発表した。

「不幸な衣裳」という題名のものと、「木実子」という掌篇小説である。そして、「不幸な衣裳」という作品は、同じ時代の同人雑誌『新早稲田文学』が、同人雑誌の作品評でとりあげてくれ、文章の色彩感覚があるというような批評をしてくれたことをおぼえている。その批評の筆者は、まだ無名のころの石川達三氏であった。

 私は、龍胆寺雄氏のサロンにあつまる若者たちの中では一番年少であったが、そこでいろいろな友だちが出来た。その中に、『平凡』を創刊してから編集の仲間に加わってきた牧葉陣太郎という男がいた。また、牧葉陣太郎とは幼な友達だという館京太郎というペンネームの青年がいた。この二人は、私の人生に大きな影響をあたえる存在になったのである。牧葉は、後年、平凡出版の副社長となった牧葉金之助の若き日の姿であり、館京太郎は本名を西川清之といい、文学青年時代の私が彼の家に居候したり、近年は一緒に俳句雑誌『淡淡』を主宰している仲間である。龍胆寺氏は、私たちが毎週そのサロンに集まっているころは、文壇随一の流行作家で、さまざまな雑誌に彼の作品がのり、また、作品集も飛ぶように売れていた。『令女界』というような若い女性雑誌では、彼の小説を連載することによって急速に部数を増やしたという時代であった。それが、「M子への遺書」という文壇モデル小説のような作品を発表したのを機に川端康成氏らとの確執がおこり、ついに文壇からボイコットされるような事件に発展し、龍胆寺氏は東京を捨てて、神奈川県の中央林間に引移り、広大な土地を所有してサボテンのコレクターとしての生活をはじめるようになったのである。

 「神奈川県の南林間に、海軍の紙があり、それを管理しているのが作家の龍胆寺氏だ……」という情報を岩堀がききこんで来て、龍胆寺雄氏を知っているという私を誘ってその紙を買いにいくいきさつは前述したとおりである。

 「ところで、あの終戦直後の海軍の倉庫の紙を、私と岩堀が買いに行ったときのことをおぼえていますか……。」

「ああ、そりゃ忘れもしないよ。しかし、キミ、岩堀さんという人は得体の知れないところもあるが、すばらしい人物だったねェ。」

「そう思いましたか。」

「うん、僕はね、あの岩堀という人物に一ぺんで惚れこんだんだ、この男のやることならきっと成功すると確信を持ったね、そういう運を持っている男だったね、だから、紙なんかあるだけ全部持っていってもいいといったんだよ。」

「あのとき、先生は、どうしてそんな海軍の紙なんか管理していたんですか。」

「うん、その海軍の倉庫というのは僕が海軍に貸していたもんでね、紙ばかりじゃなく食料なんかもあったんだ、だから、終戦で海軍がなくなっちゃったから、僕が管理することになったんだよ。しかし、清水君、あの紙は持ち逃げされたそうじゃないか。」

 「そうなんですよ、岩堀さんがどこかから借りて来たトラックの運転手に、そのまま持ち逃げされたって話なんです。折角先生から譲っていただいて、これはいい紙だから表紙に使えるだろうなんて大喜びだったのに残念でしたよ。でも、なにしろ闇の紙だから表沙汰に出来ないし……」

「そうか……いまなら笑い話だが、当時は大変だったろうね。」

 結局、南林間へ『平凡』の印刷用紙をトラツクに揺られて岩堀喜之助と二人で買いに行ったことは徒労に終わってしまったのである。

「ところで、先生は、あのあと岩堀さんに会いましたか。」

「いや、あのとき一回だけだよ一回あったきりだが、強烈な印象を残していったね、彼のやることなら必ず成功すると思ったよ」

「そうですか。」

「清水君、人間はね、運だよ、強い運を持っている者が成功するんだ。君も運の強い男だと思うが、岩堀さんも運の強い男だったね。」

 龍胆寺雄氏はしきりに運勢論を強調した。そういえば岩堀喜之助も運勢論者だったと思う。私との日常の会話の中で、よく「あの男は運が強い」とか、「あの女は、つきあう男をダメにしてしまう運勢をもっている」とかという話をすることが多かった。そして易者のように人相をみる人でもあった。

「あの男はいい人相をしている」とか、

「このごろいい人相になってきたね、誰それは……。」という人相論もよくきかされた。その人相論で『平凡』は一つの重大なチャンスをつかむのだが、その話は後日に譲ろう。

 さて、ここに『平凡』の創刊号がある。その法定文字を読むと、平凡第一巻第一号毎月一回五日発行、昭和二十年十二月一日印刷昭和二十年十二月五日発行とあるが、不思議なことに、昭和八年四月十一日第三種郵便物認可とある。この第三種郵便物認可の年月日は、おそらく下中彌三郎氏の創刊された『平凡』のそれがそのまま受けつがれたものであろう。私達の『平凡』は定価は一円、編集人清水達夫、発行人岩堀喜之助、印刷人小島順三郎、印刷所は東京都神田区小川町二ノ十二株式会社秀英社、発行所凡人社、住所は京橋区銀座西七丁目四ナルミビル三階となっており、配給元は、東京都神田区淡路町二ノ九日本出版配給統制株式会社となっている。日配とよばれた出版物の配給機関である。この創刊号の頁数はA5判で四八頁。表紙はオフセット三色刷りで創刊号の文字はなく、十二月となっている。タイトルの『平凡』という文字は山名文夫氏のデザイン、表紙の絵は大橋正氏のイラストレーションで、フードをかぶった丸顔の女性の絵で、“平凡”の題字の下にローマ字のHEIBONが赤く印刷してある。終戦直後、早くもローマ字をいれるところは当時のデザインとしては大胆だし、フレッシュであったと思う。目次もご紹介しておこう。

 

     目 次

 

  平凡談議     新居 格

  アメリカの女たち 伊藤道郎

  秋 雑 詠    水原秋桜子

  マダム御帰館   玉川一郎

  ある旅行     清水 崑

  一つ身の着物   壺井 栄

  花野の徑     宮崎博史

  猫とり      一瀬直行

  陽と土と     美川きよ

 

 これに編集後記を最後のページに私自身が書いている。

 この目次をみながら、いま思いおこすのは誰がどの原稿を依頼したり取材したりしたのだろうかということである。平凡談議という巻頭の新居格氏のエッセイは、菅原幸基の担当だったと思う。その次の伊藤道郎氏のアメリカの女たちというのは、談話筆記で私が書いたものである。この伊藤道郎氏の話は、岩堀と私の二人がインタビューに行って取材したものである。どういうことで知りあったのか、伊藤道郎氏と岩堀は親しくしていた。当時、アメリカから帰国した舞踊家の伊藤道郎氏は、アーニーパイル劇場の演出家として、またプロデューサーとして、アメリカ進駐軍のための娯楽を担当していたのだが、その伊藤氏を、私と岩堀は、杉並の永福町の家に訪ねた。そこは、たしか、伊藤道郎氏の義弟にあたる画家の中川一政氏の家で、そこに伊藤道郎氏は寄宿していたのである。インタビューはもっぱら岩堀の役で、私は彼の隣りでその話をきいていた。しかし、私がメモ一つとらずにただきいているばかりなので、岩堀は心配になったようで、

「おい、達ちゃん、大丈夫かい。」

と、インタビューが終わって外へ出ると、すぐ私の肩を叩いた。

「うん、大丈夫だよ。」

「そうか、そんならいいけど…… おめえ、なんにもメモとらないから……。」

 と、まだ心配そうな表情だった。もっともこのインタビュー取材は、岩堀と私のコンビの初仕事で、私の書いた原稿をみたこともない岩堀にとっては不安だったのかも知れない。しかし、そのころの私は記憶力もよかったし一時間くらいのインタビューを書くことには自信があった。その晩早速原稿を書いて翌日岩堀にみせると、

「へえ、うめェもんだなア、伊藤先生の話そのまんまじゃねえか……。」

 と、彼はびっくりして、

「おそれいりました……。」と、嬉しそうに頭を下げた。そんな思い出のある原稿である。秋雑詠の水原秋桜子……というのはいったい誰が依頼したものか私にはまったく記憶がない。私は電通時代に少し俳句をやり、句会などに出ていたので、もしかして、そのころ三越に勤めておられた秋桜子の門下の瀧春一氏を知っていたので、瀧春一氏を通じて秋桜子の俳句をもらったのかも知れない。次のマダム御帰館というフランス喜劇の翻訳ものは玉川一郎氏の原稿だが、これは、私自身が玉川一郎氏に依頼したもので、玉川一郎氏はコロムビアレコードの広告課長をしていて、コロムビアレコードの文芸部や宣伝部が新橋駅に近い内幸町の東拓ビルにあるころはよく遊びに行って親しくしていた。その関係で私自身が依頼したものである。「ある旅行」の清水崑氏の原稿は、たしか岩堀と私と二人で鎌倉の崑氏の家に依頼にいったおぼえがある。「一つ身の着物」の壷井栄さんは、菅原幸基の担当だったと思う。「花野の徑」の宮崎博史は、三越の宣伝部長だったユーモア小説の作家で電通時代から親しくしていた私の担当、「猫とり」の一瀬直行氏は、たしか、岩堀の軍隊の戦友で、「陽と土と」の美川きよさんの原稿は、岩堀が中国時代に戦地を慰問に行った従軍作家の美川さんを案内したことがあるという関係で彼が頼んで書いてもらった小説である。こうして創刊号の原稿は、五人の仲間がそれぞれに自分の知人、友人に頼んで執筆してもらったものばかりである。いわば一種の文芸雑誌風なもので、いまでいえば『オール読物』とか『小説新潮』風の内容で、たった四八頁だから、むろん貧弱な姿のものである。しかし、終戦直後の初冬、書店の店頭にはまったく雑誌らしいものはなく、しかもほとんどが活版印刷だけで、オフセットの色刷りのものなどなかったのだから、うすっぺらな四八頁の『平凡』創刊号は、表紙が三色刷りというだけで娯楽に餓えていた人びとの注目を浴びたのである。だから飛ぶように売れたといってもオーバーな表現ではないのである。

 ところで、この創刊号を印刷してもらったのは、奥付にもあるように、神田小川町にあった秀英社という小さな印刷所で、岩堀が誰かの紹介で依頼したのである。創刊号だけで、二号からは大日本印刷にうつるのだが、このいきさつが、実は、この印刷所の社長小島順三郎氏の人相論からであった。

「岩堀さん、この雑誌は将来必ず大雑誌になる、君の人相にそうでているんだ。」

 と、小島さんは、鋭い眼で岩堀の人相をみつめて

「だから、今のうちに大日本印刷か凸版印刷にやってもらうように頼みなさい。そうしないと、大雑誌にはなれないよ。」

「おやじ、そんなこといって、自分のところでやりたくないからじゃないか、俺たち貧之雑誌社だから……。」

「いや、違う。岩堀さん、あんたの人相はただものじゃない、必ず大雑誌になる。それにもう今でないと大日本にも凸版にも入れなくなるよ、今のうちだ早い方がいい……。」

 小島社長の忠告は真剣だった。決して自分のところで印刷するのを断るための口実などではなかった。

「おやじ、有難う……おやじのいうとおりやってみるよ。」

 岩堀は小島社長の親切と、人相論には感動して強く社長の手を握りしめた。その日から岩堀と私は、大日本印刷ヘ紹介してくれる伝手を求めた。同人の伊藤進一郎が同郷の横山さんという元海軍少佐を探してきた。横山少佐は戦時中オフセットの地図などを大日本印刷に依頼していた関係で、オフセット課長を紹介してくれ、その課長からまた営業課長へ紹介してもらい、大日本印刷で二号目からの『平凡』を印刷してもらうことが出来たのである。そのときのことを私はおぼろげながら記憶している。たしか、営業課長は沼池さんという小柄な人物で、岩堀と私が、創刊号をみせると「やりましょう、B5は出来ないがA5なら引受けます。」と即決してくれた。紹介者の筋がよかったのであろう。名もなき凡人社という出版社の仕事を引受けてくれたのだから。後年、岩堀がよく秀英社の小島社長の人相論をもち出して自慢ばなしをした。『平凡』が昭和二八年に百万部を突破したころである。

 「なァ、清水さん、あのとき小島のおやじが大日本印刷へかわれと忠告してくれなかったら、危なかったよ。あのおやじ俺の人相をみて、必ず大雑誌になるって予言したんだから…… 。」

 思えば、創刊三万部でスタートした『平凡』が、八年後に百万部を突破する大部数の雑誌になるとは、当時、誰が考えただろう。あの貧弱な四八頁の創刊号をみただけではとても考えられない筈である。小島社長のひらめきのような人相論が、そのことを予言したのであった。だから、それ以来岩堀自身も易者のように直感で人相を見るようになったと、私は思う。彼は別に観相術など勉強したわけではなく、彼一流の鋭い直感である。そのひらめきは、おそらくもって生まれたもので、彼の人生に大きく作用したように思うのである。

 創刊号が出来あがったときのことを、当時一七歳の少年だった羽鳥勲(現在、営業局長)がこんな風に日記に書いている。

 今日も一日中雲がひくくたれこめ雪模様のどんよりした寒い日だった。

 秀英社の人に連れられ、神田小川町から都電に乗り築地新富町ヘ向かう。窓にとびこむ街々には昔父に連れられて遊んだ思い出はあとかたもなく、赤さびた鉄骨が立ちならび、くづれたビルの中にトタン屋根のバラックの家がまばらに立ちならぶ。焼け跡に残されたレールの上をゴトゴトと都電は大手町から日本橋をぬけ茅場町へ出る。四時というのに人通りもなく、たまに自動車が都電を追いぬいて行く。「ほら、これをまっすぐいくとつきあたるから、あれが京橋郵便局さ、それを右に行くと川があるよ、三原橋って書いてあるから、その川に沿って右へどんどんいけば新橋の方へ行くさ。」今まで、七輪の火をバタバタあおいでいた骨だらけのウチワをつかいながらおばさんがおしえてくれた。そばの電柱に築地二丁目と赤い字で書いてあった。途中、なんども道をききながら、百冊の「平凡」をかかえて事務所へ帰った。しんと静まりかえったビルの廊下で岩堀、清水、菅原、菊池さんが待っていてくれた。真暗になったその廊下の窓に本をくっつけるように、ものもいわず四人は一頁一頁めくっていた……これが「平凡」創刊号である。(昭和二〇年一一月二五日の日記より)

 この日記は『平凡』創刊号の見本を百部だけ羽鳥少年が印刷所の秀英社の人に連れられて、築地の製本所へとりに行き、新橋のユアサビルの私たちの仮事務所まで運んで来たときの模様を日記に書いておいたもので、もう日が暮れて仮事務所をしめだされた私たちが廊下で、その見本がとどくのを待っていたときのことである。羽鳥少年が運んで来たその出来たばかりの創刊号に、私たちがとびつくようにして一頁一頁をみた様子は、彼の日記に書かれたとおりであろう。火の気のない寒い廊下で、もう薄暗くなりかけた窓の明りに、みんなものもいわずページをめくっていた姿がありありと思い出される。

 こうして、創刊号は書店に売り出された。

 しかし、すぐまた二号目の原稿集めにかからなければならない。印刷所もこんどは日本一の大日本印刷でやってもらうのである。創刊号よりもさらに読みごたえのある充実した編集内容にしなければならない。しかし、なにしろ貧乏な会社で、原稿料などもゆたかに支払えるような情況ではない。友人知己の好意にすがって書いてもらうような企画を考えねばならなかった。

 そうだ……と、私はこんなことを思いついた。私の家内が、大作家の里見弴氏の長女と鎌倉女学校で同窓、しかも親友であった。普通に頼んだのでは、里見弴氏のような大作家の原稿はまったく無名の雑誌社がもらえる筈もない。私は家内から里見先生の長女のるり子さんに頼んでもらうことを考えたのである。

 

 

  ひばりとともに

 

 昭和五九年も年賀状をたくさんいただいた。年賀状というものはなんともいえず嬉しいものである。前の晩の大晦日に会って、「それじゃァいいお年を……。」と別れたばかりの友人から、元旦のポストに改まった賀状がとどいていて、しかもそれが木版の手づくりだったりすると、

 「あいつ用意がいいなァ……。」

 と思わず感心したり嬉しくなったりする。

 今年私がいただいた年賀状には、いつもの年と違って一つの特色がめだった。それは新雑誌『鳩よ!』についての激励のひとことが添えられているものが多かったことである。

 ――鳩よ! 創刊号から読んでいます。ガンバッて下さい。

 ――鳩よ! 期待しています。

 ――貴社の雑誌をはじめて買いました。鳩よ!です。

 そんな添え書きが、年賀状の中にたくさん寄せられていてありがたかったし、感動した。従来のわが社の雑誌には無縁であったような新しい読者が、『鳩よ!』だけは読んで下さっているようだ。隣家の老夫人が、

「鳩よ! をたのしみに読んでいますよ。」

 と年賀のあいさつとともに家内に声をかけて下さる。この老夫人もまったく新しい読者のひとりだし、昔、娘の中学校の英語の先生だった男性から、何年ぶりかで賀状が来て、『鳩よ!』を買いましたと、近況を知らせてくれた。年賀状の中にこんなにたくさん新しい雑誌についての関心をよせられたことはいままでにないことである。『鳩よ!』という雑誌に対する世の中の期待と注目がいかに大きいかということをしみじみ痛感する。しかしまだまだ読者の熱い期待にこたえられる内容には遠いようだ。この新しい詩の雑誌は、単なる文芸としての詩雑誌ではない。ポエムによるニュージャーナリズムと表紙にうたっているように、世界的に揺れ動くいまの時代に問題を提起する詩の雑誌である。新しい年を迎えて、私も思いきり『鳩よ!』の充実に情熱をぶつけていかなければ……。

 正月の二日の夜と三日の夜、美空ひばりがテレビで熱唱したのをきいた。二日の夜は作曲家の船村徹さんの作品集、三日の夜は、高橋圭三氏の司会する歌番組だったが、正月の夜にふさわしいひばりさんの見事な歌い初めだった。心もちほっそりとやせて美しくなったようにみえる。着物の好みもすっきりしていた。歳末のある夜の会合で、

「一九八四年は美空ひばりの年になる。」

 という話題に花が咲いた。

「どうして美空ひばりの年なのか……。」

「彼女の新しい決意の年だからだ。三年前のおふくろにつづいて弟まで突然病死した彼女にとっては、ひらきなおって、もう一度自分の歌にチャレンジしなくちゃならない……。」

「それにしても彼女のために大プロデューサーがほしいね、美空ひばりの年になるかならないかはプロデューサー次第だよ。」

 その会合での話題はそんな結論に落着いたが、正月の夜のテレビできいた美空ひばりの歌は、ひところややおとろえを感じさせた声がまたふたたびのびのある美声になって、新しい魅力をきかせてくれた。

 美空ひばりといえば雑誌『平凡』とはきってもきれない長いつきあいであり、特に岩堀喜之助とひばり親娘の親しい間柄は、美空ひばりのお母さん、加藤喜美枝さんの葬儀のときの、岩堀喜之助の弔辞や、また一昨年の岩堀喜之助の葬儀のときのひばりさんの弔辞にも語られているように、ひばり親娘にとって岩堀喜之助は、唯一無二といってもいいほどの相談相手であった。

 『月刊平凡』のある時期、ひばりとともにという時代があった。そもそものはじまりは、彼女のデビュー作「悲しき口笛」からはじまるのである。

 松竹映画「悲しき口笛」は、美空ひばりの同名の主題歌を映画化したもので、天才少女ひばりがはじめて主役を演じた作品で、その原作小説は『平凡』に掲載した。作者は、当時の流行作家竹田敏彦氏である。この映画が完成したとき、『平凡』は読者招待の試写会を催し、アトラクションで、美空ひばりが主題歌を唄った。

 雨の降る日で、一二歳の天才少女は長靴をはいて会場へ来た。彼女は、シルクハットに燕尾服という姿で、舞台に出て「悲しき口笛」を唄うことになっていたのだが、どうしたことか靴が揃わない。仕方がなく、彼女が雨の中をはいてきたゴム長の靴で舞台に出てもらうことになった。ところが、シルクハットに燕尾服でゴム長の靴では歌わないと、美空ひばりが出演を拒否したのである。どうしてもちゃんとした靴をはかせてくれと強情に駄々をこねる。

「おい、どうする、なんとか靴を間にあわせられないか……。」

「駄目だよ、もう時間がない、満員のお客をこれ以上待たせるわけにゃいかない。」

 楽屋の関係者は弱りきった。

 そのとき、岩堀喜之助が、

「ひばりちゃん、ちょっとおいで……。」

 と、幕の降りている舞台の袖へ彼女をつれて行った。そして、幕のスキ間から大入満員の客席を彼女にみせたのである。

 「ほら、よくみてごらん、あのお客さんたちは、みんなひばりちゃんの歌をききたくて来てくれているんだよ、あんたが長靴じゃ唄わないといったら、あの大勢の人たちがどんなにガッカリするかしれない、みんなひばりちゃんの歌をききに来ているんだよ、靴なんかなんだっていいんだ、ね、あのお客さんたちのために唄っておくれ……。」

 幕の間から客席をみせた岩堀喜之助の説得に、美空ひばりは黙ってうなずいた。そして、シルクハットに燕尾服、ゴム長姿で、彼女はデビュー作の「悲しき日笛」を唄ってくれたのである。見事に、颯爽と……。

 客席は割れるような拍手だった。日本一の大歌手美空ひばりが生れた瞬間だといってもいい。

「ありがとう、ひばりちゃんありがとう。」

 岩堀喜之助は涙をポロポロこぼして、唄い終って舞台をおりてきたひばりの手を握った。読者招待の試写会は大成功だった。そして天才少女歌手美空ひばりの初舞台も……。

 美空ひばりと岩堀喜之助とは、この日から心の通じあう強い友情に結ばれたといえるだろう。そして、『平凡』がひばりとともにという雑誌づくりをはじめたのも、このころからである。

 こんなこともあった。

 ハリウッドの名子役とうたわれたマーガレット・オブライエンが来日したときのことである。私たち『平凡』の編集部は、東西名子役の顔合せを企画し、オブライエンが来日したら、ひばりとの対談や、二人でいっしょのグラビア撮影やらを取材しようと手ぐすねひいた。いまのようにテレビのない時代だから、新聞と雑誌がもっぱら取材合戦をやるわけだが、オブライエンはともかく美空ひばりはほとんど『平凡』の専属スタアのように毎号毎号いろんな姿で誌面に登場していたので、編集部のベテランは、

「よし、この際、ひばりちゃんをどこかにカンヅメにして、うちの独占にしよう。」

 といいだした。オブライエンがやってくれば、当然、日本の人気子役美空ひばりとの顔合せは、どこの雑誌も新聞も企画する。『平凡』がその対談やグラフ撮影を独占するには、美空ひばりの方をまず独占しておかなくては……というワケである。

 これを企画したのは編集部の芝崎文君とカメラマンの水野イサオ君であった。

 美空ひばりをかくせ!

 と、二人はオブライエン来日のスケジュールにあわせて、彼女を銀座のある旅館にカンヅメにした。ひばり一家も、当時は、『平凡』の企画取材には、すべて全面的に協力してくれたから、そんなことも出来たのである。

 早速、美空ひばりを出せ……と、交渉にのりこんできた雑誌社があった。『平凡』とよく似た『東京』というライバル雑誌の編集者である。そのときの交渉の相手をしたのは私であった。築地にあるわが社の食堂兼寮のようなところで、『東京』の編集長と話しあった。もとより私は、折角独占している美空ひばりを相手に貸す意志はなかった。

「折角だけどお断りする。」

『東京』側も必死で食いさがってきたが、私は丁重に頭をさげて彼女のかくし場所はあかさなかった。こうして、マーガレット・オブライエンと美空ひばりの対話やグラビア撮影は『平凡』が独占スクープしたのである。

 この『東京』という雑誌は、その後間もなく廃刊され、その編集長下村勝彦君は、縁あってわが社の編集部に入り、取締役となっているから、世の中は不思議なめぐりあわせというべきか……。

 美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人がはじめて主演した映画「ジャンケン娘」を企画したのも『平凡』である。いまでは、こういう大スタアの顔合せというのはテレビが企画してみせてくれるが、昔は、まだテレビがなかったので、雑誌でしかそのグラビア撮影は不可能だった。

 そして、雑誌といえども、多忙なスケジュールの彼女たちを一緒に取材するというのはなかなか困難な仕事だった。『平凡』はまず誌面でそれを実現し、なんとか三人娘主演の映画化を映画会社とのタイアップでファンにみてもらいたかった。ファンにみてもらう以上に、私自身それをみたかったのである。

 まず映画化のための原作が必要である。

 私は、中野実氏にこの話をもちこんだ。ひばり、チエミ、いづみの三人娘主演の映画という話には、中野実氏も大乗気で、

「清水君、ぜひやろうじゃないか、タイトルは、ジャンケン娘というのはどうだ。」

と、すぐその場で題名まで決めてしまった。映画化は、当然、松竹だと考えた。美空ひばりの主演映画がほとんど松竹だったからである。江利チエミや雪村いづみは、当時、どちらかといえば東宝側だったが、三人娘といっても、なにしろ中心は美空ひばりである。

 私は製作本部長の高村潔氏に話をもちこんだ。松竹も異存はないという。

 こうして、中野実氏の連載小説「ジャンケン娘」は、三人娘の主演の映画化原作として、『平凡』に連載をはじめたのである。挿絵はユーモア小説を描いては定評のある田中比左良画伯だった。

 しかし、連載は終っても、松竹は一向にこの映画化に手をつけようとしない。三人娘のスケジュールの関係が調整できないというような話であった。私たちはガッカリした。折角はじめてひばり、チエミ、いづみの主演映画が実現出来ると考えて企画したのに…… 。そのうちに、

東宝のプロデューサーである杉原貞雄氏が、

「私にやらしてくれませんか……。」

 と、編集部にたずねて来られた。

「東宝で映画化するんですか……。」

「そうです、ぜひ、私にやらして下さい。」

「ひばりちゃんは、大丈夫ですか。」

「まかせて下さい」

 杉原さんの温顔がニコニコしていた。あたたかく誠実そうな人柄である。

「じゃァ、とにかく松竹に一応交渉してみて下さい、松竹でいいといえば、『平凡』としてはなんの異存はありません。それよりも早く映画化が実現してほしいのですよ。」

「わかりました。ありがとう……。」

 杉原プロデューサーは嬉しそうに小肥りの体をゆすって帰って行った。こうして、待望の「ジャンケン娘」は、杉原プロデューサーの手により東宝で映画化されたのである。この試写会は東宝劇場で行われたが、私は、シネマスコープのワイドなスクリーンにうつしだされた「ジャンケン娘」平凡連載というタイトルをみたとき、思わず眼頭が熱くなって、涙がでてくるのをおさえきれなかった。自分たちが企画した三人娘の顔合せ映画が華やかに完成をみていよいよ封切という、ここまで運びこんで来た歳月が長かっただけに、感激もひとしおであった。

 この「ジャンケン娘」の連載が機縁となって作家の中野実氏とは親しくおつきあいするようになった。中野さんは銀座の酒場をハシゴして歩くので有名で、私もずいぶん酒場から酒場へ夜の銀座を一緒に歩いた。酒の飲めない私にはつらい仕事で、深夜、解放されたときはもうフラフラになってしまうことも多かった。「エスポアール」だの「おそめ」だの「葡萄屋」だの「ルパン」だのという有名なバアを一晩のうちにめぐり歩くのが中野実さんの遊びであった。

 『週刊平凡』を創刊するとき、連載小説を中野実さんにおねがいした。中野さんは小説の題名をつけるのも名人で、「ジャンケン娘」も傑作だったが、このときは「グッドナイト」というしゃれたタイトルを提案され、私も即座に賛成した。この後にもう一つ、ザ・ピーナッツを主役にする映画の原作小説をおねがいしたときは、「私と私」というタイトルをつけて

「どうだい、ザ・ピーナッツにはピッタリ、だろう……。」

 と、嬉しそうに自慢した。

 「グッドナイト」の連載をはじめるについて、私は主題歌をつくることを企画した。「グッドナイト」というタイトルは、いい歌が生れそうな気がして、早速、ビクターレコードのディレクターをしている磯部健雄氏に連絡をした。

「こんど、中野実さんの新しい連載小説をはじめるんだが、その主題歌をつくらないか…… 。グッドナイトという題名なんだけど……。」

「グッドナイトか……いいね。」

 磯部ディレクターは二つ返事でOKしてくれた。ビクターで少女時代から雪村いづみを売りだした名ディレクターである。

 数日すると、

「清水さん、まだ無名だけど僕がマークしている新人がいるんだけど、一度、彼女の歌をきいてみてくれないか……。」

 と電話をかけてきた。

「で、どこで歌ってるの……。」

「青山のね、“青い城”というナイトクラブで唄ってるジャズ歌手なんだよ。」

「若いひとだね。」

「もちろんさ、なかなか美人だし、売りだせると思っているんだ、こんどのグッドナイトにはピッタリだと思うんだ。」

「なるほど……。」

 私は、早速ある夜、その「青い城」というナイトクラブヘ単身出かけていった。いまではナイトクラブへ一人で出かけていくなどということはとても気遅れして出来る私ではないが、そのころはまだ若くてそういう仕事もおもしろくて仕様がないという時代であった。その青山のナイトクラブの片隅のテーブルで、水割りを注文して、私は磯部ディレクターの推薦する若い女性歌手のジャズをきいた。ポニーテールに髪を結ったその歌手は、ブルーのライトを浴びてソフトな歌声をきかせていた。ほっそりとやせて美しい、そして少女っぽい歌手だった。いかにも、「グッドナイト」という歌にはピッタりという感じである。

「磯部さん、いいね、昨夜きいてみたよ。」

 翌日、私は早速ビクターヘ電話をした。

「いいだろう、いま、佐伯先生に作詞をおねがいしてあるから、彼女のデビュー作として吹込みをしようと思う。」

「じゃあ、雑誌の方でもいろいろバックアップするから……。」

 この無名の女性歌手とは誰あろう。いまは大ベテランの歌い手、松尾和子さんなのである。

 そして、磯部ディレクターと相談の結果、フランク永井がナイトクラブで発見した新人歌手というエピソードをつくって「グッドナイト」のレコーディングをし、中野実さんの連載小説の主題歌が発売され、新人歌手松尾和子がデビューしたのである。名ディレクターとして数々のヒットソングを生み、新人歌手を育てあげた磯部ディレクターは病気のためまだこれからというのに亡くなられてしまった。惜しんでも惜しみ足りない歌づくり歌手づくりの名手だった。

 おそらくご本人の松尾和子さんは、自分のデビューの陰にこんなうらばなしがあることをいまだにご存知ないであろう。青山のナイトクラブで唄っていたまだ少女のような松尾和子さんのポニーテールの姿が、私の眼にはまだありありと残っている。

 話は前後するが、『平凡』という雑誌は、連載小説は、すべて映画化を目的としたものをのせ、しかも必ずレコード会社と話しあってその主題歌をレコードにした。だから、連載小説を企画したときは、映画会社のプロデューサーと、レコード会社のディレクターとそして私たち編集者が協議した。その代表的なものをあげれば「有楽町で逢いましょう」という大ヒットソングがある。この主題歌は同じタイトルの大映映画のものであるが、これは宮崎博史さんというユーモア作家の原作を『平凡』に連載し、それを大映が映画化したのであるが、連載をはじめる前からすでに「有楽町で逢いましょう」というフランク永井の主題歌は出来ていた。これも磯部ディレクターの手がけたものだったと思う。この企画は、もう一つ「そごう」というデパートも参画していた。もともと、有楽町に「そごう」というデパートが関西から東京への進出を試み、有楽町にその東京進出のデパートをつくったことからこの「有楽町で逢いましょう」という歌と映画と平凡連載の共同企画がすすめられたのである。

 あなたを待てば雨が降る……

 というフランク永井の大ヒットソングとなったこの「有楽町で逢いましょう」はいまもなお、カラオケブームの中で歌いつがれているが、そのヒットソング誕生のうらにはこんな共同企画が存在していたのである。

 ユーモア作家の宮崎博史さんは、戦前は日本橋三越の宣伝部長で、例の岡田茂氏は、宮崎さんの大学の後輩で、宣伝部長時代の部下である。私が、「有楽町で逢いましょう」の歌詞を宮崎さんに執筆を依頼したのは、この映画が「そごう」というデパートを中心にしたものなので、デパート宣伝部長の体験をもつ宮崎さんをわずらわせたのである。宮崎博史さんは、昭和二〇年の『平凡』創刊号にも短篇小説を執筆されているが、今年八三歳を迎えられてご健勝である。また、当時、編集部でこの映画化小説を担当した川崎治夫君という編集者は、この映画化が機縁となったのだろうか、大映のプロデューサーに転進し、石川達三氏の「四十八才の抵抗」をはじめ、数々の名作を大映でプロデュースしている。現在は、歴史学者として古代の言語の研究に打ちこみ、その著書もたくさん上梓されている。『平凡』はなやかなりし昭和二〇年代の名編集者の一人で、芝崎文君とともにその存在を忘れることはできない。

 

 

  『平凡パンチ』創刊

 

 久しぶりに京都ヘ出かけた。

 嵯峨野の愛宕寺おたきじにある私の彫った羅漢さんと岩堀喜之助未亡人の千代子さんが彫った羅漢さんが、同じ場所にならんで安置されたというのである。それではぜひともご対面しなくては……と、家内と二人で新幹線にのった。

 晩春初夏の行楽シーズンだから、新幹線はかなり混んでいる。京都に着くと駅は人であふれ、修学旅行の学生たちが構内のあちこちに旗をたてている。祇園祭にはまだ間があるが、もうすぐ葵祭がくる。葉桜や柳の緑が美しい。嵯峨野の愛宕念仏寺という古刹は、奥嵯峨の清滝の手前、有名な鳥居本の平野屋という古い料亭の少し先にある。茅葺き屋根の料亭平野屋は、店先に、緋もうせんの縁台をおいて、大きい京提灯をぶらさげ、鮎料理を名物にしていて、いかにも嵯峨野らしい風情の店構えである。新派の舞台装置そのままだ。大きな京提灯には、劇作家北條秀司氏の筆で古都好日と書いてある。愛宕寺はその平野屋から歩いて五分ぐらいのところである。

 この愛宕寺の境内で石の羅漢を私と家内が彫ったのは、岩堀喜之助が元気なころだった。奥嵯峨のお寺で、希望者には誰でも羅漢を彫らしてくれ、それを境内に安置してくれるということを、NHKのテレビ放映で知って、私の家内がぜひともそれに参加したいという。

 「あなたは、雑誌をいろいろつくってこの世にのこしたからいいけど、私はなんにもない、せめて、この世に生まれた証しとして、羅漢さんを彫っておきたい…。」

 という家内のたっての希望であった。愛宕寺に申込むと、すでに五百羅漢は全部参加者の手で完成したが、その後もテレビで知った全国の希望者からの申込みが山積したので、さらに七百羅漢を追加するという。その七百羅漢の一体を、私たち夫婦は彫らせてもらうことになったのである。

 昭和五七年の六月のはじめ、私たち夫婦は、嵐山に宿をとって、嵯峨野の愛宕寺ヘ羅漢を彫りに通った。このお寺では五万円で、タテ七〇センチヨコ四〇センチぐらいの大谷石を彫らせてくれるのである。ズブの素人に石の彫刻などが果して出来るものだろうかと、はじめは半信半疑だったが、彫ってみればなんとかなるもので、大谷石という石材は思ったよりやわらかく、下手をすればボロボロと欠けてしまう部分もある。境内の中では石をならべてさまざまな人びとがノミをふるってトンカントンカンと羅漢彫りに挑戦している。七〇代の老人もいれば、セーラー服の高校生もいて、それぞれに思い思いの羅漢像を刻んでいるのである。そして彫りあがっていく羅漢像を眺めていると、不思議に彫っている人の顔になんとなく似ているものが多い。どうやら素人が彫ると自然と彫っている人に似てくるものらしい。私の彫った羅漢さんもどことなく私に似ているといわれる。六月に三日間、つづついて七月に三日半通って、私たちの羅漢像が出来あがったのは、ちょうど祇園祭の巡幸の日だった。その彫りあがった羅漢さんの写真を岩堀喜之助にみせると、彼はとても喜んでくれた。

「清水さん。いいじゃないか、あんたたちはいいことをしたよ。俺もそのうち京都ヘ行ってぜひみせてもらうよ。」

 そのころ、彼はすでに健康に異常を感じていたらしい。しかし、医者ぎらいの彼はなかなか医者に診てもらうことをしなかった。自分の手許にいつも私の羅漢さんの写真をおいて、来客があると、

「これ、清水が彫ったんだよ。どうだい、清水に似てるじゃないか……。」

 と、自分のことのように自慢げに話したりしてくれた。そして、「俺にゃこんなマネはとても出来ないよ……清水はものづくりだからなア……。」

 と、羨ましげな口ぶりだった。それから間もなく八月の末に順天堂病院に入院し、そして、あっという間に病状が悪化して一〇月の八日に生涯を終えてしまったのである。ぜひ見に行きたいといっていた私の羅漢を、ついにみてもらうことは出来なかった。しかし、ところがである。岩堀喜之助が亡くなってから、未亡人の千代子夫人と、遺族の娘さんたちが愛宕寺へ行ってわれわれも羅漢を彫りたいといいだしたのである。生前、私の彫った羅漢さんを羨ましがっていた亡き夫の岩堀喜之助に代わって千代子未亡人が先頭にたって愛宕寺へ羅漢さんをぜひ彫りたいと申しこんだのだった。千代子夫人としては、ご主人の供養の志をこめて、羅漢を彫りたかったのであろう、そして昭和五八年の春、まだ寒さの残っている嵯峨野で、岩堀羅漢像の製作がはじまったのだった。

「彫る人に似るというから、私に似た美人の羅漢さんができる。」

 そんな冗談をいながら、夫人を中心に、末娘の奈美子さんやそのご主人の後藤隆一氏らが協力して、たちまち、岩堀羅漢像は出来あがった。私の彫った羅漢さんは「凡」という本をかかえているが岩堀羅漢さんは「平」という本を抱えている。二つならべると「平凡」になるのである。

 このことを、私は『岩堀喜之助を偲ぶ』という彼の一周忌記念につくって各方面にさしあげた本に次のように書いた。その一部分をここに紹介させていただきたい。

 

『岩堀さん

 まさかと思うだろうけど、あなたの羅漢さんが千代子夫人や娘さんたち家族の手で、見事に彫りあがったのだよ。わたしたち夫婦の彫った羅漢さんと同じ、嵯峨野の愛宕寺で……。

 あなたは去年の夏、わたしたの夫婦の彫った羅漢さんの写真を手元において

「これ、みてくれよ。清水が彫ったんだ、奥さんと一緒に。いいだろう……。」

 と、岩堀事務所ヘ訪ねてくる人たちにみせて

「オレにゃとてもこんなこと出来っこないが …… この羅漢、清水に似てるじゃないか。」と、いひいひしていたね。そして秋のはじめ、順天堂病院に入院していたときも

「清水さん、退院したらきっと京都へあんたの羅漢さんをみに行くよ、楽しみにしているんだ……。」

 と、私の手をにぎってくれた。しかし、残念なことに、あなたにわたしたちの羅漢さんを見てもらうことは出来なかったね。

 岩堀さん

 その、あなたの見たがっていたわたしたちの羅漢さんと同じお寺の境内に、あなたの羅漢さんも、わたしの羅漢さんと一緒にこれから永久に安置されることになったのだよ。(中略)

 奥嵯峨の四季は美しい、春は桜、秋は紅葉、夏は深緑が心を洗う。そんな景色の中で「平」の羅漢と「凡」の羅漢が、一緒に未来永却、奥嵯峨の四季を眺めて暮すことになろうとは、あなたもわたしも、思ってもみないことだったね。

 やっぱり二人で一人、どこまでいっても二人で一人なんだ。不思議なめぐりあわせだと思う。(以下略)』

 久しぶりに訪れた嵯峨野の愛宕寺は鮮やかな新緑が美しい。珍しく羅漢さんを彫っている人が一人もいなくて、参詣の観光客の姿がみえるだけであった。「平」の羅漢と「凡」の羅漢は、本堂のすぐ前にならべられた七百羅漢の中に緑の夏草を背にして仲よくならんで安置されていた。そのすぐ近くに、私の孫の中学一年生が彫った漫画風な羅漢さんもならべられている。この孫は、滋賀県の大津に住む私の長女の一人息子で、この春休みに彫ったものである。

「いいところにならべて下さったわね。」

「ありがたいな……。」

 私たちはお寺さんの配慮に感謝した。早速写真を撮して、岩堀夫人にみせなくては……と、何枚もシャッターを切った。この秋は早くも彼の三周忌である。泉下の彼もきっと喜んでくれているであろう。

 京都はもう三〇度近い、真夏のような暑さだった。愛宕寺の帰り道、私たちは仁和寺の隣りの蓮華寺というお寺にたちよった。ここには、片岡千恵蔵のお墓がある。片岡千恵蔵は、岩堀喜之助の雀友で五島昇氏をまじえてよく麻雀をたのしんだ仲間である。その千恵蔵のお墓の墓碑の文を五島昇氏が書いておられる。その墓碑をぜひみて来てくれと岩堀夫人にたのまれていた。

 そして、小田原長泉寺の彼のお墓にこの秋の三周忌に彼の墓碑を建てたいというのが千代子夫人のねがいであった。その墓碑の文字は私が書くことになっていたのである。私は千恵蔵さんとは直接お目にかかったことはなかったが、思いがけないことでお墓詣りをすることができた。

 京都へ来ると、私たちは、いつも大津市に嫁いでいる長女の家に泊る。京都駅からは湖西線で西大津までわずか一〇分である。長女の家は、その西大津駅から近かった。長女の八千代が結婚したのは昭和三九年の五月であった。それは、ちょうど『平凡パンチ』を創刊した直後である。『平凡パンチ』の創刊号は昭和三九年の五月のゴールデンウィークに発売したのだが、その月末の三一日に、大津市の琵琶湖畔のホテルで私の娘は結婚式を挙げたのである。新幹線の開通する直前で、私たち一家は、当時まだ六時間かかる「こだま」号で結婚式へ出席した。

『平凡パンチ』の創刊編集長であった私にとって、創刊号を世の中に送りだしたばかり、そのあわただしい中での、長女の結婚式であった。もちろん岩堀喜之助夫妻も出席してくれた。

 無名の画学生大橋久美子が描いた『平凡パンチ』創刊号の表紙のイラストレーションは、赤いスポーツカーをとりまく、アイビールックの若者たちの群像である。この新鮮で個性ゆたかなクレパスの絵はいかにも『平凡パンチ』の創刊号を飾るにふさわしいものだった。

「この表紙ならゼッタイ大丈夫だ……。」

 と、私は心の中では竪く信じていたが、しかし、店頭に出てみるまではやはり不安な気持ちも消えなかった。なにしろ、まったく無名の新人のイラストを発行部数五〇万をこえる週刊誌の表紙に起用したのだから…… 。

 (おそらくこのイラストの作者は誰だろうと話題になるだろう。無名の画家だけに、その名前は男か女かわからないようなペンネームにした方がおもしろくはないだろうか……。)

 私はこんなことを考えて、作者の大橋久美子さんに相談した。そして、彼女も私の考えに賛成してくれて、大橋歩というペンネームを使用することにしたのである。だから当初、大橋歩というこの無名のイラストレーターを、女性と思う人の方が少なかった。若い男性の風俗を見事に描いた表紙は、むしろ男の描いた絵のようにみられたのである。私の予期していたように『平凡パンチ』の創刊は世の中の大きな話題になり、特にそのユニークな表紙はたちまち評判になった。街にはパンチを手にした若者たちの姿がみられ、メンズモードの店のショウウインドウには、『平凡パンチ』の表紙が飾られるようになった。

 『平凡パンチ』の表紙という舞台を得た彼女は一週間数枚の絵を描いて持って来てくれた。あふれでる泉の水のように、つぎつぎと新鮮なクレパスの絵を描いて持って来てくれた。その中から一週間に一枚選べばいいのだから編集者にとってはありがたかった。締切がせまって入稿に困るというような心配はないのである。

 それよりも心配なことが一つあった。他社からの彼女への絵の依頼である。表紙で評判が高くなればなるほど、彼女のイラストを使いたいという他社の申込みが必ずあるに違いない。しかし、それはしばらくの間『平凡パンチ』だけで独占したかった。いろいろなものに出すぎて、彼女のイラストがどこでも見られるようになっては、やはり魅力がうすめられてしまう、彼女自身のためにも、また、『平凡パンチ』のためにも、しばらくは他社の仕事は一切断ってもらうことにしよう。そして、その防波堤には、私自身がなろうと覚悟をきめたのである。彼女にそのことを相談すると、心よく私の意見に賛成してくれた。そして、心配していたように、彼女の絵をコマーシャルに使用したいという注文が広告部や代理店を通じて私のところへもって来られたのである。

(やっぱり来たな……。)

 と、予想していたことだけに私はあわてなかった。むしろ、彼女のイラストを評価してくれるスポンサーの眼が嬉しかった。しかし、ここはなんとしても『平凡パンチ』だけで独占していきたい。広告部では、大きいスポンサー筋だからなんとかしてほしい……と、私を説きにかかったが、

 「大橋歩さんのイラストだけは、しばらくの間パンチ以外はお断りしてほしい。」

 と頑固に断りつづけた。この防波堤の仕事はなかなか骨が折れた。それだけ彼女のイラストの評判が高く、各方面から注目されたのである。そして、そのことは、私のわがままだけでなく、彼女のためにもよかったと私はいまなお信じている。

 『平凡パンチ』は創刊号から、ヌードのカラー口絵を折込で掲載した。これは、日本ではじめての男性週刊誌として企画したときから、ヌードをいれるということを決定していた。それまでは、ヌードが口絵にのっている週刊誌は一誌もなかったのである。いまではもう男性誌といえば、週刊も月刊もなくヌード写真がハンランしてしまったが、二〇年前の昭和三九年ごろは、まだヌード写真などは、めったに見られる世の中ではなかった。みるとすればアメリカの『プレイボーイ』誌、洋書を売っている店で見るぐらいなものである。しかし、『平凡パンチ』は、創刊準備のときから、ヌード写真を一つの柱にしようと考えていた。しかし、のせる以上は、芸術的な香の高い、品位のある美しいヌードをのせよう、しかも、モデルは外人にしようと考えていた。いまでは有名女優もヌードになる時代だけれど、そのころはまだそんな女優もモデルも日本にはいなかったのである。だからヌードを撮影するにはどうしても外国ヘ取材にいかなければならない。そこで『平凡パンチ』では、有名カメラマンに外国ヘ撮影に行ってもらうことにした。大竹省二さんと中村正也さんの二人にその撮影を依頼した。大竹さんも中村さんもすでにそういう仕事には経験をつんでいられるので、『平凡パンチ』のヌード口絵は、しばらくこの二人のカメラマンの作品でいこうと決めたのである。この二人なら、芸術的香りの高いヌードを撮影してくれるだろうし、その口絵なら、『平凡パンチ』を家庭の茶の間においても決して拒否はされないであろう。『平凡パンチ』創刊ごろの世相は、ヌードもなければポルノ映画もない、まして、ビニ本やらSEX産業などもない、現在とはまったく違う世の中だったのである。だから、『平凡パンチ』がヌードの口絵をたった一枚折込でのせただけで、かなりショッキングな話題になったのである。創刊号の折込口絵は、大竹省二氏がヨーロッパで撮影した作品だった。これが日本の週刊誌が最初に掲載したヌード写真である。

 『平凡パンチ』の創刊を企画したのは、『週刊平凡』を創刊してから一年目の昭和三五年である。

「こんどは若い男性のための週刊誌をやりたい。」

 と、私は、当時の岩堀喜之助社長に提案した。そして、その研究のためにアメリカとヨーロッパの出版社を訪ねてみたいと相談した。男性誌は『プレイボーイ』誌、『エスクワイヤ』誌、『ルイ』誌など、アメリカ、フランスが先輩である。一体、どんな風にして外国の雑誌社は編集しているのか、この眼でたしかめてみたかったのである。私の外国行きは岩堀社長も賛成してくれ、一九六二年の秋、私は家内を同伴はじめて世界旅行の旅に出たのである。当時はまだ海外渡航が自由化されていなくて、いろいろむづかしい手続きを経なければパスポートももらえなかったしドルの割当制限もきびしかった。幸いアメリカにもフランスにも知人がいて、それをたよりに慣れない外国旅行に出かけたのである。羽田空港にたくさんの見送りの人びとがノボりをたてて来てくれて、バンザイ、バンザイと送りだされたことが、いま思えば異様な風景だったが、そのころは、外国ヘ行くということはまだまだ珍しいことで、そんな盛大な見送り風景は、羽田空港内のあちこちで見かけられたのである。

 私の乗った日本航空のジェット機はハワイヘ向けて羽田の滑走路を飛びたった。一九六二年一〇月九日の夜、一〇時三〇分である。

 

 

  ヒストリーズラン

 

 五月一五日(昭和六十年)の朝、さわやかに晴れた京都の嵯峨野での曼陀羅山寂庵において、かねてから庵主の瀬戸内寂聴さんが建設しておられた道場がめでたくできあがって、その落慶法要が盛大に催された。その瀬戸内さんのつくられた道場は、嵯峨野僧伽さんがという名称でよばれ、寂庵は、いよいよ宗教法人としてスタートされることになった。私も、家内とともにこの落慶法要に招かれて参列した。

「寂聴さんも、運のいい方だなあ……。」

 と、朝の、やや曇り気味ではあるが、うす日のさしている空をみあげてしみじみそう思う。

 前日まではかなりの雨量で全国的に雨だったし、私たちも雨の中を新幹線で東京を発ったのであるが、一夜あけて当日の朝は、すっかり雨はやんでさわやかな初夏の空であった。

 五月一五日は寂聴さんの誕生日にあたられるという。

 午前九時三〇分ごろ寂庵に着くと、もうにぎやかに参列の人たちが寂庵の前の道にあふれ、若い出版社の編集者たちが、受付や案内係として手つだっていた。いつも個性的なモンペ姿の俳人黒田杏子さんも受付におられて、

「あら、清水さん……。」

と私の名を呼ばれ、そこで署名をし、落慶法要の式次第を印刷したプログラムをいただいた。

 寂庵嵯峨野僧伽洛慶四箇法要――と表紙に印刷してある。

「もうすぐここでおりがあるから、ここにいらっしゃるといいですよ。」

 と、黒田さんにいわれ、私たちは寂庵の門前に立ちならんで、そのおねりを待つことにした。そのおねりを待つ参列者の中には、裏千家の家元千宗室さんや、舞踊家の吾妻徳穂さん、ミヤコ蝶々さんなどの著名な顔もみえる。

 庵主の瀬戸内寂聴さんは美しい法衣で、にこやかに参列者たちのあいさつにこたえていらっしゃる。

 報道陣のカメラや、テレビの取材者たちもその光景の撮影にいそがしい。やがて、そのおねりの列がはじまり、今日の落慶法要のセレモニーをなさる大僧正たちがしずかに新築の道場へ昇っていかれる。大導師は天台座主大僧正山田恵諦猊下である。一番あとから寂聴さんがしずかな歩調で歩いていかれる。大僧正たちの法衣が美しく、五月の青葉をわたる風が大きなたもとをひるがえす。

 あとにつづいて参列者たちも新しい道場に着席した。

 まずはじめに、寂聴さんに、座主猊下から法衣の贈呈式が行われる。庵主はその法衣をいただいて、一度退場し、またそのいただいた新しい法衣をまとって入場されるのである。

 そして、大僧正たちの読経が高らかに唱和されて落慶法要の儀式がはじめられた。

 緊張して座っておられる庵主の剃髪された頭が今朝は青々と、特に美しく、紫の法衣と金襴きんらん袈裟けさをまとわれた姿がかわいらしくみえる。

 最後に大僧正山田恵諦猊下からお祝いの言葉があり、寂聴さんが謝辞をのべられて、とどこおりなく法要の式典は終了した。そして、このあと、嵐山の嵐亭の大広間で祝宴が催され、大僧正をはじめ参列者がみんな招かれて祝杯をあげた。平凡社の下中社長や講談社の加藤常務もご一緒だった。

 しかし、このような落慶法要に参列したのは、私も生れてはじめての経験である。寂庵を嵯峨野につくられてから一一年目だという。私たち夫婦も、三年前寂庵に近い嵯峨野の愛宕寺に石の羅漢を彫って以来、嵯峨野をしばしば訪れるようになったが、ほんとうに嵯峨野の自然は美しい。四季折々に美しく、青葉のころも紅葉のころもすばらしい風光である。しかし美しいだけに訪れる人びとの数も多い。寂庵嵯峨野僧伽も、ますます訪れる客がふえて、庵主も多忙な毎日を迎えられることだろう。瀬戸内晴美としての創作活動もいよいよ発展されるだろうし、ご健勝を祈るばかりである。

 五月一五日は、ちょうど京都は葵祭だったが、その方は割愛して私は東京へ帰った。このところ社の仕事もいろいろと多忙である。

 いよいよ、この秋に創刊する新雑誌を発表することになった。この号が発売される六月のはじめにはすでに世の中に知れわたって、出版業界では新しい話題になっているかも知れない。

 五月八日の日、私は社内に新雑誌計画の一つを発表した。一つというのは、まだ他にも数種の新雑誌計画があるからである。

 こんど発表した新雑誌は、『ヒストリーズラン』というタイトルのもので、はじめの予定は隔月刊誌である。この『ヒストリーズラン』を企画したのは、私ではなく、二人の一〇代の少年である。その名前を高野生、高野大という兄弟で、いま、兄の生君は一九歳、弟の大君は一八歳である。創刊の予定は、この秋一一月三日の文化の日で、マガジンハウスの創業四〇周年の記念事業の一つでもある。

 この『ヒストリーズラン』という新雑誌には歴史を切り拓く一〇代のメッセージマガジンというサブタイトルがついており、リング無き一〇代たちへとよびかけている。一〇代が創り一〇代に贈る一〇代の雑誌というコピーがうたわれている。つまり、一〇代だけがつくる一〇代の雑誌なのである。おそらくいままでの商業雑誌ジャーナリズムでは誰もが考えなかった新雑誌であろう。

(そんな雑誌が商売になるのか?……。)

 という疑問の声が社内からもあがる。

 しかし、私たちマガジンハウスは、他の営業用の雑誌とちがって、この『ヒストリーズラン』は利益追求のために創刊するのではなくて、志ある一〇代の少年少女たちのために一つのステージを提供しようとする試みとして創刊を決めたのである。企画者の高野兄弟はそのステージをリングと呼んでいる。そして文字とコトバのブロードウェーだともいっている。一〇代の少年少女たちによって、新しい文化を生みだそうと考えはじめた仕事である。

 今年は、ちょうど国際青年年の年でもある。日本の一〇代たちばかりでなく、この『ヒストリーズラン』という雑誌によって、世界中の一〇代たちによびかけるコミュニケーションをめざしたいというのは、高野兄弟と私たちも同じ思いである。

 マガジンハウスが一昨年の一一月三日に創刊した『鳩よ!』という詩の雑誌が、高野生君と大君の兄弟が『ヒストリーズラン』をやろうと決意した起爆剤になったようである。そのとき、兄弟はまだ一七歳と一六歳の少年であった。

「一〇代の雑誌をつくりたいんです、一〇代だけで、一〇代のための雑誌をつくりたいのです。

「マガジンハウスでやらして下さい。」

 兄弟は口々にそういって、私のところへとびこんで来た。彼らが私のところへとびこんで来たのは、私が『鳩よ!』創刊のパンフレットに書いた創刊のあいさつ文の詩を読んだからだという。『鳩よ!』を出すマガジンハウスなら、「一〇代のための一〇代のつくる一〇代の雑誌」にきっと協力してくれるにちがいない……と、兄弟は思いこんだのだという。その彼らの起爆剤になった『鳩よ!』創刊のあいさつの詩を、ここにもう一度、くりかえさせていただきたい。

 

 いつの日か

 「詩の雑誌」をつくりたいという

 私の編集者としての夢は

 もうずいぶん古いのです

 それは

 一九三〇年代の青春の日々からです

 私がまだ職業としての編集者になる前からでした

 そのころはまだテレビもなく 週刊誌もすくなく、私がいつもポケットに持ち歩いていたのは岩波文庫でした

 それは外国の小説の翻訳本であったり日本の古典文学であったり、明治大正の名作であったり、古今東西の詩人の作品であったりしました

 青春の日々

 私はそれらの作品に触発され、感動し未来の人生を夢みたのです

 大学へ通い

 恋をし

 小説を書き

 新劇運動に参加し

 同人雑誌をつくり

 フランスやアメリカの映画に感激し

 はるかなる外国の街にあこがれ

 その若き日の思いをこめて

 「詩の雑誌」をつくりたいと夢みたのです

 時代はしかし

 そんな甘い夢を押しつぶすように戦争へ戦争へ戦争へ軍靴の響きが、戦車の轟音が音をたてて流れはじめていました

 

 あれから五十年

 私は「詩の雑誌」をつくりたいという夢を心の奥底に秘め、あたためつづけて来ました そしてその五十年間に、さまざまな雑誌を世の中に送りだして来ました

 幸いにそれらの雑誌たちはあたたかい読者の支持を得て生きつづけています

 この秋 十月私たちは社名を株式会社マガジンハウスと改め新しい社屋に移り、第二の創業にスタートします

 いまこそ 長い歳月を心の中にあたためて来た「詩の雑誌」を創刊するときが来たと私は決意しました

 その直接の動機となったのは、去年の夏、ニューヨークで行なわれた反核集会でした

 世界の人びとが

 国を超え

 人種を超え

 民族を超え

 党派を超えて

 結集した百万人の大デモンストレーション、その反核の叫びをテレビで見、新聞や週刊誌で読み、一編集者としてなにをなすべきかを考えたとき、そうだいまこそ「詩の雑誌」をつくろうと、自分自身にいいきかせたのです

 

 人間は誰も

 生れながらにして「詩人の魂を」もっていると私は信じています

 いま、地球上のすべての人類は

 国を超え

 人種を超え

 民族を超え

 党派を超え

 生れながらにしてもっている「詩人の魂を」をゆり動かし呼びさまさなければならない危機に直面しているのではないでしょうか

 人間がみんな詩人になることだ

 人間がみんな詩をつくることだ

 人間がみんな詩を読むことだ

 人間がみんな詩を歌うことだ

 それこそが地球を幸福にする叫びなのだと私は思うのです

 「鳩よ!」というタイトルは、そんな思いの中から自然に生れました

 タイトルの書体も自分で書きました

 そして

 表紙は「ピカソの絵」にしよう、と

 ひらめくままに決めました

 

 新雑誌「鳩よ!」は

 世界の詩人たちの舞台です

 そして詩人たちのパートナーとしての

 画家や

 写真家や

 彫刻家や

 イラストレーターや

 音楽家や

 すべてのアーチストたちの舞台です

 新雑誌「鳩よ!」は

 ポエムでなく

 新しいジャーナリズムを開発しようと目指すマガジンです

 しかし、だからといって、私たちはイキがって少部数のマイナーの雑誌をつくろうとは考えていません 私たちの目指すのはスケールの大きい、大部数の大衆雑誌です

 「詩の雑誌」とはいえ、マス・マガジンを指向しているのです

 私たちがイメージする「鳩よ!」のステージは小ホールや小劇場ではなく、大ホールや大劇場や青空の下の野外ステージでありたいと考えています

 登場する詩人たちも

 万葉の古典から明治大正昭和の詩人たち

 外国の詩人たち

 現代詩の人びと

 歌人や俳人

 シンガーソングライターや

 演歌の詩人たち

 CMやCFの世界をつくる

 コピーライターたち

 すべてに舞台を解放したいと考えています

 通学や通勤の電車の中で

 学校のキャンパスや

 日曜日の公園や

 街の喫茶店や

 旅ゆく列車の中で

 みんなが週刊誌や文庫本やマンガの雑誌を読むように、詩を読む世の中がきてくれたら、そして、みんなが詩人になって詩をつくる世の中が来てくれたら、私たちは「鳩よ!」を創刊したことに満足し、編集者としての深いよろこびを感じることができるでしょう(以下略)

 高野大君と高野生君は、私にとっては孫のような年ごろの少年である。私にも同じ年代の孫たちがいて、一緒に生活もしている。この七一歳の老編集者が、一〇代の少年たちと一緒に新しい雑誌をつくることができるのは、編集者としてほんとうに嬉しく倖せなことだと思う。誰かが私のことを

「明治大学野球部の島岡監督みたいですね……。」

 と冷かす。冷かされても嬉しい気持ちに変りはない。七一歳と一八歳が一つのことに一緒になって情熱を傾けることができるなんて、こんな倖せなことがあるのだろうか…… 。健康に留意してガンバラなければと思う。島岡監督も倖せな人だが、私もありがたいことだと高野兄弟や、この企画に全面的に協力してくれる社内のスタッフに、感謝の気持ちでいっぱいである。島岡さんは明治大学野球部の総監督だが、私は『ヒストリーズラン』を、甲子園の高校野球にたとえて考えてみる。野球ではないが、一〇代の文章、一〇代のイラスト、一〇代のマンガ、一〇代の写真、すべて一〇代だけの原稿でつくる『ヒストリーズラン』は、いってみれば甲子園の高校野球のように、一〇代の少年たちが魂を燃えあがらせるグラウンドでもある。プロ野球のスターたちが、甲子園から生れ育つように、『ヒストリーズラン』から、未来の日本文化をになうジャーナリスト、編集者、作家、イラストレーター、マンガ家、カメラマンたちが生れ育つのではないか…… 。二〇世紀から二一世紀へ世界は移り変っていく一九八五年のいま、『ヒストリーズラン』によって一〇代の少年少女たちが世界の一〇代とコミュニケーションし、人類の平和をめざして手をつないでくれることができればこの新雑誌を創刊した意義は大きいと思う。大人たちのつくる『鳩よ!』もガンバラなければ……。

 六月一五日から二九日までの二週間、いよいよパリのエスパースジャポンで、「絵のある俳句展」のパリ展を開催することになり、いまその準備もいそがしい。主催するベルナール・ベロー氏夫妻は、目下、俳句の仏訳でたいへん苦労しているらしい。国際電話をかけてきて、俳句の内容を説明してほしいなどといってくる。パリのプレス関係におくる案内状の印刷に俳句の解説をフランス語でのせなければならないからだという。

 私としてもまさか自分の俳句展を、パリでやるなんて夢にも考えていなかったのでいろいろと戸惑うことが多い。パリ在住の日本人のみなさんにわかってもらえても、フランス人がどんな風に俳句というものを理解してくれるか、それがとても心配である。しかしおそらくこんなことははじめての試みだから、日本の俳人のみなさんも注目していて下さるだろう。とにかく一所懸命ガンバッていきたいと思う。