缶詰工場内景
鉄板でかすれた指先に、
古い祖先の族系が噴く、
血……
母上、缶にあなたの遠い顔が映る。
一つ一つに寂しくあなたは笑つてゐる。
鰊
水禽の飛翔を冠りながら、
オコツク海の氷洞より群れて来る。
切なく精射を感じながら、
沿海へ鋭刀のやうに突きささる。
水泡に青金を散らしながら、
網巻揚機に捲きこまるるもの。
亞寒帯小景
乾場に広げ干す鯨肉の粉に
鳶は圓周を縮めて落下し、
鴉の群に交り啄む。
幾度樺太犬をけしかけても、
彼等は彼等を追はうとしない。
亞寒帯の秋の僅かな日だまりのなかで、
和親する動物磁氣を人は一日叱るのだ。
団 扇
萎ひてゐる、疲れてゐる
角膜の赤い女である。
一列の麥酒の箱の上で、
骨をしごき団扇を貼る。
うすら寒い室の硝子に
呼吸は曇り光は濁る。
けはしく肺や顔をゆがめ、
ものうく習性をくりかへす。
蹼のやうな掌をたれ、
糊ひき湿り、彩りよごれ、
にがい念魂をこめてゆく。
ひとよ、
団扇をすかしてみるがよい。
あれらは痩せた指をひろげ
幽かに風よび煽るのである。
女 中
台所は暗くものの焦げる匂ひがした。
前掛ばかり白い婦のひとは、
一日たわしのやうに濡れて汚なく、
一日叱られながら働き疲れ、
若さを洗濯板のやうに減らすのであつた。
夕暮いつも露路へ滲んでくる
人脂を炙るやうな重いものは、
その人の生が乾いてゆく匂ひであつた。
間借者の詩
その室
長屋の端を老母は借り、
その二階を俺は間借する。
古木を燻す夕餉の煙が、
梯子を暗くのぼつてくる。
貧しいものの上に貧しく蹲り、
ありやなしやの炭火をかきわけ、
凍えた十本の指をかざす。
その窓から見える風景
古缶を集めてたたいてゐる。
紙屑を集めてのしてゐる。
襤褸と髪の毛をわけてゐる。
いぎたなく罵りながら賣買する。
運河に黒く澱んだ水は、
これらの現象を倒しまに写し、
一日かれらの喚きを舐めてゐる。
一日かれらの姿を傚てゐる。
その窓から見える天景
冬空をばたばたたたいてゐる
みすぼらしく天に汚れてゐる
上層建築の細い頂にかかる旗、
風に騒ぎ高く俺を呼んでゐる。
たよりない人の世の上に呼んでゐる。
その室に帰る
家畜の臭ひこもるもの。
腐蝕の妖しい臭ひを流すもの。
俺は汗ばむ靴下をぬぐ。
俺を待つてた柱の釘に帽子をかける。
俺は汗ばむ襯衣をぬぐ。
荷揚げする重きに耐えたこの足よ。
鉄材を一日抱いたこの肋骨よ。
その隣室
夜更けに軽い咳のあと。
瀬戸壺にざらざら軋る音。
隣のひとよ。寝れずあなたは、
血糸が悲しくまはつてゐる
瑪瑙のたんを吐くのですか。
その窓下の店
燈火も淡い店先に
玩具をならべ駄菓子をならべ
老母はひとり縫物する。
(眼鏡に映る夕焼雲と天の色)
子供が店先によりかかり、
飴を舐りまた指につまみ、
夕暮空に透かしてゐる。惜んでゐる。
捕鯨船帰航(金華山風光)
幻影の童話の鯨のいかに厖大なるよ。
されど憶ひ出は水に引きおとされ、
慘めに船尾に引かれゆく
浮き沈む黒い死・鯨を睹つめる。
AULD LANG SYNE!
母よ、膝の物語に私は帰るすべもない。
鷗ら群れて血の海泡脈にすれ、
はるかたーなーの夕暮を、
西に向うて帰帆は翳る。
変 貌
かる かる きい かる かる きい
それは空中の陸橋よりも高く
旋回する黒い鳥の集団。
荒海に疲れ夜天に喘ぐ
その音も鋭い長雨の告知。
われらはすでに悲しい海綿体である。
襟足を舐めるものよ、
湿潤よ、塩海の鬱氣を湛へ、
苦力が戎克船の帆を引く地方から
霧圧する、霧圧する。
雨だ、雨だ。
層雲は重く稜起ぐ屋根に重く、
泥濘に燈火の孤影は悩む。
かしこを遠く濃霧に犯され、
水邊の不吉な支那街かとまがふ、
それはわが住む市街の変貌である。
わわとわが傷つける心象である。
かる かる きい かる かる きい
落ちくる憂鬱影……
空に恐怖の応へをならす間、
われらの思弁は暗く翳さし、
佗しい家畜の臭ひを嗅ぐ。
あのおびただしく孵卵する微生物、
雨漏の壁に滲む怪奇な形を、
何ものが否むことができようか、
喰める果物の酸味に身慄ふを、
筐のなか青銅の古銭錆びゆくを。