女は仁和寺の門前に立っている。
椋鳥が赤松の梢でひとしきり啼いた。もう陽が山の端に傾きかかっている。うるんだような眸の中を、西日が赫々と照らしている。女は左右を見つめ、背伸びをしながら街道を見はるかした。
さっきから、いくたび彼方此方を見つめたことだろう。牛車も通った。長烏帽子の男も通った。馬に揺られた、枱の垂絹の女も通った。半尻の童も駈けて行った。しかし、誰も振り返るものはなかった。
(まだ、陽のあるうちは諦めてはならぬ)
念ずるように、己にそういいきかせて立っているのだが、ひだるさも募った。はじめのうちは、ここに待っていれば吉兆が掴めると意気込んでいた。だが、黄昏時のうら寂しさは、心の張りを押し流している。熱を帯びた瞳にも疲労の色が濃かった。
女はさる大臣の末に仕えていた水仕女だった。端女である。その大臣が霜月の五節の淵酔も終わらぬうちに、西国へ下ることになり、この端女は暇を出されたのである。
俗縁の者が死に絶えていた女には、行くあてがなかった。そこでふと以前に聞いた、三条東洞院の名高い陰陽師に占ってもらおうと思いついたのである。その占師は亀卜や太占で名聞を得ていた。女にはその験があらたかなもののように思われた。
早朝、女はその陰陽師を訪ねた。
「何を占ってしんぜよう」
几帳のむこうに、祭壇のようなものがあった。ひとかかえもありそうな唐金の鼎から、香煙が昇っている。
煙の向こうに見える男は、年齢がわからなかった。麻の法服を身にまとい刺高数珠を持っている。僧侶かと思えば頭は剃り毀っていない。
女は首をかしげた。
男の顔つきは尋常ではなかった。色黒の引き締った表情に、眼窩が大きく窪んでいる。鼻はいやに高い。人を威圧するような眸は、炯々としている。ひとつひとつを挙げると恐ろしいのだが、一緒にすると才気にあふれてみえる。唇が赤かった。
しばらく数珠を爪繰っていた男は、波々迦を燻べた埋火の中から甲羅を出し、ザブリと水に落とし込んだ。今度はそれをゆっくり手にとり、連子からもれるあわあわとした陽の光に、眇のようにすかして見た。
「ほう」
赤い唇が開いた。
眸は甲羅に浮き出た幾筋ものひび割れを追っている。
「兌と出ておる」
「兌?」
「つまり、西じゃな」
「………」
「西の方、大内山仁和寺あたりで待ってみることだ」
女は暇を出されるときにもらった、なけなしの餅を数個、陰陽師に礼として置いた。
言われたとおり、女はさっきから門前に佇んでいる。やがて陽が落ちた。あたりを闇が包みはじめ、物の影が黒々と大きくなった。女は初めてたじろぎの色をみせた。一心に張り詰めていた気根が思わず跡切れ、女は弱くなった。
「どうしたものか」
今宵の宿すらないのである。
と、不意に鐘楼の壁から黒い影がひとつ吐き出された。
「ついて参れ」
影が呼んだ。有無を言わせぬ口調である。
もう歩き出している。女は後に従った。影は双ケ丘に向かって進んだ。細い道である。茅や蓬の茫々と生い茂った野道を、二人は黙って歩いた。東に月がある。
やがて、山裾の板葺切妻の家に入って行った。火打金を打つ音がして、漆を刷いたような闇の中から覚えのある顔が現れた。
「あっ」
女が驚きの声を上げた。
「おまえさまは……」
今朝の陰陽師である。男は咽で笑った。
「やはり待っていたな」
「わたくしをなぶったのか」
「なぶりはせぬ。まずそのように怖がらずとも、ここへおじゃ。それ黒酒でもつがぬか」
いつの間に用意したのか、折敷の上に土器が二つ並べてある。男は瓢を懐から取り出すと促すようにした。女はためらったものの、すぐにその瓢を拾い上げて、伏目がちのまま酌をした。争っても無駄のような気がしたのである。
「すまぬが遣戸を開けて、厨子棚の下から味噌でも探して来てくりゃれ」
女は素直にいいつけに従った。それから女も勧められて、その黒酒を呑んだ。打火皿の火はすぐ消えた。
ほどなく、女は楓の梢をわたる鵺子鳥の声を聞きながら、男の腕の中にいた。
石炉にくべ足した沈香が立ち籠めている。
「命数とはわからぬものよ。今日もしそなたに遇わねば、わしもこのように仏法を犯すことはせなんだかも知れぬ」
存外、男は情がこまやかだった。
女はあくる日からこの庵に居所を定めた。男は時折、忘れぬほどに忍んで来た。
「やはり、わしの目に狂いはない」
と、男はつぶやいた。
(思ったとおり、淫薬のような躯じゃ。このようなおなごは、みやこ広しといえども、そうそう巡り逢えるものではない)
男は童子のように眼をかがやかせた。
「変わったの」
辞色をあらためて反問したほどに、女は瑞々しくなった。
「はて、それは」
女は、ほろほろと笑った。その顔に匂うような艶がある。二人は日ごとに狎れた。
女はおのれの躯の変化に驚いたものだ。乳房が片手でたわむほどはちきれた。湯巻の上から臀のまろみがあきらかに透けている。爪紅草とカタバミをつかって染めた爪は、陽の光に瞬いた。
無論、女もはじめからその気になったのではない。あの夜、陰陽師の命婦になったものの、一番鶏を合図に逃げ出そうと思ったのである。考えが変わったのは朝のことである。
「もう、ゆくか」
先に目覚めていた男は、女の小袖をくるくるとぬがせた。襟をひろげた。
「なにをなさる」
「こうつかまつる」
と、薄衣の縫い目に潜む虱を丹念に潰してくれたのである。
女は目を伏せ、当惑していた。
欲望を吐き出すだけの男は、女の上を幾たりも過っていった。けれど、このように邪気のない男は初めてである。
急に気が萎えていった。
「これが前世からのさだめか……」
と気を取り直してみると、満更いやな苦行をしているのではない。ゆらい夫婦のえにしとはこういうものかも知れぬ。
女は男の出自も来歴も聞かされていない。男も好んで語ろうとはしなかった。ただ、名を尋ねたことはある。
男はちょっと鼻白んだ。
「自然居士」
そう人は呼ぶという。
二
この年、京洛は旱魃が続き、各地で雨乞の祈祷がおこなわれた。しかし、さっぱりその効目は現れず、ついに都中の井戸が枯渇した。
鳰の海の竹生島へ徒渉できるとか、満月寺あたりでは行斃が投げ込まれて、腐臭がする、といわれたのはこの頃のことである。
わずかに神泉苑の泉池だけが残った。この泉水は、平安京大内裏の禁苑である。けれども、さすがに群れ立って水を乞う民草には勝てず、その四門を開いて通用を許した。さらに勅命により、その苑において大がかりな雨乞祈願を執り行った。護摩壇の煙は曳々と立ちのぼり、請雨経の修法が地を這ったものである。
しかし、雨はついに降らなかった。三日三晩続いたその祈祷も徒労に帰した。民草の顔は、どれも蒼くしぼみ死人のようにみえた。
陽は嘲笑うかのように三竿に昇り、峻烈な熱気を降り注いでいる。
「そうじや、竜神はことのほか楽の音色に惹かれるという。御幣を振り、この地で舞楽を奏してみてはいかがでござりましょう」
治部省の学生の具申で、神奈備山の雨乞岩を運び込み、舞楽の演奏もおこなってみた。雨を得るためには、できるだけ派手な楽曲がよろしかろうというので、竜笛、篳篥、笙、和琴、太鼓、鉦鼓、鞨鼓、笏拍子などがたちまち揃えられ、都でその名も知られている名人上手が雅楽寮から呼び集められた。総勢百人余りの管弦に華婉な歌と舞を加添した「堂下楽懸」が合奏された。楽の音は地鳴りのように天に響き、民草は呼応して細波のように御幣を振った。壮観といっていい。
楽の余韻は西山、北山、東山の尾根から渓谷に谺し響震した。ところが、今度こそは小雨でも招引できるであろうと思われたのに、また当が外れた。
天はぴくりとも動かない。
固唾を呑んで見守っていた民草も、やがてその場にへたりこんでしまった。
「竜神はわれらを見放したか。御幣をこれだけ振ってもかなわぬものとは」
「もうわしらは干物になるしかないの」
ある者は白く燥いた地面を叩き、ある者は水を求めて掘り起こした指先を血に染めている。埃にむせびながら、人々は口々に怨訴の声を上げた。
空は雲を孕むことを忘れたように、熱風を吹き上げている。
群衆の一角から一人の男がゆらぎ出たのはその時である。麻の破衣をまとい、刺高数珠を手にしている。
つとひれ伏すと、上に向かって男は静かに言上した。
「されば、申し上げまする。真偽のほどはわかりませぬが、水神や竜神を冒涜すると、雨が降るようでございます。水神を怒らせ大いに暴れていただくのでござる。たとえば、御井寺の釣鐘を鳰の海に投げ込んでみてはいかがでござりましょう。さらに、黒毛の尺の牛を百頭ばかり集めていただきたい」
「牛をどうする」
「贄でござります。積み上げて焚灼にいたしまする。臓物を池に投じ、焼け残りは御下がりとして皆に分け与えて下さりませ」
このような非常の際である。効目のありそうなことはすぐ始められた。釣鐘を引き出す縄がないというので、女たちは緑髪を切ったものだ。梵鐘は渓谷を転がっていった。
集められた都中の牛も屠られた。祭壇からは芬香が立ち昇っている。天空にはまだ一朶の雲さえ見い出せなかった。熾烈な陽光は容赦なく大地をねめまわしている。この旱天から雨が降り出すのは難中之難のように思われた。
ところが西山の彼方にぽつりと黒い点が見えた。ずんずん巨きくなる。黒雲はまたたく間に広がっていった。人々はどよめきの叫びを上げ、手を握り合った。
やがて厖大な雨雲は、ついに天を覆い、待望の雨が沛然と地を叩いた。歓喜の声が都中に溢れていった。男の姿はその声に紛れて消えた。
「あれは狐狸妖怪ではない。自然居士という修験僧よ」
誰ともなく囁かれた自然の名は、たちまち京洛の人口にのぼっていった。
女は吟いながら、機を織っていた。右から左へ、左から右へ、流れるように杼が動く。背戸の棟の木がザワザワと鳴った。
——白珠は 人に知らえず 知らずともよし知らずとも
われし知れらば 知らずともよし
細い声である。どこかしら潤めいて聞こえる。歌に合わせて両手がくりくりと動き、布が織られていった。
「………」
女を呼ぶ声がした。
「わしじゃ……」
「あっ」
既に躯を抱き竦められている。ことりと杼が落ちた。
「お待ち下さりませ」
女は初めて諍った。
(なんということ)
うろたえてかぶりを振った。
躯は火照ってゆくが、このまま男のなすがままにされてよいものだろうか。昨日も、あれはこの世のものではない化生の者よ、という取沙汰を聞いたばかりである。
女はかすかな声で訊ねた。
「竜神を差し招くとは、生身のお人とも思われませぬ」
「なんの、しさいはない」
男は鼻で嗤った。
「あれはの、ただ潮時と見ただけのことよ」
「潮時?」
「そうじゃ、よいか、千変万化この世の移り変わり、すべて末がある。花に三春の約あり、
月盈ればすなわち虧く。これすべて世の貫ではないか。さすれば日照りが続けば、やがて雨も降ろう。その頃合いを見はからったまでのこと」
「まあ、では……」
「あのとき、鐘など放り込まずとも、牛など屠らずとも雨は降ったわ。このわしが竜神を喚べるものか」
自然の手は女の裾をわった。震える口もとから唾液を吸った。ほのかに汗ばんだ胸からは、のめりこむような香がたちこめている。鼻腔に深々と余薫を吸い込みながら、あざやかな裸体を確かめてゆく。この女となら今日の今宵も、臥所の絵は極彩色になるであろう。含み笑いを浮かべながら、自然は女の肩を引き寄せた。音もなく羅が落ちた。
三
大内裏の西北、一条大路を越えたあたりを北野という。古くから雷神が祭られていたが今日では菅原道真の霊を祀って、天満大自在天神などといわれている。五日ごとに市が立ち、たいそうな賑いをみせていた。午の時から日没までという定めで、田下駄を並べるものがあり、塩を売るもの、炒豆に零余子を売る横では、針、絲、麻布などを並べ立てている。乞食に猿引に鉢叩の姿もみえて、人垣が揺れている。
冬というのに都の空は巻雲がかかり、そのせいか天が一段と高くみえていた。
市のなかほどに、小袖に半袴の男が柑子を商っていた。見るからにうまそうな柑子蜜柑である。黄赤色の果実が目に染みるような輝きを放っている。
そのとき、目刺髪の童が走り寄って、その柑子に手を出した。掴んで逃げようとする童の手を商人は素早く捕まえた。赤鼻の頬骨の張った男は叱咤した。童はねじ伏せられて、柑子をもぎ取られた。商人は童の頭をしたたかに殴った。
童は火のついたように泣き出す。
あたりの人々はたちまち人垣を作って、このありさまを遠巻きにした。赤鼻の商人は猶も懲らしめようと拳を振り上げて、童を打とうとした。
その手を取った男がある。
「やめなされ、その童にも罪はあろうが、もう好い加減にしておきなされ。なんぼう仏罰があたりますぞ」
手にした刺高数珠をジャラジャラと押し揉んで、男は喩教した。赤鼻の男は仕方なく、いまいましそうに童を放した。
「のう、商人どの」
男は続けた。
「仏の功徳のためじゃ、その柑子ひとつ、童にくれてやらぬか。それ、まだ柑子は笊にいっぱい、溢れるほどあるではないか」
「あきれたことをぬかす坊主じゃ。たかがひとつというが、これは飯のたねじゃ。欲しければ銭を出すがよいわ」
商人は憎体に言って横を向いた。
男はそうか止むを得ずと頷いて、懐から銭を出した。商人からその柑子をひとつ受け取ると、振り返って言った。
「こう童、面白いものを見せてやろう」
その男は人垣を前に、見せびらかすように柑子の皮をむき、ほつほつひとりで食べ始めた。
「ほう、酸い味じゃがうまいぞ」
食べ終わると何やら手に小さい物が残った。
種子である。男は傍らにしゃがんで、ひそひそとその種子を土に埋めた。終わると、
「誰ぞ水を汲んで来てくだされ」
と声を上げた。気働きのよい女が、柄杓に一杯の水を差し出した。礼を言って男は受け取ると、種子を蒔いた土にびたびたと注いだ。
それから手の数珠を押し揉んで、滑らかに真言を唱え始めた。
たれもかれも息を殺して、じっと土の上を見つめている。すると、何やらもぞもぞと動き出して、苗色の芽が出た。ゆるゆる動いて双葉が出る。次第に大きくなって艶のよい葉を繁らせた。真言はまだ続いている。
赤鼻の商人も人垣をわけて、その様子を窺っていた。簓摺は歩みを止め、鉢叩は念仏を忘れ、衣被の女たちは顔もあらわに頷き合っている。すでに自然居士の術中に陥っているらしい。それぞれに目が据わっていた。
じわじわ柑子の木は高くなっていく。やがて一丈ほどにもなったころ、こぼれるような白い花をつけた。芳香がする。と思うまもなく今度は散りはじめ、たちまち青い実をつけた。たふたふと大きくなった柑子はやがて色づき、枝もたわわに垂れ下がった。
その間、誰も声をあげるものはなかった。ただもう驚き呆れて、息を吐くのも忘れている。猿引などは口をあんぐりと開けたまま涎を垂らしていた。
男は眉毛も動かさず真言を終えた。
そしてしごく当然のことのように、柑子をもぎ取って人々に与えた。もちろん、童の手にもしっかりと載せてやったのである。
人垣は大きく崩れ、喜色を湛えた人々は去っていった。道端には、一木が残っているばかりである。男は斧を借りてくると、こともなげに打と伐り倒し、いつの間にか消えた。
赤鼻の商人は、まだ熱に浮かされたように、ぼんやり立っている。とつぜん跳び上がった。我に返って笊を見ると、山盛りの柑子が見当たらない。箒で掃いたように悉皆、消え失せていた。
「なに、あれは幻術よ」
女は男の羽掻のなかにいる。懼ろしさにふるえている。
自然は頬に若々しい血をさしのぼらせた。人を蕩すことの術をすべて心得ている顔だった。
女は聞きとれぬほどの声で訊ねたものだ。
「こなたさまは、まことに人間でござりまするか」
男は呵々と咥った。
「狐狸狐貉がこのようなことをするのか」
「あれ」
妖婉な声を上げた。女の躯は自然の左手に弄ばれている。
男は唇で耳を塞ぎ、右手で乳房を掴んでいた。指先を深く肉の奥に入れ、女の震えを感じている。すると闇の中の一穂の燭を目指して、陽道が目覚めていく。
快楽に沈もうとする躯を、いくたびも波打たせて、ふたりは折り重なった。貪るのは跡切れ跡切れの声ばかりではない。男は瞼を開けて、女の鼻梁から肩へ、さらに腰から阜を這って秘所までの曲線を吸い尽した。女は陽物を呑み込んだ。
自然は目のさめるような思いで、この女を見ている。悶えながら声をあげ、にわかに躯の奥を溶かしたように、女は半身を鋭く反らせた。自然は小鼻をふくらませ、その声に聞き惚れていた。
四
京洛も水温む頃となり、吉野の花の噂も、ちらほら聞かれる麗らかな春の日のことである。如意ヶ岳には雲烟がかかり、山の麓では静かに陽炎がのぼっている。
清水寺あたりは、花を愛でる善男善女で埋まっていた。
白張の仕丁もいれば手無し姿の女もいる。立烏帽子に水干の男は、蒸し暑いのかしきりに蝙蝠扇であおいでいる。藤蔓の杖にすがった老女もいれば、派手な臙脂色の袴をつけた伊達男もいる。市女笠の女はこどもの手を引き、小袖に被衣の女は猫を抱いていた。
この清水は観音の霊場として老若貴賎の信仰も篤かった。常から人出がある。古来、観世音菩薩を本尊とした寺には滝が多いようである。この清水にも音羽の滝があった。
その滝を見下ろす岩かげに、男は立っていた。麻の衣をまとい刺高数珠を持っている。横の松の木には、どういうわけか一幅の画が掲げられている。
参詣の群衆は面白そうに、近寄ってそれを見た。そこには鳩が一羽、描かれてあった。ただそれだけである。しかし、人々がなおもそこを立ち去らないのは、その鳩が活脱していたからである。
色彩は華麗といっていい、浅葱色の頭に、葡萄色の目、胸から腹にかかる瑠璃色、そして漆黒の尾羽が淡い朽葉の絹地に浮かんでいる。半幅ながら、毫光のさすように渾然一体を成している。その上、細緻な筆勢には凛とした気品が具わっている。
当代どこを探しても、これ程の品は見つからなかったに違いない。落款はと見ると呉元瑜とある。おそらく、震旦あたりの請来ものであろう。その嘴は今にも餌をついばむかと思え、翼は濡いを帯びて耀々としていた。
「ほう」
冷やかし半分に覗きに来た者は、きまってその一軸の前で吁々の声を上げた。
「あっ、動いた」
白張の仕丁が頓狂な声を発した。
「えっ」
「ほら、たしかに」
「まさか」
指さした老人が口火を切り、やがて居合わせた人々が次第に垣根を作った。口角に沫を飛ばして、見えた見えぬ、動いた動かぬ、などと言い立てる。なかには掛軸に触らせてくれという者もいた。撫でてみて、画だということを納得しても、容易に立ち去る気配がない。一軸の前には筵が敷かれていたが、次々と投げられる銭で表も見えないほど埋まっていた。
するとそこへ、萌葱の水干に長烏帽子の若い男がやって来た。腰には黒漆太刀を佩びている。検非違使の火長らしい。暫くその掛軸を見つめていた男は、尊大な笑みを浮べた。
やがて、横柄な口調で声をかけた。
「この一軸はおぬしがものか」
「いかにも、さようでござる」
数珠の男はかすかに頷いた。
検非違使は朗々と言った。
「気に入った。購ってとらせよう。売値を申せ」
群衆のざわめきが、驚きの声に変わっている。見物の目は検非違使に集まった。
「ほほう、これは味なことを申される」
数珠の男は大仰に驚いてみせた。顔には嗤いがある。眸を細めながら、寂のある声で続けた。
「お言葉ではござるが、これは売り物ではない。眺矚の功徳でござるよ」
と、取り付く島もない。
検非違使は気圧されたものの、二呼吸ほどで気を取り直すと声を荒らげた。
「わが別当殿への献上品にいたしたい。誉れであろう。売値はいかほどか」
「耳がござらぬのかの。見世商人ではないと申しておる」
半分、揶揄している。
不穏な雲行きを感じ取った群衆が後ずさりしはじめた。二人を遠巻きにする。
検非違使は、それでも諦めずに食い下がった。しつこく価を申せと、言い募ったのである。
数珠の男は根負けしたように顔を上げた。
「されば、曲げてお譲りいたそう。ただし、価は黄金一包。いかがかな」
「な、なんと、黄金一包とな。途方もないことをぬかす」
この日、検非違使は憤懣やるかたなく去った。けれど納まらないのは胸のうちである。酔いに任せて別当の屋敷に参上し、ついこの一件を物語った。別当は面白そうに終わりまで聴くと、眉宇をひそめた。妙案を練っていたのである。やがて検非違使に何やらぼそぼそと耳打ちした。
犬榧の油は嫌なにおいがする。男たちの影が灯火に怪しく揺れた。
翌朝、検非違使は何喰わぬ顔で、黄金一包を差し出してその一軸を買った。
西山の峰には靄がかかっている。
数珠の男が黄金を懐に歩き出すと、いつの間にか一人の放免がその後をつけはじめた。これは検非違使の手先である。
数珠の男は気付かぬままに、七条大路を西へ歩いていった。ひたひたと、歩調も乱れない。やがて鴨川を渡り高瀬川を過ぎると、鬱蒼とした竹林にさしかかった。この道は陽もささぬほど暗く、人馬の往来も稀である。
ここぞと思った放免はあたりを窺うや、太刀を引き抜いた。相手は丸腰である。叫喚を上げながら体当たりを食らわせ、怯むところを、刃を背中から胸へ貫き通した。数珠の男はのけ反って空を掴み苦悶していたが、やがて息絶えた。放免はその懐から、黄金の包を抜き取ることを忘れなかった。
袖括を解き、放免は急いで屋敷へ立ち帰った。
「祝着至極。よい手並じゃ」
検非違使は黄金の重さを確かめると、放免をねぎらった。
「ひまどらぬうち、この一軸を別当殿に奉ることにしよう」
立ち上がったが、念のためにとその掛物をするするとひろげた。その途端である。バサバサと羽音が聞こえたと思うやいなや、一羽の鳩が検非違使の袖の下をすり抜けた。須臾の間に勾欄に止まり、玉のような姿を輝かせると、小柴垣を越えて碧天へ飛び去った。
「ああっ」
驚いて一軸を広げると、絹本の上には何ひとつ、丹青の染みすら残っていない。
検非違使は思わず知らず、軸を取り落とした。激しく震えている。放免はあわてて太刀を抜き、しげしげと見つめたが、確かに仕留めたはずの刃には血のくもりがない。
「魑魅か」
放免の顔から血の気が引いている。二人はあたりをはばからず怖気立った。
あくる朝、検非違使は巡邏の一行から注進を受けた。花の盛りの清水に、またあの見世物が立っているという。半信半疑の検非違使は、放免を従えて恐る恐る覗きに行った。
あの男がいる。
同じ場所に、同じ光景が繰り広げられている。数珠の男は平然と顔を上げていた。二人を見つけると、にたりと嗤った。
「これ、そこのお方たち、この一軸はいかがでござるかな。黄金一包みならば、お譲りいたしてもようござるよ。ただし、鉄の太刀の御馳走は御遠慮いたそう」
その声はまさしくあの男である。
検非違使達は蒼白になって逃げ帰った。
五
自然居士が、あれは西京極あたりに夜な夜な出る魍魎であろう、と噂されたのは、王城の翠が天を染め上げた首夏の頃である。
天に口なし、人をもって言わせよ、と誰かがしむけたのだろうか。あるいは面目を失った放免が、密かに浮説を流したのかもしれない。風聞が広まるにつれて治安を預かる別当としても捨ててはおかれず、検非違使を呼びいだし、見つけ次第とらえることを命じた。
自然居士は、逃げも隠れもしない。たちまち縄をかけられ、別当の御前に引き据えられた。
「名を申せ」
「自然居士」
べつに恐れるふうもない。
別当はいましめを解かせた。内心その妖術とやらを見たいと思ったに外ならない。言辞をあらためた。
「おいでいただいたのは、願いの筋がござってな」
別当が促すところに、衝立が置かれてあった。絵の中に一頭の馬がいる。柔毛の一本一本に至るまで、生きるが如く巧みな筆致である。天に高く嘶いているさまは悍馬のようにみえた。
一瞥して、自然が言った。
「この馬、さては衝立を抜け出るのでござろう」
「ほう」
驚いた。
「なぜわかる」
「よう御覧じろ。馬の蹄が泥に汚れておりましょう。おおかた夜中に青田でも荒らしているに違いござらぬ」
「では、この馬を静めてもらえぬか」
「いと易いこと。まず筆と墨を給れ。ふむ、出来れば硯は歙州、墨は陳ねた唐墨、筆は狸毛の長鋒筆を所望したい」
そんな逸品が揃うはずもない。しかたなく舎人は有り合わせの文房具を並べた。
「やれやれ、金殿玉楼に起き臥しされて、このていたらくでござるか。さぞや目もあやな尤物を並べおるかと思いましたに、情けないかぎりでござるよな」
自然は苦笑した。別当は顔をひきつらせている。
「このような茶墨は駄墨と申して、乾くと下品に映るゆえ、青墨に限るのじゃが、やむをえまい」
咳払いをした。
徐かに墨を磨り終えると、自然の手は見る間にくるくると動いた。
大きな棟の木を描いた。それから馬に縛をかけ、木のもとにしっかりと繋ぎ止めた。
「いかがでござる。これで最早いつぞやの鳩のように消ゆることもござるまい」
自然は上目遣いに別当を見た。
「ほう、おぬしは画法にも明るいとみえる」
と別当は言ったが、その顔は苦虫を噛みつぶしたように歪んでいる。胸の奥ではふつふつと恐怖心が沸き上がっていた。
(これは生かしてはおけまい)
さあらぬ態で、別当は慇懃に続けた。
「自然居士殿、話には聴くが、仏の行法のなかに真言の呪術というものがあるそうな。是非それをここで観照させてもらいたいが、いかがでござる」
自然は坐りなおした。なかば得意である。
「されば何をいたそう」
「ふむ。では、あの遣水の脇にある老木に、花を咲かせられぬものか」
頃は初夏である。しかも別当が指さしたその桜は、朽ちているのか幹に精気うすく、青葉若葉の影もない。自然は頤をかすかに動かした。やがて刺高数珠を握り直すと、ボソボソと真言を唱え始めた。いつの間にか脇机には香が燻べてある。
居並ぶものは目を凝らし、息を呑んでいた。張り詰めた雰囲気が、玻璃のように軋みはじめている。自然は一段と真言の声を上げた。香煙は鼻腔をくすぐり、妙なる景色を漂わせている。芳香は娑婆の世の汚濁を昇華させるとみえた。
自然は己の姿に酔っている。
ところが、その屋敷の南の篝屋には武具を携えた屈強の男達が忍ばせてあった。別当の手のものである。その中に検非違使のなかでも剛の者と呼ばれた、和田の某という男がいた。
和田は先程から、自然居士の息差をはかろうと集注していたのだが、一向に正体が見えない。
(面妖な。はて、どうしたわけか)
雲を掴むが如く、足掻けば足掻くほど、ますます相手の術中に陥っていく。焦りが焦りを呼んだ。
やがて、ものの半時もたたぬ間に、老木は甦った。木肌が潤い、萌葱の花芽がつきはじめる。しばらくするうち、莟がふくらみ出した。衆人は色めきたった。ひとひら、またひとひら桜の花がひらいていく。まさに春のながめである。
しかし、この呪術はついにこれ以上すすまなかった。驕りの心が、自然の無想を乱したのかもしれない。真言を誦しながら、ほんのひとときの間に、女を想った。
(今夜あたり、訪ねてやらねばなるまい)
双ケ丘の麓に囲っているあの女である。
(あの肉置の柔らかさ、華やかな声……)
どれをとっても自然の官能を刺激するのに充分であった。
(あれは、わしの女じゃ。……)
これが、自然居士の不幸につながった。
まさにその同じ時、和田は刺刀を抜いて、己の膝を突き刺している。
急に胸苦しさが失せた。自然居士の幻惑が落ちたのだろう。
聖柄を握り直すと、躍り込んで太刀を一閃した。腰を充分に沈めている。
「喝」
骨を截つ鈍い音が響き、自然居士の首は落ちた。
ほどなく、自然居士が別当殿の御勘気にふれ、ついに討ち止められたという風聞が流れた。双ケ丘に住む女の耳にも、当然ながら聞こえた。
それからしばらくして、女の姿も消えた。西国へ旅立ったというが詳らかではない。
六
その年の初冬、二条大路を東に向かって歩いている一人の女があった。無紋の小袖に市女笠を冠っている。供の者はなかった。よく見ると衣は色褪せて挨にまみれている。眼はくぼみ頬はこけ、顔には水庖ができている。息も絶え絶えで、杖にすがってやっと歩いているありさまだった。
女は脂汗を滲ませながら、それでも歯を食いしばって歩き続けた。やがて西大宮大路も過ぎ、大内裏の朱雀門の前で、枯れ木のように倒れ伏した。事切れたのだろう。ついに起き上がらなかった。
京洛が疫病の巣窟と化したのは、それからひと月もたたぬうちだった。
真先にやられたのは、朱雀門にほど近い別当の屋敷である。知らずに別当は門前の行斃の死骸を、放免に命じて蓮台野に捨てさせたのである。放免が悪寒に震え出したのはまもなくのことだった。高熱と共に総身に発疹を生じ、やがて膿をもつ。放免はそのなかばで死んだ。
おそらく天然痘であろう。
筑紫太宰府を軸に蔓延した痘瘡が、都にまで飛散したのは、ただこの一人の女によってである。女が流行病のことを人伝に知り、思い立って西国へ旅立ったのも、そういう思惑があったからかもしれず、女の命を賭した博打は巧く当たったとも言える。
別当のみならず、蔵人所の下役から検非違使、衛門府官人、舎人、放免に至るまで、悉く死に絶えた。女は自然居士の仇怨を結んだつもりでもあったろうか。
とまれ、疫病は止まるところを知らない。瞬く間に一条から九条、東京極、西京極と都大路を駆け巡り、その猛威を存分に奮った。
日没の鼓の音さえ跡切れがちで、市場にも人影がみえない。干魚を売る商人も洗濯女も念仏踊りも消え失せている。往き交う人も、さざめく人も、歌う人もいない。みな暗い顔で、網代の壁を見つめながら、一時も早く疫病神が行き過ぎてくれることを願った。
宮中では、霊験ある諸神社仏閣に幣帛を献げ、七百人の僧侶を集めて大般若経を連日連夜、読経させたが効き目はさらになかった。
悪疫の猖獗は果てしなく続き、京洛は鳥辺野、蓮台野、化野に打ち捨てられた屍骸から発する怖気立つ臭腐に、玄く染まるかと思われた。
かつて女が佇んでいた仁和寺も人影は見えず、荒廃した堂宇に蔓った葛のつるが、西山の残照に赫々と輝いているばかりである。 (了)