──日本人は何故こうも誤解されるのか──
文化論の方法の一例――ミードのサモア文化論
人類学者マーガレット・ミードのサモア文化の研究は、半面に西欧文化の批判となって現代思潮にショックをあたえて、権威書となっていた。ところが、最近になって人類学者フリーマンがそれを根本から反駁する本を書いた。これについての甲論乙駁がさかんである。
この論戦は戦後の日本人論を反芻するためにも、はなはだ参考になる問題を呈供しているので、まずそれについてのあらましを紹介したい(以下の材料は、主として『タイム』二月一八日と『ニューズウィーク』二月一四日、その他による)。
ミードは一九二五年に二十三歳でサモア島に行き、六ヵ月滞在した。その目的は八~二十歳の少女を研究するためだったが、自分は同地に住んでいるアメリカ人団地に生活して、サモア人の中には入らなかった。ただときどきその村を訪れて、通訳かあるいは十週間のつめこみサモア語によって話した。調査した対象は六十八人の少女だったが、情報の大部分はアメリカ官立の貧民収容所に通ってくる二十五人からえたものだった。
ミードを攻撃したフリーマンは、一九四〇年に、やはり二十三歳でサモアに行って、サモア語に通じ、サモア人の家の養子となり、酋長会議にも出席するようになった。そして「自分の目と耳の前の事実は、ミードが記していることとは似ても似つかぬものだ」と考えた。戦時中に召集されて島を離れたが、戦後にボルネオで未開人の中に入ってフィールド・ワークをした。六〇年代になって、ふたたびサモア研究に集中し、現在ではサモア学の権威者と目せられている。
センセーションをおこしたミードの本は、Coming of Age in Samoa(訳しにくいが「サモア島で成人すること」の意)という。これによると、サモア文化は寛容で規制がない。それで、子供は家庭の束縛から解放され、青年はフリーセックスでいかなる抑圧をもしらないから青年の反抗ということがない。そのために人間性が歪げられずおだやかな調和ある熟年となる。危機も葛藤も緊張も罪責感もない。釣をしたり籠をあんだりしてゆきあたりばったりに暮らす、のびのびとした牧歌的な世界である。
ミードのこの説は西欧人の痛い傷にふれて、一つの衝撃となった。西欧では個人主義が苛烈な闘争をつづけている。きびしいストレスにみちて、制度の雁字搦め、責任や罪責感、内心の葛藤や欲求不満のためにノイローゼになっている。性的抑圧は心身の健全な発達をむつかしくし、青年の反抗がはなはだしく、社会不安である。
ミードはこの反文明のユートピアを宣伝した本によって、一躍して現代の英雄になった。バートランド・ラッセルやハヴロック・エリスがしきりに引用した。多くの人が自由教育を唱え、家庭の束縛をゆるやかにし性的規範をゆるめよ、と説いた。サモア人のごとくに素朴に太古の心にかえれという風が拡まった。
(ヨーロッパは個人主義の力の世界であって、強者が自分の意思によって支配するので、家庭の中も緊張している。幼い子供の躾ははなはだきびしい。親は子を動物を調教──日本語には当る言葉がないが、ドイツ語では dressiereń、英語では tame──するように、自分の意思に服従させる。これに反して日本は万事植物的であって、植物をドレシーレンすることはできないから、むしろ盆栽をつくるように養い育てて、それが子供の我儘になってずいぶん目にあまるようなことにもなる。ヨーロッパでは親がヒステリーをおこして打擲するのを見ることがあり、われわれには肝が冷える。パリの百貨店では子供を撲るための笞を売っているという話もある。それでも今は、学校で体罰をするのはイギリスだけになった。
三、四年ほど前にスウェーデンで、子供に体罰を加えることを禁止する、親はティーン・エージャーに宛てた手紙を検閲することができないという法案が制定されたが、これはあるいはミード説の影響によったものかもしれない。孝行を filialpiety と訳しはするが、あまり実行はされない。年頃になると、子は独立して親に反逆する。ことにドイツでは昔から父と息子の仲が悪く、一頃の表現主義の文学はしきりにこの主題をあつかい、ハーゼンクレーファーの劇では、息子が父親にむかってピストルをつきつけていると父親が脳卒中で仆れて──幕という場面もあった。フロイドは、息子は生物学的に父親にむかって怨恨意識をいだくとて、これがその心理学の出発点になっているのだそうである。そして衰えて実力を失った老人は国の社会保障の他にはたよるものはなく、あわれなものである。誇張していえばヨーロッパは楢山である。もうすこし人情があってもよさそうなものだ、人情とは高い文化だと思う。社会的には、国家と企業は敵であり、雇主と労働者は仇である)。
息苦しい規制に反撥する気持がひろがって、さまざまに理論化された。ついに、われわれは強制する文明によって欲望まで左右されている、これは見えないファシズムである、現代社会は管理ファッショであるという、マルクーゼ理論までつくられた。もっと解放せよ、自然にかえれ、自然児になれ──、ミード文化論はこうした情緒の一つの母胎となった。こういう傾向からヒッピーが生れて世界にひろまり、今ドイツでは「緑の党」という拘束否定の感情団体が一つの政治勢力にまでなった。
ミードのサモア文化紹介は、文明を脱ぎすてることによって疎外された人間性を回復せよ──と叫んだ、昔のルソーの「聖なる原始人」説がよびおこした影響と、相通じるところがあるように思われる。
このミードのサモア認識を、キャンベラ大学のフリーマンが根本から否定した。その著『ミードとサモア――人類学的神話のでっちあげとそのうちこわし』は、ミード説は科学史上の大欺瞞であったと反駁した。これによって学界が左右に分れて揉めた。
フリーマンによると、サモア社会はそんなのん気なものではない。むしろあべこべに、苛烈な競争社会で、個人は監視され束縛されている。青少年はきびしい権威制度のために心理的損傷をうけている。フリーセックスどころか、ピューリタンの傾向があり、処女性を崇めて婚前交渉を禁じている。その半面に強姦が多く、ヤキモチ焼きで暴力沙汰もしきりである。
「ミードはサモア社会では青年は柔軟で惑乱もなく内的緊張もないと確言するが、これに賛成するサモア人に会いたいものだ」
フリーマンによると、若いミードは南洋についてのロマンチックな夢をいだいていたので、人類学の方法についての素養はなかった。現地では、ただ自分が見出したいと願っていたものを見出したと信じた。彼女が調査したサモア少女たちは、誘導訊問に答えて相手の気に入りそうなことを言うのが礼儀だと思っていた。また嘘っぱちを言ってからかってやろうと思って、「椰子の木の下で行きあたりばったりの愛を交わす」などと話した。ミードはサモアの男の社会を知らず、成人からの情報も求めなかった。サモア文化が複雑であることをも考えず、ただ表面のみを見てその底にあるものについては盲目だった。──
ミードがこのような見解をもつにいたったのには背景があった。彼女の時代には学界に二つの考え方があったので、ミードはその一つによってその先入観の照明のもとにすべてを見たのであった。
その考え方の一つは、進化論に発した人種説で、遺伝によって資質と行動が決定されるというのである。この思想は一九〇五―一九三〇年のあいだに、アメリカやイギリスの大学につよく根をはっていた。この生物学にもとづく偏見が頑迷をきわめていて、黒人や移民は人種的に劣等であるとて蔑視され(日本移民の禁止)、犯罪は遺伝によると思われていた。これはやがて「よき血を」という優生学になって、ついには極端なナチズムにも達したものだった。
これに対してもう一つの考え方は、ミードの師のコロンビア大学のボアスの文化説だった。──人間性はもともと白紙であって、先天的にきめられているのではない、その性格や行動は環境によって形成される、というのだった。累積した文化が人間を決定する(われわれに親しいルース・ベネディクトもこの一派だった。行動主義者のワトソンなども、こういう立場の極端なことを言っている)。
ミードは師にしたがって、文化決定論を立証しようとした。この前提によってサモアを見て、この理論を裏書きするための材料のみを集めた(しかし、フリーマン説にも批判はあり、両人があげる証拠的事実は、いずれもそれぞれ各自の主観のプリズムを通してえらばれたものだった。結局この両者の対立は、人類学の中心問題たる「本能か環境か」「nature か nurture か──氏か育ちか」に帰するものである)。
ミードはいかなる部族を対象にしても、都合のいい部分だけをとりあげて、結局は自分が望んだとおりの民族像を描きだした。これがミード式だった。彼女は特殊な事情にある少数の者を材料として、それを一般化した。
人類学は主観が混じる仕事であり、つい研究者の価値観が入る。ある一つの価値基準を定めておいて、それにしたがって選択をする。対象が複雑で混乱しているので、それにしばしば恣意的な型をはめて一つの像にまとめあげてしまう。同一部族に対する判断が研究者によって正反対である場合がたくさんある。
そしてまた、人類学者のともすると陥りやすい癖がある。自分が対象にしているある文化の特質を規定しようとして、ついただ一傾向の特徴をどぎつく描きだして、単純化し、きわだたせ、劇化し、一切がそれ一色であるとしてしまう。
ルース・ベネディクト
しかし、いま筆者がこの文章で扱おうとしているのはサモア文化ではないから、サモアについてはこれでやめる。拙文の目的はおよそ文化論の立て方についてであり、現在の混乱している日本文化論についての示唆である。
第一次大戦後のドイツでもそうだったが、敗北後の混乱期の国民が「いったい自分は何者であるのか?」と問うて、自分のアイデンティティを自覚したくなるのは、当然である。当時かの国ではついに西洋文明の正体までが問われて、それがはなはだしいペシミズムに堕して、西洋没落思想までが流行した。今度の日本では極端な自国ペシミズムがひろがった。自分は人間的失格者である、道徳的不具であるとて、これによってすべてが安直安易に説明できて、これが奇妙な情熱となった。マゾヒズムは個人にあるが、全国民がこの病気にかかることもあるとみえる。
ベネディクトは満州事変いらいの日本を──のみを──問題にした。これまでにはそういうものはなかった。かつてハーンやクローデルやカイザーリングなどの日本人論はあったが、それらはみな古い日本文化の様式的統一や道徳的高さを讃めて、それが現代化によって崩れてゆくのを惜んだものだった。
これに反して、ベネディクトはあの異常な大波瀾の時期だけを問題にした。十五年戦争とその前後の混乱だけに着目しているのと、それより以前の歴史やまた世界のうごきを考え合せているのとでは、まったく別な観点に立つことになるが、ベネディクトの眼中にはただ前者のみがあった。
そして、その中の日本人に「恥の文化」といういまだに聞いたことがない照明をあてた。かくして浮び上ったあたらしい自分の姿を示されて、日本人は「へえ、自分はそういうものなのか」と度胆をぬかれた。飢餓と虚脱の中に途方にくれていたので、「自分はこういうふうに悪かったと考えればいいのか」という自己批判のパターンを教えられた。他の外国人も事情をまるで知らないので、これが世界における日本評価の基準となってしまって、大きな影響をもつことになった。『菊と刀』が古典となり、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の「応用人類学」の項には、八つの文献のうちの一つにあげられている。これに「イエとムラ」とか「甘えの構造」とか「ホンネとタテマエ」とか「出る杭はうたれる」とかいうものが結びついて、異様な体系ができあがり固定してしまった。今年になってもまだ、外国人の日本論はこれを踏襲して奇々怪々なことを書いている。
ベネディクトは日本に来たことはなかった。日本語も知らなかった。複雑な歴史も文化の変遷もまったく知らなかった。ただアメリカヘの移民から話を聞き、日本についての本(たとえばE・H・ノーマンなど)をしきうつして、ほとんど空想によって自分の日本像を組みたてた。いったいこれが学者の立論かと怪しむほど、奇妙な伝聞挿話などを根拠としている。ミードはとにかくサモアの実地に行ったのだったが、ベネディクトのすべては学問的方法としては態をなさぬものである。
ベネディクトは詩人として経歴をはじめたが、やがてミードと同じく偉大なボアスの指導の下に人類学の研究をはじめ、ついにアメリカ人類学の第一人者と称せられるようになり、コロンビア大学教授をつとめた。
事実に執着するよりもむしろ映像を思い浮べる詩人的資質と縁があるのであろうか、彼女は文化を類型化して図式にあてはめることを好んだ。一九三四年に『文化の類型』をあらわし、インディアン諸種族の文化を三つに分類した。その一つはディオニゾス的で激情と狂熱に身をまかす。その二はアポロ的で秩序と抑制がある。その三はその中間にある(ミードは早速この図式を応用して、ニューギニア人をおだやかなアラヘシュ族と激烈なマンジュグモール族とその間のチャンブリ族に分けた)。
さらにべネディクトは世界の文化を類型化して、「罪の文化」と「恥の文化」とした。日本はその後者に入る。
この罪と恥との分類がどういう根拠によるものかは知らない(パプア人と日本人が同類ということであるらしいが)。だが、時代により対外関係により国内の変化によりその他さまざまな契機によって、歴史の中で千変万化してあらわれる複合した文化なるものを、このようにただ一つの商標を貼って仕分けることができるものだろうか。たとえば、ピューリタンの開拓者と、世俗と贅沢のハリウッド人と、セックス・暴力・麻薬の乱倫共とを、同じアメリカ人であるからとて、「罪の文化」の人間であると一括して分類することができるのであろうか?
ここでちょっと話が傍道にそれる。――私は人類学についての造詣はないが、畏友故石田英一郎君にいろいろと教わることが多かった。この石田君が『菊と刀』を和辻先生に推奨して叱られたことは、今さら記すまでもないだろう。それにしても石田君ともあろう人がどうしてあのような愚劣な本にうちこんだのだったろうか?
これは想像だけれども、石田君はウィーンで人類学者ウィルヘルム・シュミットに師事した。シュミットは文化圏論者で、人間の資質行動はその文化によって規定されるとしたが、ただそれがあまりにも極端だからとて、石田君もしまいにはついてゆけなくなったのだそうである。このシュミットとおなじ文化圏説だから、あの戦後のすべてについて見当がつきかねていた時期に、つい牽かれたのではなかったろうか。ただし、『菊と刀』で読むかぎり、石田とベネディクトとでは深浅が同日の談ではない。
『菊と刀』
東京裁判はあやまりだったが、現代日本そのものが人間的不具であったという烙印を押して、大きな宣伝効果をあげた。ほぼ時期を同じくして、一九四六年に『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword──Patterns of Japanese Culture)が出た。これはアメリカの戦時情報局の委嘱をうけ、幾人かの専門家の校閲をうけたものであり、日本占領政策の役にたったのだそうである(三年後に出版された社会思想社版の長谷川松治氏の日本訳は信頼できるものと思われる)。
『菊と刀』は偏見の上になりたって、事実誤認にみち、それを一々洗い出していたらきりがなく、またそれにも価しないし、それに時間をつぶすのは苦痛であるが、ただその影響はあまりにも大きい。
あの判断を生むにいたったいちばん元になった原因は、次の二つの点であるように思われる。
その一つは、突如たる真珠湾攻撃である。これによって日本人はいついかなる動機で何をしでかすか分らない予測不可能な人間である、と思いこんだ。キチガイに刃物だと思った。
これはあそこにいたる経緯を知らない外国人にそのように感じられたのは、無理もなかったことだったろう。われわれも驚いたのだったが、しかし真珠湾攻撃が一時のむら気の思いつきでできたはずはなかった。それまでのひさしい困難きわまる外交交渉があり、周密な計画があり、しかも最後の瞬間までもし和平談判が成立すれば艦隊は引き返すことになっていた。戦うも亡びる、戦わざるも亡びるという、追いつめられた絶体絶命の瀬戸際を打開すべくおこったことだった。
もう一つの点は、方々の孤島で玉砕し、ジャングルで斬込みをつづけ、ついにはカミカゼ特攻までした、執拗な狂信的な愛国的日本人が、占領後には意外におとなしく従順だったことである。これによって外国人が、日本人は自立した主体をもたず、ただ状況順応であるという印象をもったのは、これまたむりはなかった。これをつじつま合せて解釈すべく次のように考えた。──日本人は「正しい行動の内面的強制力を全然考慮の中に置いていない」。「罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行うのに対して、恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行う。恥は他人の批評に対する反応である」。日本人は無原則であって――ちょっとサモア的であって──ただそのときそのときの行きあたりばったりであり、機会主義であり、功利主義であり、面子であり、没自我の集団性である。完全な人間性を具えたアメリカ人とは別な人間である。──
敗戦時の日本人の心理が外国人に理解できなかったのも、やはり無理はなかった。
さまざまな動機が入りくんでいた。──日本人の少なからぬ者はあの戦争についてはある疚しさを感じていた。満州事変、五・一五、二・二六、大陸への戦争拡大……などは「軍の横暴」が横車を押したので、それを止めることもできず、ただあれよあれよと見ている他はなかった(かくなったのにも、一見するよりはるかに深い事情があったのだったが、今それは別とする。拙著『歴史的意識について』所収「昭和史と東京裁判」参照、講談社刊)。戦争目的がはっきりしないままにだらだらと続いていたので、外地の兵も内地の市民もモラルがくずれた。日本人だから宣伝説明が下手で、何だかよく分らない中に深みにはまっていったのだったが、この申訳ないことをしていたというそれまでは抑圧されていた気持が、敗戦と共にどっと表に出た。ここから自虐がはじまった。
大東亜戦争はもともと国力からいって無理なことだったが、ハル・ノート以後はああなるより他に道はなかった。対米開戦にいたってはじめて戦争目的は確定したが、無条件降伏ということでもあり、日本人は必死な闘いをつづけた。
それもむなしく、国は焦土となり食う物も住む家もなく全面的崩壊の寸前だったから、戦争終結は救いと感ぜられた。あてのない悲惨がこれで終ったと、ほっと息をついた。天皇とマッカーサーがこれ以上の破滅から救ってくれたと感謝をした。もうこりごりで、さらに抵抗を続けるエネルギーは残ってはいなかった。
外国人にとっては意外なことであろうが、じつはもともとはっきりした敵愾心はなかった。ことに中国人に対してはなく、戦中にも中国人の女が中国服をきて子供をつれて歩いていた。アメリカ人の捕虜が働いているのを見た婦人が「お可哀そうに」といったとて、当局者が問題にしたこともあった。情報局次長の奥村喜和男という人が新官僚でヒットラーの宣伝技術を模倣したのにちがいなく、「大衆のもっとも原始的感情に訴え」ようとして、じつに浅薄な煽動放送をしたが、効果はなかった。鬼畜米英という官製標語は誰の感情にも訴えなかった。日本人はむかしから一過性の天災に慣れていて戦禍をもそれにちかいものと感じていた。人間は天災に対しては恨みをもたず、天災がすぎれば再建にとりかかる。それで戦争がすんでしまったら、しばらくの虚脱の後にすぐ再建にとりかかった。ヨーロッパ人が宗教からも教えこまれているような敵を悪魔視するという習性はなく、妬み憎み呪いといったようなものはなかった。戦域がかぎりなく拡大して加害者であったにはちがいなかったが、主観的にはこれで負けたら亡国であるという恐怖をもっていた。その恐怖も、生き残れてホッとしたとて忘れられた。ある防禦的な感じがまつわっていたので、戦中の協力者に対しても恨みはなかった。日本人の愛国心は執拗な悪魔折伏ではなく、全体のためにいさぎよく散華するというものだった。
外国では敗戦と共に、ムッソリーニがクララ・ペタッチと共に逆吊しにされたり、占領兵と仲がよかったフランス娘は頭を剃られて市中を引まわしにされたりしたが、あのようなことはわれわれには無縁であり、「ひどいことをするものだ」と言った。
敗戦による感情は、日本独特の形で表明された。他国ではああいうことはおこらない。それはわれわれ国民の努力が足りなくて天皇に申し訳がなかった、というのであった。皇居前広場に集まって平伏して涙したり、ある者は集団自決をした。戦勢が悪くなって窮するにつれて天皇に頼る気持がたかまって、誰がはじめるともなく皇居前を通るときには帽子をとって敬礼した。天皇は外国人が誤解しているような一神教的絶対者とはまったく別のものであるのだが、この誤解から、天皇の人間宣言とか靖国神社参拝問題とかいう奇妙な問題がおこったのであるが、こういう土俗的宗教感情については、はなはだ複雑な内容のことなので別に独立した主題として考えたい。
ドイツのカイゼルが第一次大戦で敗戦必至となったとき全財産をもってオランダに「敵前逃亡」をしたのとちがって、天皇は占領軍司令官に自分が全責任を負うことを明言されたそうである。マッカーサーの手記にそれがあるが、この元帥はなかなか芝居気がある人だったから、全部その通りだったと立証するすべはない。しかし、天皇が退去されたときには、元帥はプロトコールでは閾口まで送るときまっていたのをわざわざ玄関まで見送った実写があったから、天皇の誠意に動かされたことは事実だったのにちがいない。君主と国民との関係は契約ではなく、西洋のそれとはずいぶん違う。
日本にはまた「負け方をきれいにする」という美学がある。覚悟をきめて、「俎の上の鯉のように」とて、吉田首相はそれを実行した。身を棄ててこそ浮ぶ瀬もあれ、というわけである。これも外国人には理解しにくい。戦争最末期に鈴木貫太郎首相がソ連に仲介をたのむとて、「スターリンは西郷南洲のような腹の太い人で、窮鳥懐に入ればむごいことはすまい」と言ったと聞いたときにはおどろいた。重光氏は「西郷と勝との会談でも考えていたのだろう」と記している。いかに鈴木さんが大時代だといっても──。しかし、八月十日に御聖断が下ったが、阿南陸相が部内をまとめるためにポツダム宣言受諾の回答を「もう二日だけ待ってくれ」と懇願したときに、鈴木さんは「もう二日たてばソ連が北海道に入ってくる。アメリカが相手であるうちに話をまとめなくてはならない」とて、その懇願をしりぞけた。前の西郷南洲云々はやっぱり腹芸だった。このへんも日本流である。結局ソ連よりもアメリカをえらんで、身を棄てて浮かぶ瀬をつかんだ。
占領時に日本人が占領兵と親しんだのは、アメリカ人の態度が立派だったことがあったことをも認めざるをえない。こちらはまだ他国によって占領された経験がなかったから、かなりのん気に考えていたということもあったが、相手の市民道徳のレベルは高かった。さまざまな不祥事はあったが、それでも全体としては見上げたものだった。私自身も隣家が接収されていろいろな接触があったが、そのビヘービアーに非常に感心したことがあった。あれがべトナム戦以後モラルが壊れたのだそうであるが、他国のことを一口に「罪の文化」とか「恥の文化」とかレッテルをはってすませることはまちがいである。
『菊と刀』については、その部分部分の疎漏粗雑をいちいち拾いあげていたらきりはない。それでベネディクト女史がいかに自分が知らない国語を材料にして日本文化論を展開しているか、その言語部分だけをとりあげてみる (社会思想文庫一二一ページ以下)。
日本人は恩をうければ恥だと感じて、それに対する復讐心をいだく、とて(じつに奇妙なことを思いついたものだが)──。
──「たとえ煙草一本貰っても、日本人は心苦しく思う。そして礼にキノドク(すなわち、有毒な感情)ですねという」。それは、日本人にとっては無償の親切ということはなく、「恩をうけたことが恥しくてならない」。それで “I feel like a hell”という含みのある返事をする。
──大都会の近代的百貨店でも、店員は客に「アリガトー」という。これは Oh,this difficult thing. という意味であって、店員はこれによって「客が物を買うことによって客が店に授ける、大きなかつ稀有な恩恵であることを説明する」。日本人は売買にあたってさえ、何かの「恩をうけて感じる心苦しさを表現する」。
──スミマセンというのは、「これは終りません」という意味であり、つまり「私はあなたから恩をうけました。ところで、現代の経済組織の下では、私はとうていあなたに恩返しをすることはできません。私はこのような立場に置かれたことを遺憾に存じますというのである」。往来で帽子を風に吹きとばされたときに、それを拾ってくれた人にスミマセンというのは、やはり「受けとるに当って感じる内心の苦しみを告白せねばならない」からである──(これによると、日本人とはよほど罪の意識に苛まれている人間だとみえる)。
──フランス語では“Merci infiniment.”というが、フランス人もやはり、恩をうけた際に「これは終りません。……現代の経済組織の下では……」と考えているのだろうか? またドイツ語では“Dank verbindlichst.”などというが、これも感謝することによって、自分は相手に完全に隷属しているといっているのだろうか?
──カタジケナイという言葉は、「〈侮辱〉〈不面目〉を意味する文字(辱、忝)で書きあらわされる。カタジケナイという言葉は〈私は侮辱された〉という意味と〈私は感謝する〉という意味と、両方の意味をもっている。日本語辞書の説明によれば、この語によって、あなたは、あなたが受けた法外な恩恵によって、辱しめられ、侮辱されたこと──あなたはそのような恩恵を受けるに価しないのであるから──を言い表わす。つまりこの表現によって、あなたは、恩を受けて感じるあなたの恥を、はっきり口に出して告白するのである」。云々。──
じつにバカバカしいかぎりの話であるが、この調子のことが限りなくつづく。
そして、「これらの表現は、いかなる概括的議論にもまして、能弁に〈恩の力〉を物語っている」。「愛や、親切や、気前良さは、アメリカでは何も附属物がくっついていなければいないだけ、いっそう尊重されるのであるが、日本では必ず附属物がつきまとう」。心からの親切をあたえられたり、うけたりすることはない。
坊ちゃんと山嵐の一銭五厘事件が、恩を着る者が腹を立てる例証としてあげられている。そして、坊ちゃんは漱石の自画像である、したがって日本人の肖像であるとて、一銭五厘事件をもって日本的性格そのものだとしている。ベネディクト女史はコロンビア大学の講堂でこういうことを教えているのだろうか? 小説の中のある人物のある行為をもって人類学の典拠とするなら、バルザックによってフランス文化を論じたら面白いだろう。
恩をきればそれは屈辱だから、それに対して復讐をしなくてはならない。ベネディクトはそうと決めてかかって、それがその恥文化説の一つの基調になっている。恩に対して復讐心をもつという日本人を、私は見たことも聞いたこともなく、もしそういう者がいるなら教えてほしいものだが、こんな挿話が例証してある。──ある日本の少年が宣教師に渡米したい願いを語った。宣教師はおどろいて「お前が……」と叫んだ。少年はこれを侮辱と感じ、「殺害された」と感じ、この嘲笑誹謗に対して復讐を決心し、ついに自力によって渡米することによって汚名をそそいだ(これがどうして復讐なのだろうか?)。復讐は、侮辱や敗北を蒙った場合には、「よいこと」として、日本の伝統の中で高い地位を占めている。
「彼らは、侮辱がひきおこす憤りを成功の無二の刺戟としているが……この刺戟の利用が、日本が極東において獲得することのできた支配的地位、ならびに最近十年間の対英米戦政策に貢献したことは疑いのない事実である」(このように日本人にとっては復讐が原理であると主張しながら、しかも占領軍に対しては復讐心はいだかなかったとある)。しかしながら、この侮辱に対する復讐心については、「日本よりも、ニューギニアのあの何ごとによらず侮辱を利用する部族に適切に当てはまるものである」(一八三ページ)。
まことにこういう人類学というものは大したものである。まさにネゴトである。世界文化を図式的に分類してこういうことになった。
言葉についての誤解にはもっと重大な例がある。
日本は七世紀に仏教を、国家鎮護のために、すなわち「国家を護るために勝れた」宗教として採り入れた、とある。これについてベネディクトがそう言っているのではないが、他にこれに関連してあたかも日本がむかしから超国家主義であったかのように書いたものがあったので、それについて一言。昔の国家とは、現代のレーゾン・デタをもって戦争をするようなものではなく、まったくちがった概念で、いわば社稷というにちかかった。国家鎮護をねがうとは、天災飢饉がなく疫病や争乱がなく、国民が平穏に「民のかまどはにぎはひにけり」と祈ることだった。「四海波静かに治まる御世こそめでたけれ」と願うことだった。すべてが神話的倫理的に考えられ、天の違和や国の乱れは君の不徳と信じられていたのだったから、天子は大仏を鋳て国分寺を造ったので、超国家主義者などではなかった。
もっとアクチュアルな問題について言葉の誤解があり、これがベネディクトの日本解釈の大きな柱の一つとなっている(五四ページ)。
それは、「万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ、兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンセシムルハ……帝国不動ノ国是ナリ」という文章である。
これをベネディクトは、日本は世界に日本を首長とする国の階層制度を作ろうとする宣言である、と解している。かつて日本では、将軍がピラミッドの絶頂にあり、その下に士農工商と身分の上下が分れていて、それぞれその地位に甘んじていた。いま日本は自分が支配者となって、世界各国をそれぞれ順位にしたがって配置して、それに甘んじしめようとしているのである──。
これは思いちがいだった。あの宣言の趣旨は、アジアの被植民地国家を解放して、それぞれ独立した地歩をえさせようというのであった。
あの宣言はその十数日前のハル・ノートに対する回答だった。ハル・ノートはつぎの四原則をあげていた。──それは、各国の、主権および領土の不可侵、他国の内政に対する不干渉、国際間の協力と和解への依存、ならびに平等、であった。
それまでにヨーロッパの帝国主義はほとんど全世界を植民地化して、右のハルの四原則を犯していた。日本の宣言は、その現状をあらためて右の四原則をアジアに実現しようと唱えたのであるから、日本の宣言とハル・ノートとは結局おなじことをいっていた。ただ違うのは、ヨーロッパは満州事変いらいの日本を責めるけれども自分自身が過去にしたことは不問にし、一九二八年のケロッグ・ブリアンのパリ協商のときの現状を固定して、既得権を保存しようとしたが、アジア人は現状を変えたくてうずうずしていた、ということだった。
一九二八年を境にして、国際関係の倫理の基準が顚倒し、その前と後とでは同じことをしても違った意味のものとして解せられるようになった。
諸文化は相対的である
もとより日本人にはたくさんの欠点弱点があり、それを指摘されれば、謙虚に耳を傾けて反省すべきである。敗戦後の日本人は劣等感におちいり、いささか見当がくるった自虐症をつづけた。しかし、べつに人間的不具というわけではない。人間に共通な弱点が日本に特殊な形であらわれているのである。幸いに今はすこしく順調だが、これがまたいつどう変るか分らないので、慢心などは禁物である。
かつて日本人はもっとも礼儀正しい国民といわれ、ベルツはその公共心を褒めているが、それもすっかり別物になった。現代では、軽佻浮薄の感は拭えないが、他面からいえばそれは感受性があって活動的であるということでもある。簡単に「日本人は――」などとはいえない。
今は日本文化についての外国人の誤解を正そうとするのが目的だから、外国文化のアラ探しはしない。ただ、「われわれ欧米人」はすこし自信が強すぎ、反省をしなさすぎるのではないだろうか。かつて理想主義の人格観念を完成したと誇っていたドイツ人が、一朝にして一塊の愚衆と化したこともあったではないか。また、もしベネディクト流に自説に都合のいい事実だけをとりあげるなら、フランスが不自由・不平等・不友愛の国であることを立証することは易々たることである。その他どの国についても同じである。
百年前にニーチェがはじめて「神は死んだ」と唱えたときには、それは強烈な真理探究の意思であり、あたらしい倫理への模索だった。ところが、今のヨーロッパでは「神は死んだ」というのが安直な流行語であり、どこの国でも手軽にいっている。聖書に、もし神がいないならただ飲み食いの快楽主義になるだけだとあるが、いまはこの「神は死んだ」につづいて、「人間はただ一度しか生きない」「甘美な生命──dolce vita」というのが、常套語になっている。かつての偉大な個人主義は、いまはエゴセントリズムと快楽主義に堕して、ヨーロッパは頽廃期にあるように感じる。神が死んで、右の聖書の言葉のとおりになった。
しかも、ふしぎに堪えないのは、欧米人がわれわれは神を奉じている、個人個人が神に直接している、故にまげられない良心をもっている、だから道徳的に優越していると、依然として自信していることである。罪の文化の誇りが揺がない。
それならば、欧米には背信、悖徳、不貞、裏切り、オトリ捜査、免かれて恥なし……というようなことはないのであろうか。あっても、日本より少ないのであろうか。じつは相当乱脈のように思われるが。結婚式のときには聖書に手をおいて神に誓うのだが、三組か二組に一つは離婚するとき、神にたてた誓いはどうなるのだろうか。「罪の文化」の中では「恥の文化」の中より犯罪ははるかに多いが、これはどういうわけなのだろうか。良心をもっている者にはより大きな自由があたえられ、これによって犯罪が生じる。しかし、恥によって規制されている者はいまだ十分な人格をもってふるまっているのではないから、たとえ犯罪が少なくても、それは人間的な高さを意味しない──こういうふうな理窟になる他はないようだ(後に記すブツェリウスの説参照─編集部註:省略)。
神に対する良心がつよいほど独立した自由な人間になり、これによって神に背くことになる。
かつてヨーロッパ人は世界中を侵略して由緒ある大文化を亡ぼしその財を奪い人間を奴隷化したが、それにもかかわらず「自分たちは自分の神を奉ずる故に、何をしても自分は良心にしたがっている」と考え、それを通用させたことは、世界史の中の大虚偽だった。かれらは「何があっても自分は正しい」と自信する、うらやむベきテンペラメントをもっている。これは自分についての希望的思考から生れた確信である。
自分を理想化して、それを唯一の基準として他文化をはかることは、あやまりである。他文化を判断するためには、
1、それに自分の尺度をあてはめて、自分と違うからとて高いとか低いとかいう価値判断をしてはならない。
2、文化は複合体であって、さまざまな要素を内蔵している。単細胞ではない。歴史の流の中で条件が異るにつれてさまざまの異ったあらわれ方をする。類型化することはできない。個人としてもそれぞれ違う。「何々人はつねにかくかくである」と集合名詞化してはならない。このあやまちをもっとも大きく犯したのは、「ユダヤ人よ、汝らは悪魔の子である」と説教したイエスだった。
3、他国について、自分はこう見たいという先入見をもってはならない。自分が見たいと願ったものだけを見て、それによって全体像を構成してはならない。また、たまたま自分が経験した部分を一般化して、それを全体と考えてはならない。
4、文化には変りやすい部分と変りにくい部分とある。後者は意識の底層の感覚とか感情とかの部分であり、ビヘービアーのあらわれ方であり、文化類型ということを考えるのはそれによって出来上ったこの領域においてのみ意味がある。この部分は一度や二度の戦争や革命で、変るものではなく、ヘドリック・スミスがソ連を研究して、そこに不動の「ロシア人」を見たのは正しかった。
これに反して、変りやすいものは、意識の上層の知的なイデオロギーの部分である。信仰や対世界表象や態度も変る。集団煽動とか労働改造とか洗脳とかは、この部分を変えようとするのである。
5、ベネディクトが試みたのも、前の変らない部分についてであったのだろうが、何も知らないでただ先入観によって空想したのだったから、読むに堪えざるものになった。
文化は直線的にある段階を上昇してゆくのであり、その段階の絶頂に英仏がいて、英仏に近いほど近代化された高い文化であるという、昔風の考え方は、もうとくに失われた。諸文化にはそれぞれの個性があり、優劣はいえない。
右のようなもっとも初歩的な心構えを、アメリカの一流の人類学者やその他著名の文筆家たちがわきまえないでいるのは不可解である。
ベネディクトは日本には、ただ世間態というよりほかの、別の恥の観念があることを知らないでいる。「俯仰天地に愧じず」とは、自立した人格の心中の確信に即して、他人の毀誉褒貶を顧りみるな、ということである。戒律による罰のごときのものによって左右されるな、ということである。廉恥心とは、self-respect をもって人間としての誇りをそれに賭けているので、結果を問わない性格の強さである。みずからにたのむ者は弁解するのをいさぎよしとしない。「恥を知れ」というのは、おのれの内心に顧みて疚しからずあれというので、世評を気にしろというのではない。
昔の武士は金打して誓いを変えなかった。「万一違背の際は人中にておん笑い下され度し」というのは、世間態への顧慮ではなく、自分の人格の証明だった。あらかじめ戒律を作ることによって未来に起りうべきすべての可能性を規制することはできないから、契約を文書にしておくのではなく、人格的な信頼関係をうちたてておいて、不可測のことが未来におこれば、かねて結んだその信頼にしたがって対処するのだった。
『菊と刀』には、日本人は人間性は善であると信じているとて、いささか冷笑的な筆致で書いてある。アメリカ人は「罪の意識」をもって善悪を区別するが、日本人はこの区別能力をなくするために、習練によって無心無我の境に入り、良心を麻痺させる。「彼らの哲学に従えば、人間はその心の奥底においては善である。もし衝動がそのまま直ちに行為となって現われうるならば、人間はやすやすと徳行を行うことができる。そこで彼は修行をつんで恥の自己監視を排除しようとする。……それは自意識と矛盾相剋からの究極的解放である」(二九〇ページ)。このような禅についての誤解がしきりにでてくる。
これは、もし成功すればシラーのいう美的人間の理想であるが、その頽落現象もしばしばある。それは日本人によっても野狐禅といって非難されている。
キリスト教では人間性を救いがたい悪の塊として、神が威嚇し、他律的な戒律をあたえ、契約をしている。それに背けば地獄におちて永遠の業火に焼かれる。しかし東洋では、人間性は根本的には善であり高貴なものであるという信頼から発しているのだから、その本来の面目にかえれ、正しい意識にめざめよ、というのである。
仏教は自力にせよ他力にせよ、しきりにこれを強調する。経文にもっともしばしば出てくる挿話──鬼子母神は魔の子であり、魔の夫とのあいだにたくさんの子をもち、それを養うために人間の子をさらって食わせた。釈迦が彼女の子をひとり托鉢の下にかくした。魔の母は狂ったように自分の子を探し求め、ついに釈迦に肋けを求めた。釈迦は「おまえの子がいなくなったときに、おまえはどこに行って何をしていたのか」と訊ねた。魔の母は、そのときには自分は人間の子をさらいに行っていたということに気づき、本心にめざめた。釈迦は「人の子の肉を食いたければ、これを食え」とて、たくさんの粒のあるザクロの実をあたえた。それから後は、魔の母は人間の子の守護神となった。魔といえども、その本性には善をひめていたのだった。
キリスト教では、神が創造したこの世界に何故に悪が存在するかということは、むかしから大難問題だった。これを説明すべく、さまざまなむつかしい論理をあやつって弁神論が考えられたが、いずれも成功しなかった。どうしても神と対立する悪の原理を措定しなくてはならず、ひさしく悪魔の実在が信ぜられていた。
われわれの文化圏には神もいず悪魔もいないが、さりとてこれは行きあたりばったりのだらしのない生き方というのではない。世界はある一時にある者の意思によって創られたものではなく、人間より以前から存在したものであるが、この混沌たる世界の中に人間精神が生れて救いを求めるのは、泥土の中にきよらかな蓮の花が咲きいでるようなものである。
どちらにしても、これは対世界態度の根本の差異から生れたものであり、安直に優とか劣とかいうべきものではない。
孟子の側隠の情とか放心を求めるとかは、人間性の根底には聖なるものがあるという信頼である。儒教の仁とか道とかは、燎燎たる星斗と共に畏敬すべき、人間の内心の普遍的道徳律のことである。
ただし、このような高い理想はごく稀にしか発揮されない。世界はほとんど常に汚穢の中に反転しているということは、東西共におなじことである。
日本文化を全面的に否定したい
他国人がわれわれをどう考えようと言おうと、別に気にすることはない。わが道を行けばよいし、行く他はない。しかし、もし他国人が「日本人は欠陥人間である」と考え、それが日本評価の一つの基調となってそれですべてを片付ける風があるなら、それは困ったことである。これは正さなくてはならない。そして、今はじつはそういう場合なのである。ただ一部の人がそれをやっているならすこしも構わないが、文化解釈に関するかぎり、大勢がそれなのである。これは『菊と刀』から発して、日本解釈の基礎的先入観となっている。その主だった例を記すが、おそらく読者は吃驚されることだろう。
もともと他国の実情は分らないものである。一例をあげれば、フランスとドイツは隣りあって久しくさまざまな交渉があった。それにもかかわらず普通のフランス人と普通のドイツ人は互いをほとんど知らず、ただ漠然たる表象をもっているだけである。「ドイツ人は鋼鉄の鎧を着てわしの一生に三度も攻めてきた」。「フランス人は食いしんぼうで色好みで見えぼうである」(もとより特別な知識人は別である)。──まして、日本についてはほとんど何も知らないのはあたりまえで、日本はずっと好奇的な空想の舞台であるにすぎなかった。
それが、十五年戦争いらい、現実の日本が世界舞台に劇的な登場をした。不可解な戦争をし、また不可解な繁栄をした。この異様な現象については判断がむつかしい。アメリカにも反日的な俗説はいくらもあるのだろうけれども、代表的な知的ジャーナリズムは鷹揚であり理をとおしている。ところが、どういうわけか、ヨーロッパ人の意見はいかにも狭量である。かつての世界征服時代の慣性にとらわれて、文化的傲慢と人種偏見からその唯我独尊癖から離れることができない。戦後の日本の工業はすくなくともある分野では強いらしく、それについて書かれたものを読んでも、はたして本当かしらんと怪しむほどだが、最近の『ニューズウィーク』誌にも Europe’s High-Teck Struggle とて「ヨーロッパはアメリカと日本に五年おくれている。これをとりかえすことはむつかしい」という趣旨のことが書いてある。これがヨーロッパ人をいらいらさせていることは確かであろう。
あるいはそれで、日本人の成功はじつはその人問的欠陥のおかげである、日本人が勝つのはかれらに良心がなく自立心がないからだ、一種の昆虫的本能からだ、というふうな説明が生れて、これが安心感をあたえているのではないかと疑われる。
やっかみからこういう感情が生れたと解するのは、あの大蓄積を蔵して大知的能力をもったヨーロッパ人に対していかにも失礼であり、かれらがそんな小人物だとは思われない。しかし、どういうわけかこういう事が行われている。