八一と白鳥 ─魅力ある文人たち(抄)

  山鳩 ――会津八一と紀伊子――

 

 山鳩の声で、目がさめる。いつものことだが、夢の中にまでこだまする声だった。

 快い目ざめではない。からだの調子も、心も、安らかでいられることは、これからさき、もうあるまいと思う。少しずつ、毎日悪くなってくるのがわかる。

「すみませんね、いつも申しわけなくて」

 紀伊子は、会津八一の大きな背が、そこに聳えて見えるだけで、すぐ寝たきりの身分をすまなく思った。起きられなくなってから、炊事の仕度をしてくれる。背中を見せて、いまも飯の噴き加減を見守っている。

「キイちゃん、目がさめたのか」

 八一はこちらを向いて、少しかすれ声でいった。朝の声はいつもかすれる。造作ぞうさくの大きい目元が笑っていた。具合いはどうか、とたしかめる目の色になった。

 少し悪いらしいな、と見届けたように、表情から笑いが消えた。

 埃っぽい観音堂での寝起きは、からだによくないに決まっている。ここから普門庵の庫裏くりの部屋つづきに、九十九体の仏像が安置されていた。明和年間の木材を組んだ建物なので、戸障子の開けたてにも工夫が要る。障子を貼りかえたのも紀伊子の一間だけだった。

 疎開先の丹呉家で、八幡医師から開放性の咽頭結核と診断されたため、村はずれの観音堂へ、八一と共に移ってきた。

 それでも体調のよいときは、空襲警報が鳴っても、ここは静かな別天地だった。昼間は山鳩のほか、郭公かっこう、いかる、つぐみなどが鳴き、田のから蛙の声がきこえる。松風の音さえ心にしみた。

 昭和二十年、太平洋戦争も破局が近づいていた。七月四日の日記に、紀伊子は書く。

「観音堂前庭は殺風景なるも、東側木立のやぶはよろしき。夏も涼しき風入るらし。但し自分には、後、幾日の命なりや。甚しく苦しき。手足緑色だちて見ゆ」

 三十三歳の紀伊子は、未婚のまま、肺病特有の透きとおる肌の白さになっていた。窓外の緑が、染まるほど肌に青く映えた。

 

  秋艸堂の専制君主

 

 ここへ移ってから、八一と共にひねもす山鳩を聞いている。結核の感染をおそれて、村の人達も近寄らない。寝込んでしまうと、煮炊きばかりか、身のまわりの世話も、六十四歳の八一を頼るほかなかった。さすがの会津八一も、東京を焼け出されて、紀伊子ともども逆境のどん底にあった。

 八一の養女として籍を入れて貰ったのは、昨年二月のことで、まだ目白の秋艸堂しゅうそうどうの焼ける前だった。昭和八年、二十一歳で上京して以来、紀伊子の青春のすべてをあずけた家である。八一は、訪れる学生たちに敬慕され、紀伊子はその接待にこき使われる毎日だったが、病弱のたちながら若さに恵まれ、生命力に満ちていた。八一は秋艸堂で絶対的な専制君主として振舞い、紀伊子も学生たちの面前でよく怒鳴られた。だが、皆が帰ったあと、八一が機嫌をとってくれることもあった。

 紀伊子は百五十六、七センチのすらりとした細身で、長躯肥大の八一と並ぶと、年恰好も含めて父親と娘の感じに見える。少しトーンの高い、澄んだ歯切れのよい声に特徴があった。八一の飼う九官鳥が、紀伊子の独特の高笑いと、声の張った返事をすぐおぼえた。

 八一がひと前で、多少理不尽な怒鳴り方をしても、口答え一つせず、暗い表情を見せない。忍従というより、明るい人柄のせいだった。若い頃の八一は、叱言こごとも多かった。

「九官鳥に餌をやるのを、後廻しにしたろう。大体キイ子は、手順を考えずに、思いつきで仕事をするから、そういうことになるんだ。餌を貰う方はその気で待っているんだから、むら気のやり方をしてはいかん」

 見ないようで、こまかい所を見ていた。

 押しかけてくる学生は、ほとんど八一の心酔者といっていい。大抵八一が一方的に喋り、興がのると、夜の更けるのも忘れて、該博な知識を惜し気もなく開陳してやまなかった。

 時々、茶を替えにくる紀伊子に、話の継ぎ穂を折られる形になると、八一は怒鳴った。

「入ってくるタイミングを考えろ。せっかく皆がのってきたところなんだ。とたんに集中力が散漫になってしまう。こっちも滾々こんこんと言葉が湧いてきたのに、ぶちこわしだ」

 頭ごなしにいうので、居合わせた学生たちが、気の毒そうな顔をした。

「すみません、気がきかなくて」

 紀伊子は一瞬、神妙な顔をするが、べつに傷つけられたという風はなかった。

「あとはわれわれでやりますから」

 さらに八一の雷が落ちないように、急いで紀伊子の手から大土瓶を受けとると、学生たちは、二人のふんいきに気を使った。

「用があったら呼ぶから、放っといてよろしい」

 八一は一刻も早く、邪魔者を追い払うように、大きく手を振った。心を現わす動作が正直すぎて、ややオーバーな動きも愛嬌にならなかった。真剣すぎて余裕がないのは、八一の性格で、せかせかと直接的だった。紀伊子はむしろ、このとき傷ついた。

 あとで反省して取りなす位なら、邪慳に扱う前に、もう少しいたわって下さったらよいのに。その配慮のなさが、無意識にどれだけ相手を傷つけるか、それには気づかぬ様子だった。心に余裕のあるときだけ、相手をいたわる。終始自分本位のところが八一らしかったが、八一が初恋に失敗したのも、そんなところに原因があるのではないか——と、後年成熟してからの紀伊子は思った。

 判で押したような規律正しさを要求する面があり、紀伊子の仕事ぶりに少しでもむら気がみえると、指摘してすぐ矯正させた。さっきの九官鳥の餌の一件もそうだった。

「いかしゆ の あふるる なか に もろあし を ゆたけく のべて ものおもひもなし……。別府温泉で詠んだ歌だ。諸君に、この歌の心がわかるか。『いかしゆ』とは、効験のある温泉のことだ。湯の中で長々と手足をのばす。良寛和尚の詩に、『長ク両脚ヲ伸シテ睡ル』という句がある。『寒山詩』などにもあるぞ。物思いのないゆったりした気分をいうんだ。戦争中のいまは、なかなかそういう気分になれないが、戦時中でなくたって、もともとなれん奴はなれんのだ。」

 誰かがクスッと笑い、八一も破顔した。

「その人達の心境には、全く屈託がない。気宇壮大なところがある。古代のますらおにも通じる心だ。一方に禅的なゆとりもある。そういう心になりたいという思いを詠んだのだ」

 八一の説くところは一見平易なようだが、及びがたい深さがあって、人々の心をおのずからひきつける。

「斉藤茂吉氏の歌にも、

  うつせみの命をしみ地響きて湯いづる山にわれは来にけり

 という一首がある。この『愛しみ』にも生命を愛惜する思いがほのぼのと見える。『地響きて』という男々しい表現と、一首のしらべの強さが相俟あいまって、涙ぐみたいほど永遠の気持を感じさせる。わたしの歌と表現は違うが、しかし根本に共通点がある」

 八一のこういう話は、思わず聞く耳をそばだてさせた。学生たちの表情にも、満ち足りた色がうかんだ。そこに同席していなくても、紀伊子には八一の朗々たる声は聞こえた。

 八一の身近に仕える誇りを感じるとき、紀伊子は女中がわりに姉の家から連れてこられたみじめさを忘れた。こき使うといっても、八一はふだんは相応に人格を尊重してくれる。むしろ当時の一般男性の持つ女性観にくらべると、八一の考え方はあるときは対等なものとして、利発で向学心に富む紀伊子を遇するところがあった。

 

 自己愛と孤独のはざま

 

『鹿鳴集』などに見られる繊細でデリカシイに富んだ感受性に、紀伊子はつくづく魅せられるのだが、日常の八一の言動には、生身の現実の人間を惹きつけてやまないほどの呪縛力はなかった。日常次元の醒めた目で見ると、自己中心的で、おのれの関心の向かないことには一顧だもしない性格は、家庭向きの同伴者としては問題がありそうだった。

 紀伊子に対しても、一方的に注いでくれるものは、一身で受けきれぬほどすばらしい。たとえば美術品の鑑賞の仕方、文芸作品の味わい方などを説くときは、一人で聞くのは勿体ないほど、惜し気もなく全身全霊を傾けて語ってくれる。

 その個人教授の恩寵に身近に浴していると、それが八一その人の愛の表現かと錯覚されそうだった。いや、たしかに教え導き、向上させようという愛情は否定できない。だが紀伊子にそれを説く時でさえ、耳を澄ますと八一自身の自己愛の声が、際限なく聞こえるのだった。紀伊子ははじめ、そういう感じ方をする自分の性質が嫌いになったほどだが、女の身の本能に映る八一の自己陶酔の表情は、何としても消しがたかった。八一が自己表現にも純粋な人だけに、それが見えてしまう。

 ことさら意地悪い見方をするつもりはないが、八一は自己を愛することを終始一貫つらぬく中でしか、女を愛せぬ人ではないかと、おそるおそる思うようになった。エリートとして神から選ばれた男の鼻持ちならぬエゴイズムともとれようが、同時に選ばれた男のそれが身上しんじょうでもあり、孤独な崇高さといえぬことはない。紀伊子は女としての年齢が成熟するにつれて、八一のむしろ自己愛に徹する美の使徒としての面目に、わが身のうちのただれた思いが目ざめてゆく危険を感じた。

 ――天下の会津八一を知らないか。

 と一喝するときの威丈高な姿勢に、その真価の理解されない孤絶な咆哮ほうこうを感じることもあったが、反面、粗大で、夜郎自大で、いい気なものとも思え、学生などを相手に吐くべき言葉でもないように、聞き苦しく感じたりした。もし自分がいつまでも八一の傍にいられるとしたら、いつかそのことを苦言して、八一のむなしい力みを、自分の全存在で柔らげられぬものかと、空想することもあった。

 

  病身の養女の思い

 

 八一が、紀伊子を養女として遇し、入籍した真意はどこにあるのかと、底の底まで考えようとすると、紀伊子にはよくわからなかった。とにかく、もはや女中扱いではない。妻でもない。むろん愛人ともいえなかった。むしろ養女の資格では、今後妻にも愛人にもなれぬということだ。だが、ただ深く紀伊子の存在を愛惜する思いだけは伝わってくる。

 八一は昭和八年、東京下落合の初代秋艸堂に紀伊子を迎えるとき、紀伊子の親代りの長姉高橋キミ宛に、「但し来られることになれば、甚だ失礼ながら下女の如きものにて、何の楽しみもなく寂寞せきばくに苦しまるることと存じ候」としるした手紙を、書き送っている。

 十年後の十八年になって、「貴下の御承認のもとに養子縁組の手続きを了したく候間、何卒御同意の上御承諾書当方あて御送付被下度くだされたく候」と正式に請い、理由として、「拙者も相当に老齢に及び居り候こと故」と、自分の達者な間に取り決めておきたいと述べている。

 この請いが容れられて、翌十九年二月に養子縁組の届出がなされ、手続きをおえた。

 むろん紀伊子が持ちかけた話ではないだけに、紀伊子は正式に会津姓になったあとでも、手紙などでやや照れ気味に用いている。

 戦災に遭ったことを親しい佐藤セツに報じる手紙では、

「父……と呼ぶべき人が、もう一ヶ月早く疎開の決心をしてくれましたらと、今更新しくくやまれます。といふのも昨年九月から私が腰と足の骨を脱臼し……そのため衰弱しきつてゐましたため、すつかりおくれたのです。運送屋の交渉や荷造は男の仕事と思ひますけれど、私の家ではそんな事も、やつぱり私が致さなければ事が運ばないのです。(中略)父なる人は、東京に居たかつたらしく」云々と、四五日の差で疎開が遅れたため、家財道具のすべてを焼いてしまったことを悔やんでいる。運送屋との交渉に歩きまわり、荷造りまで全部紀伊子がやらねばならないため、働きすぎて四五日発熱したというのも、むりからぬ話である。

 罹災後、八一の遠い親戚筋の新潟県北蒲原郡中条町の丹呉康平を頼って、はじめは邸内の一室を借りて住んだ。紀伊子はその頃から日記をつけている。

 六月になると、全身に衰弱が現われた。十八日の日記に、つぎのように書かれている。

「今の衰弱状態にては十日の絶食にて完全に死に至る筈故、他人に迷惑をかけるよりもむしろ十日の絶食の方、安意に思はるるも、格別、切実に死のせまり来るとも思へず、心は平坦なり。

 ただ弱り切つた身体にて暑さに向ふ事、想ふだに憂く、いつそ死ぬ方が楽の様にしきりに思はる。生きて弱体に年を重ねてみても、何の楽しみ、何の張合ひもなし」

 淡々と書かれているだけに、その心境がよくうかがわれる。十日も絶食すれば確実に死ぬだろうから、人様に迷惑をかけるよりその方が安易だとも書く。それほど死が襖越しの近さに迫っているのに、格別に切実感もないといいきっている。

 それより、むしろ弱った体力で暑さに向かうことが、現実問題として欝陶しいという。それほどの思いで生きつづけても、「何の楽しみ、何の張合ひもなし」といわれては、介抱する八一も途方に暮れるほかなかろう。

 健康体での三十三歳ならば、人生の充実はむしろこれからというところである。この放心のていは、つまりは衰弱のなすわざで、死の恐怖よりも、死の安楽を願っている。所詮生きられぬことを思えば、さしあたり、夏の耐えがたい暑さが、思うだにやりきれない。

 翌日には、

「夜中、気官(ママ)にもののつまりたる心持にて殆ど不眠、力尽きたる時には、呼吸困難のため死ねる理屈なり」

 と、息苦しさを訴える。

 疎開のとき手伝わなかった八一も、いまはすべて看病中心の生活に切りかえ、大きなからだで息をきらして薪を割り、米を磨ぎ、炊事をして二人の食膳を用意した。

 その後も死についての思いは、しばしば日記に現われる。七月三日頃から、やや字が乱れて読みにくくなる。

「死期近づき廻りの人々が用意し、そのつもりらしきも自分には死ぬ事も死なぬ事も何の心の動きにならず、むしろ戸まどひの型なり。この苦しさまだまだ続くるならば、たつた今にても死にたし」

 と書く。下半身に水腫が現われ、厠にいくにも内腿がすれるほどだった。十貫(三十七・五キロ)程度の体重が、そのため十四貫ぐらいの感じになった。

 

  観音堂での最後の”教え”

 

 この日、午後から観音堂に引越すことになって、リヤカーに敷布団を敷き、横坐りのまま、観音堂の隣りの農家三浦作吉に引いて貰った。三浦夫婦はもと丹呉家に奉公していた律儀な人たちで、引越し後も野菜を売って貰ったりして世話になった。

 八一もリヤカーを七往復させて荷物を運んだ。一日がかりで掃除してくれた観音堂だが、電灯は五ワットの裸電球で、夜になるとわびしさが身にしみた。

 一段落すると、八一は紀伊子の枕元に、重々しく坐りなおして、

「疲れたか」

 と訊いた。うなずく紀伊子の顔には、電灯の暗さもあって衰弱があらわに浮いていた。

「いいにくいことだが、キイ子。覚悟して貰うために、一言、申しきかす」

 紀伊子は、ちらと上目づかいに八一をみて、目をそらした。八一が真剣そのものの表情で見返すので、正視できなかった。

「いいか、キイ子。わたしはキイ子にいつまでも生きていて貰いたい。できるなら、わたしの生命を削ってでもといいたい位だ。だが、人間は、わたしも含めて遅かれ早かれ、いつかは死ななければならない。それは仕方がないことだが、キイ子、死ぬのは恐いか」

 最初はやや口ごもる感じだったが、話し出すとすぐ例の秋艸堂時代の口調になった。さすがに朗々たるひびきはないが、死への心の準備を諄々じゅんじゅんと荘重に説き出した。悲壮な内容ながら、心をつくして説くという思いが、いきいきした調子を支えている。

 紀伊子はいま、重苦しい話をきくと、心に圧迫を受ける。リヤカーで運ばれてきた疲れもある。八一も疲れたはずだから、こんな話は今夜でなくてもよさそうなのに、観音堂へきた第一日ということで、八一は心に決めていたのだろう。病状も予測できぬところへきている。そう思うと、使命感に似た思いが、さきへ延ばそうとする気持の萎えを、奮い立たせたのかもしれない。環境の改まったところで、紀伊子の心から死の恐怖を除いてやらねばならない。同時に死に臨む心得を、真心こめて教えてやらねばならない。それが父たるもの、師たるもののつとめだろうから。

 紀伊子ははじめ、畏まった表情でいちいち返事していたが、疲れたのか、途中で黙ってうなずくだけになった。それも疲れて、目顔でわかったという表情だけを示した。

 さほど長い時間ではない。ちょうど旧幕時代、娘子軍に加わって戦場へ赴く娘に、死の覚悟を訓戒するような感じだった。覚悟さえ決まれば、死は決してこわくない、といいきって、八一は精根尽きたように話をおえた。

「キイ子、疲れたか」

 いうべきことをいいおわると、八一はにわかに紀伊子の表情を案じた。

「わかってくれたか」

 紀伊子の目の光りに、格別の反応は見えず、ただはっきり疲労の隈がうかんでいた。紀伊子は声を出さず、顎だけでうなずいた。

 心の中で、これは八一の最後の口授くじゅのように思った。事実、八一にとっても、紀伊子にきかせる一生一代の肺腑はいふの言だった。だが、なぜか紀伊子は、死について特別な思いがなくなったと同じように、八一の言葉にも深い感動は呼びさまされなかった。

 ここ暫くの短い間だが、紀伊子は病床でじかに死と向かい合い、死となじむ日々を送つている。死を迎える心準備のようなものが、身構えとしてでなく、覚悟という思いつめたものではないながら、自然に少しずつ、身につく感じになっていた。

 八一の説く、死についての心の持ち方の教えは、一般論としてはよく練られており、しかも八一のオリジナリティが加えられて、紀伊子をよく知る立場からの発想に沿った具体論としても説得力を持っていた。しかし、当面全き生の側にいる八一と、死へ向かう紀伊子との間に横たわる立場の相違は、容易に埋めきれそうもなかった。直接の死の当事者でない八一としては、じつに周到に紀伊子の思いに届こうとしているのだが、むろんそれにも限界はあった。自己愛の立場から推し量る究極の限界ともいえそうだった。

 紀伊子は八一の思慮の深さと、立言のみごとさを感じはしたが、疲れた紀伊子の心をつかんでひきずりまわすほどの感動とはならなかった。紀伊子はいままでのように、八一の説くところと一体感を持とうとするだけで疲れた。しまいには、紀伊子をいたわる思いだけが、辛うじてじかに伝わった。生死の問題にかかわらなければ、銘記しておくべき表現はいくつかあったが、いまはそれを記憶にとどめる余裕はなかった。死については、もはや八一から改めて教わるものはなかった。

「わしも疲れた。もう眠りなさい」

 いつもと違って、感動が目の光にうかばない紀伊子の表情に、八一は一瞬、信じられぬ目つきをしたが、すぐ思いなおした。紀伊子は疲れているに違いない。自分の思いの中では、充分手応えがあった。紀伊子は感動したはずだと思った。いいにくい内容だっただけに、精魂を傾けて表現した思いが残り、近来にない緊張のうちに、それを果たしえたという自信はあった。

 

  逝く人よりの挨拶

 

 八一のこの日の日記には、

「七月三日、キイ子衰弱加はる。キイ子心得方につき申しきかす」としるされている。

 これに対して、紀伊子の日記には、八一から申しきかされたことは何も書いていない。内容を書かないだけでなく、そういう大事なことがあったという記事さえも、書きとめられていない。「心得方」という以上、他の話のついでにいうとか、さりげなくほのめかすという話し方でないことは、いうまでもなかろう。しかも「申しきかす」とあるのだから、なおさらのことである。

 ちなみに翌四日の日記にもその記事はなく、

道人どうじん(=秋艸道人=八一)余程疲労らしき、申訳ナシ」

 と、末尾の一行に見えるだけである。

 ここで、秋艸堂の例の九官鳥のことを思い出してみたい。九官鳥はどうしたことか決して八一の口真似をせず、紀伊子の声だけを覚えた。八一はよく、紀伊子を呼ぶのに名をいわず、「コラ、コラ」といった。その声がきこえると紀伊子は、どこにいても「はあい」と高い声で返事した。九官鳥がすぐ、この高く澄んだ返事をおぼえた。

 紀伊子と茶事の相弟子だった料治はなは、その思い出を書いている。

「私はこの九官鳥の”ハイ”の返答に限りないなつかしさと哀しみを覚える。この”ハイ”は、会津先生に仕えて全生涯を先生への献身に終わり、先生をして、歌集『山鳩』を詠ぜしめた、きい子さんの声だからである。美しいひとだった。容姿も声も美しく、それにもまして心の美しいひとであった」

 九官鳥の声に紀伊子の哀しみを聞く、というこの人の言葉が、いま心にしみる。九官鳥は秋艸堂が焼ける前に死んだが、もし生きていて観音堂につれてきたら、憔悴しょうすいした紀伊子のどんな声をまねたろうか。

 紀伊子の日記は七月七日でおわっている。

 筆を投じた翌八日の早朝、紀伊子は気力を振りしぼって寝床の上に起きあがり、むくんだ両膝を揃えて、八一の前に両手をつきながら、今生での礼を述べ、別れの挨拶をした。

 八一に教えられたことではない。死ぬ前になすべきこととして、物がいえる間に深く恩を謝し、けじめの挨拶をしたのである。

 日記のおわりに、

「人々に迷惑をかけ生きる事、心苦しき。年を重ね月日を重ねる毎日に恩になる事のみ多し。果して恩返しが出来るものなりやとひしひしと想ふ」

 と書き、これが絶筆となった。紀伊子はひとりひとり、恩になった人の名をあげて、別れと感謝の言葉を述べ、くれぐれも八一からそれを伝えてくれるよう遺言した。

 この遺言と、正座しての最後の挨拶を思えば、紀伊子は八一の「申しきかす」内容よりはるかに死について深く心得ている。三十三年の生涯は短かいながら、八一の発想の及ばぬところで多くの辛酸を嘗め、八一の自己愛の余燼の思いやりとは無縁な、彼女自身の暦の中で、みごとに成長し、成熟していた。

 八一のこの日の日記には、

「七月八日、早朝、キイ子遺言、下痢あり、イク沼垂ぬつたりへ帰る」

 とある。紀伊子が苦しい息の中で頼んだ恩人の名やそれぞれへの言葉は書いていない。

 イクとは、紀伊子の叔母の高橋イクのことで、七月五日に看護にきたばかりだった。来ると八一が大声で怒鳴ってばかりいるので、いたたまれず沼垂へ帰ってしまった。

「キイ子遺言」のことは友人料治熊太に、

「床上に端坐して、遠近の知己に感謝の伝言を拙者に懇願いたし候。実に感慨に不堪たへず候」

 と、書き送っている。

 紀伊子の命終は、その二日後の十日であった。未明に危篤に陥り、おりから空襲警報のサイレンが鳴り渡った。急ぎ八幡医師を呼び、葡萄糖の注射を打つと、顔面が一変して苦悶の表情となったが、静かに仰臥させているうちにほどなく落ちつき、寝息を立てはじめた。

 折角看護にきてくれた叔母が帰ったあとなので、八一は病状を見守っていたが、朝からの疲れでうとうととまどろんでしまった。

 叔母から様子をきいた沼垂の人たちが、午後四時頃駈けつけたが、その物音で八一が目をさますと、傍に寝ていた紀伊子は、すでにこときれていた。

 

  献身の人の命終

 

 町内の西条の寺の僧は出征中で、代りに十二三歳の尼姿の雛僧が現われ、たどたどしい声で枕経をあげた。火葬には近隣の人々が柩をのせた車を引き、町長の丹呉康平や三浦作吉が付き添ってくれた。翌日の骨拾いは、八一ひとりだった。葬式は営まなかった。

 丹呉家では当主の康平、息子の協平が八一に母屋へ戻るようすすめたが、八一はがえんぜず、観音堂にとどまった。

 五月から八月頃まで、このあたりは山鳩が多い。朝昼となくその声がきこえる。八一は壁に吊るした紀伊子の形見の着物に向かい、よく独り言を呟いていた。

 朝晩、心をこめて観音経をあげ、般若心経の写経をつづけた。

 まだ蝉の声がきこえる夏の夕暮れ、丹呉家の長男協平が観音堂の脇を通ると、軒先に佇む向こうむきの男の姿が見えた。近寄ると八一だった。暫く会わなかったので、つい、

「先生……」

 と、なつかしげに声をかけて、協平は絶句した。振り向いた八一は短い単衣を着て、面変りするほど憔悴しきっていた。その顔が涙でぬれ、眼鏡まで曇っていた。

「お墓詣りですか」

 と、八一は協平にかすれた声でいい、ぬれた顔のまま、眩しそうに夕日を仰いだ。

 丹呉家の墓が、堂の裏にある。墓地の木立でひぐらしが鳴き出し、その声は傍人の協平の胸をもえぐった。協平は丁寧に頭を下げて、きびすを返した。それから秋の深まる十月まで、八一の孤影が堂を出るのを見かけなかった。

 この期間に八一の詠んだ歌が「山鳩」二十一首である。歌集『山鳩』と題して、この年十二月、増田徳兵衛によって刊行された。

 

わが ため に ひとよ の ちから つくしたる なが たま の を に なかざらめ や も

 

 病篤くなって、紀伊子は八一に、自分の一生は何だったのか、と問うている。八一は秋艸堂時代を回顧して、

「蘭の鉢が多くて水をやるのに骨が折れるとか、客が多くて困るとか、飯を食う暇も無いとか、不平が多かりしも、弱き身体としては、もつともな不平なりしと今にしてつくづく思ひ候。(中略)きい子はその応援のために奔走せしめられたるのみにて、一生何の意義の無かりしことを、危篤になつてから嘗て申し候。もつともと存じ候」

 と、大鹿卓宛の手紙にしるしている。まこと、「汝が玉の緒に泣かざらめやも」の思いだったに違いない。

 

いたづき の われ を まもる と かよわ なる なが うつせみ を つくしたる らし

 

 戦争中、八一もまた糖尿病その他を併発して、紀伊子から献身的な介護を受けた。「汝が現身を尽くしたるらし」と、八一はそのおりのことを、いましみじみと回顧する。

 だが、やはり思いは、観音堂での起き伏しに戻ってくる。

 

やまばと の とよもす やど の しづもり に なれは も ゆく か ねむるごとく に

 

 山鳩の声は、おそらく臨終のときまで、紀伊子の耳朶じだに届いていたはずである。

 

あひ しれる ひと なき さと に やみ ふして いくひ きき けむ やまばと の こゑ

 

 知人の全くいないところで病み臥す心細さは、女の身にとっては、ひとしお切なかったであろう。

 いま、その人はいない、となげいて、つぎの歌を詠んでいる。

 

やまばと は き なき とよもす ひねもす を ききて ねむれる ひと も あら なく に

 

 なれぬ炊事も水仕事も、紀伊子と二人ならばこそ、まだ張り合いがあった。

 

このごろ の わが くりやべ の つたなさ を なれいづく に か みつつ なげかむ

 

 晩秋十月二十六日、八一はようやく丹呉邸へ戻った。丹呉協平の「会津八一回想——知られざる西条疎開の一面」には、紀伊子絶命のおりの様子が、つぶさにしるされている。

「思えばキイ子には自分の青春はなかった。養父の学者生活芸術生活に生涯を捧げ尽して病を得、しかも療養も出来ず知る人とてない越後の辺地で、しかも、臨終に際してさえ養父に見守られることもなく独りで死んでいったのである」

 と、命終がひとりだったことを強調する。

「この日午後、臨終に臨み、苦しみに声も出ず、渾身の最後の力をふりしぼって、側の八一のねむりをさまそうとしたのにちがいない。物音にめざめたときは、手を八一の側にまでのばして事切れていたのである。このことを八一は声を低くして私に語った」

 八一の眠るそばまで、紀伊子は手をのばしていたのだ。その手をつよく握りしめてやったら、紀伊子はどんなに嬉しかっただろう。

 

──季刊「銀花」平成一年夏号── 

 

 

  正宗白鳥 ――その沈黙の死──

 

 そのとき正宗白鳥は、飯田橋の日本医大病院の外科病棟五一五号室に、一人きりで寝ていた。昭和三十七年十月二十四日のことである。つね夫人と看護婦は、シーツとふとんカバーを抱えて四階の洗濯室へ下り、まだ戻ってこない。

 絶食五日目を迎え、八十三歳の白鳥は、小柄な身体が一まわり小さくなり、ひと目でガン患者とわかる痩せ方だった。八月二十七日入院、九月五日に開腹手術を受けている。

 ガンは膵臓頭部に、鶏卵状の硬い腫脹として発見された。胆嚢と総胆管が脹れて放置できぬので、胆嚢と胃の吻合ふんごう手術をほどこした。手術後の経過は良好だったが、九月下旬から食欲不振に陥り、目に見えて衰弱が加わった。

 つね夫人は、外科部長斉藤溟に「骸骨のように、すっかり痩せてきました。何とかして下さい」と嘆願し、「忠夫(白鳥の本名)の生命をかけても手術できないでしょうか。どうせ死ぬなら、手術していただきたいのです」と、回診のたびに迫った。斉藤は夫人の気持を察しながらも、

「それはできない。膵臓を切って生きていろというのは、あなたの首をちょん切って、それでも生きろというのと同じですよ」

と、しまいには真顔になって、夫人の説得に手古ずった。

 白鳥自身は、むろんガンとは知らされないが、食事がつらく、「わしは死ぬのだから、食べないでよろしい」と、頑固に流動食も拒否した。「わしの父は、手術をせずに餓死した」と、同じ話を繰返したが、小声でききとりにくい上、少し舌がもつれてきた。

 その父は昭和九年、八十四歳で亡くなっている。白鳥は「今年の春」を書いて、臨終の様子をつぎのように伝えている。

 

     *

「人間は七八十までも生きてれば、枯木が折れるやうに楽に死ねるのかと思つてゐたら、さうぢやないんだね」

 一郎は、老病父の生の苦、死の苦を想像して、それが万人の苦であると感じた。かういふ場合に。うまく発明された宗教の阿片も、この老病父には何の効果もなかつた。

 口を利くに困難を覚え出した病人は、指の先で空中に字を書いて、看護人に自分の心中を発表するやうになつた。

「シニタイ」「シネヌ」

 死人の手の如くなつてゐる両手を、目の前に並べて、病人は見入つた。

「もう身体中に水気がなくなつた」と、微かな声で云つた。その言葉通りに、身体中がカサカサしてゐた。だが、最後の血の一滴が消費されるまで頭脳は働いてゐるやうだつた。

     *

 

 白鳥五十五歳のおりの文章である。

 外科病棟五階に横たわる白鳥に、つね夫人はキリスト教の信仰が訪れることを願っていた。「病床日誌」十月八日の項に、

「神様、忠夫の命を取りとめ、長くとは言いませぬが、御心ならば生かして下さい。必ず神様を信じます。今はあなた様のみ。今は絶体絶命の時、忠夫に信仰を持たせますよう、全身全霊をもってあなた様の御慈悲をたれて下さい」と、敬虔なクリスチャンの願いをしるした。

 つね夫人は二、三年前から、渋谷のバイブル・クラスの集会に通っていた。白鳥は帰りが夜になるのを心配し、最寄りの大岡山駅まで、その都度迎えに行った。雨のときも、身体具合の悪いときも欠かさなかった。顔を見られるのを避けるように踏切近くに佇み、夫人が改札を出るところを見計らって近寄り、先に立って歩いた。歩き出すと、せかせかと足早だった。

 十月十一日、つねは深沢七郎に来て貰って柏木教会の植村環牧師を訪問し、万一のときのことを頼んだ。『楢山節考』のこの作家は白鳥の信頼が厚い。環女史は快諾して、翌日から毎日のように白鳥の病室を訪れ、讃美歌をうたい、聖書の話をした。若い頃、その父の植村正久から洗礼を受けた白鳥は、その後棄教していたが、環女史の来訪を押しつけとは思わぬらしく、黙って静かにきいていた。この人には前にも会っているので、別に抵抗は感じなかった。三十七年五月の東京新聞につぎのように書いている。

 

     *

 復活節間近い或日、キリスト教の社会に重きをなしてゐる老婦人U(註・植村環)さんが来訪された。この婦人主宰の教会へは、最近一度立寄つたのであつたが、それはこのごろ知人が相継いで逝去し、その葬儀に参列したことから、自分が死んだら、どんな葬儀が営まるべきかを考慮したためであつた。

     *

 

 白鳥夫妻はさらに八月、軽井沢の教会にも出かけている。先の文章はつぎのようにつづく。

 

     *

 老婦人Uさんの風貌に接してゐると、故先生(註・植村正久)の面影がまざまざと浮んで来た。その時私の家に居合はせた数人を前にして、数篇の讃美歌が唱へられたが、その一つは「これは父の愛唱してゐた歌です」とUさんは特にそれに重きを置かれた。キリストに依る永遠の生命が朗かに歌はれてゐるのであつた。

 それを聴いてゐると、故先生が愛嬢Uさんに命じて死の影に襲はれんとしてゐる老いたる私の所へ行つて、永遠の光を示さうとされたのだと、私は感じた。私は独歩の事を思ひ出した。簡単に直言すると「あなたのお葬式は私がお引受けします」と、婦人Uさんは無言のうちに、私達に伝へてゐるらしく私は感じた。

     *

 

 長い引用になったが、こういう前提があってのことである。つね夫人が洗礼を受けたのは戦争直前のことで、むろん白鳥がすすめたわけではない。「この人(つね夫人)は、いつのまにかクリスチャンになつた」と、白鳥は環女史に話している。

 つね夫人は、のちに月刊「キリスト」三十八年三月号で、「それから、わたし、伝道をはじめました。ひとりで軽井沢ぢゅう……」と語っている。

 白鳥が、「私は独歩の事を思ひ出した」というのは、つぎのようなことである。これも白鳥自身の筆で紹介しよう。

 

     *

 国木田独歩は茅ヶ崎の病院で、病状が重態に陥り、死の恐怖に襲はれてゐたらしく、青年時代にキリストの道を教へられてゐた植村正久先生を招いて慰めの言葉を授けられようと熱望した。

 先生は招きに応じて訪問して、ただ「祈れ」と勧告した。神に祈れ、心を尽して祈れ、祈れば救はれると云つて、共に祈らんとした。しかし、独歩は、「どうしても祈れない」と云つて、哭泣したさうだ。(私か。私も多分祈れまい)

     *

 

「文藝春秋」(昭和)二十九年六月号の「欲望は死より強し」から引いた。最後に括弧して、「私か。私も多分祈れまい」と付言していることに注目したい。

 

 つね夫人は「病床日誌」の十月十二日の項に、白鳥が環女史の話をきいて、「『正久先生の説教のように思われる』と耳を傾けて聞き、あるときは、先生の腕をぎゅっと握って御礼の表現を示した」と、しるしている。しかし、白鳥にも、信仰をそのままうべなうにはためらいの念もあった。翌日の言葉として、「わしは、すべてを捨ててキリスト教につくほど大量ある人間じゃない」と、つね夫人に述べたくだりが見える。「大量」は、大度量の意味だろう。まだすべてを捨てるには、こだわりがあるようだった。

 三十三年、七十九歳のおり、「毎日宗教講座」に書いた「生きるといふこと」には、つぎのような考え方が示されている。

 

     *

 私はキリスト教を苛烈な宗教だといつの間にか思ふやうになつてゐた。殉教をしひられてゐることに気づくやうになつた。(中略)しかし、私の本性として、殉教にしりごみし、かつ人類愛よりも人類憎に向つて心を動かすことに気づくと、もはやキリスト教信者顔をしてゐられないのである。

 殉教といふのは、理論的殉教ではなく、遊戯的殉教ではなく、佳辞麗句で装つた殉教ではなく、実際に十字架にかかることなのだ。

 私は高名な牧師の説教をきいても、「あんなことを云つて」と嘲笑するやうになつた。そして、私自身のなまやさしい信仰なんか、なんの力があらんかと思ふやうになつた。「求めよ、さらば与へられん。門を叩けよ、さらば開かれん」なんかもそらごとと感ぜられだした。キリスト教は苛烈な教へである。

     *

 

 つづめていえば、キリスト教は、殉教を強いる教えといってよかろう。甘い言葉で愛を説くような、口当りのよい宗教ではない。美辞麗句で語られるものでなく、「実際に十字架にかかることなのだ」と、断じている。この認識に、白鳥の本領があるといってよい。

 しかし、一面「私自身のなまやさしい信仰なんか」と、程度や質の差はともあれ、信仰自体は持っていると解される一節もある。一旦は棄教しながら、否定と回心の間を揺れ動くところが、垣間見られるのだ。つづいて

 

     *

 私一個としては、キリスト教は苛烈な教へであり、その教へに自分の耐へられることでないと早くから気づいて、その感じは、現世生存の風雨にもまれながらも、そのままに今まで続けられてゐるのである。そして、宗教理論書は読まなくても、聖書そのものはをりをり読んでゐるが、われらの主なるキリストといつた信頼感だけは心に動いてゐるのだから不思議である。

     *

 

と、ありのままに述懐する。さらに、徳川時代の切支丹迫害のことに筆が及んで、つぎのように書く。

 

     *

 日本においても、徳川時代に切支丹迫害があり、ナチスのユダヤ人虐殺にも劣らぬほどの残酷きはまる現象が出現したのであつた。人間の想像しうる限りのむごい仕打を信者の身に注ぐのである。

 私は迫害史を読みながら、信者はなぜ転向しないかと、じれつたい思ひをするのである。なぜ転向をよそほつて無法な迫害を免れないのかと疑ふのである。

     *

 

 この率直な感想は、おそらく誰もが抱くところだろう。「転向をよそほつて」は、神への貞操や尽忠を表面上は失うかに見えながら、本心は別にあるとする考え方である。いきなり生命を捨てたりせず、一時の屈辱はしのいでも、気永に隠して信仰心を持続するのだ。

 

     *

 微温的の隣人愛、人ぎきのいい人類愛、かういふことだけが主要であるのなら、キリスト教でなくても外の宗教でもいいし、中小学の教師の説くやうなありふれた道徳訓でもいいわけで、なにもことごとしく十字架をかつぎだす必要はないのではあるまいか。

     *

 

 巷間よく見かける安易な伝道者への批判もこめられていよう。その人達は盲信的に神の愛を説き、自信ありげに説教しながら、殉教を強いるキリスト教の本質に気づいてはいない。殉教とはそれ自体、信者に対して迫害の要素となりかねぬ恐怖の側面なのである。

 

     *

 私は西洋旅行中、宗教絵をいろいろ見てどれもどれも綺麗だと思つた。聖母マリアの容貌などには珠玉のやうなのが多い。殉教者の残酷な絵も絵としておもしろかつたが、これらも要するに美術であり、絵そらごとであり、遊びである。宗教の峻厳なる現実は綺麗ごとではないのではあるまいか。

     *

 

 これが、「生きるといふこと」の終章である。長い引用になったが、白鳥のキリスト教観がよく出ているので、あえて紹介した。痛烈な批判の一面を持ちながら、内部からキリスト教を眺める目を留保している。一概に信仰を否定するのでなく、条件さえ満たされれば、「私自身のなまやさしい信仰」も、なまやさしくはなくなり得るのである。

 そういう揺れを見せながら、十月二十一日には、「わしは死ぬのだから、食べないでよろしい」と、呟く。「声小さくて聞きとれず」と、つね夫人が註記する。

 

 そして、冒頭の十月二十四日を迎える。つね夫人が、看護婦とともに、四階の洗濯室へ下りた場面である。

 絶食つづきで、白鳥は浅い嗜眠しみん状態にあった。しかし、ふと気づくと、個室にひとり取り残されたさびしさが、心の底から湧いてくる。すぐ戻るはずなのはわかっているが、このひとときの耐えがたさは、いかんともしがたい。このまま意識がうすれて、戻ってくるまでの間に、取り返しのつかぬことが起こりはしまいか。ともかく、ひとりのままで放置されてはたまらない。

 耳を澄ましても、階下の洗濯室の話し声や物音が、きこえるわけはない。しだいに耐えがたい寂寥感が、胸をしめつけてくる。居ても立ってもいられぬ孤独の思いである。もはや一刻も、このままじっとしていられなくなってくる。ひとりでいる間に、二度と戻れぬところへ引きずり込まれてしまいそうな不安が耐えられない。ともあれ、このままとてもじっと待っていられない。ベッドを這い下りる非常手段をとっても、何としても二人に連絡をとって、戻って貰わねばならない。

 そう思いつめても、絶食状態がつづいたために、いざとなるとベッドから起き上る力が出なかった。懸命に気力を振りしぼって、寝たままベッドの片隅まで身体をずらすことができた。そこからベッドを滑り下りることがどんなに無暴な試みか、もはや顧る余裕がなかった。下りる決心をするだけでも、非常な勇気が要るはずだが、ためらっていられない。床を見下ろすと、まるで谷底を覗きこむような思いで、目まいを感じそうだった。

 乗りだすような上半身を両腕で支え、腹這いのまま、持ち前の用心深さで、下半身を両膝で送ろうとした。だが、両足は萎えたように力が入らなかった。このままでは、前のめりにバランスを失ってしまう。とっさに危険を感じたが、もはや対応は手遅れだった。つぎの瞬間、白鳥はもののみごとに、頭からベッドを転落していた。

 看護婦とつね夫人が病室に戻ったのは、その直後だった。扉を開けると、とば口のところに、つんのめる形で昏倒している白鳥を見つけて、おどろきの声をあげた。隣室の看護婦の手を借りて、白鳥を抱き起こし、急いで白鳥を寝台に抱えあげた。

 白鳥はやや膝を曲げ加減に、目を閉じたまま、一語も発しなかった。息づかいはやや荒いが、意識は失っていない。落ちたときベッドの角にでも当ったのか、下顎から血が出ていた。片頬もどこかにぶつけたらしく、脹れあがっている。主治医がすぐかけつけた。

「あなたは、気はしっかりしていても、足はまるで駄目だから、もう一人で起きてはいけませんよ」

 傷の手当てをしながら、医師はたしなめるようにいった。白鳥は瞑目したままだった。

 つね夫人は「病床日誌」に、「痛まし。申訳なし」としるし、「私達を追い探して、廊下までよろめきながら這い出たものか」と、白鳥のそのおりの心境を推しはかっている。

 それにつけても、思い合わされるのは「今年の初夏」として、昭和十八年に書かれた老い母の垂死の姿である。八十を越えた母が、故郷の家で、独居の淋しさに耐えかねて、白鳥と同じような行動に及んでいる。

 

     *

 逝去前の或日、女中が、穀物倉の掃除に取掛つたが、暇にまかせて、遊び半分で、どうでもいいやうな整理をして愚図々々してゐると、母は、独居の淋しさに堪へられなかつたのか、用事もないのに女中の名を呼んだが、幾ら呼んでも返事のないのをもどかしがつて、力の抜けた足を引摺つて縁側を下りて、地べたをひながら、倉庫の前の石段に辿りついたが、石段の途中で力が尽きて打倒れたまま身動きしなくなつた。暫くしてそれを見つけた女中が、抱起して寝床に連れて来た時には、殆んど虫の息であつたさうだ。

     *

 

 これを書いたとき、白鳥は六十四歳だが、ベッドから這い下りようとして昏倒した八十三歳の白鳥は、このおりの老い母の姿と、そのまま重なってくる。「力の抜けた足を引摺つて」は白鳥も同じ状態で、「途中で力が尽きて打倒れたまま身動きしなくなつた」は、白鳥自身のこのときの姿を、みずから描いたかのごとくである。

 老い母は蒲団を脱け出して、畳から縁側へ這い出すまでは、時間と根気をかけて無事に運んだが、縁側から地面へ下りる段になって、非常な困難を覚えただろう。沓脱くつぬぎ石にでも取り縋って、どうにか転ばずにすんだかも知れないが、あるいはここで一度、転倒したかもしれぬ。もし病院のベッドだったら、白鳥と同じように、転落は免れなかったろう。

 地面を這って、全身を泥だらけにしたまま、倉庫の石段に辿りつき、そこを這いのぼる途中で精も根も尽き果て、昏倒したのだろう。女中が老い母を置きざりに部屋を出てから、かなり時間も経っていたはずだ。「暇にまかせて、遊び半分で、どうでもいいやうな整理をして愚図々々して」いたから、年寄りは独居の淋しさに堪えられなくなったのである。

 老病の床にいる独りの時間が、どれほど耐えがたいものか、白鳥は自身で体験してみて、しみじみ味わったはずである。ただしかし、このときすでに白鳥は筆を投じてしまっており、その心境の真相は、ついに書かれずじまいになってしまった。

 その翌日の二十五日には、何かいいだしたが、途中でロレツがまわらなくなった。つね夫人が板の上に紙をのせ、鉛筆を渡すと、白鳥は辛うじて字を書く仕草をしたが、書かれたものを見ると字の体をなさず、横文字のようにギザギザに鉛筆の先が走っただけで、一字も読めなかった。ものを書く能力は、白鳥からもはや永遠に失われてしまった。

 ただ、夫人をひとりで世にのこすことが気がかりらしく、よく面倒を見てくれる看護婦に、「お人好しで、だまされやすいから駄目だ」という意味のことを告げて、しきりに案じる風だった。

 二十六日は、「眼ふさぎ、もの言わず、絶食がつづく」と、悲痛な表現が並ぶ。

 二十七日には、斉藤部長と、医局員三人の回診があった。戻りかけて、斉藤は夫人の背を軽く叩きながら、病人の様子が変ってきたから、目を離さぬように、と注意した。

「一時間ほど経って、又、部長先生と田中主治医が来る。田中先生の注射針通らず。何度か試みてやっと通る。夜、看護婦と二人で徹夜。十二時より私寝る。祈る。どうぞ私の眠っているうちに死なないように」

 明ければ二十八日、十月もあとわずかだが、一刻一刻が息づまるように過ぎて、明日のことを考えるどころでない。「病床日誌」の記録を辿ろう。

「四時、目をさます。のどぼとけが呼吸のために上下するのを見つめる。口、非常に臭し。綿を箸の先につけ、それを水に浸して口中を洗う。洗うのに痰がつまると窒息し、それぎりになる故、どうかして口中のものを綿で取ろうと努力する。そのうち、胃よりチョコレート色の汚物を吐く」

 本人にとっては、記されるのも耐えがたいことばかりだが、誰もよけて通れることでないだけに、他人ひとごとならぬ思いで読むほかない。七時には、近親者へ連絡すべき旨の指示が出る。

「八時になっても依然重態。九時半より口を開けて苦しそうに判らぬことばを言いながら何か手で私を探す。下顎呼吸、チアノーゼ(血管障害)。心臓からはなれた血管が障害され、血がまわらない。手、足、顔の皮膚の色がまっ黒になる。下顎呼吸の度数が漸次減る。五男氏が、病人が私を呼んでいるようだと言う。『つねです、私です』と手をさすり、脈搏を見る。弱し。頭をさすりしも呼吸が減じ、ついに息絶える。午前十一時。この人は死んでしまった」

 一年前に、二人分縫っておいた死装束を、湯灌後の亡きがらに着せた。

「五十一年、私を思って下さった方は、私を離れ、今は全く息をすることはないのか。死の装束を、私のと二人分とも着せ、顔に白布をのせてすべてが終る。人は死ぬべき運命、死はまぬがれない」

 この呟きともつかぬ夫人の言葉も、この状況の中で読むと、惻々と胸をうつ。明治生まれの老夫婦にとって、「五十一年、私を思って下さった方」と書くくだりは、切実な別れの言葉として心にひびく。

 

 本多秋五は、「正宗白鳥の死」の中で「私が聖書の文句(植村女史は具体的にそれを二か所あげた)を朗読すると、正宗さんは『アーメン』といわれた。……それから、あなたはキリストを信じますか、とお尋ねすると、信じます、といわれた」と、書いている。

 つね夫人の前記「キリスト」三月号によれば、「なくなる前『自分はなるほど悪いことをしたから、裸かになって十字架のあがないを信じて、これからキリストに抱かれて、神さまのもとにいく』と申しました」とあり、その臨終から遡って二週間内のいつか、信仰告白がなされたことはたしかであろう。

 本多秋五を別にすれば、つね夫人、環女史と、証言者がいずれもクリスチャンであることが気になるが、宗教者がややもすると我田引水になりがちなことを割引いても、白鳥が死に臨んで、ひとしお素直な気持になったことは疑うことができない。

 つね夫人を遺して死ぬことに、最後まで気づかったことを見ても、夫人に合意する形で白鳥が「アーメン」と唱えたり、キリストを信ずると告げた心境も、肯けるのである。

 高齢の病者を個室に独りにしておくときの事故は多く、ベッドから転落して死に至った例も少なくない。高齢ではないが、石田波郷(=俳人)の場合も、看護婦の目の届かない空白時間中にベッドから落ち、額に傷を負って息絶える寸前に発見されている。どんな僅かな時間でも、独居の耐えがたさは、想像を絶するものがありそうである。

 

 白鳥は、死について、トルストイの『イヴァン・イリイッチの死』にふれながら、

 

     *

 読んで、それは故事つけだと思はせるのは、トルストイの筆をもつてしてもまだ至らぬところがあると云つていいかも知れない。トルストイなどに於て、小説も極致に達してゐると我々は思つてゐたが、それより上、それより先がまだありさうである。私は、ますます老境に進んでゐるため、『イリイッチの死』の如き作品にしみじみ心を惹かれるのであるが、つまりは、世界のどんな作家だつて、真に徹して死を見極める事は出来ないのだ。

     *

 

 と、七十二歳のときしるしている。たとえトルストイを凌ぐ作家が出現しても、死の真相を真に迫って書くことはできないとする。それにつけて、白鳥のつぎの文章も忘れ難い。

     *

 

 田山花袋は、あらゆる点で人間の検討をしようと志してゐたので、死についても、自分が死に臨んでも、死に赴く気持を検討したいと云つてゐた。

 島崎藤村が瀕死の床にゐた花袋を見舞ひに行つた時、「死ぬる気持はどんなだ」と訊ねたとかで、それは残酷な質問だと噂されてゐたが、花袋もかねての志の如く、自分の死を冷静に、有るがままに検討してゐたであらうか。私はそれを疑ふ。肉体の苦しみもあつたであらうし、死の恐怖に襲はれてゐたのではあるまいか。

     *

 

 死にゆく人の枕辺で、「死ぬる気持はどんなだ」と訊くのは不謹慎であろうし、聞かれて答えられるとも思われない。そのことは白鳥自身、死の間際に体験して知ったはずだが、すでにそれを書くべき筆を持たなかった。白鳥はたしかにその世界を覗きかけたが、死の秘密はそのまま持って、あの世へ旅立ってしまったのである。

 

 外科部長斉藤溟の「診療記録」は、文学には全くの門外漢とことわりながら、白鳥の人間の真相に迫るところがあって興味深い。

 十月十三日の所見では、

「軽度の上腹部痛を訴う。膵癌による激痛の始めかと思われる。鎮痛剤と精神安定剤の使用を開始す」

と、書かれている。死のほぼ二週間前で、さりげなく「激痛の始めか」とあるのが、不気味でおそろしい。ガン末期の激痛は正視に耐えがたく、孤独の強迫観念などと違って肉体上の責苦であるだけに、これが始まるといかんともなしがたい。

 十四日の項は、

「『食事の時間がくると死にたくなる』という。舌が多少もつれる」

と、しるされる。ガンの進捗しんちょく状態が、克明に観察されているのだ。

 二十八日の臨終については、

「早朝から体温上昇、しかし平静。一〇時五五分呼吸停止、一時心停止」と、簡潔に記録されたにとどまる。

 日常の起居や性癖など、観察が行届いていることはおどろくばかりである。たとえば元気な頃は、

「毎朝五時になると病院の外へ散歩に出かけるのだが、ねるときには明朝のために洋服を枕元に揃えておくという用意周到の癖がある」

と、書かれており、明治十二年生まれの白鳥の用心深さが彷彿とされる。戦時中は空襲警報が鳴ると、防空壕に避難せねばならぬため、停電でも身支度ができるように、寝るとき枕元に防空頭巾や着衣一束を用意する習慣があった。律儀な白鳥は、その癖も身についていたかもしれない。

「入院して来られる偉い方々には誰の眼にも偉いところがはっきりとわかるものであるが、この患者にはどうみても偉いところはみられなかった。高ぶったところは少しもない。腹をたてたなと思えたことは一度もなかった。われわれの医療行為にはどんなときでも協力的であって、細い肱をのばして注射を受けていた姿は痛々しく思い出される」

 このくだりも、白鳥の人柄がそのまま現われている。

 つね夫人の「病床日誌」では、

「回診の折、部長先生言う。『栄養は入っているから、よく吸収されたら助かり、吸収されねば駄目なのです。皮膚に弾力があるから大丈夫です』。あとで忠夫は呟いていた。『ウソをつけ。手術をして好成績といっても、おれは痩せてゆくばかりだ。何か死病を持って死ぬのだ。この手を見ろ』と」

 十月二十三日の項である。「ふだんから、病気に対しては医師にきわめて従順で、痛い注射でも何でも素直に従っていた」と、他のくだりでも書いているとおり、「ウソをつけ」と内心思っても、態度には出さなかった。

「奥さんには大声で『あほう』と怒鳴っているのを聞くことがあったが、『これの先に死ぬのはつらい』『誰かよい相談相手を見付けなさい』と云っていたと付添看護婦から聞いた」

 これなども、白鳥の日常生活が目にうかぶ場面である。明治男は何かにつけて、「あほう」と細君をどなるのだ。いわれる方も馴れているので、人権無視とか侮辱されたという意識は持たない。むろん口でいうほど、馬鹿にしているわけではない。

「清潔感。これは甚だ乏しいようである。約六〇日の入院の間に多くの日本人のように入浴を希望される様子は少しもなかった。入浴の記録は二回しかない。(中略)冷い汚れたタイルの床の上にぺたんと坐って電話に聞きいっている姿を見かけたこともしばしばであった。また便所へははだしで飛んでゆくのも常である。全くこだわらぬ人である」

この一節にも、白鳥の面目躍如たるものがある。床のタイルにじかに坐ったり、はだしで便所へかけだす白鳥の姿が、眼前にうかんでくる。

 つぎに、注目すべき綜合所見がある。

「多くの屍体を見て来たわれわれとても様々な感慨がその都度湧いてくる。ただただ悲歎を主調としたものばかりではない。病悩から解放された安堵感、業なりなすべきことをなし終えた満足感や空白感、不運をかこつ割り切れないもの等々、人それぞれに新鮮な感慨にうたれるのである」

 いきなり「屍体」という言葉をつきつけられて、いささかたじろぐ思いがするが、その屍体を前にさまざまな感慨に耽るあたり、やはり餅は餅屋であって、その見るところは一律の無常感でなく、個のそれぞれの人生に対面している。職業の専門に徹した洞察力は、おのずから屍体を通じて、人生の真相に迫るものがある。白鳥の場合はどうか。

「さてこの屍体を前にして思うことは不思議と何もない。無理な強靱も、努めた明晰も、てらった懐疑も、どうにもならない孤独感も何もない。また偉いとか、不潔とか、かたくなとかいう一切の言葉も当てはまらない。身分の上下、貧富の差を問わず、このように平静そのものを感じさせる屍体は滅多にあるものではない。永遠に生きている屍体とはこんなときに云えるのである」

 読みすすむうちに、当初の文学に疎遠という筆者への認識はしだいに改まり、そのアプローチの仕方が文学的探求に酷似してくることを感じさせる。「さてこの屍体を前にして」と書きはじめるあたり、生前の虚名や定説となった世間の評判だけを問題にする一般的評価とは別に、屍体のふんいきや表情から独特の洞察を下そうとするこの人の自信のほどが窺われる。数をこなすことで冴えてくる勘も、実証的に働くのである。「思うことは不思議と何もない」という観察は、執念も執着心も一切痕跡をとどめていないからだろう。

「このように平静そのものを感じさせる屍体は滅多にあるものではない」という評言は、屍体を専門的に眺めてきたこの人にして、はじめていえる言葉ではあるまいか。白鳥の人柄はもとより、その文学の本質までもある意味で見抜いている。試みにこのくだりの「屍体」を「文学」もしくは「白鳥の文学」と置き替えて読み直せば、そのことは納得できよう。「永遠に生きている屍体」という表現には、いくらかはなむけの賞め言葉の思いがあろうが、「平静そのもの」は、白鳥の日常の姿でもあり、その文学にも無用の虚飾はない。むろん文章表現にも、文飾は好まなかった。

 白鳥が筆を投じてからの沈黙は、文学的な表現行為の上での沈黙だが、視点を変えれば、生前死後を問わず、白鳥の文学そのものの本質をつらぬく姿勢にほかならない。その沈黙の姿は、死を経験した上での「平静そのものを感じさせ」「永遠に生きている屍体」として、一ベテラン外科医の目にとらえられる。むろん読者はその見方を信用しなくてもいいのだが、解明の手がかりにはなろう。斉藤溟は末尾で、「この有名人についてはただの行きずりの一職人(切り屋)の眼にうつっただけのものを書いてみたにすぎない」と、謙辞を付け加えるが、外科医の執刀の冴えは、幾重にもみごとというほかなさそうである。 

     

     ──季刊「銀花」平成三年夏号──