塔のある町で

 シエナからその町まで、長距離バスでどのくらいかかるのだろう。

 どのくらいかかるのか、私にはわからない。

 とにかく、その町には塔が十三基ほど聳え立っていて、それこそ、町そのものが中世そのまま、住む人たちも数百人を数えるくらいで、ひっそりと山の上に暮らしているのだと云う。

 そんな町が、はたしてあるのか。本当に存在するのか。

 私は、まずそのことを疑った。

 ――あなた、ボッシボンシという村でバスを乗り換えるのよ。

 薄茶のサングラスをかけ、大きな日よけの帽子を被った妻が、長距離バスを待つ乗客の列に付きながら、私に云う。

 ――うん、わかっている。

 ――ボッシボンシという村、小さな村だそうだから、よく注意していないと、乗り越してしまうかも知れないわよ。

 妻の云う通り、私たちはその国の言葉を何一つ知らない。

 ボッシボンシにバスが着いた時、どう云ってバスを降ろして貰えばいいのか。その塔の町へのバスの乗り換えは、どうすればいいのか。いや、そのボッシボンシまで、どのくらいバスに揺られていかなければならないのか。

 私たちの後ろに、バスを待つ長い列が出来る。土地の人たちも混じっている。土地の人たちは、みなグループになって互いに肩を叩き合い、笑い合いながら、声高に話を交わしている。ネッカチーフを被って、籠を抱く老婆。ベレー帽にジャンパー姿の、腰の曲がった老人が杖を握り締めて、バスを待ちあぐんでいる。バス発着所前の石畳の広場では、音楽が鳴っている。コーヒーやジュースを売るスタンドが立ち並んでいる。若者たちの人だかりが出来ている。赤や青、緑、黄の縞模様の日よけのパラソルが広場を鮮やかに彩っている。

 私たちは、昨夜、シエナの小さいホテルに泊まった。

 ホテルのロビーで日本人のガイドに出会った。ガイドは、がっしりとした体躯で、口ひげをのばし、眼の大きな、頬骨の張った、すぐに日本人とわかる顔付きの男だった。

 ――こんばんは。

 と、男は云った。

 両腕を開いて、肩をすくめて見せる仕草をし、ちょっと照れた。

 ――今晩は。

 私たちも云った。

 ――お邪魔していいですか。

 ――どうぞ、どうぞ。

 妻と私は、テーブルの上にガイドブックを広げ、明日の予定を思案している最中だった。フィレンツェのホテルにツアーで二泊の予定がしてある。もう一日、シエナを見て廻るか、それとも、長距離バスでフィレンツェに直行するか、私たちはそれを決めあぐねていた。

 ――明日のご準備ですか。なかなか大変ですね。

 男が云った。

 ――いや、私たちのは、ほんのちょっとした旅ですから。

 私たちは、シエナの町を一日じゅう歩き廻り、夕食を済ませてホテルに戻ったばかりだった。妻も私もワインで、顔を真っ赤にしていた。

 ――じゃ、シエナの町は、今日、ご覧になったんですね。シエナはいつ来ても本当にいい町です。中世が生きている町ですからね。カンポ広場やププリコ宮、商工会議所、ドゥオモ、チッタ通り、長い、曲がりくねった路地など、みんなご覧になったでしょう。シエナは歩けば歩くほど、見れば見るほど、大変な中世の町ですよ。一日や二日では、とても歩き切れません。それに、中世の都市と農村が集合した、所謂、トスカーナ地方特有の風景が見事に残っています。私も二十年近くもガイドをしていますけど、いつもこの町に来るとほっとします。

 男が云った。

 ――今日、昼にチッタ通りのレストランで吟遊詩人に出会いました。小さい縦笛で、単調な音階の曲を吹く人でしたが。

 私は云った。

 吟遊詩人と云っても、別に風変わりな服装をしているわけではなかった。ごく当たり前の男で、一曲吹くごとにテーブルを廻って、客から何がしかの金を帽子に受けていた。私たちは、ワインを飲みながらその古風な音色を聞いていた。吟遊詩人は、私たちのテーブルにも来た。彼は目礼し、小さな縦笛を口にした。ひゅうーという音で始まるモノフォニーが響き始めた。

私は、モノフォニーとポリフォニーがどんなふうに中世から近世にかけて発達して来たのかは知らない。しかし、中世には、人々の間には二つの宇宙観があったことは確かだ。家や村や町を中心にした生活空間である小宇宙、その向こう側に拡がる闇。その闇とは、人間の力の及ばぬ神々や悪魔の住む大宇宙であり、病気や、幸、不幸、運命や災害はそこから襲って来るものと、人々は信じていた。だから、彼らにとっては、森の木々を渡る風も狼の雄叫びも、その大宇宙の持つ恐ろしさと変わりなかった。 その頃から、遍歴芸人や吟遊詩人たちは、人々の喜怒哀楽を弦や笛、歌に託して、町や村々を廻って歩いていたのに違いない。

 ――日本では、吟遊詩人など考えられませんけどね。

 ――でも、日本にも昔はハレの日にオハヤシが村じゅうを廻って歩くとか、お正月に三河漫才が門付けに立つとか、あった筈ですよ。

 そう云って、ガイドの男は笑った。

 ――今日のような場合、吟遊詩人には、どのくらいのお金をあげたらいいんですか?

 私がガイドに云った。

 ――さあ、殆どが観光客が相手ですからね。いろいろですよ。人によっては二百リラとか、五百リラとかね。で、明日のご予定はフィレンツェですか?

 ガイドの男は妻の方に顔を向けた。

 ――それで、いま迷っていたところなんです。長距離バスでフィレンツェに直行するか。それとも、もう一日、シエナを廻ろうかって。今日、カンポ広場の小さい骨董屋でエッチングを二枚買って来ましたの。

 妻が云った。

 ――ほう、エッチングですか。

 ――何しろ、言葉がわからないでしょう。

 妻はソファの下から無造作に紙包みを取り出した。

 一枚は、収穫した穀物を入れた袋を馬の背に乗せ、手綱を引きながら市場に向かう農民を描いたエッチングだった。切り立った山肌に沿った石ころ道の彼方には教会の尖塔。広場には収穫の踊りをおどっている農民の群れ。

 もう一枚は、山頂の塔城塞の絵だった。円筒形の主塔を中心に、それぞれ城塞を支える巡視路、見張り小塔、甲塔が細密に描かれている。左から大きな山塊が跳ね橋のある城門塔に迫っている。塔城塞の右方は深い谷となって落ち込んでいる。それに連なる遠い山々が霧に霞んでいる。

 ――ほう、この収穫のエッチングはいいじゃないですか。中世の農民の顔がユーモラスに描かれている。

 ガイドの男が云った。

 ――ところで、明日、フィレンツェに直行なさるのでしたら、《塔の町》にお寄りになってみませんか。その町は、大変珍しい町でしてね。いや、ヨーロッパじゅうを捜してもそんな町はないかも知れません。文字通りの《塔の町》です。なぜ、その町にだけそんなに沢山の塔が残ったのか、歴史家にもわからないんです。現在、残っている塔の数は十三基ですが、十四世紀の頃には七十三基あったと云われています。いまでは、町に小さなホテルが一つと、あとは観光物産品を売るほんのちょっとした店々や、コーヒーショップが店を開いているくらいです。でも、ご覧になる価値はありますよ。

 ガイドが云った。

 熱のこもった云い方だった。

 ――時間的にみて、どうですか?

 ――そうですね。

 ガイドは、ちょっと首をかしげた。

 ――《塔の町》にいらっしゃるとしたら、帰りの乗り換えのバスの時間を十分気を付けないとね。午前、午後一本ずつしかバスがないんです。それを逃すと、その塔の広場で野宿しなければならないかも知れません。山の上だから、夏でもかなり冷えます。

 ガイドの話では、フィレンツェ行きのバスは十時に出る。それに乗って、途中ボッシボンシという村で《塔の町》行きのバスに乗り換える。しかし、そのボッシボンシで乗り換えるバスの時間はわからないと云う。

 ――フィレンツェのチットで確認してみましょうか。チットでわかる筈ですよ。ちょっと、待ってください。

 そう云って、男は電話のあるカウンターの方に立っていった。

 妻と私は、そのガイドの、肩幅の広い背中つきを見ていた。

 ――途中、寄り道をしても大丈夫かしら。

 妻が云った。

 ――そんなことを云ったら、何処へ行っても見知らぬ所ばかりじゃないか。

 と、私が云う。

 ――それもそうね。

 妻が云った。

 私は、今日、妻と一緒に歩いたカンポ広場の《マーニャの塔》を思い浮かべた。広場は、帆立て貝の形をした白い石で九つに区切られていた。《マーニャの塔》は市庁舎と同じ煉瓦が使われ、独立して立っていた。塔の上に吹きさらしの鐘塔が乗っていた。塔の上部は白、それを支える塔壁は赤煉瓦だった。妻と私は、広場の石畳の上に座って、円形劇場のように拡がる風景を眺めた。アイスクリームを買って食べた。その風景のなかでは、私たちは点のような小さい存在でしかなかった。石畳の上で、私は中世の旅人のことを考えていた。中世の旅人たちはどんな旅をしたのだろう。

 街道をさまざまな階級の人々がやって来ては歩み去り、時には王侯貴族の行列が賑やかに過ぎた後を、今度は巡礼者詣での老若男女がとぼとぼと杖をついて過ぎ、やがて遠隔地商人の隊列がほこりを立てながら通り過ぎる。遍歴楽士や乞食たち、娼婦の群れ、馬上の騎士たちが駆け抜けていく。飛脚が走り去る。

 中世の人たちは、いまとは比較にならない程、多くの危険にさらされていたのだろう。中世には黒死病が流行した。旅する者たちは、道の端を歩かねばならなかった。道の真ん中は死者たちの場所だった。旅人たちは森や林を通って、未知の街道を辿りながら、倒れ木、土砂崩れ、結氷などに悩まされ、分かれ道を右に行くか、左に行くかで、盗賊に襲われたり、不慮の死に出会ったりしたのだ。

 ――あなた、本当に明日、その《塔の町》に行くつもり?

 妻が云った。

 ――バスの時間さえはっきりわかれば、そうしてもいいんじゃないの。フィレンツェのホテルには、夕食の時間に間に合えばいいんだ。

 ――でも、万が一、《塔の町》でバスがなくなって、戻れなくなったら。

 ――その時は、その時だよ。とにかく、定期のバスがあるというんだから。

 ――じゃ、あなたに任せるわ。あたしは知らないわよ。

 カウンターからガイドが戻って来た。

 ――チットに電話しましたら、行きは十五分くらいの待ち時間です。ボッシボンシから《塔の町》までの所要時間は三十分です。帰りのバスの時間は、《塔の町》発が四時十分。これに乗ればフィレンツェ行きの最終バスに充分間に合います。

 ――全く知らない土地で、言葉も不案内なのに、本当に大丈夫かしら。

 妻が云った。

 ――旅というものは、元来、そういうものじゃないでしょうか。ねえ、ご主人。

 私は相槌を打つ代わりに、ガイドを見て笑った。

 ――奥さん、いま流行のパックツアーなどというものは、あれは旅じゃありませんよ。わたしも、女子高校の教師たちを十人程連れて、昨日シエナに来たんですが、お仕着せのコースを駆け足で廻ってホテルに戻るだけですからね。どんなに丁寧に説明してあげても、そんなことお構いなしに写真を取りまくっているんですからね。ガイドにとっては情けない話ですよ。

 その自嘲めいたガイドの言葉に親近感が湧いた。

 ――どうです。ご主人、お時間がありましたら、地下のバアーにいきませんか。

 ガイドの男が云った。

 ――まず、明日どうするか決めませんとね。

 私は妻を振り返って云った。

 すると、ガイドの男は誘うように云った。

 ――《塔の町》は本当にいいですよ。是非、そうなさった方がいい。あそこの、《塔の町》は中世から近世にかけて、兎に角、文化の中心になった都市です。シエナとか、フィレンツェは誰でも旅行プランに組み入れますけど、《塔の町》は素通りしてしまいます。わたしは歴史にはあまり詳しくはないんですが、確かダンテもトスカーサゲルフの同盟の大使になって《塔の町》に来ています。その頃、この地方は法王派と皇帝派に分かれて大変な争いだったらしいんですが、わたしには、無論、法王派とか、皇帝派とかはよくわかりません。でも、《塔の町》には現在、中世ロマネスク様式とか、ゴジック様式の塔や建物が沢山残っています。

 ――あたし、部屋に帰って寝るわ。

 妻が中腰になり、明日のことはあなたに任せるというふうに、ガイドの男に会釈して立ち上がった。

 ――じゃ、明日は、《塔の町》に行くことに決めるよ。

 私は妻の背中に向かって云った。

 ガイドの男と私の眼が合った。

 彼は微苦笑みたいな笑いを浮かべた。

 ――妻は少し寝不足なんです。明日、《塔の町》に行ったら、元気になりますよ。

 私が云った。

 ガイドの男と私は地下のバアーに降り、二人並んで止まり木に座った。

 ――プオナ・セーラ・コーメ・スタ?

 灰色の口ひげをのばした、ガイドの顔見知りらしい男が、カウンターの向こうから顎をしゃくって云った。

 景気はどうかね。と、云いたげな表情だった。

 ――まあまあだよ。ペネ・グラット・エ・レイ?

 ガイドが云った。

 ――うん、うまくやっているよ。忙しい毎日だ。

 灰色の口ひげの男は、機嫌のいい声でそんなことを云っているふうに見えた。

 二人の男たちは、手をあげて笑い合った。

 ――キャデイの赤にしましょうか。

 ガイドの男が私に云った。

 小さいバアーだった。鉤の手にカウンターがのびていて、フロアには背の高さ程のスタンドが三つ、レモン・イエローの光を投げかけていた。テーブルには三組の客がいた。フロアにもテーブルの上にも、灰色の壁にも淡い陰が出来ていた。その陰のなかからウエトレスが近づいて来た。

 栗毛色のお下げ髪で、鳶色の眼を大きく見開いて、微笑をたたえている。大柄の格子縞のエプロン、白いブラウスの胸元から乳房がこぼれんばかりに盛り上がっている。

 ガイドの男と私は、赤ワインで乾杯した。私は、シエナの小さな地下のバアーで、日本人のガイドとの偶然の出会いでグラスを交わしあっていることに感動した。

 ――そう、そう、自己紹介はまだでしたね。秋野と云います。こちらでもアキノです。子供が三人。女房はフィレンツェ生まれです。

 ガイドの男はそう云って笑った。目尻に皺が寄って悪戯っ子のような表情になった。

 ――私は柏木です。全くの邂逅ですね。こういうのを本当の巡り合わせというんでしょうか。明日の《塔の町》が楽しみです。

 ――いや、本当に偶然でした。ロビーのソファに日本人のご夫婦がお座りになっているなんてね。無論、ツアーでは、日本人のお世話をすることが多いんです。シエナ一日とか、アッシジを廻ってローマまでのコースとか、スケジュールに合わせてその日、その日のプランを組むのが大変です。歴史、風俗、文化の問題、どれ一つ取ってみても、われわれ日本人が、この地でガイドとして仕事をしていくには大変なことです。わたしもこちらで結婚して、日本を忘れてしまいました。東京がどんなふうに変わったのか、日本の政治がどんなふうになっているのか、こちらの新聞の小さな記事を読んで想像するだけです。しかし、年々、フィレンツェやアッシジにやって来る日本の若い人たちは増えましたね。海外旅行というのは、一種のファッションなんでしょうか。それに、日本人はみなお金持ちですよ。

 ガイドの男が云った。

 ――で、柏木さん、あなたはヨーロッパは度々ご旅行で?

 ――初めてです。本当のことを云いますと、私は間もなく定年でしてね。その前に一カ月程休暇を貰いました。

 私は、ワイングラスをテーブルから取り上げながら云った。赤のワインがグラスのなかでルビーのように揺れた。

 ――ほう、ご定年ですか。それで、今度のご旅行というわけですか。

 ガイドの男は云った。

 ――いや、ほんのちょっとした旅ですよ。それにしても、いざ定年となると、いろんなことを思い出しましてね。この頃、昭和という時代を、私は一体、何をして来たんだろうと考えたりしてましてね。いささか、歯軋りする思いがあるんです。戦後の神武景気も、岩戸景気も、いざなぎ景気も、私には無関係でした。ずっと、底辺をさ迷って来た感じです。

私は、愚痴っぽくなるのを出来るだけ避けて、明るい口調で云った。

 ガイドが私を見た。

 ――わたしはローマ・オリンピックの年にこちらに来ました。声楽志望だったものですから、随分、無理をして留学しました。わたしはテノールでした。しかし、わたしは声が出なくなりました。声帯にポリープが出来たんです。小さいポリープでしたが、それを取ってから声が出なくなりました。声が出なければ、声楽家としては終わりです。ご覧のようになりました。いまは、妻と子を養うだけの身になりました。しかし、声楽志望を断念してからの方が大変でした。ガイドになるまでにはいろいろありましたからね。でも、いまではこうしてガイドの資格を取って、人並みの生活が出来るようになりました。

 ガイドの男はそう云って笑った。

 ――私は、東京オリンピックの年には失業していました。家内に一年ばかり食べさせて貰っていました。結婚してすぐの年でしたから、私にとっては忘れられない、どん底の年でした。いまでこそ、悠長に、定年前の休暇を貰って旅になど出ていますけど。

 私は云った。

 その私は、間もなく六十になる。そして、シエナの小さなホテルの地下のバアで行きずりの日本人のガイドとワインを飲んでいる。

 ――暗い話になってしまいますけど、だんだん、いろんなことを思い出す年になって来たんですよ。今度の旅行も時間を持て余している私を見て、うちの社長が勧めてくれたんです。私の会社は小さい広告代理店ですが、デスクを降りたら、何一つすることはありませんからね。書類も郵便物も来ない。電話もない。文字通り、私のテーブルの前には、冷たくなったお茶一杯あるだけですから。きっと、社長は一日じゅうテーブルの前にぽつねんと座っている私を見るに見かねたのでしょう。

 私の勤めている会社は、ケミカル関係の広告を扱っている。社員も二十人ほどのちっぽけな会社だ。私はそこにもう、二十五年もいる。私が新聞の求人広告を見て入社した時は、五反田の駅近い、ガード下の穴ぐらのような事務所だった。社長を含めて、社員はたった五人だった。ガードの上を電車が通過する度に、部室全体が地震のように家鳴りして揺れた。耳が聾のようになった。タプロイド版四頁の新聞まがいのものを出した時期もあった。それでもどうにか、高度成長が始まって昭和元禄と呼ばれるようになった頃から、少しずつ広告も増えて来た。社員が十一人になり、五反田のガード下の事務所から、神田駅の裏側の、小さな、古いビルに引っ越した。昭和四年に建てられたという、そのおんぼろの五階建てのビルには、無論、エレベーターなどなかった。一階から五階までくの字に折れ曲がった、二人並んで上れない程狭い、急な階段がすっかり磨り減って黒くてらてらと光っていた。雨の日には、トイレの臭気が鼻についた。四階に社長室、五階が営業と編集を兼ねた大部室だった。夕方ともなれば、部所ごとにアミダで金を出し合って酒盛りが始まり、酔った揚げ句には、ビール瓶が飛び交った。

 そのビルの階段を私はこれまで二十年程、息を切らせながら上ったり、降りたりしたことになる。私のなかで五反田のガード下の事務所以来、その二十何年という月日があっという間に過ぎた。私は、両肘付きの回転椅子に座って、デスクと呼ばれ、自分の歳を考える暇もなかった。

 ある日、私は昼どきに社長に呼ばれた。私は、四階に降りていった。

 ――昼飯はまだだろう。鰻でも食いにいこうか。

 社長は私の顔を見るなり、そう云った。

 相変わらず、社長は精力的な顔をしていた。頭のてっぺんまで綺麗に禿げ上がっていたが、鼻の下にたくわえたひげは健在で、蟹に似た顔付きは、一層蟹らしくなっていた。

 ――社長、ご用件は。

 私は、ドアー口に立ったまま云った。

 ――まあ、表にでよう。

 そう云って、社長は立ち上がり、椅子の背から上着を取った。

 昼にはまだ少し早い時間だったが、鰻屋の暖簾をくぐると、店のなかは、近くのビル街の勤め人やオフィスガールでいっぱいだった。カウンターの端のトイレに近い椅子が二つだけ空いていた。白い割烹着を着た店員が、テーブルの間を忙しげに行き来していた。店の奥の天井付近で、テレビが天気予報を映し出していた。東京地方曇り後雨、明日 ――。

 ――混んでいるな。トイレの傍でもしょうがないだろう。

 社長が云った。

 どのテーブルにも、同じ会社の同僚らしいグループが二人、三人と固まりあっている。彼らはそれぞれ、今日は何処の蕎麦屋、明日はどこそこの定食屋というふうに、毎日群れあって、昼飯を食べに出て、会社の不平や上司の噂を云いあっているのだろう。私にもかってはそんな時代があった。しかし、いまの私は、時間遅れの昼飯を独りでこっそり取り、夕方会社を出た後、帰りしなに駅のガード下の立飲み屋に寄るのが習慣になっていた。その習慣も、ある日を境にふっつりとなくなるのだろう。定年退職したら、翌日から私は何をすればいいのだろう。どんなふうにして一日を過ごすことになるのか。

 ――いや、きみに話したいと思ったことがあってな。

 カウンターに座るなり、社長は改まったように云った。左手の指先で口ひげを撫ぜた。

 ――きみが辞めるのはいつだったかね。

 ――あと、ひと月たらずです。

 ――そんなに早かったか。それじゃ、気持ちの上でも落ち着けんだろう。デスクを外れたことだしな。どうだ。この際、思い切って何処か旅行でもして来んか。東南アジアでも、ヨーロッパでも、何処でもいい。まあ、会社にもいろいろ不満もあるだろう。きみとは、五反田以来の間柄だからな。この際、奥さんと一緒に旅行でもして来んか。

 ――お気持ちは有難いんですけど、

 私は云った。

 ――会社には何も遠慮はいらんよ。辞める日まで、きみが出たいと思った日だけ会社に出てくればいい。奥さんと一緒にフランスでもスペインでも好きなところを廻わって来い。

 社長はそう云って、おしぼり用のタオルで顎をごしごし擦った。

 ――はい、考えてみます。

 定年退職の日まで会社に出て来なくてもいい、というのは、どういうことなのだろう、と、私は思った。社長の思いやりなのか。それとも、定年間近い男などいてもいなくてもと考えているのだろうか。いや、そうではあるまい。おそらく、デスクを降りたあと、私が一日じゅう時間を持て余しているのを知ってのことに違いない。

 ――まあ、よく考えて、奥さんとも相談してみるんだな。悪い話じゃないぞ。旅費の半分くらい、わしにも出してやれんことはない。

 その夜、相変わらず、いつものようにガード下の立飲み屋に寄って、私は酔った。

 酔って、家に帰った。

 ――きょう、昼に社長に呼ばれてね。

 食事の時に、妻に云った。

 ――定年になるまで、もういくらでもないけど、気がむく時にだけ出て来ればいいと云われたよ。まあ、仕事もないけどね。

 ――そんな、あなた。社長は冗談云ったんでしょう。

 ――そうかもしれない。昼に社長と鰻を食いにいってね。社長がそう云ったんだ。社長には労りの気もあったんだろうと思うんだけど、五反田時代から一緒に苦労して来たんだから。何処か好きな所へ旅行して来いとも云っていた。フランスでもスペインでも、何処でもいい。きみと相談して考えろってね。

 ――そんなこと云ったって、ヨーロッパなどへ旅行するお金なんて、うちにはないわ。あなたの退職金だって、どのくらい貰えるのかわからないんでしょ。

 ――まあ、そんなに期待できるもんじゃないよ。

 小さな会社の退職金は、月給の十ヵ月というのが、一応の定説だった。私のそれも、凡そ、そんな金額だろう。旅行の費用など出せる筈がない。私は、いまの会社を退職したあと、まだ年金の貰えるまで働かねばならない。しかし、当座、再就職するとしても、私に特別の技術、才覚があるわけではない。差し当たり、私は、パートのマンション管理人か、オーライ、オーライと手を上げながら、車を誘導して駐車場に収める整備員くらいが一番身にふさわしいと云っていいだろう。

 ――でも、一度くらい海外に行ってみたい気もするわ。行くんだったら、あたしはローマだわ。ローマには、行ってみたいわ。

 妻が云った。

 私たちは海外旅行はおろか、国内も殆ど歩いてはいなかった。新婚旅行にも行かなかった。結婚してすぐ、私たちは、茅ヶ崎の公団住宅に移った。海寄りの二千所帯もあるマンモス団地だった。妻も私も東京駅までの、往復二時間の立ちずくめの通勤が始まった。日曜日になる度にいさかった。海辺に行って海を眺める余裕などある筈がなかった。終バスの窓の向こうに見えて来る闇のなかの団地は、ほの白い光りのなかに浮かび上がった巨大なマンモスの墓場に似ていた。その団地の生活も二年とは続かなかった。妻が狭心症を起こしてバスのなかで倒れた。そして、私の勤め先の繊維業界の広告代理店が倒産した。失業した。

 冬の初めだった。私は毎日、病院の妻を見舞い、踏み切りを渡って海岸通りの商店街を抜け、人っ子一人いない海を見に行くのが日課のようになった。東京オリンピックの終わった年だった。堤防を降りると、なだらかに海に傾斜している砂丘が視野いっぱいに広がって来た。砂に半ば埋もれた葦簾が、小さな風をたてていた。私は、ジャンバーの襟を立てて、渚の方へ歩いて行く。私には、時間をごまかす方法とてなかった。私は、いつか、海岸通りの酒屋でポケットウイスキーを買うのを覚えた。ウイスキーをラッパ飲みしながら、波のひたひた寄せて来る渚を出来るだけ遠くまで歩いて行って、引き返すことを繰り返した。酔いがまわって来ると、狂暴な生き物が甦って来た。それに耐えながら、砂の上にひっくり返って、眼をつぶった。未来はなかった。病院では、妻が狭心症でベットに臥していた。ある時、砂の上に仰向けになって眼をつぶっていると、顔の上に獣の荒々しい息使いが聞こえた。眼を開くと、茶褐色の大きな犬の鼻面が私の額の上にあった。危うく声を上げそうになった。

 ――起きちゃいけない。そのまま、動かないで。

 砂丘の上から、突然声がした。

 私はじっとしていた。

 ――ジロー、来い。

 鋭い声だった。

 犬は、二、三度、私の髪の匂いを嗅ぎ、大きなフサフサしたからだを揺すりながら、声の主の方へ走り去った。コリーだった。

 ――いや、すみません。驚かしちゃつて。

 サングラスをかけた男が、砂丘の上から云った。私は、のろのろと身体を起こした。

 ――畜生め。

 私は口のなかで呟いた。

 ――ひとがいい気分で、酔っ払って寝ているのに。

 しかし、私は、少しもいい気分で寝ているのではなかった。私には、その時、確かな明日がなかったのだ。太陽が白っぽく輝いていた。飼い主とコリーは、逆光を浴びながら、何事もなかったように砂丘の上を遠ざかっていった。

 ――だったら、思い切ってローマに行ってみようかしら。

 妻が云った。

 ――ローマか。

 私は口ごもった。

 ――旅行の費用の方はどうするんだ。退職金を使うわけにはいかないよ。

 ――一度、ヒロコさんのところに電話して聞いてみるわ。もしかしたら、彼女、便宜をはかって安いキップを探してくれるかも知れない。

 妻が云った。

 ヒロコさんというのは妻の高校時代のクラスメイトで、月に一度か、二度出会って食事などしていることは私も知っていた。

 ――まあ、いいよ。きみに任せるよ。

 それだけで、その夜の食事どきの話は終わった。

 翌朝、玄関口で管理人と出会って、短い言葉を交わした。

 ――きょうは、燃えるゴミの日でしたね。

 私は云った。

 管理人は、黒い、大きなビニールの袋を台車に乗せて、ガードレールのある路上に運び出していた。

 ――そうです。でも、みなさん、燃えるゴミも燃えないゴミも見境なくて。

 管理人は笑いながら云った。

 私も、燃えるゴミをふた袋、両手に下げていた。

 ――暑くなりましたね。

 管理人が云った。

 ――ほんとに、暑くなりましたね。

 私もそう云って、通りに出た。

 私は手ぶらだった。書類用のカバンも何も持っていなかった。何週間か前から、自然とそうなった。カバンは私の分身でなくなった。会社でも、もはやどんな書類も私の決裁は必要でなくなった。私は、定年の日までテーブルの前にじっと座っているだけでいい。社員の誰からも軽んじられている。そう思うのは、私の僻めかも知れなかった。しかし、俄に仕事を奪われた、という考えが私を締めつけた。侘しい思いが顔に出ているのが、トイレの鏡を覗くたびにわかった。

 通りに出て、赤レンガの大学病院の塀沿いにいくと、道はS字型にゆっくりと上り坂になり、曲がり角の寝台自動車の会社の前に出る。毎朝、ガレージの前で運転手たちがゴムホースで水を流しながら、大型車の掃除に精を出している。後部のドアーを開け、寝台のカバーを新しいものに取り替えている運転手もいる。私はそれを横目に見ながら通り過ぎる。彼らは陽気に鼻歌交じりに、朝の整備の仕事に取りかかっている。いつも寝台車は、半地下のガレージの車を含めて三十台あまりあった。車庫の二階と三階が彼らの宿舎になっていて、ベランダには、いつも男ものの洗濯物がぶらさがっていた。

 しかし、その朝、気付くと、ガーレジには一台も車がなかった。ガレージはがらんとしていて、寝台車はおろか人かげもなかった。早朝から、車は全部出払っている。奇妙な感じがした。寝台車は普通、重病人を家庭から病院に運ぶか、病院で息を引き取った患者を家に連れ戻すために使われるのではないか。今朝は、そんな朝なのか。暑い一日が始まりかけている。人が大勢死ぬのは、こんな朝なのか。しかし、何の変哲もない朝だった。いつかは、私もそんな朝を迎えることになるのだろうか。痴呆症の老人になって死ぬのは嫌だなと思った。病院のベットで末期を迎えたくないなと思った。と、私は、急にヨーロッパに行ってみたくなった。いまなら、遅くない。社長に云われたように、フランスでも、スペインでもいい。妻が息を弾ませて云ったローマでもいい。私は無性に日本を離れたくなった。

 ――それで、どうなさいました?

 ガイドの男は、次の私の言葉を楽しむふうに云った。

 ――で、こうしてシエナに来ているじゃありませんか。やっと妻も私も念願がかなったというわけですよ。

 私たちは声を上げて笑った。

 ――先っきも云いましたけど、シエナはいつ来ても、本当に美しい町ですよ。でも、明日、お訪ねになる《塔の町》は、もっとあなたのお気に召す筈ですよ。

 ――私も楽しみにしています。

 そう云って、私は目の高さにグラスを上げた。

 ――よい旅を。

 ガイドの男もグラスを上げて云った。

 バスは長いこと、なかなかやって来なかった。三十人ほどの長い列が出来た。しかし、バスを待つ人々はのんびりと会話を交わしあっていて、苛立つ様子もなかった。彼らの言葉は何ひとつ解せなかったが、その言葉の響きは、ごく自然な明るいものを含んでいた

 子供たちが歓声をあげて、あたりを跳びはねていた。バスを待つ間、鬼ごっこをしながら、黄色い声を弾ませていた。

 ――バスは来ないのね。いつまで待たせるのかしら。

 妻が苛立たしそうに云う。

 ――コーヒーでも買って来ようか。

 ――コーヒーより生ジュースのほうがいいわ。

 人だかりのした賑やかな広場の売店では、色とりどりのパラソルの蔭で、カセットデッキから音楽が流れている。空を仰ぎながら、私は突然、ムソルギスキーはイタリヤを訪ねたことがあったのだろうか、と思った。彼の《展覧会の絵》のなかに《Vecchio castelle》というタイトルで、文字通り《古城》をうたった、ホルンと木管の対話風な幻想が平坦な旋律で始まり、すぐ続いて甘美な旋律が単調な伴奏で歌い出されている曲を思い出したからだ。新宿の《ガボ》という地下の穴蔵のような喫茶店に通い続けて、仲間たちとリクェストでよくその曲をきいたのは朝鮮戦争当時の暗い冬の頃だったろうか。仲間の誰一人として勤めを持っていなかった。ルンペンのように飢えていた。どんな未来もなかった。日本中が火炎ビンの時代だった。

 私は、吸い込まれそうな、限りない青空を見上げながら、そんなことを思った。私はスタンドの売店で、栗毛色の髪の少女からオレンジ・ジュースとコーヒーを買った。

 妻は私から無表情にジュースの紙コップを受け取った。私にはまだ昨夜の酔いが残っていた。苦いおくびが出た。

 ――ゆうべは遅かったのね。あなたはひどく酔っ払って、這うようにして部屋に帰って来たのよ。

 妻がストローを口に含みながら、上眼使いに私を見た。

 ――そんなでもないよ。

 私が部屋に戻って来た時、妻はぐっすりと寝入っていた筈だ。ツインの部屋の窓際のベットで、ドアーの方に背をむけて横むきになり、カーテンと縺れあうような格好で身じろぎせずに寝入っていた。私はしたたかに酔っていたが、それでも自分の二本足で階段を上った。酔いのなかで、私は小さな充足感に浸っていた。《塔の町》への期待感もあった。思わぬプランを持ち込んで来たガイドの男とワインを酌み交わしながら、夜遅くまでお喋りしたことが私の心を浮き立たせていた。

彼とはこんな話をした。

 ――中世ヨーロッパの世界は、いまでは想像もつかないくらい、いろんな意味でおもしろい世界だったんではないでしょうか。彼らは、例えば、石、星、橋、暦、鐘、或いは、驢馬、狼など、日常生活を取りまく具体的なモノたちと拘わりあって生きていたんですね。まず第一に、自然石が民間治療の手段として使われていた。歯痛の場合には、石の上に裸足で立って呪文を唱えながら、身体を上から下へ三回さするとか、瘤を取りたい者は、月が欠けていく頃に顔を月にむけて、石で瘤に触れ、石を背後に投げると瘤が取れるとか、日本でも同じような信仰はありますけどね。それに、中世ヨーロッパにはこんな話もありました。何年たっても子供の出来ない妻はどうすべきか。例えば、三年たっても子供の出来ない女房がいた場合、その女房を背負って三尺くらいの垣根を九つ飛び越えるだけの力のある男が隣りの家にいたら、その男のところへ女房をやれ、というんですね。

 ――それでも駄目な場合は?

 ――大市の立つ日に、着飾らせて市に出せというんですよ。いやはや、乱暴な話でしてね。でも、考えてみると、中世の人々にとっては、家を継ぐということは大変大切なことで、どうやって家の相続人、つまり、長男を確保するかというのは、深刻な問題だったんです。というのも、彼らにとって家というのはひとつの小宇宙だったわけですから、今なら、さしずめ、人工受精でしょう。それに、中世には子供を十八人生んでもせいぜい二人くらいしか生き残れない。平均寿命も、三十そこそこ。ですから、死というのは彼らにとって大変なことでした。身近な人が死ぬと、死の世界からの道が開かれたと考えたわけです。人々は、死者がその道を通って無事に死者の世界に入ることが出来、ひとたび開いた死者の道が自然に閉じて、以前のような日常の生活に戻れるようにするために、いろいろな手続きをしました。或る地方では、人が死ぬと、霊が家のなかに留まるのを恐れて、死者が生前にかかわっていたすべてのものを取り除くか、一旦すべてのものを倒してけじめをつける。鏡には覆いをする。すべての水は流し去る。時計があればとめる。椅子は逆さまにする。竈には水をかけて火を消す。家具の位置をずらす。死者が生前に飼っていた蜜蜂や家畜にも覆いをかける。死者は藁床に移され、上から布を掛けられて戸口に足をむけて横たえられる。それから埋葬までの間、隣り近所の者や友人たちが集まって、飲んだり、食べたり、楽師や道化も登場して大変な騒ぎになったらしいですよ。通夜禁止令の出た時代もあったということですからね。つまり、中世の人たちは、死と隣りあって生き、死を生活のなかに取り込み、死を恐れながらも死者と共存していたんでしょう。

 私はふと、母の死を思い出した。

 ――死と隣りあって生きているのは、現代も同じじゃないですか。私の母は、父もガンででしたけど、上顎ガンというガンで死にました。副鼻腔に出来るガンです。顔が醜く歪みましてね。眼球も飛び出して来るんです。

 母は、ずっと以前から、耳に水が溜まり出していた。その水抜きの苦痛のひどさを訴えていた。視力もかなり減退していた。左の瞳がどろっと濁って、鼻梁の側に寄って来ていた。首の付け根のリンパ節の腫瘍も、拳大に大きくなった。上顎ガンが第四期まで進行して、副鼻腔を浸蝕し、脳を突き上げるほどに肥大すると、幻覚に襲われ、発狂に似た現象が現われると云う。しかし、母は抗ガン剤の座薬を使いながら、睡眠用の鎮痛剤を、毎夜二錠ずつ飲むことで狂う程の痛みに必死に耐えていたのだ。母は、毎夜のように電話をかけて来た。

 ――まいんち、身繕いして木戸んとこに立っているとな、おもてを通る人が、誰か、ひとを待っているのけと云うんだ。ほじゃねえ、おら、門んとこさ立って、見た通り、おら、まだ元気でひとり歩き出来るし、まだまだ死にやしねえよって、近所の人に云ってやってんだ。そのくせ、夜になんべ。すっとな、苦しくて、こめかみさ両手で押さえて大声を上げるんだよ。あたしは、何ひとつ悪いことしてこなかったのに、なんでこんなに苦しまなきゃなんねえんだよ。死にてえよォ。死にてえよォ。毎晩、そう云って、畳の上を転げ廻わるんだよ。

 私は受話器を握って、その母の言葉を聴きながら、どんな慰めも思い浮かばず、声を呑んだ。

母が死んだのは雪の多い年だった。桜の季節がやって来ている筈なのに、蕾は固かった。母が死んだのは、四月の下旬だった。辛夷の花だけが競い立つように真っ白に咲き誇っていた。

 ――普通、上顎ガンの場合、最後は狂い死にするというんですが、母は、朝早く風呂に入っていて、浴槽のなかで死んでいたんです。

 ――ほう。

 ガイドの男はグラスを宙で止めて、私の顔を見た。

 ――自殺かと思ったんですが、自殺ではなかったんです。座薬も睡眠薬も鎮痛薬もきっかり定量だけ残っていました。

 なぜ、その時、そんなふうに母の死の話になったのかわからない。

 私は母が死ぬ二週間ほど前に会っている。弟が付き添って筑波大の病院をたずねたのはその二ヵ月前のことだった。病院から帰った弟から、夜遅く電話がかかった。

 ――やはり上顎ガンだったよ。それも四期目で、手術はもう難しいらしい。あとは、延命を考えるだけだと云っていたけど、入院させたら一週間もたたないうちにボケて死んじまうと云われたよ。まあ、家で気長に生きてもらう外はないだろうよ。

 ――で、本人は知っているの。

 ――いや、本人は知らない筈だよ。まだ元気だから、当分は大丈夫だろう。

 本当にそうならいいがと、その時、私は思った。しかし、死が母に近づいて来ているのは、傍目にもそれとなくわかった。しかし、人が死を宣告されてから死を受容するまでには、ほぼ一定の心理的パターンがあるということを私が知ったのは母が死んでからずっと後のことだった。

  第一段階 ――否認

  第二段階 ――怒り

  第三段階 ――取り引き

  第四段階 ――抑鬱

  第五段階 ――受容

 第一段階では、もしかしたら自分の診断名は誤っているかもしれないという願望。第二段階では、否認が出来なくなって来た憤り、健康な他人に対する羨望、恨み。どうしてわたしだけが死ぬのか。どうして彼や彼女ではいけないのか、という怒りはあらゆる方向にむけられる。家族、医師、看護婦、食事、テレビ。第三段階の取り引きでは、身の回わりの人々や神と何らかの約束を取り交わそうとする。もしかすると、その不可避の現実をもう少し先に延ばせるかも知れない、と考える。第四段階では病気が進んで来て、否認や怒りだけでは対応が不可能になり、大きな喪失感に襲われるようになる。第五段階ではもはや抑鬱も怒りも、健康な人に対する羨望もなくなって、近付く自分の終焉を凝視めるようになる。テレビもラジオも消され、患者はしばしば眠る。

 ――人が死ぬ時には《死の受容》というのがあると云いますけど、中世ではどうだったんでしょう

 私は云った。

 ――昔のほうがずっと深かったのじゃないでしょうか。パスカルも《人は独りで死ぬ》と云っています。ラ・フォンテーヌの農夫の言葉にはこんなのがあります。《一番死人そっくりの連中が、一番未練がましく死んで行く》。死というものは、何とも意地が悪い。わたしたちがいる時、死は存在しません。死が存在する時、わたしたちはもういないのです。日頃はきれいさっぱり、わたしたちは死を忘れている。しかし、ヨーロッパに来て感じたんですが、ここでは何処の都市に行っても石畳の石の輝きに、長い、長い歴史の深い空間があり、死が一個のものとしてそこに漂っています。

 ガイドの男は、遠慮がちに云った。

 ――そうでしょうね。シエナに来て、私もそんな感慨を持ちました。見えるものと見えないもの。死は誰にも見えませんが、いずれはやって来ます。横手から忍び寄るのか、背後から襲いかかるのか、頭上から舞い落ちてくるのか。でも、敗戦の年から考えると、私も随分と長く生きて来た気もしますよ。特に昭和一桁生まれの世代は、一般の平均寿命が伸び、死亡率がどんどん低下しているのに、死ぬ人間が急増していますからね。肝硬変、糖尿病、くも膜下出血、それに自殺も多いですよ。私も昨年のいま頃、アルコール性の肝炎で一カ月ほど入院させられました。

 私はお互いのグラスにワインを注ぎながら、自嘲するように笑った。

 ――でも、柏木さんは、レンアイケッコンでしょう。奥さまは若々しくて、お美しい。

 ガイドの男が話題を変えた。

 ――レンアイというほどのものじゃありませんよ。物のない、貧しい時代でした。両親も兄弟も呼ばずに、ほんの仲間うちだけの結婚式でした。

 私はその頃、目黒のどぶ河近い、小さなプラスチック工場の町工場に勤めていた。テレビの透明なダイヤルを造るインジェクションの仕事だった。昼夜、二交替のきつい仕事だった。妻とは、そこの職場で知りあった。その後、さまざまな職業を転々とした。大井町や品川、茅ヶ崎、大崎と何度も宿を替えた。いつの間にか三十年あまりの月日が過ぎた。

 ――思い出すのも嫌なことばかり残りましたよ。昭和一桁男には、ロクなことはありませんでした。敗戦前後の最悪の時期の付けがじわじわと這い寄って来たってわけでしょう。

 ――世代のせいばかりじゃありませんよ。わたしがこちらに来たのは、岸首相が渡米して日米安保条約に調印した年でしたが、あの年にもいろんなことがありました。五月には衆議院で一気に会期延期の強硬採決が行われて、安保改定阻止の闘争が始まりました。六月十日のハガチー事件、十五日のデモのなかでの女子学生の死。十月には社会党の浅沼さんが右翼の少年に殺されました。十一月末には「中央公論」の深沢七郎の《風流夢譚》事件。その一方では、ローマ・オリンピックがあったりして、高度経済成長が始まった年だったとも云えるんじゃないですか。

 ガイドの男はそう云って、言葉を続けた。

 ――わたしにもその時には、まだ希望がありました。でも、いまでは、もはや家族を養うだけで精いっぱいです。わたしの親父もお袋もとうに亡くなりました。わたしがこちらで妻帯して、あくせくしているうちに、全くあっという間でした。わたしも齢をとりました。もう四十九になります。

 ――それでも、私より十年も若い。

 私が云った。

 ――いやいや、ウラシマタロウですよ。

 客はいつか、私たち二人になってしまっていた。

 ――静かですね。

 カウンンターのひげの男は身じろぎもせず、腕組みをして、壁にはりついていた。

 ――いや、長い話になりました。

 ガイドの男が云った。

 ――お互いに明日は早いのですから。でも、久しぶりにお話が出来て、楽しい時間が持てました。

 ガイドの男は手を差しのべて来た。手の甲の厚い、柔らかな掌だった。

 バスが来た。

 バスはクリューム色の大きな車体を広場に通じる狭い通りから、赤や青や黄のパラソルの下に群がっている人々を押し分けるようにして、私たちの方へ真っすぐにやって来てクラクションを鳴らした。フロントグラスが陽にきらめいた。

 バスを待っている行列がざわめき出した。列の人たちは、バスのドア口の方に移動していく。妻と私は大きな旅行バックを引きずりながら、人の列の後に続いた。

 ――ボッシボンシで降ろしてもらうように、運転手に云わないと駄目よ。

 妻が云った。

 運転手は快活な長身の若者で、乗客たちに気軽に声をかけていた。フロントグラスから射し込む日差しを受けて、二の腕の生ぶ毛が金色に輝いていた。妻は大きなバックを重そうに担ぎ上げながら、バスに先に乗り込んだ。日よけのサングラスが不釣り合いだった。

 私は、妻の後からドアのステップに足をかけ、運転手の方へ手をあげて云った。

 ――済みません。ボッシボンシでバスを乗り換えて、《塔の町》へ行きたいのです。ボッシボンシに着いたら教えてください。

 たどたどしい英語で、途切れ、途切れに云った。

 ――ボッシボンシ?

 運転手が聞き返して来た。

 ――そうです。ボッシボンシです。

 運転手は、雀斑だらけの顔をいっぱいにほころばして大きく頷いた。

 大勢の乗客たちが乗り込んで来た。大きな、太った、背の高い男や女たちが体を揺さぶるようにして座席を埋めていく。子供たちが歓声をあげる。手荷物が網棚に押し込まれて、車内は笑い声とざわめきでいっぱいになる。

 私たちは不安になる。

 ――本当に、ボッシボンシ、大丈夫なのかしら?。

 妻が云った。

 ――大丈夫だよ。

 不安を隠しながら、私が云う。

 バスは、クラクションを鳴らして広場を離れる。

 バスは市街地の狭い坂道を上下しながら、谷を挟んだ丘陵地帯に入っていく。石壁の家並みと緑の入り交じった眺望が、バスの窓の外に拡がる。丘の上に、白いドゥオモが見える。シエナは一番美しい町だと、日本人のガイドが云った。

 ――町の斜面の狭い石畳道を靴音を静かに響かせながら歩いていると、まるで中世という歴史の舞台のなかにでもいるような気がして来ますよ。

 ガイドのその言葉を思い出しだ。

 大きな谷間を挟んで、両側に丘がなだらかに競り上がっている。オリーブや葡萄畑が拡がっている。バスは、単調で、悠長なエンジンの響きを繰り返す。

 ――昨夜は、日本人のガイドと、あんなに長い時間どんな話をしていたの?

 妻が、サン・グラスの眼をわたしに向けて云う。

 ――うん、話って、いろんな話さ。取りとめもない話題だよ。あのガイド、山梨の生まれだそうだ。留学して音楽を勉強していて、声帯ポリープの手術で、声が出なくなった。それで、ガイドになったと云っていた。こちらで奥さんを貰って、子供もあるそうだから、大変だろう。

 妻は、黙って窓の外に眼を投げた。

 丘のなだりに、崩れかけた石造りの教会が僅かに塔の先端の十字架を覗かせていた。

 ――オペラでも勉強していたのかしら。

 ――テノールと云っていたから。

 私は、昨夜、ホテルの地下のバアでワインを飲みながら、男といろんな話をした。その私は帰国すると、もう職を失うことになる。何処の会社でもそうなのだろうが、誕生日が来ると、その日の十時に会社は退社になる。会社のデスクに座っていて、ぼんやりと空を凝視めている自分に気付いてはっとすることが、時々あった。別に何を考えているのでもない。感傷に浸っているのでもない。ただ、思考を止めたまま、空を凝視めている。そんな時には、鳴っている電話のベルの音も聞こえて来なかった。私のデスクから、何の変哲もない神田のビル街の空が見えていた。私はそれまで、窓から見える空など気にも止めることもなかった。私は、人から傍若無人だと云われるほど仕事に熱中し、それが当然だと思い込んで疑いもしなかった。それが、定年を意識するようになってからデスクの私の眼の向こうの窓枠のなかに区切られた、何の変哲もない神田のビルの空が見えていることに、ある日、気付いたのだ。私は俄に、その空の色が身近かなものに感じた。私は窓枠のなかの空を眺めながら、自分自身をいとおしんでいる。誰にも云えない心のなかの痛みのようなものをじっと押さえている。そんな感慨を私は毎日感じた。本当のことを云って、私は会社で時間を持て余して困っていた。パチンコ屋にも行った。公園に行って何時間もベンチに腰を下ろしながら、新聞を隅から隅まで読んだ。銀座に出て、画廊も歩いてみた。心を満たしてくれるものは何一つなかった。心のなかに拡がっている空洞のようなもの、それは何だろう、と思った。何処からも光は射して来なかった。惨めな思いだけだった。残酷という言葉が浮かんだ。日本橋の地下鉄の駅からデパートに続く地下道を歩いて来て、私は壁面の鏡に映る猫背ぎみの髪の薄い、口をへの字に結んだ、褐色の自分の顔を真正面から初めて見た。鏡のなかから、まるでガンで死んだ、田舎の貧しい筆師だった父が歩み出して来るようだった。突然、目眩のようなものが襲った。私は平衡感覚を失って、床に片膝をついた。しかし、それだけだった。その時、私の周囲で鏡がてらてらと輝き、デパートと地下鉄の改札口を行き交う人々が眩しいほどに華やいで見えることに気付いた。

 ――元気で、素晴らしい旅行を楽しんで来てください。

 会社の連中は、出発の前の日、口々にそう云って私を送り出してくれた。

 恐らく、会社を退職する日の朝もみんなはそんなふうにして、私を送り出してくれるのだろうと思いながら、それを受けた

 ――じゃ、行ってきます。しばらくの間、休ませてもらいます。

 私は、彼らに云った。

 その私はいま、シエナから《塔の町》に向かって長距離バスに揺られている。

 デスクの整理をしなければと思いながら、そのままにして来たことを思い出した。バスの窓から一面のオリーブ畑が見える。あちこちの煉瓦造りの家々の庭には糸杉が聳え立っている。丘の上の僧院の塔。なだらかな丘の斜面の葡萄畑。ダ・ビンチやボッティチエッリの絵の背景に細かく書き込まれている風景が、いま、私たちの乗っているバスの窓の向こう側でほどけていく。

妻はまどろみ始めている。帽子を目深に落として、窓に右肩をもたせかけながら、バスのゆるやかな振動のなかに身を委ねている。

 バスの窓越しに見えるのはなだらかに起伏している丘の重なり。緑一色の葡萄畑。牧場があった。柵の向こうで、牛が群れをなして草を食んでいる。小さな集落。谷合いの街道沿いに石造りの灰白色の家々が肩を寄せ合っている。川に橋が架かっている。こんもりと茂った森。

 私は窓の外の風景を眺め続ける。

 ボッシボンシまで、あとどのくらい時間がかかるのか。

 ラッタ、ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。

 ラッタ、ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。

 ラ、ラ、ラッタ、ラッタ。

 子供たちの歌声が、バスの後部から突然聞こえて来た。陽気な、楽しげな歌声だった。

 大人たちの笑い声が起こった。

 私は、バスの後部を振り返ってみた。退屈しのぎに、子供たちが歌をうたい始めたのだ。バスを待っている間、鬼ごっこをしていた子供たちだった。バスのジーゼルエンジンの底ごもる、眠気を誘うような、悠長な響きが子供たちの歌声で破られた。

 通路の向こう側から手が伸びて、誰かが私の肩を叩いた。

 ――子供たちの歌はいいじゃないか。俺たちの眠気ざましには最適だよ。

 そんなふうな、ひどい訛りのある英語で、中年の男が私に話しかけて来た。ギリシャ人かもしれない。白い顎ひげをのばした、赤ら顔の男だった。

 ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。

 ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。

 子供たちは、有頂天になって手拍子をとる。バスのなかは、子供たちの歌声でいっぱいになった。

 ――《塔の町》に行くのかね?

 ギリシャ人が云う。

 ――そう、《塔の町》に。

 ――わしは、これまで幾度も素通りしている。一遍は行ってみたい。

 ――子供たちが歌っているのはどんな歌ですか?

 私は、たどたどしい英語でたずねる。

 ――ほう、あれか、あれは、わしも知らん。

 妻が眼をさました。

 ――何かあったの?

 バスのなかの騒々しさに気付いて、妻が云う。

 子供たちは、相変わらず、床を踏み鳴らしながら、ラッタ、ラッタ、とやっている。

 ――子供たちが退屈し始めて、歌をうたい出したんだ。お隣りのギリシャ人のじいさんが何処の歌か知らないと云っているのさ。

 私が云った。

 私は、今日はいい日になるだろうと思った。そんな気がした。私は子供たちの歌声を聞きながら、中学時代に習った英語のサイド・リーダーの《まだらの笛吹き男》を思い出した。子供たちが、ハーメルンの町から何処へともなく消え去る時に歌っていたのはそんな歌ではなかったか。

 ――あたし、少し眠ったのかしら。

 妻が云った。

 ハンドバックから手鏡を出した。

 ――そうね。十分ぐらい。

 ――そんなに眠った。でも、子供たちは元気ね。何処の国の子供たちかしら。

 ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。

 ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。

 子供たちは両手を振りかざして、身体で調子をとり、床を踏み鳴らしながらうたっている。その子供たちの歌声で乗客の大人たちも単調なエンジンの響きから解放されたようにお喋りを始めた。バスのなかが急に賑やかになった。長い、長いハイウエイの幅広い道路だ。バスは路面を滑っていく。バウンドしていく。シートのクッションの弾み方で、それがわかる。

 ――《パイド・パイパー》の話、中学か、高校の英語の授業で教わらなかった?

 手鏡を覗きながら髪を直している妻に云った。

 ――パイド・パイパー?

 ――まだらの笛吹き男の話さ。

 ――中学でも高校でも習わなかった。

 ――グリムの童話にある話だよ。笛吹き男が自分は鼠捕りだと云って、金を払えばこの町の鼠どもを全部退治してみせると約束した。町の人たちは承知した。男が笛を取り出して吹き鳴らすと、町じゅうの鼠どもが走り出して来て、男の後に従った。男は河まで鼠どもを連れていき、服をからげて水のなかに入っていった。鼠どもも男のあとについていって、みんな溺れて死んでしまった。ところが、町の人たちは、鼠がいなくなると、いろんな口実を作って男に金を払わない。これに腹を立てた男は、まだらの洋服を着て、赤い奇妙な帽子をかぶって町にやって来た。そして、路地々々を廻わって笛を吹き鳴らすと、今度は鼠ではなく、男の子や女の子が大勢集まって来た。子供たちはそのまだらの笛吹きの笛の音に合わせて踊りながら付いて行き、男と一緒に山のなかに消えてしまった。

 私がその《まだら服の笛吹き男》を英語の授業で習ったのは、中学二年生の一学期だった。そして、二学期からは英語がなくなって、教練の時間に変わった。その後には、学徒動員が私たちを待っていた。昭和十九年の春、アメリカ軍はすでにマーシャル群島からマリアナ諸島に進攻し始めていた。私たちは、四月に谷田部海軍航空隊の飛行場拡張工事の勤労奉仕に動員された。飛行場の仕事はモッコを使った土運びやトロッコ押しだった。一、二週間経たない間に、仲間たちは次々に荒くれに変身していった。私はひ弱な少年だった。それでも、仲間たちと陽炎の立つ飛行場の草むらで煙草を廻しのみするのを覚えた。六月、アメリカ機動部隊はサイパンに上陸した。七月、守備隊三万人玉砕。飛行場の勤労奉仕は九月まで続いた。私たちがヨコスカの海軍工廠に学徒動員が決まったのは十一月だった。

 バスに揺られながら、私は連鎖的にそんなことを思い出した。その仲間のうち、もう六人も死んでいる。

 ――随分、昔のことを憶えているのね。それでいて、大切なことはみんな忘れてしまうんだものね。わたしは、バースディ・プレゼントなんか、あなたから貰ったことないもの。

 妻は皮肉まじりに云った。

 ――そんなことはないさ。いつも、ケーキを買って帰ったじゃないか。

 ――結婚した当時でしょ。それも、だんだん面倒になって。

 ――そんなことないさ。齢をとっただけさ、何も気付かぬうちに、あっと思う間に過ぎていってしまった。始まりがどんなふうだったか、もう忘れてしまったよ。することが山ほどあったのにね。

 私が云った。

 妻は口を噤んだ。

 バスは小さな集落に入って来た。

 高速道路からUターンして、村筋のY字形の道路沿いにバスが停まった。

 ――ボッシボンシ、ボッシボンシ。

 運転手が大声で云った。

 私たちはあたふたとバスを降りた。

 ボッシボンシで降りたのは、私たち二人だけだった。

 家並みもない、ただ野っぱらという感じの、だだっ広い交差路。バスの停留所の後ろは、雑草の生い茂った、なだらかな丘になっている。その向こうは見渡す限り葡萄畑の丘陵の連なりだった。

 ――こんな所で、乗り換えのバスが来なかったらどうするの?

 妻が云った。

 ――そんなことはないよ。来る筈だよ。待ち時間は十分くらいだと、あの日本人のガイドが云っていた。

 そう云いながら、私のなかを一抹の不安がよぎった。

 廃屋が一軒、幅広い道路の向こう側に立っていた。その廃屋の茶褐色の壁に大きな文字で、《DESTOROYED》と、赤いスプレイで塗りたくられていた。その意味がどんなものなのかわからない。

 ――どうするの。こんなところで、バスが来なかったら、本当に泊まるところもないわよ。

 妻が、苛立った声を出して云う。

 私も、じりじりした落ち着かない気持ちで、赤茶けた丘陵の折り重なった、荒れ果てた村外れの風景を眺め廻す。或いは、あの日本人のガイドが私たちを嵌めたのか、と云う思いも頭をかすめる。

  三十分近く待った。

 ――しょうがないな。バスはどうしたんだろう。

 私は腕時計を見ながら、悲鳴に似た声を上げた。

 ちょうど、その時だった。忽然と、丘の傾斜面の向こう側からバスが姿を現したのだ。《塔の町》行きのバスだった。

 ――バスが来た。

 妻が上ずった声を出して云った。

 黄色いバスが、車体をぶるんぶるん振動させながら、丘を上って来て、バスの停留所の前で停まった。乗車口のドアが、しゅうっという音と一緒に開いた。

 ――《塔の町》行きですね?

 ステップに足を掛けながら、私が云った。

 運転手は大きく頷き、私たちに早く乗れ、と合図した。

 バスはクラクションを鳴らして発車した。妻も私もバスの振動でよろめき、座席に倒れ込んだ。バスはボッシボンシの集落を斜め下の谷間に見ながら、すぐ山道に出る。丘陵地帯で、平野らしい平野はなかった。集落らしい集落もなかった。バスは底ごもったエンジンの響きを谷間にこだまさせながら、山間の曲がりくねった道を喘いで行く。バスが山肌をなぞるように幾つも折れて上って行くうちに、やがて、突然、眼の前の山頂に、城壁を張り巡して林立する塔が見えて来た。

 《塔の町》だった。

 それにしても、こんな山のなかの山頂に時代から取り残されて、いまもなお《塔の町》が生き続けている。山頂の町で、人々はどんな生活をしてくるのか。こんなに沢山の塔を、人々はどのようにして維持しているのか。

 ――《塔の町》が見えて来たわ。ほら、あそこ。

 妻がそう云って、私の方を振り返った。

 《塔の町》はいよいよ、私たちの眼の前に近づいて来た。

 《塔の町》で十人程の人たちがバスを降りた。みな、《塔の町》を散策する人たちに違いない。或いは、《塔の町》の小さなホテルにすでに予約を取っている人たちかも知れない。しかし、私たちは、三時間程の余裕しか持ち合わせていない。その限られた、わずかばかりの時間のなかで、《塔の町》を見て廻り、四時十分のフィレンツェ行きのバスに乗らなければならない。

 私たちは、まず停留所でフィレンツェ行きのバスの時間を確かめた。

 停留所を離れて、眼を上げると、天空に聳え立つ塔が私たちの頭の上にあった。いまは十三基だが、十四世紀の最盛期には、実に七十三基の塔が立っていたのだと云う。十三基の塔だけでも林立するという感じだから、山頂に七十三基もの塔が立っていた時には、どんな眺望だったのだろう。

 どの塔も長方形で、しかも、窓には装飾がない塔である。しかし、その単純さが一層、塔の垂直感を際立たせている。塔は、樅木に似た鬱蒼とした濃い緑の樹木と赤煉瓦の屋根の間から、塔とはこういうものだ、というふうに私たちを睥睨していた。

シエナのホテルで日本人ガイドから貰った案内書には、《塔の町》の俯瞰図がのっていた。その俯瞰図はちょうどスッポンが頭を下にして南北の方向に手足をのばした恰好に似ている。その首の付け根のところに、いま、私たちは立っていた。一五〇七年に建てられたという城門は三メートル程の赤煉瓦積みの四角形の三層の門で、その城門から左右に伸びる高い城壁が、山頂の町全体を取り囲んでいる。

 城門には衛兵所の跡があった。衛兵所のがらんとした暗がりの地面に壁面からわずかな水が滲み出していて、黒い甲冑に身を固めた屈強な衛兵がそこに屈まっているような幻覚を覚えた。

 城門をくぐると、何世紀も前の石造りの通りが小さな店々を広げ、陶芸品や木工品を売る店、コーヒー店、花屋、酒屋、レストラン等が並んでいた。しかし、それらはどれも控えめな店の構えで、通りの石造りのどっしりとした緻密な建物のなかにすっぽりと収まっているような佇まいだった。

 白塗りの標示があって、それには《サン・ジョバンニー通り》と記されていた。日本人のガイドがくれた案内書にはこんなふうに英語で書かれている。”

《サン・ジョバンニー通り》は、一番南の城門である《セント・グロバニー門》から十三世紀の石積みの建物が立ち並び始め、ここから美しい《塔の町》が始まる。ここには、かつて《セント・フランシス教会》があった。いまはその往時の跡をロマネスク風なアーケイドにわずかに止めるのみである。この通りを北に一キロの所に《泉の広場》がある。《塔の町》最も著名な広場である。中世の建築様式がここに完全な姿で残り、独自の雰囲気が伝えられている。広場はかつて《楡の木の広場》と呼ばれていた。一二七三年に現在の呼称に改められた。多分、当時の市長、G・マルボリー氏によって泉が造られた由来からだろう。彼の紋章は泉の後方の石台に現存している。町の記録によれば、市民たちは火急の時に備えて、広場に各自、陶製の瓶を用意していた。これを割った時には、市当局によって償わされたと云う。”

 私たちは重たいバックを引きずりながら、通りを歩いていった。道々、そぞろ歩きの観光客たちに何人も出会った。彼らは、やあと云うふうに笑い顔を向けて来た。妻も、私も笑顔を返した。見知らぬ者同士が偶然、町中などで出会った時に感じるような気安さがそこにあった。背負い籠のようなものに幼子を入れ、妻の手を引きながら歩道を闊歩する若者夫婦もいた。アメリカ人も、東洋人も、ギリシャ人も歩いていた。みなそれぞれ、塔のある町の点景になって、おだやかな表情で歩いていた。

 ――おい、ちょっと休もう。バックが重すぎる。

 私が音をあげて云った。

 ――そうよ。こんな大荷物を持っていたら、何処も見て歩けないわよ。あたし、ホテルを捜して来る。

 妻が云った。

 私たちは、ガイドがこの町にただ一つと云っていたホテルが何処にあるのかは聞いていない。

 ――じゃ、おれはここで待っている。

 ――動いたら駄目よ。本当にここにいてよ。

 妻はそう云って、後も振り返らずに足早に歩道を去っていった。

 ガイドは、手荷物などをどうすればいいのかまでは教えてくれなかった。

 私は妻を待ちながら、改めて《塔の町》の案内図を開いてみる。私たちが通って来た《セント・グロバニー門》を含めて、五つの城門がある。それらの門を支点にして、町のなかを通りが縦横に張り巡らされている。《泉の広場》の左隣に《ドゥオモ広場》があり、案内書には次のような説明が記されている。”

この広場は《泉の広場》とともに中世の最も文化的な遺産であり、高く聳え立つ塔が広場をなかにして簡素なドゥオモと相対している。塔は鐘楼である。その左手に回廊、右手は《双子の塔》と呼ばれる二基の塔が聳え立つ。この二基の塔は、中世期には法王派の宿敵である皇帝派に属していた。”

 法王派と皇帝派との争いの話は、日本人ガイドから聞いていた。十二世紀当時、法王派のアルディケリ家と皇帝派のサルブッチ家とは犬猿の仲だったのだ。

 ガイドはシエナのホテルでワインを飲みながら、私に云った。

 ――《塔の町》の散策の楽しみは何と云っても十二世紀の塔が中心です。中世時代に、この地の貴族たちが血肉を争いあった砦だったんですからね。でも、その後、《塔の町》は経済的に衰退して、そのお陰で中世ロマネスク様式、ゴシック様式の建築物が今日まで残っているんです。

 私は案内図を見ながら、その彼の言葉を思い出した。

 妻が戻って来た。

 ――ホテルはすぐに見つかったわ。荷物はフロントで預かってくれるって。本当に助かったわ。

 妻が云った。

 ――それはよかった。

 私もほっとした。

 ――すぐそこの通りのマーケットの向こう側よ。小さいホテルだけど、とても親切だったわ。

 妻が、どんなふうにしてホテルのフロントに頼み込んだのか、私にはわからない。しかし、とにかく、私たちは荷物を持たずに、手ぶらで自由に《塔の町》の散策を楽しむことが出来るのを喜んだ。

 通りを過ぎると、マーケットがあった。マーケットには、大通りに面した場所にさまざまな土産品や地方色豊かなクラフト製品が並べられていた。《塔の町》周辺で出来る籐編み物のバスケットやワイン、木彫りのスプーンやカップ、陶磁器の壷や花瓶、複製した古地図などだった。そのマーケットの入り口にある表示によれば、そこは曾ての《セント・フランシス教会》の跡地だと云う。しかし、いまは十三世紀か、十四世紀の、古い建物の外郭がマーケットに利用されている。マーケット内部はひっそりとしていた。疎らな観光客が土産物の品定めをしていた。

 ホテルはマーケットと隣り合わせにあった。黄色い石灰石で造られた、やはり何世紀も前の、古色蒼然とした小さなホテルだった。ロビーに敷きつめられた真っ赤な絨毯だけがシャンデリアに映えていた。

 フロントにバッグを預け、私たちはレストラン《アルフィオ》のテーブルに座って、やっとひと息つくことが出来た。

 ――わたしの英語、フロントでちゃんと通じたわよ。

 妻が得意げに云った。

 ウエィターが腰を屈めながら、妻の傍に立った。

 ――食事を済ましてから、塔を見て廻った方がいいわね。それに、私、お水が欲しいわ。

 炭酸の入っていないお水と、妻が英語で云った。

 私たちは、その《アルフィオ》で昼食をとった。

 私は一人で、《塔の町》特産だという黄金色のワインを一杯だけ飲んだ。

 食事を済ませて、私たちは《塔の町》の散策に出掛けることにした。

 案内図を見ながら、私たちは《泉の広場》の方に真っすぐ足を向けた。《塔の町》を東西に二分している通りを、私たちは北へ坂道を辿っていた。案内書には東西一キロ、南北二キロとあるから、小さな町に違いない。

 私は、くすんだ黄色の建物の佇まいや焦げ茶色の屋根々々、磨り減った石畳の坂道など、中世の名残を深く残したままの風景を眺めながら、《塔の町》を勧めてくれたシエナの日本人ガイドに感謝したい気持ちになった。

 ――あたし、この風景、映画で見たことあるわ。そう、あたしたちがまだ茅ヶ崎に住んでいた頃よ。確か、《ブラザー・サン・シスター・ムーン》という映画だったような気がする。塔が幾つも聳え立っていて、白い石畳の町だったわ。どんな筋の物語だったか、忘れてしまったけど、ふっと思い出した。

 わたしには、そんな記憶はない。《ブラザー・サン・シスター・ムーン》という映画も見た記憶など何ひとつない。茅ヶ崎時代といえば、私たちのドン底の時代だ。もう二十何年も前の昔の話だった。

 ――映画のこととなると、きみはよく憶えているね。

 ――《塔の町》に来るまではちょっと不安な気がしたけど、なかなかいい町ね。観光客でごったがえす町でもないし、ひっそりとしていて、寂寞とした、とでも云うのかしら。

 妻が云うように、私たちは観光客とは殆ど出会わなかった。土地の人の姿も見かけなかった。中世の石畳道を私たち二人だけが歩いた。

 《泉の広場》は二百メートル程、坂を上ったところにあった。

 ちょうど、その広場の中央の泉の傍では、テレビのビデオ撮りらしい撮影が行われていた。モデルの若い女が右手を項に添え、笑みをたたえながら、大きく胸を張ったポーズでカメラに向かっていた。銀紙の反射板を持ったアシスタントの男がスタートの声をかけていた。もう一人の介添えの女が黄の衣装を胸に抱えて立っていた。どんなコマ撮りをしているのかわからないが、モデルは白いドレスを着てい、真っ赤なバラを髪に差していた。笑顔が美しかった。私たちは暫くの間立ち止まって、彼らが泉の傍で撮影するシーンに見とれていた。彼らのビデオ撮りはすぐに終わって、お疲れさまというふうに歓声を上げた。彼らには若さが溢れていた。彼らには、明日があった。嫉妬めいた感情がふっと私のなかに湧いた。

 ――素敵な若者たちだわ。何の撮影かしら。

 妻が云った。

 私は妻に応えるかわりに、心のなかでこんな呟きを自分自身と交わしていた。

 ――私たちは、日本からはるばる定年退職の休暇を貰って、夫婦でこの《塔の町》にやって来たんです。日本に帰ると、私の定年の日が待っています。どうです。きみたちのご自慢のこの《泉の広場》を背景にして、私たちの記念写真を一枚撮ってくれませんか。

 しかし、若者たちは声高に話し合いながら、そそくさと撮影の道具を取りまとめると、坂道を下って行った。華やかな喧騒さの後に、私たちだけが取り残された。広場の隅には、市民のために泉を掘ったと伝えられる、十三世紀当初の市長、G・マルボリー氏の紋章が黒い石台の上に残されていた。しかし、法王派と皇帝派の争いがここの《泉の広場》を中心にして血みどろの争いを繰り返していたに違いない。或いはまた、この小さな町で共同社会をつくっていた住民たちがこの泉に集まり、噴水で喉を潤しながら、東西の教会が鳴らす鐘の音を平和な祈りの響きとして耳にしていたのだろうか。

 広場の左手に隣接して、もう一つの広場、案内書に云う《ドゥオモ広場》があった。広場は七基の塔に取り囲まれ、階段を少し上った高台に回廊が巡らされている。簡素なドゥオモ。その隣りに聳える《双子の塔》と呼ばれる二基の塔が広場を隔てて、五十四メートルの鐘楼と対峙している。私たちは嘆声を上げて、群塔を見上げた。恐らく、シエナの日本人ガイドが私たちに勧めたのは、この眺望だったに違いない。私たちは、歴史のずっしりと重い、時の流れを感じ取った。

 私たちは《ドゥオモ広場》を抜けた。案内図を頼りに道なりに《セント・マテオ通り》を左手に見て真っすぐに歩いてみることにした。その通りの突き当たりに第四の城門がある筈だった。時計を見ると、二時を少し廻ったところだった。あと、一時間程歩いた後、荷物を取りにホテルに戻ればいい。フィレンツェ行きのバスの出発の時間までたっぷり二時間程ある。私はそう思った。

 ――この道を真っすぐ北の方へ歩いて第四の城門のところまで行ってみよう。そこから《フォルグロレ通り》の《セント・ジャコブ門》に出て、《塔の町》を取り巻く城壁沿いに道なりに下ってくると、《泉の広場》に帰って来られるよ。

 私は案内図の上に赤いマジックペンで線を引きながら、妻にそう説明した。所要時間は一時間だろうと、私は思った。

 私は妻の先に立って通りを歩き出した。振り返ると、赤茶けた屋根の合間から灰色の、細身の角塔が五つ重なり合って見えた。塔にはそれぞれ高低があったが、どの塔もその鋭い稜線を垂直に伸ばし、力強い量感を空中に漂わせていた。

 ノコギリ状の胸壁を持った、石造りの、巨大な茶褐色の建物や煉瓦積みのアーチ型の建物が並ぶ通りを、私たちは第四の城門の方に向かって歩いていった。

 間もなく、Y字形の道にぶつかった。そこから急斜面の台地に同じ石造りの三階建ての建物が重なり合い、その間を二本の道が左右に分かれてくねくねと続いている。私たちは右手の道を選んだ。すると、次第に道幅が狭くなり、幾つもの道が入り組んで、どれが《フォルグロレ通り》に出る道なのか、判断出来なくなった。

 ――あなた、道が変よ。だんだん細くなるみたい。

 突然、妻が云った。

 ――そんなことはない。確かにこの道だよ。

 私が云う。

 私は案内図を広げて、私たちの現在地を確かめてみる。《ドゥオモ広場》を抜けて、《フォルグロレ通り》に向かって歩いて来たことは確かだった。

 ――この通りを突き抜けて、左の方に真っすぐに折れていけば、《セント・ジャコブ門》のところに出られる筈だよ。

 私は事もなげにそう云った。

 しかし、道はますます左右に入り組んだ形になって、まるで石の砦のなかに迷い込んだような感じになった。大きな石組みの楼門のような建物が私たちの前に立ちはだかった。

 ――何処まで行くの。もう時間がないのよ。

 妻が不安げに私の腕を引き戻すようにした。

 ――引き返しましょうよ。

 その時になって、私には東西一キロ、南北二キロの小さな町だと聞いていた《塔の町》が、俄に底深い、巨大な都市に感じられて来た。引き返すと云っても、どの道をどう引き返せばいいのか。もう案内図も役立ちそうになかった。それでも、ともかく、わたしたちはもと来た道を引き返すつもりになり、すぐまた、別の道に迷い込んだ。

 ――どうするつもりなの、あなた。道を聞くにも誰ひとり、出会わないじゃないの。

 妻が云うように、《泉の広場》でテレビのビデオ撮りをしていた若い数人の男女以外には、私たちは誰一人出会わなかった。

 ――あなた、昼間からワインなんか飲んでいるから、こういうことになるんだわ。フィレンツェ行きのバスの時間に間に合わなくなったら、あなた、どうするの?

 妻がもう一度云う。

 急に眺望が開けた。私たちの視野いっぱいに山頂の下に拡がる葡萄畑や赤茶けた煉瓦積みの家々、直立する糸杉の木立、その間を蛇行する街道、崩れかけた教会の尖塔。そうした風景が、突然、私たちの眼に入って来た。いつの間にか、私たちは、《フォグロレ通り》を通り越して、ジグザグした細い道を辿りながら、北の端の城壁のところまで迷い込んで来てしまっていたのだ。

 ――もう、フィレンツェ行きのバスには間に合わないわ。

 妻が云う。

 ――あんたは、あのシエナの日本人のガイドにうまいこと云われてお調子に乗ったのよ。

 ――とにかく、この城壁に沿って道なりに真っすぐ行ってみよう。まだ、バスの時間までは大分間がある。

 私は自分に言い聞かせるように、そう云った。

 しかし、フィレンツェ行きのバスを逃してしまったら、どうすればいいのか。フィレンツェのホテルで六時に落ち合うことになっているツアーの仲間たちとはどう連絡を取ったらいいのか。

 私たちは、北側の城壁沿いに道を選んだ。《塔の町》の中心部を軸にして時計廻りに迂回する恰好になった。地図の上で、私はそう思った。城壁に沿う石畳道はくねくねと同じように何処までも延びていた。右側にはこれも石造りの建物が峙っていた。やがて、城壁側に建つ三角形の館ふうの奇妙な建物に突き当たった。そして、道は右なりに迂回していく。石の壁が一本の灰色の石畳道を挟んで私たちを取り囲んでいる。

 ――どうしよう。

 妻が云った。

 見ると、その先は行き止まりになっていて、階のような平たい段々があって、その向こうに赤煉瓦を積んだアーチ型の門が行く手を阻んでいた。その門の内側を一人の黒い僧服を身に纏った男が、足早に過るのが見えた。

何処かの塔で、鐘の鳴る音が聞こえた。

 腕時計を見ると、フィレンツェ行きの出るバスの時間が近づいていた。そのバスを逃がすと、私たちは今夜、山頂の《塔の町》の広場で一夜を明かさねばならない。     ─了─