編集者として
文学者への尊敬の念
私は文学者を尊敬している。雑誌編集者になる前も文学者を尊敬していた。いまは、着実に、尊敬しているが、前はふわふわっと尊敬していたように思う。
私たちが少年から青年になるころ、文学を好きになる人たちは日本文学の全集と岩波文庫の赤帯によって素地が作られた者が多いと思うが、私もその赤帯と改造社の円本とで文学好きになってしまって、活字の彼方に文学者の顔を思い浮べながら憧れるような気持で尊敬していた。
新しい外国文学を渇仰していた終戦直後に「群像」が創刊され、私はその編集員になったのだが、暫くして、ブランデンが文化使節として来日すると聞いたから、私たちはすぐ詩の依頼をした。彼は日本へ船旅でやって来た。依頼してあった詩は日本ペンクラブの会に招ばれているからそこでお渡しするという。私はプレスクラブの「リッツ」ヘ行ったら尊敬している文学者たちでいっぱいだった。わずかの会費だのに、そのころ滅多にお目にかかれなかった生ビールの大ジョッキが出ると、文学者たちが「これ一杯きりかな」とか「何杯のんでもいいのかね」とか「これは安いから会費を倍出してもいいからもう一杯のめないかな」とか、いくら物のない時代でもわが尊敬する文学者たちは私の思っていたほどにはお上品でないな、と思ったりしているうちに、次第に酔っぱらい出して、私がきいてもすぐわかるブロウクンの英語で、変な身ぶりしながらブランデン氏に話しかけ、詩人は当惑したようなはにかんだような顔で、酔ったわが文学者たちに相対していたが、それを見ているうちに、私の尊敬の心が少し変って来た。
そのころ原稿依頼に出かけた先ざきで「この間あいつがあんなことを言やがったから、こんどうんとやっつけてやるんだ」などというのをよくきくにつけ、そんな時は「この間の彼の議論はしかじかの欠点があるから、こんどその点を批判しよう」などといったような口ぶりで文学者はいうのだろうと考えていたから、まるで無頼漢のような言い方だと思って、私は文学者たちの姿を見ちがえていたらしいと気がついた。
著書の扉などにある写真から漠然と考えていた文学者の像は、その言動をじかに見ることによって随分変化して来た。それにつれて尊敬する心も次第に変化して来た。
私の編集者稼業も五年になり十年になるうちに、文学者を尊敬するふわふわっとしたものがすっかりなくなってしまったが、尊敬する心は依然として衰えなかった。
私は文学者をふわふわっと尊敬するあまり、文学者像の中に君子とか人格者といったものもはめこみ、理解し難い偉い人と思っていたが、次第に身近かな、理解の届く、強烈な魅力ある存在として映じるようになった。そして文学者の中でも物凄く尊敬すべき人と、少しばかり尊敬すべき人との区別がわかるようになった。
私は文藝雑誌の編集者だから純文学畑の人ばかり尊敬していたが、大衆文学畑の人も少しずつ知るに及び、尊敬する文学者の幅も広くなった。というのは私の知っている文学者にある事件が起きて、その人の友人の純文学畑の人と大衆文学畑の人とが一緒にそれを処理しようとしたときに、純文学畑のある人は誠に腑甲斐なく、大衆文学畑のある人の方が胆が坐っていて大変立派だったからだ。柴田錬三郎氏が、純文学と大衆文学とは書く人間の才能のちがいで、自分には純文学を書く才能はなく、大衆文学の方だからオレは大衆小説を書くのだ、と言っていたが、書くものが何であろうと、立派な人もあれば立派でない人もあるのがわかったのである。
文学者をふわふわっと尊敬していたのが、はっきり見すえて尊敬するようになってから、尊敬の気持を少しでも裏切るような文学者に対して、私は次第に噛みつきたくなるようになってしまった。例えば大事な仕事をほっぽり出して、経済的には足しになっても、文学者として何の足しにもならぬような中間小説を書きなぐっている文学者に悪態をついたり、公正な批評をしないとか、つまらぬものをおつき合いでほめるような批評をする文学者には、私の雑誌できびしく批判してもらうよう他の文学者に頼んだりするようになってしまった。
私の文学者を尊敬する気持は昔も今もおお根に於てはあまり変りがない。ふわふわっとしたものが取れてしまったら、尊敬すべき文学者像がはっきりしただけだ。私の持っている文学者像には女や金のことで人に迷惑をかけることがあっても、立派な根性を持っており、金がなくても平気でおり、マスコミの華々しい流れに目をうばわれずに自分の仕事を大事にしている、といったように宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のような条件がその他にもビラビラくっついているのだった。
とはいうものの、大事な仕事中に、ラジオに出るのもいろんな義理からであろうし、講演旅行に出かけるのも気分転換ということかもしれないし、中間小説を書くのも純文学だけでは食っていけないからだろうなどと、尊敬する文学者の立場を理解する心のゆとりもあるにはある。あるけれども、しかし、尊敬している文学者から、尊敬を裏切るようなかけらでも嗅ぎ出すと、胸の中ではすぐ噛みつきたくなってしまうのである。それが胸の中におさまっている間はよいのだが、目に出、顔に出、姿に出、口にも出てしまい、時には自分の雑誌の匿名欄でケチをつけてしまうこともあり、尊敬しているにも拘らず、文学者を不愉快にさせてしまったりした。
よくよく考えてみると、私は編集者としてあまりにも文学者というものを尊敬しすぎているらしい。ふわふわっと尊敬したのが、着実に尊敬するようになったけれど、尊敬しすぎるのもされる方にとっては迷惑なことだろうと思う。悪女の深情とはこんなのをいうのだろうか。
(「三友」第三十七号 昭和三十七年五月)
終戦直後の新米編集者
昭和二十一年の秋、「群像」という文藝雑誌が創刊されるというので私は講談社を受けた。入社してみると八名の新入社員のうち七名が「群像」志望だった。他の部署に配属になればすぐ会社をやめるつもりでいたが、私だけ「群像」に配属された。その後「群像」にも屡々人事異動があった。しかし私の後には十数年間新入社員の配属がなかった。私は編集長になるまで九年間、常に末席にいて、お茶汲み、部屋の掃除、贈呈雑誌の宛名書き(最初のころは筆で書いた)部内庶務係(つまり雑用係)原稿料係(当時は新円切替で甚だ厄介だった)など、ずっと下働きをした。甘んじてやったのではない。いやいやだったのだがともかく手をぬかずにやった。そんな下働きの間に私はいろんなことを覚えたように思う。
既成作家や評論家は先輩がみな担当していて譲ってくれなかった。だから私は先輩の使いでなければ文士を訪問出来なかった。使いがいやだったので新しい寄稿家を自分で開拓しなければならなかった。私はせっせと新しい執筆家を提案した。
終戦直後は海外文学に飢えていたので、私は外国文学者によるその紹介もよく提案した。それが通ってその依頼に、午前中は英文学者を訪ね、午後は中国文学者と仏文学者を訪ねるということもあった。こちらは何も知らぬのにその道の専門家を相手に喋っていることに自己嫌悪を感じ、自信のない不安もつのって、人を訪ねるのが次第に気重になった。それにカストリも手伝って胃を悪くした。
私は文士と向い合ったときの自信のなさを少しでもカバーするために、これから訪ねる人の最近書いた文章を読み漁り、文藝年鑑のようなもので出身地、出身校、生年月日から趣味に至るまで調べ、その人について社内に知っているものがいると詳しく聞いたりしてから出掛けた。それが訪問前の癖となり、それでいつの間にかほとんどの文士の略歴を憶えてしまった。
訪ねる相手についての知識を詰めこんで出掛けても、編集会議で決ったことを告げるのがやっとで、新米の私には嫌がる相手をうまく説き伏せ、こちらの意図通りにいいものを書いてもらう技術も余裕も全然なかった。当時姫路にいた阿部知二氏を訪ねて座談会の依頼をしたとき、承諾してくれないのであっさり諦めて立ち上ったら、まあまあ君、と気の毒がられて結局引き受けてもらったこともある。
伊藤整氏は今は忙しくて編集者とゆっくり話す暇もないようだが、和田本町、そこから移った日野のころは、いろんな話をされて、半日過すことが多かった。先輩たちが文士に先生といっているので、そう言えばいいのかと思って伊藤先生といったら、例のはにかんだ顔して、「先生ねえ……。武田泰淳君もね、北大であうと伊藤先生って言うんですよ。教師は互に先生って呼びあうからでしょうがねえ。しかし、先生は困るなあ。戦時中にね、折口信夫さんと講演旅行したとき、一緒に行った高崎正秀さんがね、折口さんに先生、先生っていうんですよ。あれは恩師だから自然なんでしょうけどねえ……」
といった。私はひどく恥かしくなった。先生というとき私の真情が籠っていないのだ。それ以後私は伊藤さんということにし、他の文士にも先生とあまり言わぬことにした。「よし、この作家のものを」と思っているときは先生なんて口から出て来ない。私はいまでも先生といってしまうと、とたんに事務的になって、力が抜けてしまう。
(出版編集技術月報2昭和四十三年四月)
男尊女卑と言われる者の弁
現代日本の男性像あるいは父親像はしかじかだ、と言える資料も能力も私にはない。男性であり父親である自分自身についてなら言うことができるが、文藝評論家の佐々木基一氏の近著に一種の奇人と書かれた私などの言うことに、一般性などあるわけがない。とは言え、私は自分を奇人と思っていないから、先日、ある会合で佐々木氏に会った時、心外千万ですと抗議した。すると居合せた親しい人たちが、口をそろえて奇人に間違いなし、と言い、四十年来の友である遠藤周作君の如きは、狂人が自分を狂人と思っていないのと同じですよ、と言った。みなが笑ったら、遠藤君は味方を得たかのように、頑迷な封建主義のもとに育ち、鞏固な男尊女卑思想を持った今時珍しい日本人だと言って、家庭内の私の横暴ぶりを例をあげてみなに話した。小説家というものはとかく大げさにおもしろおかしく話すもので、特に遠藤君にはその癖が強いから、それは私に似た別のものになっていたが、仮に多少とも遠藤君の言うとおりだとしたら、私が己を語り、それを逆にして見れば、一般的な現代日本の男性像を少しは浮び上らせることになるかもしれぬ。
遠藤君は、家庭内で、メシ、フロ、ネルの三言を申しつける以外に口をきかない人物を小説に登場させているが、私をモデルにしたのだ、とその時言った。それは遠藤君の誤解で、私の父のことであるが、それも正確ではない。男は日に三つ物を言えばええ、というのが父の訓誨であった、と昔遠藤君に話したことがあるのだ。その三つが遠藤君によって、メシ、フロ、ネルになってしまったのである。男はあまりしゃべるものではないという考えを身をもって示しているかのように、父は極めて無口で、公の場ではともかく、家庭内では日に三言もしゃべらないことが始終であった。不肖の私はよくしゃべるほうだが、今でもよくしゃべった後には必ず二日酔のような自己嫌悪にまみれてしまうのも、父に植えつけられたコムプレックスのせいである。
七、八つのころ、座敷に紙屑をちらかしたら、同居の従姉が、今掃除したばかりやのにそんなにちらかして、自分で掃きなさい、と言ったのを聞いた文久三年生れの祖母が、男の子にほうきを持てというのか、と従姉を叱っていたのを記憶している。そんな家に育った私には、遠藤君の言うように、男尊女卑の習俗が根強く残っているのだろうが、その代り、家族からはもちろんのこと、私の家で働くすべての人から、「ううむ、男の子ならッ」と言う声を年中浴びせられて、高い所から海に飛び込まされたり、年上の子と相撲を取らされたり、近ごろの過保護とは全く逆の扱いをされて育った。外で卑怯なことをしたり、弱い者いじめをしたりしたら、家の中に入れてもらえなかった。田舎の昔気質の家では、男の子はだいたい私と似たりよったりの育て方をされたのではあるまいか。
そんな育て方をされて、私は強い男になったかというと、そうではない。戦争に引っ張られた時、死ぬことよりも、卑怯なふるまいをしてしまうのではないかという恐れが最も強かった。自分に自信がなかったのである。佐世保で初めて空襲にあった時、逃げ隠れした将校がいても、私は機銃の指揮をとって最後までデッキに身をさらしていたが、空襲が終ってまず胸にひろがったのは、おれは卑怯なふるまいをしなかったぞという喜びであった。逃げ隠れしなかったのは、急な空襲で逆上していたからで、勇敢だとは毛ほども考えなかった。今に至るまで自分を勇敢な男だと思ったことがない。ほんとうは弱い男なのだが、どうにか今日まで卑劣なことをしないでこられたのは、子供のころの躾のせいだと、それだけは有難く思っている。
阿川弘之氏は私より一つ年上で、共に海軍の将校となって戦争に参加し、同じ時代の空気を吸って生きてきたのだが、広島と私が育った紀州熊野とは随分離れているけれども、男の子として共通したところの多い育て方をされてきたのではないかと思う。そう思ったのは、昭和三十年代の半ばごろ、阿川氏の私小説風の短編をいくつか読んだら、主人公の心情が、私には非常に身近なものに感じられたからである。阿川氏も亭主関白という噂が高かった。二十年ほど前にはいつ死ぬともしれぬ海軍の生活をしていたものが、生きて帰って家庭を持ち、中年の家長となって、妻子を抱えて世の中に立ち向っている男の心境を阿川氏が書けば、必ずいいものができるにちがいないと考えて、私はそんな長編の私小説を書くようにすすめた。昭和三十年代の終りごろであった。阿川氏もそういうものを書きたい気があったといって、数年費やしてでき上ったのが『舷燈』という小説である。私は自分の雑誌に予想どおりのいい作品を掲載することができて満足であったが、それは一応高い評価は得たものの、その文学性よりも、女房を殴る場面からその小説が始まっているので、そのほうが専ら話題になり、週刊誌の記事にもなった。戦前は女房を殴ることなど大したことではなかったが、その作品が発表された昭和四十一年ころでは、絶対に悪であった。批評もその点にこだわっていた。遠藤君は、阿川は男ならだれでもやってみたいという空想を小説にしたんじゃないのかなあ、実際にあんなに殴ったりしたわけじゃないんだろうねえ、と言っていた。その言葉からすると、遠藤君も、できれば自分もやってみたかったのではあるまいか。
『舷燈』は純文学作品だが、ある種の西部劇と似ているところがある。子供向けのテレビ番組で『大草原の小さな家』というのを飯を食いながら見たことがあるが、それは亭主として、父親として、家族を抱えていろんな困難にぶつかりながら草原を開拓し、家庭を築いていく話だ。敗戦後のどん底の日本に帰って、何も物のない中から家庭を築いてきて、今では中年の家長になっている男の心境を語った『舷燈』と通い合うところがある。
ただ、両者には二つの明らかなちがいがある。その一つは、西部の男は女房を殴らないが、『舷燈』の主人公は殴ることだ。女房を殴ることなんて大した問題じゃないじゃないか、と言ったりしたら猛烈な非難を浴びそうだから迂闊には言えないが、年中女房に暴力をふるっているわけでもないし、たまにかっとなって殴ってしまうことなんか大目にみてもいいじゃないか、殴る殴らないは日本とアメリカの歴史や習俗のちがいにすぎないのだ、と私は内心では思っている。
もう一つのちがいは、『大草原の小さな家』の主人公は女房によく優しい言葉をかけるが、『舷燈』の主人公は決してそんなことはしない。これもアメリカと日本の習俗のちがいだけで、妻を愛するほんとうの気持は『舷燈』の主人公のほうが強いかもしれない。その主人公は女房への愛情を片言隻句も口にしないが、それが行間ににじみ出ている。私小説の大家尾崎一雄氏は『舷燈』を、あれはおのろけ小説ですよ、と言ったくらいだ。
女房を殴る男なんて、絶対許せない、と言う女の人がよくいるが、私は本気で言っているのかと疑う。亭主として、父親として、絶対に許せないのは頼りない男ではないのか。家長の第一条件は家庭の中で頼もしい存在であることだ、と私は思う。殴ったりなどしなくて、大変優しいけれども頼りない男では、どんな家族でも御免こうむりたいのではあるまいか。それとも、今の女性には、『舷燈』の主人公よりも、『夫婦善哉』の柳吉のほうが気に入られているのだろうか。頼りない家長なんて家長ではなく、家族にとっては単なる同居の男にすぎないのではないかと思うが。
私は若い人たちを連れてゴルフに行くことがよくあるが、四、五年前、後輩の一人に、こんどの土曜日に行こうか、と誘ったら、私は是非連れて行ってほしいんですが、うちヘ帰って女房と相談しますから明日御返事いたします、と言われてびっくりしたことがある。今の若い人たちの家庭では、たかがゴルフに行くぐらいのことで女房に相談しなければならないのだろうか。女としても、ゴルフに行くぐらいのことで相談しかけてくるような男を腑甲斐ないと思うのではないか。その翌日、大変残念ですが、と断ってきたので、私は考えなおした。彼は先輩から誘われて、行きたくなかったのだが、無下に断るわけにもいかず、女房を盾に使ったのかもしれない。しかし、私なら女房に相談するなどとは絶対に言わない。男の沽券にかかわる、というわけではなく、女房のことなど決して頭に浮びはしないだろうから。若い人たちの間では、女房を盾にすることが何よりも有効なので、つい私にもそれを使ってしまったのかもしれぬ。それとも、彼がゴルフに行くのを相談するように、妻君もまた、明日美容院へ行っていいかしら、などと相談しているのであろうか。夫婦がそれぞれ勝手にものを決めるのではなく、ささいなことでも相談し合って決めるというのが新しい日本の家庭なのだろうか。
最近のマスコミ情報によれば、家庭内暴力や子供の非行は、父親の存在感の薄い家庭によく起るようである。外に出て、いろいろいやなことやつらいことがあっても我慢して働き、金を稼いで家計を支えている家長たる男が、どうして家庭の中で存在感を失ってしまうのだろうか。私にはよくのみこめないのだが、もしかしたら、そんな家庭では、民主主義や男女平等が猛威をふるっているのではあるまいか。民主主義も男女平等もそれ自体は結構な思想だが、これが破邪の利剣さながらに、一家の主人に対して、封建主義よ、男尊女卑よ、という掛け声とともに襲いかかっているのではあるまいか。いかなる立派な思想でも、杓子定規に使われれば凶器となる。敗戦前は、赤だ、という決めつけが猛威をふるい、戦後は、反動だ、という決めつけが人々を威圧した。戦前の日本の男の、女に対する習俗には改革すべき点が多いが、敗戦以後の、封建主義だ、男尊女卑だという決めつけに、日本男児がすっかり萎縮してしまったのではないか。先日もテレビニュースで、女性主導型の離婚がふえてきたと報じていたが、もし日本の男性が萎縮していて、頼もしさがなくなっているとしたら、女性から三くだり半を投げつけられるのは当然だろう。
ここで遠藤君の顔がふと頭に浮んできた。彼は例のいたずらっぽい笑みをたたえた口もとから言葉を発する——何を言うとるんですか、戦後強くなった女性たちは封建的な男にいつまでも我慢はせんのです。あんたのような男尊女卑思想の男にどんどん離婚を迫っとるんです。そのうちあんたのとこでも……。
遠藤君は、この文章も、家族に対して私が体裁のいい言い訳をしているととるかもしれぬ。
(「あけぼの」昭和五十九年六月号)
「侃侃諤諤」の経験
近頃匿名批評がおもしろくなくなったが、なぜか、と言われても、匿名批評に特別興味を持っているわけではなく、たまに目にふれたのを読むだけだから、おもしろくないのもあるが、私の知らないおもしろいのもあるかもしれない。私にこの問いに答えさせようという意図は、お前は嘗て編集者として「侃侃諤諤」という欄を持っていたから、匿名批評には何か言うことがあるだろう、ということらしい。それに対して今の私には古い思い出を書くしかない。
「群像」に「侃侃諤諤」を設けたのは昭和二十六年の十月号からであった。匿名批評欄の名前を決める編集会議で、一番下っ端の私が「侃侃諤諤」を提案したらそれに決った。しかし、そんな見馴れない漢字では読み方のわからぬ人もあろうという意見が強く、残念だったが「かん・かん・がく・がく」と記すことになった。翌年から「侃侃諤諤」としたのだが、やはり文壇でもケンケンガクガクと読む人がかなり多かった。この欄は自分の命名だったせいで、私は大事にした。
ある新聞の匿名欄では、筆者の名が私たちにもすぐ伝わって来ていて、そのため思い切ったことが書けぬ、という常連筆者の言葉を聞いたので、私たちは死んでも筆者の名を明さないようにしよう、と言って、原稿料の帳簿も、社内の他部署のものの目にふれてもわからぬようにした。
雑誌の見本が出来て、それを持っているとき文士にあい、これがこんどの号です、と差出すと、まず「侃侃諤諤」を見ないとね、と言ってすぐその欄を開く人が多かったが、文壇に超然としているといわれていた作家も、目次を見るなり、私に見えぬように雑誌を高くあげてさっと「侃侃諤諤」に目を通しているのがわかって、やはり文士は匿名批評が気になるのか、と思ったことがある。
梅崎春生氏もまず「侃侃諤諤」を読む方で、郵送の雑誌が届くとすぐ、今月の「諤諤はAですね」と電話をわざわざかけて来た。その命中率は割に高く、よくどきりとさせられたが、なるほどAさんねえ、いい線行ってますが、あと一歩ですねえ、などと胡魔化したりしたものである。
梅崎氏の外にも多くの文士が私たちから筆者を探ろうとした。
「今月はBだ」
と確信に満ちた断定を下し、私たちの顔を睨むように見つめる。私たちがはっとしてそれを顔に出してしまうのを読み取るのである。同じような手で、Aだろ、ちがいます、Zだろ、ちがいます、Bだろ、ちがいます、Yだろ、ちがいます、と次々に名前をあげて、当ったときのかすかな表情の変化を読み取ろうとするのだが、私たちもポーカー・フェイスがうまくなり、あとから、嘘をついてすみません、実は六番目にあげられた人が正解でした、などと言って応戦し、待てよ、おれは六番目に誰をあげたかな、と思い出そうとしているのを眺めて守勢から攻勢にまわったりした。
「第一ヒントだけは正直に答えてくれよ、いいね。近代文学の評論家、どうだ」
などという人もあった。
「今月のは何某君なんだね。隠したって駄目だよ、君。昨日彼にあったら、おれが書いたって言ってたよ」
と言ったりする。編集部のものが、本人がばらしたんならしょうがないですね、と言ったら、そうか、やっぱり何某君か、とまんまとひっかけられたことがあった。あとにも先にも編集部のものが筆者を明してしまったのは、この手でやられた一度だけである。
こんなこともあった。作家O氏が「侃侃諤諤」で友人の評論家F氏をからかった。O氏はF氏が数度その「侃侃諤諤」のことを持ち出し、はっきりあれはあなたが書いたとは言わないのだが、わかってますよ、といわんばかりに匂わせるので、つい白状したら、えっ、あれはあなただったのか、と言われて、しまったと思ったが後の祭だったということがあった。匿名は本人と勧進元さえばらさなければなかなかわからないものだと思った。
筆者を当てようとするのはクイズのような面白さがあったにちがいない。私たちが絶対に喋らないことは百も承知の上で、何とかそれを当てようとするのだからその遊びがよけい面白かったのかもしれない。
今でもそんなことが行われているのだろうか。文士が「侃侃諤諤」の筆者当てをこのように楽しんだということは、その欄が成功していたと考えていいのかもしれない。
一度安易に依頼したために問題が起きて困ったことがあったから、私は「侃侃諤諤」は文壇で確乎たる業績のある文士にお願いした。それでも出来が悪かったり、筆者が思いちがいをしていたりすることもたまにはあって、そんな時は、担当者が誰であっても私が責任者として筆者のところへ伺って不掲載の諒承を得た。
題材については何を書いていただいてもよかったが、編集部から材料を提供することもあった。こちらが大きな仕事をしてもらおうとしている作家を槍玉にあげられて困ることもあった。最初のころ一度だけ、事実に間違いがあるとして抗議を受け、その抗議文を掲載したことがある。
室生犀星氏から、編集者っていうのは怖しい人たちですよ、ひとのことを自分の雑誌でさんざんやっつけておいて、それで何食わぬ顔して訪ねて来ますからね、と言われたことがある。内心は大いに波立っているのだが、何食わぬ顔をするしかどうしょうもないのである。自分が書いたわけではなくとも、自分の雑誌で貶した作家のところへ平気で訪ねてゆける編集者はまずいまい。ましてや匿名であれば全責任が編集部にあるのだから、尚更平気でいられないのだが、そのつらいところを我慢して、筆者に自由に、思う存分のことを書いてもらわないと、匿名批評欄はよくならないと思う。
高見順氏が自分の作品について、T氏が署名で欠点をついている批評を読んだあと、匿名で賞めているのもT氏であることが解って、Tはえらい、と言っていたことがある。匿名では賞め、署名では欠点をつくという文士はほかにもあるようだ。これは立派な考えなのだろうが、私たちのように雑誌造りの側から見ると、どうも窮屈なことで、匿名批評はやはり貶す方が本筋ではないかと思う。賞める匿名批評がずらずらと並んでいるのを想像すると、あまりおもしろくなさそうな気がする。
匿名で書いたものをエッセイ集の中に入れる文士もある。匿名であろうと署名であろうと、書く態度は同じだから、書いた場所がたまたま匿名欄であったために匿名にしただけのことであって、エッセイ集にそれを入れるのは当然のことだ、という考えのようである。これもまたもっともなことであろう。
しかし、私は匿名批評は永遠に匿名であるのが本筋ではないかと考えている。甚だ大袈裟のようだが、匿名批評というものは、万民を代表してとか、天に代りて不義をうつ——不義などというのは適当ではないが、天に代って批判する、天に代ってからかうものなのではあるまいか。天に代って書いたのだから、発表したとたんにそれは天のものになってしまって、筆者の名は永遠に消えてしまうべきものではないか、という考えを私は持っていた。別に私は自分の考えをおつけたりはしなかったが、そういう考えのもとに「侃侃諤諤」欄を編集し、できるだけ誰にも見破られないように努力した。たとえば筆者が他の場所で発言したことが出て来たり、裏声でうたっているところに急に地声がちらっと出て来たりすると、そこのところに手を入れてもらったりなどしたものである。
江戸の町に人知れず貼り出された落首が匿名批評の原型だと私は思う。落首には、いま街で見かける「ナニナニ絶対反対」とか「ナニナニの暴挙断乎粉砕」といったようなビラとちがって、批評と藝がある。江戸の人たちはその藝をも楽しんだにちがいない。匿名批評にも藝がなければならない。匿名批評には、やられた本人ばかりでなく、第三者が読んでも不愉快になるようなのが時たまある。匿名批評欄は人をやっつける罪なところだから、やられた人には実に気の毒だが、せめて第三者がおもしろいと思うようでなければならない。私は、やられた人が、うまくやりやがったな、と苦笑しながらつぶやくようなのを「侃侃諤諤」欄に毎号掲載してゆきたいと思っていた。毎号というわけにはいかなかったが、そういうのは今でも鮮かに記憶している。私怨を晴したりしたのでは第三者にもおもしろいわけがない。論争の相手をつまらぬことでケチをつけた人のことを、才能のあることは認めるが文士として心底から信頼できない、とある作家が言っていたことがある。
小林秀雄氏に、批評とは無私を得る道である、という言葉がある。それをもじって、匿名批評とは無私を得る早道である、と言いたい気がする。落語家の卑下のように、われわれしがない匿名子は云々といったような文句をよく見かけるが、匿名批評は卑下すべきものではあるまい。
(「三田文学」昭和五十年十一月号)
督促は愛より
第四十六回国際ペン大会がヴェネズエラのカラカスで九月二十五日から開かれるので、来年の五月に大会を開くことにしている日本ペンクラブでは、大会視察と参加誘致のため、例年より多い代表団を結成することになった。乞われて私も参加した。女性も、私の知らない二人の会員と、ペンの理事会を取材に来る顔見知りの記者との計三人が加わった。
どこの大会でも、会期中の夜に何回か、開催国の元首とか開催地の市長などによるレセプションが催され、胸につけた名前と所属ペンセンターを書いた名札を見ながら、
「あなたはフィンランドのペンセンターですか。私は貴国の詩人何某氏を知っている」
などといったようなことをきっかけとして国際交流を広めて行くのだが、これがペンにとってなかなか大事なことなのである。
ヴェネズエラ大統領のレセプションは官邸の庭で催され、薄暗かったがムードがあった。私が俳人上村占魚氏らと明日の予定を話し合っているところへ女性記者が来て言った。
「日本でやる時は名札の字は大きく太くしないといけないですね。ここのはタイプで打った小さな字だから、みな胸のところへ顔を近づけて来るけど、よく読めないみたいですね」
「いや、あるのかなって覗きに来たんですよ」
私がそういうと、彼女は、まあ、と言ったが、上村氏らはみな笑った。会場の婦人たちの胸は衣服を突き破らんばかりに隆起しているのに、日本人及び日本人と姿形の似た中国や韓国のインテリ婦人たちの胸はペシャンコであることにみな気付いていたから、私の行儀の悪い冗談もすぐ解ってくれたのだが、女性記者は意外なことを言い出した。
「大久保さんも冗談を言われるんですね。ペンの理事会でもいつも気むずかしい顔して坐ってるから、近づきにくい人と思っていたのに、鬼の大久保も冗談を言うってこと、この大会に参加して得た新発見だわ」
それを聞いて驚いた。私は真面目な物言いをするのが気恥かしくて、年中ふざけてばかりいるのだが。「鬼の大久保」という呼称が架空の私を拵えているらしいことは感じていたものの、こんなにはっきりさせられたことは初めてだった。私の現役時代を知らないはずの若い彼女は他の二人の婦人に、先輩などから聞いたらしい私の鬼ぶりをいろいろ話していた。その一部は確かに私のことだが、その上に築かれているものは、私とは全然無関係なものだった。
舟橋聖一氏から私に電話があって、
「用があるから来てもらいたい」
「私は用がありません」
と言って電話を切った、という話が文壇に流れて、それを何人かの文士や編集者から確かめられたことがある。これの種になることはあるにはあったが、出来上った話は嘘である。私にはそんなことを言う勇気がない。日頃舟橋氏に泣かされている編集者たちが、あの鬼の大久保という馬鹿な奴ならやりかねない、と考えて、憂さ晴しに造りあげたのではあるまいか。この話をほんとかと確かめに来た一人が「新潮」の田辺孝治君だが、田辺君こそが私を鬼の大久保と言い出した張本人で、相模の下曽我に居て、文壇のことをあまり知らない尾崎一雄氏に、文壇では「鬼の大久保、仏の田辺」と言われていると吹き込んだのだ。尾崎氏はそれで鬼の大久保と書いた。活字になると動かすことの出来ぬ事実となり、それが時と共に成長して、私と似ても似つかぬものになってしまったのである。
私は現役の編集者だったころ、「純文学の鬼」と言われ、新聞にもそのように書かれたことがある。これはかねてから悪くないなと思っていたが、田辺君が「鬼の大久保」をふれまわったせいで、此の間も、鬼編集長と言われていたようですね、と人から言われた。そう書いている新聞もある。これは気に入らない。鬼軍曹を連想させ、編集員をしごきにしごいたみたいだし、何よりも知性が感じられないではないか。己をふりかえってしごかなかったわけでもないし、知的人間とも思っていないが、気に入らないことは気に入らない。
「仏の田辺」の方は、仏性のかけらもない田辺君に定着するわけがなく、本人が言っただけで誰も口にするものはなかったが、鬼が私に取りついで離れなくなったのは、一にも二にも「鬼の大久保」は頭韻を踏んで、語呂がよいからである。それでもなお鬼と言われる何物かが私にあるのではないかと考えに考えた末、一つだけ思い当ることがあった。それは私が原稿の催促に極めて真面目であったということだった。
借金の催促に来るものを鬼というが、それから連想して、原稿の催促に来るものをも鬼と言いたくなるのは極く自然だろう。わが恩師折口信夫先生の原稿をいただくため、指示された国学院の研究室で待っていたら、入ってきた先生が、ついこの間まで三田の教室で講義を聴いていた新米編集者の私を見てさえ、「あ、鬼が来てる」と言った。
共産党が分裂し、中野重治氏が主流派との闘いの真只中で、昭和二十九年の新年号から七月号までの「群像」に毎月約百枚書いて『むらぎも』を完成させたのだが、それが本になった時に私に下さったその扉に、
鬼のごとき君が督促にせめられてとにもかくにも我は書きたり
鬼のごとき君が督促はつまるところ愛のごとかりしものと我は合点す
という歌二首を筆で書いてくれた。この歌は、鬼のごとき私が督促したのではなく、私が鬼のごとき督促した、と解すべきことは言うまでもなかろう。中野氏が鬼のごとき督促を愛のごとかりしものと言っているが、中野氏に限らず、誰に対しても編集者の督促は愛のごときものなのである。
「文士殺すにゃ刃物はいらぬ、なまくら催促すればよい」
と私はよく言ったものだ。文士は締切が来ても原稿が出来上らないと、来月にまわしてくれ、とよく言う。それをはいはいと聞き入れたら締切近くまでだらけてしまい、翌月も一ケ月前と同じ状態になる。日本の文士は締切という岩壁を背にし、催促という圧力をかけられることによって作品を絞り出す。締切が岩壁でなく、催促もなまくらなら、文士は常に書かねばならぬという意識を持ちながらいつまでも書き上らないという精神的にも経済的にも甚だすっきりしない状態に長く置かれることになる。
「日暦」の同人では高見順氏が私には最も関り合いが深かったが、その高見氏が、『生命の樹』が予定の十二月号で完結出来ず、約束してあった新聞小説を始めねばならなくなった時、何百枚書いてもそのための頁をとるから完結させてほしいと頼んだら、わざと口を曲げて言った。
「君は僕の立場をちっとも考えてくれずに、約束だから、締切だからと絶対に許そうとしないが、君とちがって某誌の某さんはいい人だねえ、しかじかだからと言ったらすぐ解ってくれて、許してくれたけどねえ」
「だからあそこの小説欄はつまらんのです」
ひどいことを言うと高見氏は目を大きくして私を見たが、同意の表情をちらっと見せてしまった。督促が作品の完成にどんなに重要かをよく知っておられたからだろう。
写真説明では、一人おいて、とするくらい編集者は己をひっこめておるべきなのに、私事をだらだらと書いて、まことにみっともないことになってしまったが、私につけられた鬼は、原稿の督促に極めて真面目であったというのが本来の意味だと弁明したかったし、鬼のごとき督促は愛より発するものだということを、後輩の編集者のためにも言っておきたかったからで、お許しを乞う。
(「日暦」第七十九号昭和五十九年三月)