『黒い雨』と井伏鱒二の深層

  幻の重松日記を求めて

 インターネットがいくら普及しようと、直接得た証言にまさるものはないし、第一次資料は持ち主の家を訪ねて場合によってはいっしょに蔵のなかを探したりしなければならない。もう二十数年も前になるが、『天皇の影法師』を書くために京都で八瀬童子について調べていたとき、古老がふっと、こんなものがある、と見せてくれたのが「明治五壬申年 八瀬村記録」であった。和綴じで週刊誌大、二百九十二枚、厚さ三センチほどで古ぼけて黄色に変色している。京都市内とはいえきわめて不便なところだったから近くにコピーの機械はない。なんとかお願いして一晩、貸してもらった。コピー機にかけると資料を傷めてしまうので、ホテルへ戻り、一眼レフカメラを固定して撮影した。

 二年前、僕は『ピカレスク 太宰治伝』の調査で広島へ出向くにあたり、さまざまな困難に備え新兵器を購入することにした。デジタルカメラとビデオムーヴィのほかに富士ゼロックスの「写楽」というスキャナー式ポータブルコピー機である。カメラをひと回り大きくした程度だから、コピーの幅は十センチぐらい、原稿用紙のうえをゆっくりすべらすと八行ほど撮れる。その場で感熱紙へ転写する。

 広島県は瀬戸内海に沿って横に長いだけでなく、平野は狭く海から少し離れるとすぐに中国山地に分け入る感じになる。広島空港から、広島市と逆の東へ向かうと福山市である。といっても狭い道路は数々の分岐点があって、ほぐした縄のようにカーヴしながら、お碗を伏せたかたちの小山をよけてはまた一本に戻るのだった。急峻な山は見当たらないけれど、神石郡三和町小畠の重松家は、山また山の奥地にある。途中、きれいなセンターラインの敷かれた真っ直ぐな道路に出た、その一帯は、この間までの森内閣では政調会長をつとめた自民党の実力者・亀井静香代議士の選挙区で、なるほど、と得心した。僕が訪れたころは建設大臣を辞めて間もないころになる。

 先ごろ筑摩書房から刊行された重松静馬の『重松日記』は、一度は、紛失した、とされていた。存在している、とわかったあとでも、まず世に出ることはない、と考えられていた。これから詳しく述べるが、井伏鱒二著『黒い雨』は『重松日記』に依存してつくられた。

 広島市に住む、生前の重松静馬と親交があった歌人の豊田清史氏(歌誌『火幻』主宰)に、僕は日記のコピーの一部をすでに見せてもらっていた。だが豊田氏所有のコピーは『重松日記』の全部ではない。『黒い雨』と『重松日記』を二つ重ねてみるためには、どうしても重松家を訪問して実物を拝見させてもらわなければならない。

 重松家では日記を門外不出としていた。日記の著者である重松静馬は一九八〇年(昭和55年)十月十九日に七十七歳で、妻シゲ子も九一年(平成3年)に没していて日記の現在の所有者は重松文宏・フミヱ夫妻である。重松静馬夫妻は子宝に恵まれず、妹の娘を養女とし、婿として文宏氏が入った。

 日記を外部の者に見せまい、と重松文宏夫妻が固く決意したのは、豊田清史氏との紛争がからんでいる。豊田氏は、同じ被爆者の重松静馬と生前から交流があった。その豊田氏が、井伏の『黒い雨』は重松静馬の日記からの盗作、と告発する『「黒い雨」と<重松日記>』を刊行しかけた。九二年(平成4年)五月付の豊田氏の「あとがき」にはこう書かれている。

「昭和四十年当時、『黒い雨』が多くの読者に迎えられたことは、井伏氏が数々の賞を受けられた事実を見ても分かることであるが、『重松日記』を当初から読んできた私としては、文壇の多くの作家、評論家たちの絶賛や見解が、必ずしも原爆や作品の事実を、見抜いているとは思えない点があった。つまり資料の重みが顧みられていない評言や、原爆作品に対する不正確な見方に違和感を覚えたのである」

 ところが、あとがきがもうひとつ増えた。「印刷にかかった段階で、重松の遺族から待ったがかかってきた」ので、肝心の日記部分を急遽はずすことにした、と「ふたたび<あとがき>として」で記された。「井伏老側のこれをはばまれるガードが俄かに厳しくなったこと」がひとつの原因としている。日記を載せなければ著書は中途半端なものになってしまう。結局、『「黒い雨」と<重松日記>』は、日記をはずした代わりに豊田氏の憤懣を中心に重松静馬との交際記録などが盛り込まれ、一年後の九三年に風媒社から刊行された。

 この直後の平成五年(93年)七月十日に井伏鱒二は没した。九十五歳の大往生だった。

 

  門外不出の壁

 豊田氏は、自分がコピーしている重松日記の一部を刊行しようとして失敗し、著作権が無効になるのは死後五十年だから、公表まであと三十年はかかる、と嘆いた。

 しかし、こうしていま『重松日記』が奇跡的に刊行されたのは相馬正一氏(岐阜女子大学名誉教授)の尽力が大きい。相馬氏は幾度も重松家に通い、説得をつづけ、ついに遺族の了解を得るところまでこぎつけた。昨年の五月である。そのころ僕の『ピカレスク 太宰治伝』が週刊ポスト誌に連載中で、『重松日記』と『黒い雨』を比較考証した部分はすでに発表され話題をまいていた。

『重松日記』は、相馬氏が遺族の了解をとってからちょうど一年後に出たことになるが、もはや出さないでいられる状態ではなかったと思う。相馬氏は『重松日記』に解説を付すと同時に『新潮』六月号にも「『黒い雨』と『重松日記』」を寄稿している。そのなかで相馬氏は「盗作説の論拠となっているのは、重松静馬の親友と自称する広島市在住の豊田清史氏の一連の発言である」と、『重松日記』刊行の動機として、井伏の盗作説を払拭する目的があったと説明した。

『井伏鱒二の軌跡』(95年、津軽書房刊)を出した相馬氏は、『続・井伏鱒二の軌跡』(96年、同刊)を書く際に、広島の豊田氏を訪問し、豊田氏所有の日記を見せてもらっていた。相馬氏は検証の結果、「添削はしているものの、井伏は『重松日記』をかなり忠実に利用しており、『黒い雨』全篇を通じてこの傾向は著しい」と『続・井伏鱒二の軌跡』で述べている。のちに相馬氏は豊田氏所有のコピーではなく原本で確かめるべきと考え、重松家を訪ねることになる。

 コピーではなく『重松日記』の実物を最初に閲覧したのは、豊田氏を除けば相馬氏である。相馬氏は九七年(平成9年)四月に神石郡三和町小畠を訪問したあと、たびたび重松家に赴いたようだ。そして、八月六日から十三日までと思われていた日記は、さらに八月十四日、十五日の分もあることが判明する。養女フミヱ氏が蔵の本棚を整理していて見つけ、相馬氏が豊田氏の持っているコピーにはない部分である、と確認した。それが九九年三月のことである。けれど、相馬氏を通じてその事実が新聞に報じられただけで、新しく発見された追加分の日記の中身がどんなものであるのか、明らかにされていなかった。

 追加分も含めて日記がこのまま公表されないとしたら、井伏の『黒い雨』にどんな影響を与えているのか、ついにわからずじまいになってしまう。相馬氏は、『続・井伏鱒二の軌跡』の「あとがき」で「利用している実在資料の分量から『黒い雨』を盗作呼ばわりするのであれば、井伏氏の記録文学はすべて<盗作>だということになる。実在の資料を前面に据えて<事実>と思わせながら、さりげなく創作資料をもぐり込ませて<虚構>を仕掛け、両者の絡み合いの渦中に読者を巧みに誘導する手法──、そこに虚実融化の秘策を巡らす井伏流記録文学の醍醐味があるのである」と記していた。本文のなかでは「『重松日記』原本は八月十三日で終っているので、十四日以降の日記は井伏の虚構である」と断定もしており、『黒い雨』が「まぎれもなく井伏の手に成る創作であり、稀有の原爆小説である」と、井伏の作品として瑕疵かしがない根拠にしていた。しかし八月十四日、十五日の日記原本が発見され、『黒い雨』のなかで重要な位置を占めていることが判明したいま、いったいどう説明するのだろうか(『新潮』六月号及び『重松日記』解説においても、この点に関する記述を避けているのは理解しにくい。『新潮』六月号で「その後、八月十四日と十五日を記録した被爆日誌の続篇(三冊目)が重松家で発見され、更に井伏と重松の往復書簡が多数現出するに及んで、従来の豊田氏の言説は大きく訂正されることになった」と書いているのに、自説の変更には少しも触れていないのだ)。

 僕が重松家を訪ねたのは、相馬氏が八月十四日、十五日の日記原本を確認してから二カ月ほど過ぎた時分であった。

 招かれざる客であると重松家の座敷に通されて肌身に感じた。ようやく日記の原本を座卓の上に出していただいたときであった。原本を手にとって食い入るように見つめている僕に当主はこう皮肉った。

「相馬さんは白い手袋をはめてお読みになりましたがねえ」

 ああ、何ということだろう。重松静馬が生きていたら喜んで公表したかったはずなのに。当主は井伏鱒二の無言の圧力を感じているに違いない。原本をひと通り閲覧している間に、僕の助手の生島佳代子が八月十四日、十五日分についてポータブルコピー機のスキャナーを機敏な手つきで動かしつづけた。コピー機ならば、その場できちんと複写できたか確認ができる。チャンスはこのとき一度限り、と思っていたから失敗は許されない。

 

  太宰治の「遺書」の背景

「みんな、いやしい慾張りばかり。井伏さんは悪人です」

 太宰治が昭和二十三年六月十三日の夜に残した遺書である。井伏鱒二と太宰は師弟関係にあった。井伏は太宰の荒れた生活を見かねてその妻となる女性を紹介し、媒酌人さえもつとめた。恩義を感じるべき相手を悪人と罵倒するのは奇妙な事態でありながら誰も遺書の謎を解いていない。

 これまでの太宰治論は井伏の存在を重視しても、決定的なキイパースンとしては描かなかった。僕は『黒い雨』と『重松日記』の関係をつぶさに検証することが必要不可欠と考え、そのうえで、やはり、井伏特有の問題に触れないわけにはいかないだろうと感じていた。太宰の遺書のただならぬ気配がそうさせたのである。

『ピカレスク 太宰治伝』ですべてを明らかにできたつもりだ。ただそれを第三者が検証する手段は封じられていた。『重松日記』の実物を読み、それについて論じているのは相馬氏と僕しかいないのだから。『新潮』六月号で相馬氏は「『重松日記』完全翻刻を機会に『黒い雨』の本格的な研究が始まることを期待するものである。一部の心ない盗作説などによって『黒い雨』を矮小化させてはならない」と述べているが、「本格的な研究が始まることを期待する」点は僕も同じで、そうであれば「一部の心ない盗作説」かどうか、公刊された『重松日記』を虚心坦懐に読んでもらえばわかるだろう。もうポータブルコピー機などを使わなくても済むのだ。

 

  野間文芸賞「受賞のことば」に引っ掛かる

『黒い雨』は、『新潮』昭和四十(一九六五)年一月号から四十一年九月号まで一年半にわたり連載された。スタートの一月号から七月号までのタイトルは『姪の結婚』で、八月号から突然『黒い雨』に変えられた。連載が完結して以降、比較的地味な作家と目されていた井伏鱒二に対する注目度は『黒い雨』とともに高まるばかりだった。単行本が発刊されたのは昭和四十一(一九六六)年十月二十五日だが、四日前の十月二十一日にこの年の文化勲章受章者に決定した。

 十一月十日には野間文芸賞の受賞が選考委員の全員一致で決まった。選考委員の井上靖は感嘆しながら述べた。

「『黒い雨』は異常な大事件を、市井の男女の眼で見させ、肌で感じさせ、それに依って描く手だてを見付け、また完全に描ききることができたということは、立派というほかありません。構成にも苦心のほどが窺われ、細部の描写など不思議と言いたいほど現実性を持っています」

 大岡昇平も同様にほめた。

「『黒い雨』は戦後現われた最も優れた作品かも知れない。広島の原爆について、多くの小説やルポルタージュが書かれているが、被爆の惨状をこれほど如実に伝えたものはなかった。作家の眼のたしかさと技術的円熟が、この結果を生んだことは疑いない」

 だが、つぎの井伏の「受賞のことば」(『群像』昭和42年1月号)に、ちょっと含んだニュアンスを感じるのは僕だけだろうか。

「私は『黒い雨』で二人の人物の手記その他の記録を扱ったが、取材のとき被爆者の有様を話してくれる人たちに共通していることは、初めのうちは原爆の話をしたがらないことであった。もう一つ共通していることは、話しているうちに実感を蘇らせて来ると絶句してぐっと息をつまらせることであった。思い出す阿鼻叫喚の光景に圧倒されるのだ。そのつど私は、ノートを取っている自分を浅間しく思った。

 要するにこの作品は新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音、などによって書いたものである。ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない。その点、今度の野間賞を受けるについて少し気にかかる」

 井伏は「ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない」と言いながら重松静馬とその日記についてはまったく触れず、「新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音」と数多くの記録類に拡散させてしまう。

 野間文芸賞をもらう三カ月前、井伏は重松静馬に向かいはっきり「これは共著」と言ったのだ。今回の『重松日記』解説(相馬氏)で、その事実が判明した。引いてみる。

「昭和四十一年八月十八日の午前十時頃に福山市の小林旅館で井伏と落ち合い、二人で早速初出訂正稿の読み合わせを始めた。その日は小林旅館に宿泊し、翌日も朝から読み合わせを続け、『午后五時、黒い雨の精読一通り完了。先生と打合せも完了』(「当用日記」)し、そのあと重松の慰労を兼ねて尾道の向島にある高見山荘に一泊する。その際井伏は重松に対して『これを二人の共著にしたいと思うが、どうですか』と申し入れたが、重松は『そんなことをすれば、先生のお名前にきずがつきます。私は資料提供者として充分報われていますから””』と言って固辞したという話を重松家の当主から伺った」

 相馬氏はあまり疑問に感じていないようだが、僕は野間文芸賞の「受賞のことば」と「これを二人の共著にしたいと思うが」という申し入れとの落差に驚くのである。

 

  メダカの描写は重松の見た事実

 井伏は、どちらかといえば一過性のたくさんの読者に迎えられるよりは、マイナーな作家として生きた。時の人としてまばゆいばかりの脚光を浴びることは得意ではないし、そうなることは彼にとって誤算だったかもしれない。

 井伏は、それまで『黒い雨』を自選全集に入れてきた。これだけ話題をまいた代表作なら入れぬわけにはいかない。ところが、生前最後の全集と予測された『井伏鱒二自選全集(全13巻)』(新潮社、昭和60~61年)に入れたくない、と洩らした。『黒い雨』を収録した自選全集第六巻の「覚え書」に消極的気配が漂っている。

「この作品は小説でなくてドキュメントである。閑間重松しづましげまつの被爆日記、閑間夫人の戦時中の食糧雑記、並びに岩竹博医師の被爆日記、岩竹夫人の看護日記、複数被爆者の体験談、家屋疎開勤労奉仕隊数人の体験談、及び各人の解説によって書いた」

 ここでも僕が奇異に感じるのは、「覚え書」で重松静馬の日記が、その他の参考資料と同格にしか並べられていない点である。だが井伏が「小説でなくてドキュメントである」と言うのは井伏独特の謙遜、あるいは韜晦と受け取られた。

『重松日記』というものが存在する、と言われ出してから安岡章太郎氏は「重松日記に同じことが書いてあったとしても、『黒い雨』に描かれたものとは文体が違っているはずである」(「事実と真実」)と『新潮』(昭和64年1月号)に書いた。

「原爆投下のその日にも、広島市を出はずれた郊外の竹藪のそばの溝の中でメダカが泳いでいることを見落してはいないのである。閑間重松は妻と矢須子とを連れて古市へ避難する途中、くたびれて竹藪のそばで休むうちに眠ってしまう。眼が覚めて、頬や首筋を拭うために、近くの溝でタオルをすすいでいると、そこにメダカが群れているのを見つけるのだ」

「これは一見、何でもない場景である。しかし、何万という人間が原爆の火に追われて逃げまどい、池の中の鯉や鮒でさえ水中に伝わる衝撃で死体を水面に浮かび上らせているというのに、メダカだけが『ここは安全な日蔭だ』といわんばかりに群れて泳いでいるというのは、鮮かな印象をもたらすものだ。重松日記には、おそらくこういう記述は無いのではないか」

「こうした小動物に自己の姿を投影させる手法は井伏氏独特のもので、偶然にも同じ手法を重松氏が持ち合せているものとは考えにくい」

 しかし安岡氏が井伏独特と指摘した描写は、『重松日記』に明瞭に記されていたのだ。

「汗を拭わんと、タオルを下げて小溝を覗くと、目高が一群をなして、平和に泳いでいる。平和を乱してやるまいと、少し下手でタオルを洗い、右の顔や首、胸などを拭き、タオルを濯いで、二人の所に帰ろうとして」「タオルを洗おうとして覗いたら、目高が群をなして泳いでいた」

『重松日記』を読む手段を奪われていた安岡氏は検証したくてもできなかった、ということになる。

 

  原爆がもたらした植生の変化

 同様に大江健三郎氏も『重松日記』を過小評価する結果となった。原爆によって植生に変化が生じてしまう部分、『黒い雨』の主人公の閑間重松が、被爆後の広島をさまよいながら植生の異様な気配を感じとる、そんな「細部にあらためて眼をとめること」が小説の構成に重要な役割をもたらしている、と考えた。

「揺がぬ『黒い雨』」と題された追悼文(『新潮』平成5年9月号)で、『黒い雨』の以下の描写を引用しつつ自説を展開した。

「石垣や置石の間を見ると、カタバミや烏の豌豆えんどうなどの新芽が無闇に伸びて、自分を支えきれなくなってだらりと垂れていた。植物も空襲の衝撃で細胞組織が変化するのだろうか。

 僕は農事指導の巡回講師の云っていたことを思い出した。水稲栽培で深水にして育てると、水面に接するところの茎の細胞が徒長的に肥大して、茎の構成に弱体化を招いて倒伏の原因をつくる。これは学説でも認められていると云うが、光線とか音響とか熱の衝撃などで植物が徒長することは知らなかった。今度の爆弾は植物や蠅などの成育を助長させ、人間の生命力には抑止の力を加えている。蠅や植物は猖獗を極めている。昨日、ここの通りにある饂飩屋うどんやの焼跡では、裏庭の芭蕉が新芽を一尺五寸ぐらいも伸ばしていた。もとの茎は爆風で根元からぽっきり折れ、あとかたも無くなって、新芽と云ってよいかたけのこと云ってよいか巻込んだ茎が伸びかけていた。ところが、今日は二尺の上も伸びている。一日に五寸以上も伸びているその実状には、農家に生れて樹木を見なれて来た僕も驚いた」

 これも『重松日記』にある。つぎの部分を読み較べてほしい。

「石垣を見ると、かたばみや烏野豌豆からすのえんどうなどの新芽が徒長して、支えられず、だらりと下にさがっている。植物も空襲の衝撃で、細胞組織が変化したらしい。

 水稲栽培上、灌漑水を深くすると水ぎわの個々の細胞が徒長的に肥大し、茎の構成を弱体化して倒伏の原因をなすことは、学説上でも証明されているが、光線と熱の衝撃で、普通成長の二倍も三倍も伸びることは、読みも聞きもしていない珍現象である。

 かたばみや烏野豌豆の徒長を見て思い出した。弁当を食べた時に、練兵場の砂の中から、針のような羊歯しだの新芽が白みどり色をして伸びていたことを思い出した。筍のように伸びかかっていた芭蕉は、どうなっただろうかと廻ってみると、七〇センチ近いと思えるほど伸びていた。一日に一〇センチ以上、伸びている。どれ程の大きさになるのだろうか。農家で生れ、農家に育った僕は、今まで見たことのない伸び方には興味がわき、機会があったら又立ち寄って見ようと思った」

 

  「不良債権」の政府側解釈のようだ

 『黒い雨』の書き出しは「この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった」である。

 戦争末期に矢須子が徴用で広島の爆心地の近くにいた、だから被爆者であり、その事実を重松夫妻が隠している、と村では噂がたっている。縁談はことごとくうまくいかない。噂を否定する証拠として重松夫妻は、矢須子の日記を清書して結婚の世話人に渡そうと考えた。こうして物語が展開するはずだったが、姪の日記が入手できないとわかった。

 井伏は週刊新潮誌で「その姪御さんの日記は、見るも涙のタネというんで、家族の人が燃してしまっていた。それで、かわりにその叔父さんの日記を借りて、あとは、いろいろ取材していったんですね」(昭和41年8月20日号)と当時語っている。『黒い雨』の構成は、姪の日記をあてにしていたのに叔父の日記に変更する方向でなしくずし的に変えられたのである。『姪の結婚』のタイトルが連載八回目に突然、『黒い雨』になったのはそうした事情からで、そもそも全体の構成などあったのか。代わりにあるのは『重松日記』を使用するための辻褄合わせのような、重松夫妻の会話による展開でしかない。

「この日記は、どうせ近いうちに清書しなければならん。小学校の図書館の資料室へ、これを寄附することにしたからな。寄附する前に、結婚の世話人にも見せてやる」

「世話人のひとには、矢須子さんの日記を見せればいいんでしょう」

「だから、この被爆日記は、矢須子の日記の附録篇じゃよ。学校の資料室へ納めるによって、どうせ清書せんければならんのだ」

「そんなことしたら、また仕事が殖えるでしょうが」

「殖えてもよいわい。仕事を枝葉から枝葉へ殖やすのは、わしの生れつきの性分じゃ。この被爆日記は、図書室へ納めるわしのヒストリーじゃ」

 こうして『黒い雨』には随所に「日記の清書にとりかかった」という文章が出てくる。物語は、細部の描写に迫力があるのに、展開が単調になってしまう。そして読者は、主人公が自分の日記を清書しているような錯覚に陥る。執筆風景を想像すると苦笑せずにはおれない。清書しているのは井伏自身なのだから。

 ていねいに比較すればわかると思うが『黒い雨』の約六割は重松日記をリライトすることで成り立っている。そのうえに「岩竹博医師の被爆日記、岩竹夫人の看護日記」などもほとんどそのまま加わっているのだ。

 それでも相馬氏は井伏に対して確信犯的な弁護人である。『新潮』六月号で、『重松日記』からの「活用」「利用」の判定をきわめて甘い基準で説明している。

「井伏が『黒い雨』を執筆するに当って実在の『重松日記』を素材としてどのように活用したかを考察してみると、その利用法を凡そA・B・Cの三つの型に分類することができる。Aはかなり忠実に、殆どなぞったような形のもの。Bはそのまま利用しながらも随所に井伏好みの虚構を加えたもの。Cは一部利用してはいるが、大部分井伏の虚構によるもの、の三種である。量的にはBが最も多く、AとCは比較的少ない」

 相馬氏は「量的にはBが最も多く」と認めている。ただその位置づけを「Bはそのまま利用しながらも随所に井伏好みの虚構を加えたもの」としているが、なんのことはない、銀行の不良債権に例えるならば、この場合はBランクの「灰色債権」をふつうなら回収不可能とみるところを、査定基準をゆるめて回収可能としているようなものなのだ。

 

  無意味な分類

 Bランクをどう解釈するか、相馬氏と僕とそれぞれ異なってもよいが、あとはもう読者に委ねるしかないと思う。ぜひ実際に『重松日記』にあたって確認してほしい。

 ひとつだけわかりやすい事例を示しておきたい。つぎの光景は被爆のシーンであり、『黒い雨』の臍にあたる描写である。

〈頭から流れた血が、顔から肩へ、背中へ、胸から腹へ、どす黒い血痕。まだ出血しているらしいが、どうする気力もないらしい。両手をだらりと垂れて、人波に押されるままに歩いている。

 我が子の手を引いていると信じていたのは、近所の子供だったらしい。アッと叫び、子供の手を振り切って引き返す婦人。その後を追って、おばちゃん、おばちゃんと、連呼してゆく六七歳の男児とが、人混みに消えていった。

 我が子の手を引いて居た父親らしい男が、人波に押されて手が放れたらしい。狂気して、人を押したり突きのけたりし乍ら子供の名を呼んで、横切らんとして突きのけた男に、続けて二三回殴られたのを見た。

 老人を背負った者、病人らしい年頃の娘を背負った者もいる。乳母車に荷物と子供をのせた婦人が、人波に押されて進んでいたが、後から急に押されて車は押しつぶされ、婦人は車の上に押し倒され、続く避難者が二三十人将棋倒しになった。その時の悲鳴は、形容の仕様もない。

 そうかと思うと、柱時計を捧げた様にして逃げている男が、進むごとにブルンブルン音をたてていた。釣道具の籠を、袋に入れた継竿にかけてかつぎ、威勢よく進んでいる男もいた。釣狂か、狂人か。めそめそ泣き乍ら、はだしで行く女。負傷して、顔、胸、腕が血だらけと云ってよい女の手を肩にかけ、腕を握って引っ立てて行く夫らしい男と、歩く毎に女は頭をがくりがくりと前に横に振って、何時息絶えるとも知れぬ二人も、人波に押されて進んでいた〉

つぎの『黒い雨』の描写を、「A・B・Cの三つの型に分類」してみていったい何になるのだろうか。

〈頭から流れる血が、顔から肩へ、背中へ、胸から腹へ伝わって、どす黒い血痕をつけている者は数知れぬ。まだ出血している者もあるが、どうする気力もないらしい。

両手をだらりと垂らし、人波に押されるまま、よろめきながら歩いている者。

目を閉じたまま、人波に押されてふらふらしながら歩いている者。

子供の手を引いていて、他人の子供だと気がついて「あッ」と叫び、手を振りはなして駈け去る女。「小母ちゃん、小母ちゃん」と、その後を追う子供。六七歳の男の子であった。

我子の手を引いていて、人波に押されて手を放した親爺。これは子供の名を連呼しながら人の流れに分けこんで、突きのけた人から二つ三つ擲られた。

老人を背負った中年の男。病気らしい娘を背負った父親らしい男。

乳母車に荷物と子供を乗せた婦人。いきなり人波に巻きこまれ、車を押しつぶされて顛倒し、後に続く人たち二三十人が将棋倒しに倒れて行く。そのときの悲鳴は大したものであった。

柱時計を捧げるように持って、ぶるんぶるんと音をさせながら歩いている男。

竿袋に魚籃を結びつけたのを肩に担いで歩いている男。

泣きじゃくりながら両手で眉庇をして行く跣の女。

顔、胸、腕が血だらけの女の腋を抱き、引きずるようにして連れて行く中老の男。男が足を運ぶにつれ、女は頭をがくりがくり前後左右に動かして、二人とも、いつ息が絶えるとも知れぬ様子であった。これも人波で揉みくたにされていた〉

 こういうやり方を、一般的にはリライトと呼ぶのが正しい。

 もうひとつ、井伏流の弁明にはつねに詐術が仕組まれていること、これは要注意である。岩竹医師の日記については、そのまま直さずに使用し、重松静馬の日記についてはかなり手を加えた、と井伏はことあるごとに述べているのだが、実際には、どちらも同じ程度にリライトしているのだ。

「あの中にある、岩竹博というお医者の日記は実際のものだ。連載を始めたころに会って、渡された。重松さんの奥さんの日記はこしらえたものだし、重松さんの日記も僕がこしらえ直している。しかし岩竹さんのは一字一句も変えていない。内容が妥当だし、いい文章だった。そのままの方がかえって徴用されたお医者さんらしい感じが出ると思った。僕の小説では、そのまま使うのは珍しいわ」(「私の道」中国新聞、89年3月15日付)

 この言い方。信じてしまいやすい。発刊された『重松日記』に、「広島被爆軍医予備員の記録(岩竹博)」が収録されているので、読者はこれもまた自ら確かめることができるのである。

 

  「山椒魚」と「賢明なスナムグリ」

 安岡章太郎氏も大江健三郎氏も、『黒い雨』は井伏の考え抜かれた手法であろうと信じたようだ。それは『黒い雨』の一作で考えてしまうからで、太宰治の遺書に導かれながら、井伏鱒二という作家を青年期から分析してみると僕の疑念も納得してもらえるのではないだろうか。『ピカレスク 太宰治伝』と一部重なるが、その流れを辿り直してみたい。

 井伏鱒二は一八九八年(明治31年)生まれで、同年の作家に横光利一がいる。横光が新感覚派の旗手として颯爽とデビューしたのは大正十二年、関東大震災の年である。だが井伏は目立たなかった。

「当時、東京には文士志望の文学青年が二万人、釣師が二十万人いると査定した人がいたそうだが、文学青年の殆どみんな、一日も早く自分の作品も認めてもらいたいと思っていた筈である。早く認められなくては、必ず始末の悪い問題が起って来る。私も早く認めてもらいたいと思っていた」(『荻窪風土記』)

 井伏は『世紀』という同人誌(大正12年7月)にそんな心境で作品を発表した。「山椒魚」(発表時には「幽閉」、のちに改稿)である。

「彼は日がな一日穴の中に身をふせ、夜は夜でおちおちねむられず、ひとかけらの食物も呑みこまず、間がな隙がなこう考える。『どうやらわしはまだ生きているらしい! ああ! だが明日という日はいったいどうなることやら?』」

「あるとき彼が眼を醒ましてみると、彼の穴のまむこうにエビがいるのである。まるで魔法にでもかかったかなんぞのように、険のある双の眼をひんむいて、じっとしているのだ」

「彼はのべつふるえ、たえずおののいていた。友もなければ、身寄りもなく、誰も訪ずれもしなければ、誰の訪ずれもうけなかった」

「穴のなかは暗く、せまくて寝返りをうつ余地もないうえに、そこは太陽の陽光ひかりさえちらとものぞかず、暖みの気配さえない。しかも彼はこのしめっぽい暗闇のなかで盲目になり、やつれはて、誰の役にもたたず、身を伏せたまま、いったいいつになったら飢えが、この無益な生存から自分を解放してくれるであろうか? と待っているのである」

「山椒魚」は井伏鱒二の代表作として、現在、教科書に載っている。岩屋に閉じ込められた山椒魚の寓話である。

 早く認められたかった、その焦りが井伏の出発点である。

 いまここに幾つか引用した文章、これが「山椒魚」という作品です、と紹介したら誰も疑わないのではないか。しかしこの文章は十九世紀後半に活躍したロシアの風刺文学の作家サルティコフ=シチェドリンの「賢明なスナムグリ」から引いた(註──スナムグリは鯉を細めにした体長は約20センチの川魚で川底に静止しときどき砂にもぐる)。

 井伏本人は、「山椒魚」はチェーホフの「賭け」からヒントを得た、と幾度も書いたり語ったりしているが、「賭け」とはまったく似ていない。それでもあえてそう弁明するのは一種のはぐらかしではないだろうか。

 ロシア人の日本文学研究家のグリゴーリイ・チハルチシビリにとって、「賭け」でないことは明々白々なのである。彼は『新潮』九三年九月号(「陽気な人のための悲しい本──井伏鱒二の作品における『チェーホフ的なもの』」(沼野充義訳))で、日本人には思いもよらぬ反応を示した。

「私は初めてこれを読んだときの印象を、いまでも覚えている。それは、最初から最後までロシア文学のモチーフによって組み立てられた、まったく『ロシア的』な短編ではないか、という印象だった。しかしその際、あまりにも明白な、おのずと浮かび上がってきた比較の対象は、チェーホフではなく、気がきいた辛辣なおとぎ話の作者としてのサルティコフ=シチェドリンだった。どんなロシア人でも『山椒魚』を読めば、『これはサルティコフの「賢いカマツカ」じゃないか!』と叫ぶことだろう」

 ロシア人には自明でも日本人にはわからない。そこで「賢いカマツカ」の翻訳があるかどうか探すと、『大人のための童話──シチェドリン選集第一巻』(西尾章二訳、未来社、80年刊)が出ていることがわかった(前出の引用文)。こちらでは「賢明なスナムグリ」というタイトルになっているが、カマツカもスナムグリも同じ魚で地方によって名前が異なるだけ、翻訳名は違うが同一の作品である。

 

  意識的なミスリード

 直木賞作家の出久根達郎氏は古書店の経営者なので文学史などについては事情通である。だが出久根氏のような物知りほど、井伏の仕掛けにはまってしまいやすい。もちろん出久根氏のせいではない。

 出久根氏は朝日新聞(00年6月29日付)で、以下のように井伏鱒二は中学生時代にすでに森鴎外に文才を認知されていた、と記した。

<鴎外と、井伏鱒二が交流がある。晩年の文豪と、地方在住の中学生は、鴎外が新聞に連載中の小説『伊沢蘭軒』がきっかけで知りあう。井伏が級友にそそのかされて、鴎外の史観が誤っている、と手紙で指摘するのである。朽木三助という名前で出した。

 鴎外は丁重な返事をくれた。そそのかした級友が、文豪の手紙をほしがった。井伏は友のために、もう一度、鴎外に手紙を書くのである。朽木三助は急死した、と書いた。こちらは本名で書いた。鴎外は朽木を悼むと、これまた丁重な手紙をくれた。「伊沢蘭軒」の「その三百三」に、以上のいきさつが、そのまま記されている。井伏の手紙は「筆跡は老人なるが如く、文章に真率なる処がある」と記されている。文豪が中学生にだまされた、というより、井伏が老成していたのである>

 出久根氏が信じているのは井伏自らが「森鴎外氏に詫びる件」(朝日新聞、昭和6年7月15日、16日付)によって広めた伝説だった。鴎外没後九年のことである。

「私が森鴎外氏をだまして、その結果、森鴎外が新聞小説の一回分を余計に書いたことについて話そう。私は謹厳な鴎外氏をだましたことを後悔している。鴎外全集を見るたびごとに、私は気になっていけない」

 こういう書き出しである。森鴎外をだました、それを後悔している、と述べつつ、誰も知らないと思って事実を捏造した。

 鴎外が大阪毎日・東京日日新聞に『伊沢蘭軒』を連載したのは大正五年六月から翌六年九月まであった。

 井伏は福山中学の生徒だった。『伊沢蘭軒』に登場する阿部正弘は、十九歳で譜代大名の名門福山藩主となり幕府の老中首座にまで出世した。福山ではヒーローである。だが数え三十九歳で若死にする。政敵の井伊直弼の意を受けた蘭軒がその息子に命じて阿部正弘を毒殺したとの流言が行き渡っていた。そこで井伏は友人の森政保と「森鴎外は伊沢蘭軒一派が阿部正弘公を毒殺したことを知らないんじゃないのか」と思って、手紙を書く。

「謹啓。厳寒の候筆硯益御多祥奉賀候。陳者頃日伊沢辞安の事跡新聞紙に御連載相成候由伝承、辞安の篤学世に知られざりしに、御考証によつて儒林に列するに至候段、闡幽の美挙と可申、感佩仕候事に御座候。/然処私兼々聞及居候一事有之、辞安の人と為に疑を懐居候。其辺の事既に御考証御論評相成居候哉不存候へ共、左に概略致記載入御覧候。」(以下、略)

 井伏は、この手紙の発信名を朽木三助とした。自分がペンネームにしようと考えていた名前である。鴎外は、手紙の主・朽木三助に対してその噂に根拠がなくまったくの虚伝である、と厳しい口調で返書をしたためた(山崎一穎・跡見学園女子大学教授、東郷克美・早稲田大学教授などの実証的研究が参考になる)。

 井伏は、鴎外から返書がきて有頂天になったが、内容があまりにも厳しいことに驚いた。先の朝日新聞で井伏はつぎのように書いている。

「私と森政保とは、この手紙を読んで甚だ面目がなかった。ところがその翌る日、森政保は私に昨日の手紙をよこせといった。私は東京の人から手紙をもらったのは最初のことなので、手紙は手ばなすことができないといった。そこで森政保はその翌る日になると、も一度私に手紙を書けといった。鴎外博士は私──朽木三助に、たいへん大事な報告をしてくれて有難いといっているから、今度は書体を変え朽木三助は死んだということを報告しないか。そうすれば必ず博士は弔いの手紙をよこすにちがいない」

 井伏は森政保にそそのかされた、と弁解しつつ、今度は本名で手紙を出した、と話をつづける。

「手紙には朽木三助氏が博士の返事が着くと間もなく逝去されたという虚報を書いた」

 森鴎外をだましたという井伏は、このエピソードのしめくくりとして「鴎外氏から返事が来た。謹んで朽木三助の死をいたみ、郷土の篤学者を失ったことを歎くという手紙であった。(鴎外全集)第八巻の六百六ページによって判断すると、鴎外氏は私たち二人の悪童に、まんまと一ぱいくわされている」と、自らに凱歌をあげている。

 だが真相は、井伏の説明とは異なっていた。鴎外は、悪童のいたずらに気づいていた。正弘の死をめぐる「流言」が「僻遠の地には今猶これを信ずるものがあるらしい」と前置きし本題に入っている。

「わたくしは朽木三助と云う人の書牘を得た。朽木氏は備後国深安郡加茂村粟根の人で、書は今年丁巳一月十三日の裁する所であった。朽木氏は今は亡き人であるから、わたくしはその遺文を下に全録する」

 それが先ほど引用した漢字だらけの手紙である。

 井伏はこのつづきを読みながら、はっとしたに違いない。鴎外が井伏の稚拙な文面を推敲して自分の文章に仕立てながら、そうは言わず、朽木三助の手紙そのものとして紹介していたからだ。

 朽木三助がもたらしたエピソードは鴎外にとっては『伊沢蘭軒』の物語を書くうえで、恰好の素材であった。いまだに毒殺説を信じている古老がいる、という事実を連載に盛り込むほうがおもしろい。

 にもかかわらず井伏はこれを「森鴎外氏に詫びる件」で自慢話にすりかえるのである。

「中学生朽木三助の筆跡が、現在の私の筆跡よりも老人らしくなかったことは事実であるが、鴎外氏がそんなことをいうのは、よくせき伊沢蘭軒の研究に没頭して、見さかいがつかなかったのであろう。私は綴り方用の毛筆でかい書で書いたと記憶している。そうして『文章に真率なる所がある』なんていう批評は、これは鴎外氏が仲間ぼめのつもりなのであったろうが,私の文章を文壇的にそんなにいってくれたのは、森鴎外が最初の人であるというわけになる」

「森鴎外氏に詫びる件」が『伊沢蘭軒』の文章をそのまま載せているので、中学生の井伏の文章だと、出久根氏のように錯覚してしまう。中学時代に文豪鴎外から手紙をもらった、しかも文章もほめられた、と井伏はちょっと軽口をたたいて素知らぬ顔をしているつもりだった。権威づけになるからである。『伊沢蘭軒』のなかの手紙が、じつは鴎外が添削したもの、と打ち明けるのは戦後であった(「森鴎外に関する挿話」『鴎外全集』第十八巻月報、昭和28年)。

 

  『青ケ島大概記』と『ジョン万次郎漂流記』

 井伏はリライト的な仕事をかなりしてきた。代表例のひとつが『青ケ島大概記』だろう。締切りに間に合わずに、学生だった太宰に手伝わせている。昭和九年一月の出来事、井伏は三十五歳、太宰はまだ二十四歳である。

『青ケ島大概記』は檜舞台の『中央公論』昭和九年三月号に発表された。文語体で読みにくい。評判にならなかった。ではなぜわざわざ文語体にしたのかといえば『青ケ島大概記』は古い資料を引き写しているから、あるいは、古い資料を自ら発見した体裁にしているから、ともいえる。

 江戸時代に近藤富蔵という旗本がいて地所争いで農民七人を惨殺した罪で八丈島に流された。八丈島で以後六十年間を過ごし、明治二十年に八十三歳で没した。近藤は八丈島の民俗、歴史、動植物などを記録した六十九巻もの『八丈実記』を著しているが、その一部に「伊豆国付八丈島持青ケ島大概記」がある。井伏は、たまたま伊馬春部経由で折口信夫から借り受けた。『青ケ島大概記』は、「伊豆国付八丈島持青ケ島大概記」を種本としている。井伏は「附記 八丈島の流刑人近藤富蔵の『八丈実記』を引用した」と最後に一行記しているが、当時はこれをふつうの読者が検証することはなかった。なぜなら『八丈実記』が翻刻されたのは一九六八年(昭和43年)に刊行された『日本庶民生活史料集成』第一巻であり、これとは別に林秀雄により全巻が十年掛かりで翻刻されるのは七三年である。

『ジョン万次郎漂流記』も、資料を引き写して成った例である。この作品は昭和十三年に第六回直木賞を受賞している。

「森鴎外氏に詫びる件」はここでも効き目があった。直木賞選考委員の小島政二郎は「文章の美しさと、ストーリーを遣る水際立った練達堪能の見事さに敬服しながら読んだ。井伏君は、井伏君流に森鴎外の影響を巧みに受け入れていると思った。行間に聞える井伏君の息使いに、僕は詩を感じ、詩人を垣間かいま見た」と絶賛した。病気でもなんでもそうだが、最初の診断を誤るとそれがずっとついて回る。

 江戸時代末期、遭難してアメリカの捕鯨船に救出された中浜万次郎という十四歳の少年がいた。のちに帰国して幕府にとりたてられ咸臨丸に通訳として乗船して再び渡米したり、明治維新後、開成学校の教授に迎えられるなど劇的な人生を歩んだことで知られている。

 井伏は河出書房の「記録文学叢書」第八巻に『ジョン万次郎漂流記』を書いた。新書の判型に近い百ページほどの小さくて薄い五十銭の安価な本である。

 明治三十三年五月に博文館から出た「少年読本」シリーズの第二十三巻で石井研堂が著した『中浜万次郎』が種本である。井伏の『ジョン万次郎漂流記』と史実の食い違いは、すべて石井研堂の『中浜万次郎』に見られる食い違いに一致する。膨大にして精細なる名著『明治事物起原』の著者として知られる石井研堂だが、ジョン万次郎の評伝を書いたころはまだ伝記的な資料が乏しかった。だから間違いが多い。井伏は間違いまでもそっくり引き継いだ。

 書き出しからそのまま評伝の時間軸に沿っている。万次郎たちが嵐に遭遇するシーンを並べてみよう。

「すると俄に一天かき曇り、どっとばかりに申酉の風が強く吹き出した。乗組のものは仰天して、伝蔵親方の指図を俟つまでもなくはえ縄を引上げようとした。しかし波は山のように大きくうねり、船は上下する釣戸のように高く低く翻弄され、はえ縄をたぐり寄せる作業も思うままにならなかった。漸く三桶のはえ縄だけは引上げたが、残りの三筋はそのまま断ちきって地方に向け逃げ帰ることにした」(井伏)

「然るに午過る頃に至り一天俄に険悪の模様を現わして、雲行き煙の如く、あなせと呼ぶ西北風颯と吹き起りたれば、こは只事ならず、皆々急に縄を繰れ油断すなと、五人一生懸命に力めに力めて仕舞えども、船は既に木の葉の如くゆり上げゆり下げられて、顛びつ起きつ働く様は、焙烙の中に揺らるゝ豆にも似、後患いよいよ怖ろしき天候となりければ、僅かに三筋を揚げたるのみにて、残り三筋を切り棄て、岬の方へ遁げ入らんとす」(石井)

 ほぼ全篇が文語体を口語体に移したかたちである。分量的には七割が同一、二割は一般の歴史書にみられる当時の幕末日本の国際環境についての概説。シーンや会話を創作したところは一割にも満たない。

 万次郎の息子・中浜東一郎が質量ともに優れた正確な評伝を著すのは、万次郎の死より三十八年後の昭和十一年であった。井伏がほんとうにジョン万次郎の伝記に関心があるならば、中浜東一郎著『中浜万次郎伝』を参考にすればよい。井伏は昭和十二年に執筆しているから入手可能だったはずだ。

 昭和三十六年に国文学者の吉田精一が、井伏著『ジョン万次郎漂流記』の主典拠として中浜東一郎著『中浜万次郎伝』を挙げた(「井伏鱒二と漂流記物」『解釈と鑑賞』昭和36年4月、5月号)。評伝を書く場合にはいちばん正確で詳しい文献を駆使すると思うのが常識であろう。ところが伊藤眞一郎氏(安田女子大学教授)が「『ジョン万次郎漂流記』の主典拠」(『近代文学試論』二十号、昭和58年6月)で、初出の『ジョン万次郎漂流記』に、井伏が註記のかたちで石井研堂の『中浜万次郎』についてさりげなく触れていた(参考文献と明示したわけではない──筑摩全集第六巻562ページを参照すれば、その誤魔化し方がわかる。新潮文庫版などではこの註記が消されている)ところを素直に検証して、中浜東一郎著『中浜万次郎伝』とは無関係であると判明した。

 ここから井伏の作品づくりのいい加減さが見えてくる。吉田精一ら国文学者は、いや多くの井伏信者は、買い被りすぎなのである。

「書くときの参考資料は、平野零児が木村毅から借りていたのを私に又貸ししてくれた。私はその資料を尊重すると云うよりも資料に頼って書いた。もともと万次郎に関する漂流記は前にも幾つか出ているし、明治三十年代には九代目団十郎が歌舞伎座で演じたこともある。だから平野君は資料を貸してくれるとき、『万次郎漂流記』は『桃太郎』や『かちかち山』と同じように、誰が書いてもかまわない物語だと云った」(「時計と直木賞」、『オール読物』昭和38年10月号)。

 これが井伏の認識なのである。それだけでなく他人のせいにする。同じようなことを「時計・会・材料その他」(『別冊文藝春秋』第43号、昭和29年12月)で書いているが「かちかち山や桃太郎の話を書くようなもので、私は書くとき別に間の悪さを覚えなかった」と、訊かれてもいないのに「間の悪さ」について漏らしている。

 

  『厄除け詩集』の粉本

 以上は『ピカレスク 太宰治伝』にすでに記したことと重複するのであまり繰り返したくないのだが、『中央公論』三月号に掲載された書評で、詩人の佐々木幹郎氏がポイントを衝いてくれた。だがその書評で「井伏も詩の世界では、漢詩を種本としてみごとな戯れ歌をいくつも作った。これは本歌取りであって、盗用ではなかった」と一箇所、気にかかった。物語として『ピカレスク 太宰治伝』を書くにあたって井伏の戯れ歌にまで触れると横道にそれてしまう。だからあえて省略した。その点をここで佐々木氏にお伝えしなければならない。井伏の『厄除け詩集』については、寺横武夫氏(滋賀大学教授)の実証的研究を参照していただきたい。

『厄除け詩集』には十七篇の漢詩の井伏訳が収められている。だがそれらの訳詩には粉本があることを寺横氏の研究で教えられた。江戸時代の『臼挽歌』がそれである。

「『臼挽歌』もしくは『唐詩五絶臼挽歌』と称するところの、近世の歌謡書の体裁に擬した訳詩集である。成立年代は必ずしも定かでないが、巻末識語に〈芭蕉翁五世孫 石州住潜魚庵〉と謳われているのをもってすると、寛政四(一七九二)年、京都双林寺において芭蕉百回忌の法要を営んだ、石見の俳人中島魚坊(享保十〈一七二五〉~寛政五〈一七九三〉)の晩年近くの作物であることが推定できる。

 臼挽歌が、労作歌の一種であることは改めて断わるまでもあるまい。大まかにいえば、十八世紀後半に相次いで編集、刊行された歌謡集のなかに組み込まれたり、その周縁部に位置する古くからの流行民謡と概括できよう」(「人生足別離」『近代文学試論』三十号、92年12月)

 じつはこの寺横論文、とても読みにくい。「かなり有力なヒントを与えた粉本のひとつに数えてみることはできそうでないか」とまわりくどい。井伏の『厄除け詩集』の粉本が『臼挽歌』だとうすうすわかるのだが””。ところが別の論文(「井伏鱒二と『臼挽歌』」『解釈と鑑賞』94年6月号)では一目瞭然、とてもすっきりしている。その謎はすぐに解けた。発表の年度である。先の論文は井伏の生前、後の論文は井伏の没後だった。いかに真実を言いにくかったか、その点を読者は感じてほしい。

 代表的な三篇を挙げよう。たとえば「題袁氏別業(賀知章)」は、『臼挽歌』では「主人不相識/偶坐為林泉/莫謾愁沽酒/嚢中自有銭」が「あるじハ誰と名ハしらねども/庭が見たさにふと腰かけた/酒を沽とて御世話ハ無用/わしが財布に銭がある」となっている。井伏は「主人ハタレト名ハ知ラネドモ/庭ガミタサニチヨトコシカケタ/サケヲ買フトテオ世話ハムヨウ/ワシガサイフニゼニガアル」とした。

「送朱大入秦(孟浩然)」と題する「遊人五陵去/宝剣直千金/分手脱相贈/平生一片心」は、『臼挽歌』では「今度貴様ハお江戸へ行きやる/おれが刀は千両道具/是を進ぜる餞別に/つねの気像を是じやとおもや」、『厄除け詩集』では「コンドキサマハオ江戸ヘユキヤル/オレガカタナハ千両道具/コレヲシンゼルセンベツニ/ツネノ気性ハコレヂヤトオモヘ」となっている

「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と井伏鱒二は頼まれると好んで色紙に書いた。

「勧酒(于武陵)」の「勧君金屈巵/満酌不須辞/花発多風雨/人生足別離」は『臼挽歌』では、「さらばあけましよ此盃で/てふとお請よ御辞儀ハ無用/花が咲ても雨風にちる/人の別れも此こゝろ」となり、『厄除け詩集』は「コノサカヅキヲ受ケテクレ/ドウゾナミナミツガシテオクレ/ハナニアラシノタトヘモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ」である。

 訳詩のうち十篇は『文學界』昭和八年十月号に、七篇は『作品』昭和十年三月号に掲載された。『文學界』の掲載の際には、実家の蔵のなかで本箱をかきまわして和綴じのノートを見つけ、そこに記されていた父親の訳文だと説明が付されていた。『文學界』掲載分はほぼ『臼挽歌』の丸写しで、ここで挙げた三篇のうちの初めの二篇がそれである。だが、井伏は出典が『臼挽歌』と一度も説明していない。

『作品』の七篇は丸写しではないが、瓜二つといえる。ただここで示した三篇目の「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」のフレーズだけは、『臼挽歌』から少し飛躍した感じに出来上がっている。ふつうの人が知っているのもこの部分、しかし考えてみると意味はよくわからない。正確な表現ではない。けれどなんとなくわかる、とのあいまい領域の表現が人口に膾炙した。井伏のルーズな部分がたまたま生きた、というほかはない。

 

  燃してしまったんだ””

 『黒い雨』に一貫したモチーフがあったのだろうか。重松に目撃された悲惨な被爆者たちの姿に僕は圧倒されたが、それはいまこの『重松日記』を読んでも迫ってくる。

 井伏の『黒い雨』は『重松日記』のリライトを中心にしてつくられた。ところが相馬氏は『重松日記』の解説で、井伏と生前の重松がきわめて友好的関係にあった、として井伏の重松宛書簡を公表してその証左としたが、それだけでは説得力がないと思う。友好的関係であっても、ではなぜ井伏は弁解めいた説明をしてきたのだろうか。さらに疑問を追加するならば、『重松日記』解説では、重松側の心情を表しているであろう手紙をなぜ往復書簡のかたちで見せてくれないのだろうか。『重松日記』解説のみでは重松静馬の言い分がわからない。

 代わりに解説と『新潮』六月号ともに掲載されている重松静馬の井伏宛の「依頼状」から背景を読みとることにしよう。

 昭和三十七年六月二十六日付の重松の手紙を、相馬氏は依頼状と呼んでいる。その依頼の中身を、相馬氏は、「日記を創作に役立ててもらおうと思い立った」と解釈しているが僕は以下の文面から、むしろ出版の依頼と読み解くのが自然ではないかと思う。

「私こと広島原爆被災の日より十五日終戦の正午迄の被爆日誌を記して子孫に残す可いたして居りました。(略)何か役に立ちはせぬかと存じ、浄書いたしました次第ですが、文才皆無、その上被災時はぼうといたし居り、他の方が読まれるといたしましたら迫力無く、読み力の入らぬものと存じますけれ共、事実の描写で御座います。こうしたものを持合せて居りますので一度御高覧下され、御判断願わしう存じます。此の中、一部分でも原水禁運動の役に立ちますれば被爆者として死しても忘れ得ぬよろこびと存じますので、何卒御高覧ねがわしく、別途お送りさせていたゞければと存じますが、先生の御都合御洩し下さいませ。被爆記録もたく山世に出て居り、もはや時期はずれの感がいたしますが、一生の御願いで御座います。何卒御聞届け下さいませ」

 いかがだろうか。この直後の当用日記に、重松は「井伏先生よりの手紙により、今日より亦原稿整理にかかる。読んで見ると、どことなく線が弱い」(七月四日付)と書いているがこれは文学作品としての自分の原稿への執着、推敲を意味している。

 相馬氏自身も『続・井伏鱒二の軌跡』で「被爆日記の冒頭部にこのような幼少時の回想記(平和な原風景)を置いたということは、重松氏が当初からこの日記を文学的なある意図をもって執筆していたことを窺わせるものである」と分析していたのである。日記は日記帳に記すが、わざわざ原稿用紙に清書し推敲までしている場合には、出版への期待が含まれていると考えるのがふつうではないのか。

 それにしても、今回の『重松日記』刊行も、初めから井伏が重松から送られた日記を資料として公開すれば終わっていたはずだ。たまたま重松静馬が控え(原本、井伏には清書稿を送った)を持っていたことが判明しなければ永久に謎は解けなかった。

 相馬氏は「井伏宛の重松書簡や『当用日記』を見る限り、重松が井伏に日誌の返還を求めた形跡は全く認められない」と『新潮』六月号に書いているが、重松は井伏に日記を返却してくれ、と要請していたのだ。しかし井伏は返さなかった。僕はこの用心深さに不可解な、なにかしっくりしない違和感を覚える。

「重松さんから、日記を返してほしいといわれたことがあったが、手を加えたりしてずたずたになっていたから、返せないので、いまはない。どの程度の引用だったのか””。私の作品には出来、不出来があり、『黒い雨』は出来のいい作品とは思っていない」(朝日新聞、昭和63年10月12日付夕刊)

 今度の『重松日記』解説には、井伏が重松に対して「日誌借用の謝礼(買い取り金額)」として十五万円(現在の物価に換算すれば百五十万円位)を支払ったと説明している(井伏の重松宛書簡昭和39年12月15日付では、新潮社が10万円、井伏が5万円支払う旨が書かれている)が、といって紛失してよいものではないし、最終的には本人に返却すべき筋のものであろう。なぜなら『黒い雨』で主人公の閑間重松が日記を清書するとき、「わしのヒストリーじゃ」と妻シゲ子に言ったあと、作者の井伏は、シゲ子にこんな台詞で応じさせている。

「それなら、大事をとらんならんでしょうが。インキでなしに墨で清書したら、どうなんですな。インキで書いた字は、年がたつとだんだん薄れてしまうでしょうが」

 主人公はインクでなく毛筆で清書をする、とわざわざ井伏は物語のなかで強調したではないか。そこまで言わせておいて、つぎの言葉はないだろう。

「あの資料を西洋人に渡したと思っていたのは、ぼくの記憶ちがいで、富士見の農家にいたときがあっただろう。あのとき、縁側に置いておいたので、紙屑と一緒に燃してしまったんだ””」(萩原得司著『井伏鱒二聞き書き』昭和60年刊)

   〔了〕

「『重松日記』出版を歓迎する——『黒い雨』と井伏鱒二の深層」

『文学界』2001年8月号