信長残照伝

-わたしはお類、吉乃と申します

プロローグ

 キリスト教が江戸幕府によって弾圧される前、種子島に欧州の鉄砲が初めて伝来したとされる一五四三年(天文十二)葉月二十五日〔新暦九月二十三日〕から約二十年後、「日欧文化比較」で知られるイエズス会宣教師のポルトガル人ルイス・フロイスが日本で布教を始めている。時あたかも信長は戦乱に次ぐ戦乱の只なかにあった。信長がこの世に生を受けたのが一五三四年五月十二日〔新暦六月六日〕。日本で三十五年に及ぶ布教生活ののち長崎を終の住処に生涯を終えたフロイスは信長よりも二年早く生まれている。同じころ、ふたりは日本にあって天下統一とキリスト教伝道の使命に燃え、それぞれを生きたのである。

 信長は夜陰に光る滝の流れのような火の粉を全身に浴びながら、

  〽人間五十年

   化轉げてんのうちを較ぶれば

   夢まぼろしの如くなり

   ひと度、生をうけて

   滅せぬものゝあるべきか

  〽死なうは一定

   夢の世なれば

   婆どのおじゃれ

   姉さも下され

   夏の夜

   短し……

 と愛用の扇を手に、生涯離さなかった天女の能面をかぶり、来し日々を思い、幸若舞や敵の目をくらますため、若いころ生駒屋敷で遊び呆けて舞った踊り唄「上総唄」などを無心になって舞い、踊り続けた。

 肩から胸にかけては大数珠が斜めにかけられている。手を合わせ「きつの、きつの。余はまもなくそちのところに参るからな」。そう言って火焰のなかに飛び込むようにして消えた。

 だがしかし、信長の亡き骸がその後発見されたとの確たる証拠はない。ありし日々、吉乃と共に過ごした木曽川河畔や伊木山、小牧山を含む尾張一円を今なお彷捏さまよっているのかも知れない。信長は一体どこへ行ったのだろう。

 突拍子もなく、時の流れとともに、この地方に伝わる狐の大親分の〝小牧山吉五郎〟とその妻〝お梅〟のように物の怪に化身してしまったのか。桜の花々や川の流れ、〈気〉となって、吉乃と共にここいら辺りの田園地帯に浮遊しているかも知れない。

 話は今から四百三十五年前、戦乱の世に遡る。フロイスが一五六二年(永禄五)にパードレとして日本を訪れキリスト教の宣教を始めた二十年後の一五八二年(天正十)六月二日、織田信長は明智光秀による本能寺の変で命を落とすが、その前年にフロイスは通詞として京都で信長に初めて謁見している。

 一方、信長にとっての最愛の女性、吉乃の墓は観音像とともに、尾張之国小折村(現愛知県江南市小折)の田代墓地に建ち、信長のかつての居城小牧城(愛知県小牧市)を仰ぎ見る位置にある。若き日の信長と吉乃の心を虹の橋で結ぶように、である。

 一五三四年(天文三)五月十二日。信長は古渡城主だった織田信秀の嫡男として、当時信秀が居城していた勝幡しょばた城(現愛知県愛西市)で生まれた。

 それから数年後、幼少のころ「吉法師」と呼ばれた信長は、小折村の土豪生駒家の娘、お類にこんな言葉を掛けている。

「おるい、そなたはワシのおなご。よめじゃ。よいか、わかったな。よめじゃ、よめじゃぞ」

 大人びた表情で語り掛けてきた日のことを、六つ年上のお類は忘れもしない。

 ──吉乃の物語は、信長に愛され周りの人たちからも慕われ、愛され続けた尾張名古屋が産んだひとりの女性の波乱に富んだ生涯である。その一生はどこまでも信長に寄り添い、生き、戦い抜きながらも若くして夭折した悲しい話である。

 とはいえ信長と吉乃の純愛は、歴史のひとこまにとどまらず、後の世にまで語り継がれてしかるべきだろう。戦国の乱世にあって燦然と煌めく愛のかたちが、そこにはあった。

 生駒家に生まれたお類は、成長するにしたがって「吉乃」と呼ばれるようになり、それが定着し、一般的になったと言われている。土豪生駒家がその昔、吉野桜で名高い奈良から尾張の地に来たこと、何かにつけ〈吉〉に恵まれた縁起のいい家系だったことによる。それよりも何よりも、お類と再会した信長自身の口から飛び出した呼び名が「きつの」であった。

 ともあれ、種子島に欧州から火縄銃(鉄砲)が伝わり、キリスト教文化が今まさに世を席巻しようとしていた。その風雲急を告げるときに、日本では吉乃という戦乱の時代を駆け抜けたひとりの女性が、木曽川河畔の地に生きていたのである。

 歴史に「もし」はあり得ないが、もし幼少の信長がお類、いな、吉乃に出会っていなかったとしたなら、信長、秀吉、家康といった三英傑主導の戦国の世はまったく変わったものになっていたであろう。いや、それどころか、信長という存在そのものが歴史の舞台から弾き飛ばされ、秀吉、家康も後世にその名を残すことはなかったのではないか。天下統一の美名のもとに殺戮が繰り広げられることもなかったのではないか。あるいは今以上に歪な日本を私たちは生きてこなければならなかったかも知れない。

1 出戻り、お類

 ヒュー、ヒューッ、ヒュウル

 〽一の谷の いくさやぶれ 討たれし平家の 公達あわれ……残れるは花や 今宵のうた──

 敦盛の、牛若丸の、あの武士たちの悲哀を醸した笛の音が〈かぜ〉に乗って流れくる。

 春。桜の花弁のひとひら、ひとひらが泣き、歌い、笑っている。ひとひらのなかに人知れずドラマが、生が、隠されている。尾張之国丹羽郡小折村の墓地に立つ吉乃きつの桜のことである。

 奈良。吉野山。その山を彩る吉野桜にも似てかわいらしく、かつ優雅さと気品をたたえた吉乃。彼女の生まれ育った尾張之国の土豪生駒家がその昔、吉野桜で名高い奈良から尾張の地に移り住み、何かにつけ〈吉〉に恵まれ、栄華をきわめた。遠くは藤原家の血を受け継いだ家柄だったこともあり、いつしか村人たちは吉乃と呼ぶようになった。実際、生まれながらにして吉乃は器量好しであった。

 ここ尾張の大地に風が吹いても、雨が降っても。そして雪や氷たちが襲い来ても吉乃は、どんなときにでも、トレードマークともいえる少し控えめな八重歯を光らせ、艶やかな長めの黒髪に身を包むようにし時にえくぼを光らせ、顔をなごませてもいた。

 吉野桜といえば、〽春の眺めは吉野山/峰も谷間もらんまんと/ひと目千本二千本/花が取り持つ縁かいな、と爪弾きの三味の音に合わせて男衆たちがよく謡う小唄〈縁かいな〉のなかでも唄われている。

 その吉野の血が流れる彼女が歩んだ人生、女の道とは一体どんなものだったのか。話は弘治三年、一五五六年の秋。尾張之国の小折村に遡る。

 濃尾平野には一面きらきら光る稲穂が垂れ、田頭は黄金色で波打っている。近くでは五条の川の流れがサヤサヤと音を立て、陽の光りを呼吸でもするようにのみ込む。黄や白の蝶たちも気持ちよさそうに羽を広げ、草花の上を飛んでいる。トンボが一団となって飛んでゆく。その光景が、このところ傷ついていたお類の心までを大胆なものにしている。お類は思う。どうせ、われの命なぞ、一度は死んだもの、吹っ飛んだはずなのだから。それにそれなりに齢を重ねた。われの身は夫・弥平次の死で一度は死んだはずのものなのだから、と。

 そう割り切ったお類は実家近くの物言わぬ野菜畑に出て腰を折り、夏の間伸び放題となっていた雑草を妹の須古や侍女のおちゃあ、お亀らと引き、時折、顔を上げ、まぶしく陽が注ぐ太陽に目を細め、額に浮かぶ汗を手ぬぐいで拭うのだった。赤い曼珠沙華が目の前で棒のような花の房を揺らせている。お類は秋風に揺れる穂先を目の前に、思わず〽マンジュシャゲ 人恋ふごとに 朱ふかく──と口遊んでいた。近ごろ、お類には気になる若者がしばしば生駒家を訪れ、その都度何とはなしに身を焦がす自身に気がついていたのである。

 齢のころなら二十二、三歳ぐらいか。きりりとした唇に、妥協を許さない人を射るような鋭く光りを放つ目。中肉中背。その男こそが、若き日の信長だった。何が不満なのか。亡き父の葬儀の席で線香が立てられていた燭台をエイッ、とひっくり返してしまうなど、少し前までは周りから尾張一の大うつけ者だと陰口をたたかれていた。

 実際十八、九歳のころまで、この少年は袖を外した湯惟子一枚に半袴、髪は紐で後頭部で結んだ茶筅髷という姿で町内を気ままに歩き、柿や瓜に丸ごとかぶりついたり、立ったまま餅をほおばるなど、とても領主の嫡男とは思えないひどいありさまだった。

 そして。お類はといえば、一昔前の表現で言うなら「傷ついた出戻り女」だった。

 一五五四年(弘治元)に標高一七〇メートルの山城、明智長山城(可児市瀬田)の明智一族の一人、土田弥平次に嫁いだものの二年後の一五五六年九月、明智長山城が長井隼人率いる軍勢三千七百人に攻め立てられ、明智一族八百九十人が龍城、ついには城を明け渡した際、弥平次も共に討ち死にしてしまい、お類は泣く泣く両親(父は三代目生駒家元)や兄、生駒八右衛門家長らの住む尾張之国小折村の実家に戻り、傷心の日々を過ごしていたのである。

 実家に戻ったお類は、七人兄弟の長女として育ち、幼いころからそうだったように皆から以前と同じく大切にされた。とくに父家元や兄家長の気遣いようときたら大変なもので次第に元気を取り戻していった。生駒屋敷内の二の丸館に住み、侍女おちゃあらと近くの龍神社や神社隣の森、田畑、馬飼い場、雨壺池などに出向き、草引きに打ち込んだり、馬にえさを与えるなどし、神社境内では掃除にも励み、時には近くの子らと言葉を交わしたりして気を紛らす日々を過ごしていた。

 なかでも神社前にあるちいさな池は、雨壺池と呼ばれ、旱ばつになると水を替え出し雨乞いをするとアラ不思議や、神社上空にたちまち龍雲が現れ、恵みの雨が降り出す──という真如の言い伝えがあり、お類は近所の子らに好んでこのありがたい「恵みの雨」の話しを何度も繰り返し聞かせ、このところは「お姉ちゃん。あまごいの話。聞かせて」と懇願されることもしばしばだった。

 秋はトンボの数が多くなるに従い、日一日と深まっていったが、そんなお類の前に何の因果か、このころ馬上姿もりりしい若武者、信長が数日を置かず、足しげく生駒家を訪れるようになった。信長はいつもお類を見つけては彼女の近くに馬を寄せ、馬上から

「余はかつては吉法師、今は信長じゃ。デ、そなた、おるい。いや、きつのどのは、元気でおいでかな」

 と声を掛けてくる。「なぜ、信長さまがアタイ、われのことをきつのと呼ぶのか」。そのわけが当初、お類には理解できなかった。でも話を重ねるうち、信長の口から「そちの実家の出は奈良・吉野と聞くが、そちは〝吉野桜〟にも似て、いつだって初々しく美しい。だから、おるい。そちのことは、きつのと呼ばせていただくことにしたのじゃ。周りの者どもも皆『きつのの方さま』『きつののお方』と、そう呼び親しんでもいるからじゃ」との言葉を聞くに及んだのだった。

 吉野桜だなんて。吉乃は、その桜を見たこともない。それどころか、思いもしないこと、なんて嬉しく光栄なことだろう。そう思ったお類は、それからというもの「吉乃」に成り代わり生まれ変わった女に、と心密かに誓いもしたのだった。

「少なくとも信長さまにお会いする時は、いつも笑顔を絶やすことなく、悲しい顔などしないでおこう。吉野桜のように」と。それからというもの、お類、いや吉乃は信長から声を掛けられる都度「ハイ、おかげさまで。われはなんとか元気でいます」と笑顔で答え、信長はその都度「ウンウン、そうか。そうか。よかった、よかった」とうなづき「ならば良いが。からだを大切にな。気を落とすことのなきよう。そのうち、きっと良いことが降って湧くからな」と妙に大人びた口調でそれだけ言うと、手綱を引く手も軽やかに今来た道を清洲の方へ、と戻って行くのだった。

 そして。半刻ほどもすると、決まって信長の従者とみられる少し赤ら顔をしたいかにも田舎侍といった一人の足軽若衆が、こちらは草鞋わらじ姿で歩いて吉乃に走り寄り、ヤァーヤァー、ヤア~ッと手を上げたが早いか「気イ、落とさんでおこな。そのうちええことがたんと、きっと起こるわいね。拙者が保証する」などと吉乃の肩を気安くポンポンポンと、それも労るようにしてたたき、ひと言ふた言、声を掛けると「じゃあな。ハヨ元気になりぁ~せよ。世のなか、みんな苦しんどるんだから、な」とだけ言って帰って行くのである。

 こうしたことの繰り返しがしばらく続くと、今度は吉乃の気持ちまでが魔法にでもかけられた如く得も知れず揺れ動き、お侍さんたちがいつ現れるのか、と胸騒ぎまで起こしておかしくなってくる。いつのまにか、そこには信長とその家来とみられる男が訪れるのを心待ちにする自身がいることに気がついてもいた。主君はむろん吉乃にもピタリとついて離れない猿にも似た、どこかひょうきんな感じのするこの男。その男の名は木下藤吉郎といった。

 名古屋の中村生まれの藤吉郎は、元はと言えば諸国を転々としたあげく、生駒家に出入りする川並衆の親方、蜂須賀小六の手下になったが、まもなく生駒家の人々にも取り入って信長の家臣となって間もないころで、のちの豊臣秀吉である。

 弥平次の亡霊は、お類が実家に戻って以降も日々、枕辺にたった。

 同時に、お類の耳には明智長山城が落ちる寸前、戦場で果てゆく運命を知った弥平次が残した言葉「るいや。明智長山城もこれまでじゃ。わしのことは良いからそちは実家へ戻って、誰よりも幸せになるのじゃ」が頭をよぎり、胸がキリキリと痛むのだった。そしてお類は、夫の言葉に従って生後一年と二年になる幼子ふたりを弥平次の母方の土田家に残し、身ひとつで小折の実家である生駒家に戻ってきたのである。

 そんななか、お類が生駒家に戻ってからというものは、若武者はまるで宝物でも追い求めるように昼の日なかに現れることもあれば、早朝だったり、夕方日が落ちるころに突然、現れたりした。

 空には白い雲が浮かんでいる。

〈かぜ〉がさやさやと微かな音をたてて通り過ぎてゆく。

 お類、いや吉乃の胸の血もリズミカルに音を奏でるようだ。お類が馬上姿もりりしい若武者が実は若き日の清洲城主、信長であると改めて強く認識したのは、それからまもなくしてからだった。

 というのは、信長の母である土田御前が土田弥平次と同郷で土田一族の出身であり、こうしたことなどもあって信長は幼い頃から、母の土田御前に手を引かれ、かつて何度も生駒屋敷を訪れたことがあり実を言うと幼少のころから互いに子ども同士、そこはかとなく意識しあっていたのだ。

 吉乃は何度も会ううちに「そう言えば、あの時のやんちゃな若さま、吉法師さま、この若武者は、信長さまだ」と気づいたのである。実家の生駒家そのものが隣村の尾張之国丹羽郡前野村(江南市前野)の前野一族を後ろ盾に油や灰などを売る馬借(運送業)として財を成し、地方の豪商として知られていた。当然のように常日頃から清洲城主との絆もふかく馬借という、戦国大名にとっては有事への備えに切っても切れない間柄もあって、皆それぞれに深い縁で結ばれていたのである。こんな周囲の状況も手伝って生駒家の存在は、当時の戦国武将ともなれば、必要欠くべからざる存在だったと言っていい。

 この時機。すなわち明智長山城で合戦があったころ。清州城では信長の実弟信行による反乱があり、信長は明智長山城へ救援の兵を後ろ盾に出せないままでいた。信長軍の授軍に恵まれないためもあってか、長山城は落ち、お類の夫・弥平次も田の浦合戦で敵方の長屋勘兵衛と槍を合わせ、討ち死にし、命を断ったのである。こうした背景もあって、繊細で幼少のころから少し齢の離れていた姉同然のお類になついていた信長は夫を亡くしたばかりで気落ちしているお類を何とかして励まし慰めようと、当時足軽組隊長だった、まだ召し抱えられてまもない従者、藤吉郎を伴い事あるごとに生駒家にお類を訪ねるようになっていたのである。

 若き城主で誇らしげで頼もしく映る信長。かつての吉法師、いや信長が生駒家に顔を出せば決まって生みの母から湯茶の接待をするよう勧められたお類、いや吉乃。出戻りの女にとっては当初、気の重い大役ではあったが言葉を交わすうち次第に打ち解け、心ばかりか、いつしかからだまでも許すほどに互いの愛は深まっていった。

 ところで一五五六年九月二十五日。明智長山城が落ちた年、信長は二十二歳になっていた。実は信長はこれより先の一五四八年、十四歳のころ、当時清洲城主だった父信秀と美濃の斎藤道三の政略もあって一歳年下の道三の娘、濃姫と婚約させられ、その後、正妻として清洲の城に迎えられたいきさつがある。濃姫とは、単純に「美濃之国の姫」だから、こう名付けられたと伝えられている。濃姫は別名(帰蝶)とも呼ばれていたことは、知る人ぞ知る。

 だが、しかし。せっかく息子が正妻を迎えることが決まったというのに信秀は翌年の一五四九年三月三日に四十三歳の若さで急死。なぜ死んだのかについての記録は乏しいが、信秀は気性がとても激しく生前、辛いものを好んで食べていたこともあって、今でいう脳梗塞による病死と見られている。そのとき、信長はまだ十五歳であった。

 有能な猛将信秀の突然の死に、尾張の安定を図るため三年間喪に服し一五五一年に葬儀が行われた際、葬儀の場で父親に負けず劣らず短気で勝ち気な信長は祭壇に飾られた線香台を引っくり返し、抹香を仏前に投げつける行状に及んだ話しは前にも触れた。傷心に打ちひしがれていた信長が幼少時から知るお類を「吉乃」という新たな女性として認め、ただひたすら純愛に走ったのは、それから数年後のことであった。若かったとはいえ、波乱に富んだ人生の行く手に明るい灯火、ひとつの光りがポッと点くような形で、かつてのお類が信長の前に現れ出たのである。吉法師とお類双方にとって、それはくらく、長いトンネル同然の日々からの新たな旅立ちであった。

 出戻りのお類にとっての吉法師、逆に吉法師にとってのお類は、もはや互いに消すことのできない大切な〈結ばれた糸〉も同然の存在となっていた。吉乃にとって信長がわがままな弟も同然なら、信長にとってのお類は血を分け合った弟の謀反や何かにつけ傍若無人なふるまいが目立った信長だけを差別扱いする生みの母、土田御前の目に余る依怙贔屓など孤独な自分にとって、いつも温かく接してくれる貴重な存在でもあった。

 皮肉なもので、その母、土田御前こそが、幼きころ吉法師の手を引き、生駒家をしばしば訪れ、お類とわが子を引き合わせるきっかけを作ったのである。吉法師もお類も幼少にありながら何か目には見えない運命的な赤い縁で互いに結ばれている、子ども心に気づいていた、とも言える。

 あれから、どれほどの月日がたったことだろう。生駒屋敷内、二の丸館で吉乃と過ごすことが信長にとっては唯一、精神的な逃避を兼ねた安らぎの場にもなっていた。

 翌春のある日のことだつた。

 木曽川の滔々とした川の流れを眼下に信長と吉乃はふたりで川面を見ていた。堤には黄色いタンポポが咲いている。レンゲも目にまばゆい。その川には草井の渡し場があり、風よけの麦わら帽をアゴひもで結び、目深にかぶった大勢の人たちが小舟で美濃と尾張の国を行き来している。皆、わらぞうりに素足である。そんな人々を見ながら土手の堤に腰を下ろした信長はこう、口を開いた。

「実を言うと、弥平次のことじゃが。とても残念に思ふとる。おるい、いや、きつの。そなた、その後、悲しさ、心の傷は癒えたかな」

 吉乃の胸がピクリと動いた。風の流れが頬に心地よいばかりか、清流の音までがぴちゃぴちゃ……と新たに生まれ出る心を打ち、なんとも気持ちがよい。フナが二匹、三匹、四匹と水面に跳ねて飛んだ。ドジョウたちも次々に顔を出し、泥を掻き分け、水のなかに消えていく。目には見えない、一陣の風がふわりと流れて消えた。

 これより先、自ら手綱を取った馬の鞍台から、まるで大事な傷ついた宝物でも扱うように着物姿の吉乃を抱きかかえて土手に下ろした信長は、手綱を近くの木に結わえ付けると堤の上にゴロリと仰向けになり、秋の空を見ながらお類を手招きして傍らに引き寄せた。

 流れる雲が下からはっきりと見てとれる。

 信長は吉乃を傍らにそのまま黙ったまま、白い雲の行方を追っていた。

 しばらくそのまま間を置いた信長は、今度は身を起こし、傍らで神妙な面持ちで座り直した袷せ着に身を包んだ吉乃に向かってつぶやくように話し掛けた。

「ワシも、父の突然の死や弟の裏切りに遭うなどいろいろあったが。のう、今はおまえとこうして会うことができ、とても嬉しい。そちのおかげでワシは戦乱の世にありながら、こうして日々心安らかにしていることができる。まっこと感謝しているぞよ」

 信長のひと言ひと言になぜだか、無性に涙がこぼれ落ちてしまう吉乃。泣きながら吉乃は途切れ途切れに「アタイ、いや、われとて。吉法師さまと、こうして日々、お会いでき、これ以上に何を望むことがありましょうぞ。いまだから申し上げます。実をいいますと、アタイは土田御前さまに手を引かれ、生駒の家にちょくちょくおいでになられたころの吉法師さま、あなたさまの幼少時代をよくお見かけしました。よく、知っています。あなたさまの何ごとにかけても一途な、まっすぐな心と強く光りを放つ目はあのころから何ひとつ変わりませなんだ。いつもキリリとしておいででした。一度、こんなことがありました。

 ──アタイがまだ七、八歳だったあなたさまを母にいわれてあやさせていただいたときのことです。吉法師さま、あなたさまは、わたくしに向かって突然こう、おっしゃられたのです。『もう、よい。それよりも、おまえは、よきおなごじゃ。やさしくて、いい女じゃ。じゃから。そちは大きくなったらオレさまの嫁になるのじゃ。よいナ。わかったな』と。こうおっしゃられたのです。

 なにしろ、こども同士のこと。わたくしは当然ながら少し考えたあと気取った表情で『われは……。なりませぬ』と申しますと『よいから。そちはワシの嫁じゃ。きょうから嫁なのじゃ』と、そう言ってきかれずアタイの顔は子ども心にも赤くなるやら、はたまたどうして良いものか分からなくなり、そのまま雨壺池のある龍神社まで顔を覆って逃げ、以降はできるだけ会わないようにしたのです。

 ほんとは何をなさるのやら。何を言い出されるのか、が分からない吉法師さまには神秘的かつ不思議で妖しい魅力とともに、何か強い一本、線の入った絆のようなものを感じていたことも確かです。それが夫との思いもかけない死別のおかげで再びこうしてお会いすることができ、話しができるだなんて」

 そこまで話すと、目を着物の袖で覆い傍らの信長に自ら崩折れた。吉法師と吉乃との逢瀬はそれ以降というもの日を置いて続き、ふたりが互いの愛を育み、ひとつとなる場所は誰もいない龍神社境内だったり、その隣の森や竹林のなかにあるこんもりした土山だったり、木曽川河畔の河原、時には野辺に広がる里山の一隅、自分たちだけの秘密の場所や馬飼い場近くの草原、畑地一角に設けられた農機具小屋だったりした。

 そして。ここ尾張の地は木曽川の川面に映える赤い夕日がとても美しい。ふたりは、日々形を変える夕日に染められながら逢瀬を重ね、身も心も互いのからだに同化する如くに融け、染まりあい、まさにひとつになっていく自分たちを感じていたのである。

 おなごと男がひとつになる、融け合うというのは、こういうことをいうのか。信長も吉乃も秋の空を流れる雲に目をやりながら、つくづくそう思うのであった。

 後年、吉乃はこの空を目の前に、美濃和紙に「秋空に未来永劫と書いて見し……」と思いの丈を詠んでしたためた。

2 出陣

 音もなく杉戸が開いた。

 侍女のさいは、そこから手をつかえて、信長の方を見、静かに後を閉めてまた、間近まで来て兩手をつかえた。

「お目ざめにござりまするか」

「ウむ。さいか。……刻限は今、何刻頃?」

「丑の刻を、すこし下った頃かと覚えまする」

「よいしお

「なんと御意なされましたか」

「いや、の物の具を直ぐこれへ」

「お鎧を」

「誰ぞに申しつけ、馬にも鞍の用意させよ。そなたは、その間、湯漬をととのえてこれへ持て」

「畏まりました」

 さいは心の効く女であったので、信長の身近な用事は、平常もさいが心をくばつていた。

 さいは、信長の心をよく知つていた。さてはと思つたものの、仰々しく立ち騒ぎもしなかつた。脇部屋に手枕のまゝ寝ていた小姓の佐脇藤八郎をゆり起して、宿直の者へ馬の用意を傳え、自分はその間に早くも湯漬の膳部を、信長の前へ運んで来る。

 信長は、箸を取って、

「明ければ、今日は五月十九日であつたな」

「左様でござりまする」

「十九日の朝飯は、信長が天下第一に早く喰べたであろうな。美味い。もう一碗」

「たくさんにお代え遊ばしませ」

 以上は吉川英治の新書太閤記第二巻「出陣」に記された信長が今まさに、これから桶狭間へ、と出陣する日のひと幕である(原文通り)。

 吉川英治が書いた、ここに登場する侍女さい。さい、こそが緊急時にそなえ良人、信長のことを思い吉乃が生駒家から清洲のお城に派遣した侍女に間違いない。信長が一生一代の勝負に、と清洲城を発ち桶狭間に向かったのは、一五六〇年(永禄三)五月十九日〔旧暦、新暦なら六月十二日〕早朝のことだった。時に信長は二十六歳。吉乃との間には既に信忠、信雄、そして徳姫と三人の子をもうけるほどに深い間柄となっていた。

 これより先、一五五七年(弘治三)になり信長は前年に押さえ込んだはずの未森城の弟信行が再び謀反を企てていることを信行の配下、柴田勝家の裏切りで知らされた。重病を装った信長は柴田の勧めで母と見舞いに清州城を訪れた信行を城内北櫓天守次の間で部下に命じて殺させ、これによって柴田勝家が完全に信長に寝返った。信行を暗殺するという強硬手段に出た信長は一五五九年になると、家臣八十人を伴って晴れの上洛を果たし、時の将軍足利義輝への謁見を実現させた。この際には京都、奈良、堺と当時の先進都市を回って見聞を深め、既にいち早く部下の蜂須賀小六らが軍備として導入し実弾演習などの運用まで始めていた種子島伝来の鉄砲(火縄銃)にも一層の理解と研鑚を深めた。

 そして京から帰った信長はその年三月には岩倉城下を襲って焼き払い、城を丸裸にして明け渡させ、これがきっかけで尾張一円は信長一族を中心にまとまるに違いない、と周辺の各々は堅く信じて疑わなかった。

 桶狭間の戦いはまさに、そんな織田一族の結束の高まりに煽られるが如く若き主君信長の思いもよらぬ好判断と奇襲により始まったのである。

 織田信長自らが螺鈿鞍らでんぐらを置いた愛馬「月の輪」の背に飛び乗り、馬上姿もりりしく主従合わせて僅か五、六騎の先陣を切って戦地に向けて立ったその日の朝。生駒屋敷二の丸館で、吉乃はまんじりともしない一夜を過ごし、朝を迎えていた。

「さいは、万事うまくことを運んでくれただろうか。信長さまは無事、予定どおり清洲のお城を発たれたであろうか」

 信長が出陣したその日の朝。吉乃の胸に去来するのは、そんな思いばかりだった。

 信長はつい二日前、いつものようにふらりと小折の生駒屋敷に吉乃を訪ねた。信長は木曽川河川敷での戦闘の実戦訓練の帰りと見られ、戦場に向かう兵士の武具姿そのままで突然、吉乃の前に現れた。吉乃は、この三年余の間に信長との間に授かった三人のお子たち(信忠、信雄、五徳)の衣類の針物づくりに励んでいた、そのさなかに、である。

 そして信長は吉乃を前に、はっきりとこう言ってのけた。

「おるい、いや、きつの。余は明後日に戦場に参る。今川義元の首をはねるため田楽狭間に、桶狭間にじゃ。大は小に勝るといえども、小よりは自在たらず。しからば大象の動きを知ることこそ、肝要なり。敵の大軍を桶狭間へと誘い込み義元を必ずや、討ってみせる。ワシが留守の間、からだを大切に。ややこと吾子たちを、くれぐれもよろしく。たのむぞ、な。よいな」

 吉乃は、何ひとつ動じることなく頭を下げ「武運お祈り申し上げます」とただ、それだけ応えた。これだけ落ち着き払って信長、いや夫に対峙したのも侍女さいからの飛脚便が事前に吉乃の元に届いていたからにほかならない。

 実際、さいから吉乃にあてての便はそれに先立つ四、五日前に、さいが放った騎馬による飛人とびびとの手によりいち早く届いていた。

 便の内容は次のようなものだった。

「最近の信長さまのご表情には一段と険しく、厳しいものがあり、背筋がピンと張りつめるほどに鬼気迫るものが感じられ、怖いほどでございまする。その分、何かにつけ侍女の私はじめ、お付きのご家来衆には、とてもおやさしく風邪などを引き体調を下げ、からだを壊した者が出たりすると、その都度『よいか。無理をするな。そちたちは、家族はむろん、ワシにとっても宝も同然じゃ。早く引き上げからだを休ませるように』と、周りに対するお心配りとなると、大変なものでございまする。

 一方で木曽川まで駒を進めての戦闘訓練となると、ご自身が先頭に立たれて毎日の如く敵、味方に分かれこの一年余というもの、実戦さながらに繰り返し続けてこられました。それは厳しい訓練だと聞いております。それが、なぜか。なぜなのでしょう。あの苛酷なほどの戦時に備えての訓練がつい二、三日ほど前に突然、ピタリと止んだかと思うと、信長さまはご家来衆に『まずは何よりも、わが家の備えを怠らぬよう。ここしばらくは妻や子、おやさん、兄弟など親類縁者を大切に。留守中の狼籍者に対するそれぞれの家の守り、備えを、くれぐれも万全に。何よりも家内安全じゃ』とのお触れまで出され、次に達しを出すまでは城中への参上は罷り成らぬ、とまで言い切られました。

 阿吽の呼吸といいましょうか。ご家来衆は自らが不在中の家内安全と有事の際の守りを御意に従い皆黙々と進め、今は鳥が大空に飛び立つ寸前、信長さまの御意そのままに全員が走り出そうとする、そうした尾張の侍魂というか、一体感のようなものがヒシヒシと伝わってくるのです。でも、用意周到な御方さまのこと。何も私にはおっしゃいませんが、ここ数日の間にごくごく少数による実戦に向けた最後の訓練が木曽川河畔で今一度行われる気がしてなりませぬ。その折には必ずや、吉乃さまのもとに足を運ばれるに違いありません。

 清洲の城の方は、こんな訳でして。いざ出陣の時はもはや待ったなし、目前に迫ってきているのです。そんな信長さまも時折、何かを思い出しでもするように『さい、さいよ。吉乃、おるいとわが子らをよろしくな。留守中はそちをたよりにしているからな』とそのようにおっしゃられるのです。そしてここ二、三日というものは『さいよ、さい。信長、すなわちワシが討ち死に──と聞こえたなれば、ただちにこの城に火をかけよ。見苦しゅう焼け残すことのなきように』とまで仰せられ、決意のほどが伝わってくるのです。

 わたしは『きつのとわが子を……』とか『さいよ、さい』のお言葉を聞くたびに胸をしめつけられ、その真剣なまなざしに向かって『アイ、承知を。心配いりませぬ。さいがついていますから』と答えることにしていますが、信長さまは吉乃さまと三人のお子たちのことをそれこそ、命がけで愛しておいでになることがピンピン伝わってくるのです。信長さまは、いよいよ出陣なさりまする」

 吉乃は、さいからの文を手に、あふれる涙のしずくが頬を伝い、わが胸に抱かれてスヤスヤ眠る生後まもない五徳の頬に落ちるのをただ黙って見つめ「信長さま どうか どうぞ ご武運良きよう」と祈った日のことを思い出していた。

 信長が田楽狭間に向かったその日。吉乃は信長との愛を重ねた日々のことを振り返っていた。嫁いだ先の夫、弥平次が戦死し心身ともにボロボロに引き裂かれ、血まみれの思いでふたりの幼子を夫の実家に残し、後ろ髪を引かれる思いで小折の生駒家に出戻った日々のことを、である。

 傷心のまま生家に戻った吉乃は戦地で死んだ亡き夫のことなどそれまでの全てのことを忘れようと、しばしば馬番の馬廻しに頼んで自ら手綱を手に、木曽川河畔を訪れた。あれほどまでに精神的な支えとなり続けてくれていた信長さまが、たとえ僅かな間にせよ、目の前から消えていなくなってしまう。こうした時なぞ、いつもなら生駒屋敷の吉乃番も任せられているあの猿、藤吉郎に頼めば飛んできてくれるはずなのだが。

 その藤吉郎とて今や三十人を抱えた足軽隊の隊長として戦陣に出向いているはずなので、このところの馬廻しは生駒家で働く年長の男に任せている。男は名を喜助と言った。齢のころは六十前後か。なんとも風雅そのもので、味わいある馬廻しである。

 河畔に居れば天気のよい日ともなれば、どこからか木曽川の木遣り歌が聞こえてき、吉乃は何よりもそうしたのんびりした川のほとりで心静かに信長と共に憩うことが好きだった。川岸には袖なし麻襦袢に茜のフンドシ姿の川並衆の船頭たちがちらほら散見され、行き交う舟を見るのも結構楽しかった。

 思い起こせば、そんな穏やかな光景を目の前に吉乃と信長は並んで川堤に座り、木曽の流れに身を任せる如く、いっときを共にすることもしばしばだった。眼下からは木遣り歌が低く、強く、伸びやかに、聞こえてくる。何度も耳にしてきた歌である。

  〽エンヤラ ヨイトコ ショウ

   ヒケ、ヒケ、ヒケ ヤレ、ヤレ

   え~ 台持ちは、え~台持ちは

   え~ 重たいね、え~重たいね

           それに和して

   え~ 力をなし、え~力をなし

   え~ 揃えてね、え~揃えてね

   ……

 そのリズムは一種独特で森羅万象もの皆全てをのみ込み大気を突き切るような、そんな逞しさに奥ゆかしささえ感じられた。現在いま。主の信長のいない傍らでは喜助までが歌い出し、木遣りの歌が川面を流れるなか、吉乃は思わずつぶやくのだった。

「やはり、鎌倉のころから、船頭たちが木曽川の木流しの折に歌いつないできた木曽の木遣り歌は風情に満ちて違う」

 馬上姿もりりしく戦地を駆け抜けてゆく武将たち。ヒケ、ヒケ、ヒケッ。ヤレ、ヤレ、ヤレッ。夫、いや良人、信長が乗った愛馬・月の輪はいま、どこいらを進んでいるのか。吉乃はそう思うといたたまれず、立ち上がり空を見上げるのだった。

 川面では蝌蚪かとの群れが我先に、と一列になって上流に向かって泳いでいく。そのさまがよく分かる。吉乃は、この様子をみて思わず「あぁ~、のぶながさま」と声を上げ、やがて蛙に変わるであろうオタマジャクシ一匹一匹の行く先を目で追うのだった。ヒケ、ヒケ、ヒケッの叫びが喉元からあふれてきそうでもある。ヒケ、ヒケ、ヒケッと吉乃はアッと口を開き、声を上げた。「のぶながさま!」ヒケ、ヒケ、ヒケッ。

 夫が出陣して向かう方角の空には先程から尋常ならざる黒雲が天に向かって、もこもこと龍の如く立ち上がり、疾風となって北の方向に走っている。雨も降り出した。雲たちが黒い集団となり瞬く間に何やら信長がめざす田楽狭間の方向に一斉に駆け、走り出しているようにも見える。吉乃はあてのない空のかなたを見つめ思わず両手を合わせた。

〈どうか、どうか。ご無事にお戻りになられるように。もはや。弥平次の時のようなことはイヤでござりまする〉

 木遣り音頭の音が静まったところで吉乃は着物の裾に入れて持参した一本の横笛を取り出した。笛に手を添え、口にあてふき始める。曲は、源氏に敗れた平家の若武者「敦盛」の歌である。吉乃が幼いころから母に習い、知らぬ間に覚えていた哀愁を帯びた調べが、どこまでも大気を切り裂いて流れていく。

「われの胸に、この笛の調べとともに宿るのは、もはや信長さまの心だけじゃ」

 吉乃は胸の内でそう反芻しながら、自らふく笛の音を木曽の川面の大気のなかに流し込むように奏でていったのである

3「月の輪」凱旋

 僅か三千の信長軍が四万の大軍を率いた難敵、今川義元の首を掻き切って意気揚々と清洲に戻ったのは桶狭間の戦いで今川の大軍が少数の信長勢に血塗られてから直ぐのことだった。

 その日。吉乃は生駒家の当主である兄の生駒八右衛門家長とともに清洲城に出向いた。信長を迎えるために、である。奇妙丸(信忠、一五五七年生まれ)茶筅丸(信雄、一五五八年生まれ)五徳(徳姫、一五五九年生まれ)も一緒で、吉乃は生まれてまもない五徳を胸に抱き、歩き始めたばかりの茶筅丸、そしてわんぱく盛りの片鱗を見せつつある奇妙丸は、あの喜助と吉乃の妹須古、侍女おちゃあらが手をつないで清洲城に入った。

 五徳の名前も信長自ら儒教にいう〈智〉〈信〉〈仁〉〈勇〉〈厳〉の願いを込め命名した。生まれたばかりの五徳は、信長にとって初の女子、尋常でない可愛がりようを見せるであろう。五徳を空高く抱きかかえる姿を想像するだけで、吉乃の胸は弾んだ。

 織田上総介信長はその日、蹄の音も軽やかに威風堂々と清洲城下に入った。

 うま鞍側くらわきには首がひとつ、土産に結えつけられてあった。言うまでもなく、あの敵将だった今川義元、今川治部大輔義元の首級である。義元の両の目は死してなおカッと見開き、敵方の毛利新助に首を掻き切られた際、最期の力を振り絞って新助の人差し指に噛み付いた口は、白い指を離すものかと入れたまま歪んでいる。

 着ている武具は重く、からだも綿の如くに疲れてはいたが、愛馬「月の輪」の歩みに任せて月明かりの道を闊歩する信長の気持ちは不思議と軽やかに感じられた。月光が心の明かりと重なって若い闘将を清洲へ、清洲へ、と誘ってくれた。彼は「あぁ、これでやっと吉乃と子らに晴れて会うことができる」と思うと胸は騒ぎ、まるで小走りで新たな天地にでも向かうような、そんな錯覚にもとらわれたのである。途中、熱田の宮の神前で勝利を報告した信長は特別に用意した一領の神馬「天満」を宮の御厩舎に献上、清洲への道をひたすらに歩んだ。

 清洲は家という家に萬燈がかけられ、まるで光りの輪が連なっているようでもあった。辻々には大篝が焚かれ、家毎の軒先には家人の全員が出てにこやかな顔で「帰りませ!」「帰りませ!」と熱狂して叫んだ。沿道は至るところ、黒山の人だかりがひと目、主君の顔を拝もうと押し合いへし合いで、この地方では古くから伝わる国府宮の裸まつりの裸衆が赤や黄など色とりどりの褌で揉み合っている熱気が、そのまま伝わってくるようでもあった。

 夫は。妻は。わが子、親は。恋人は、とその全てが背伸びをして興奮の絶頂のなか、まもなく意気揚々の態の若き主君信長の姿を夜空に見届けるや、「あぁ」とか、「おぅー」といったどよめきが輪となって広がっていった。時折、ヒヒン、ヒンッと勝鬨の声にも似た声を上げる「月の輪」にも人々の喜びが分かるようである。今や領民にとっては、信長こそが何にも替え難い存在であった。このとき信長は二十六歳。信長は、そんな人々を前にありたけの声を張り上げ、こう言い放ったのだ。

「見よ、これに。ここにあるのは今川治部大輔、義元の首にてあるぞ。きょうの土産はこれぞ。あすからは、そちたちにも何ら国境の憂いはない。安心して腹いっぱい食べ、共に働き、踊り、遊ぼうぞ」

 この日、吉乃は清洲城の一室で三人の子を隣に、静かに夫・信長の帰りを待った。傍らには信長のお側付きのさいがいて奇妙丸、茶筅丸、五徳の三人の子とともに喜助が控えていた。当時、城内に吉乃の部屋はなかったが、もし側室吉乃の部屋が正式に設けられていたなら今川軍が織田軍を破り入場すれば、真っ先に吉乃に刀剣を向けてくるのは必然の成り行きである。信長は、そうした最悪の事態までを想定し吉乃を生駒屋敷二の丸館にそのまま、ふだん通りに置き留めることにしたのである。吉乃を一途に思う純愛といったような、そんな心がこうした用意周到さひとつにも秘められていた。

 吉乃は、それが嬉しかった。

 その日、吉乃の手にはいつものようにふきなれた朱塗り漆の横笛が添えられ、首には万一の際に、と信長から常備の備えとして渡されていた伊賀の国の〈くひな笛〉が掛けられていた。このくひな笛は、後に伊賀上野で生を受けた俳聖・松尾芭蕉が奥の細道行で東北地方に旅立った時、襲われた際などにふき鳴らして敵を蹴散らし、助けを求めるため常備していたことでも知られる。ホー、ホオーッという哀愁を帯びた音色が身の安全を守るばかりか、ひとの魂を呼び起こすようで、信長と離れて暮らす吉乃が木曽の川面に立ち、夜空に向かって息をふき掛けるように吹くこともしばしばだった。

 吉乃は幼きころから、奈良吉野の地の名家の出である女性だけに家伝流儀として代々、いざ、という時にそなえ伝わる緊急時の伊賀流忍びの術と吉野鬼剣といわれる秘技を体得していた。他言決して無用、の秘伝でもあり誰から教えられたなど当然、これらについて話すことはいっさいない。ただ信長の身の安全を思うあまり、時に応じて懐に短刀や半棒など武具をしのばせることは、たびたびあった。

 であるから、信長周辺に不審な気配を感じるや、棒手裏剣や吹き矢などで、時に別人となりきって信長の安全を見守り、街道筋などで命を奪おうとする間者(冠者)たちの前に立ちはだかって、蹴散らし、その都度命の危機を救ったことも何度かあった。ほかに伊賀から忍びの女を常時呼び寄せ、信長周辺に出没する駿河や甲斐、三河などからの間者や細作らの動きにも常に、草笛や口笛、時によっては指笛で連絡を取り合うなどし、細心の注意と警戒を怠らないでいたのだった。

 ある日、こんなことがあった。清洲城に通じる浜茶屋で信長と吉乃がお付きの者を従え、静かに休んでいたところに年のころなら五十歳前後の旅芸人風の男が信長に近づき「若殿さま。お疲れのことでしょう」と、椀に茶をつぎ「まだ熱うございますので、しばらくしてから飲まれますと、ちょうど味もしみて良いかと存じます。どうぞ、あじわってくださいまし」とだけ言い、いずこかへ立ち去ったことがある。男が姿を消したあと「どれどれ。そろそろ頃合いかな」と信長が椀を口元に運ぼうとした、その時だった。

「おやめなされ」と吉乃の甲高い声が響くと同時に、椀が空を切って地面に振り落とされた。驚いたのはその直後のことだった。近くにいた野良犬が路上にこぼれ落ちた水をペロペロとのみ込んだ直後、犬は苦しみ始めやがて悶絶して息絶えた。この日、吉乃は信長に近づいた男のことを忍びの者から「怪しい男がいる。お気をつけ遊ばせ」との事前に知らせを受けていたこともあり、今川方の間者だとにらみ、咄嵯の判断で毒入りだと見極め、目にもとまらぬ早業で懐に忍ばせた棒手裏剣を椀に向かって投じ、払い落としたのだった。

 こんな危機一髪の危険は再三ありはしたが、吉乃は忍びの女たちの献身的な助けもあって、身を挺して信長を守ってきたのである。信長が吉乃の忍びの術の素養に気づいていたかどうかとなると、歴史上の隠された秘術でもあり文献にも記述がないことから誰ひとりとして分からない。第一、忍びの者は決してその事実については明かさない。たとえ相手が誰であろうとも、秘密をどこまでも押し通す。ただ言えることは、当時は今川から尾張之国に送り込まれた間者、細作たちが相当数に及び、信長の首を狙ったり、敵状を探ろうとしてきたことだけは確かで、油断もすきもなかった。

 ──死なうは一定 忍び草には何としようぞ 一定語りをこす夜の 死のうぞ死のうぞ

 小扶持の部下の足軽までが皆、はッはッと、息を弾ませてついてきた。部下という部下が、こんなにも歓んで戦地を駆けてくれるとは。先頭を走る信長。あとは皆、死のう、死のうと怒涛となって戦った結果が今、目の前にある。夢ではない。現実なのだ。

 桶狭間の奇襲攻撃で大勝し帰城した信長は清洲城の一室でただひたすらに帰りを待ち続けていた吉乃を見るや、大粒の涙を流し吉乃をグイと抱きしめた。そして、あとは言葉にはならず、何度も何度もうなづきながら吉乃を引き寄せ、次いで三人のわが子を交互に抱きあげ「父は今かえったぞ」と、繰り返し語り掛けた。

 このころ吉乃は、五徳姫出産に加え、それまでの戦国武将の妻としての度重なる過労と精神的苦痛も伴い、体力的に少し衰えが出てきたようだが、勘のいい信長は敏感にこの事実を悟っていたようである。

 信長は視線を吉乃の顔に注ぎこう言った。

「わしは、とうとうやった。今川に勝ったのじゃ。そちには、これまで随分の苦労をかけた。かたじけないことじゃ。ありがとうて」

 そう繰り返し吉乃の顔を見つめる信長はもはや、かつての吉法師ではなく立派な武将としての物言いでもあった。信長はさらに続けた。

「おまえには、この世で最高の褒美を取らせたいが、その前にワシは、お類。いや、吉乃、そちに心から礼を言いたいのじゃ」と。

 吉乃は、このとき思った。

 あの「おまえはワシの嫁になるのじゃ。分かったな。よいな。ヨメじゃ、ヨメなのじゃ」と叫ぶように言ってのけた手に負えないほどの吉法師がこれほどまでに逞しく、頼りがいのある武将になってくれただなんて。とても想像さえしていなかった、と。

 でも、ただひとつ、吉乃の胸を一貫して射続けるものがあった。それは、信長の目は、ワンパクだった吉法師のころから、いつだって真剣そのもので、その目はいつだって吉乃を射抜くほどにキラキラと光り輝いていたという事実である。

 ここで私は、ひとつ気になることに触れておきたい。いや、触れなければならないと思い、重い筆を進める。それは信長の正妻である濃姫のことである。濃姫の記述が「武功夜話」や「信長公記」などどんな文献にも殆どと言ってよいほど出てこないのは、なぜか。

 歴史資料や文献などで分かっていることは一五三五年に美濃之国の大名斎藤道三の三女として小見の方との間に生まれた彼女が〈帰蝶〉と呼ばれていたという事実、そして天文十七年(一五四八)には十三歳でひとつ年上の信長と政略結婚させられた、その二点でその後のことは多くが闇に包まれたままだ、ということだ。

 またその生死についても諸説ある。その第一が一五八二年(天正十)六月二日に明智光秀の謀反により信長が命を落とした京都本能寺の変で共に自害したというもの。この点については真偽のほどは別に、信長の正室濃姫の遺髪を埋葬したとされる濃姫遺髪塚が岐阜市不動町の西野不動尊前の「お濃の墓」に存在する。ただ、これは江戸時代につくられたものらしい。

 次に、いやいや、それよりずっと前の一五六一年九月に子宝に恵まれないまま傷心で父の元に出戻っていたところを斎藤道三に反逆した嫡男義龍の明智城攻めに遭い、この時に命を落としたという説。さらに時代はずっと下がって大徳寺総見院の織田家墓所の過去帳にある記述──養華院殿西米津妙大姉慶長十七年王子期旭信長公御台──から、信長の死後三十年たった慶長十七年に七十七歳の高齢で病没したなど。諸説がある。

 いずれにせよ、信長との間に子に恵まれなかった濃姫を思うとき、彼女の人生は必然的に暗く希望のないものになっていったことだけは疑いようのない史実だったといえよう。濃姫と政略結婚させられた信長も当時は、まだ十四歳。濃姫との愛を育むにはまだ早過ぎ、それよりも当時の信長は斎藤道三が怖くて濃姫には最初から近づけず、手を触れられなかったのではないか。そんな悲運の濃姫に比べたら、吉乃は生涯、信長の愛に育くまれ、その点では幸せな女性だった。

4 たからもの

 一五六〇年五月十九日〔旧暦、新暦なら六月十二日〕に出陣した織田上総介信長が桶狭間、いやここから僅か半里の有松と落合村の間にある田楽狭間の死闘に勝ち、今川治部大輔義元の首級を手に戻ってきた。

 まぎれ無き勝利である。清洲の町が至るところ歓喜に満ち、沸いている。

 吉乃はあらためて過去を振り返り、今、つくづく思う。

 信長の母、土田御前の生まれた土田一族にお類として嫁入りし、弥平次との間にはふたりの子に恵まれた。弥平次は心優しい男だった。ああ、それなのに。やさしかった夫は一五五六年(弘治二)九月の明智長山城・田の浦合戦に犬山、岩倉両城主が送り出した救援部隊の一員として参戦。敵方の斎藤義龍率いる長井隼人の家臣、長屋勘兵衛と槍を合わせて討ち死にし、帰らぬ人となってしまった。

 それまでの新居での弥平次との楽しかった日々とは一体、何だったのか。一変して幸せが音を立てて崩れ去ったのである。こんなわけでお類は、生まれ故郷の尾張之国小折村の生駒家に傷ついた心を引きづって戻ってきた。弥平次との間には既に男の子と女の子がいた、とされるがふたりとも実家で預かるというのでそのまま残し、ただひとり生家の門をくぐったのだった。ふたりの子はその後、岐阜の土田家一族から小折の隣、岩倉の商家である船橋家に預けられ、忍びの女たちの助けもあって大切に育てられたらしい。が、記録となると、なぜか、どこにも残っておらず、地元歴史研究家のなかには、実は弥平次との間に子はなかったのでは、とする人もいる。

 お類が生駒屋敷に出戻ったときは、それこそ一撃を食らわせられたようで足は重く、胸が高鳴り、身も心も張り裂けそうだったが、兄で生駒家四代目当主だった八右衛門家長の「よくぞ帰って参った。辛かったのう」の温かい言葉に甘えた。「お姉ちゃん、また一緒に楽しく暮らそうね。ほんと言うとね。あたし、待っとったんだから」との妹須古らの偽りのない言葉も身にしみ、意識が折れそうではあっても、わたくしには生駒屋敷があるのだと、の思いを強くしたのがつい、きのうのようでもある。

 その生駒屋敷に帰って来たからこそ、吉法師さまとこうして再会でき、ここまで生きてこられた。亡き夫のおかげで今があるのだ、と。お類から吉乃に生まれ変わった彼女はこんなことを何度も何度も反芻し思うのである。と同時に西の丸館で寝屋を共にしたり、木曽川河畔や生駒屋敷近くを流れる幼川おさながわ(現五条川)の堤を共に歩くなど互いの愛が深まれば深まるほど「弥平次さま。許して」と前の夫に対する償いの情もなかなか消えはしない。かえって追慕の情が輪をかけて増幅していく自分を感じてもいたのである。

 あれは傷心のまま実家に出戻ってしばらくした、ある日のことだった。信長さまは既にれっきとした若殿さまとなっており、鷹狩りの帰途、小折の生駒屋敷に兄の生駒八右衛門家長を訪ね、このとき、接待の茶を差し出されよ、と生母と父家宗(生駒家三代目当主)に毅然とした様で言われ、茶を持ち運んだ。これが吉法師さまとの再会のきっかけとなったのである。

 信長はそのとき幼少時代を思い出し、あらためてお類への思いの丈を強くし、それ以降というものは何かにつけ、生駒屋敷に顔を出すようになっていた。以降、ふたりの仲は〈何かの縁〉でつながれたような、そんな関係にまで発展。奇妙丸(のちの信忠)をはじめ茶筅丸(信雄)、五徳(徳姫)と三人の子も次々と授かった。ことに弘治四(一五五七)年夏に長男、奇妙丸を授かった時などは大変な喜びようで、信長は吉乃の手を握ったまま何度も何度も「でかしたぞ」と述べたという。

 実際、信長に再会して以降も、吉乃の身の回りには今川からの間者や細作の横行や信長に関するあらぬ噂などいろんな雨、風、嵐が降ってわいた。が、その都度、木下藤吉郎ら周りのご家来衆の機転や妹の須古、さらには忍びの女たちにも助けられ、ここまで切り抜けてきたのである。

 そんななか、吉乃にとって何にも替え難いものは信長、そしてその一の家臣である藤吉郎を取り巻く多くの温かい人びとの存在と出会いだった。一五四八年(天文十七)に種子島に伝来して間もない鉄砲を大阪の堺経由でいち早く入手し信長軍を早くから支えたばかりか、川並衆としても木曽川での渡し船の行き来を一手に引き受けた蜂須賀小六正勝率いる、いわゆる蜂須賀党、木曽川河川敷での馬の放牧地「馬飼い地」開放など何かと信長軍に尽くした前野将右衛門長康一族、さらに蜂須賀党の有力メンバーで「持ち舟、数百艘」「舟をあつかう者、舟を頼みて富を為す」とまでいわれた草井長兵衛を筆頭とする粋のいい船頭衆たちなど。

 良人、信長を守る周りの多くの人たちの存在を知ったのもこのころだった。

 気がつくと、かつての少女、お類は新しい女、吉乃に生まれ変わり信長にとって、かけがえなき存在になっていたのである。桶狭間すなわち田楽狭間の戦いに至るまでのしばらくの間、吉乃は信長と離れれば離れるほどに、一層身を焦がす自分を強く感じていた。別れているほどに思いは深く、そのぶん自身も美しく且つしなやかに。若鮎のように育つわたくしでなければ、といった自分自身がそこにはいた。

 このころになると、吉乃の美貌と柔らかな物腰や物言い、温かさに圧倒され、信長の側室であることを知りつつ、何かと吉乃のことを気遣う多くの男たちも生駒屋敷に相次いで現れ、出入りを始めたのである。将右衛門しかり、自らの出世に如才のない藤吉郎とて吉乃には目がなく、結果的に吉乃は彼女を慕うこれら大勢の男たちに守られてもきた。

 男たちのなかには、産後の肥立ちによいと聞いたドジョウや里芋を近くの小川や田んぼ、時には伊木山まで行って取り、信長には内緒で持参し献上してくれる。やがては生駒屋敷二の丸館に住む吉乃の住まいを吉乃の方のお屋敷だと呼ぶ者まで現れた。

 秋。〈かぜ〉がさやさやと肌に心地よい。きょうは、雲の流れが早い。

 目の前にどこまでも広がる木曽川河畔の濃尾平野は、その年も収穫を前に稲穂が黄金一色に輝き、穂先を揺らせている。幼い三人の子を抱える吉乃は、侍女のお亀やおちゃあらの手を借りながら相変わらず家事に、子育てに、余裕があれば忍びの女たちを従えての清洲城の管内歩き、尾張・美濃周辺の情勢把握に、と忙しい日々を過ごしていた。

 前にも触れたが、信長の身の安全を願う吉乃はいつのときも夫の周りに「網」をかぶせるように二重三重に忍びの女たちを張り付け随時その状況を報告させてもいたのだった。とはいえ、以前、今川義元が健在だったころに駿河はじめ甲斐、相模の国から大量に送り込まれていた当時に比べれば明らかに間者の数も少なくなってきたようだ。このところ、ここ尾張之国に関しては桶狭間の戦いの前のような戦乱に次ぐ戦乱に振り回されることもなく、心は穏やかに流れていた。

 そんなある日の午後のことだった。

 信長が愛馬「月の輪」に乗り、同じ馬上姿の小姓数人を伴い、二の丸館に現れた。馬からやおら下りるや「吉乃、きょうは、そちを良きところにつれていこう。すぐ、そこじゃ。わが子を生んでくれ、桶狭間の戦いなど合戦のつど戦国武将のワシを守り続けてくれている。そんなそちに心からの褒美がどんなものか、を見せたいのじゃ。子らはおちゃあらに任せておけばよい。さあ、支度じゃ、支度じゃ。支度をせい」というので、外出用の少し華やかさを感じさせる橙の袷に着替え、頭には白頭巾をかぶり、鞍台に乗ると信長は前の吉乃を支えるようにし「さあ~、いこう。出発じゃ」というが早いか、「月の輪」の横腹を鐙で軽く蹴り、今度は尻尾に鞭をあて走り出した。

 馬上から見る空は、どこまでも澄んでいる。雲が流れる。

 愛馬「月の輪」はまもなく木曽川堤を一気呵成に駆け上がったかと思うと、両脇に雑草が生えそろった堤を走り抜け夕暮れに染まり始めた伊木山を対岸に望む渚の空き地で止まった。吉乃を馬から下ろすと、信長は立ち木に手縄を繋ぎ「そろそろ、現れるころじゃから。よい天気じゃな。川の流れも穏やかでよい」と満足そうに空を仰いだ。

 ほどなくすると全身毛むくじゃらの大男が近づき「殿。信長さま、準備は整うてまする。吉乃のお方さま。ようこそおいで下さいました。あっしが、殿に常日ごろお世話になってやす蜂須賀小六正勝でござんす」と頭を下げて進み出た。一体何ごとか、と見守ると、今度は別の男が小走りに一歩、前に出て人懐こそうな顔をほころばせ「吉乃のお方さま。お待ち申していました。あっしは、船頭の草井長兵衛と申しやす。お噂のお方さまには、ぜひ、ひと目お会いしとうて。こうして皆でお出迎えに上がった次第でして」というが早いか「おぅ、野郎ども。奥方さま。吉乃さまのご見参じゃ。抜かりなく」と声を張り上げた。

 と同時に、木曽川の川べりのあちこちからオゥ、オゥーッ、まかせとき!といった声が飛び火となって聞こえてきたかと思いきや河原に立つ吉乃と信長の目の前にはあっというまに、十艘ほどの渡し舟が勢ぞろい。舟という舟から「キツノさま、キツノさま、お方さま。キツノさまあ。いつもお疲れさまです。いつも殿を守ってくれて、ありがとな。ありがとござんす」の声が波のうねりの如く怒涛となって押し寄せてきた。

 これぞ、これまで信長を助け、支え続けてくれていた、世に言う天下の川並衆であった。

 目の前に立ちはだかる屈強な男という男たち。頭や首に手ぬぐいを巻いた男たちがいたかと思えば、麦わら帽姿、手ぬぐいを腰に下げた半纏男と、皆、日に焼けて、笑顔で白い歯をのぞかせている。小六が集結した舟の方を意味ありげに振り返ると、何十艘もの舟のなかの数艘の舟底には何十、いや何百丁もの鉄砲までが整然と並べられていた。吉乃は思いもかけない光景を目の前に、ふと「これならば、今ここで戦いが始まっても信長さまは、決して負けないだろう」と思った。

 これほどの頼もしい男という男たちがいるのだから。信長さまはなんと、恵まれたことよ。これも藤吉郎はじめ、兄の八右衛門、前野家の前野将右衛門らが夫を守ってくれておればこそ、じゃ。吉乃の目には涙がとめどなくあふれ出、ひと滴ひと滴が、どこまでも渚の土に吸い込まれていくのだった。

「ころくさま。そしてちょうべいさま。わざわざ、われ、わたくしのことを思い、ここにおいでくださった皆みなさま。信長が大変、お世話になっています。本当に何もかもがあなた方のおかげです。ありがとうございます。このご恩を、わらわ、いや、わたくしは決して忘れません」

 そう言って何度も何度も頭を下げる吉乃。川並衆たちの目という目が潤み、あとは言葉にならない。そんな吉乃の肩に手を置き、信長は「こやつらは、戦時には舟を並べて緊急の橋まで作ってくれてのう。木曽川渡河作戦への貢献はむろんのこと、ほれっ。見てのとおりじゃ。既に鉄砲とて大量に入手し実弾演習も欠かさぬ、この国で最高に頼りになる輩ばかりじゃ。じゃから、こやつら、こやつらの存在こそがそなたへの褒美も同然じゃ。こやつらは皆宝物じゃて。であるから、もう泣くな」とだけ口を開き、これまでの労苦をいたわるように二度、三度と吉乃の肩をぽんぽん、ぽんとなでるようにたたくのだった。

 気がつくと、信長の両の目からは涙があふれ、ひと筋の滴が両の頬を伝っていた。夕焼けのせいで木曽川の川面はいつのまにか茜色に染まり、対岸にそびえ立つ伊木山は夕暮れ富士そのもの、この山は釈迦の寝姿に似ていることから時に「寝釈迦山」とも呼ばれるが、吉乃にとっては恐らく生涯で初めて見る、身も、心も、美しい山となったに違いない。

 この夜、信長は桶狭間の戦いで武勲のあった兵士も従え、木曽川で吉乃や家臣らと共に既に千年近く前から続くとされる伝統の鵜飼も楽しんだが、信長自身、またとない鵜飼見物になったらしい。信長の発想は豊かで、後年、岐阜入城後の長良川鵜飼の鵜匠制度はこの日の見物をきっかけに、信長の発想で制度化されたものだとも言われている。

5 小牧山新城と御台御殿

 絶え間ない木曽の流れ。その川面を埋め尽くしていた川鵜が一斉に空へ、と飛び立った。一体何が起きたのか。

  〽ピュー、ヒューッ、ヒュルル、ピ-ッ

   ヒユー ヒュルヒュル ヒュール…

 風を切る音に続いて、どこからかやさしい笛の音が近づいてくる。胸に迫る。限りなき永遠のメロディーが脳裏に染み込んだ。

 何かに誘われて水面を這うように聞こえくる「青葉の笛」。泣いている。その音曲はまだ元気なころ、吉乃が好んでふいた調べで、信長はこの調べを気に入っている。

 信長も、吉乃も。ふたりは、今。木曽の流れを眼下に空を飛んでいる。

 気のなかを翔び、舞い、語り合う。川鵜たちまでも従えふたりの会話はどこまでも続く。

〈かぜ〉に乗って、あの懐かしい恩讐も聞こえてくる。

 〽今わの際まで 持ちしえびらに 残れるは 花や今宵の歌

 信長が生涯愛した武士道きわまる一節だった。

     *   *   *

「われは吉法師どの、すなわち信長さまと共に生きるために、この世に生まれて参りました」

「そうじゃ、そのとおり。余も、お類、吉乃がおればこその人生であるぞよ。この広いそらで、ただの一人の女人なればこそ」

 気がつくと、雨が降り出してきていた。

「なれば、われが一度は愛した亡き夫は何のために」

「弥平次とて、余と同じ。そなたのためなればこそ」

「なれば、正室御台のお濃姫、帰蝶さまは」

「お濃とて、吉乃よ。そなたとは立場こそ違え何かと苦難の道を歩むばかりの身にて、な。弥平次と同じで、そなたと余の契りのために生を受けた。ので、はないかの」

 ここまで言うと、吉乃と信長はしばし褥の上で見つめ合ったまま時が流れた。ふたりとも、あとが続かない。突然、わっと泣き崩れる吉乃を信長はひしと抱き寄せ、吉乃の背を労るように、やさしく撫で何かに耐える面持ちでこう、静かに語るのだった。

「じゃが、のう。しかしだ。土田の弥平次は戦いで命を落としたが。お濃とて父斎藤道三に忠実に余と婚約してのち、それこそ花も嵐も乗り越えて、だ。実に七年三カ月も経て正式に父道三の命のもと、清洲の余のもとに姫として輿入れし、その苦しき気持ちや、いかばかりだったか。津島神社で盛大に催された祝宴とて、津島の武将で道三が仲人としてよこした老家臣、堀田道空の介添えと津島十一党、十五家のいわゆる津島衆一丸となっての応援がなければ実現はしなかった。津島衆がいればこその祝宴じゃった」

 ここで言葉は途切れ若いふたりは何もかもを風に流そう、と激しく抱き合った。結びあったままのふたり。時は音もなく流れていく。定めにさらされる。これが戦国の世というものか。

 しばらくの沈黙を破って信長は思い切ったように口を開いた。

「これは、ここだけの話じゃが。お濃も、余のもとに輿入れしてくるまではいろいろ、人には言えぬことがあったようでな。娘盛りの身を既に相思相愛じゃった七歳上の明智十兵衛光秀なる男(のちに信長は、この明智光秀が起こした本能寺の変により命を落とした)に預け、余が初めて寝屋を共にしたときには、既に男を知り尽くすからだで身悶えし、あのときの余の屈辱感は今も付き纏うており、忘れようにも忘れられぬ」

 信長はさらに続けた。

「でな、この光秀なる人物、叔父が可児郡長山城主の明智光安でどうやらそこに居るらしい。お濃とは、なんでも随分前から互いに身を焦がす仲で結婚も誓いあっていたとも聞いている。であるから、余はその話を耳にしたときから、お濃とは夜の契りはしないことにしたのじゃ。

 男の存在を感じた余の叱責にお濃は短刀を手に一度は死のうとしたようだが、侍女や道空らの説得で踏みとどまった、と聞く。そなただから言えるが。最近では、そんな過去に耐える清洲のお濃、帰蝶がかわいそうで。不憫に思えてきてな」

 吉乃と信長は寝屋を共にする都度、弥平次とお濃のことを互いに意識しあってここまできた。身分と立場、生まれ育った環境こそ違え弥平次とお濃はふたりにとっては、永遠の存在であったことだけは確かである。いや、弥平次、そしてお濃がいればこそ、信長と吉乃は逆に固く結ばれたのかもしれない。

 一方で奇妙丸(信忠)、茶筅丸(信雄)、五徳(徳姫)と生み、桶狭間の戦いで信長が勝利して以降の吉乃は、それまでの過労もあってか急速に体力が萎えていく自身を感じていた。それでも吉乃、いやお類は弥平次を、そして信長は濃姫を嘴に咥え、空を飛んでいるのである。

     *   *   *

 永禄六年が明け、桶狭間合戦から三年近くがたとうとしていた。今はお濃の父、稲葉山城主・斎藤道三を殺した、亡き義父の敵でもあった、美濃の斎藤義龍(帰蝶とは腹違いの弟)勢を攻めるには何よりも小牧山に城を築くことだと決断した信長は、それまでの清洲から春日部郡小牧郷の地への城替えが必要だ、と決断。この年の二月に天下に広くお触れを出し、さっそく小牧郷の地で築城作業が始まったのである。

 当時は三河岡崎城の松平元康(のちの家康)の嫡男、竹千代(後の信康)と信長の長女徳姫(五徳)との婚約詰も進むなど東方の守りがいっそう強固になったこともあり、信長はこの機を狙い築城にかかった。当然のように信長は小牧山に新城を築いた上で、ここを拠点に小口城、犬山城、美濃鵜沼城、夕暮れ富士で知られる伊木山・伊木城の四つの城を攻め落とす東美濃攻めを目論み、頭に描いた。だが、信長の頭には築城に当たって今ひとつ、深く大きな願いがあった。それは吉乃への、ただひたすらなる思い。これを、すなわち築城という形で表わしたい、その一心でもある。

 このころになると、度重なる戦乱の世にあって信長との間に奇妙丸、茶筅丸、五徳の三人の子をもうけた吉乃のからだはかなり衰え、弱ってきており、顔からは艶が失せ、やつれが目立つようになっていた。そればかりか、布団に臥せることも多く、歩くのもやっとだった、と当時の諸文献は今に伝えている。信長は、そんな吉乃を新城建設にあわせ山麓西の一角に木の香も新しい御台御殿を建て、そこに住まわせ、少しでも回復することを、ただひたすらに願ったのである。御殿は高い土塁が続く向こうに一の御門、二の御門と続く豪壮なもので、まさに御台さまの新居としての信長の威光と決意が込められていた。

 実際、徳姫を出産してからの吉乃ときたら、それ以前の桶狭間の合戦をはじめとする戦乱に明け暮れる信長への心遣いも加わってか、それこそ、それまで全身からあふれ出るように燦然と輝いていた光りが矢折れ、刀尽きるかの如く、ひと滴ずつ、少しずつ闇夜に蓄積し、老廃として消え入っていった。まだまだ若いはずなのに。吉乃の労苦は心身ともに、人知れず、深く限りないものだったのである。

 そして信長は清洲から生駒屋敷に足を運ぶたびに、やつれ、やせ細っていくそんな最愛の吉乃を見るにつけ、胸のなかは張り裂けんばかりに尋常ならざるものがあることを感じていた。ヨシッ。岐阜攻めから始める天下取りの野望も確かにあるが、吉乃に喜んでもらうためにも何よりも先に早く新御殿を建てここで吉乃を奇妙丸、茶筅丸、五徳の三人の子(文献などによれば、三人は出産後、信長の正妻で清洲に住むお濃への配慮と遠慮もあってか、生駒屋敷に近い岩倉の井上城で須古や侍女らに育てられたという)と共に住まわせ、衰える一方の体力をたとえ少しでも回復させ、命を永らえさせなければ。信長の熱き思いは、前々からの眼目である京へ、と上る踏み台としての新城建設への野望がそのまま愛する吉乃の体力復活への願いとも重なったのである。

 城替えのお触れが出た小牧山では丹羽五郎左衛門長秀が築城奉行に任命され、小牧山全域での木々の伐採に始まり、土や岩を掘り起こすなど長秀自らが陣頭に立っての小牧山新城の建設が始まった。新城築城は、今まさに尾張平野に梅の花が咲き、桜たちの蕾という蕾がふくらみ、やがては桃も花々を咲かせる、そうした春爛漫の季節に建設が始まり急ピッチで進み、まもなく城の全容を表したのである。

 そして犬山、美濃はむろん、遠く三河までも見渡せる新城完成にあわせて、それまで生駒屋敷内にあった二の丸館は装いもあらたに小牧山の山麓の御台御殿に移された。こうして信長の天下取りへの野望と吉乃の病の回復、両方の祈願成就を込めての築城作業は着工して九十余日の速さで七月には完成にこぎつけた。信長は小牧山の新城を目の前に「この城は吉乃、お類がこの世にいて余との間に可愛い三人の子を成してくれた。だからこそ、出来上がった。であるから、吉乃がいたればこそ、の城じゃ。そなた、そちの城、吉乃城なのじゃ」と内心で、つくづく思うのだった。

 その年の八月初旬。すなわち小牧山新城と吉乃が住む御台御殿が完成してまもないある日。吉乃が小折村から小牧山山麓に誕生した御台御殿に居を移す数日前の話だ。信長は近習の者ばかり五、六騎を伴って新しい城と吉乃の新居誕生を告げるため生駒屋敷に足を運んだ。

 信長が生駒屋敷二の丸館に着いてまもなく、信長を伴った生駒家当主、家長と妹須古が吉乃の居室を静かに開けた。と、そこには髪を梳き、紅の小袖に身を包んだ往時を彷彿させる吉乃が姿勢を正して笑顔を浮かべて座っており「殿、お待ちしていました。こたびは小牧山新城の誕生、心からおめでとうございます」と両手をつき頭を下げた。

 いつもの、どこまでも透き通った両の瞳には涙が光っている。信長はそのとき、なぜか再会したあの日のことを思い出し、目を瞠った。

「きつのよ。前にも申したが、余はとうとう小牧にそなたの屋敷、すなわち御台御殿を誕生させた。ついては、からだのあんばいとも十分に相談し、住み処を御台屋敷に移してほしく思う。このことは、そなたの兄上、家長どのにもお願い済みだ。余がかねがね、思い描いていたことじゃ。新しい城と御台屋敷の建築は、余の生涯の夢で、その願いがまもなく叶うのじゃ。そなたには、どうしても小牧に来てほしい。そして三人のわが子ともども、一緒に暮らすがよい」

 信長は気丈にも病床から身を起こしたまま聞き入る吉乃の上半身を両の腕でやさしく包み込むように抱きかかえると、曲がりなりにもたどり着いたひとつの道の成就と帰結を耳元に囁くように告げるのだった。

「吉法師どの。いや、信長さま。上様。そうまでして頂けお類、いや吉乃はこの上なき幸せにござりまする。なぜ、わらわ、わたくしごときものに」

「うん、そうじゃのう。おまえは苦しいさなかにも身を張って余を支え、守ってくれたではないか。そればかりか、可愛い奇妙と茶筅、そしてお徳を産んでくれた。身内同士が食いあうほどの見苦しき戦いとなった浮野や稲生、岩倉の戦いのほか、桶狭間の合戦など天下を揺るがす戦いでも、忍びの者らとともに余をどれだけ陰になり、日向となって助けてくれたことか。ひとにはあまり言えぬことじゃが、吹き矢や指笛などで間者を蹴散らし、命を救ってくれたこととて数え知れぬ。あらためて礼を言うぞ。そなたには、どれだけ感謝しても、し足りぬ。せめて、新しい城と御台御殿に満足してくれれば、それだけで余は満足じゃ。この上は、ぜひ小牧へ来てほしい。体調の良い日を申し付けてくれれば輿を差し向ける。よいか、分かったな」

 吉乃は、ただ頷くばかりであった。

6 わかれ

 一五六三年(永禄六)の八月十七日朝。吉乃が小折村の生駒屋敷二の丸館から小牧の御台御殿に移る引っ越しの日が来た。

 この日は、さわやかな秋晴れで花模様の小袖に正装した吉乃は住み慣れた八龍社東側の生駒屋敷に隣接する二の丸館を、きらびやかに飾られた信長差し回しの塗輿(駕籠)に乗せられ、多くの家臣団を従えて出発。標高八六メートルの小牧山に典型的な平山城として築城された新城とあわせてできた山麓、信長の居館より巽(東南)の方角にある御台御殿を目指した。

 昼過ぎには三ツ渕村(現小牧市三ツ渕)の中山左伝二の中山屋敷に到着。村びとたちの温かな出迎えにしばしの休憩を取ったが、このころの吉乃は自力で歩くことすらできないほどに体力が衰えていたという。それでも、この日の吉乃の表情には久しぶりに明るさと生気がみなぎり、輿に乗っても「こまきはまだか。まだなのか」としばしばお付きのものに聞くこともためらわなかった。まもなく再び出発した一行は、やがて小木縄手(小牧市小木)に到着。ここでも市橋九郎右衛門長利、佐久間右衛門尉信盛らの出迎えのなか、いよいよ小牧山山麓巽がたに新築されたばかりのご新殿に入ったのである。

 御殿に入り終えたところで小雨が降り出し、上方に望楼をそなえた新しい城を仰ぎ見た一行は誰もが胸をなでおろし感嘆の声を漏らしたという。

 翌日。八月十八日の朝。夜来の雨が嘘の如く上がり、新居庭の樹々たちにも光りと、そこはかとなき力が宿している。樹々の葉という葉には露が浮かび朝の陽に輝いている。さっそく侍女の束ね役を務めることになった、おちゃあが須古と共に吉乃の居間に足を踏み入れた。

「御台さま。おはようございます。われは、吉乃さまが本日この日をお迎えすることができ、この上なき幸せ者にござりまする」と頭を下げると、いつもの快活な調子で「わたくし、きょうから御台さま付きを命じられました。名も改め、一条と申しまする」と続けた。

「あらっ、おちゃあ。いや、一条どの。これからもよろしく頼みますね」と応える吉乃。おちゃあといえば、生駒屋敷当時からずっと互いに、すいもからいも知り尽くす頼りになる侍女の一人でもあった。それだけに、吉乃は信長のその配慮に感服したのである。

 そして。この日の午後、信長は重臣二十人ほどを小牧山新城近くの居館書院に召し出した。家臣が左右に居並ぶ中央正面上段には肩衣に身を包み、長袴をはいた信長が、これまた正装した吉乃と三人の子を伴って座った。向かって右から信長、奇妙丸、茶筅丸、五徳、そして御台の吉乃の順だ。

 やがて「ただ今より、わが上様とご家族の方々に拝謁を賜りまする。それがし僭越ながら、これからおひとり、おひとり順次、紹介申し上げまする」と信長の乳母子めのとごに当たり信長より二歳下の池田信輝が肩を張って言上。「まずは上様のお隣にござらっしゃる御方こそ、御年七歳ながら既に麒麟児の頭角を現しつつござる御嫡男、奇妙丸さまにござります」と続けた。

 これには居並ぶ家臣全員が「へへ。へぇ~え」と正面を向いて平伏したが、このあとがまた圧巻のひとコマとなった。紺地に揚羽蝶の家紋が染め抜かれた惟子衣に、守り刀を手挟んだ正装の奇妙丸。彼は心持ち緊張した面持ちではあるが、家臣団全員をゆくりと見回したあと、正面を見据え「奇妙丸である。皆の者、よしなに」と言ってのけた。

「続いて奇妙丸さまのお隣に侍らっしゃる御方はご次男の茶筅丸様にて侯」と信輝が言葉を添えると「お茶筅じゃ。よしなにのう」と今度は茶筅丸がにこやかな表情で一同を前に、こう声を掛けたのである。拝謁の儀はこうして進み次に「それではご家族の花と言っていい姫君・五徳さまを紹介申し上げまする」と三人の子の最後の紹介となったが、ここで信輝は「〈五徳〉の名は、炭火の上に置きまする、あの五徳で実は上様ご自身が御下名遊ばされました。ご一同、これは奇妙丸さま、茶筅丸さまお二人の御脚に今一脚強力な御脚を、との願いを込め、お付けになられたのです。その幼き姫さまが、こたびは織田家と松平家との同盟によって、東国の脅威に対しての一大防波堤となるべく家康殿のご嫡男、竹千代君(後の信康)とご婚約されたのであります。そして本日この席にてご幼名より五、を除かれて徳の御一字、徳姫と新たに命名されたこともこの場にて披露させていただきます」とも口を添えた。

 この間、じっと腕を組み満足そうにうなづく信長。今度は正装した五徳が胸を張り、心持ち前に進み出るような姿勢で幼い口を開いた。

「われの名は五徳じゃ。五徳とは温、良、恭、倹、譲の五つの徳を言いまする。また兵家では知、信、仁、勇、厳の五つの徳を五徳と申しまする。われは、父上様からいただきましたこの名で、父上の申されます所へなら、どこにでも参ります」とはっきりと言い切った。

 最後に葡萄唐草と黄色に貝づくしの小袖と白地に金銀泥と墨で梅鉢唐草の模様を描いた裾よけをまとった正装の吉乃が頭を深く丁寧に下げ、家臣団に向かってこう述べた。

「きょうは皆さま、お疲れでございました。われ、わたくしを上様御台所として、こうして晴れがましい席で、かつ温かくお迎えくだされ、心から御礼を申し上げまする。この先も上様への相変わりませぬご忠義のほど、御台吉乃として、くれぐれもよろしくお願いします」

 気丈に述べる吉乃の言葉を受け、今度は信長の「一同大儀であった」との締めの言葉が居館書院に響き渡った。この日信長は、重臣たちを前にしての謁見の場で、それまでの吉乃の労苦を心ゆくまで披露し、同時に吉乃を正式の正室として迎え入れたことを公に発表したのである。

 時は流れ。一五六六年(永禄九)の秋。あの晴れがましかった謁見の日から、三年余がたった。このところの吉乃のからだは衰える一方で、相変わらず一進一退のままで時は過ぎていった。その日は、小牧新城頭上にかかる夕映えがことのほか美しく感じられた。風もさわやかで、小牧山ならでは、か。甘い〈かぜ〉たちが頬にやさしく通り抜けていった。

 吉乃はこの目相変わらず、小牧山麓一角に建つ御台御殿の居室寝間に身を横たえたまま、西方の空に目をやっていた。

「あらっ、まっ。なんと美しや」

 真っ赤な錦秋を描いた太陽の日がお城の背後に遠望され、今まさに赤い玉が大地に沈んでいこうとしていた。

「すこ。おちゃあ、いや、一条。どこか」

 虹のようにとろけた赤い光線が音もなく、地平線に消え入ってゆこうとしている。吉乃は傍らに座る須古らに手を伸ばし、皆の介添えでやっとの思いで身を起こした。と同時に、吉乃はアッ、と微かにつぶやくと、今度は「ヒケ、ヒケ、ヒケッ。のぶながさま」とちいさく声を上げた。

 その日から、どれほどの時が過ぎたであろう。

 小牧山の紅葉が赤く染まり始めていた。一五六六年の九月十三日〔新暦十一月四日〕。桶狭間の合戦から六年余が過ぎていたこの日、吉乃はいつものように床に臥し天井を仰いだままだ。傍らには奇妙丸、茶筅丸、徳姫の三人の子が時折、顔を覗き込んで座り、心配顔でいる。

「きみょうでござる」

「ちゃせんでござる」

「母上。おとく、おとくだよ」

「死んではなりませぬ」

「生きてたもれ」

 の声が時折、聞こえ、そのたびに笑顔でうなづく吉乃。御台は、思い返すように三人の子を順番に見回したあと、声もかすれかすれに、息絶え絶えに静かにこう、口を開いた。

「みんな。母の言葉を聞いておくれ。われ、わたくしは度重なる戦乱の世の不幸もありましたけれど本当に幸せな生涯でした。信長さまとの間におまえたち三人の立派な子までを賜り、これ以上何を望むことがありましょうぞ。わたくしにとっての信長さまは少女のころからのお方、天下の申し子、あこがれでした。まさかその信長さまと前夫、弥平次の死で再会でき、こうして一緒になれただなんて。何が幸いするかわかりません。幸せでした。殿はむろん、おまえたちのことは永遠に忘れません。家臣団のみなさま、ご家族の方々もみんな、ほんとうにようやってくれました」

 そう言うと吉乃は最期の言葉を絞り出すように、こう言ったのである。

「きみょう。ちゃせん。おとく。みな、げんきでな。お殿さま、お父上を大切にするのだよ。よろしくお願いします。み・ん・な、好きだったよ。あ・り・が・と・う……」

 吉乃はこう言ってくちびるを動かしたかと思うと、眼をつむり、息を引き取った。

 ときに亥の刻(午後十時)のことである。

     *   *   *

「信長さまは、ご無事でありましょうか」

 寝ても覚めても良人のことを心配してやまなかった吉乃。その吉乃も、小牧山山麓の御台御殿に居を移してからというものは、それまでの緊張感から解き放たれたこともあってか。張り詰めていた積み木がまるで積木崩しにでも遭う如く、そのからだは急な加速度で日に日に衰えていった。

 かすれた、力のない声。それどころか、時々聞こえくる息遣いも乱れにみだれ、吉乃のからだは悪化の一途をたどっていった。そして。現在の暦で言えば十一月四日のこの日、小牧山の全山が紅葉で赤く染まるころ、吉乃は永眠。波乱に富んだ一生を終えたのである。

 時に三十九歳。この齢が事実なら、信長より六歳上の姉さん女房の見事なほどの本懐がそこにはあった(吉乃の没年齢については二十九歳説もあるが、これが正しいとなると信長より四歳年下となる)。

 帰らぬ人となった吉乃。二日後の十五日の夕刻。川向うの墨俣の一夜城から飛んで戻った信長は吉乃の遺体にとりすがって一晩中、人目もはばからず、泣き明かした。そして、その後もひとり、城の望楼に立ち尽くし吉乃が葬られた小折の墓地の方向に向かい涙する日々が続いたという

 かくして吉乃は一五六三年(永禄六)の夏から一五六六年(永禄九)の秋まで三年余の間、小牧山の山麓西一角にある、いわゆる御台御殿で晩年を過ごしたのである。新居での生活が始まったとき、信忠は六歳、信雄五歳、徳姫は四歳になっていた。そして小牧山に移ってからしばらくというものは、信長の吉乃に対する配慮もあってか、それまでのように戦乱につぐ戦乱に翻弄されることなく、吉乃が信長を気遣うことも次第に少なくなり、比較的平穏な日々が過ぎていったという。

 いや、むしろ吉乃を思う信長が極力、戦乱の話を避けようとしたからかもしれない。

 実は、吉乃が命を閉じたその夜、岐阜の長良川(当時は奈賀良川と呼ばれていた)の中州・墨俣では信長の命のもと、木下藤吉郎秀吉による世に言う一夜城が、忽然と姿を現し、以降の信長の破竹の天下取りへの布石が打たれたのである。信長は小牧に残した吉乃のからだを心配しつつも川の対岸に立ち、闇に建ちつつある墨俣城の勇姿に心躍らせ、誕生したばかりの墨俣城に入城。小牧山城に戻ったのは二日後だった。吉乃の悲報には「吉乃、吉乃、なぜ死んだのだ」とひと目も構わず、大声で叫び、泣き続けたという。

                              (了)

【その後の信長】

 信長の岩倉城攻略後の桶狭間奇襲による大勝以降の犬山城や東美濃全域の制圧、一夜で築いた墨俣城、稲葉山の占拠とその後の天下びとに至る道の背後に松倉城(現在の各務原市川島)と尾張北部を拠点とした蜂須賀党や前野党など多くの支えがあったことは、誰もが認める。ただ、忘れられがちなことは、天下びとへの執念を燃やし続けた信長の胸の内には、いつも吉乃の存在があったことだ。吉乃の死後、信長は一五六八年(永禄十一)に将軍足利義昭を奉じて京の町に入京。その後は比叡山延暦寺の焼き討ちに続き、一五七三年には足利義昭を京から追放した。一五七九年(天正七)に浅井、朝倉氏を滅ぼすと、今度は伊勢長島の一向宗徒に撃ちかかり、実に二万人余の男女を焼き殺すという非道な道を歩んだ。重臣荒木村重が逃亡すると、荒木の妻子は磔刑にされたのもこのころだ。

 吉乃に対してはあれほどまでにやさしかった信長がなぜ、どうして、これほどまでに時代と人に酷い仕打ちを、と思う人々は多いに違いない。ただ言えることは、もし吉乃の体力が回復し元気で永らえていたとしたなら信長はそれだけで満足し天下統一などという野望は起こさず、長男信忠か誰かに後継を任せ、小牧山城で静かに暮らしたかもしれない、ということだ。

 吉乃がその心情を思い、に語った天下統一の夢を愛するの死後、心の精神的支柱を失い自暴自棄となった信長が本気で果たそうとした。そこに吉乃を失った信長の大きな誤算があったのである。事実、桶狭間の戦いから凱旋した信長に吉乃が一度だけ語った言葉は次のようなものだった。

「あなた。天下を統一して今の清洲城下のように戦乱の世を平和で満たし、安らぎある社会にしてくださいな」

 信長は吉乃の勘気に触れたのかもしれない。

 この小説を書き終えるに当たって、ただひとつ言えること、それは吉乃の存在があればこそ信長は天下一を果たし日本に秀吉、家康と続く三英傑の時代が生まれた、その事実である。そして私は最後に作者として物語のなかに〈隠れキリシタン〉などキリスト教に関わる部分についても描きたく思ったが、この点についてはまだまだ取材不足で作者である私自身がこの先、納得するキリスト教との関わりを突き止めたときにこそ新たな作品を、と思っている。いずれにせよ、吉乃がもしも、この世に生まれていなかったとしたなら。徳川時代も、その後の明治、大正、昭和、さらには平成の御世も存在しなかったに違いない。尾張名古屋、そしてその祖先である吉野奈良地方、すなわち尾張名古屋と大和路の女は、しなやかで強いのである。吉乃は身をもって日本の歴史を生んだ女性のひとりだったといっても過言でない。

 ※一八六五年、久昌寺=生駒家の菩提寺で正しくは嫩桂山どんけいざん久昌寺、当初の名前は龍徳寺だった。吉乃の法諱は久庵桂昌大禅定尼と号す=で吉乃の三百回忌が行われ、この日は織田信長の次男信雄の子孫ら大勢から香典が届けられたという。そればかりか、この寺にはそれより前の二百五十回忌、二百回忌に寄せられた現場の数々の香典が今に残されている。

 その後、明治維新や世界大戦など時代の流れのなかに埋没してしまい、以後、回忌法要は行われてはいない。