旧聞日本橋(抄)

  自 序

 

 ここにまとめた『日本橋』は、『女人藝術』に載せた分だけで、その書きはじめには、こんなことが記してあります。

 

 ──事実談がはやるからの思いつきでもない。といって半自叙伝というものだとも思っていない。あまりに日本橋といえばいなせに、有福ゆうふくに、立派な伝統を語られている。が、ものには裏がある。私の知る日本橋区内住居者は──いわゆる江戸ッ児は、美化されて伝わったそんな小意気こいきなものでもなければ、洗練された模範的都会人でもない。かなりみじめなプロレタリヤが多い。というよりも、ほろびゆく江戸のかすでそれがあったのかも知れない。私はただ忠実に、私の幼少な眼にうつった町の人を記して見るにすぎない。もとより、その生活の内部を知っているものではないし、面白くもなんともないかもしれないが、信実にいきていた一面で、決して作ったものではないというだけはいえる──

 

 打明けていえば、『女人藝術』の頁数の都合で、いつも締切りすぎに短時間で書き、二枚五枚と工場へはこび、しかも編輯へんしゅうの都合で伸縮自在のうきめにあったもので、そのために一層ありのままで文飾などありません。私の生れたうまや新道、または、小伝馬町こでんまちょう大伝馬おおでんま町、馬喰ばくろ町、鞍掛橋くらかけばし旅籠はたご町などは、旧江戸宿しゅく伝馬てんま駅送に関係がある名です。文中にもある馬込まごめ氏は、江戸宿の里長馬込勘解由かげゆの家柄で、徳川氏が江戸に来たとき、駄馬人夫を率いて迎えた名望家で、下平河の宝田村──現在の丸の内──から土地替に伝馬町へ移され名主となった由緒があるのです。大伝馬町の大丸の下男が、旅籠町となったのをかなしんで、町札をはがしたことも書きましたが、旅籠町とはずっと昔にも一度つけてあった町名で、旅籠とは、馬の食を盛るかご馬飼うまかいの籠から、旅人の食物を入れるうつわとなり、やがて旅人の食事まかないとなり、客舎となり、駅つぎの伝馬旅舎として縁のふかい名であり、うまや新道の名も、うまやも、小伝馬町大牢たいろうの御用のようにばかり書きましたが、それも幼時の感じを申述もうしのべただけです。

伝馬町大牢は明治八年まで在存し、牢屋の原の各寺院は、明治十五年ごろから出来たことを、文中には書洩かきもらしましたからここに記入いたしおきます。

我見がけん『日本橋』は、まだもっと書きつづけるつもりでおりますが、この集には、近親のものが重に書かれたため、したがって挿入した写真など、しんに厚ききらいがありますが、これは当時の風俗を知るため、手許てもとにあって、年月に間違いのないものゆえに、私事を捨てて入れました。挿絵さしえ天保てんぽう十四年に生れた故父渓石深造けいせきしんぞうが六歳のころから明治四年までの見聞を「実見画録」として百五十図書残しおいてくれましたなかから、すこしばかり選び入れました。装幀は烏丸光康卿からすまみつやすきょう後撰集ごせんしゅう』表紙裏のうつし、見返しは朱が赤すぎましたが、古画中直垂紋ひたたれもんであります。

 この書は書肆しょしの熱意にて、極めてすみやかに出来、ふりがなを一度失いしためにあるいは校正の麁洩そせつもあらんかとそれのみをおそれます。

昭和十年一月十四日

           時  雨

 

 序 文(三上於菟吉=時雨の夫)

 自 序

町の構成  蕎麦屋の利久  源泉小学校  大丸呉服店  古屋島七兵衛  テンコツさん一家  木魚の顔  木魚の配偶  勝川花菊の一生  朝散太夫の末裔  チンコッきり  お墓のすげかえ  西洋の唐茄子  流れた唾き  最初の外国保険詐欺  牢屋の原  神田附木店  明治座今昔  西川小りん  議事堂炎上  大門通り界隈一束(続旧聞日本橋・その一) 鉄くそぶとり(同・その二)  鬼眼鏡と鉄屑ぶとり(同・その三)

 

 あとがき(長谷川仁)

 

 (図版一覧 本書に登場する長谷川時雨ゆかりの人々  割愛)

 

 

     町の構成

 

 一応はじめに町の構成を説いておく。

 日本橋通りの本町ほんちょうの角からと、石町こくちょうから曲るのと、二本の大通りが浅草橋へむかって通っている。現今いまは電車線路のあるもとの石町通りがまちの本線になっているが、以前もとは反対だった。鉄道馬車時代の線路は両方にあって、浅草へむかって行きの線路は、本町、大伝馬おおでんま町、通旅籠とおりはたご町、通油とおりあぶら町、通塩とおりしお町とつらなった問屋筋の多い街の方にあって、街の位は最上位であった。それがいまいう幹線で、浅草から帰りの線路を持つ街の名は浅草橋の方から数えて、馬喰ばくろ町、小伝馬こでんま町、鉄砲町、石町と、新開の大通りで街の品位はずっと低く、徳川時代の伝馬町の大牢の跡も原っぱで残っていた。其処そこには、弘法大師と円光大師と日蓮祖師と鬼子母神との四つのお堂があり、憲兵屋敷は牢屋敷裏門をそのまま用いていた。小伝馬町三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門おおもん通がある。

そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告なのっていた。私は厳密にいえば、小伝馬町三丁目と、通油町との間の小路の、油町側にぞくした角から一軒目の、一番地で生れたのだ。小路には、よく、瓢箪新道ひょうたんじんみちとか、おすわ新道とか、三光横町とか、特種な名のついているものだが、私の生れたところは北新道、またはうまや新道とよばれていて、伝馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。この道筋だけが五町通して、本町石町から緑河岸みどりがしまで両側の大通りと平行していた。

 面白くもない場所吟味はやめよう。以下、私の記憶のままで、年月など、幾分前後したりするかも知れないが──

 しかし、アンポンタンの生活がはじまったのも、かなり成長してからの眼界も、結局この街の周囲だけにしか過ぎない。で、最も多く出てくる街の基点に大丸だいまるという名詞がある。これは丁度現今いま三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地はんじようち中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然きぜんそびえていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助ごんすけが、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。

 

 問屋町の裏側はしもたやで、というよりほとんど塀と奥蔵おくぐらのつづき、ところどころ各家の非常口の、小さい出入口がある。女たちがそっと外出そとでをする時とか、内密ないしょの人の訪れるところとなっている。だからとても淋しい。私の家は右隣りが糸問屋の近与の奥蔵、左側は通りぬけの露路で、背中は庭の塀の外に井戸があり、露路を背にした大門通り向きの幾軒かの家の、雇人たちのかなり広くとった共同便所があり、それを越して表通りの足袋問屋と裏合せになっていた。左横の大門通り側には四軒の金物問屋──店は細かいが問屋である、この辺は、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春と、元禄の昔其角きかくがよんだ句にもある、金物問屋が角並かどなみにある、大門通りのめぬきの場処である──その他に、利久という蕎麦屋そばや、べっこう屋の二軒が変った商売で、その家の角にほんとに小さな店の、ごく繁昌する、近所で重宝ちょうほうな荒物屋があった。小さな店にあふれるほど品が積んであった。

 うるさくはあるが、もすこし近所の具合を言っておきたい。荒物屋の向っ角──あたしの家の筋向いに横っぱらを見せている、三立社という運送店の店蔵は、元禄四年の地震にも残った蔵だときいていた。左横に翼がついていて木の戸があった。内には縄やこもが入れられてあったが、そのまた向う角が、立派な土蔵づくりの八百屋、後には冬は焼芋屋になり、夏には氷屋になった。その店の焼芋はすばらしく大きかったので、遠くからも買いに来た。他処ほかでは見られないことは、この家、この店土蔵だけの住居で二階が住家すみかであり、小さな物干場へは窓からくぐり出していた。芋屋の並びはほとんど金物問屋ばかり、火鉢ばかりの店もあればかなだらいや手水鉢ちょうずばちが主な店もあり、ふすま引手ひきてやその他細かいものの上等品ばかりの店もあり、笹屋という刃物ばかりのとても大きな問屋もあった。銅、鉄物問屋はいうに及ばない。

 大門通りも大丸からさきの方は、長谷川町、富沢町と大呉服問屋、太物ふともの問屋が門並かどなみだが、ここらにも西陣の帯地や、褂地うちかけじなどを扱う大店おおだながある。

 荒物やの正面向う角が両替屋で、奇麗な暖簾のれんがかかっていて、黒ぬりの(編輯室注、小さい分銅様の繪)こういう看板に金字で両替と書いたのが下げてあった。そこの家はいつも格子がすっかりはまっていて、黒い前掛けをかけた、真中まんなかから分けた散髪の旦那だんなと、赤い手柄の細君さいくんがいる奇麗な小さな角店だった。その隣りが酒屋の物置と酒屋の店蔵で、そのさきが煙草タバコ問屋、煙管キセル羅宇ラオ問屋、つづいて大丸へむかった角店の仏具屋の庭の塀と店蔵だった。

 あたしの家の真向こうに──三立社の尻にこの辺にはあるまじいほどささやかな、小さな小屋で首を振りながら、終日いちにち塩せんべを焼いているお婆さんがあった。その隣家となりはこんもりした植込みのある──泉水などもある庭をもった二階家で、丁度そこの塀を二塀ばかりきりとって神田上水の井戸があるのを、塩せんべ屋のお婆さんが井戸番をしているようなかたちだった。あたしの家の裏の井戸は玉川上水だった。

 その二階家は「炭勘」という名の──炭屋勘兵衛とでもいったのだろう。鼈甲細工屋べっこうざいくやのになっていたが、黒い三巾みすじの垂れ暖簾のれんに「いりやまずみ」(編輯室注:山なりの図様の下に「炭」字)の白ぬきのれんが、鼈甲屋とは思わせない入口だった。もっともそこは青柳という会席料理おちゃやだったのだそうで、炭勘はそのうしろから前へ進入したのだ。お茶屋があったからというわけではなかろうが、その隣りに阪東三弥吉という女の踊りの師匠がいた。そのそばに、私の父のくるまをうけもって、他に曳子ひきこを大勢おいていた俥宿があった。

 なんで細かく此処まで書いたかというに、前にも言ったように、私の家のならびは、窓ひとつもない、塀と土蔵裏と、荷蔵にぐらばかりつづいているその向う側であるからで、俥宿までの町並は二間半たらずだが、そこからぐっと倍も広がっている。それが、何故かというと、三誠社という馬車うまぐるまを扱う大きな運送店があって、その前身が、伝馬町の大牢の、咎人とがにんの引廻しの馬舎うまやだったというのだ。町巾まちはばが其処だけ広がっているのが妙に嫌な気持ちにさせる。俥宿と馬舎との間の地処にかこいをして草を植え、植木棚をつくり、小さなほこらを祭って、毎朝表通りの店から散歩にくる老旦那もあった。

 アンポンタンが三ツか四ツの時、ひたいの上へ三日月形の前髪の毛をおいた。それまでは中剃り(頭の真ン中へ小さく穴をあけて剃っていること)をあけたおかっぱで、ヂヂッ毛とおやっこさんをつけていた(ヂヂッ毛はえりのボンノクボに少々ばかりそり残してある愛敬毛あいきょうげ、おやっこさんは耳の前のところに剃り残したこれも愛敬毛)。そのほかは青く剃りあげていたのへ、小さいお椀を伏せて恰好のよい三日月形を剃り残したのだ。その時向うのせんべやのお婆さんが、剃刃かみそりをあてるのに動かないようにと、おせんべにするふかしたしんをもって来てくれて、あたしの祖母が、ちんこしらえて紅で色どってくれた。それに味をしめて、さかゆきをするたんびに、おせんべやの店へとりにゆくと、首振り婆さんは、私の家の門の桜の木の上へ出そめた三日月を指さして、

「のん、のん、此処にも、あすこにも。」

と、あたしの頭を指で押して、空をも指さすのだった。

 お婆さんの息子は車力しゃりきだった。あたしは鹿の子絞りのひもを首の後でチョキンと結んで、緋金巾ひかなきんの腹がけ(金巾は珍らしかったものと見える)、祖母おばあさんのお古の、絽の小紋の、袖の紋のところを背にしたちゃんちゃんこを着せられて、てもなくでく人形のおつくりである。

──ある時(妹でも出来た時かも知れない)、理髪店かみゆいどこではじめて剃ってもらった時、私ははじめじぶくったが、あたしを抱いていた女中が大層機嫌がよかったので、しまいにはあたしまで悦んで膝の上で跳ねた。職人はたぶん女中のえりをおまけに剃ってやっていたのであろうが、あたしがあんまりはねるので、女中にもなんしょで、ひょいと、あたしのおやっこを片っぽとってしまった。あたしはなおさらよろこんだ。機嫌のよい女中におぶさって帰ってくると、すぐおせんべやの首振りお婆さんに見せにいった。ただ笑って、よろこんで指で毛のないあとを押し示した。

「あらまあ、おともさんが片っぽおちて──」

 お婆さんは歯のない口を一ぱいにあいて笑った。だが、この人はきなくなって、おせんべやは荷車の置場に、屋根と柱だけが残されるようになった。竹であんだ干籠ほしかごに、丸いおせんべの原形が干してあったのも、そのかたわらにあたしの着物を張った張板はりいたがたてかけてあったのも、その廻りを飛んでいた黄色の蝶と、飛び去ってしまった。

 角の芋屋がまだ八百屋のころ、おそのという小娘が店番をしていた。ちいさい時、神田から出た火事で此処らは一嘗ひとなめになって、みんな本所ほんじょへ逃げた時、お其は大溝おおどぶにおちて泣き叫んでいたのをあたしの父が助けあげて、抱えて逃げたので助かったといって、私の赤ン坊の時分からよく合手あいてをして遊ばせてくれた。だが、先方さきも正直な小娘である。店番をしている時、無銭ただでとっていったら泥棒とどなれと教えこまれていた。あたしはまた、お金というものがある事を知らず、品物は買うものだということをちっとも知らなかった。他人ひとのものも、自分のものも、所有ということを知らず、いやならばとらず、好きならばとってよいと、わきまえなく考えていたと見え、ばかに大胆で、げじけしをおさえて見ていたが、急に口へもってゆこうとして厳しく叱られたりしたというが、その時も、おそのの店の赤いものに目がついて、しゃがんで二つ三つとった。お其はだまって見ていたが──たんばほおずきが幾個いくつ破られて捨られてもだまって見ていたが、そのまま帰りかけると、大きな声で、

 「盗棒どろぼう、盗棒、盗棒──」

わめきだした。もとより、あたしもお其にかせいして、盗棒とどなった。

諸方ほうぼうから人が出て来たが盗棒はいなかった。するとお其はあたしに指さして、

「盗棒!」

と言った。幼心おさなごころにはずかしさと、ほこらしさで、あたしもはにかみながら、

「盗棒!」

とおうむがえしに言った。みんなが笑った。あたしの祖母がおつまをとって来て、巾着きんちゃくからお金を払い、お其にもやった。八百屋の親たちはしきりにおじぎをした。

 おせんべやの首振婆さんが私を抱えて帰った。お其も遊びについて来た。

 間もなくべったらいちの日が来て、昼間から赤いきれをかけた小さな屋台店がならんだ。こんどはお其があたしの後について、肩上げをつまんで離れずにいた。祖母や女中が目を離すと、コチョコチョと人ごみにまぎれ込んで、屋台のものをつまむので、そのたびにお其はハラハラしたのだろう大きな声で祖母をよんだ。祖母はニコニコして後からお鳥目ちょもくを払って歩いて来た。

 お其のうちは八百屋をやめて焼芋屋になった。店の大半、表へまで芋俵が積まれ、親父おやじさんは三つ並べた四斗樽のあきで、ゴロゴロゴロゴロ、泥水の中の薩摩芋を棒で掻廻かきまわした。大きな、素張らしく美事な焼芋で、質のよい品を売ったので大繁昌だった。三ツの大釜が間に合わないといった。近所が大店ばかりのところへ、遠くからまで買いにくるので、いつも人だかりがしていた。一軒のお茶受けにも、店の権助ごんすけさんが、籠をもって来たり、大岡持ちをもってくるので、一釜位では一人の注文にも間にあわなかった。忙しい忙しいとお其はいって、鼻の横を黒くしていた。で私の遊び合手は、あたしをも釜前につれていった。冬などは、藁の上にすわって、遠火とおびに暖められていると非常に御機嫌になって、芋屋の子になってしまいたかった。だが、困ったことに家の構造が、角の土蔵なので、煙のはけばに弱らされていた。住居にしている二階のあがり口へまっすぐに煙筒えんとつをつけて、窓から外へ出すようにしてあった。だから、二階の梯子はしごはとりはらわれて、あたしたちのあたっている頭の上を、猿梯子さるばしごをかけて登ってゆく、物干場は、一度窓から出て、他家よその屋根に乗り、そして自分の家の大屋根にゆく仕かけだった。

「売れすぎて損をするって。」

とお其は告げて、あたしの父を笑わせていた。父の晩酌のおぜんの前に座るのを、あたしよりさきにもった特権だとこの小娘は信じて疑わなかった。

 お其が私を紹介した買物のはじめは、角の荒物店だった。足許あしもとほうきだの、頭の上からさがって来ているものを掻きわけて、一間たらずの土間の隅につれてゆくと、並んでいる箱の硝子蓋ガラスぶたをとって中の駄菓子をとれと教えた。あてものをさせて、水絵──濡らしてはると、西洋画風の蝶や花が、刺青ほりもののように腕や手の甲につくのを買わせた。で、彼女は一生懸命におぜぜの必用と、物品購買のことを説ききかせて、こういう細長い、まん中に穴のあいているのが天保銭てんぽうせんで、それに丸いので穴のあいてるのを一つつけると、赤く光った一銭銅貨とおんなじだと、くりかえしていった。でも、あたしにはあんまり必要がなかった。それよりも、お其の紹介で友達になった子たちが、自分のうちの裏庭でとった、蝸牛まいまいつぶろを焼いてたべさせたりするのを、気味がわるくてもよろこんだ。

 この子供仲間は、男の子も女の子もみんな顔色がわるかった。どの子も大きな眼をして痩せていた。小僧さんかお附きの女中がいるので、それらの眼をしのんで、こっそり集るのを、どんなに楽しみにしていたか知れない。だから裏から裏と歩いた。村田──有名な化粧品問屋──の裏を歩くと、鬢附びんつけ油を練るにおいで臭く、そこにいる蝸牛まいまいつぶろもくさいと言った。鍛冶七かじしち──鍛冶もしていた鉄問屋──の裏には、猫婆ねこばばあがいるということなど、いつの間にか大人よりよく知ってしまった。

 猫婆さんは真暗な吹鞘場ふいごばに──そのうちも大かた鍛冶屋ででもあったのであろう。大溝おおどぶが邪魔をして通り抜けられない露路奥ろじおくになっていたので、そんな家のあることも、そんなお婆さんのいきていることも、ほんとに幾人しかしりはしなかった。ただ猫だけが知っていて、宿無し猫が無数に集ってきていた。いつもお婆さんの廻りは猫ばかりなので、猫ぎらいなあたしは、お婆さんの顔の輪格りんかくもはっきり見知らなかった。

「まだ生てるよ、顔だけあったもの。」

なぞと、覗いてきては子供たちはいった。

 

鞴祭ふいごまつり図・割愛〕 江戸市中の鍛冶職は、毎年十一月八日、ふいご祭と称し、何れも、屋上より、蜜柑を小供等に投げ与へ、赤飯を焚き、職を休み、親族等を招き、大に祝ふなり。小伝馬上町の如きは、此職業多かりし故、近所もなかなか賑ふなり。

 

 土のお団子だんごなどをこしらえている時に、坊ちゃんの一人が目附けだされて、連れかえられようものなら、その子はうちへかえるのを牢獄にでもおくられるように号泣した。残されるものもみんなさびしかった。なぜなら、帰ればその子におしおきが待っているからである。なぜ表へ出て、あんな子たちとお遊びなさいました──とそれはまた、各自めいめいの身の上ででもあるからなので──

 あたしもよく引き摺ってゆかれて、おきゅうを据えられたり蔵の縁の下にほうりこまれたりした。そうした窮屈な育てられかたをするのはおたなの坊ちゃん嬢ちゃんがたで、自由な町の子も多くあった。それがどんなにうらやましかったろう。そしてその多くの町の子たちが遊びの指導者でもあったのだが、彼らはよく裏切りもした。あたしの祖母が、あたしの遊びに抜けだしたのを厳探中げんたんちゅう、その子たちの仲間の一人にお小遣いをくれると、あたしは直ぐにつかまえられた。逃げでもすると、その子たちは追っかけ追い廻して、意地悪くとらえて祖母に突き出した。何にがそんなに遊んではいけないのだろう? 遊んでいけないのより、許可おゆるしをうけず外へ出るから、それがいけない、では許可をうければゆるしたか?なんの、

「いけません、おとなしくおうちでお遊びなさい。」

である。時たま家中の御機嫌のよい時外へ出して遊ばせてもらう。鬼ごっこ、子をとろ子とろ、ひな一丁おくれ、釜鬼かまおに、ここは何処の細道じゃ、かごめかごめ、瓢箪ぼっくりこ──そんなことをして遊ぶ。

 子をろ子とろは、親になったものの帯につらなって大勢の子がいる。人とり鬼になったものが、どうにかして末の、尻尾の方の子をとろうとするのである。親になったものは、両手をひろげてふせぐ、鬼は、あっちこっちと、両側をねらって、長い列が右往左往すると、虚を狙って成功する──その時分、人さらいが多くあって、あたしの従兄いとこも夕方さらわれていったのを、父が木刀をもってけていって、神田弁慶橋で取りかえしたという話もあるので、そんな遊びもしたのであろう。夕方になると子供を外に出しておくのを危険とした。そんな事で、外出もやかましくいったのかも知れないが──

 釜鬼は、塀や壁を後にして、土に半輪はんわを描き、鬼が輪の中に番をしていて、みんな下駄を片っぽずつ奥の方へ並べておく。それをチンチンモガモガをしながら、輪の中へ取りにゆくのである。大挙して突進すると鬼が誰をつかまえようかと狼狽あわてる、それが附目つけめなのである。下駄が一ツ二ツ残ると、それからが駈引かけひきで面白く興じるのだ。

 

〔子供の喧嘩図・割愛〕 ここに掲げる小供の喧嘩は、右の方、小伝馬町・亀井町・小伝馬上町、左の方は通油丁・旅籠町・田所町・新大坂丁の小供等にて、何れも争の原因は二、三の小供等の喧嘩より、自然加勢も出来、其双方より投る小石にて、一時は往来も止る程の事もありし。

 

 ──瓢箪ぼっくりこ──つながってしゃがんで、両方に体をゆすって歩みを進めて、あとのあとの千次郎と、唱いながらよぶと、一番後の子が、ヘエィと返事をして出てくる。問答がすむと、その子がこんどは先頭になるのだ。

 雛一丁おくれは、ずらりと子供を並べておいて、売手が一人、買手が一人、節をつけて唄い問答する──

 

  ひな一丁おくれ、

  どの雛目つけた。

  この雛目つけた、いくらにまけた。

  三両にまけた、なんでまんまくわす?

  赤のまんまくわしょ。

  さかなをやるか?

  鯛魚たいととくわしょ。

  小骨がたあつ、

  噛んでくわしょ””

 

 ここは何処の細道じゃも唄うのだ。二人の鬼が手を組んで門をつくり袖を垂れている。袖のうしろに一人の子が隠されている。訪ねてくるものが、まず唄って、鬼がこたえる。

 

  ここは何処の細道じゃ 細道じゃ

  天神様の細道じゃ 細道じゃ

  ちっと通してくださんせ くださんせ

  御用のないもな通されぬ 通されぬ

  天神様へ願かけに 願かけに

  通りゃんせ、通りゃんせ。行きはよいよい、帰りはこわい──

 

 袖があがる、訪ねるものは通ってゆく。こんどは隠された子をつれてくぐりぬけるのに鬼どもはいやというほどなぐろうとする。そうさせまいと走りぬけるのだ。

 

 

     蕎麦屋の利久

 

 角の荒物屋が佐野吾八さんのだいにならないずっと前──私たちまだ宇宙にブヨブヨ魂がただよっていた時代──そこは八人芸の○○斎という名人がいたのだそうで、上げ板をたたいて「番頭さん熱いよ」とうめ湯をたのんだり、小唄をうたったりすると、どうしても洗湯おゆやの隣りに住んでる気がしたり、赤児こどもが生れる泣声に驚かされたりしたと祖母がはなしてくれた。

 この祖母が、八十八の春、死ぬ三日ばかり前まで、日髪日風呂ひがみひぶろだった。そういうと大変おしゃれに聞えるが、年寄のいるあわれっぽさやきたならしさがすこしもなく、おかげで家のなかはすがやかだった、痩せてはいたが色白な、背の高い女で、黒じゅすの細い帯を前帯に結んでいた、小さいおちょこで二つお酒をのんで、田所町の和田平か、小伝馬町三丁目の大和田の鰻の中串を二つ食べるのがおきまりだった。

 祖母のお化粧部屋は蔵の二階だった。階下したは美しい座敷になっていたが、二階は庭の方の窓によせて畳一畳の明りとりの格子こうしがとってあり、大長持おおながもちやたんすその他の小引出しのあるもので天井まで一ぱいだった。中央の畳に緋毛氈ひもうせんを敷き、古風なかねの丸鏡の鏡台がすえてあった。

三階の棟柱むなばしらには、彼女の夫の若かった時の手跡しゅせきで、安政三年長谷川卯兵衛建之──と美事みごとな墨色を残している。その下で八十の彼女は、日ごとに、六ツ折りの裾に絵をかいた障子屏風をめぐらし黒ぬりの耳盥みみだらいを前におき、残っている歯をお歯黒で染めた。銭亀ぜにがめほどのわりがらこにって、小楊子こようじの小々太い位なのではあるが、それこそ水の垂れそうな鼈甲べっこう中差なかざしと、みみかきのついた後差うしろざしをさした。鏡台の引出しには「菊童きくどう」という、さらりとした薄い粉白粉こなおしろいと、しょうえんじがお皿に入れてあった。鶏卵たまごの白味を半紙へしいたのを乾かして、火をつけて燃して、その油燻ゆくんをとるのに、元結もとゆいでつるしたお小皿をフラフラさせてもたせられていたことがあった。ある時、お皿の半分だけしか真黒にならなかったが、アンポンタンらしい理屈を考えた。どうせ、毎日おばあさんが拭いてゆくのだからと──今思えば、それが眉墨であったのだが──

 祖母は身だしなみが悪いひとを叱った。

 「おしゃれではないたしなみだ、おれは美女だと己惚うぬぼれるならおやめ。」

 文化生れのこの人は、江戸で生れはしなかったが、江戸の爛熟期の、文化文政の面影をとどめていた。万事がのびやかで、筒っぽのじゅばんなど、どんなに寒くても着なかった。

 ある年九月廿日、芝の神明様しんめいさまのだらだら祭りに行くので、松蔵のくるまに、あたしは祖母の横に乗せられていた。紺ちりめんへ雨雲を浅黄あさぎ淡鼠ねずみで出して、稲妻を白く抜いたひとえに、白茶しらちゃ唐織からおり甲斐の口かいのくちにキュツと締めて、単衣ひとえには水色太白みずいろたいはくの糸で袖口の下をブツブツかがり、その末が房になってさがっているのを着ていた。日陰町ひかげちょうのせまい古着屋町を眺めながら、ある家の山のように真黒な、急な勾配をもった大屋根が、いつも其処そこへ来ると威圧するように目にくるのをけられないように、まじまじ見詰めながら通った。

祖母は伊勢朝長あさおさ大庄家おおじょうやの生れで、幼少な時、わらべのする役を神宮に奉仕したことがあるとかで神明様へは月参りをした。よくこの人の言ったのに、五十鈴いすず河は末流すえの方でもはいってはいけない、ことに女人はだが──夏の夜、そっと流れに身をひたすと、山の陰が抱いてるように暗いのに、月光つきは何処からか洩ってきてあびる水がキラリとする。瀬が動くと、クスクスと笑うものがあるので、誰と低くきくと、あたしだよと答えるのは姉さんで、そっと這うようにして上陸あがる──

 その折こうも言った。香魚あゆは大きい、とってきてすぐ焼くと、骨がツと放れて、そののよいことと──

 あたしは先年、神路山かみじやまが屏風のようにかこんだ五十鈴河のみたらしの淵で、人をおそれぬ香魚が鯉より大きくふとっているのを見た。昔は、そのおちこぼれが、伊勢の人に香よき自慢の香魚を与えたのであろう。

 帰途かえりは、めっかち生芽しょうがとちぎばこがおみやげ、太々餅だいだいもちも包まれている。で、この祖母の道楽は、彼女のつかんでいた道徳は、一視同人ということで、たまたまの外出はその点で彼女を自由にさせくつろがせたものと見える。また、彼女の気性を知っている者たちは、逆らわずにそのままに彼女の厚意をうけいれた。

 「御隠居さん、今日は松田ですか?」

 くるまの上と下で、帰りのお夜食の寄りどころがまった。お夜食といっても五時になるやならずであろうが──そこで。京橋ぎわの(日本橋の方からゆけば京橋を渡って)左側、料理店松田へ寄った。巾の広い階子段をあがって二階へ通った。

 「松さんはよいものをおとり。」

 顔馴染の女中さんは、ニコニコしてなるたけ涼しいところへ座らせようと、茣蓙ござの座ぶとんを持ってウロウロした。どの広い座敷も、みんな一ぱいなので、やっと、通り道ではあるが、縁側についたてで垣をつくってくれた。

 八十に近い祖母と、六ツ位の女の子と、松さんとは親密に車座になった。祖母のお膳には大きな香魚あゆの塩焼が躍っている。松さんは心おきなく何か一生懸命に話したり願ったり、食べたりしている。あたしが所在なくしていると、若い女中が来て、噴水の金魚をごらんといった。

 松田はいろんなことで有名になっているが、噴水と金魚もたしかによびもののひとつであったのであろう。あたしは余念なく眺めていたが、

 「じょっちゃん、早くこちらへ来て──」

ふるえた声で言った女中さんに引っぱられて祖母のいる場処へかえった。

 と、どうしたことか、他の女中がお膳をはこんで裏二階の隅の方のへやへ席をうつそうとしているところだった。近くにいた支那人の一団ひとかたまりが、やかましくがやがや言って席を代えさせまいとしたが、祖母はグングンそばを通っていった。

 別の部屋へかわってからも、隣席の人たちが妙にあたしを見て、首をひねったり、何かいったり、うなずいたりした。帰りには、松田の人たちに守られて、俥のおいてある裏口の方から出された。

 「大丈夫です。みんな表梯子ばしごの方ばかり見張っていますから。」

と送り出した人たちは言った。松さんは大急ぎで俥をひいて駈出かけだした。 「おそろしやおそろしや、この子を支那人なんきんさらおうとして──」

と、俥をおりると祖母は家の者に言った。

 赤ん坊のころ、若い母親の不注意から、つりらんぷの下へ蚊帳かやを釣って寝させておいたら、どうした事か洋燈ランプがおちて蚊帳の天井が燃えあがった。てっきり赤ン坊は焼け死ぬものと誰もが思ったが、小さい布団ふとんのまま引摺ひきずり出されて眠っていたという子は、支那人の人浚いの難からも逃れたのだった。そのアンポンタンが、どうした事か音に好ききらいが激しくって、蕎麦屋そばやのおばあさんを困らしたが──

 

 丁度ここに、いつぞや『婦人公論』へ書いた短文をはさもう。

 

 隣家の蕎麦屋でこなをふるう音が、コットンコットンと響いてくると、あたしは泣出したものです。住居蔵の裏が、せまい露地ひとつへだてて、そばやの飛離れた納屋なやがあったので、お昼過ぎると陰気なコットンコットンがはじまる。神経質な子供だったと見えて昼寝していても寝耳に聴附けて泣出したのです。両親や祖母が困ったと言っていたのは、後日あとできいた思出でしょうが、そのふるいの音も厭だったに違いありませんが、その家全体が子供心にきらいだったのではないかと思われます。どうも暗い小さなそばやらしかったのです。「利久」といって、主人になった息子とおばあさんだけで、そのお媼さんが、骨だった顔の、ボクンとくぼんだ眼玉がギョロリとしていて、肋骨あばらぼねの立った胸を出して、大肌ぬぎで、真暗なところに麺棒めんぼうをもってこねた粉をのばしていると、傍に大釜があって白い湯気が立昇っていたり、また粉をふるっている時は──宅の物置のつづきのさしかけで、かどの小さな納屋の窓から、そのお媼さんの皺がれた肩には、汚ない濡れ手拭てぬぐいが肩掛のように結びつけられてあって、白髪しらがまじりの毛がそそげ立って、まだらにはげた黒い歯で笑われると、とても泣かずにはいられなかったのです。夏の、重っくるしい風のない蔵座敷のなかに寝せっけられて、そのコットン、コットンをきくときっと泣出した覚えはあっても、それが火のつくような泣方で、手もつけられなかったときくと、今ではその媼さんに気の毒な気がしますが、じきにそのばばはコレラで死んでしまって、その店もなくなってしまいました。

 ある時、祖母の従兄だというおじいさんが伊勢から訪ねてきたことがありました。おじいさんはもう九十歳だといいました。祖母は八十ばかりでした。この二人は人世五十年以上逢わなかった様子で、しきりに懐しがっていました。わたしはそのおじいさんの赤とんぼ位のちょんまげが、光った頭にくっついているのを、西洋人を見るより珍らしく見ていました。二階の広間で御馳走をして、深川でもと芸者をしていたという二人の血びきのおたけさんという女を呼んで、人交ひとまぜしないで御酒を飲んでいましたが、やがておじいさんが太鼓をたたき、女のひとが三味線を弾いて、祖母が踊りはじめました。子供は行くのでないといわれて、そっと梯子段のところから覗いていると、しまいには二人の老人が浮れて、伊勢音頭おんどを踊っているかげが、庭にむかった、そとの暗い廊下の障子にチラチラと動いていました。その手ぶりのよさ──わたしは最近伊勢の古市ふるいちまでいって、備前屋で音頭を見せてもらいましたが、とてもとても、幼目おさなめにのこる二人の老人のあの面白さは、面影も見ることが出来なかったのです。

 こんな事を書いたらまだいくらもあるでしょうが、町で生れた子には、自然からうけた印象のすけないことがものたりません。

 

虎列刺除コレラよけのをはぎに橋上の行者と疱痘神の送り図・割愛〕 虎列刺病流行の当時は、種々の事柄を言触せ、甚敷はなはだしきは三日間に牡丹餅を食すれば、此病にかゝらずと云ふものありて、各牡丹もちやの繁昌一方ひとかたならざりし。ここに掲げしは、江戸橋際の牡丹もちやなり。入口に、柵をかまへ、人をはかりて出入でいりせしめたり。

此幣束は、庖痘に罹り、全快せしものゝ為め庖痘神を送ると云へば、桟俵の上に赤飯を盛り、赤紙の幣束を添へ、川岸又は橋際へ置く習慣なり。

橋上に坐して居る行者は、手の平に油をつぎ、二、三本の燈心に火を点し、通行の者より銭を貰ふなり。其手の火口にあたる処は、焼煉して、岩の如し。

 

 利久の納屋はあたしの家の物置と一ツ棟で、ニツに仕切って使っていた。丁度庭裏の井戸のところに窓があって、井戸をはさんでの釜場になっていた。

 激しいコレラの流行はやった最終だというが、利久はおばあさんがコレラで死ぬとすぐに倒産つぶれた。万さんという息子は日雇人夫ひようとりになったが、そののち、角の荒物屋へ酔って来ていた。焼酎をうんと飲んで死んだと、荒物屋佐野さんの十三人目の、色の黒い、あぶらぎった背虫のように背を丸くしたおかみさんがうちへ知らせに来た。佐野さんは時々面白い話をした。おかみさんをとりかえるたんびに、だんだん悪くなって、こんな汚ない女にとうとうなってしまったといった。そういわれても怒らずに、おかみさんは、のりを煮ていた。お天気のよい日、朝のに、御不浄ごふじょうの窓から覗くと、襟の後に手拭を畳んであててはいるが、別段たぼの油が着物の襟を汚すことはなさそうなほど、丸くした背中まで抜き衣紋えもんにして、背中の弘法さまのおきゅうあとや、肩のあんまこうを見せて、たすきがけでお釜の中のしめ糊を掻き廻していた。「*」(編輯室注:此処に、大きな「の」の字の右懐に小さな「り」の字を抱え込んだ、「のり」の絵屋号)とした看板がかけてあって、夏の午前あさは洗濯ものの糊つけで、よく売れるので忙しがっていた。平日ふだんでも細い板切れへ竹づッぽのガンクビをつけたのをもって、お店から小僧さんが沢山買いに来た。

 コレラは門並かどなみといってよいほど荒したので、葛湯くずゆだの蕎麦がきだの、すいとんだの、煮そうめんだの、熱いものばかり食べさせられた。病人の出た家のかわやこわしてこもをさげ、門口へはずっと縄を張って巡査が立番をした。

 深川芸妓だったおたけさんもコレラで死んだ。背の高い、り身な、色の白い、額の広い女で祖母の姪だけに何処かよく似ていた。辻車に乗って来て、気分がわるいと言った。それなら早く帰る方がよいだろうと、その車で出たが、車屋がすぐ引返ひっかえしてきて、お客様が変だとおろした。

 門から這入はいって、庭を通って来て、渡り縁に腰をかけたが、今出ていった時とは、すっかり相恰そうごうが変って、額を紫っぽく黄色く、眼はボクンと落ちくぼみ、力なく見開いている。なぜ引返したといっても辻車では仕方がなかった。住居は遠くもない鉄砲町なので、車夫は沢山のお礼をもらって病人を送っていった。

 幾日かたった。おたけさんの開いていた氷屋の店は、ガランとして乾いていた。軍鶏屋しゃもやをはじめたのがいけなくなって氷店になったのだった。道楽ものの兄が二人いたが、その一人と母親とが伝染うつって、二、三日のうちに三人もいなくなってしまった。

 

〔坊主の暹羅鶏しゃもやと獣肉屋図・割愛〕 坊主のしやもやは、両国橋より(東両国本所)、およそ二十間程はなれ、粗末なる堀立柱、平家の建物にて、食器は勿論、何から何まで、粗末のものを用ひ、客は履物を各自に持て昇る位なり。かし売品宜敷よろしきためか、なかなかの繁昌にて、相撲興行中の如きは、一寸のあき無き程なり。獣肉やも仝所に二、三軒あり、何れも坊主と仝じく、家作・器物とも、粗末にして、此頃は牛肉は売らず、他の肉類にては猪鹿は勿論、かわうその類まで、切売をなせり。此肉やにては、正覚坊、其他、黒焼の類も、売たりしと覚えたり。

 

 この西川屋一家も以前もとは大門通りに広い間口を持っていた。蕎麦屋の利久の斜向すじむかいに──現今いまでも大きな煙草問屋タバコとんやがあるが、その以前は、呉服用しの西川屋がいたところである。そこの主人あるじはあたしの祖母の兄で、早くから江戸に出ていた。先妻に縹緻きりょうよしの娘を生ませたが、奥女中あがりの後妻が継児ままこいじめをするので、早くから祖母の手にひきとられ、年下のあたしの父の許婚いいなずけとなった。

 後妻は由次郎、鉄五郎、おたけさんを生んだ。父親が歿なくなると、男振りのよいせがれたちはじきに店をつぶしてしまった──尤もそれには御維新の瓦解がかいというものがあったせいもあろうが──二人の伜はありったけの遊びをして、由次郎はコレラでなくても長くは生きないようになっていた。

 鉄さんが鉄公になったころは散々で、もう仕たい三昧ざんまいはてだった。賭博場ばくちばころげ歩き、芸妓屋の情夫にいさんになったり、鳥料理とりやの板前になったり、俥宿の帳附けになったり、かしらの家に厄介になったり、遊女おいらんを女房にしたりしているうちに、すっかり遊人風あそびにんふうになり金がなくなると、蛆虫うじむしのように縁類を嫌がらせた。

 この男、あたしの目に触れだしたのは、越前堀のお岩稲荷の近所ににかに囲われていたころだった。染物屋こうや張場はりばのはずれに建った小家で、茄子なすの花が紫に咲いていた。白っぽくって四角い顔のお婆さんが、鉄の悪口をグショグショと祖母に語っていた。でも、その時分鉄さんは、父に用事を言いつけられると、ヘイ、と分明はっきり返事をして、小気味よく小用をたしていた──もっともむずかしい仕事ではない、家のなかの雑用だが──彼は見かけだけは稜々りょうりょうたる男ぶりだった。ちょっと類のすくない立派な顔と体をもっていた。面長な顔に釣合った高い鼻、大きなきれの長い眼、一口に苦味走った男だったが、心根は甘かったものと見える。母親が、夜になると忍ぶようにして勝手口からたずねてくると、祖母の膝の前にうずくまって恵みを願っている。その女が帰ってしまうと祖母は溜息をついて、

 「えらいひとをもらってしまって、あのひとのために西川屋もつぶれた。あの女の心がけがわるいからだが──」

 だが、奥女中姿の裲掛かいどりで嫁に来た時はうつくしかったと、不便ふびんがってみついでいた。

 ある日祖母は、例によって私をつれて、山の手の坂のある道を行った。富坂というところだと松さんは言った。露路へはいりながら、しどい場処ところですといって番地と表札をさがしたが、西川鉄五郎の家はどうしても知れないので空家あきやのような家で聞くと、細い細い声で返事をした。

 「此処でございます、此処でございます。」

 祖母は松さんに手をとられてはいっていった。畳もなければ根太ねだいである。

 「御隠居さん」

 戸棚を細目にあけてそう言ったのは、二、三日前の晩、袢纏はんてんを紐でしばって着てきて、台所で叱られていた女だった。

 「座るところはなくともよいから出ておいで。」

 祖母はそう言ったが、やがて、モゾモゾと半裸体の女が這い出してきた。

 「やれやれ、まあ!」

 呆れた祖母は、俥に乗せてきた包みを松さんに取りにやった。

 「お前をそんなにしてほうりだしておいて、鉄の人非人は何処どこへいった。」

というと、ふんどしひとつで戸棚から、

 「面目も御座いません。」

と這出してきた。そして、祖母が救いに来たのだと知ると、一昨日の晩、女が死ぬような病気で、どっと寝ておりますといったのは、二人ともすっかり忘れてしまって、裸でも元気な調子でともかくやりきれないという事を、子供のあたしにも面白くきかせるほど巧みにしゃべりたてた。

 「よし、よし。貴様はのたれじにしようと勝手だが、女子おなごはそうはゆかぬ。」

 祖母がいるうちに、米屋からは米がはこばれ、炭屋からは炭がきた。松さんが運んだ包みから出た着物を女は着た。

 鉄さんは景気よく根太のつくろいをして、戸棚の中に敷いていた花莚はなむしろをおき、松さんは膝掛けを敷いて祖母とあたしのいるところをつくった。

 こんな処へ来ても、人ぎらいをしない祖母は、てんやから食物たべものをとって、みんなで会食した。酒が廻ると鉄さんは、どんなふうにして大屋をこまらせてやったとか、畳は売ってしまって、根太はまきのかわりに燃したと雄弁にまくしたてて叱られた。

 家にかえっても何にも言わないので、祖母はあたしを可愛がった。妹は外でおとなしく、帰るとすぐ告げ口をするので、猫かぶりだといって、いつもおいてきぼりにされていた。言いつけ口は嫌いだが、決してもの事を隠しだてするひとではなかったから、帰るとすぐその晩か、遅くもあくる夜は、松さんの俥が荷物ばかりを積んで、再びなまけ者の住居を訪れるのだった。

 「無駄だけれど──」

と言いながら母は布団やその他のものを積ませた。

 だが、鉄さん自身が浅間あさましい姿で、地虫のように台所口につくばった時、祖母は決してゆるさなかった。同情の安売りはしなかった。取次ぎが、ぜひ御隠居様にお目にかかりたいともうしますと伝えたとき、台所の敷居に手をつくようなことをせず、表から来いと言わせた。

 彼女は卑屈を嫌ったが、決して貧乏を厭いはしない。ところが、哀れな鉄さんは、卑屈をいやしまず貧乏を鼻白はなじろんだ。彼は何時いつまでもウジウジかがんでいた。祖母は堪らなくなったと見えて台所口へゆくと柄酌ひしゃくに水をくんで鉄さんの頭からあびせかけた。

 「とっととゆけ、用があらば伯母のうちだ、表からはいれ。」

 そう怒鳴った。ブツブツ口小言くちこごとをいっていた母が、かえって気の毒がって小銭を与えたりした。

 鉄面皮な甥は、すこしばかり目が出ると、今戸の浜金の蓋物ふたものをぶるさげたりして、唐桟とうざんのすっきりしたみなりで、膝を細く、キリッと座って、かまぼこにうにをつけながら、御機嫌で一杯いただいていた。そんな日にはいやに青いひげだと思った。

 この男、晩年に中気ちゅうきになった。身状みじょうが直ってから、大きな俥宿の親方がわりになって、帳場を預かっていたので、若いものからよくしてもらっているといった。それでも若い衆におぶさって一度逢いたいからと這入はいって来た時に、みぐるしくはなかった。大きな男が、ろれつの廻らぬ口で何か言いながら、はいはいした顔を出した時、みんなびっくりした。

 「お前なぞ、そんないい往生が出来るなんて──よく若い者が面倒見てくれるな。」

 父がそう言うと、

 「全く──裸で湯の帰りに吉原へ女郎買いにいったりした野郎が──全く、若いものがよくしてくれます。」

と言った。逢いたいにも逢いたかったが、世話になる部屋の若い者に礼をしてくれと頼むのだった。

 

 さて、

 イッチク、タイチク、タエモンドンの乙姫おとひめさまが、チンガラホに追われて──

などと、大きな声で唄いつれていたアンポンタンも小学校へあがる時季が来た。そのころは勝手なもので、六歳でも許したものだった。尋常代用小学校といっても小さく書いてあるだけで、源泉学校だけの方が通りがよかった。おも珠算しゅざんと習字と読本とくほんだけ、御新造ごしんぞさんも手伝えば、おばあさんもお手助けをしていた。

 引出しが二つ並んでついた机を松さんが担いで、入門料に菓子折を添え、母に連れられて学校の格子戸をくぐった。先生は色の黒い菊石面あばたづらで、お媼さんは四角い白っちゃけた顔の、上品な人で、昔は御祐筆ごゆうひつなのだから手跡しゅせきがよいという評判だった。御新ごしんさんはまだ若くって、可愛らしい顔の女だった。

 格子戸をはいると左に、別に障子を入れた半住居の座敷があって、その上の二階は客座敷になっていた。先生は怖いから大変年をとった人だと思ったが、多分三十位だったかも知れない。お媼さんは先生のことを秋山が秋山がと言った。

 翌日からみんなと机をならべるのだった。お昼すこし前になると、おみやげのお菓子を配った。今朝登校のときに松さんがもって来た大袋四ツが持出されて、うまい具合に分配されてゆくのだった。世話やきの子供が幾人かで、全校の生徒の机の上に、落雁らくがんを一個二個ずつ配ると、こんどは巻せんべを添えて廻る。その次は瓦煎餅かわらせんべという具合にしてききるのだ。

 母の覚え書きがあるから記しておこう。

 

  於保手習おやすてならい初メ

  金五十銭に砂糖折

  ほかに子供衆へ菓子五十銭分。

  そのほか覚。

  一月年玉分  五十銭

  七月盆 礼  五十銭

  試 験    七十銭

  月 謝    三十銭

  年 暮    玉子折

  年 玉    五十銭

    外に暑寒

 

 なんと安価なものではないか。しかし、お豆腐は一丁五りんであったのを、お豆腐やの前で読んだから知っている。お米のねだんは知らないから書くことが出来ない。

 試験が割合にかかるのは、試験ということは学校へお赤飯を食べにゆくことだと思ったほどだから、お手数てかずだったと見える。近所の小学校の校長たちがむずかしい顔をして控えている前へいって試験されるので、なるべく級の中から出来そうなのが前の方にならび、他校よその校長の眼の前でやった。前々日に下ざらいは出来ているのであるが、秋山先生の弟子煩悩ぼんのうは有名で、自分の方が終日ハラハラしていた。みんなその日はめかしていった。三枚重ねを着て、さしこみのついている鼈甲べっこうかんざしや、前がみざしをさしている娘は、つまを折返してキチンと座っていた。男の子は長い袖の黒紋附の羽織、はかま穿いていた。

 黒いぬり盆へお赤飯とおにしめが盛りつけられた。出来ない男の子は、食べてしまうとそっと釣にいって、いつまでも帰って来なかったりした。校長さんたちの分は、大皿のお刺身などがとってあった。

 洋算などは、大概なところで秋山先生が一人に答えをいわせ、

 「出来たか。」

というとみんなが手をあげる。それでみなのだった。よそ老人としよりの校長などは居ねむりをしていた。

 くれのお席書きの方が、試験よりよっぽど活気があった。十二月にはいると西の内にしのうち一枚を四つに折ったお手本が渡る。下の級は、寿とか、福とか、むずかしくなると、三字、五字、七字──南山寿とか、百尺竿頭更一歩進ひゃくしゃくかんとうさらにいつぽをすすむとかいうのだった。

 課業はすっかりやめてしまって、その手習にばかりかかる。そしてお墨すりだ。

 ──あたしのは丸八の柏墨かしわすみだ。

 ──あたしのは高木のいろは墨だ。

 ──だめだ、いろは墨は、弘法様のでなくっちゃいけない。

 そんな事を各自てんでに言って墨を摺る。短かくなると竹の墨ばさみにはさんでグングンと摺る。それを大きな鉢に溜めてゆくと、上級の子がまたそれを濃く摺り直す。

 ──こうやるとにおいになる。と梅の花を入れる子もあった。早く濃くなるようにと、墨をつけて柔らかくしておくものもあった。

 ──ばりこになるよ。とそれを嫌がるものもある。

 商家しょうかの町なので年の暮はなんとなく景気がよい。学校へも、お砂糖の折だの、みかんの箱だの炭俵だの、供餅おそなえだのが沢山もちこまれる。お席書せきがきがすめばその日から休みで、かえりには蜜柑がもらえる。

 二枚書いて、一枚は学校にずらりと張りつけ、一枚は家へもって帰る。親たちは、居間や、客間や、または、あたしの家などは玄関へ自慢で張る。

 この秋山先生もかきもらしてはならない人だ、学校そのものもまた! そして年の暮のことどもも──

 

 柏墨の「丸八」は大伝馬おおでんま町三丁目の老舗しにせで、立派な土蔵造どぞうつくりの店だった。紀文に張りあった奈良奈のうちだのなんのときいていた。「大晦日草紙おおみそかぞうし」とかいったように覚えているが、くさ双紙ぞうしに、若い旦那の色里いろざと通いを、悪玉がおだてている絵があって、お嫁さんが泣いているのを見たとき、丸八の先代のことだとかいった。後に、春の絵の本を見たら、香字という大尽だいじんに張りあう高総という大尽のことがあった。それも多分「丸八」のはなしだとかきいていた。その事実は知らないがとにかく、そんなにまで豪奢ごうしゃな、派手なことがあったうちと見える。

 

──以下・つづく──