創作家が作品の素材として歴史的事実をとりあげる場合に、ふつう「歴史小説」が形成される。「ふつう」という限定概念を附したのは、このことは一般にそのように取り扱われがちであるが、厳密な意味では、手放しの容易さで是認はできないからである。そのことは「歴史小説」とは何かという本質規定が重要な意義を持つことを確認させると共に、さらに次のようなことがらに留意する必要のあることを意味する。史実を作品の素材として扮飾する場合には、その歴史的事実が、誤謬や、あまりにも空想的幻想に潤色され過ぎていては、素材を歴史的事実にとった興味をそぐことになる。しかし一方そのような素材や環境の扮飾として取りあげられた瑣末の事実は、文芸の本質を貫く価値を傷つけぬ限りにおいて、作品における比重はそう大きくないとも言える。森鷗外は、このようなジレンマを「歴史其儘」および「歴史離れ」ということばで表現している。このことはいわゆる歴史小説の創作技法や、その作品の享受にとっては極めて端的に問題の機敏に触れる重要性を持っている。
ここで鷗外の、いわゆる「歴史小説」の代表作として「阿部一族」をとりあげてみる。鷗外は「阿部一族」において多くの論理的矛盾を犯している。そのことは鷗外が、乏しい史実・資料から作品「阿部一族」を掘りおこした、その掘りおこし方において歴史的事実の尊重のし方、それとの対処のし方において、いわゆる「歴史小説」の課題を問題的に提起していることを示す。その焦点は、以下作品「阿部一族」を分析してゆく過程においてあきらかになるであろう。
森鷗外の「阿部一族」は「興津弥五右衛門の遺書」に引きつづいて殉死の問題を扱った、いわゆる「歴史小説」である。「興津弥五右衛門の遺書」は大正元年十月の「中央公論」第二十七巻第十号に載せられた。鷗外の歴史小説としては手始めの作品である。この初稿は神沢貞幹の「翁草」巻六「当代奇覧抜萃」中の「細川家の香木」に拠ったものであった。(改稿は「興津家由緒書」「興津又二郎覚書」「忠興公御以来御三代殉死之面々」などに拠った。)
「阿部一族」はこの「興津弥五右衛門の遺書」に次ぐもので、いわゆる鷗外の歴史小説の第二作である。これは第一作の翌年、すなわち大正二年一月の「中央公論」第二十八巻第一号に載った。鷗外日記の大正元年十一月二十九日には「阿部一族脱藁す。」三十日には「滝田哲太郎の使に阿部一族をわたす。」十二月五日には「滝田哲太郎阿部一族の校正刷を持ちて来ぬ。」とある。この作品は鷗外が小倉時代に写させた「忠興公御以来御三代殉死之面々」と題する一書を基礎として成ったものである。「阿部一族」は「興津弥五右衛門の遺書」と共に、大正二年に書かれたいわゆる歴史小説の第三作「佐橋甚五郎」と共に一書に編まれ、その年の六月、籾山書店から「意地」として出版された。鷗外自記の「意地」広告文の中では「阿部一族」について次のごとく記している。「『阿部一族』は細川家の史料に拠り、従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利の病死に筆を起し、忠利が其の臣寺本八左衛門以下十八人の殉死の願を聴許し、独り阿部弥一右衛門にのみ之を許さざりしより、弥一右衛門世を狭うし、つひに阿部の一族主家の討手を引受け、悉く滅亡に及ぶの物語。」と。日記によれば鷗外は書名を「軼事篇」とするつもりであったが、書店の請いによって改めたという。意地とは、自我を扼殺する、いわゆる「男の意地」などと用いられる意味を表している。
鷗外日記の大正二年四月六日の日記には「阿部一族等殉死小説を整理す。」とあり、八日「植竹喜四郎に軼事篇の原稿をわたす。」とし、翌九日「植竹喜四郎が来て請へるにより、軼事篇を意地と改む。」と記されている。
「興津弥五右衛門の遺書」が「意地」収載に当たって、かなり大幅に書き改められた経緯は唐木順三の追求によってあきらかである。また「阿部一族」の初出が「意地」収載に当たって改変された経緯については、大野健二・尾形仂の研究があり、この間には略本興純本の発見のことが指摘されている。
初出において、「殉死を願つて許された十八人」の名称は、若干「意地」とは違う。そして「意地」における最も大きな改変は、五月六日に十八人全員が「潔く殉死して、高麗門外の山中にある霊屋の側に葬られた。」となっており、津崎五郎長季についてのみ詳細が記述されていたものが、それぞれの詳細な記述となり、殉死の日付についてもまちまちの記述となったことである。
さて「興津弥五右衛門の遺書」および「阿部一族」は二作共に殉死の問題を扱っている。鷗外がこれらの稿を起こした動機が、乃木希典の殉死にあることは明かな事実として指摘されている。当時の日記には左のごとく記されている。
九月十三日。(前略)翌日午前二時青山を出でて帰る。途上乃木希典夫妻の死を説くものあり。予半信半疑す。
九月十五日。(前略)午後乃木の納棺式に涖む。(以下略)
九月十八日。(前略)午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を艸して中央公論に寄す。
鷗外の日記は極めて簡朴であるが、右によってわかるとおり、「興津弥五右衛門の遺書」のまがうかたないモチーフを、日記は語っている。これは鷗外研究家がいい合わせたように引き合いに出すところである。さて、このようにして成った「興津弥五右衛門の遺書」は、骨格の見える透明な作品である。あたかも「水を盛れる玻璃盤」のごとき清澄な作品である。そこには殉死に対する肯定的な讃歌がある。ある鷗外論者の言をかりれば「詩」であり、「思想的・心理的問題性を仮りに一時抑へつけた詩的実験」であった。規矩と拘束とにみちみちた徳川封建社会にあって、抑圧されていた人間性が、封建社会の要求する生活行動の方式にそのまま合致する調和的な人間心理が、この作品では何らの矛盾なく眺められている。時代から与えられた条件の中で、その儘生きるモラルと、それに殉ずる悲壮な美が描かれている。殉死の讃歌はそこに生まれた。しかし、そのような人間性抑圧の上に築き上げられた静謐な調和と反抗のない人生観が、すでに封建社会を脱してまがりなりにもせよ近代の中に片足をつっ込んだ鷗外の生きる「現代」にあって、何等心の中に波紋を投ぜぬ筈はない。封建時代に生きる愚直なまでに見える殉死の肯定をそのままフォーカスに映し出した「興津弥五右衛門の遺書」に対し、鷗外は「阿部一族」においては、殉死という一つの行動が一族の滅亡にまで発展する極端な場合を取りあげた。これは殉死といっても常態ではなく、一変形である。鷗外はこの殉死の一変形をテーマとして「阿部一族」の中において殉死そのものに対するヒューマニスティックな心理的批判を加えたのである。これは「興津弥五右衛門の遺書」における人間観が近代的な整理を経過したことを示している。
西欧留学以来、鷗外にとって深く相信ずる関係にあった乃木希典の殉死は、近代社会においては極めて注目すべき歴史的事象であり、社会的なセンセイションを起こすものであった。漱石は作品の中にこの体験を持ち込みはしなかったが、講演の中で乃木夫妻の殉死を是認し、至誠から出た成功として説いた。鷗外は乃木希典について殊更に語りはしなかったが、まず乃木の殉死後、数日を出でずして「興津弥五右衛門の遺書」を書き、ついで「阿部一族」を書いた。この作品も乃木夫妻の殉死の年内に生まれた。鷗外の日記によれば大正元年十一月二十九日の脱稿である。芥川龍之介にいたっては「将軍」の中で寸言骨をさす一流の皮肉で、乃木の殉死を祭壇から引きずりおとした。もっともそれは大正十年にいたってのことである。ここには乃木希典の殉死に対する、三人の作家の三人三様の対応が見られて興味深い。
鷗外をして「興津弥五右衛門の遺書」を書かせ、また「阿部一族」を書かせた創作衝動が乃木夫妻の殉死であったとしても、これらの作品の血肉となったものは、それぞれ「興津家由緒書」などや、また「忠興公御以来御三代殉死之面々」といった史料であった。モチーフはこれらの史料の網の目の中に掬われた。鷗外がこうした史料に対する態度は極めて峻厳であり、客観的であり、自然尊重であり、生まれながらの傍観者の立場であった。鷗外のこうした態度は大正四年元旦「心の花」に寄せて、歴史小説を書き出した動機を記した「歴史其儘と歴史離れ」にあきらかである。この中で、鷗外は、小説は事実を自由に取捨して纏まりをつける習いであるが、自分はそういう手段を最近小説を書く場合に斥けていると説く。その動機は簡単である。史料を調べて見て、その中に窺われる「自然」尊重の念を発した。それを猥に変更するのが厭になった。これがその一つである。また現存の人が自家の主張をありの儘に書くのを見て、現在がありのままに書いてよいなら、過去も書いてよい筈だと思った。これがその二である。鷗外は右のごとく主張する。そして鷗外は自己の作品を観照的ならしめようとする努力を傾け、ディオニソス的な態度を排してアポロ的ならんことを期した。こうした態度を極限までおし進めていくところからは、がんじがらめな歴史の事実による束縛が生ずる。鷗外自身が言うごとく、歴史の自然を変更することを嫌って無意識のうちに歴史の束縛に苦しむ弊が生ずる。それは鷗外自身その中から脱出することを企図しなければならぬていのものであった。鷗外の心にきざした「歴史離れ」のしたさが「山椒大夫」のような伝説と空想の混血児の作品をも書かせた。たとえそれが、すぐれた鷗外鑑賞家である石川淳の評価するごとく「無慙にも駄作」であり、「恬然として腐臭を放つ」詩であったとしても。
我々にとっては、作中の阿部弥一右衛門や、興津弥五右衛門が実在の人物であったかどうか、実際にどのように殉死したかというような歴史的瑣末な事実の束縛は大きな関心ではない。これらは名作「雁」の末造やお玉と同じく鷗外作中の一人物である。鷗外の作中において、これらの人物がいかに生き生きと行動し、いかに歴史の進展を担う芸術的エスプリを発揮するかに、むしろ大きな関心は集中する。我々は鷗外の言う「皆当時ノ尺牘等ニ拠リテ筆ヲ行リーノ浮泛ノ字句ナキハ著者ノ敢テ自ラ保証スル所ナリ」というようなことばによって、これらの人物や史実が当時のリアルに近いものであったことを納得する。「阿部一族」や「興津弥五右衛門の遺書」を読むに当たって、我々は鷗外とは別に、自らこれらの作品のバックとなった史料を検索考証してみようとは思わない。史実に忠実であったという鷗外のことばにすら大した顧慮を持たない。作家鷗外自身について言っても、マニアックな史実の詮索や考証癖だけで作品はできはしない。鷗外の持っていた史実の断片資料をいくら整理してみたところで、それだけでは、「阿部一族」や「興津弥五右衛門の遺書」は生まれるものではない。断片的な史実の追求の間に発見された作者の歴史把握と、主体的な共感と、感動と、主張とが、これらの作品を生み出させたのである。もちろんそれらの感動は作者が筆を執ったとたんに消滅し切断されたのかも知れない。作品を生み出すものはモチーフだけではなく、キエチーフも必要である。鷗外が冷徹であり、時に冷酷の評を得たのは強靱なキエチーフのためであった。
鷗外は創作に当たって、作中の人間も事件も、すべて現象として雲烟過眼視する客観的距離を有していた。その距離の余裕と客観的凝視の眼とが、作品の中立性と共に完全性を与えた。作者自身は曇りのない鏡のように何等の色彩も先入主も持たないで、その前を通り過ぎるさまざまな物象をあるがままに映し出してみせる手法は、谷崎潤一郎のことばをまつまでもなく、日本文学の伝統が与えてきたものであった。そのようなところから、鷗外は、「空気の如くに視る」表現や「椋鳥主義」(ぼんやりと混沌とした味わいを愛する態度)を愛したのであり、虚しさの充実相である「空車」のごとき随筆作品を生んだのである。「空車」が「…斑たる先秦銅鼎のやうな蒼古の逸趣」を湛えているかどうかは別として、鷗外随筆中の白眉であることは異論のないところであろう。「空気の如くに視」たり、「空車」を強く意識する心が、鷗外に「興津弥五右衛門の遺書」から「寒山拾得」にいたる一連のいわゆる歴史小説を書かせ、また「澀江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」などの不朽の史伝を書かせたのであった。大正六年の「なかじきり」は鷗外の言を左のごとくに伝える。「歴史に於ては、初め手を下すことを予期せぬ境であつたのに、経歴と遭遇とが人の為めに伝記を作らしむるに至つた。そして其体裁をして荒涼なるジエネアロジツクの方向を取らしめたのは、或は彼ゾラにルゴン・マカアルの血統を追尋させた自然科学の余勢でもあらうか。」そしてさらに言う。「何故に現在の思量が伝記をしてジエネアロジックの方向を取らしめてゐるかは、未だ全く自ら明かにせざる所で、上に云つた自然科学の影響の如きは、少くも動機の全部では無さゝうである。」と。
マニア的な史実と系譜探求の瞳の奥にあるものが、鷗外自身冷徹な軍医であった自然科学者的なものの影響であるかどうか。鷗外自身にとっては混沌未分の状態であることを告白した右の文章は極めて意義深いものを持つ。鷗外は、恐らくは、「森鷗外」の著者高橋義孝が推測するごとく「世間に云ふ作家としての資格」に欠けるところがあったでもあろう。彼の血液の中に含まれたどうにも手の下しようのない実証主義的な精神が、芸術的仮構世界の独立した存在を許そうとしなかったとする見解がそれである。人生の大道を歩いて行く任意の人物をとり出して、それをバルザック風に描き、生命化することは鷗外には難しい作業であった。鷗外は作品と自己との間に設けられていなければならない絶縁地帯を、実証的な資質からする宿命として取り除きたかったのである。「百物語」や「鶏」のごとき作品の成功はそれであった。また史伝でも「澀江抽斎」のごとき鷗外自身に近似した人物は、不滅の人間像を刻まれたのであった。鷗外は自身の資質に起因する作家能力の欠陥を、歴史の事実という素材を導入することによって長所として甦生したのであった。
こうして生まれた鷗外のいわゆる歴史小説には、明白に観取される二つのタイプがある。すなわち歴史の衣裳を部厚くまとった「阿部一族」や「栗山大膳」には普遍的な歴史に対立する色濃い個性が描かれ、これに反して史料のおぼろな歴史の衣裳の淡い「椙原品」や「山椒大夫」や「安井夫人」には、歴史を包含する普遍的人間性が強調されている。おそらくこれは「知らず識らず歴史に縛られ」「此縛の下に喘ぎ苦」しみ「そしてこれを脱せよう」とする苦悶の表徴であろうか。「歴史学的処理によって刻み上げられた人間像の唇に一点の朱を点じたい」とする自然の帰結であったであろう。歴史的事実の桎梏に反撥する人間の姿である。
鷗外は乃木希典夫妻の殉死に刺激されて「興津弥五右衛門の遺書」を書き、殉死という行動形式に盛られた封建社会の枠内における没我の世界と心理を調和的に描き出した。しかし、鷗外の創作心理にも振幅がある。このような懐疑のない平静極まりない人間性の没却に対しては、反撥と批判が大きくその対極を形成するのは当然であった。中野好夫も云う。「一面にはあくまで殉死の倫理と、武士の意地に疑ふところなく亡んで行つた一族の精神に驚嘆すると共に、一面にはすでにむしろ形骸化した倫理的形式の恐るべき魔法的支配力に氷のやうな作者の批判的焦点が結ばれてゐることも、決して見逃すことは出来ないであらう」と。「阿部一族」の基調音はこうして設定された。もちろんそれを納れる史料は、乃木夫妻の殉死の時をはるかに遡る小倉時代に得た「忠興公御以来御三代殉死之面々」であった。登場人物は細川忠利の死に際し、主君の許を得て殉死した寺本八左衛門直次以下十八人、および許を得ずに追腹を切った阿部弥一右衛門通信である。忠利の許を得ずに殉死した阿部弥一右衛門をめぐって一族滅亡にいたる阿部一族の悲劇が胚胎した。
殉死とはけだし霊魂の不滅を信ずるところから起こる。尊族の死に当たって、卑属のものが自らの生を絶ってこれに従うのは、尊族の死後も生前の従属関係が連続し、生前と同様、冥府にまで従って奉公しようとする精神に基づく。「日本書紀」には垂仁天皇廿八年十二月、皇弟倭彦命を葬った条下における殉死の禁の記述によって見れば、殉死の風は早くから行なわれ、しかも本人の意向に関係なく、第三者の強制によって行なわれる弊が見えている。埴輪はこのような人間性抑圧を斥ける方策として採用された。殉死の禁はその後屡々行なわれているが、これは積年の習俗が容易に抜き難かったことを物語るものである。
「忠興公御以来御三代殉死之面々」をテクストとして「阿部一族」は十九人の家臣の殉死の相を綿々と語っている。決行の時日、殉死者の禄高・年齢も洩らされることはない。介錯者の名前もあげられている。我々はここで思う。殉死した家臣について、歴史の真実としては、千石取りの武士が千百石取りになっていようと、また十九人という人数が十八人であったとしても、また介錯者の名前が仮に史実と相違していたとしても、「阿部一族」という作品――それは歴史小説とよばれているのであるが――に盛られた歴史の史実的記述が、厳密な歴史科学上の詮鑿から見て、たとえ誤りに満ちていても、そのようなことは我々の関心外のことだということだ。我々は歴史小説に歴史の事実を求めるのではなく、小説を求めているのである。
芥川龍之介は「澄江堂雑記」の中で、作品の中において「昔」を取扱う態度と作品の中で「昔」が務める役割を述べている。「太古緬?の世」は、異常なテーマを犬死させず芸術的に最も力強く表現するに適している。不自然な障害は、こうして避けられる。しかしお伽噺なら「昔々」ですむが、小説ではほぼ時代の制限が出て来る。したがってその時代の社会状態も、自然の感じを満足させる程度において採り入れられる。歴史の扮装が必要となる。歴史小説はどんな意味においても「昔」の再現を目的としていない。したがって昔のことを小説に書いても、その昔に大した憧憬を持っていない。現代に生まれたことを有難く思っている。芥川は右のように主張する。芥川はこのように歴史小説の「昔」を考えているのであるが、鷗外は「興津弥五右衛門の遺書」以下いわゆる歴史小説と呼ばれる作品の中で、歴史小説の扮装である歴史的事実を、芥川以上にマニアックな実証的正確さで確認しようとする。それが鷗外の「歴史其儘」であり、「猥に変更」しない態度であった。
ところで、ここで顧みなければならないものに、グロルマン Adolf von Grolmann の歴史小説不信論がある。グロルマンは主張する。歴史小説は第一に作家自身の個人的要求や趣味による歴史的事実の歪曲、第二にあらゆる歴史的条件を完全に支配再現するだけの能力もなく、逆にまた登場人物のうちに自己の情熱を注ぎ込む程の力量もなく、政治的煽動的な性質の動機から歴史に取材する場合があるとする。そしてこれはいずれの場合においても芸術作品として純粋完全ではない。すなわち歴史の主張と文学表現のディレンマであるとする。このようなグロルマンの歴史小説不信論には、歴史的真実と芸術的真実とを同時に承認し架橋しようとする意図が見られる。このような歴史は、芥川の昔とは異なったものであることは明らかである。芥川は作品において、歴史の事実や時代環境に顧慮を払うことを主張したが、それらの必要は自然の感じを満足させる程度に止まっていた。それは作品の本質ではなかったのである。ところが鷗外のいわゆる歴史小説は、むしろ芥川の「昔」には安住し得なかった。鷗外は「興津弥五右衛門の遺書」でも、また「阿部一族」においても、その素材が歴史的事実であることによって作品自体を歴史小説に昇華しようとした。鷗外にももちろん作品構成にあたって「歴史離れ」の苦悶はある。しかし鷗外の手法を貫くものは、グロルマンの説くごとき不信の吐息を絶滅することであった。芥川における歴史の衣裳は「自然の感じを満足させる」程度であったのに対して、鷗外においては歴史の事実を克明に拾うのが「自然」を尊重することであった。鷗外のいわゆる歴史小説は、鷗外が慣用した思量のメカニズムによるならば、鷗外自身が恐れる「二つの床の間に寝る」ものであったとしても、歴史家から放肆を責められるものであるよりは、小説家から拘執を笑われるていのものであった。
我々は今まで幾度も鷗外の「歴史小説」ということばを用いて来た。それは必ずしも手放しの「歴史小説」ということばではなく、いわゆるということばを冠しての使用ではあったが。世上鷗外の歴史小説としては、「興津弥五右衛門の遺書」から「寒山拾得」にいたる作品系譜をあげ、あるいはこれに「澀江抽斎」以下「北条霞亭」にいたる史伝を加える。「澀江抽斎」の一作を以て「日本散文史上初めて現れた正統的な小説」としての評価を与える学者もある。その論拠は、小説とは本来歴史小説なのであるから、「澀江抽斎」は、かつてランケにあって一つの希望として述べられるに止まっていた歴史と文学との統一が完成した作品であり、したがってティピカルな歴史小説ということになるというにある。
他の鷗外論者によれば、それは「古今一流の大文章」「一点の非なき大文章」であり、「出来上つたものは史伝でも物語でもなく、抽斎といふ人物がいる世界像」であった。ところで、歴史小説ということばほど、俗流文学者を魅惑することばはなかった。彼等は歴史ということばの扮装にだまされたからである。史上の人物や事件を素材とするものは、そのまとまった表面的な歴史の衣裳の扮飾のゆえに、小説でないものまでも「歴史小説」のいかめしい称呼を享受しがちであった。しかし、そのような俗流歴史小説論は今や通用しない。かくのごとき皮相な歴史小説論は、本格的な小説が本来歴史小説である論旨の前に霧散した。また、鷗外・龍之介・藤村の系譜の上にきびしい批判の凝視を加え、高木卓・桜田常久など当時の新進作家に及んだ「歴史文学論」の著者の卓抜な業績も、歴史文学の正しい意義の定着にあずかって力あった。歴史小説は、ふつうには、皮肉にもうっかりすると瑣末な歴史の事実を外衣にまとうがゆえに、かえって真の歴史小説たり得ぬ矛盾を胚胎する。ヴィルヘルム=マィスターや青山半蔵の登場する作品に、作品の本質的な展開、性格の発展、魂のメタモルフォーゼの年代記、要するに真の「歴史」の描出を見出だし、逆に常識的には、最も厳正な意味での歴史小説の典型のように信じられている鷗外の作品の多くに非歴史的な小説をかぎ出した明敏な文学者も、かつては「澀江抽斎」を「歴史小説とは名付け難い」としながら、五、六年を出でずして「小説といふジャンルの本質的諸規定を剰すところなく満してゐるもの」として、本格的な歴史小説と規定する混乱を生じたのも、「歴史小説」というものの複雑な性格に起因するものと見るべきである。
作品「阿部一族」は、魂のメタモルフォーゼや発展の相の描出に歴史小説の本質を見出だす立場からするならば、重厚に装われた歴史的事実の衣裳は見る見る中に脱落して、本格的な歴史小説の地位から転落する。このような見地からするならば、「暗夜行路」などよりも「伸子」から「風知草」にいたる一連の作品の方が、はるかに歴史小説の本道に近いのである。
「阿部一族」は細川藩の殉死という一つの歴史的事件の横断面図を克明な史的記述と心理解剖によって描き出した作品であった。主君の許可を得ない殉死を行なうことによって、ついに一族滅亡にいたる阿部一族の悲劇的なカタストロフィーを惹起した原因をなす根本的な契機は幾つかある。封建社会のモラルである殉死に対処し、これを見る内面的な、そしてまた局外者の眼の厳しさである。小才覚ある官僚タイプの大目付役林外記の苛酷な措置である。悲劇の主人公阿部権兵衛の性格である。若い当主細川光尚の寛大を欠いた血気の情である。しかし「阿部一族」一篇を蔽う一族滅亡の悲劇の要因となり、この作品の暗鬱な基調をなすものは、殉死のモラルの厳しさであった。
「阿部一族」には殉死の二つのタイプが描かれている。すなわち十八人の家臣のノーマルな殉死と、阿部弥一右衛門のアブノーマルな殉死である。前者はいずれも主君の許可を得ているが、後者は許可を得ていない。後者はいわば犬死である。名聞を重んずる武士のモラルにあっては、犬死は最も排するところであった。すべてを左右する「殿様のお許」とは、生殺与奪の権を握る絶対者にまつわる封建的モラルの象徴であるが、一個の生を抹殺する殉死にあっても「殿様のお許」が要請されることは、他面無制限な殉死に限界を与えることになった。作中の竹内数馬が「畢竟どれ丈の御入懇になつた人が殉死すると云ふ、はつきりした境は無い。同じやうに勤めてゐた御近習の若侍の中に殉死の沙汰が無いので、自分もながらへてゐた。殉死して好い事なら、自分は誰よりも先にする。」と考えるのは、以上のことがらのステロ版である。殉死を行なう範囲は「殿様」の「格別の御懇意を蒙つたもの」である。上古以来しばしば殉死の禁が出されたのは本人の主体的な意志にかかわりない第三者の強制に基づく非人間性に対する抗議の意味が主であったが、戦国乱世を経た後の硬直した封建モラルにあって、殉死はまずその当事者の自律的、主体的意志が行動を律する第一のモメントであったことは否定できない。
そして次には、衆目の見る一つの客観的批判のモメントがあった。しかし往々にして、これが第一のモメントの領域に侵入し、その規準を左右した。限界のない殉死に限界を与えるものは、この第二のモメントであることが多く、しかも殉死の悲劇はここから醸成された。時には第二のモメントは、本来的なるべき第一のモメントの支柱ともなった。作中、内藤長十郎は「自分の発意で殉死しなくてはならぬと云ふ心持の傍、人が自分を殉死する筈のものだと思つてゐるに違ひないから、自分は殉死を余儀なくせられてゐると、人にすがつて死の方向に進んで行くやうな心持が、殆んど同じ強さに存在」するのを意識した。主君の許を得ずに追腹を切らざるを得なくなった阿部弥一右衛門の耳に入った噂は「阿部はお許の無いを幸に生きてゐると見える。お許は無うても追腹は切られぬ筈がない。阿部の腹の皮は人とは違ふと見える。瓢箪に油でも塗つて切れば好いに」という惨酷なものであった。
第三のモメントは主君の許可である。封建社会における絶対者の意志である。「殿様のお許」が武士の名聞を支え、一個の死を天晴れともし、また犬死ともした。その意味で主君の許可は殉死の限界を最終的に決定するものであった。しかし第二のモメントのマギーはここにも発揮される。殉死を志願する家臣達に対し、細川忠利は「病苦にも増したせつない思」をしながら「許す」ということばを与えなければならなかった。そしてその数は十八人に及んだのであった。それは忠利の主体的な意志の中に浸透してくる第二のモメントの圧力のさせる結果であった。殉死の限界はこのようにして、表面は封建社会の絶対者によって決定された。絶対者の意志は、徳川家康のごとく殉死を禁ずることもできた。しかし「阿部一族」に登場する絶対者は「大功」ある細川忠利という五十四万石の、平凡な大名である。絶対者の主体的意志は、生前にあっては世俗的な名聞に人間を領略された無責任な世人の批判という第二のモメントによって骨髄を侵され、またその死後は阿部弥一右衛門の行なったごとき第二のモメントのマギーに魅せられたやむを得ぬ犬死の行為によって凌辱されたのである。
「興津弥五右衛門の遺書」において殉死の讃歌を試みた鷗外は、「阿部一族」では殉死そのものに対する人間的、心理的批判を加えたことはすでに指摘した。前者における肯定的、調和的な詩は後者では懐疑的、批判的に心理の深淵を見つめる理智的な凝視に変わっている。
鷗外の描いた「阿部一族」には殉死の二つのタイプがあった。まず十八人の場合について。
第一に、彼等は「死を怖れる念は微塵も無」かった。主のために死ぬのは武士が名誉として見出だした絶対のモラルであった。武士道とは死ぬことと観念する人生観は、常に死を凝視し、死と対決することであった。もちろん武士のすべてが死を怖れなかったのではない。阿部家への討入に際し、命が惜しく屋敷の外をうろうろしていた畑十太夫のごとき武士もあった。しかし自ら志願し、殿の許を得た十八人の武士が命を惜しむように鷗外が描くはずはなかった。
第二に、彼等は忠利が「始終目を掛けて側近く使つてゐた」者共である。記載のあるものでは封禄千石から二人扶持六石にいたる。年齢は六十四歳から十七歳にいたる。
第三に、彼等は皆主君から殉死の許可を得た。正確にいうならば十七人は、死んだ忠利から許可を得、田中意徳は当主光尚から強引に許可を得たのである。田中は「当代に追腹を願つても許されぬので、六月十九日に小脇差を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。」(傍点は筆者)のである。忠利の死は三月十七日である。殉死の先頭は太田小十郎で、同日の三月十七日であった。殉死の行なわれたのは、時日の記載のあるものでは、四月が多く、四月十七日、二十六日(八名)、二十七日、二十九日となり、五月に入っては五月二日(二人)、七日となり、これで計十五名となる。記載のないのは井原十三郎および小林理右衛門の二人であるが、これは五月六日まで、ないしはその前後の殉死であろう。「扨五月六日になつたが、まだ殉死する人がぼつぼつある。」という文章がそれを語る。五月六日が一つの目安にされたのは、五月五日に中陰の四十九日が行なわれたためである。日附の書かれている十五名と、日附の分明でない二人を加え、これに六月十九日強引な追腹を切った田中を加えて鷗外記載の通りの十八名となる。そこで鷗外の記述には論理的に誤謬がある。
第一。五月六日に「まだ殉死する人がぼつぼつ」あり、六月十九日に追腹を切る者があっては「五月六日が来て、十八人のものが皆殉死した」ことには絶対にならない。
第二。「殿様がお隠れになつた当日から一昨日(四月二十六日=筆者註)までに殉死した家臣が十余人」とあるのは数字的に誤りで、はっきり十人に限定される。
第三。冷徹な鷗外は、田中意徳をめぐってもう一つの誤謬を加えている。田中に関する鷗外の記述を真とするならば、「先代」忠利の死後、殉死者の殿りをつとめ、「当代」光尚から強引な許可を得て追腹を切った田中のある限り、忠利に対し、「……前後して思ひ思ひに殉死の願をして許されたものが、長十郎を加えて十八人」であったり、忠利が「殉死を許した家臣の数が十八人」になったり、「忠利の許を得て殉死した十八人」の家臣が存在するはずはない。記述の一貫性を欠いたこのような支離滅裂は、「阿部一族」の文芸的感銘やテーマとは無関係である。しかし、おそらくは、史実に忠実であり、猥に変更を加えることを最も嫌い、極めて実証的記述を重んじた鷗外にとっては関心を呼ぶことがらであろう。しかし、とにかく十八人は主君に「殉死を願つて許された」のである。「当代」光尚が田中を許したのは問題がない。もちろん追腹を願出た田中に対し、光尚は許す意志はなかった。しかし「小脇差を腹に突き立ててから」出された願書の狂言まじりの真剣さに負けたのであった。鷗外はここに眠っているテーマを格別に掘り起こさなかった。知行と殉死の日付と介錯者の名前を記して淡々と突っ離す他の一連の殉死者と同様に扱って、数え違いの因をなしたのである。
鷗外の文章を訂正しよう。殉死を願い出た家臣の中から「十七人」を何故忠利は許したか。「命を惜しむもの」「殉死を苦痛とせぬもの」「深く信頼してゐた侍共」である十七人を、忠利は「子息光尚の保護のため」に残したかった。殉死というものが当時要請されているモラルであるとしても、忠利のヒューマニズムは「此人々を自分と一しよに死なせるのが残刻だとは十分感じてゐた。」のである。殉死に対する懐疑と自分の心理を、忠利はいかに整理したか。鷗外の描く忠利は彼等が恩知らず、卑怯者として遇されるのを怖れた。世間的な名聞の批判の声に優位を与えた。君主という絶対者を心の支柱として生きる彼らにとっては、そのような卑怯者・恩知らずの禄盗人が重く遇せられたとする世の批判にあって、君主の不明という結論が出、累を君主に及ぼした場合に耐えられぬであろうと気を廻す。いわば絶対者の冒涜をおそれ、世間的な批判の眼を恐れたのである。さらに忠利は、彼らが光尚の周囲にある少壮者共にとっては邪魔物であろうと考え、殉死を許すことが慈悲であるような慰籍の心持で自らを納得させる。これは明らかに殉死という厳粛な事実を、第二義的なものに考えている立場である。バセヴィ W.H.F.Basevi の「死者の埋葬」をまつまでもなく、原始人においては死者は死んでしまったのでなく生きつづけているのであり、いこい・移住・新しい生活であった。殉死は霊魂不滅を信ずるところから、絶対者に対する三途の川を越えての奉仕の意義があった。しかし鷗外が心理を解剖してみせた忠利にあっては、殉死が生の抹殺、邪魔物の掃除、世間的名聞の遵守として解釈されている。殉死はすでに本来の意義を失い、二義的なものに冒涜されているのである。
第四に、十八人の殉死には報謝と賠償の意味があった。「殿様」のお側につかえ、「格別の御懇意」を蒙った知遇に対し、これらの家臣には他の者を抜きんでた御恩報じが要請された。失錯を咎めることなく召使われる恩寵に対し、家臣はその知遇に報いなくてはならぬ。内藤長十郎が「その報謝と賠償との道は殉死の外無いと牢く信ずるやうになつた。」のはそのためであった。
第五に、彼等は身を殺して一家の繁栄を願った。「死」と対決する日常を送り、死を鴻毛の軽きに比さねばならぬ彼らは「殉死者の遺族が主家の優待を受けると云ふことを考へて、それで己は家族を安穏な地位に置いて、安んじて死ぬることは出来ると思つた」のである。それは確かに殉死者にとっての一つの魅力であり、彼らを死に吸引するモメントであった。
第六に、殉死という一世一代の死に方は、彼等の名聞マニアの心情にこの上なくマッチするものであった。死所を得ることを念願とする彼等のポーズはかくして喝采を博することができた。忠利の犬牽、二人扶持六石の切米取津崎五助が犬と共に殉死したその死にざまがそれである。彼は家老達の言う「そちは殿様のお犬牽ではないか。そちが志は殊勝で、殿様のお許が出たのは、此上も無い誉ぢや。もうそれで好い。どうぞ死ぬること丈は思ひ止まつて、御当主に御奉公してくれい」ということばをふり切って殉死した。彼は鷗外によって記載されている者の中では最も知行の少い下賎の身分である。殉死の座に坐った時、彼は何と言ったか。「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽は只今参りますぞ」――彼は高声にこう言い放ち、一声快げに笑って腹を切った。これはポーズの高笑いである。彼の心は名聞の喝采に支えられ、また鷹匠衆への優越感に支えられている。忠利の寵愛した二羽の鷹は、忠利の荼毘の当日、荼毘所の井戸に入って死んだ。世人はそれが鷹が殉死したと判断して疑わなかった。だが鷹匠衆の殉死のことは聞かぬ。あるいは願って許されなかったのかも知れぬ。しかるに五助は犬牽きでありながら許を得て犬と共に殉死する。犬牽きの鷹匠衆に対する優越感や思うべしである。五助は名聞慾の満足と優越感の重量を刀尖にこめ腹十文字にかき切ったのであった。
第七に、彼等は殉死についての自律的、主体的な意志の対極に、重苦しい他律的、客観的な批判の眼を意識する。それは第六にあげた人間を領略する名聞の圧力と相通うものである。殉死に「いつどうして極まつたともなく」自然に「掟」を作ったのも、この冷酷無慙な局外者の凝視であった。さきにも引用したが内藤長十郎の心に萌した主体的な殉死の発意を蝕んでゆくものは「若し自分が殉死せずにゐたら、恐ろしい屈辱を受けるに違ひないと心配」する「殉死を余儀なくせられ」る外部的な精神圧力であり、このモメントの魔力が、純粋な主体的意志を歪曲し「人にすがつて死の方向へ進んで行くやうな心持」を生ぜしめたのである。この恐るべきモメントが、殉死にあってその限界に最終決定権を持つ主君のお許という封建社会の絶対者の意志をも左右することはすでに述べた。このような冷酷無慙な局外者の凝視に逆に便乗することが、第六の場合にあげた五助のようなポーズの高笑いとなる。主体的な意志を喪失した哀れな死にスプリング・ボードを与えるものは、冷酷無慙な局外者の凝視を喝采のどよめきとして聞きほれる名聞の満足感であった。自分がスポット・ライトの中に坐していることを意識する卑小な得意感であった。それは他律的なものの中に彷徨する憐むべき主体喪失の処世観であるべきはずであった。しかし五助の心理を鷗外はそこまで掘り下げては描かなかった。鷗外は芥川とは違うのである。「お犬牽は只今参りますぞ」という俗臭芬々たることばは「一声快よげ」な笑の中に看過された。明治の末年に殉死した「将軍」は、最後の記念撮影をすることによって、芥川の皮肉な嘲笑を受けなければならなかったのであるが。
「阿部一族」に描かれた殉死の第二のタイプについて。これは主君の許可を得ない阿部弥一右衛門の追腹である。これは殉死の変形である。弥一右衛門は「家中でも殉死する筈のやうに思ひ」、当人もまた「殉死したいと云つて願つた。」のである。すなわち当人の主体的意志も、局外者の冷酷無慙な批判もまた共に弥一右衛門を殉死の限界内に追いやった。しかし主君忠利の許がなかった。阿部弥一右衛門の禄高は千石を越える。身分からいえば、許を得て殉死した十八名の家臣中に記載のある者では筆頭である。彼の挙措が注目されるのは当然であろう。忠利は「光尚に奉公してくれい」と言って弥一右衛門の願望を最後まで聞き入れなかった。十七人(鷗外の文では十八人)の場合に「慈悲」であるとまで思いめぐらして殉死を許した忠利は、弥一右衛門の場合には、彼の生涯唯一の願を拒んだ場合におちいる願出者の苦境を顧慮することなく拒否し通した。そのような結果を生んだのは弥一右衛門の「肯綮に中つてゐて、間然すべき所が無い。」精励ぶりと「意地で勤める」手ぬかりの無さと、それに反撥してみなければすまないような「捕捉する程の拠りどころが無い」忠利の癖であった。鷗外は忠利の拒否をこの癖に根拠づけた。病苦の中にあってつくづく自分の死と十七人の侍の死について考える余裕を持った忠利の理性は、この度は鈍く曇っている。そして忠利は死んだ。
弥一右衛門は腹を切らなかった。主君の許を得ずに腹を切るのは犬死である。弥一右衛門は自己の意志の主体性を堅持した。局外者の冷酷無慙な凝視と無責任な批判に堪え抜こうとした。しかし観念の所産であるこのような内面的、主体的な意志は、冷酷無慙な現実の批判の声の前に脆くも崩壊した。「阿部の腹の皮は人とは違ふと見える。瓢箪に油でも塗つて切れば好いに」という噂が、弥一右衛門を犬死に追いやったのである。「げに言へば言はれたものかな、好いわ。そんなら此腹の皮を瓢箪に油を塗つて切つて見せう。」という響に応ずる起ち上がりがそれである。ここにおいて阿部弥一右衛門は人間の主体的意志の純粋さを歪曲され、主体性を放棄した。彼は冷酷無慙な局外者の無責任な凝視と批判のデーモンに魅せられたのである。彼も名聞マニア以外の何者でもなかったことを暴露した。彼は操り人形のように魂を失って、他律的なものの操りの糸に心魂のからくりをあけ渡した。
あまつさえ、彼は封建社会の絶対者の意志を冒涜した。彼は犬死を選ぶことによって主君の命に背いたのである。ここに封建武士社会のモラルの秘密がある。妙なことである。彼は犬死によって命を冒したが、結果においては殉死者の列に加えられた。さらに奇妙なことではないか。家中の者は主命が阿部の殉死を禁じていることを承知の上、無責任にも彼に犬死を強いたのである。「お許は無うても追腹は切られぬ筈が無い」という痛烈な陰口は明かに絶対者の意志を凌辱している。「弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるさうな。親子兄弟相変らず揃うてお勤めなさる、めでたい事ぢや」という傍輩の言は明かに絶対者の意志を蹂躙することを慫慂した皮肉な嫉妬である。封建社会における主君の命とは、死と対決する場合、このような陥穽を持った絶対主義であった。否、それは死に対しなくても、恐らくはそうであったであろう。前に述べたごとく、絶対者の絶対は、このように冷酷無慙な第三者的批判、時には俗臭芬々たる凝視によってさえ歪曲され冒涜されるていのものであった。絶対者は絶対的ではなかったのである。
我々はすでに一番身分の軽い津崎五助が忠利の許を得て殉死しようとした際、家老達の言ったことばを引用した。「殿様のお許が出たのは、此上も無い誉ぢや。もうそれで好い。どうぞ死ぬること丈は思ひ止まつて……」とは何たることばであろう。これは軍閥が利用した天皇制のカリカチュアである。絶対者の絶対を愚弄したことばである。しかし軍閥が利用した天皇制のカリカチュアより僅かに優っている点が一つある。それはほかでもない、絶対を蹂躙することによって死に吸引されてゆく人間性を救出しようとしていることであった。鷗外の眼は、「興津弥五右衛門の遺書」よりはるかに冴えて批判的である。それが「阿部一族」の眼目であり、この作品のレーゾン・デートルでさえある。
阿部弥一右衛門の追腹は、忠利の意志を無視して犬死であったとはいえ、犬死としては扱われず、それだけでは阿部一族滅亡の悲劇を生むことはなかった。しかし忠利の一周忌に当たりその子阿部権兵衛が先主の焼香をした際に、髻を切って位牌の前に供え、当主光尚の許を得ず武士を捨てることによって悲劇は胚胎した。権兵衛に武士を捨てさせたものは、許を得て殉死した十八人と、許を得ない追腹に対する苛酷な差別待遇であり、そのことに起因する家中の阿部家侮蔑の念であった。権兵衛が負けたのは、またしても意地と冷酷無慙な局外者の凝視であった。阿部権兵衛は縛首となった。「先代の御位牌に対して不敬な事を敢てした、上を恐れぬ所行」としての処置が取られたのである。勝手きわまる封建社会のモラル、絶対者の威信は外形的にここに回復されたのである。権兵衛は哀れなその犠牲者であった。阿部一族の立て寵もり、阿部一族討滅の悲劇的フィナーレは、かくして阿部一族の絶望の死をもたらした。
十八人の殉死者は「皆安堵して死に就く」気持であったのに対し、阿部一族の絶望の死と同様「苦痛を逃れるために死を急ぐもの」に阿部一族の討手に向かった竹内数馬があった。鷗外は執拗にまたしてもここに冷酷無慙な局外者の凝視に翻弄される一つの生命を描いた。数馬をして「苦痛を逃れるため」の死に追いやった直接のモメントは、「数馬は御先代が出格の御取立をなされたものぢや。御恩報じにあれをお遣りなされい」ということばであった。これを聞いた数馬は「好いわ。討死するまでの事ぢや。」と即座に死の決意を堅めた。数馬の心中で解析されることばは「自分は殉死する筈であつたのに、殉死しなかつたから、命掛の場所に遺ると云ふのである。」限界の無い殉死の限界線上に彷徨する魂に対して、冷酷無慙な局外者の無責任な凝視は、拭うべからざる汚点を印し、死の深淵に吸引してゆく。「興津弥五右衛門の遺書」で殉死への素朴な讃歌をうたった鷗外は、「阿部一族」の中では、執拗なまでにこのような冷酷無慙な局外者の凝視に耐えられぬ魂の韻律を歌っている。前作における殉死の頌歌は一転して、人間性を汚辱する他律的なデーモンに翻弄される生の挽歌となる。センセーショナルな事件であった乃木希典の殉死の感銘から、ただちに「興津弥五右衛門の遺書」を草した鷗外の、殉死に対する批判の眼の成長がそこに窺われる。その意味で「興津弥五右衛門の遺書」から「阿部一族」にいたる空白には鷗外自身の魂のメタモルフォーゼがある。そこに我々は作家森鷗外の歴史を読み取る。作品「阿部一族」は殉死という一つのアクトを切断の截線として、封建社会における人間性が、冷酷無慙な局外者の凝視によって、いかにむざむざと心魂のからくりをあけ渡さざるを得なかったかの、心象風景の横断面を露出した作品であった。絶対ならぬ「絶対」や、名聞に歪曲され、心理的奴隷となって破滅してゆく人間性の慟哭を描いていた。そのためには、忠利から許を得た殉死の家臣の数が、十七人でも十八人でも大した影響はなかったのである。六月に殉死する者がありながら、五月六日までに「十八人のものが皆殉死」しても大した影響はなかったのである。
さらに言うならば、第四の論理的矛盾、阿部弥一右衛門の身分が「千百石余」でありながら、数頁の記載を出でずして「千五百石の知行」になっても大した影響はなかったのである。第五の論理的矛盾、すでに一年有余の前に死去している「忠利」が、光尚のかわりに、冥府から顔を出して阿部一族の討手に選ばれた竹内数馬に話しかけても大した影響はなかったのである。(註) 第六の論理的矛盾、竹内数馬の年齢、寛永十五年に十六歳ならば寛永十九年には二十一歳ではなく二十歳が正しいわけであるが、そのようなことは大した影響のないことである。第七の論理的矛盾、光尚が「今年十七歳」というのは寛永十八年であり、また「二十四歳の」とあるのは十九年であるから年号と年齢が合わぬ。また「今年十七歳」というのは、事実に相違し「今年二十三歳」とすべきである。さすれば「二十四歳の」はその儘で正しい。だがそのようなことは大した影響のないことである。歴史小説とはそのようなものである。「阿部一族」のそのような論理的矛盾に基づく瑕瑾は、冷徹無比で史料に対しては極めて峻厳に「歴史其儘」を重んじ「猥に変更」することを嫌い「一ノ浮泛ノ字句」なきを期する鷗外森林太郎のみが意に介するところであったであろう。 ─了─
註 「中央公論」発表の原文には「此時の数馬の様子を忠利が聞いて、竹内の屋敷へ使を遣つて、『怪我をせぬやうに、首尾好くいたして参れ』と云はせた。」とある。忠利は光尚の誤記である。「意地」や改造社版「現代日本文学全集」の「森鷗外集」は誤記のまま採録されている。鷗外全集、岩波文庫版等は光尚に直っている。年齢や殉死者の数、時日等の矛盾はどのテキストでも放置されている。なお文中松野右京、松野左京という同一人の誤記らしい人物も出てくる。