「細雪」の世界

 谷崎潤一郎が太平洋戦争を中に挾んで足掛け七年の歳月を費して完成したという「細雪ささめゆき」について、下巻が去年の暮れに上梓じようしされるに及んで、ぼつぼつその批評があちらこちらに散見されるようになった。

 今までのところ、まとまった批評としては、僕の眼に触れた限りでは折口信夫おりくちしのぶの「『細雪』の女」(「人間」新年号)が現われているきりだが、散見する批評を綜合すると、大体次の二つに分れるようである。これは辰野ゆたかの「伝統文学の再現」(「朝日新聞」一月三日号)からの孫引きであるが、長谷川如是閑にょぜかんはこういっているという。「貴族文学に対する堂々たるブルジョア文学であり、平安朝時代に源氏物語がのこった如く『細雪』はブルジョア時代の一つのモニュメントとして残るべきものである」又、折口信夫は前記の一文で、「『細雪』を見ると、三人の若い女性が、相依る力を以て、希望を世間に寄せてゐる。何をねがふと言ふよりもまづ、明るい明日を――

光りある今日をさながら継ぐ明日を、期待する偏向を示してゐる。戦争前の日本社会中層のひとしく抱いて居た希望である」そういって、今度の戦争で崩壊し去ってしまったかつての「最も健康な階級」であった中流社会の持っていた「日本の希望」を、[最も花やかにして、しかもろさを深く包藏する、若い婦人のあらゆる姿態によつて」現わそうとしたものであるといっている。けだし、いま挙げた如是閑の言葉と一致するものである。即ち、二つのうち一つは、これら二人の言葉が代表するこの種類の礼讃らいさん的批評である。

 て、も一つは、どちらかというと否定的批評である。河盛好藏、中野好夫、三好達治、吉村正一郎の「関西の文学者」を語る座談会(「新文学」二月号)で、吉村正一郎が「つまり織田(作之助)はああいう大阪の最低の階級、庶民階級の生活を描いているわけだが、大阪人の持つ一種の生活力というようなものを描いているでしょう。谷崎さんの『細雪』になると、織田が描いていたものよりも、もっと上流の大阪人の生活を描いているのだけれども、そういう大阪人にもやはり、低い庶民階級の持っている生活力に共通した生活力が僕はあると思うのだが、それは出ていないのじゃないか。それが谷崎さんに捉えられているとは思えない。それを捉えなくては本当の大阪人というものは描けないと思う」といい、河盛好藏が「僕もそう思う」と合槌を打っている。のみならず、吉村正一郎はなおこうもいっている。「生島(遼一)君なんかその代表者だね。大阪精神のティピカル。だから、彼なんかが細雪を読むと、船場の生活を内部から知っているわけだから、谷崎氏の書く船場の生活というものに反撥を感ずる。もっと批評的に書かなくては、ということになる」つまり、も一つはこの種類の批評だ。

 だが、僕が考えるのに、今日氾濫はんらんしている以上二種類に分類される批評は、共に「細雪」の一面に触れてはいるものの、いずれも決してその眞髄を把握したものではない。僕は端的にいう。「細雪」は谷崎潤一郎の一種の心境小説である。「細雪」の根柢的なものは、じつにここにある。なるほど、表面、わば市民時代――

庶民時代ではない市民時代だった太平洋戦争前の、崩壊寸前のその代表的市民の風俗絵巻が、一種の挽歌的切なさをひそめて絢爛けんらんと展開している。從って、もすると読者の多くはこの表面的なもののみにこころを奪われ勝ちだが、しかし、そこに展開している風俗絵巻は、作者自身の執筆当時の心境を基盤にした、風流、趣味、好みなどといったものにしゅうして、創造乃至ないし選択摘出されたもので、必ずしも時代粧そのものをそのまま写したものではない。それゆえ、茲に明治、大正、昭和と、敗戦によって終止符を打たれるまで、一応華やかに続いていた市民時代の謂わば代表的存在として大阪船場の旧家出身の四人の姉妹を取上げ、その五年間の表面何気ない生活を描き、一見風俗小説然として読者の前にうり出しているものの、内実は、作者自身の当時の心境を吐露するのに、そういう船場の旧家出身の一族を道具につかうのが一ばん恰好なのでったまでで、第一の目的が決してその風俗描写にあったわけではない。その意味において、この長篇に船場の生活が充分描かれていないといったところで、それは当らぬのである。

 一方、この長篇は「ブルジョア時代の一つのモニュメント」に、或いは結果においてなっているかも知れぬが、既に述べて來たところを見ても分るように、作者自身は当初そんな意味での野心はいささかも持ち合せていなかったことは事実だ。偶々たまたま作者自身もまた謂わゆる市民時代のその最も代表的な市民感情の持ちぬしだったためと、尤もそれゆえ前述のような題材を選ぶ結果になっているが、それから執筆当時(昭和十七年─

廿三年)、並びに主材の背景になっている時代(昭和十一年─十六年)の時代環境が、いまから顧みると、謂わば市民時代の終焉時しゅうえんじといってもいい異常時だっただけに、そこにおのずと挽歌的な切実な哀調が忍び込み、両者があいって今日そんな風な印象をもたらしているに過ぎぬ。そして、そういう大袈裟ないい方をするには、この長篇が稍々やや趣味的である上に即物的で、すこし象徴味が不足しているように看取される。のみならず、以上の讃辞には、いまなお敗戦後の混乱を脱し切れぬ今日の時代に基づく感傷が、多分にまぎれ込んでいるような気がする。つまり、「細雪」が、明治、大正、昭和の市民時代の「源氏物語」として残るかどうかは、ただ歳月だけが解決する問題で、軽々にせっかちに口にのぼすべきことではないと思う。

 しからば、「細雪」は、なぜ心境小説であるか。この点から本論に這入はいりたいと思う。そして、先ずその具体的な例から挙げて行こう。

 もともと美食癖のある作者は、「細雪」においても、ところどころにその片鱗を発揮しているが、それがいずれも作者好みになっている。例えば、上巻に妙子(蒔岡家の四女)が神戸で開いた制作人形の個展が済んで、幸子(さちこ=次女、貞之助の妻)、雪子(三女)、それから悦子(幸子の娘)が、妙子のおごりで南京町の「表の店で牛豚肉の切売もしてゐる廣東料理の一膳めし屋」に晩めしを喰べに行くところがある。が、そこでかの女たちが喰べている一品料理はどれもつうめいたもので、船場育ちの若い女性が自然発生的に註文して喰べているものだという風にはどうしても受取れない。即ち、作者自身の好みが直接出ているのである。又、中巻に、幸子が娘の悦子に東京見物させるため上京して築地の旅館に投宿し、没落して東京住まいしている本家の鶴子(蒔岡家の長女)と落合い、大黒屋という河岸通りの古風な江戸前の鰻屋に出掛けて、昼めしを喰べているところがある。作者は、幸子が子供の時分蒔岡家まきおかけが華やかなりし頃父に連れられて上京した時、連れて來られたことがあるとして、謂わばその懐旧の情からそこに行かせている。ところが、読者には、東京生れの作者が関西に惚れ込んで、いまや関西を第二の故郷と決め込んでいるものの、なお且つ忘れ捨てにできぬ昔の東京に対する郷愁を、幸子をりて吐露しているようにしか思われぬのである。東京人が大阪の鰻を好かぬように、大阪人も亦東京の鰻を好まず、從って、ましてや船場生れの女性が積極的に江戸前の鰻屋に出掛けるなどという必然性は乏しいからである。そして、このことは、同じ中巻の神戸の生田前いくたまえの腰掛け鮨屋を描いたところを見ると、いっそう明瞭になる。僕は神戸出身なので、作者がこの店を贔屓ひいきにしていたということを仄聞そくぶんしている。そのせいか、一ばん筆を尽して描かれているが、作者も説明しているように関西化した握り鮨である。で、船場生れの女性が贔屓にしたところで別に不思議はないものの、僕などには、雀ずしだとかし鮨を愛好してこそ船場生れの女性らしい気がする。そして、この鮨屋に出入りする者としては、作者のように関西人化した東京人か、それとも東京かぶれした関西人こそふさわしいように思われる。

 次に、芝居である。下巻の結末近くに、「細雪」のヒロインともいうべき雪子が三十を幾つか越してっと婚約が整うその前に、帝國ホテルで見合いを済ませた明くる日、雪子と雪子に附添って来た幸子、妙子の三姉妹が、相手の華族の庶子の御牧という男や、仲人に立った美容師の井谷という亜米利加アメリカ帰りの女などと共に一緒に歌舞伎座へ観劇に行くところがある。そのちょっと前に幸子たちはタキシーを飛ばして、一ばん上の姉の鶴子に逢いに行くと、鶴子は姉妹中自分だけその観劇に誘われなかったことを哀しみ、いい歳をしながら思わず涙をこぼす。そんな風に、船場生れの四人の姉妹は揃って生れつき芝居好きで、作中にも屡々しばしば観劇に出掛ける場面が出てくる。ところが、その芝居がすべて菊五郎の芝居に限られている。一体に大阪生れの芝居好きは大阪歌舞伎好きで、東京歌舞伎に対してはちょっとした好奇心こそ持ってれ深い愛着は覚えていない。このことは潤一郎も充分承知していて、十五、六年昔に発表した「私の見た大阪及び大阪人」という一文で既に指摘し、同時に、大阪人のようにどうしても鴈治郎がんじろう好きになれぬ哀しさ(?)を述べている。そして、東京の歌舞伎俳優のうち、わけても菊五郎の藝が、その舞踊を除いて、最も大阪人に親しまれにくいものであることを挙げている。しかるに、いまいったように、「細雪」の観劇の場は決まって菊五郎である。作者は意識してそれをっているのだ。

 以上はほんの一例である。そして、これらからも窺われるように、「細雪」の根柢になっているものは、第一に、徹頭徹尾一応洗煉された東京人の趣味である。即ち、東京は、謂わゆる下町の江戸ツ子が既に滅び去っていまや地方人の都会になってしまっている。その結果、伝統的な生活様式もなくなり、これに関聯して、都会人的な洗煉された趣味も見出されなくなっている。これに反して、大阪においては、すくなくとも戦前までは、つまり「細雪」の背景になっている時代までは、今年六十四歳になる潤一郎が青少年時代に東京で経験したと同じ下町式な伝統的な生活様式や、その面影がまだ色濃く残っていた。そして、商人の都会であるだけに、何よりもそれが生きていた。東京の下町ツ子の潤一郎が大正十二年の関東大震災を契機にして関西に移住し、次第に関西の土地に愛着を覚えて居着くようになったのは、取りも直さず、じつにこれが大きな原因になっている。同時に、今まで回想の世界として愛着していたものを現実に見出すや、現在の生活をそれに密着させて行くことに、即ち、回想の世界だったものの中に再び生きて行くことに、生き甲斐と大きな喜びを発見するに至った。そして、ここから一種の擬古的生活が始まった。といって、潤一郎は関西人ではない。生粋きっすいの東京の下町ツ子である。のみならず、自我を持った近代人である。以上の理由で、第二の故郷として京阪の地に激しい愛着を持っているとはいえ、「けだし私はいつ迄たつても東京人たる本來の気質を失はないであらう」(前記「私の見た大阪及び大阪人」)そういっている潤一郎である。伝統性を愛する擬古的生活とはいえ、その伝統性は飽くまで東京の下町ツ子のそれである。從って、「細雪」はちょっと見は伝統の上に立った大阪人の擬古的生活が描かれているように見えるが、実際は、下町育ちの東京人の、つまり東京生れの謂わば代表的市民の、単に大阪の風俗をりての擬古的生活が写されているのである。根柢になっているのは、徹頭徹尾一応洗煉された東京人の趣味である。

 論旨を一歩進めよう。僕は初めに「細雪」の何よりの特色は、作者たる潤一郎の一種の心境小説になっていることだといった。潤一郎はもともと唯美派でエピキュリアンである。若い時代はそれが異常な官能追求に向っていたが、関西に腰を据えるようになり、そしてやがて歳を取つて来ると、それが一種の風流趣味の方向を辿るようになった。その最大の原因になったものは、いまいった回想の世界に現在の生活を再現させるといった関西に居着いてからの生活である。つまり擬古的生活だが、この擬古的生活を一層エンファサイズしたものは、「源氏物語」の現代訳を試みているのを見ても分るように、王朝時代の風流生活に対する憧れである。この王朝時代の文学への愛着は又若い時代からあり、それは既に若い時代にこの時代に取材した作品を幾つか発表しているのを見ても明らかである。もともとは矢張り唯美派的傾向から来ていると思うが、潤一郎が関西に移住し、王朝文学に描かれている自然や風物乃至は旧跡をおのずとしじゅう眼にするようになるに及び、この王朝時代の風流生活に対する憧れもいっそう熾烈しれつになって来た。伝統的な生活様式の再現とこの風流生活への憧れ、これらの両者がオヴァ・ラップして、潤一郎をして擬古的生活におもむかせたわけであるが、それが歳を取るに從って益々激しくなって来た。即ち、擬古的生活を現実化したくなって来た。つまり、こういう心境が「細雪」を書かせた最大の動機であり、一方、「細雪」の中に終始一貫して流れているものも、じつにこの心境なのである。そして、そのしんになっているものは、既にいった一応洗煉された東京人の趣味であり気質である。

 次に、この論旨を敷衍ふえんしてみよう。「細雪」の軸になっているのは、大阪船場の旧家蒔岡家から分家して阪神間にんでいる、次女幸子と、その養子婿むこの貞之助である。そして、この夫婦を中心にして、縁遠い蒔岡家の三女の雪子の五回の見合い、それから雪子のためにこれ亦縁遠くなっている四女の妙子の三人の男に対する恋愛沙汰が、五年にわたって描かれているのがこの長篇の荒筋である。ところで、作者が主観を託しているのは、この長篇の軸になっている幸子夫婦である。即ち、幸子夫婦を藉りて、伝統的な生活様式、つまり因襲に根差した一定のしきたりや、ゆいところに手が届くような繊細な都会人の義理人情を発揮させている。なるほど、しきたりには大阪の風俗を用いているものの、ひと皮けば、いまは滅び失せている昔の東京下町のそれに対する作者の深い愛惜の情が、色濃く底流していることは前に述べた通りである。そして、茲に描かれている定式を重んじる繊細な義理人情は、浄瑠璃じょうるり風なエゴイスティックな大阪人のそれでなく、飽くまで旧東京人の物分りのいい義理人情である。即ち、大阪の旧家の風俗の衣を着せて、旧東京人の人情の機微を穿うがっているのである。一方、幸子夫婦やその妹の雪子や妙子に身に付けさせている趣味も、取りも直さず作者自身の趣味である。例えば、地唄とか、山村流の舞とかいったものは、作者がさいきん随筆にものしている「雪」(「新潮」昭和廿三年十月号)とか「月と狂言師」(「中央公論」一月號)などを見ても分るように、作者自身の昔を懐しむ擬古的生活に胚胎はいたいしている趣味だが、なかんずく妙子に、それから幸子などにも身に付けさせている。

「細雪」での圧巻は、上巻の幸子一家の京都における観櫻の場面、中巻の妙子が瀕死の目に遭う阪神間の山津波のところ、それから下巻の雪子が余儀なく見合いに出掛ける大垣在での螢狩りの情景である。このうち、観櫻と螢狩りは、作者自身の王朝時代の風流生活に対する憧れから、嘗て実際の生活において殆どこの通り実行したことがあり、それに基づいてこういう場面を思いつき、作中に取入たものに違いないのである。從って、これら観櫻や螢狩りは勿論、前記の地唄や山村流の舞にしろ、厳密にいうと、作中人物が船場生れであろうとなかろうと、それには関係せず、いまいった作者の擬古的生活における趣味を押しつけているに過ぎぬのである。この点、作者は別にリアリスティックに船場の女性を写実しようとは初めから思っていないのである。作者自身の執筆当時の擬古的生活の真骨頂さえ、つまり、そういう心境を、作品の中に展開できて居ればそれで作者は満足なのだ。それゆえ、その意味では、人物は飽くまで道具なのだ。これを見ても分るように、又既に屡々触れたように、船場生れの人間らしく書けているとか書けていないとかいうことは二の次で、それを以てこの長篇を律しようとする者があったら、この長篇の場合、初めにもいったように大きな間違いである。又、作者としても、それを云々されたところでたいした痛痒つうようも感じないであろう。そのことは、上巻の観櫻の直ぐ後に、幸子夫婦、即ち、貞之助と幸子とが、古今集風の短歌を作り合っているところを見てもそういい切れると思う。潤一郎は「どうも萬葉は好かないな。どうしても好かないな」(「文学界」三月号所載「細雪をめぐって」の座談会)といって、萬葉集よりも古今集の好きなことを告白している。これを以てしても、いかにかれが王朝文学好きであるかということが分る。が、一方、このように王朝時代の風流生活を追慕しているかれは、余技として古今集風の短歌を作って居り、さいきん上梓じょうししたものに「都わすれの記」一巻の歌集がある。三好達治はこの歌集を「古風な月なみ、紋切型、空疎、誇張、陳腐――それこそ明治の改革者たちが精根をつくして芟除さんじよにつとめた悪草雑草ではなかつたのか」(「新文学」昭和廿三年十一月号所載「『都わすれの記』について」)と酷評し、「全くアナクロニスムだ」と結論しているが、兎に角、結果における月なみや陳腐は別として、アナクロニスムの中に却って逆説的な新味を見出し、そういう古風な風流を追求している。そして、前記の擬古的生活形成の重要な一つの要因となっている。その結果、「細雪」の最大目的が、作者がいかに擬古的生活に没入しているかという心境の披瀝にあるため、作者は矢張りそれをば、貞之助や幸子の作中人物を藉りて描かねば居られなかったのである。

 て、ながながと書いて来たが、「細雪」は要するに、初めにもいったように潤一郎の心境小説であり、その心境というのは、今まで筆を尽して書いて来た如く擬古的生活への没入で、その没入振りを描くことが最大眼目になっている。ところで、この擬古的生活は何に基因しているかというと、これ亦既に触れた如くそれらは潤一郎の唯美派的傾向とエピキュリアン的性格から来ている。若い時分にはそれが一時エキゾティシズムに向って居り、その名残りはいまなお残っていて、「細雪」においても謂わば日本趣味に満ちた擬古的生活を描きながら、妙子が知合った白系露西亜はっけいロシア人のキリレンコ一家とか、幸子一家の隣り合せた獨逸ドイツ商人のシュトルツ一家、瑞西スイス人ボッシュ一家などを点綴てんていし、なお且つ、阪神間や神戸のエキゾティシズムも屡々取入れ、日本趣味とこれらエキゾティシズムとの交錯によって一種の新鮮味を出している。ところが、前述の如く、潤一郎が関西に居着くようになり、回想にのみ生きていて現実には忘れ去っていた前代の伝統的な生活様式に逢着するや、当時の年齢も手伝って、遮二無二しゃにむに擬古的生活に沈湎ちんめんして行ったのである。この擬古的生活は一見アナクロニスムに看取されるものの、歌集のところでちょっと触れたように、その一面、現代の生活気分から遠去かれば遠去かるほど、却って逆説的な新鮮味の感じられる美が、即ち新しい風流があり、年齢と共に加速度を加えて蘇って来た潤一郎の日本趣味がそれに惹かれて行ったのである。同時に、その地唄趣味、古今集趣味が代表する艶隠者えんいんじゃ的風流が、かれの唯美的傾向や現世享楽的性格をも満足させるに至ったのだ。これに加うるに、日本の世情は満洲事変以來つねに不安なものをはらんでいた。これが一層かれをしてそういう生活に没入させ、そこに一種の安定感を求めさせたのである。つまり、「細雪」は結局において、潤一郎がかれの擬古的生活で得たこの安定感を吐露することが最大眼目になっているのである。それから、前にも述べたように、人物は第二義になって居り、いまいった安定感を、換言すれぱ擬古的生活の醍醐味だいごみを披瀝するのに都合のいい人物をらっし来たって、それを傀儡かいらいに使っている。

 以上が、僕が「細雪」三巻を通読して得た忌憚きたんのない第一の印象である。書き忘れたが、作中の幸子にしても雪子にしても、屡々自然の推移に眼を留めて感慨に耽っていて、肉付されている限りにおいては頷けず、ちょっと異様な感じがするが、考えてみれば、それは取りも直さず作者自身の感慨なのだ。

 だが、である。この長篇は、潤一郎が一転機を劃した、つまりエキゾティシズム小説から擬古的生活小説に転向した「たで喰ふ蟲」に直結した作品だと思うが、かれは「蓼喰ふ蟲

」を書くと共に、一方において、しきりに物語小説をも書き出した。その関係であろう、この長篇は「蓼喰ふ蟲

」に直結しているが、物語性を増し、のみならず「源氏物語」の現代訳を試みたための影響もあって、「源氏物語」の手法を真似た朦朧体もうろうたいの物語小説になっている。その点、「蓼喰ふ蟲

」とは少々印象をことにしているものの、フィクシオンにおいてだけは相似点があるのではなかろうか。即ち、「蓼喰ふ蟲

」はフィクシオン以外はぜんぜん作者の創作に違いないが、フィクシオンそのものは作者の身辺に起きた事件から来ている。そのように、「細雪」も亦フィクシオンだけは、作者自身の現在の身辺から捉えたものではないか。純客観的に、わゆる本格小説として描かれているが、幸子夫妻、つまり、貞之助、幸子の二人は、現在の作者夫妻の身辺がフィクシオンになっているような気がする。即ち、作者夫妻の身辺が作品の背景に置かれて、作者自身の投影が、幸子、貞之助の両者に及んでいる気がする。そして、この想像は恐らく当っているに違いないと思う。一方、よしんば寄せ集めであったり、或る部分ぜんぜん創作であったとしても、貞之助、幸子以外の作中人物も、その写実味からそれぞれモデルがあったように思われる。そのせいだろうと思うが、僕はいま作中人物は作者自身の心境を吐露するための傀儡かいらいになっているようにいったが、しかし、それは作中人物の人情、それから作中人物の身に付けている趣味の方面だけで、性格はそれぞれ写実的に頷くように浮彫りされている。又、この変改の部分は、微妙な大阪弁を、ここでは謂わゆる船場言葉を、陰翳いんえい深く駆使することによって、一応それを巧みに覆うている。尤も、曾ての「猫と庄造と二人の女」の場合にも感じたが、作品の背景が阪神間になっている以上、僕はあの辺に居住したことがあって知っているが、純粋な船場言葉のみ使われているということはいささかおかしい気もされる。あの辺は尠なからず神戸弁も這入っていて、厳密にいうと、大阪弁と神戸弁の合の子弁になっているからだ。それは兎に角、「細雪」の前述のような心境小説になっていると共に、このような風俗小説になっているところにも、特異な特色があるように思われる。

 最後に、潤一郎の約千五百頁に亙る労作「細雪」は、結局、以上説いて来たような、かれのいまの辿り着いている擬古的生活をば認めるか認めないかによって、ひとびとのこの作品に対する好悪はおのずと別れてくるのではなかろうか。それにしても、潤一郎は若い時代には、例えば「鮫人」を努めて洋文脈で書いたように、人一倍バタ臭い作品を書くことを念願としていた作家である。そういう作家でも、一定の年齢に達すると矢張り伝統の世界に立戻って来て、歳と共に益々その中に沈潜して行き、近代女性の扮装をしながら、その実、王朝時代の古典からでも発掘して来たような、表面内気さの中に謎の微笑を湛えている「細雪」のヒロイン雪子のような女性を作品の上につくり出して、ほくそ笑んでいるのである。そして、東は東、西は西ということを痛感させる。作家的出発に当っては、だれも西洋的なものに向っていどみ掛かって行くが、西洋との間の溝はついにうずめられないのであろうか。

(昭和二十四年五月「風雪」)