金色夜叉 前編第七・八章

   第七章

 

 熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸く一月のなかばを過ぎぬるに、梅林ばいりんの花は二千本の梢に咲乱れて、日にうつろへる光は玲瓏れいろうとして人のおもてを照し、路を埋むる幾斗の清香はりてむすぶに堪へたり。梅の外には一木無く、処々に乱石の低くよこたはるのみにて、地はたひらかせんきたるやうの芝生の園の中を、玉の砕けてほとばしり、ねりぎぬの裂けてひるがへる如き早瀬のながれありて横さまに貫けり。うしろに負へる松杉の緑はうらゝかれたる空をして、其頂にあたりてものうげに懸れる雲は眠るに似たり。そよとの風もあらぬに花はしきりに散りぬ。散る時に軽く舞ふを鶯は争ひて歌へり。

 宮は母親と連立ちて入來いりきたりぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几しやうぎを据ゑたる木の下を指してゆるく歩めり。彼の病は未だからぬにや、薄假粧うすげしやうしたる顔色も散りたるはなびらのやうに衰へて、足のはこびたゆげに、ともすればかしらるゝを、思出しては努めて梢を眺むるなりけり、彼の常として物案ものあんじすれば必ず唇を咬むなり。彼は今頻に唇を咬みたりしが、

御母おつかさん、如何どうしませうねえ。」

 いとく咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、此時漸く娘にうつりぬ。

如何どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発はじめにお前がきたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更………」

「それは然うだけれど、如何も貫一さんの事が気になつて。御父おとつさんはもう貫一さんに話をすつたらうか、ねえ御母さん。」

「あゝ、もう為すつたらうとも。」

 宮は又唇を咬みぬ。

「私は、御母さん。貫一さんに顔が合されないわね。だからくのなら、もう逢はずにずつと行つて了ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ。」

 聲は低くなりて、美しき目は湿うるほへり。彼は忘れざるべし、其の涙を拭へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。

「お前が其程に思ふのなら、何で自分から適きたいとお言ひなのだえ。然う何時迄も気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経てば一日だけ話が運ぶのだから、本当に如何どうとも確然しつかり極めなくてはけないよ。お前が可厭いやなものを無理においでといふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて…………。」

「可いわ。私はくことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……………。」

 貫一が事は母の寝覚にも苦む処なれば、娘の其名を言ふ度に、犯せる罪をも歌はるゝ心地して、此良縁の喜ぶべきを思ひつゝも、有繋さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。

「お父さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方あちらつて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合しあはせと云ふものだから、其処を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切おもひきりが好いから、お前が心配して居るやうなものではないよ。是なり遇はずに行くなんて、其はお前却つて善くないから、矢張やつぱり逢つて、ちやんと話をして、さうして清く別れるのさ。此後とも末長く兄弟で往来ゆきがよひをしなければならないのだもの。

 いづれ今日か明日には御音信おたよりがあつて、様子が解らうから、而したら還つて、早く支度に掛らなければ。」

 宮は牀几に倚りて、なかばは聴き、半は思ひつゝ、膝に散来るはなびらを拾ひては、おのれの唇に代へてしきりに咬砕きぬ。鶯の聲の絶間を流の音はむせびて止まず。

 宮は何心無くおもてを挙るとともやゝ隔てたる木の間隠に男の漫行そゞろあるきする姿を認めたり。彼は忽ち眼を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮る隙を縫ひつゝ、しばらく其影をひたりしが、遂に誰をや見出しけん、慌忙しく母親に咡けり。彼は急に牀几を離れて五六歩いつあしむあし進行きしが、彼方あなたよりも見付けて、逸早く呼びぬ。

「其処に御出おいででしたか。」

 其聲は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉しく、恐れたる風情にて牀几の端にすくまりつ。

「はい、唯今し方参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと。」

 母はく挨拶しつゝ彼を迎へて立てり。宮は其方そなたを見向きもやらで、彼の急足いそぎあしちかづく音を聞けり。母子おやこの前に顯れたる若き紳士は、其の誰なるやを説かずもあらなん、目覚しく大なる金剛石ダイアモンドの指環を輝かせるよ。にぎりには緑色のぎよくを獅子頭にきざみて、象牙の如く螢潤つやゝかに白き杖を携へたるが、其尾さきをもて低き梢の花を打落とし打落とし、

「今お留守へ行きまして、此処だといふのを聞いて追懸けて来た訳です。熱いぢやないですか。」

 宮はやうやうおもてを向けて、さてしとやかに起ちて、恭しく礼するを、唯継たゞつぐは世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでもおごたかぶるを忘れざりき。其張りたるあぎとと、への字に結べる薄唇と、尤異けやけき金縁の目鏡とは彼が尊大の風にすくなからざる光彩を添ふるや疑無し。

「おや、やうでございましたか、其はまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。ほんに今日はお熱いくらゐでございます。まあこれへおかけ遊ばして。」

 母は牀几を払へば、宮は路を開きてかたはらに佇めり。

「貴方がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰へるやうに──と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです、外国へ此方こちらの塗物を売込む会社。是は去年中からの計画で、いよいよ此三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙しい体、何爲なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、あすの朝立たなければならんのであります。」

「おや、それは急な事で。」

「貴方がたも一所にお立ちなさらんか。」

 彼は宮の顔を偸視ぬすみみつ。宮は物言はん氣色もなくて又母の答へぬ。

「はい有難う存じます。」

「それとも未だ御在おいでですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう、何のわけは無い事です。地面を廣く取つて其中に風流な田舎家を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩ゆつくり遊びに来るです。」

「結構でございますね。」

「お宮さんは、何ですか、恁云ふ田舎の静な所が御好なの?」

 宮は笑を含みて言はざるを、母は傍より、

「是はもう遊ぶ事ならきらひはございませんので。」

「はゝゝゝゝゝ誰も然うです。それでは以後これから盛におあすびなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも東京でも西京でも、好きな所へ行つて遊ぶです。船は御嫌ですか、はゝあ。船が平気だと、支那から亜米利加アメリカの方を見物旁がてら今度旅行をて来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山にあるいた所で知れたもの、甚麼どんなに贅沢を爲たからと云つて。

 御帰になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。此梅などはまるで爲方が無い! 這麼こんな若い野梅、まきのやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。是で熱海の梅林もすさましい。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい、御馳走を爲ますよ。お宮さんは何が所好すきですか、えゝ、一番所好すきなものは?」

 彼はひそかに宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞はづかしげに打笑めり。

「で、何日御帰でありますか。明朝あした一所に御発足おたちにはなりませんか。此方こつちに然う長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたら如何どうであります。」

「はい、有難うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内には音信たよりがございます筈で、其音信を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい。」

「はゝあ、それぢや如何どうもな。」

 唯継は例のおごりて天を睨むやうに打仰ぎて、杖の獅子頭を撫廻しつゝ、少時しばらく思案する体なりしが、やをら白羽二重のハンカチイフを取出して、片手に一揮るよと見れば鼻を拭へり。菫花ワ゛イオレットかをりむせばさるゝばかりに薫じわたりぬ。

 宮も母も其の鋭き匂に驚けるなり。

「あゝと、私是から少し散歩しやうと思ふのであります。是から出て、流に沿いて、田圃たんぼの方を。私未だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分路程みちが有るから、貴方は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな、私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良わるいのだから散歩は極めて藥、是から行つて見ませう、ねえ。」

 彼は杖を取直してはや立たんとす。

「はい、有難うございます。お前お供をおかい。」

 宮のためらふを見て、唯継はことさらに座を起てり。

「さあ行つて見ませう、えゝ、胃病の藥です。う因循して居ては可けない。」

 と寄りて軽く宮の肩をちぬ。宮は忽ちおもてを赤めて、如何にとも爲んすべを知らざらんやうに立惑ひて居たり。母の前をも憚らぬ男の馴々しさを、憎しとにはあらねど、己のはしたなきやうにづるなりけり。

 得も謂はれぬ其のあど無さの身に浸遍しみわたるに堪へざる思は、そゞろに唯継の目の中に顕れてあやしき独笑ひとりゑみとなりぬ。此のあど無きいとしらしき、美しき娘の柔き手を携へて、人無き野道の長閑のどかなるを語ひつゝ行かば、如何ばかり樂からんよと、彼ははや心も空になりて、

「さあ、行つて見ませう。御母おつかさんから御許が出たから可いではありませんか、ねえ、貴方、宜しいでありませう。」

 母は宮の猶羞づるを見て、

「お前おいでかい、如何どうだえ。」

「貴方、お出かいなどゝ有仰つちや可けません。お出なさいと命令を爲すつて下さい。」

 宮も母も思はず笑へり。唯継も後れじと笑へり。

 又人の入來る気勢けはひなるを宮は心着きて窺ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙しく蹈立つる足音なりき。

「ではお前お供をおしな。」

「さあ、行きませう。ぢき其処までゞありますよ。」

 宮はちひさき声して、

御母おつかさんも一処に御出なさいな。」

「私かい、まあお前お供をおしな。」

 母親を伴ひては大いに風流ならず、頗る妙ならずと思へば、唯継は飽くまで之を防がんと、

「いや、御母おつかさんには却つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとてけますまい。実際貴方にはつてお勧め申されない、御迷惑は知れて居る。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか。ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までゞ可いから附合つて下さい。貴方が可厭いやだつたらすぐに帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ。」

 此時忙しげに聞えし靴音ははや止みたり。人は出去りしにあらで、七八間彼方あなたなる木蔭に足を停めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方こなたの三人は誰も知らず。たゝずめる人は高等中学の制服の上に焦茶の外套オワ゛ーコートを着て、肩には古りたる象皮の學校鞄を掛けたり。彼ははざま貫一にあらずや。

 再び靴音は高く響きぬ。其のにはかなると近きとに驚きて、三人は始めて音する方を見遣りつ。

 花の散りかゝる中を進来つゝ学生は帽を取りて、

をばさん、参りましたよ。」

 母子は動顛して殆ど人心地を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆れ果てたる目をばむなしくみはりて、少時しばしは石の如く動かず。宮は、あはれ生きてあらんより忽ち消えて此土と成了なりをはらんことの、せめて心易さを思ひつゝ、其の淡白き唇を啖裂くひさかんとすばかりに咬みて咬みて止まざりき。

 想ふに彼等の驚愕おどろき恐怖おそれとは其の殺せし人の計らずも今生きて来れるに会へるが如きものならん。気も不覚そゞろなれば母は譫語うはごとのやうに言出せり。

「おや、お出なの。」

 宮は些少わづかなりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにとねがへる如く、木蔭に身を側めて、打過うちはず呼吸いきを人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩ひて、見るは苦しけれど、見ざるも辛き貫一の顔を、俯したる額越に窺ひては、又唯継の気色をも気遣へり。

 唯継は彼等の心々にばかりの大波瀾ありとは知らざれば、聞及びたる鴫澤の食客の来れるよと、例の金剛石ダイアモンドの手を見よがしに杖を立てゝ、誇りかに梢を仰ぐあぎとを張れり。

 貫一は今回こたびの事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既に此場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞひしと言はん、今はしばらく色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮めて、苦しき笑顔を作りて居たり。

「宮さんの病気は如何どうでございます。」

 宮は耐りかねてひそかにハンカチイフを咬緊めたり。

「あゝ、大きに良いので、もう二三日内には帰らうと思つてね。お前さん能く来られましたね、学校の方は?」

「教場に普請を為る所があるので、今日半日と明日明後日あすあさつて休講やすみになつたものですから。」

「おや、うかい。」

 唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過ちて野中の古井に落ちたる人の、沈みも果てず、上りも得爲えせず、命の綱と危くも取縋りたる草の根を、鼠の来りて噛むに遭ふと云へる比喩たとへいと能く似たり。如何に爲べきかと或は懼れ、或は惑ひたりしが、終に其の免るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。

「丁度宅から人が参りましてございますから、甚だ勝手がましうございますが、私どもは是から宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが…………。」

「はゝあ、それでは何でありますか、明朝あすは御一所に帰れるやうな都合になりますな。」

「はい、話の模様に因りましては、やう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……………。」

「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷めます、散歩は罷めて是から帰ります。帰つてお待申して居ますから、後に是非おいで下さいよ。宜しいですか、お宮さん、それでは後に屹度きつとお出なさいよ。誠に今日は残念でありますな。」

 彼は行かんとして、更に宮の傍近く寄来て、

「貴方、屹度後にお出なさいよ、えゝ。」

 貫一はまばたきで視て居たり。宮は窮して彼に会釈さへかねつ。娘気の可羞はづかしさくあるとのみ思へる唯継は、ますます寄添ひつゝ、舌怠したたるきまでにことばを和げて、

「宜しいですか、来なくては可けませんよ。私待つて居ますから。」

 貫一の眼は燃ゆるが如き色をして、宮の横顔をねめ着けたり。彼は懼れて傍目わきめをもらざりけれど、必ずあるべきを想ひて独り心ををのゝかせしが、猶唯継の如何なることを言出でんも知られずと思へば、にもかくにも其場を繕ひぬ。母子の爲には幾許いかばかりの幸なりけん、彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容れず、唯あくまでもいとしき宮に心を遺して行けり。

 其後影を透すばかりに目戌まもれる貫一は我を忘れてしばらく佇めり。両個ふたりは其心を測りかねて、ことばも出でず、息をさへこらして、空しく早瀬の音のかしましきを聴くのみなりけり。

 やがて此方を向きたる貫一は、尋常たゞならず激して血の色を失へる面上おもてに、多からんとすれども能はずと見ゆる微少わづかゑみを洩して、

みいさん、今の奴は此間の骨牌かるたに来て居た金剛石ダイアモンドだね。」

 宮は俯きて唇を咬みぬ。母は聞かざるまねして、折しも啼ける鶯の木の間を窺へり。貫一は此体このていを見て更に嗤笑あざわらひつ。

「夜見たら其程でもなかつたが、昼間見ると実に気障きざな奴だね。さうして如何どうだ! あの高慢ちきのつらは!」

「貫一さん。」母はにはかに呼びかけたり。

「はい。」

「お前さんをぢさんから話はお聞きでせうね、今度の話は。」

「はい。」

「あゝ、そんなら可いけれど、不断のお前さんにも似合はない、那様そんな人の悪口などを言ふものぢやありませんよ。」

「はい。」

「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥くたびれだらうから、お湯にでも入つて、而して未だ御午餐前おひるまへなのでせう。」

「いえ汽車の中で鮨を食べました。」

 三人は倶にあゆみ始めぬ。貫一は外套オワ゛ーコートの肩を払はれて、後をねぢ向けば宮とおもてを合せたり。

「其処に花がいてゐたから取つたのよ。」

「それは難有う!!!」

 

   第八章

 

 打霞みたる空ながら、月の色は匂滴るゝやうにて、微白ほのじろき海は縹渺としてかぎりを知らず、譬へば無邪氣なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れて此濱辺を逍遙せるは貫一と宮となりけり。

「僕は唯胸が一杯で、何も言ふことが出来ない。」

 五歩六歩いつあしむあし行きし後宮はやうやう言出でつ。

「堪忍して下さい。」

「何も今更あやまることは無いよ。一体今度の事はをぢさんをばさんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、其を聞けば可いのだから。」

「………………。」

此地こつちへ来るまでは、僕は十分信じて居つた、お前さんに限つて那様そんな了簡のあるべき筈は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦のなかで、知れ切つた話だ。

 昨夜ゆうべをぢさんからくはしく話があつて、其上に頼むといふ御言おことばだ。」

 差含さしぐむ涙に彼の声は顫ひぬ。

「大恩を受けてゐるをぢさんをばさんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体は火水の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんのたのみなら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むが、此頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれどをぢさんを恨んでゐる。

 して、言ふ事も有らうに、此頼を聴いてくれゝば洋行さして遣るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児みなしごでも、女房を売った銭で洋行せうとは思はん!」

 貫一は蹈留ふみとゞまりて、海に向ひて泣けり。宮は此時始めて彼に寄添ひて、気遣きづかはしげに其顔を差覗きぬ。

「堪忍して下さいよ。みんな私が……どうぞ堪忍して下さい。」

 貫一の手に縋りて、忽ち其肩におもて推当おしあつつると見れば、彼も泣音なくねを洩すなりけり。波は漾々として遠く烟り、月は朧に一湾の真砂まさごを照して、空も汀も淡白うすじろき中に、立尽せる二人の姿は墨のしたたりたるやうの影を作れり。

「それで僕は考へたのだ、是は一方にはをぢさんが僕を説いて、お前さんの方はをばさんが説得しやうと云ふので、無理に此処へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々はいはいと言つて聞いて居たけれど、みいさんは幾多いくらでも剛情を張つて差支無いのだ、如何どうあつても可厭いやだとお前さんさへ言通せば、此縁談はそれで破れて了ふのだ。僕が傍に居ると智恵を付けて邪魔を爲ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させるはかりごとだなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜ゆふべ夜一夜よつぴてはしない、那様そんな事は萬々有るまいけれど、種々いろいろ言はれる爲に可厭いやと言はれない義理になつて、もしや承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家は学校へ出るつもりで、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。

 馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処に在る!! 僕は是程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知……知……知らなかつた。」

 宮は可悲かなしさ可懼おそろしさに襲はれて少しく声さへ立てゝ泣きぬ。

 いかりを抑ふる貫一の呼吸は漸く乱れたり。

みいさん、お前は好くも僕を欺いたね。」

 宮は覚えずおのゝけり。

「病氣と云つてこゝへ来たのは、富山と逢ふ爲だらう。」

「まあ、其ばつかりは…………。」

「おゝ、其ばつかりは?」

あんまり邪推が過ぎるわ、あんまり酷いわ、何ぼ何でも余り酷い事を。」

 泣入る宮を尻目に掛けて。

「お前でもひどいと云ふ事を知つてゐるのかい、みいさん。是が酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは爲んよ。

 お前が得心せんものなら、此地こゝへ来るに就いて僕に一言も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、其暇が無かつたなら、後から手紙を寄来すが可いぢやないか。出抜だしぬいて家を出るばかりか、何の便たよりも爲ん処を見れば、始から富山と出会ふ手筈になつてゐたのだ。或は一所に来たのか知れはしない。みいさん。お前は奸婦だよ。姦通したも同じだよ。」

那様そんなひどいことを、貫一さん、あんまりだわ、余りだわ。」

 彼は正体も無く泣頽なきくづれつゝ、寄らんとするを貫一は突退けて、

「操を破れば奸婦ぢやあるまいか。」

「何時私が操を破つて?」

幾許いくら大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻が操を破る傍に付いて見て居るものかい! 貫一と云ふ歴とした夫を持ちながら、其夫を出抜いて、他所よその男と湯治に来てゐたら、姦通して居ないといふ證拠が何処に在る。」

う言はれて了ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、其は全く貫一さんの邪推よ。私等が此地こつちに来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ。」

「何で富山が後から尋ねて来たのだ。」

 宮は其唇に釘打たれたるやうに再びことばは出でざりき。貫一は、く詰責せる間に彼の必ず過を悔ゐ、罪を詫びて、其身はおろか命までも己の欲する儘ならんことを誓ふべしと信じたりしなり。し信ぜざりけんも、心ひそかに望みたりしならん。如何いかにぞや、彼は露ばかりもせる気色は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変こゝろがはりを、貫一はなかなかまことしからず覚ゆるまでに呆れたり。

 宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛いとをしみし人は芥の如く我をにくめるよ。恨は彼の骨に徹し、いかりは彼の胸をつんざきて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉をくらひて、此熱腸をさまさんとも思へり。忽ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪へずして尻居にたふれたり。

 宮は見るより驚くいとまもあらず、諸共に砂にまびれて掻抱かきいだけば、閉ぢたる眼より乱落はふりおつる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨さまよひて、迫れる息はすさましく波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後うしろより取縋り、抱緊いだきしめ、撼動ゆりうごかして、をのゝく聲を励せば、励す声は更に戦きぬ。

如何どうして、貫一さん、如何したのよう!」

 貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいとねんごろに拭ひたり。

あゝみいさんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜限だよ。一月十七日、みいさん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか! 再来年さらいねんの今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! いか、みいさん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思つてくれ。」

 宮はひしぐばかりに貫一に取着きて、物狂ものぐるほしう咽入むせびいりぬ。

那様そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はおなかの中には言ひたい事が澤山あるのだけれど、あんまり言難い事ばかりだから、口ヘは出さないけれど、たつた一言いひたいのは、私は貴方の事は忘れはしないわ──私は生涯忘れはしないわ。」

「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた。」

「だから、私は決して見棄てはしないわ。」

「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁にくかい、馬鹿な! 二人の夫がてるかい。」

「だから、私は考へてゐる事があるのだから、最少もすこし辛抱して其を──私の心を見て下さいな。屹度貴方の事を忘れない證拠を私は見せるわ。」

「えゝ、狼狽うろたへてくだらんことを言ふな、食ふにこまつて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁にくのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極つてゐるのぢやないか。其婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前は其婿を生涯忘れないほどに思つて居ると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁にかなければならんのだ。天下に是くらゐわけの解らん話が有らうか。如何どう考へても、嫁にくべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰かうとるには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。

 婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決して此二件ふたつの外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要らない。さあ、さあ、みいさん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、這麼こんな事に遠慮も何も要るものか。」

「私が悪いのだから堪忍して下さい。」

「それぢや婿が不足なのだね。」

「貫一さん、それはあんまりだわ、那様そんなに疑ふのなら、私は甚麼どんな事でもして、さうして證拠を見せるわ。」

「婿に不足は無い? それぢや富山はかねがあるからか、して見ると此結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、此結婚はお前も承知をしたのだね、えゝ?

 をぢさんをばさんに迫られて、余儀無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方は幾許いくらもある。僕一人が悪者になれば、をぢさんをばさんを始めお前の迷惑にもならずに打壊ぶちこはして了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前もつて見る気は有るのかい」

 貫一の眼は其全身の力をあつめて、思悩める宮が顔を鋭く打目戌うちまもれり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息ためいきしたり。

「宜しい、もう宜しい。お前の心は能く解つた。」

 今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按うちあんじつゝも、彼は乱るゝ胸をひろうせんが為に、強ひて目を放ちて海の方を眺めたりしが、なほ得堪えたへずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍に在らずして、六七間後なる波打際に面をおほひて泣けるなり。

 可悩なやましげなる姿の月に照され、風にふかれて、あはれ消えもしぬベく立ち迷へるに、淼淼べうべうたる海の端の白くくづれて波と打寄せたる、えんに哀を尽せる風情に、貫一はいかりをも恨をも忘れて、少時しばしは画を看る如き心地もしつ。更に、此美しき人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。

「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」

 彼はかしられて足の向ふまゝに汀の方へ進行きしが、泣く泣く歩来れる宮と互に知らで行合ひたり。

みいさん、何を泣くのだ。お前はちつとも泣くことは無いぢやないか。空涙!」

「どうせうよ。」

 殆ど聞得きゝうべからざるまでに其声は涙に乱れたり。

みいさん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢや依様やつぱりお前の心は慾だね、かねなのだね。如何いかに何でも余り情無い、みいさん、お前はそれで自分に愛相は尽きないかい。

 好い出世をして、ぞ榮耀も出来て、お前はそれでからうけれど、かねに見換へられて棄てられた僕の身になつて見るがい。無念と謂はうか、口惜いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺して──驚くことは無い! ──いつそ死んで了ひたいのだ。それをこらへてお前を人に奪られるのを手出しも為ずに見てゐる僕の心地は、甚麼どんなだと思ふ、甚麼だと思ふよ!

 自分さへ好ければひと如何どうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ、何だと思ふのだよ。鴫澤しぎさわの家には厄介者の居候でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾になつたおぼえは無いよ、みいさん、お前は貫一を玩弄物なぐさみものにしたのだね。平生お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物のつもりで、本当の愛情は無かつたのだ。うとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛して居た。お前の外には何のたのしみも無いほどにお前の事を思つて居た。其程までに思つてゐる貫一を、みいさん、お前は如何どうしても棄てる気かい。

 それは無論金力の点では、僕と富山とは比較くらべものにはならない。彼方あつちは屈指の財産家、僕はもとより一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決してかねで買へるものぢやないよ、幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来ん此の愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全く此の愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。

 己の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情をつてゐる貫一を棄てゝ、夫婦間の幸福には何の益も無い、むしろ害になり易い、その財産を目的に結婚をるのは、みいさん、如何どういふ心得なのだ。然しかねといふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千萬人に勝れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分きたない事を為るのだ。其を考へれば、お前が偶然ふつと気の変つたのも、或は無理は無いのだらう、からして僕は其は咎めない。たゞもう一遍、宮さん善く考へて御覧な、其のかねが──富山の財産がお前の夫婦間に何程どれほどの効力があるのかと謂ふことを。

 雀が米を食ふのは僅十粒か二十粒だ。俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫澤の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前にひもじい思をせるやうな、那様そんな意気地の無い男でもない。し間違つて、其の十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由はせん。みいさん、僕は是……是程までにお前の事を思つてゐる!」

 貫一は雫する涙を払ひて、

「お前が富山へく、それは立派な生活をして、栄耀も出来やうし、楽も出来やう、けれども那箇あれだけの財産は決して息子の嫁のために費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へよばれて行く人もあれば、自分の妻子を車に載せて、其を自分が挽いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁けば、家内も多ければ人出入も、はげしゝ、從つて気兼も苦労も一通ひととほりの事ぢやなからう。其中へ入つて、気をいためながら愛しても居らん夫を持つて、それでお前は何のたのしみに生きてゐるのだ。さうして勤めて居れば、末にはの財産がお前の物になるのかい。富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふ所は今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばの財産がお前の自由になるとした所で、女の身に何十萬と云ふ金が如何どうなる、何十萬の金を女の身で面白く費へるかい、雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人にるで、女の宝とするのは其夫ではないか。何百萬円のかねが有らうと、其夫が宝とるに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。

 聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人外に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。かねの有る者は大方那様そんな真似をして、妻はほんの床の置物にされて、謂はゞ棄てられて居るのだ。棄てられて居ながら其愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、くるしみばかりでたのしみは無いと謂つてい。お前のく唯継だつて、もとより所望のぞみでお前をもらふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、其が長く続くものか、かねが有るから好きな真似も出来る。他の楽に気が移つて、じきにお前の恋はさまされて了ふのは判つて居る。其時になつてのお前の心地こゝろもちを考へて御覧、の富山の財産が其苦をすくふかい。家に沢山のかねが在れば、夫に棄てられて床の置物になつて居ても、お前はそれで楽かい、満足かい。

 僕が人にお前をられる無念は謂ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変こゝろがはりをした憎いお前ぢやあるけれど、猶且やつぱり可哀さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。

 僕に飽きて富山に惚れてお前がくのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、みいさん、お前は唯立派な所へ嫁くといふそればかりに迷はされて居るのだから、其は過つてゐる、其は実に過つてゐる、愛情の無い結婚は究竟つまり自他の後悔だよ。今夜此場のお前の分別一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、みいさん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一も不便だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直しなほしてくれないか。

 七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか、男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨うらやましいとは更に思はんのに、宮さん、お前は如何どうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛くは思はんのかい。」

 彼は危きをすくはんとする如くひしと宮に取着きて、匂滴るゝ頸元にゆる涙を濺ぎつゝ、蘆の枯葉の風にもまるゝやうに身をふるはせり。宮も離れじと抱緊めて諸共に顫ひつゝ、貫一が臂を咬みて咽泣むせびなきに泣けり。

嗚呼あゝ、私は如何どうしたらからう! し私が彼方あつちつたら、貫一さんは如何するの、それを聞かして下さいな。」

 木を裂く如く貫一は宮を突放して、

「それぢや断然いよいよお前はく気だね! 是迄に僕が言つても聴いてくれんのだね。ちえゝ、腸の腐つた女! 姦婦!!」

 其声とともに貫一は脚を挙げて宮の弱腰をはたたり。地響して横様にまろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまゝ砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為えせず弱々とたふれたるを、なほ憎さげに見遣りつゝ、

「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりにはざま貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了ふのだ。学問も何ももうやめだ。此恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉をくらつて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、其顔を挙げて、真人間で居る内の貫一のつらを好く見て置かないかい。長々の御恩に預つたをぢさんをばさんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あつて貫一は此儘長の御暇おいとまを致しますから、随分お達者で御機嫌よろしう……みいさん、お前から好く然う言つておくれ、よ、し貫一は如何どうしたとお訊ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方知れずになつて了つたと……………………。」

 宮は矢庭に蹶起はねおきて、立たんとれば脚の痛に脆くも倒れてかひ無きを、漸く這寄りて貫一の脚に縋付すがりつき、声と涙とを争ひて、

「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方これから……何処へ行くのよ。」

 貫一は有繋さすがに驚けり、宮がきぬはだけて雪可羞はづかしくあらはせる膝頭は、夥しく血に染みて顫ふなりき。

「や、怪我をしたか。」

 寄らんとするを宮は支へて、

「えゝ、這麼こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ。話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから。」

「話が有ればこゝで聞かう。」

「此ぢや私は可厭いやよ。」

「えゝ、何の話が有るものか。さあ此を放さないか。」

「私は放さない。」

「剛情張ると蹴飛すぞ。」

「蹴られてもいわ。」

 貫一は力を極めて振断ふりちぎれば、宮は無残に伏転ふしまろびぬ。

「貫一さん。」

 貫一ははや幾間を急行いそぎゆきたり。宮は見るより必死と起上りて、脚のいたみに幾度かたふれんとしつゝも後を慕ひて、

「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺した事がある。」

 遂に倒れし宮は再び起つべき力も失せて、唯声をたのみに彼の名を呼ぶのみ。漸く朧になれる貫一が影の一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶みもだへしてなほ呼続けつ。やがて其の黒き影の岡の頂に立てるは、此方こなた目戌まもれるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遥に来りぬ。

みいさん!」

「あ、あ、あ、貫一さん!」

 首を延べてみまはせども、目をみはりて眺むれども、声せし後は黒き影の掻消す如くせて、其かと思ひし木立の寂しげに動かず。波は悲しき音を寄せて一月十七日の月は白くうれひぬ。

 宮は再び恋しき貫一の名を呼びたりき。

(以降・中編}

(明治三十年一月=明治三十六年一月 前編は明治三十年一月一日より二月二十三日まで「読売新聞」に連載。)