I
太宰治の長編「惜別」は、彼の作品系列の中でも特異なものとされている。主人公-魯迅の人間像が概念的で、冷えびえとした隙間風が吹き通っているというものもあれば、逆に骨格が太く太宰文学のうちでもっとも端正な作品であるという説もあり、その評価は今日でもまちまちである。
太宰が大東亜会議の五大宣言の小説化を文学報国会から依頼されたのは、昭和十九年の一月、新年早々であった。
大東亜会議は昭和十八年十一月五、六日の両日にわたって、日本、中国、タイ、満洲、フィリピン、ビルマの六ヵ国代表を一堂に集め、帝国議事堂で催された。この会議の模様については同盟通信社から出版された『大東亜共同宣言』に詳しい。(注1) この大会は最終日に「大東亜共同宣言」を満場一致採択することで幕をとじた。(注2) 日本文学報国会は宣言発表の直後、会の機関紙『文学報国』で特集号を発行し、(注3) 宣言にもられた大東亜建設要綱の実現を期して、小説・詩・短歌・俳句・劇・漢詩漢文の各部会を動員することになった。小説部会は五大原則を主題とした小説の創作刊行を決定、尾崎士郎ほか二十四名の執筆者を択んだ。太宰冶の「惜別」はその一環として企てられた作品だった。(しかし太宰治の名前は第一次執筆予定者のなかには見られず、十九年に入ってからの記録にみかけるようになる。)その間の経緯については「大東亜共同宣言と二つの作品」と題して別にまとめた。(注4)
太平洋戦争下の文学の歩みについてはこれまでほとんど語られないでしまった。巌谷大四の『非常時日本文壇史』などを唯一の例外として、白紙のままであったといっていい。(注5)
昭和十六年以降の年表を一覧してみよう。十六年十二月、文学者愛国大会開催。十七年五月、日本文学報国会創立。七月、全国新聞杜の整埋統合案発表。十一月、大東亜文学者大会。十八年三月、大日本言論報国会創立、日本出版会創立。八月、大東亜文学者決戦会議、十一月、大東亜会議。十九年七月、中央公論、改造両社解散。十一月、大日本言論報国会、国民決戦綱領を決定、と決戦体制に向って足がためされて行く様相は、息づまるばかりである。この悪夢のような四年間について語ることは「気がめいる」(注6) という人もいる。しかし、そこをさけて通ることは昭和の文学を語る場合許されない。間題をその点ににつめて考えることが、再びこの醜をくりかえさないためにも必要なのだ。昭和の文学史は決戦体制下の政治と文学の間題に冷徹したメスを入れない限り、いつまでも片手落の感がついて廻るだろう。
竹内好はあるところで大東亜文学者大会にふれて「一九四三年八月の東京朝日新聞には、ほとんど連日、大東亜文学者大会に関する論稿がのっているが、その表題と筆者の顔ぶれを眺めるだけでも、われわれの負債の重さが実感にこたえる」(注7) と述べている。竹内好はこれのもつ生きた日中関係史のリアリティの一例としてこう述べていたが、それは大東亜文学者大会にかぎらない。大東亜会議においても同様のことがいえる。
竹内のいう実感にこたえる負債の重さとは何であろうか? いうまでもなく、私たちの掌についている血のよごれなのである。
太宰の周辺にも戦時の非文学的な空気はおし寄せてきた。彼は戦後に書いている。
「昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。私は三度も点呼を受けさせられ、そのたんびに竹槍突撃の猛訓練などがあり、暁天動員だの何だの、そのひまひまに小説を書いて発表すると、それが情報局に、にらまれているというデマが飛んで、昭和十八年に『右大臣実朝』という二百枚の小説を発表したら、『ユダヤジン実朝』というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている卑劣な『忠臣』もあった。私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終いまで全文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説は出版不許可になった事もあった。しかし、私は小説を書く事は、やめなかった。もうこうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。それはもう理屈ではなかった。百姓の糞意地である」(注8)
ここに出てくる「ユダヤ人実朝」の事件というのは、中谷孝雄によると、ちょっとした誤解に基づくものであったらしい。芳賀檀がある会の席上、太宰が『文学界』に「ユダヤ人実朝」という作品を書いた、としゃべった。それを太宰が伝えきいて、詰問の手紙を送った。芳賀は情報局に関係のある一青年から聞いたといって、暗に檀一雄をさす弁解をした。その場逃がれの嘘をついたのだろうが、檀は不愉快に思い、太宰に釈明してお互に了解がついた。思うに、『文学界』の編集に関係していた亀井勝一郎が「右大臣実朝」を発表すると話したのを、亀井の東北なまりのために芳賀がユダヤ人と早合点したのであろうというのである。(注9) この件はこれで一応おさまった。
「芳賀君が酔っぱらって、邪念なく放言してそうして酒飲みの常として忘れているかも知れませんが、とにかく、芳賀君からは真情のこもった長い手紙をもらっていますし、これ以上とやかく人を疑いたくございませんし、これはこれで打切りにしたいと存じて居ります」という中谷に宛てた太宰の手紙を見てもそのことは分る。(注10)
私は、ここで芳賀檀について非難がましい言葉を述べる気持はない。いいたいのは「ユダヤ人実朝」云々という言葉が不自然でなく通用し、噂として流れ、渦紋を生ずる歪んだ社会についてなのだ。今日ならおそらく「ユダヤ人実朝」という言葉は、軽い洒落として通用しただろう。昭和十八年の夏、それが噂されたことに太宰はなやんだのだし、だからこそ、こまった問題も生じたのだ。芳賀が「ユダヤ人実朝」と誤解したことの基底には、誤解してもおかしくないような、時代の空気が存在していた。太宰の傷つきやすい神経にそれが過敏にひびいたのであろう。これはこれで打切りにしたいと云っておきながら、三年後に太宰が「意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようと……」と書かずにおれなかったことのうらには、太宰の神経の細かさばかりでは片付かないもの——窒息するような非文学的な時代のやりきれなさがあったのだ。
先に引用した太宰の文章でも分るように、彼は十七年十月『文芸』に発表した「花火」を、時局にふさわしくない作品として全文削除されている。十八年六月『改造』発表予定の「花吹雪」は不掲載にきまり、秋に小山書店の注文で書下した長篇「雲雀の声」(戦後河北新報に発表した「パンドラの匣」は、これを書直したものである)は検問不許可のおそれから、出版が一時見合わせられた。
私は、太宰の年表を読んでいて「情報局と文学報国会の依嘱で『惜別』を書き」という箇所までくるといつもたちどまってしまう。内閣情報局と文学報国会が、大東亜五大宣言の小説化という名目で、書き下し長篇を太宰治に依嘱したことに、なにか底意地の悪さのようなものが感じとれるのである。ことさらに太宰に依嘱した理由が納得ゆかない。日華の文化交流に役立てるためなら、太宰以外にまだ適当な作家がいたはずである。しかし内閣情報局と文学報国会は、他ならぬ太宰治をその書き手に択んだ。精神の貴族である「実朝」の哀しく美しい宿命を、自己の芸術の理想として描き上げた、時代の逃亡者、太宰治が択ばれたことは、偶然であったろうか? 「惜別」の素材が、太宰の作品系列の上で、一見別個のものとして映るだけに、その感は深い。
「この『惜別』は、内閣情報局と文学報国会との依囑で書きすすめた小説には違いないけれども、しかし、両者からの話が無くても、私は、いつかは書いてみたいと思って、その材料を集め、その構想を久しく案じていた小説である」
これは『惜別』初版(注11) につけたあとがきの文章だが、太宰の言葉の裏に深部屈析をみせている逆説的なイロニーを、見のがすことはできない。彼はそれを「百姓の糞意地」であるといった。その糞意地は、時代にとりのこされてむなしく花開く実朝の世界と、表裏をなしていた。
「私は波の動くままに、右にゆらり左にゆらり無力に漂う、あの、『群集』の中の一人に過ぎないのであろうか。そうした私はいま、なんだか、おそろしい速度の列車に乗せられているようだ。この列車は、どこに行くのか、私は知らない。まだ、教えられていないのだ、汽車は走る。轟々の音(注12)をたてて走る」
日本は汽車であった。汽車は太宰をのせてはしっていた。その汽車は、どこへ行くか、太宰は行先を知らなかった。ただ戦争へ向って、驀進する汽車の轟音だけが太宰の肉体に響いていた。彼はその中で自分の歌をうたう。
「やはり私は辻音楽師だ、ぶざまでも、私は私のヴァイオリンを続けて奏するより他はないかも知れぬ。汽車の行方は志士にまかせよ。『待つ』という言葉が、いきなり特筆大書で額に光った。何を待つやら、私は知らぬ」
太宰は何を待っていたのか? 「東京八景」から「新ハムレット」、「正義と微笑」、「右大臣実朝」と年代を追って彼の作品を読み進んでくると、彼が待っていた世界がおぼろげに感得されるような気になる。太宰論の定説になっている「右大臣実朝」の言葉、
アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ
について今更どういう意欲もおこらないが、実朝の実体は、そのまま太宰の「祈り」であった。この頃から顕著になる太宰文学のある種の落着きは、日本敗戦の「不吉」な予感とともに、はっきりしてくる。太宰は実朝にほろびゆくものの美しさをみた。
大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ
という実朝の歌は、待つという気持だけからはうまれてこない。
「中国の人をいやしめず、また、決して軽薄におだてる事もなく、所謂潔白の独立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります。現代の中国の若い知識人に読ませて、日本にわれらの理解者ありの感懐を抱かしめ、百発の弾丸以上に日支全面和平に効力あらしめんとの意図を存します」
太宰は依嘱をうけたとき、情報局に「『惜別』の意図」と題した五枚半の文章を提出しているが、『惜別』には彼の処女創作集「晩年」執筆当時にみられたような緊張が、よみがえっている。文章もあかるい。彼は、情報局や文学報国会の意図はどうあれ、ともかく、清国留学生魯迅の行動の軌跡をたどることに、新しい情熱を感じたのである。
太宰が魯迅に関心を持ったのは、小田嶽夫によると、だいぶ前のことらしく、昭和十六年三月、小田が『魯迅伝』を筑摩書房から出版したとき、すぐ読了している。(注13)
小田嶽夫と書簡の往復をはじめたのは十八年の秋頃かららしい。太宰はこの仕事をひきうけるとすぐ小田を訪ねて、改造社版の『大魯迅全集』を借りた。小田はその折り構想をきいたのだろう、実藤恵秀の留学生史が連載されていた「日華学報」などを早速送ってやっている。(注14)
「太宰君がその頃大魯迅全集やその雑誌ばかりでなく、中国関係のいろいろの書物を非常に熱心に読んだらしいことが『惜別』を見るとよくわかる。魯迅の作品中に出て来ることや、当時の中国の状況などが、少しも浮き上らずに作品中にしっくりと溶け込んで出ているのである」(注13)
太宰は材料蒐集に当って、小田に何かと親しく相談をもちかけた。小田もかなり積極的に太宰の仕事を援助した。ただ、小山書店の書下し風土記『津軽』取材のため約二十日間ほど東京を留守にし、引続き完成まで一月余の日時を費したため、魯迅の調査は一時中止される。長男の出産で、妻を甲府にやり、自炊生活をしていたことなども彼を落着かなくさせたかもしれない。しかし、太宰が『惜別』を書く前に「津軽」地方を旅行したことは、『惜別』に新しいニュアンスをそえた。太宰は、自分の故郷津軽を探訪しながら津軽の自然と人の「つたなさ」と「健康」を見出している。本州北端竜飛岬の光景は「鬼気迫るような迫力をもっています」と奥野健男は書いているが、(注15)「本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。……路が全く絶えているのである」と書いた太宰の心象は、文学的な形容を拒否した時点に立っている。彼は津軽の大自然を愛している。そこに住む人々——乳母の越野たけも、中畑のけいちゃんも、蟹田のSさんも、太宰のイメージの中では生きて呼吸している。
「周樹人の仙台に於ける日本人とのなつかしく美しい交遊に作者の主力を注ぐつもりであります。さまざまの日本の男女、または幼童(周樹人は、たいへんな子供好きでありました)等を登場させてみたいと思つて居ります」(注16)
作者の意図は、津軽の人々の肌合にふれることで一層はっきりする。魯迅が自分の生まれ故郷紹興の人々、阿長や閏土に感じたと同様な心の交流が、太宰と越野たけなど津軽の人々の間にはひそんでいるのだ。
一応の準備ができると、太宰は仙台医専時代の魯迅を調査するために仙台に出掛けた。
昭和十九年の十二月二十日頃のことである。八月二十九日付の手紙(堤重久宛)、十月十三日付の手紙(小出清宛)などに「そろそろ魯迅に取りかかる」という文句が見えるが、どうしたわけか、十二月中旬まで、仙台行は延ばされた。というより、執筆に当ってどうしても仙台を見ておきたいという気持が急に湧いたと云った方が当っているかもしれぬ。東京帝大の教授小野清一郎から、東北帝大の法文学部長宛の紹介状をもらったが、この紹介状は実際にはあまり役立たなかった。彼は河北新報出版部に通って、古い綴込みから、日露戦争当時の魯迅に関する材料をあさった。世相や、風俗習慣、社会の模様など必要なものはメモをとった。もちろん魯迅関係の直接的な文献はそうたやすくほり出せる筈がなかった。仙台医専の全学生が松島に遠足に出かけたという三行記事を発見して、大きなヒントをえたように得意だったこともある。ロシヤ軍の捕虜収容所や、魯迅が下宿していたといわれている宮城刑務所向いの差入屋なども訪問した。古いミルクホール、飲食店などの広告まで片っ端からしらみつぶしに調べた。(注17)仙台には三日いて十二月二十五日に帰京した。彼は長篇の題を「支那の人」とつけた。それが気にくわなくなり「清国留学生」と変更したが、結局「惜別」に決めた。
「明治三十五年、当時二十二歳の周樹人が日本国に於いて医学を修め、以て疾病者のびまんせる彼の祖国を明るく再建せむとの理想に燃え、清国留学生として、横浜に着いた。というところから書きはじめるつもりであります。多感の彼の眼には、日本の土地がどのように写ったか、横浜、新橋間の車中に於いて、窓外の日本の風景を眺めながらの興奮、ならびに、それから二箇年間東京の弘文学院に於ける純真にして内気な留学生生活。東京という都会を彼はどのように愛し、また理解したか。けれども彼には、彼の仲間の留学生たちに対する自己嫌悪にも似た反撥もあり、明冶三十七年九月、清国留学生のひとりもいない仙台医学専門学校に入学するのでありますが、それから二箇年間の彼の仙台に於ける生活は、彼の全生涯を決定するほどの時期でありました」
太宰が「惜別」を書こうとした外的要因はすでに述べた。しかし作者を創作にかりたてた根源の力は一体何だろうか? 小田嶽夫は「魯迅の祖国や同胞にたいする愛、日本で他の留学生たちとそりが合わずひとりさびしく東北に渡って行っている孤独の凄凉さ」をあげているが、それだけでは太宰をしてこれほどまでに執心させる理由にはならないだろう。青年魯迅の苦悩の中に、彼は自己を見出だしたからではなかったろうか。
小田嶽夫の『魯迅伝』から太宰がいろいろと影響されたことは明白だが、例えば、魯迅の都落ちを、小田は「仙台へ赴いたというのは東京の留学生界の浮薄な雰囲気にあきたらないものがあってらしい」とさりげなく書いているのに反して、太宰は「彼の仲間の留学生たちに対する自己嫌悪にも似た反撥もあり」と、自己の意識に魯迅をひきずり寄せて語っている。
しかし太宰の自己が投影されればされるほど、(彼の意志とは反対に)、そこに描き出された魯迅は真実の魯迅像から離れて行かざるを得なかった。「敗れながらふたたび自己をたてなおそうとした」(小田切秀雄)(注18) 一人として、太宰治が、魯迅を描きながら、実際には太宰自身を書いていることに読者は気付くはずである。
これは太宰がいよいよ「惜別」を書きはじめる直前、竹内好の『魯迅』(日本評論社版)
を入手したことと無関係ではないようだ。竹内はこの本が出る前に出征した。出征の際に太宰に送るように、出版元に頼んでおいたのだろう。太宰のところへ贈呈されたのである。太宰は書いている。
「これだけでも既に不思議な恩寵なのに、さらにまた、その本の跋に、この支那文学の俊才が、かねてから私の下手な小説を好んで読まれていたらしい意外の事実が記されてあって、私は狼狽し、赤面し、かつはこの奇縁に感奮し、少年の如く大いに勢いづいてこの仕事をはじめたというわけである」(注19)
少年の如く大いに勢いづいて仕事をはじめたと太宰はいうのだが、この言葉を私は別の意味に翻訳したい。太宰は竹内好の『魯迅』を読んで、先に述べた「自己嫌悪にも似た反撥」というイメージを拡大する拠り所を得たと思ったと同時に、魯迅に対する底知れないおそれを、竹内の文章から知らされた筈である。太宰が当初考えていたプロットは、「『惜別』の意図」からもうかがい知れるように、留学生魯迅の軌跡をたどるように計画されていた。それが、現在見られるような形へ改められたのは——「惜別」は仙台医専時代魯迅と同級だった一老医師の思い出として構成されている——どうしてだろうか? 前々から私はこのことにひっかかっていた。太宰は竹内の著書を一読して「惜別」を一人称の語り物形式にする覚悟をきめた。そして魯迅像を追うことをあきらめて、別の意図を抱きはじめた。魯迅がこわかったからだといっておこう。
この間題は「惜別」の魯迅像を辿るとき具体的に述べるが、このことは、「惜別」が、骨格の太い本格的な作品を予想されたにもかかわらず、あとあじのわるさを露呈していることと深くつながっている。太宰は書きすすむうちに魯迅からだんだん遠ざかってしまうのだ。とにかく竹内好の『魯迅』は魯迅のおそろしさをおしえると同時に、自己を語りたい欲求を引きだす不可解な魅力に満ちている本だ。太宰はそのことを、小田嶽夫の『魯迅伝』との対比においてこう説明している。「小田氏にも、『魯迅伝』という春の花のように甘美な名著があるけれども、いよいよ私がこの小説を書きはじめた、その直前に、竹内好氏から同氏の最近出版されたばかりの、これはまた秋の霜の如くきびしい名著『魯迅』が、全く思いがけなく私に恵送せられて来たのである」(注19)
春の花のように甘美な名著と、秋の霜の如くきびしい名著、太宰のひゆは正しくこの両著の長所と欠点をついている。
私は太宰が少年の如く大いに勢いづいてこの仕事をはじめたことの裏に、このような心象風景を描いてみる。
敵機の本士襲来は日増しに激しさを加えた。太宰の家は中島飛行機の工場の近く、連日の空襲に、至近弾が落下する。隣家にも爆弾が落ちた。彼は殆んど午前中仕事をしたが、空襲になると防空壕に逃げこまねばならなかった。
太宰はそうしながら昭和二十年二月「惜別」を書き進めてゆくのである。
——これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。
太宰は書いた。そして、書きながら、「藤野先生」の一節を思い浮べた。
「仙台は市であるが、大きくはない。冬はひどく寒かった。中国の学生は、まだいなかった」
独り東京を去って仙台へと向った青年魯迅の姿は、いつか、十二年前太宰が二十四歳のとき、それまで同棲していた小山初代の過失を知って強い衝撃をうけ、青森警察に自首して出た彼自身の過去とダブってくる。彼はその頃非合法の地下運動に従事していたのだ。
「八年まえの冬、考えるとあの頃も苦しかったが、私は青森の検事局から呼ばれて、一人こっそり上野から青森行の急行列車に乗込んだことがある。浅虫温泉の近くで夜が明け、雪がちらちら降っていて、浅虫の濃灰色の海は重く蜒り、浪がガラスの破片のように三角の形で固く飛び散り、墨汁を流した程に真黒い雲が海を圧しつぶすように低くたれこめて、嗟、もう二度と来るところで無い! とその時覚悟を極めたのだ……」
太宰の眼前には、東京を独り旅立つ留学生魯迅の姿と彼自身の姿とがいつとなく重って行った……。
Ⅱ
「月のない夜、私ひとりだけ逃げた。残された仲間は、すべて、いのちを失った。私は大地主の子である。転向者の苦悩? なにを言うのだ。あれほどたくみに裏切って、いまさら、ゆるされると思っているのか。
裏切者なら、裏切者らしく振舞うがいい。私は唯物史観を信じている。唯物論的弁証法に拠らざれば、どのような些々たる現象をも、把握できない。十年来の信条であった。肉体化さえ、されて居る。十年後もまた、変ることなし。けれども私は、労働者と農民とが私たちに向けて示す憎悪と反撥とを、いささかも和げてもらいたくないのである。(略)私の腐った唇から、明日の黎明を言い出すことは、許されない(略)『職人ふぜい』と噛んで吐き出し、『水呑百姓』と嗤いののしり、そうして、刺し殺される日を待って居る」
太宰治が昭和十一年の夏発表した「虚構の春」のこの言葉は、太宰文学の基層を示している。太宰の世代が、その前とも、またその後とも違っていることは、彼らの青春が、激しい階級闘争の嵐にまきこまれ、ゆり動かされ、深いいやすことのできない傷を負わされた点にある。臼井吉見は「この傷痕は深く、かれらは、その青春の出発に当って、早くも自己を喪失した」(注20) と書いているが、その中でも太宰は特に象徴的な存在だったといえる。彼は生涯この汚点を、裏切者としての罪の意識を抱き続ける。私は「罪の意識」という言葉がきらいである。できるなら他の言葉で太宰の倫理的な負い目を現わしてみたい。しかしここでは便宜的に「罪の意識」といっておこう。太宰と同様コミュニズムから転向し、日本浪曼派に向った亀井勝一郎と比較しても、違いは歴然としている。亀井は、その転向経験を文学にとり入れることで、逆に「再生」をはかった。太宰の場合は、革命運動そのものが、既に自己否定(?)であったために、転向は、そのまま自己の心情の問題としてうけとめられる。無限の陥没意識とでもいうべきだろうか。そこで太宰の場合はつねに死が媒介されていることも見落せない。
太宰は津軽屈指の名門の子として生まれた。「実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのもの」(注21) と太宰自身は書いているが、父は代議士にも、貴族院議員にも出た多額納税者である。彼は自分の育った封建的な家から脱出をはかった。コミュニズムもその延長線上にあったといえよう。しかし、彼の血の中には、「津軽屈指」の名家の血が流れていた。彼の「択ばれてあることの恍惚と、不安と二つわれにあり」という有名な文句は、選良意識の文学的な現われである。八雲書店版の全集には、太宰(ママ)の定紋がカラ押しされている。それを見ると私は、太宰の反逆した「家」が、結局は太宰をおしつぶしているような錯覚にとらえられる。彼のポーズも、名声欲も、また反逆さえもこのエリート意識にささえられているのだ。彼の心情の裡には、ナルシシズムと、他者愛ミミ隣人愛といった方が適切かもしれない——が矛盾もなく同時に存在している。
太宰治がコミュニズムにひかれたのは、三・一五の後である。彼は弘前高校の二年であった。彼は友人数名と、同人雑誌『細胞文芸』を創刊している。題名だけ見ると、ひどく尖鋭なものが想像されるが、内容はそれほどではなかった。(注22) 太宰も「無間奈落」という、彼の生家をモデルにした、父子二代にわたる地主生活の暴露小説をそれに発表している。この頃の太宰はまだ家に対する反抗に終始していた。
「人道主義。ルパシカというものが流行して、カチゥシャ可愛いや、という歌がはやって、ひどくきざになってしまった。私はこれらの風潮を、ただ見送った」(注21)
弘前高校の校長の不正汚職から同盟休校事件が起ったのは、四・一六の直後である。その経過は、彼が翌年発表した「学生群」に詳しい。彼はこの同盟休校に積極的に参加した。
弘前高校の同盟休校は最後には、校長の依願免官となり、生徒側の勝利におわった。この闘いを通して親しくなったのだろう。学友の一人にさそわれて、太宰はマルクス主義の読書会に出かけた。
「プロレタリア独裁。
それには、たしかに、新しい感覚があった。協調ではないのである。独裁である。相手を例外なくたたきつけるのである。金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一賎民だけが正しい。私は武装蜂起に賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。 しかし、私は賎民でなかった。ギロチンにかかるほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった」(注21)
しかし、太宰の日常は、石上玄一郎(弘前高校の同級)によると、「大島の対をぞろりと着流し角帯をしめ雪駄をはいて、青森の花街に通う太宰君の姿はバンカラ揃いの高校生の間では変り種として評判であった」という。
太宰はマルクシズムを学ぶにつれて、自分の出身について考えないわけにはゆかなくなった。「いよいよこれは死ぬより他は無いと思った」ここにも奥野健男流にいえば太宰特有の「短絡現象」があらわれる。彼は自らいう通り賎民ではなかった。ギロチンにかかるめぐりあわせであった。彼は「思い出」の中で小学校の四五年ごろ、末の兄からデモクラシー思想について聞き、母までがデモクラシーのために税金がめっきり高くなったとこぼしていた話を書いている。太宰はいう。
「私はその思想に心弱くうろたえた。そして夏は下男たちの庭の草刈に手つだいしたり、冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら、下男たちにデモクラシーの思想を教えた」
しかし、下男たちは、彼の手伝を余りよろこばなかった。彼の刈りとったあと、下男たちはまた刈り直さなければならなかったからだ。太宰にとってデモクラシーとは、かくもむなしいものであった。それを知らされても太宰の「自分ひとりの幸福だけでは生きて行けない」(姥捨)という願望は少しも変らない。変らないどころか益々加わってゆく。彼のナルシシズムは他を愛することによって、かえって保証されている案配である。
「いよいよこれは死ぬより他は無い」と思った太宰は、同盟休校の行われた年の秋、カルモチンをのんで自殺をはかった。石上玄一郎によると町の娘と郊外の原っぱでカルモチン心中をはかったが死に切れなかったということだ。
死にそこなった彼は、「見込みのある男」としてあちらこちら引っぱり廻され、挙句のはては、非合法運動の資金面を担当させられる。彼は金を出し、同志のアジトや、生活費の心配をする任務をおしつけられたのである。その関係は、翌昭和五年彼が、二十二歳で弘前高校を卒業し、東大の仏文に入学してからも引続き保たれた。
「東京に出てみると、ネオンの森である。曰く、フネノフネ。曰く、クロネコ。曰く、美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑い。絶望の乱舞である」(注8)
太宰が上京した年の暮、庶民の町浅草には、有名なカジノ・フォーリイが旗上げしている。エロ、グロ、ナンセンス、ジャズの喧噪と女の脚。東北地方の冷害をよそに、都会は自棄的な哀調と頽廃のメロデーに包まれる。結局ツンボサジキにおかれたのは国民であった。
「満州事変が起った。爆弾三勇士。私はその美談に少しも感心しなかった」(注21)
彼は殆んど学校へは出なかった。「世人の最も恐怖していたあの日蔭の仕事に、平気で手助けしていた。その仕事の一翼と自称する大袈裟な身振りの文学には、軽蔑を以て接していた。私はその一期間純粋な政治家であった」(東京八景)。この言葉はおそらく彼の正直な告白であろう。彼は本郷、小石川、下谷、神田あたりのマルクス学生の組織のキャップをしていた。四・一六の嵐がふきあれたあと、生き残った党員たちによって、共産党再建は進められた。東大美学中退の当時二十四歳だった田中清玄(彼は東京市委員会の第三地区キャップをしていた)を中心に、前納善四郎、佐藤善一らと謀って臨時東京地方委員会を構成(六月)まもなく、クートペ帰りの佐野博らを加えて、中央のビューローを結成した。しかし、党の陣容は急速には立直らなかった。組合主義的な偏向や、解党派が頭をもちあげ、組織内部に分派がおこるなど、ひどく混乱した。共産党が運動方針の立直しを行い、一応それを軌道にのせたのは、太宰が上京する少し前である。(昭和五年一月)。しかし、その再建された組織も、一月たたないうちに根こそぎ掘りおこされてしまう。
田中清玄、佐野博ら首脳部はかろうじて、検挙をまぬがれたが、佐野、前納が四月一日あげられ、あとに残った田中は、唐沢清八らと共に再組織に着手する。彼らがまず眼をつけたのは東京市電のストであった。当時出された指令には、市電ダラ幹の暗殺、市電車庫への放火などが含まれていたらしく、青山車庫の放火事件などもその計画の一部であるように伝えられた。この指令でも分るように、当時の共産党には、短刀、挙銃その他で武装した行動隊が組織されていた。いくつかのめぼしい事件だけひろってみても、赤坂ボントン事件、五月一日の武装メーデー、帝大生曾我正雄の殺傷事件など血なまぐさい陰惨な事件が思い出される。田中、佐野らの左翼冒険主義は、民衆に恐怖を与えるだけであった。彼らはそれまでの冒険主義的な戦術の誤りを反省し、正常な路線に復帰するため、世田谷祖師ケ谷の中本たか子宅で集会をもった直後、一斉に検挙されてしまった。
ところで田中らの一斉検挙の際にも、不思議に生き残った幹部が数名いた。その一人に極東共産大学出身の松村昇がいた。松村は、モスクワに党の被害状況を報告し、新しい活動家の派遣を求めた(といわれているのだが、真偽は分らない)。それで派遣されたのが、風間丈吉である。風間、松村は、保釈中の岩田義道らと連絡し、田中らの検挙後一年で、党中央部を構成した。一方、三・一五、四・一六で検挙された共産党被告の公判闘争が、昭和六年六月二十五日から東京地方裁判所で開かれ、翌年十月末まで続いて行われた。昭和七年の夏には、有名な三二年テーゼが発表され、戦争の危機を前にしての、日本の情勢分析と、共産党の任務に関して明確な指針が与えられた。また反面、革命に対する反革命もはげしく、血盟団事件、五・一五事件と相つぐ暗殺行があとをたたなかった。松村、風間らによって再建された共産党は、三二年テーゼに従って、天皇制、および帝国主義戦争反対のスローガンをかかげ、ファッショ化に抵抗するが、弾圧が激化するにつれて、闘争の形態も深刻な様相を示しはじめる。軍隊内部への細胞組織の確立、ピストル等武器の調達、党資金獲得のための各種事業部の創設、銀行襲撃事件及びシンパ資金網の拡大強化、等の非合法活動は昭和七年十月三十日の熱海検挙まで続く。
太宰治が上京して来た昭和五年四月から、青森検事局に出頭する昭和七年十二月までの二年八ヵ月は、ちょうどこの共産党の混迷と敗退の時期に当っている。では太宰は「世人の最も恐怖していたあの日蔭の仕事」でどのような部署をうけもったのだろうか?
まず彼が与えられた役割は、弘前高校時代以来の資金カンパであった。彼はある同志から「君には文才があるようだから、プロレタリヤ文学をやって、原稿料を取り党の資金にするようにしてみないか」といわれて、匿名でプロ文学を書いたが、眼がしらが熱くなって来て、ものにならなかった。(彼は、プロレタリア文学を読むと、鳥肌立って、眼がしらが熱くなった。無理な、ひどい文章に接すると、どういうわけか、そうなるのだと書いている)。これは「苦悩の年鑑」中の文句だが「東京八景」に出てくる「大袈裟な身振りの文学」に対する軽蔑とあわせ考えると面白い。つまり、太宰には政治と文学に関する、二元論的な解釈があって、それが魯迅に見られる「墨で書かれたたわごとは、決して血で書かれた事実を掩いかくすことはできない」とか「文学文学というのは一番役に立たないことであって、力のないものの言うことだ。実力のあるものは、決して口を開かないで、いきなり人を殺す。圧迫されるものは、ちょっと何か喋り、ちょっと何か書いても、殺害のうきめを見なければならない。(略)こういう文学というものが、一体人々に何の役に立つだろうか」などという言葉と対照して、考えさせられるのである。誤解のないように云っておくが、私は魯迅と太宰の相似をいっているのではない。二者の文学に対する一見絶望的な考えの裏に、無限とでもいえる距離が横たわっていることをいいたいのだ。しかしそれは別の機会にふれたい。
ただここで「プロレタリヤ文学をやって、原稿料をかせぎ、資金をつくれ」と依頼されていることは、その頃までの、共産党の文化政策の限界を教えてくれる。四・一六の後、日本プロレタリヤ文化連盟(ナップ)の作家たちが、共産党に資金を提供したことを理由に検挙されたことがある(小林多喜二、中野重治、林房雄、片岡鉄兵ら)。作家は、「砲兵」でも、「魂の教師」でもなく、いわば、共産党の資金網の一環となるように末梢的に組織されていたのである。それは、共産党の文化政策の未熟さ、経験のなさ、政治目的へ直結させるせっかちな功利主義などによって生まれた。「文芸についてはその政治的な意味より、むしろ関鑑子の独唱や演劇の公演での資金の獲得、つまりその経済的な意味の方に大きい関心をもっていた」(注21) と鹿地亘は回想しているが、大正の末期に見られたこのようなありかたは、太宰が上京した頃も、まだ充分清算されずのこっていたとみられなくはない。
「結局私は、生家をあざむき、つまり『戦略』を用いて、お金やら着物やらいろいろのものを送らせて、之を同志とわけ合うだけの能しか無い男であった」(注21)
彼は登校もせず、東大の反帝国主義学生連盟に加わり、(この組織は、通称「アンチ」と称された日本反帝同盟の学生委員会のことだろうと思うが、自信がない)、文京地区の行動隊のキャップを兼任した。行動隊というのは、昭和五年一月議会解散の際に、拡大中央委員会で決定したアジプロ行動隊の武装されたものである。東京は五地区に分れ小林良一(?)の指導で、四、五人一組の行動隊が組織された。検挙に対して、暴力をもって対抗するためである。太宰が加わったのはこの組織であろう。彼らは共産党のアジビラをまき、ポスターを貼り、労働者の集まる場所をねらって煽動した。太宰は小さなナイフを買い、それをコートのポケットにしのばせて、連絡のために飛び廻った。
「朝はやくから、夜おそくまで、れいの仕事の手助けに奔走した。人から頼まれて、拒否した事は無かった。自分の其の方面に於ける能力の限度が、少しづつ見えて来た。私は、二重に絶望した」(注24)
ここで太宰の二度目の自殺未遂が行われる。女は死んで、太宰は生きのこった。
執行猶予の判決をうけると兄たちのはからいで、弘前高校時代からの馴染みの芸妓、小山初代と同棲することになった。彼女は彼のあとを追って上京したことがあったが、その時は長兄に因果をふくめられ、ひとまず帰郷したのだった。太宰は初代とともに五反田から神田同朋町、和泉町と転々と移り住み、再出発の希望も持てないままに、またずるずると、れいの仕事の手伝いをはじめていた。
「私はたびたび留置場にいれられ、取調べの刑事が、私のおとなしすぎる態度に呆れて、『おめえみたいなブルジョアの坊ちゃんに革命なんて出来るもんか。本当の革命は、おれたちがやるんだ』と云った。その言葉には妙な現実感があった。(略)同志たちは次々と投獄せられた。ほとんど全部、投獄せられた。中国を相手の戦争は継続している」(注21)
彼が次々と家を移ったのは、彼が物事にあきっぽかったからではない。検挙の手をのがれるやむを得ない手段であった。柏木、新富町、八丁堀……彼は小山初代をハウスキーパーがわりにして、転々とした。もちろん変名をつかった。太宰の行動はあくまでもシンパとしての行動であり、正式な共産党員としてのそれではなかった。もっとも非合法下の党にとって、党員も、シンパもその価値において軽重が問われる筈がなく、また、それを追求する側からいっても、シンパだから手加減を加えるということは、本質的にはあり得なかった。
「そのとしの晩春に、私は、またまた移転しなければならなくなった。またもや警察に呼ばれそうになって、私は逃げたのである。こんどのは、少し複雑な間題であった」(注21)
少し複雑な問題というのは何をさすのだろうか。時は昭和七年の四、五月頃ということになろう。どんな複雑な問題があって、長兄に二カ月分の生活費をねだり、家財道具を分散して、身体一つで移転しなければならなかったのか。党の非合法運動に関連してのこと柄なのか、それとも彼の私生活上のことなのか、皆目わからない。
或る日太宰はしようことなしに、東大に行き安田講堂前の芝生に寝ころがって時間をつぶしていた。将来に対する茫漠とした不安を忘れたかったのだ。そこえ同じ高校を出た友人が通りかかり、その男から初代の以前の過失を教えられて、ひどいショックをうけた。
「私は、Hを信じられなくなったのである。その夜、とうとう吐き出させた。学生から聞かされた事は、すべて本当であった。もっとひどかった。堀り下げて行くと、際限が無いような気配さえ感ぜられた。私は中途で止めてしまった。(略)私はHの欺瞞を憎む気は、少しも起らなかった。告白するHを可愛いとさえ思った。背中を、さすってやりたく思った。私は、ただ、残念であったのである。(略)要するに、やり切れなくなってしまったのである。私は自首して出た」(注24)
彼は検事の取調べをうけて釈放されると、また、初代の部屋に戻っていった。わびしい再会であった。共に卑屈に笑いながら、彼らは力もなく握手した。
太宰はコミュニズムの非合法運動から脱落する決意を固めた。そして、少しずつ放心の状態から立ちなおるにつれて、彼は遣書を綴りはじめたのである。それが「思い出」という太宰治の処女作になった。
太宰が初代の過失をしり、深く傷つけられたことは分る。しかし、それがそのまま政治運動からの離反に結びつく心理は、「短絡現象」といってしまってもまだ分らない部分がある。彼はすでに退潮期に入った時期に、望んで非合法運動に加わったのであるし、弾圧がいかにきびしくなったとしても、こわくて逃げ出すという形はとらなかったかもしれない。
「私は、純粋というものをあこがれた。(略)けれどもそれは、至難の業であった。私はただ、やけ酒を飲むばかりであった」(注21)
という太宰の言葉は、当時の党の腐敗堕落ぶり、セクト主義や、目的のためには手段を択ばない方法などに、潔癖に反撥している言葉と読んでいいだろう。三枝康高は『太宰治とその生涯』(注25) で、大森ギャング事件のとき、逃亡に際して、太宰の白金三光町の部屋を利用し、鞄のなかの札束を分けた話を紹介している。太宰がどの程度まで、資金局の仕事にタッチしていたか、アジトを提供しただけなのか、うらづけになる資料がないのだが、当時党中央にもぐっていた松村昇や大泉兼蔵らのスパイのやった各種の挑発行為や、党資金獲得のために、社交クラブまで経営する戦術に太宰がついてゆけたとは思えない。それら太宰と異質のものに対する絶望が、初代の問題によって急に触発されたものとみてもまちがいないような気がする。
太宰は「惜別」を書きながら、大森ギャング事件のおこった年の暮、青森検事局から呼ばれて、独り旅立って行った時のさむざむとした気持を思い浮べた。
「……裁判所の裏口から、一歩そとへ出るとたちまち吹雪が百本の矢の如く両頬に飛来し、パッとマントの裾がめくれあがって、私の全身は揉み苦茶にされ、かんかんに凍った無人の道路の上に、私は、自分の故郷にいま在りながらも孤独の旅芸人のような、マッチ売りのような心細さで、立ち竦み、これが故郷か、これがあの故郷か、と煮えくり返る自問自答を試みたのである。深夜、人っ子ひとり通らぬ街路を、吹雪だけが轟々の音を立て白く渦巻き荒れ狂い、私は肩をすぼめ、からだを斜めにして停車場へ急いだ」
太宰は「惜別」の魯迅像を書き進んだ。しかし書くうちに、その像はぼやけ、いつとなく、自分自身の表情が、魯迅の前面に現われてくるのをおさえることができなかった。
Ⅲ
魯迅−周樹人の仙台時代について、私が持っている材料は多いとはいえない。
周樹人が仙台医学専門学校に無試験入学したのは、一九○四年(明冶三十七年)九月である。はじめは市内片平丁五十二番地にあった差入屋、佐藤喜東冶の二階十畳に下宿した。宮城刑務所に向い合った家で、裏は広瀬川の河原に続いていた。川原に近いせいかその部屋は寒く、最初の冬は彼も寒さが身体にこたえたとみえて、「冬はひどく寒かった」と「藤野先生」にしるしているほどである。彼は翌年の夏、土樋というところに越した。学校は片平丁にあって、二度目の下宿からもそう遠くなかった。
樹人は医専に二学年の前期まで学び、一九○六年三月退学届を出して東京に戻ってしまう。その間、一九○五年春、夏の休暇に東京に出た他は、土樋の下宿を動かなかった。春の休暇に許寿裳と、箱根、蘆之湖を旅行したことは、許寿裳の『亡友魯迅印象記』にくわしい。この時期の魯迅を語る資料は魯迅の作品、「藤野先生」と「吶喊」の序文、許寿裳の回想の他には、藤野先生について書いた、いくつかの日本の紹介しかない。中国側の研究も、この時期に関しては弱く、「藤野先生」のフィクションの部分が、そのまま事実と混同されている感がある。とにかく魯迅の留学時代の事蹟が正確に掘り起されていないために、事実と虚構のふるいわけが難しく、それは将来の仕事になるだろうが、それにしても魯迅研究家の間で疑いを持つことがあまりに少なすぎる。
私は「藤野先生」に描かれている幻燈事件について考えるたびに、なんともやり切れない思いにかられることがある。幻燈事件というのは、「藤野先生」や、「吶喊」の序文に出てくる話で、魯迅が細菌学の時間に、露探として捕えられ、衆人環視のなかで処刑される中国の同胞の姿を、スライドで見た有名な話である。魯迅が医学を断念して、中国人の魂の救済をはかるために文学を撰ぶ心理的転回点が、この幻燈事件で象徴的に語られている。しかしこの幻燈事件は事実としての意床よりも、象徴的な意味で強く私たちに訴えてくるのだ。この象徴的ということをはきちがえる読者(に限らず中国研究家)がいる。彼らは魯迅を語るとき例外なくこの幻燈事件をとりあげるが、肝心の魯迅の心的な飛躍については理解しようとしない。そこから幻燈事件の神話化が生まれてくる。魯迅が「医学など少しも大切なことではない……愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全でも……せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか」と考え、「最初になすべき任務は精神の改造」と進み、それに役立つものは、「文芸が第一」と発展するコースは一本ではない。そこのところが、充分検討されないために、魯迅の文芸運動への道筋の非連続的なコースが、あっさりと飛びこされてしまうのだ。そのためには、思い切って幻燈事件を虚構であると否定する勇気が必要だと私は思う。否定することでひき起される強力なはね返りみたいなもの、そのエネルギーで幻燈事件の本質を考えてみたい。
その秘密を知るためには、彼が何故仙台に都落ちしたか、仙台に来て、どのような状況の中にひとりおかれたのか。その状況の中で彼は何を見、何にふれて考えたか、それらのことが、もう少しくわしくたどられる必要があるだろう。
魯迅が仙台を修学の地に択んだことについては、「留学生魯迅」の中に私なりの解釈を述べたつもりである。革命運動にひそむ虚妄を読んだ魯迅は、中国の留学生が一人もいったことのない東北の士地ヘ、自己の殻を閉ざしに行く、そこで彼は新しい回生をさぐろうとする、と私は書いた。そして、その魯迅の心奥の軌跡を、「藤野先生」の冒頭の一句、「東京も格別のことはなかった」から、「ほかの土地へ行ってみたら、どうだろう」までの微妙な変化のうちにさぐってみた。魯迅はそこに殆んど、この政治からの離脱の意味について洩らしていない。私たちは、魯迅の気持を「日暮里」という駅名を「なぜか私はいまだにその名を記憶している」という文句や、「仙台は市であるが、大きくない。冬はひどく寒かった。中国の学生は、まだいなかった」と重ねられ、三重に屈折させられている言葉の重なりのうちからかすかに汲み取ることができるだけだ。
魯迅は殻を閉ざしに来た、と私は書いた。しかし仙台に来た魯迅はそれが不可能であることをすぐ知らされている。それは「おそらく物は稀なるをもって貴しとするのであろうか」という、「中国の学生は、まだいなかった」に続く言葉が、はっきりと語っている。魯迅一流の苦渋に満ちたユーモアで、彼はそこに登場する「私」という人物に、これでもか、これでもか、と批判の鞭を加え続ける。(私は魯迅の『朝花夕拾』を自伝的な小説とみているから、作者魯迅が使う私と、魯迅自身が、別であることを前提にして話を進めている)。
魯迅が仙台に行った明治三十七年は、日露開戦の年にあたっている。入学した九月にはすでに旅順要塞の攻略戦がはじまっていたし、黄海蔚山沖の海戦で第二艦隊が勝利をおさめたのも八月のことである。仙台の第二師団は黒木の第一軍団に属し、遼陽作戦に参加していた。魯迅がおわれるような気持で旅立ったとき、東京では、街角で千人針を頼む婦人の姿をみかけたろうし、動員の兵士の集団も駅々で見たに相違ない。しかし、魯迅はそのことに何もふれていない。とにかく彼は仙台医専の第一学年に入学した。周樹人の入学願書と学業履歴書は今でも東北大学本部の書庫に残っている。
仙台に殻を閉ざしに行った魯迅は、仙台でかえって、東京よりもはげしく、戦争の渦中にまきこまれることになった。彼は日本が、維新後たどった近代化の歩みを、翻訳書を通してある程度知っていた。日本に留学してから眼をひらかれた部分も少くなかったろう。維新革命が、高野長英、杉田玄白、前野良沢など、多くの蘭法医によって先駆されている事実も知った。日清戦争で日本が勝利した理由も、今また大国ロシアを対手に勝利を得ている日本についても、日本の国土で呼吸し、戦争のもたらす銃後国民の興奮を眼前にすることによって分るような気がした。しかし、日露戦争における中国の地位といった問題について、果してどれだけの関心をもっていたろうか。南京の路鉱学堂から派遣されて日本に来、弘文学院で日本語を学習し、直接法による政治運動に参加した時期の魯迅が、中国の国際的な位置について、半植民地中国の現状について、どれほど正しい理解を持っていたか疑問に思う。私は「留学生魯迅」の中で新島淳良の文草に基づき、魯迅が『浙江潮』に発表した論文「中国地質略論」の論旨にふれ、諸列強の中国に対する鉱産物資源調査のあとに、帝国主義的侵略がつきしたがっていると説いている魯迅の民族主義について、書いたことがある。しかし私はその時、郷党意識が尚色濃く魯迅に存在していることも指摘しておいた。魯迅が封建的な礼教社会の一切のくびきに反対する気持は、断髪し、日本の和服を着、「わが血を以て軒轅にすすめん」とうたったことでも分るように、かなり生一本で直線的である。魯迅→浙江→中国という具合に、それは、屈折なしに重ねあわさっている。従って、目露戦争が、中国の、いわゆる満州の権益をめぐっていかように闘かわれようと、浙江→紹興→魯迅と結び合わされているような形では響いてこなかった。中国の問題を、一度その侵略国である日本に光をあて、その反射で照らし出すといった操作が、留学当初の、政冶運動に直線的に結びついていた魯迅には起り得なかった。そのために、彼は殻を閉ざしに行った仙台で意外にはげしく、自分のおかれている中国人としてのありかたについて、考えざるを得ない状態につきこまれてしまうのだ。
魯迅の死後二十周年を記念して、『文学』の魯迅特集号に「仙台時代の魯迅」(山田野理夫)という紹介がのったことがある。それによると日露戦争中医専の教官は次々に第二師団附として戦地へおもむき、また、仙台衛戍病院や、予備病院の勤務を志願して出る教授連も多く、学生たちも傷病兵の手当や看護に動員されたということである。山田野理夫は、魯迅が傷病兵の手当に動員されたことをすでに自明のことのように書いているがどうであろうか。私はその文章に書かれた以上のことを知らないからどうとも云えないが、魯迅が傷病兵の看護に動員され、戦争の傷跡をまざまざとその手でふれる体験をしたか、しないかは青年期の魯迅を語る際に重要なキー・ポイントとなるだろう。私が知っていることは、戦争をそれほど身近に感得しながら、何故か魯迅はそのことを書かなかったということである。第二師団の兵隊は連日のように、歓呼の声に送られて戦地に送り出されていた。それと引替に傷ついた兵士たちが、送り返されてくる。傷ついた兵士は、銃後国民の熱狂とは別の戦争の素顔、そのかくされた部分を砂をかむ思いでなめてきた人々である。魯迅が動員されていたら、彼の将来に影を投ずる何者かをそこから引出したはずである。私は魯迅が何故か「藤野先生」の中でそのことにふれていないことをいぶかしく思う。と同時に、生半可なことではふれることのできない強烈な印象を得ていたのだ、という風にも考えるのである。戦争の素顔について、その与える印象について、黙してはいられない気持と、なまじっかなことでは表現できないところから逆に一言も云い出さない気持と、どちらが強いか。
当時仙台医専の教授連で病院勤務を志願したのは、山形仲芸校長以下数人で、主として臨床医学関係の教授、助教授、講師たちであった。内科で病埋を兼任していた内田守一、柏村貞一、外科の佐藤熊之助、内科の島柳二などの教授の名前が知られている。魯迅の在学していた第一学年の講義はいわゆる基礎医学で、教授たちの志願で休講になることはなかったろう。体操の科目の成績表が、担当教官の出征のために、空欄になっているだけである。
私は中国留学生が、日露戦争中、動員された事実をくわしく知りたいと思ったが、それについて具体的な裏付ける資料を発見できなかった。魯迅の同級生たちが教授と一緒に動員されたことは想像される。勤労動員の汗の臭いは私たちの嗅覚からうすれてはいない。しかし、無試験入学で入って来た、授業料免除の中国人学生まで一緒に動員されたとは簡単にいいきれないような気もする。動員されたと考えた場合と、動員されなかったと考える場合と、そのどちらがより真実に近くなるか、またその各々の場合に魯迅が受ける反応はどう違うか、考えめぐらしてみるがどうもよく分らない。十把一からげに動員されてしまう方が、おこりうる可能性が強いともいえるが、魯迅だけが除外されることも、それ以上に常識的な妥当性があるといえる。仮りに除外されたとしよう。魯迅は、今迄以上に、中国人であることを身に沁みて感じたことだろう。学生魯迅が動員されたか、されないかは私の気持の中では等価値のものとしてはおかれていない。
魯迅が、それまでの二年数ヵ月、感じ、行動して来た多くの事柄は、いわば、日本という治外法権の中での温室ざきの花のようなものであった。彼は留学生集団の中で動いて来たし、その集団について行けずにそこから難脱したのだった。革命運動やそれの生み出すテロリズムにしても同様だった。魯迅が仙台に殻を閉ざしに来たことは、逆の作用を生んだ。彼はいきなり、日本人の間に投げだされているたった一人の中国人として自分を発見したのだ。
私の考えは再び「藤野先生」の中の文句、「おそらく物は稀なるをもって貴しとするのであろうか」というのに戻る。魯迅を待っていたものは、仙台の人々の中国人学生に対する「物めずらしさ」であった。チャンコロに対する、動物を眺めるような好奇心であった。彼はうわさに相違して、長いしっぽをたらしてはいなかった。弁髪をきった洋服姿の学生。たどたどしい日本語。小柄で無口な青年。額は広く、顴骨のやや高い、眉根の寄った男。澄んだ瞳には、一種いいしれぬ憂鬱の色をたたえ神経のこまかい感じだったが、内気な感じはしなかった。魯迅は、何となく周辺の眼に抵抗して、胸をはるような歩き方をした。
魯迅の言葉は、「私も、仙台へ来てから、……このような優待を受けた。学校が授業料を免除してくれたばかりでなく二、三の職員は、私のために食事や住居の世話までしてくれた」と続くのである。「初冬のころで、もうかなり寒いというのに、まだ蚊がたくさんいた。しまいには全身にフトンを引っかぶり、頭と顔は着物でくるみ、息をするために鼻の穴だけを出しておくことにした。この絶えず息が出ている場所へは、蚊も食いつきようがなかった」仙台に来た当時の魯迅の困惑が、精神的な不安がよく現われている。
周囲の日本人は、下宿のおかみさんからはじまって、学校の先生にいたるまで、好奇の眼で彼の挙動を眺めた。魯迅は仙台の人にとってはじめての中国人留学生である。私は外地にいて、中国人の学生たちと机を並べて勉強し、一緒に成長した経験があるが、たった一人異国人の中に投げこまれたときの魯迅の心情は想像以上であったろうと思う。当時の魯迅の写真はいずれも胸をそらしてうつっている。それが彼にできる懸命な抵抗のポーズだったかもしれない。彼は孤独という言葉の持つ実質を、改めて味わいなおしたと思われる。藤野先生の登場はこのような情況にある青年魯迅にとって一つの窓であった。救いの窓とはいわない。かすかに対話のうまれる、窓なのである。魯迅はそれまで、異国人の間で、一方的な独語にとりまかれていた。そこにかすかな対話の道が生まれた。藤野厳九郎のひかえ目な好意がそれを生んだのである。
藤野先生は、福井の人(福井県坂井郡本庄村下番十八の十五)、代々医者を業としている家に生まれた。明治七年のことだ。祖父は蘭学者宇田川玄真に、父升八郎は医学を緒方洪庵に学んだ、非常に進歩的な人であった。厳九郎は福井中学から愛知医学校に学び、一時明治生命保険の嘱託医になったが、東大の大沢岳太郎博士に就いて解剖学を専攻し、仙台医専に就職した人物である。(注26)藤野先生は魯迅が入学した年に教授に昇任した。
魯迅はこの色の黒い、やせた、そして八字ひげを生やし、眼鏡をかけた田舎くさい教授から朴訥で誠実な好い印象をうけた。東北弁とは違うアクセントで、自己紹介をはじめたが、教室のうしろに陣取っていた落第生がすぐひやかした。毎年やる講義の皮切りの挨拶が同じだったのかも知れない。愛称は「ゴンさん」だった。魯迅は風采のあがらぬ藤野先生に会って、なにかホッとした安堵に似たものを覚えたのである。
魯迅と藤野先生の交渉については今更書く必要もあるまい。問題は魯迅が藤野先生の好意の裏に何を見ようとしていたか、また藤野先生が留学生周樹人に何を与え、何を求めていたかである。いわば中日両国の交渉史が、ここに一つの断面をみせている。その断面のいくつかの礫層の間から、交流する両民族の鉱脈を発見することが大切なのではないか。どこがどう交渉をもち、どの部分が閉されていたか。それをさぐり出すことであろう。
それにふれる前に少し当時の仙台の町の模様を思い浮べておきたい。
彼がいた下宿(差入屋)佐藤屋の二階からは広瀬川の流れが見下せた。(注27)その川原(評定河原か)にロシヤ兵の捕虜収容所ができた。竹矢来を組んだ堀立小屋である。他にも宮城野原や、市内の寺院の境内などに収容所ができた。そこに、戦争に疲れたロシヤの捕虜たちが送りこまれて来た。いつごろ広瀬川の収容所が建ったのか、詳細に調べなくてはならないが、捕虜の数がふえたのは旅順の攻防戦がたけなわになったころだろうから、明治三十七年の暮から三十八年の春にかけてで、魯迅が差入屋の二階から、土樋の松本という人の家にうつる時期と符合する。日露戦争の捕虜は日、露両国ともかなりの数に達したらしく、とくにロシアの捕虜は八万を突破したということだ。日本各地に収容所ができて、松山の古町にできた収容所などは特に有名である。(日本の捕虜についてはメドウィージ村の収容所が知られている)。バルチック艦隊の司令長官ロジェストウェンスキーなども捕虜になった。有名なソビエトの同伴者作家で「ツシマ」、「敗走」等の連作でしられているノヴィコフ・プレボイなども、日本海海戦で捕まり、熊本収容所に送られた一人である(彼の帰国は一九○六年一月末だから戦後かなり長く抑留されていたことがわかる)。太平洋戦争のときと違ってロシア軍人はかなり親切にあつかわれた。上昇期にあった日本にはそれだけ精神的な余裕があったのだろう。しかし、捕虜のあつかいが如何によくても捕虜はあくまでも、檻に入れられた奴隷である。魯迅が収容所の竹矢来を見はるかす、差入屋の二階から他へ移ったことは、その前後の事情から考えて、この捕虜収容所の設置と無関係ではなかったように思われる。捕虜として収容されている異邦人と、好奇心のまじった興味をもって遇されている彼と、その孤独において変りはない。魯迅の場合はそれに一人で向わなければならなかったことが問題であった。魯迅は、独りで孤独の重みにたえた。彼の後年の寂莫感は、仙台にひとり行かねばならなかったこと、そしてそこでひとりでその重みにたえたことによって胎生している。
山田野理夫は、仙台の呉服屋が用いた広告文を紹介している。それは「帝国陸海軍万才、第二回新着広告、捕虜豚尾肩掛。第一回着豚尾支那切ニ相成今回又々第二回軍占領地旅順国ヨリ第二回之捕虜沢山着店致候間御一覧之上陸続祈御愛顧」というのである。そのうち、捕虜トンビとかトンビ品切ニ相成とかいう文句を留学生魯迅が見すごすことはなかったと思う。
先にのべたような中国人留学生に対する日本人の好意は、一方的であり相手の立場や意向をシンシャクしていないが、そのようなおしつけの態度は、東学党の乱に介入したころから、太平洋戦争まで、アジア諸国に対して一貫してしめした日本帝国の国是でもあり、大陸浪人などがみせた欠陥でもあった。東学党の乱で、日本が開化党を助けて朝鮮の近代化をたすけたという見方が、ある側面ではなりたつように、太半洋戦争で、アジア諸地域にもたらした、民族解放の触発者は日本であるという見方も、戦争の及ぼした側面のある一部では成立する。日本人の好意の内容をひんめくって、一つ一つ白日にさらすことが、これからのアジア諸地域に対する日本の連帯を考える上に必要なのだが、しかしそのことをここでふれ出してはきりがない。留学生魯迅の内奥に戻って行こう。
第一学年の間、彼はできるだけ冬ごもりの態勢を崩さなかった。だが彼がその殻にひとりとじこもっていることは、もう許されなかった。彼は学期末の試験を終えると思い切って東京に出た。その途中魯迅は水戸で下車し、明末の遺臣、朱舜水の遺跡を訪ねた。朱舜水が魯迅に向ってふたたび何を呼びかけたか、知るよしもないが、彼は上京して、すでに孫文が東京に入り、興中会、華興会、光復会を基礎に、革命団体の統一的な組織、中国同盟会結成に動いていることを聞き知ったに違いない。私は魯迅の胸底に動き出した新しい決意を見逃すことができないのだ。
第一学年の彼の学業成績は、解剖五九・三、組織七二・七、生理六三・三、倫理八三、物理六〇、化学六〇、独逸語六〇、平均六五・五、一四二人中六八番で合格である。(注28)
第二学年は九月にはじまった。藤野先生の担当は解剖実習と局所解剖学であった。魯迅は学校脇のミルク・スタンドで、コーヒーや洋菓子を食べることがあったが、通学する他はほとんど下宿にひきこもって勉強した。藤野先生が魯迅のノートに朱を入れたことで学生たちが騒ぎ出した事件は、解剖実習がはじまってまもなく起った。ある日同級の学生会の幹事が下宿に訪ねてきて、ノートを見せてくれという。取り出してやると、パラパラとめくっただけで帰って行った。そしてまもなく匿名の手紙がとどいて、それには解剖学の成績が良かったのは、藤野先生があらかじめノートに印をつけてくれたからだと非難してあった。魯迅が入学したおり、藤野先生は中国人留学生の便宜をはかって、魯迅のノートの誤記や、脱落を朱筆で改め、おぎなってくれた。それが第一学年中続いた。藤野先生の採点は他の教授にくらべてからかったらしいから、魯迅が中以上の成績で進学したことが、不審の的になったのであろう。魯迅の解剖の点数は、前に書いた通り五九・三、落第点である。せい一杯やっても、こういう暗記物は苦が手だったのかも知れない。魯迅はこのことをすぐ藤野先生に知らせた。彼の友人もその冤をそそぐために動いてくれた。やがてこの事件は事なくおさまったが、おさまらないのは魯迅の方であった。彼はいっている。
「中国は弱国である。したがって中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑ったのは無理なかったかもしれない」
「中国は弱国である。したがって中国人は当然、低能児である」という言葉を、魯迅は歯をくいしばって云っている。しかも、それを自分自身に向けていっている。日本人に向ってではなく、中国人である自分自身に向って。しかし、そのことによって日本人側の責任が解除されはしない。魯迅のいかりをしずめた言葉が、この底にはよどんでいる。事件の起る二三日前クラス会の通知が掲示されていたが、そこには「全員漏レナク出席サレタシ」とあって、その漏に圏点が打たれていたと、魯迅は書いているが、このようなアテコスリに現われた、日本人のけちくさい根性がよくとらえられている。すでに日露戦争はおわっていた。ポーツマス条約はロシアを敗戦国として認めさすことができず、賠償要求は放棄され、樺太南半分の割譲だけでおわってしまった。勝利のかけ声によっていた国民の失望は大きく、不満は爆発して、各地で焼打事件がおこった。魯迅が学年末に上京したのは、日比谷焼打事件の前後に当っている。仙台の町にも不満の空気はこもっていた。それが一部のお先ばしりの学生を駆って、このような動きを生んだのかもしれない。幻燈事件が起ったのはこのような時なのである。
細菌学の中川愛咲教授が、ドイツの留学土産に幻燈機を買って帰った。学校の費用からまかなったために、学校長や会計から大部文句がでたらしいが、学生たちはスライド写真によろこんだ。細菌学の授業に細菌の形態を見せるために使用されたものだが、時間があまると、戦争の実写なども映写した。魯迅の「藤野先生」中の言葉を借りよう。
「ところが、ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であった。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた」
ここで大切なことは、「教室のなかには、まだひとり、私もいた」という受け方である。ここには、銃殺されるもの、取りまいている観衆、そしてそれを見ている私と、その三つの部分が統一された視点がある。私が、銃殺されるものになり、それを取巻いている観衆になり、同時に私自身であるという関係は、魯迅の特異な視点である。魯迅は、そこから彼の独特な方法論を創り出して行く。肝心な点は幻燈事件を見て魯迅の考えが変ったことではなく、幻燈を見て魯迅が、銃殺された中国人になり、同時に観衆になり、しかも自分自身の主体をその中に解消しないという関係の発見にあった。幻燈事件はそのために象徴的な位置を魯迅文学の中に占めることができたのだ。この部分を抜きにして、幻燈事件を云々することは意味がない。私はこの章のはじめに、幻燈事件を否定する勇気を持ちたいといった。幻燈事件という神話にもたれかかって、魯迅を語ることは、魯迅を神格化する始まりである。そのような魯迅解釈を読むごとに私はムカッ腹が立った。幻燈事件なんて虚構だ、と私はいっておきたい。そして、その虚構を「藤野先生」の中核にすえた魯迅の作家根性に軍配をあげたい。魯迅は幻燈を見た。しかし「藤野先生」の中に描かれている通りには幻燈を見なかったかもしれない。大切なのは幻燈事件の語る象徴の骨格なのである。銃殺されるものが私であり、観衆であり、同時に私が、それを見ているという関係、これを私は魯迅文学の核心にすえることが必要だと思っている。
「『万才!』彼らは、みな手を拍って歓声をあげた。この歓声は、いつも一枚映すたびにあがったものだったが、私にとってはこのときの歓声は、特別に耳を刺した」
魯迅はそれからも、中国に帰って多くの、この幻燈にうつされたような場合に行合わせた。歓声をあげ、喝采するのは、細菌学の教室では、日本の学生たちだった。中国に帰って魯迅が見たものは、中国人自身が、同胞の死を見てたたく喝采の叫びだったのである。
魯迅はいう。
「——ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変ったのだ」
魯迅の考えは変った。変らざるを得なかった。それは、魯迅の中にひそむ銃殺される中国人ヘの連帯感、それを見て喝采する中国人と同様の血が、自分にも流れているという問題。それらの問題に対して自分自身をえぐることで対決しないではおれない衝動だった。
魯迅は第二学年の前期がおわると(二月)、藤野先生を訪ねて、医学の修学をやめ仙台を去ることを告げた。
私は魯迅が東京に再び戻ってくる直接の動機を、例の清国留学生の取締規則に反対する一斉帰国事件において考えたい。この取締規則は明治三十八年十一月、「清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規程」として公布されたものである。文部省側のいい分では、もうけばかりをねらった学校商売の悪徳漢を取締るためだと称しているが、実際には日増しに増加する清国留学生が東京を中心に革命運動の中核となって活躍するのにいささか手を焼いていたことも事実で、留学生に対する取締り規則でもあったのである。留学生たちは、これに反対して、抗議に立上った。孫文の片腕として活躍していた陳天華がこの問題にいきどおり、大森海岸で投身自殺したのは十二月八日のことだ。留学生たちの怒りは頂点に達し、一斉帰国を決議して、次々と帰国をはじめた。魯迅はそれを新聞で読んだはずだし、許寿裳との手紙のやりとりで詳しく知ったに違いない。彼は別離の際の藤野先生の悲痛な心を思わないわけではなかったが、それ以上仙台にいても、プラスにならない気持であった。
藤野先生は、魯迅が仙台をたつ二、三日前に、狐小路にあった自宅によんで写真を渡した。その写真の裏には惜別の二字が書かれてあったという。
ここで魯迅研究家が殆んど例外なく陥入ってしまう、ワナみたいなものが出てくる。それは「吶喊」の序文にある「精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動を提唱する気になった」という魯迅の述懐だ。これを読んでいると魯迅は中国民族のアタマの入れかえのために、医学をあきらめて、文芸をとったように早合点されやすい。それは魯迅一流のアレゴリーなのだ。魯迅が医学をえらんだことはいくつかの理由があった。幼い日の苦渋にみちた経験もその一つであった。彼の夢の中には、病人の救済という使命感もあったろう。また西洋の医学が、維新革命を前へおしすすめる大きな力の一つであったことも、彼をひきつける魅力だったかも知れない。しかし、医学は民族をすくえないからといって、すぐに精神の改造のために文芸に結びつく理由はあいまいである。魯迅が医学から文学へそのまま転身したように考える考え方はこの場合危険だと思う。医学は自分の殻をとざしに行く仙台で青年魯迅に手頃な、しかも彼自身を納得される勉強の対象となった。しかし、魯迅の心の内奥では、そのまま政治の問題がくすぶっていたのだ。魯迅は医学から文学に転進したのではなく、政治から文学へと転生したのだ。医学はそれへ転生するための、休止符の部分である。魯迅は直接的な政治実践から脱落した。そして仙台に向った。しかし彼を待っていたものは休息ではなかった。魯迅はいきなり、異邦人として日本人の、しかも勝利に酔った日本人の間に唯一人なげこまれる。彼はロシアの捕虜を見た。それに対する日本人の態度を見た。仙台は魯迅に酷であった。彼は東京に戻る。しかし、文芸はまだ彼の前にあらわれない。彼は東京に戻って何をやろうという目安がついていたわけではない。とに角取締規則に反対して帰国をはじめた同胞たちの中にも一度戻る決心をした。もちろん以前とそのままの形で政治に参加する気持はうまれてこなかった。魯迅は別の道をとることで民族の問題にふれ得ると思った。それは自分自身をふかくほりさげることで見出される、民族の根の問題であった。
彼は退学届を書いた。そして東京に戻る。文学が、新しく彼の前によみがえってくるのは、東京に戻ってから後のことである。梁啓超一派の文学的啓蒙主義は、竹内好もいうように、直線的な政治実践と表裏をなすものであった。魯迅の考える「文学」は梁啓超たちの主張とは断絶している。
Ⅳ
ところで太宰冶の「惜別」である。
太宰が「惜別」の魯迅を書き進むうちに、その像がぼやけ、いつとなく太宰自身の表情が、魯迅の前面にたち現われてくる、と私は第二章を結んだが、それは、太宰治の作家的な資質にも関係がある。「新ハムレット」も「お伽草紙」も「新釈諸国噺」も、その興味ある部分は、作品の内に現われてくる作者の顔の面白さである。豊島与志雄もいうように、彼の文学の特質の一つは、作品と作者との距離を無くすことであった。「新ハムレット」はそれで成功している。「カチカチ山」も「浦島さん」もそれがかなめになっている。しかし「惜別」の場合はそうはいかなかった。魯迅をひきよせるにつれて、魯迅の像はぼやけ、魯迅自身はどこか遠くへと逃げ出してしまった。彼が意気込めば意気込むほど、魯迅は遠くなって行く。そのことを太宰は気がつかなかった。それは太宰文学の本質にねざしていたために、どうしようもないことだったが、もう少し詳しく、太宰冶の作品準備から辿りなおしてみよう。
太宰が魯迅を読んだのは、岩波文庫の『魯迅選集』くらいからだったと思われる。彼はいくつかの雑誌論文や、魯迅に関する伝記などを時たま、眼にふれる範囲で読んでいたことだろう。小田嶽夫の『魯迅伝』が出たとき早速読んだことは前に書いた。小田とつきあうようになってからは、かなり魯迅について教えられるところがあったらしく、内閣情報局と文学報国会に依嘱されたときは、魯迅を対象に択んだことからして、太宰の傾倒の程が伺われる。小田に早速『大魯迅全集』を借りて通読しているが、それらを総合すると太宰治の魯迅像がかなり小田嶽夫の魯迅解釈に近く、構想されたらしいことが分る。とにかく太宰が小田嶽夫からうけた影響は無視できない。
『魯迅伝』の中に描き出されている魯迅は、明快で影をもたない。人物像として大きく、魯迅の像が、読者の心の中にスッとはいりこんできて、安心して読み進むことができる。しかし、魯迅の心像が、はたしてここに描かれているだけのものであったか、二重にも三重にも屈折し、矛盾したものが、魯迅の肉体の中でぶつかりあっていたのではないかという疑問は、そのまま最後まで満たされないでしまう。その点が私のこの作品に対する物足りなさだ。竹内好はこの作品の時代的な価値を認めた上でこう批判している。
「よくできた本である。よくできた、というのは魯迅の文章を丹念に整理して、再構成してあるからである。そして私は、いささかアマノジャクめくが、その点に問題を感じるのである。(略)文章はよみやすく、そしていくらか感動的でさえある。たぶん作者の人柄から来るのだろうが、スラッとして、抵抗を感ぜずに、読者は魯迅という一人の人間を思いうかべることができる。……それではこれは伝記として成功しているかというと、どうも私にはそう思えぬ。(略)私の不満の点を強いてあげれば、作者は素朴すぎやしないか、文章を信じ過ぎやしないか、文章を、その奥のところで問題にするのではなくて、手前のところで問題にしているのではないか、ということである」(注29)
竹内は、表現された二次的な世界で、その虚像を現実と思い込む危険をいっているのだが、魯迅の文章はうっかりすると、そのアナにはまり込むうまさのようなもの、変装上手のようなものに満ちている。そこに立ちどまってみる必要があるのだ。しかし、太宰はおそらく、小田嶽夫の『魯迅伝』の中にスムースにはいることができたのではないか。そこから魯迅を安易にひきよせる可能性のようなものを汲み取ったのではないか。それは小田嶽夫の作品の責任ではなくて、太宰の側の問題なのである。
私は第一章で、太宰の作品準備と、構想の変遷、題名の変更などについて書いたが、彼の構想は『魯迅伝』に依って火をつけられたことは疑いない。その範囲で彼は仙台での取材を行っている。プロットは、最初、留学生魯迅に焦点を集めた、客観小説として進められていたらしいが、いつどのようにして、仙台医専時代魯迅と同級だった老医師の思い出として構成しなおされたのか、時間的な関係が分らないので、自信はないが、竹内好の『魯迅』を読んだことが、それと無関係ではないような気がしてくる。そのことについては第一章でのべたから、くりかえさないが、一時的に太宰の魯迅像がかき乱されたことは明瞭である。「支那の人」から「清国留学生」、そして「惜別」と、三転している題名からは、太宰の魯迅認識の深まりと共に、太宰が書きたいと思った対象のつかみかたの変化が読み取れなくもない。しかし情報局宛に意図を説明する一文を提出した際にはすでにこの題名は決まっていた。
竹内好と太宰の交渉について、太宰は『惜別』の初版本あとがきに記しているし、竹内は、その後、「藤野先生」にふれた感想の中でと、『新日本文学』に発表した「花鳥風月」と、筑摩版太宰治全集普及版の月報に寄せて、「太宰治のこと」を書いている。それを読むと、竹内が太宰に期待したものが、如何に無惨に崩れていったかよくわかる。
竹内好は息づまるような戦争下にあって、太宰の文学的抵抗を尊いものとしてみていた。太宰も竹内の文論を雑誌で読んでいろいろ感ずるところがあった。とくに太宰が竹内を身近に感じたのは、竹内が『文学界』の昭和十八年十月号に発表した「魯迅の矛盾」という評論を読んでかららしい。魯迅の書下しに専念していた竹内は、その頃ようやく脱稿し、原稿を日本評論社に渡した。しかし、この著書が出版されない前に竹内は出征した。彼は日頃愛読していた太宰が、竹内の評論を読んだことを人伝てに聞いたことから、出版元に、本が出来たら太宰に贈呈するように頼んでおいた。本をうけとった太宰は丁重な礼状を留守宅に送った。ところで竹内の著書を一読した太宰は、小田嶽夫の著書によってつくりあげていた魯迅像と、異質な魯迅が存在することを知った。これは太宰にとって当惑に近い驚きであった。前に引用した「私は狼狽し赤面し、かつはこの奇縁に感奮して、少年の如く大いに勢いづいて」仕事をはじめた太宰の気持は、おそれと、よろこびと相半ばするものであった。魯迅へのおそれ、竹内の魯迅研究のもつ、不可解な魅力、太宰は当惑から立直ると、まず魯迅を一枚へだてて、一人の老医師を通して描く方法へ逃げた。そして、竹内の魯迅研究がしのび込んでくる、穴という穴をふさいでしまった。しかし竹内の著書が、もっている「秋の霜の如くきびしい」精神から、太宰は、それの生みだす感覚的な味だけをつみとることを忘れなかった。それは、竹内が魯迅を語ることでとらえようとしている、戦争下の暗い現実に対するあらがいと、その姿勢からかもしだされる香気であった。太宰が、「惜別」を書き進むうちに、十二年前の自己を思い浮べたのは、魯迅の孤独な魂にふれたからだけではなく、竹内の本が太宰に与えた影でもあった。しかし、太宰は過去の自分を思い出すことで、「惜別」を実り豊かなものにすることはできなかった。それは、当時の魯迅研究の水準の低さということにもよるが、実際は、魯迅における政治と文学の問題が、太宰における政治と文学の場合とまるで隔絶していたため、そこに交流がおこらなかったことに起因している。私が非常に残念に思うことは、太宰が、魯迅の仙台行の本質を充分理解できなかったこと、「自己嫌悪にも似た反撥」とより解釈できなかったことである。太宰の苦難はあくまで太宰治個人に止まり、魯迅の身もだえして抜け出してゆく苦しみとは、本質的にふれあわない。太宰と魯迅が、同じ政治の問題につまずきながら、ふれあわずに別々に問題が提出されてしまう、その物足らなさである。私は第二章でくわしく太宰の足どりを描いてみた。また第三章では魯迅の足どりを辿ってみた。しかしはたしてどれだけの部分がふれ合うことができたか? そのふれ合いのなさの中に、日本と中国との差違を読みたいのである。
Ⅴ
太宰治の「惜別」は何度もいうように、東北地方の某村に開業している一老医師の手記の形式をとっている。老医師は地方新聞のインタヴューの記事が気にくわない。改めて自分の手で手記をまとめておこうと思い立つ。その冒頭の部分は魯迅の級友小林茂雄の手記からヒントを得たものらしい。「私」は田舎の中学から東北一の都会仙台に出て来た学生である。田舎、田舎した自分が気になって肩身せまく学校に通っている。ある日松島に遊んだ折り、調子はずれの歌をうたっている中国人留学生周樹人を知り、それまで抱いていた劣等感がうすれて、友達づきあいをはじめるというのである。「惜別」のあらすじを紹介するつもりはないが、最初読んだときこの松島のであいまできて、これは違う、まるで違っているという当惑のようなものを感じた。きざっぽくドイツ語をつかって、「このしずかさ、いや、しずけさ」と言い澱んで苦笑して、「ジレンティウム」……「あまりに静かで、不安なので、唱歌を声高く歌ってみましたが、だめでした」という具合だが、「これが魯迅か」といいたくなるような、いやらしさである。そして、アインザームという言葉が気に入った様子で遠くを見ながら、「僕は、ワンダーホーゲルでしょう、故郷が無いのです」といわせている。魯迅は故郷がないなどとは絶対いわない。アインザームという言葉は、ここでつかわれているような形では魯迅に関係のない言葉だ。魯迅の孤独は、ミリタントなものに支えられた、孤独さとでもいうものである。「惜別」は各頁、このようなつまずきで満たされている。書き出したらきりがない。はじめの方で「日本の愛国心を無邪気すぎる」といわせていることなど、太宰の言葉としての面白さはあっても、魯迅の言葉としては無意味である。あの当時の魯迅は愛国心を無邪気すぎるなどとは口が歪んでもいわなかったはずだ。周樹人が、松籟をきいて松島も完成されたといい、月夜の松島を見たくなり、「キザ」という言葉に感心して「日本の美学は実にきびしい」というが、何とも得体のしれない魯迅である。ここで魯迅は東洋的な孤独をたのしむ、文人趣味の持主として描かれている。魯迅は第一これほどおしゃべりではない。太宰的饒舌がいたるところに顔を出すが、実際の魯迅は話好きではあっても饒舌とは無縁のものだ。松島の宿屋で語る魯迅の身上話は、『朝花夕拾』が中心になっている。太宰が描く魯迅像が、私の考えている魯迅像と全然ふれ合わないことは、太宰が魯迅とふれ合わなかったことの証明にもなると思う。こまかいことは云うまい。一番大きな問題、魯迅の、仙台行きの理由が、また政治から文学への転回の問題が、太宰の「惜別」でどうとらえられているかについて考えてみよう。
「この戦争も支那の無力が基因であると考えている。支那に自国統治の実さえあったなら、こんどの戦争も起らなくてすんだであろうに、これではまるで支那の独立保全のために日本に戦争してもらっているように見えて、考え様に依っては、支那にとってはまことに不面目な戦争ではあるまいか。日本の青年達が支那の国土で勇敢に戦い、貴重な血を流しているのに、まるで対岸の火事のように平然と傍観している同胞の心裡は自分に解しかねるところであった。しかも同じ年配の支那の青年たちが奮起するどころか、相も変わらず清国留学生会館でダンスの稽古にふけっているのを見るに及んで、自分もようやく決意した。しばらく、この留学生の群と別れて生活しよう、自己嫌悪、とでもいうのであろうか、自分の同胞たちの、のほほん顔を見ると、恥ずかしくいまいましく、いたたまらなくなるのだ。ああ、支那の留学生がひとりもいない土地に行きたい。しばらく東京から遠く離れて、何事も忘れ、ひとりで医学の研究に出精したい」
この文章の前半は、これがかかれた時代の制約を考慮に入れるとしても、これでは魯迅の仙台行の本質は何も理解されていないというほかない。「自己嫌悪」という言葉が、底の浅いところでとらえられて、「自分の同胞たちの、のほほん顔を見ると、恥ずかしくいまいましく、いたたまらなくなる……ああ、支那の留学生がひとりもいない土地へ行きたい」と太宰流にしめくくられている。従って魯迅のこの時の気持を表現する言葉は、憂愁か、孤独か、寂莫かという出来合の言葉でもって、そこに追いやられる魯迅の感情の移行は一つとして辿られていないのだ。民族的な革命運動も津田憲治という府立一中出身の出しゃばりな志士きどりの学生の口から解説されることになっている。魯迅の医学放棄については折角、太宰らしく、「所謂『幻燈事件』に依って医学から文芸に転身するようになったと確信しているそうであるが、それはあの人が、何かの都合で自分の過去を四捨五入し簡明に整理しようとして書いたのではなかろうか、人間の歴史というものは、たびたびそのように要領よく編み直されて伝えられなければならぬ場合があるらしい」と書いておきながら、魯迅は前から文芸が好きで、日本の当時の文芸熱に感染したためだ、という老医師の解釈を引き出しているのだ。太宰には幻燈事件の象徴的な意味が分っていない。学生たちのいやがらせやアテコスリと幻燈事件は、魯迅の中では一つの点火によって生じた連鎖反応なのに、太宰はこれを別々の事件としてきりはなして構成している。また幻燈の最中に、暗い教室から、そっと廊下に周樹人が忍び出たという風に書いて、「教室のなかには、まだひとり、私もいた」と受けられる肝心な箇所がボカされてしまう。太宰の画いた魯迅は、いやがらせ事件からも幻燈事件からも、そう深い傷手をうけてはいないのだ。要するに青年魯迅の内心の軌跡は全然たどられていない。折角ロシア人捕虜の収容所を出しておきながら、そこからの反射を合成していないのも残念だ。ただ『朝花夕拾』にあるいくつかの外面的な事項から、太宰流の文人趣味的な魯迅を再編しているだけである。しかも、不必要なムダまでくっつけてしまっている。例えば魯迅が日本流の「忠孝」の本義を説き、「日本には国体の実力がある」などといわせ、あげくのはては、メソジスト教会にまで出かけて行き、「おのれを愛するがごとく隣人を愛せよ」などといい出し、「孔孟の教を軽んじません」などと、まるで魯迅が眼を廻しそうなことを勝手に云わせている。しかも諷刺小説でもなく、すこぶる大真面目にである。とくに彼が教会に行くことは、当突すぎる。その必然がなくていきなり教会にかけこんでいるのだ。太宰に内村鑑三や、塚本虎二に傾倒した時代があったことはひろく知られている。彼は聖書を愛読したらしい。戦争中の太宰の「静かな抵抗」を支えたものはキリスト教であった。しかし聖書が彼に救いを与えなかったことは、彼のコミュニズムが、彼に安住の地を与えなかったことと同様である。太宰は「藤野先生」にトルストイが主張した「爾ら悔改めよ」の一句があるところからいろいろ触発されたらしいのだが、青年魯迅を雪の日に教会へ行かせるような安易な考えが、太宰の宗教意識だとしたら、どうにもやりきれない。
トルストイは一九○四年六月二十七日のロンドン・タイムズ紙上で、人道主義の立場から、戦争の罪悪を「悔改めよ」と叫んだのである。「悔い改めよ」という文句は、当時の流行語の一つとなったのであろう。太宰のキリスト教への傾斜は、コミュニズムの挫折以後に起っており、作品の上からいえば「Human Lost」あたりからだろう。しかしそれが信仰という形にまで進んでいたかどうか疑問に思う。太宰におけるコミュニズムが結局心情のコミュニズムに止まったように、信仰の問題も文学的な「願望」、祈りめいた神との対話にすぎなかった。
とにかく「惜別」の中の青年魯迅は、それが魯迅という実名を冠せられている限り、完全な失敗作で、そこに登場する人物は、太宰の片貌を背負った、太宰好みな人間なのである。そこには魯迅の魂のふるえは少しもきざみこまれていない。常に行為が外面的にのみ語られていて、外面が内面との脈絡を欠いている。医学への転身も、文学への転生も、幻燈事件やいやがらせ事件も、魯迅の心奥に向って重層的にはたらきかける潜在エネルギーとしては、たたみこまれていない。魯迅が、日本人学生たちと対置して浮彫されず、藤野先生にひらかれている対話の窓が、途中で遮断されてしまって、青年魯迅の仙台をさって行く姿が、読む者の心に重量感をもって投げこまれない、つまり作者のもっていた「惜別」の主題が空中分解してしまっているのだ。
太宰には魯迅に対する太宰なりの愛と憎しみの共感があった。しかし太宰における政冶は、心情における政冶であり、文学への結び目に、彼流の虚無がありながら、魯迅のもっている政治ヘの虚妄感とは交渉をもたないでおわっている。太宰は、それらの非難を暗黙の中に予感したかもしれない。すべては一老医師を通して語られ、魯迅像のふたしかさはこの老医師におしつけられてしまっているからだ。
太宰は「惜別」をかくことで新しい時代に向って自己をたてなおそうとした。そのために魯迅を択んだ。しかしこのことは失敗であった。彼のもっていた欠陥が、魯迅を択んだことで拡大された。骨格だけ大きく、人物の造形においてすきま風の通った見事な失敗作として残ったことは当然のことかもしれない。もっとも太宰は「惜別」を描きながら彼なりの回生を希っている。それは新しくはじまるであろう時代の誕生だった、太宰は「津軽」の中に太宰の根付いている故郷の土地と人を描き出した。そこに彼は自分の根源的な世界をみている。そこから彼は戦後に向って飛翔しようとする。しかし戦後は彼の希望する方向には行かなかった。青森地区の共産党の再建会議に出掛けていった太宰は、ふたたびその門をくぐらなかった。(注30)
彼は書いている。
「まったく新しい思潮の抬頭を待望する。それを云い出すには、何よりもまず、『勇気』を要する。私はいま夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我らの生活は自給自足のアナキズム風の桃源である」(注21)
太宰は求めて得られなかったものを戦後の頽廃と無頼の中に求めた。魯迅は閉された自己の殻を出て再び東京へ戻る。嵐の吹いている東京へ。そこで彼が求めたものは文学だった。魯迅は新しく文学に生きかえった。しかし、太宰は文学に生きかえらなかったか? 太宰における政治と文学、魯迅における政冶と文学、その二者の距離の間に、日本と中国の政冶と文学の断層が生まれる。三枝康高は『太宰治とその生涯』のあとがきで、「太宰治は日本のチエホフであり、魯迅であると私は思う」と書いている。そういいたい気持は分る。しかしそういってはいけないのだ。太宰治が魯迅でないことそのことを、お互に明確にすることをおろそかにして、日本に魯迅は生まれない。魯迅が「藤野先生」の中で愛したもの、また憎んだもの、それを、私たちが魯迅以上に愛し、また憎むこと、そのためには、魯迅の屈辱が、各々の中で各々の体験を通して「愛と憎しみへ向ってはっきり昇華」(竹内好)されることが必要である。そのときはじめて、魯迅研究は花鳥風月からはなれて一個の科学になりうる。
竹内好が復員して「惜別」をよみ、ひどくガッカリし、いい気なもんだと思い、それ以後太宰の作品をよまなくなったということは、太宰文学の致命傷をさすだけでなく、日中問題の将来に予見された絶望的な深淵でもあった。
(1) 昭和十九年四月刊、各国代表演説の全文を収録してある。
(2) 大東亜共同宜言
抑々世界各国が各其の所を得相倚り相扶けて万邦共栄の楽を偕にするは世界平和確立の根本要議なり
然るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行い大東亜隷属化の野望を逞うし遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり大東亜戦争の原因茲に存す
大東亜各国は協同して大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし左の綱領に基き大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す
一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す
一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢し大東亜の文化を昂揚す
一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す
一、大東亜各国は万邦との友誼を篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す
(3)昭和十八年十一月十日号。
(4)〈文学〉昭和三十年八月号。
(5)中央公論社・昭和三十三年九月刊。その後〈文学〉は、「戦争下の文学・芸術」を 四回にわたって特集し、多くの貴重な資料を提供してくれた。しかし文学史にくみこむ 仕事はこれからである。
(6)筑摩版『現代日本文学全集』別巻Iの〈現代日本文学史〉に収録されている平野謙 の文章にある。
(7)〈大安〉第五巻第五号所載、飯田吉郎編「現代中国文学研究文献目録」評。
(8)「十五年間」より。
(9)筑摩版『太宰治全集』月報十一。
(10)昭和十九年八月十七日付書簡。
(11)朝日新聞社、昭和二十年九月刊。
(12)「鴎」昭和十五年一月〈知性〉に発表。
(13)「『惜別』準備の頃」筑摩版全集月報七。
(14)昭和十九年二月二八日付書簡。
(15)『太宰治』〈現代作家論全集〉10・五月書房版。
(16)「惜別」の意図。
(17)村上辰雄「『惜別』の思い出」・筑摩版全集月報七。村上は太宰が「惜別」執筆の ため仙台を旅行した当時河北新報出版部にいた。
(18)「頽廃の根源について」〈思想〉昭和二十八年九月。「惜別」にふれた一項。
(19)「惜別」初版本のあとがき。
(20)筑摩版『現代日本文学全集』49解説。
(21)「苦悩の年鑑」。
(22)石上玄一郎・「弘高時代の太宰」八雲版全集第十三巻月報、および三浦正次・「太宰治と細胞文芸」筑摩版全集第十二巻月報参照。
(23)荒正人・佐々木基一・平野謙・本多秋五編『討論日本プロレタリア文学運動史』三 一書房・昭和三十五年五月刊。
(24)「東京八景」。
(25)現代社・昭和三十三年九月刊。
(26)詳細は藤野恒道「藤野先生小伝」〈中国文学報〉昭和三十一年四月、および藤野恒 宅「おじ藤野厳九郎について」講談社〈少年少女世界伝記全集〉11の月報を参照してほしい。
(27)現在は西垣久美宅として残っている。片平丁の通を東北大学とは反対に左ヘ、鍛冶 屋前丁を曲り、つきあたったところをさらに左へおれたあたりである。
(28)小林茂雄「魯迅と仙台医専時代」改造社版『大魯迅全集』月報五。
(29)「花鳥風月」〈新日本文学〉昭和三十一年十月。
(30)大沢久明・鈴木清・塩崎要祐著『農民運動の反省』新興出版社昭和三十一年十一月刊には、共産党再建の第一回準備会に出席した太宰について紹介がある。それによると 彼は「僕は共産主義を信じている。しかし、日本の共産党はいつでも、コミンテルンの云いなりになってきた、これは日本の党ではない。だからこの後はコミンテルンと手を切らなければ入党しない……」と発言したという。