思ひ出(抄)

 序詩

 

思ひ出は首すぢの赤い螢の

午後ひるすぎのおぼつかない触覚てざはりのやうに、

ふうわりと青みを帯びた

光るとも見えぬ光?

 

あるひはほのかな穀物の花か、

落穂ひろひの小唄か、

暖かい酒倉の南で

ひきむしる鳩の毛の白いほめき?

 

音色ねいろならば笛の類、

蟾蜍ひきがへるの啼く

医師の薬のなつかしい晩、

薄らあかりに吹いてるハーモニカ。

 

匂ならば天鵞絨びろうど

骨牌かるた女王クインの眼、

道化たピエローのかほ

なにかしらさみしい感じ。

 

放埒はうらつの日のやうにつらからず、

熱病のあかるい痛みもないやうで、

それでゐて暮春のやうにやはらかい

思ひ出か、ただし、わが秋の中古伝説レヂエンド

 

  金の入日に繻子の黒

 

金の入日に繻子しゆすの黒──

黒い喪服もふくを身につけて、

いとつつましうひとはゆく。

海のあなたの故郷ふるさと今日けふも入日のさみしかろ。

夏のゆく日の東京に

茴香艸うゐきやうさうの花つけて淡いこなふるこのごろを、

ほんにしなよいかの国のわかいキングもさみしかろ、

心ままなる歌ひのエロル夫人もさみしかろ。

 

金の入日に繻子の黒──

黒い喪服を身につけて、

いとつつましうひとはゆく。

九月の薄き弱肩よわがたにけふも入日のてりかへし、

粉はこぼれてその胸にすこし黄色くにじみつれ。

金の入日に繻子の黒、

かかるゆふべに立つはぞ。

 

  骨牌の女王の手に持てる花

 

わかい女王クインの手にもてる

黄なる小花ぞゆかしけれ。

なにか知らねど、しべ赤きかの草花のかばいろは

阿留加里アルカリをもて色変へしうれひの華か、なぐさめか、

ゆめの光に咲きいでて消ゆるつかれか、なつかしや。

 

五月ついたち、大蒜にんにく

黄なる花咲くころなれば、

忠臣蔵の着物きて紺の燕もかけるなり、

銀の喇叭ラッパに口あててオペラ役者も踊るなり。

されど昼餐ひるげのあかるさに

老嬢オールドミスの身の薄くナイフ執るこそさみしけれ。

 

西の女王クインの手にもてる

黄なる小花ぞゆかしけれ。

何時いつも哀しくつつましく摘みて凝視みつむるそのひとの

深き眼つきに消ゆる日か、過ぎしその日か、憐憫あはれみか、

老嬢オールドミスの身の薄くひとりあるこそさみしけれ。

 

  黒い小猫

 

ちゆうまえんだの百合の花、

その花あかく、根はにがし。

ちゆうまえんだに来て見れば

豌豆えんどうのつるみちひ、

黒い小猫の金茶の眼、

鬼百合の根に昼光る。

 

べんがら染か、血のいろか、

鹿子かのこまだらの花弁はなびらは裂けてしづかに傾きぬ。

裂けてしづかに輝けるくりの花粉のまばゆさに、

父の秘密を知るやとて

よその女のぢつと見しきその眼つきか、金茶の眼、

なにか凝視みつむる、金茶の眼。

 

黒い小猫の爪はまた

鋭く土をかきむしる。

百合の疲れし球根のそのなまじろさ、薄苦うすにがさ、

掻きさがしつつ、たはむれつ、

後退あとしざりつつ、をののきつ、

なにか探せる、金茶の眼。

 

そっと堕胎おろしたあかんぼの蒼い頭か、金茶の眼、

ある日、あるとき、ある人が生埋いきうめにした私生児みそかご

その児さがすや、金茶の眼、

百合の根かたをよく見れば

燐は湿りてつきまとひ、

たまのあたまはらされて爪に掻かれて日に光る。

なにか恐るる、金茶の眼。

 

ちゆうまえんだの百合の花、

その花赤く、根はにがし。

ちゆうまえんだに来て見れば

なにがをかしき、きょときょとと、

こころれたるふところ手、半ば禿げたるわが叔父の

歩むともなき独語ひとりごと、ひとり終日ひねもす、畑をあちこち。

 

  註 ちゆうまえんだ。わが家の菜園の名なり。

 

  足くび

 

ふらふらと酒に酔うてさ、

人形屋の路次を通れば、

小さな足くびが百あまり、

薄桃いろにふくれてね、

可哀相かはいさうあしのうらには日があたる。

馬みちの昼の明るさよ、

浅艸あさくさの馬道。

 

  みなし児

 

あかい夕日のてる坂で

われと泣くよならつぱぶし……

 

あかい夕日のてるなかに

ひとりあやつる商人あきうどのほそい指さき、舌のさき、

糸にられて、譜につれて、

手足顫はせのぼりゆく紙の人形のひとをどり。

 

あかい夕日のてる坂で

やるせないぞへ、らつぱぶし。

笛が泣くのか、あやつりか、なにかわかねど、ひとすじに

糸に吊られて、につれて、

手足顫はせのぼりゆくおどけ人形のひとをどり。

 

なにかわかねど、ひとすぢに

見れど輪廻りんねが泣いしやくる。

たよるすべなき孤児みなしごのけふの寒さ、身のつらさ、

思ふ人には見棄てられ、商人あきうどの手にやはじかれて。

糸に吊られて、譜につれて、

手足顫はせのぼりゆく紙の人形のひとをどり。

 

あかい夕日のてる坂で

消えもるよならつぱぶし……

 

  秋の日

 

さいその児があかあかと

とんぼがへりや、皿まはし……

小さいその児はしなしなと身体からだらして逆さまに、

足を輪にして、手に受けて、

顔をかかとにちよと挾む。

足のあひだにその顔の坐るかなしさ、なまじろさ。

落つる夕日のまんまろな光ながめてひとしづく

 

あかい夕日のまんまろな光眺めてまじまじと、

足を輪にして、顔据ゑて、小さいその児はまた涙。

そばにや親爺おやぢが真面目がほ、

かねや太鼓でちんからと、俵くづしの軽業かるわざ

浮いた囃子はやしがちんからと。

 

知らぬ他国の潟海がたうみに鴨の鳴くこゑほのじろく、

魚市場さかないちば夕映ゆふばえが血なまぐさそに照るばかり、

人立ちもないけうとさに秋も過ぎゆく、ちんからと。──

 

さいその児がただひとり、

とんぼがへりや、皿まはし……

 

  断章 六十一 抄

 

   一

 

今日もかなしと思ひしか、ひとりゆふべを、

銀の小笛のもほそく、ひとり幽かに、

すすり泣き、吹き澄ましたるわがこころ、

薄き光に。

 

   二

 

あはれ、わが、君おもふヰ゛オロンの静かなるしらべのなかに、

いつもいつも力なくまぎれ入り、鳴きさやぐ驢馬のにほひよ。

あはれ、かの、野辺にねて、名も知らぬ花のおもてに、

あはれ、あはれ、ゆき日のなげかひをわれひとりぎそめてより。

 

   三

 

あはれ、友よ、わかき日の友よ、

今日もまた街にいでて少女らにおもて染むとも、

あざみそ、われはなほ、われはなほ、心をさなく、

やはらかき山羊のの香のいまも身に失せもあへねば。

 

   四

 

あはれ、あはれ、色薄きかなしみの葉かげに、

ほのかにも見いでつる、われひとり見いでつる、

青きのうれひよ。

あはれ、あはれ、青き果のうれひよ。

ひそかにも、ひそかにも、われひとり見いでつる、

あはれ、その、青き果のうれひよ。

 

   五

 

なやましき晩夏おそなつの日に、

夕日浴び立てる少女の

余念なき手にもまれて、

やはらかににじみいでたる

色あかきつまくれなゐの花

 

   六

 

弥古いやふりて大理石なめいしはいよよ真白ましろに、

弥古りてかなしみはいよよ新らし、

弥古りていや清く、いよよかなしく。

 

   七

 

泣かまほしさにわれひとり、

やき玻璃戸はりどに手もあてつ。

窓の彼方かなたにあかあかと沈む入日の野ぞ見ゆる。

泣かまほしさにわれひとり。

 

   八

 

そをへばほのかにゆかし。

かのりし朱塗のうつは、

そがなかにくゆりにし

馬尼拉マニラ煙草よ。

いつの日のゆめとわかねど。

 

   九

 

あはれ、去年こぞ、病みて失せにし

かのわかき弁護士の庭を知れりや。

そは、街の、かど貸家かしや

めはてし飾硝子かざりがらすの戸を覗け、草に雨ふり、

色紅き罌粟けしのひともと濡れ濡れて燃えてあるべし。

あはれまた、そのかみの夏のごとくに。

 

   十

 

あはれ、あはれ、

色青き幻燈を見てありしとき、

なになればたづきなく、かのごとも涙ながれし。

いざやわれ、倶楽部にゆき、友をたづね、

くれなゐのトマト切り、ウヰスキイの酒や呼ばむ。

ほこりあるわかき日のために。

 

   十一

 

忘れたる、

忘れたるにはあらねども……

ゆかしとも、恋しともなきその人の

なになればふともかなしく、

今日の日の薄暮くれがたのなにかさは青くかなしき。

忘れたる、

忘れたるにはあらねども……

 

   十二

 

なにゆゑには泣く。

あたたかに夕日にほひ、

たんぽぽのやはき溜息野に蒸して甘くちらばふ。

さるを女、

なにゆゑには泣く。

 

   十三

 

われは怖る、

その宵のたはむれには似もやらで、

なにごとも忘れたる

今朝の赤き唇。

 

  淡い粉雪  Tinka John 作

 

淡い粉雪はブリツキの

薄い光に消えてゆく。

老嬢オールドミスのさみしさか、

青いそのも消えてゆく。

 

  穀倉のほめき

 

思ひ出は穀倉こくぐら挽臼ひきうすの上に

ぼんやりと置きわすれたる蝋燭らふそくの火か、

黄いろなる蝋燭の火は

苅麦かりむぎと七面鳥の卵とに陰影かげをあたへ、

悪戯者いたづらものの二十日鼠にうちわななく。

 

柔かに泣く声は物忘れゆく女のごとく、

薄あかりする空窓そらまどの硝子より、

ふけゆくよるのもののねをやかなしむ。……

黄いろなる蝋燭のちろちろ火。

いまだに大人びぬTONKA JOHNトンカ ジョンのこころは

かの穀物の花にかくれんぼの友をさがし、

暖かにのこりたる祭のお囃子はやしにききふける……

 

さみしき曙の見えて

顔青き乞食らのさし覗かぬほどぞ、

しづやかに燃え尽きむ

美しき蝋燭のその涙……

 註 Tonka John 大きい方の坊っちゃん、弟と比較していふ、柳河語。殆どわが幼年時代の固有名詞として用ゐられたるものなり。人々はまた弟の方をTinka John と呼びならはしぬ。阿蘭陀訛か。

 

  初恋

 

薄らあかりにあかあかと

踊るその子はただひとり。

薄らあかりに涙して

消ゆるその子もただひとり。

薄らあかりに、おもひでに、

踊るそのひと、そのひとり。

 

  薊の花

 

今日もあざみの紫に、

とげが光れば日は暮れる。

何時いつか野に来てただひとり

泣いた年増としまがなつかしや。

 

  見果てぬ夢

 

過ぎし日のしづこころなき口笛は

日もすがら葦の片葉の鳴るごとく、

ジプシイの昼のゆめにも顫ふらん。

過ぎし日のあどけなかりし哀愁かなしみ

こまやかににほひシャボンの消ゆるごと

目のふちの青き年増としまや泣かすらん。

過ぎし日のうつつなかりしためいきは

うすら雪赤のマントにふるごとく、

おもひでの襟のびろうど身にぞ沁む。

吹き馴れし銀のソプラノ身にぞ沁む、

過ぎし日の、そのよるの、言はで過ぎにし片おもひ。

 

  青いソフトに

 

青いソフトにふる雪は

過ぎしその手か、ささやきか、

酒か、薄荷はつかか、いつのまに

消ゆる涙か、なつかしや。

 

  意気なホテルの

 

意気なホテルの煙突けむだし

けふも粉雪のちりかかり、

青いきや、わがこころ

何時いつもちらちら泣きいだす。

 

  時は逝く

 

時はく、赤き蒸汽の船腹ふなばらの過ぎゆくごとく、

穀倉こくぐらの夕日のほめき、

黒猫の美くしき耳鳴のごと、

時は逝く、何時いつしらず、柔かに陰影かげしてぞゆく。

時は逝く、赤き蒸汽の船腹ふなばらの過ぎゆくごとく。

 

  鶏頭

 

秋の日は赤く照らせり。

が墓ぞ。風の光に

鶏頭の黄なるがあまた

咲ける見てけふも野に立つ。

 

母ありき。髪のほつれに

日も照りき。み手にひかれて

かかる日に、かかる野末を、

泣き濡れて歩みたりけむ。

 

ものゆかし、墓の鶏頭

さきの世か、うつし世にてか、

かかる人ありしを見ずや。

われひとり涙ながれぬ。

 

  水ヒアシンス

 

月しろか、いな、さにあらじ。

薄ら日か、いな、さにあらじ。

あはれ、その、ほののにほひの

などもさはいまも身に沁む。

 

さなり、そは、薄きのゆめ。

ほのかなる暮のみぎはを、

われはまた君が背に寝て、

なにうたひ、なにかかたりし。

 

そも知らね、なべてをさなく

忘られし日にはあれども、

われは知る、二人溺れて

ふと見し、ウオタアヒアシンスの花。

 

  乳母の墓

 

あかあかと夕日てらしぬ。

そのなかに乳母とわらべ

をかしげに墓をながめぬ。

 

その墓はなほ新らしく、

畑中の南瓜かぼちやの花に

もの甘くしめりにほひき。

 

乳母はいふ、『こはわが墓』と、

『われ死なばここに彫りたる

おのが名の下闇したやみにこそ。』

 

三歳みとせのち、乳母はみまかり、

そのごともここにもれぬ。

さなり、はや古びし墓に。

 

あかあかと夕日さす野に、

南瓜花をかしき見れば

いまもはた涙ながるる。

 

  石竹の思ひ出

 

なにゆゑに人々の笑ひしか。

われは知らず、

え知る筈なし、

そはいとけなき三歳のむかしなれば。

 

暑き日なりき。

物音もなき夏の日のあかるき真昼なりき。

息ぐるしく、珍らしく、何事か意味ありげなる。

 

が家か、われは知らず。

われはただ老爺ヂイヤンの張れる黄色かりし提燈ちやうちんを知る。

眼のわろき老婆バンの土間にてきつつある

青きしる出す小さなる貝類のにほひを知る。

 

わが悩ましき昼寝の夢よりさめたるとき、

ふくらなる或る女の両手もろて

弾機ばねのごとも慌てたる熱き力もて

かきいだき、光れる縁側へと連れゆきぬ。

花ありき、赤き小さき花、石竹せきちくの花。

 

無邪気なる放尿……

幼児をさなごしづこころなく凝視みつめつつあり。

赤き赤き石竹の花は痛きまでその瞳にうつり、

何ものか、背後うしろにてこそばゆし。絵艸紙ゑざふしの古ぼけし手触てざはりにや。

 

なにごとの可笑をかしさぞ。

数多あまたの若き漁夫ロツキユと着物つけぬ女との集まりて、

珍らしく、恐ろしきもの、

そを見むと無益にもたまし動かす。

 

柔かき乳房もてかうべされ、

幼児をさなごは怪しげなる何物をか感じたり。

何時いつまでも何時までも、五月蝿うるさく、なつかしく、やるせなく、

身をすりつけて女は呼吸いきす。

その汗のにほひの強さ、くるしさ、せつなさ、

恐ろしき何やらむ背後うしろにぞれ。

 

なにゆゑに人々の笑ひつる。

われは知らず。

え知る筈なし。

そはいとけなき三歳の日のむかしなれば。

 

暑き日なりき。

物音もなき鹹河しほかはの傍のあかるき真昼なりき。

蒸すが如き幼年の恐怖おそれより

尿いばりしつつ……われのただ凝視みつめてありし

赤き花、小さき花、眼に痛き石竹の花。

 

  接吻

 

にほひのふかき女来て

身体からだも熱くすりよりぬ。

そのとき、そばの車百合

赤く逆のぼせて、きらきらと

蜻蛉とんぼ動かず、風吹かず。

後退あとしざりつつ恐るれば、

汗ばみし手はまた強く

つと抱きあげて接吻くちづけぬ。

くるしさ、つらさ。なつかしさ。

草はしをれて、きりぎりす。

暑き夕日にはねかへる。

 

  螢

 

夏の日なかのヂキタリス、

釣鐘状つりがねがたに汗つけて

光るこころもいとほしや。

またその陰影かげにひそみゆく

螢のむしのしをらしや

 

そなたの首は骨牌トランプ

赤いヂヤツクの帽子かな。

光るともなきその尻は

感冒かぜのここちにほの青し、

しをれはてたる幽霊か。

 

ほんに内気な螢むし、

げば不思議にむしあつく、

甘い薬液くすり湿しめる、

昼のつかれのしをらしや。

白い日なかのヂキタリス。

 

  敵

 

いづこにか敵のゐて、

敵のゐてかくるるごとし。

酒倉さかぐらのかげをゆく日も、

街の問屋とんや

銀紙ぎんがみ買ひに行くときも、

うつし絵を手の甲にし、

手の甲に捺し、

夕日の水路すゐろ見るときも、

ただひとりさまよふ街の

いづこにか敵のゐて

つけねらふ、つけねらふ、しづこころなく。

 

  たそがれどき

 

たそがれどきはけうとやな、

傀儡師くぐつまはしの手に踊る

華魁おいらん首生なまじろく、

かつくかつくと眼が動く……

 

たそがれどきはけうとやな、

がたおとした黒猫の

足音もなく帰るころ、

人霊ひとだまもゆく、の上を。

 

たそがれどきはけうとやな、

馬に載せたるしびの腹

薄く光つてえ去れば、

店の時計がチンと鳴る。

 

たそがれどきはけうとやな、

日さへ暮るれば、そつと来て

生胆取いきぎもとりの青き眼が

泣く児欲しやと戸を覗く……

たそがれどきはけうとやな。

 

  夜

 

夜は黒……銀箔の裏面うらの黒。

なめらかな潟海がたうみの黒、

さうして芝居の下幕さげまくの黒、

幽霊の髪の黒。

 

夜は黒……ぬるぬるとくちなはの眼が光り、

おはぐろのにほひのいやらしく、

千金丹の鞄がうろつき、

黒猫がふわりとあるく……夜は黒。

 

夜は黒……おそろしい、忍びやかな盗人ぬすびとの黒、

定九郎の蛇目傘じやのめがさ

誰だか頸すぢにさはるやうな、

力のない死螢しにぼたるはねのやうな。

 

夜は黒……時計の数字の奇異ふしぎな黒。

血潮のしたたる

なまじろい鋏を持つて

生胆取いきぎもとりのさしのぞく夜。

 

夜は黒……つぶつても瞑つても、

青い赤い無数のたましひの落ちかかる夜、

耳鳴の底知れぬ夜、

暗い夜、

ひとりぼつちの夜、

 

夜……夜……夜……

 

  朱欒のかげ

 

弟よ、

かかる日は喧嘩いさかひもしき。

紫蘇の葉のむらさきを、にらをまた踏みにじりつつ、

われ打ちぬ、なれ打ちぬ、血のいづるまで、

柔かなる幼年の体の

こころよく、こそばゆく、手に痛きまで。

 

豚小屋のうへにザボンの実黄にかがやきて、

腐れたるもののに日のとろむとき、

われはまたが首をいだきしめ、擁きしめ、

かぎりなき夕ぐれの味覚にふける。

 

ふくれたるその頬をばつねるとき、

わが指はふたつなき諧楽シムフオニーを生み、

いと赤き血を見れば、泣声のあふれ狂へば、

わがこころはなつかしくやるせなくたはれかなしむ。

 

思ひいづるそのかみの暴王タイラント

狂ほしきその愉楽……

今もまた匂高き外光のうち

あかあかと二人して落すザボンよ。

 

その庭の、そのゆめの、かなしみのゆかしければぞ。

弟よ、

かかる日は喧嘩いさかひもしき。

 

  思

 

堀端ほりばた無花果いちじゆくみのり、

その実いとあかくふくるる。

 

軟風そよかぜの薄きこころは

腫物はれものにさはるがごとく。

 

夏はまたおふし水馬すゐま

水面みづのもにただはじくのみ。

 

誰か来て、するどきナイフ

ぐさと実を突き刺せよかし。……

 

無花果は、ああ、わがゆめは、

今日もなほ赤くふくるる。

 

  水路

 

ほうつほうつと螢が飛ぶ……

しとやかな柳河の水路を、

定紋ぢやうもんつけた古い提灯ちやうちんが、ぼんやりと、

その舟の芝居もどりの家族を眠らす。

 

ほうつほうつと螢が飛ぶ……

あるかない月の夜に鳴く虫のこゑ、

向ひあつた白壁の薄あかりに、

何かしら燐のやうなおそれがむせぶ。

 

ほうつほうつと螢が飛ぶ……

草のにほひのする低い土橋どばしを、

いくつかさををかがめて通りすぎ、

ひそひそと話してる町の方へ。

 

ほうつほうつと螢が飛ぶ……

とある家のひたひたと光る汲水場くみづ

ほんのり立つた女の素肌、

何を見てゐるのか、ふけた夜のこころに。

 

  紺屋のおろく

 

にくいあん畜生は紺屋こうやのおろく。

猫をかかへて夕日の浜を

知らぬ顔してしやなしやなと。

 

にくいあん畜生は筑前しぼり、

華著きやしやな指さき濃青こあをに染めて、

金の指輪もちらちらと。

 

にくいあん畜生が薄情な眼つき。

黒の前掛まへかけ毛繻子けじゆすか、セルか、

博多帯しめ、からころと。

 

にくいあん畜生と、かかへた猫と、

赤い入日にふとつまされて、

がたはまつて死ねばよい。ホンニ、ホンニ……

小田原文学館