文芸編集者 その跫音(抄)

  改造社解散前後

 昭和十年代が、日本の近代文学史上、際立って多彩な収穫期だとするのが定説になっているが、それは太平洋戦争の勃発によって終止符を打たれたといってよい。端的なあらわれは、その年の夏、東京新聞に連載中の徳田秋声氏の「縮図」が当局の圧力によって掲載中止させられたことであった。

 時勢はそこまできているのかという感が私たちの胸に痛烈にきた。『文藝』にあっても、昭和十四年に高見順氏の「如何なる星の下に」、十五年の中野重治氏の「空想家とシナリオ」の連載以後は、これという佳品は得られなかった。表現の自由を奪われた文学者の大半は沈黙せざるを得ず、しかも第一線の現役作家の多くが、それまでは戦地視察のかたちで派遣されていたが、開戦後は、軍部及び情報局の指令によって動員徴用されて、あるいはビルマ、マレーに、あるいはフィリッピン、ジャワに渡っていったのである。私も何度か東京駅へ作家たちの出征を見送りに行った。普段めったに見ることのない厳しい眼光の井伏鱒二氏、緊張の面持ちで口尻を片頬に曲げた阿部知二氏、軍刀を腰に下げてむしろいそいそとした挙止の高見順氏、いつもの反骨の風貌のまま竹橋の衛門をくぐって行った武田麟太郎氏……それぞれの面影が今もおぼろげに次々浮かんでくるが、そのときそれらの後ろ姿を送りながら、それが徴用というよりも現役作家に課せられた懲罰のような気がしてならなかった。島木健作、太宰治、堀辰雄氏らが病弱のために徴用を免れたという噂も耳にしたが、どういう基準で人選がなされているのかという疑念とともに、戦地で文学者たちが何をするのだろうか、あるいは何ができるのだろうかと不審でならなかったことが思い出される。

 既成作家の沈滞に代る新人の文学的エネルギーを開発する目的で、『文藝』では全国の文学同人雑誌の自薦による“文藝推薦”作品の募集をはじめたが、それも第一回(昭和十五年七月)で織田作之助氏の「夫婦善哉」によって成功をおさめた後は、第二回(同年十二月)に池田源尚氏の「運・不運」、第四回(十六年十二月)に秋山恵三氏の「薪炭圖」三田華子氏の「祖父」、第五回(十七年七月)に野村尚吾氏の「岬の気」を得、また十六年一月にはじめた“文藝推薦”評論には本堂正夫、佐古純一郎氏らの評論があったが、さしたる収穫とならなかったのは、あるいは当然でもあったろう。青年の大多数が戦地に送りこまれた戦時下に、若い文学エネルギーを求めること自体がすでに無理だったのかもしれなかった。

 しかし、こういう時期にあっても新人の優れた営みが皆無だったわけでない。中島敦氏の諸作がそれである。はじめ『文學界』に「古譚」が載ったとき(昭和十七年)、中国の故事に託して現代人の魂をゆさぶってやまないその作風に、私はいっとき茫然とするほどの圧倒的な感銘を受けた。続いて「光と風と夢」「李陵」が発表されるにいたってますます感服した。これほど強烈な感動を与えられた新人の小説は、戦前戦後にわたる私の編集者時代を通じても数えるほどしかない。「古譚」の少し前に『文學界』には、田中英光氏の、オリンピック選手の恋愛を描いて日本の近代小説ではまれに見る健康な青春小説である「オリンポスの果実」が発表されて、当時の私はこうした優秀な新人を発掘し得る『文學界』編集部の実力を大いに羨望したものである。

 それにしても、文学不毛時代だからといって文芸雑誌の編集はそれなりに多忙であった。文芸雑誌が文壇と社会の動向との接点を追究する役割をもつ以上、好むと好まざるとに関わらず、時勢に即した編集方針をとらざるを得ないのは当然であろう。そしてそれが雑誌を存続させる最上の手段でもあった。日本文学報国会の結成、大東亜文学者会議の開催等々、ジャーナリスティックな問題には事欠かなかったのである。

 

 ところで、対談や座談会というのは、さまざまな意味で雑誌編集には欠かすことができない、また無視することのできないものである。戦後のことになるが、天皇が文化人たちと会談されたことがあって、その場の模様を出席した辰野隆、徳川夢声、サトーハチローの諸氏が語り合う座談会が、「天皇大いに笑う」と題して『文藝春秋』(昭和二十四年六月号)に掲載され、これが紙価を高めて、文藝春秋社の繁栄を招くきっかけとなったと仄聞そくぶんしたが、座談会が大成果をあげた顕著な例である。こういう成功は稀有のことにしても、対談や座談会は、一つの問題を何人かの意見の交換によって多面的に深めることができる利点だけでなく、題目と出席者の組み合わせ、また出席者自体の組み合わせ如何では、2×2=5の効果を生み、誌面に多彩な魅力を添えることができるのである。読者には平易に読み流せて、出席者の肉声に接する愉しみもあろう。ことに緊急問題を扱う場合には、これが最も効率的な形式である。評論家や作家にとっても、執筆に費す時間と精力に比べてはるかに負担が軽く、簡単に執筆に応じない大家碩学でも座談となれば案外気易く腰を上げてくれるものだ。(もっとも、座談に馴れない新人にとってはかなりの緊張感を強いることらしい。かつて中山義秀氏が芥川賞を受賞したばかりの時分だったと記憶するが、出席が予定されていた座談会に、当日、会が終った頃にあたふたと駆けつけたことがあった。聞くと、何しろ初めてのことで、「他人の発言に耳を傾けていてはダメだ。自分の言いたいことをあたりかまわずどしどししゃべるのがコツだ」などと先輩作家に知恵づけられ、用意おさおさ怠らなかった。ところが、当日は朝から昂奮して落ちつかず、一杯ひっかけたら度胸がすわると考えて、飲みだしたというのだ。ちょうどいい気分になったところで時計を見たら、すでに定刻をはるかに過ぎていて……と、頭髪を掻きむしりながら弁解する義秀さんの恐縮ぶりに、私たちは腹を抱えたものだ。)

 座談会の速記原稿は(現在なら速記よりテープレコーダーを使われるのだろうが)、原則として出席者の目を通してもらう。その必要がないというひともまれにはあるが、多くの出席者は速記原稿に訂正補筆を加える。とかく座談会では建前的発言の外に、思わず洩れる本音の部分があって、それが私たちの一種のつけ目であり興味をそそられるのだが、その部分がすっかり削り取られて、がっかりすることが少なくない。反対に、刻明に筆を加えて、席上栄えなかった発言がそれによって精彩を放つようなこともある。速記原稿の上で当意即妙の才を発揮し、さほど面白くない対談を面白い読物に仕立て上げてくれる編集的感覚の持主さえある。こういう速記原稿を整理して予定の枚数におさめ、適当な小見出しをつけるのには、かなりの編集技術を要することは言うまでもない。

 『文藝』では対談や座談会をよく行なったが、一つには経済的な理由でもあった。編集費(原稿料と編集諸費)が定価に発行部数をかけた金額の10パーセント以内に押さえられていたので、原稿料がかさばる号では調節のために座談会を開く必要があったのである。ということは、同じ枚数の原稿料より座談会費用のほうが低額ですむからだ。

 (この種の編集費のやりくり算段の方法として、『文藝』では葉書回答というのも度たび行なった。「好きな詩と言葉」とか「国民必読の現代文学作品は何か」といった項目で各作家・評論家にアンケートを求めるのである。これだと往復葉書の費用だけで、多くの感想が端的に聞けて結構恰好の読物になる。葉書を50通も出せば30通くらい回答が送られ、当時は謝礼金を出さなくても誰からも文句は出なかったが、これなどは雑誌編集の知恵に属することだったと言うべきであろう。)

 しかし、『文藝』が戦争勃発後ことに頻繁に、毎月のように対談・座談会を開いたのは、単に読者への牽引策だけではなかった。ましてや編集費のやりくりのためでもない“臣道実践”体制下における文学者の発言をもとめて敢えてとった時宜的手段だった。次に『文藝』の昭和十七、十八年に行なった対談・座談会を書き連ねておくが、それによって当時の文芸雑誌の動向の一つが伝えられるのではないかと考えられるからである。

昭和十七年

  • 一月「文化戦争」(座談会)大串兎代雄、加田哲二、津久井龍雄、中島健蔵
  • 二月「朝鮮文学の将来」(対談)愈鎮午、張赫宙
  • 三月「言語政策」(座談会)石黒修、小倉進平、木下杢太郎、谷川徹三、保科孝一、平野義太郎
  • 四月「日本の歴史」(対談)秋山謙蔵、丹羽文雄
  • 五月「本居宣長」(対談)長谷川如是閑、村岡典嗣
  • 八月「古典文学閑談」(対談)呉茂一、田中美知太郎
  • 九月「海軍」(対談)平出英夫(海軍報道部長)、岩田豊雄
  • 十月「東亜文芸復興」(座談会)片岡鉄兵、谷川徹三、豊島與志雄、増田渉

昭和十八年

  • 一月「戦争と作家」(座談会)谷萩那華雄(陸軍報道部長)、阿部知二、尾崎士郎、榊山潤、神保光太郎、加藤重雄(陸軍報道部)
  • 二月「決戦と文学」(対談)丹羽文雄、火野葦平
  • 三月「大東亜文化」(対談)三木清、中島健蔵
  • 五月「新日本文化の出発」(座談会)阿部知二、石川達三、高見順、火野葦平
  • 七月「日華の文化交流」(対談)河上徹太郎、中島健蔵

 昭和十八年の三月号からは表紙に“撃ちてし止まむ”というスローガンを刷りこむことを命じられ、開戦時には一六〇ページ(定価七〇銭)だったのが、用紙統制で六四ページ(定価五〇銭)の薄さになるに及んでは、私たちの編集意欲が減退する一方になったのはやむを得なかった(ちなみに私が『文藝』に入った昭和十三年の四月号は三二四ページ、定価八〇銭)。そしてその年の末には出版社が整理統合され、総合雑誌も三誌となり、しかも改造社と中央公論社の廃立が噂されて、私たちは戦々兢々きょうきょうながら、ただ自分たちの雑誌の存続を願って惰性的に仕事を続けるだけとなった。それまでまかり通っていた超皇国主義者の保田与重郎氏の文章すらも、その思想の側面である審美主義のため危険視されるにいたって、文化は全くの空白状態に化してしまったのだった。

 

 開戦後まもなく、まだ淀橋十二社にあった中島健蔵氏の宅を訪れたとき、健蔵さんがアメリカから帰朝した友人からもらったといって、電気カミソリを見せてくれた。

「こんなブルルルルッで簡単に髭が剃れるものが向こうじゃ日常品になってるんだぜ。それほど科学が発達してる国を相手にして、君、勝てると思えるかい?」

 確かにそれはそうだとうなずきながら、しかし戦った以上勝たなければならないと私は思っていた。社内では、社長室の壁にアメリカ艦隊の全貌図が貼られて、戦果が発表されるたびに撃沈された戦艦を×印で消し、社長を中心に社員たちが拍手し歓声を上げていたが、私がこういう愛国的感情に率直に酔えないまでも同調していたのは事実だった。それは、軍統制下の理不尽に反発しながら、東洋の民族的、文化的解放という名目に、一種のロマンティシズムを感じていることにもつながっていた。こういう矛盾した心境は、単に私だけでなく、文学者・文化人をも含めて一般ではなかったろうか。少なくとも開戦後一年間ぐらいはそうだつたはずである。そして、四六時中赤紙がくる不安の中で、食糧、衣料、すべての事情が悪化する一方の日常生活の不如意に追いまくられていたというのが、私たちの実状であった。

 開戦前までは小川五郎さん、石橋貞吉さんたちとアランの「戦争論」を輪読していたこともあったが、お互いにそんな心のゆとりもなくなっていった。日本文学報国会の設立に続いて編集者たちの間にも日本編集者会が結成され、伝統的に野党色が濃い改造社の編集部内からは誰一人積極的に参加するものがなかったにせよ、これを冷視し去るのをためらわすものがあったことも疑えない。

 初めて敵機とおぼしい飛行機が東京の空を横切っていった日のこと、出張校正中の昼休みで市ヶ谷の大日本印刷の屋上に上がっていた小川さんと私は、たまたまその飛行を目にしたのだった。敵機だ敵機だと騒ぎだした街の人びとの声に、半信半疑の気持ながら、敵機襲来の可能性が臆断できるほど戦況が必ずしも新聞の報道どおりでないことを、私たちが感じはじめていた時期であった。前に書いた中島健蔵さんの危惧が事実となって迫ってきたのである。機影の消えるまで見送っていた私たちは、もしこの戦争が勝利に終っても、現在の皇軍ファシズムが更に強化されて、私たちのような自由主義的インテリの存在が許されるはずがない、また逆に敗戦となれば、恐らくは左翼革命が起って私たちは抹殺されることになるかもしれない、どっちに転んでも、今後私たちの席は果たしてあり得るのだろうか、云々というような会話を、互いに複雑な表情で交しあったものだった。

 こうした暗い気分に更に現実的に拍車をかけたのが、昭和十七年から十八、十九年にかけての細川事件とそれに続く事件であった。

 十七年四月号の『改造』がふた月にわたって連載された細川嘉六氏の評論「世界史の動向」のために発売禁止処分を受け、それとともに細川氏は検挙され、その責任で編集主任の大森直道さんと原稿担当者の相川博君が退社したのである。そして翌年五月、相川君と『改造』編集部の小野康人君が逮捕された。前年の夏細川氏の親睦会の記念写真に両君が写っていたからということで、細川氏の取調べに関する両君の逮捕だろうと私たちは聞かされていたが、これが後に「横浜事件」と称される大事件の発端だとは、夢にも思わなかった。ただなんとも言いようのない脅迫感に、編集の誰もが顔を曇らせるばかりであった。続いて十九年一月、同僚の青山鉞治、小林英三郎、若槻繁の三君が(同時に、上海に渡っていた大森さんも)一挙に検挙されたのだが、そのときも、これが前の相川君たちと同じ事件に連なるものとは私たちは考え及ばなかったのである。が、中央公論社の編集者たちも同時に検挙されたと聞いて初めて、事のなみなみならぬ重大さを察知させられたのだった。騒然たる社内の空気の中で、それでも私は、これらの同僚たちが、過去の来歴はともかく、またインテリ編集者に共通の反戦思想の持主ではあっても、現実的に反戦運動を行なっていたとは到底考えられず、見当もつかない恐怖に立ちすくんでいた。

 この事件が、『改造』の休刊、改造社解散の前ぶれでもあった。私が、この雑誌編集者三十数人が検挙投獄され起訴され、獄死者さえ出した大事件の全貌を知り得て驚愕したのは、敗戦後のことである。同じ社内にありながら当時全く輪郭すら知らなかったとは怪訝けげんに思われるだろうが事実である。青山君らが検挙された後、特高らしい男が編集室に音もなく入ってきて、鋭い目で室内を睨めまわすとまた音もなく立去ったことが数回あったが、一体当時幹部級の人たちがどれだけ知悉していたのであろうか。今となっては私は、現在編集という職業に携わるすべての人びとに、例えば当事者の青山鉞治君(筆名・青山憲三〉の著作「横浜事件」や中村智子氏の「横浜事件の人びと」などを必ず一読してほしいと願うばかりである。当時のジャーナリストがおかれていた位置、国策に対して批判的な思想をもつ有能な編集者がなめた辛酸、そして国家権力が政策遂行のためにはどれだけ兇暴化するものか、をつぶさに知っておいてもらいたいからである。

 この事件があって間もない三月、『改造』を補う意味で新雑誌『時局雑誌』が創刊される運びとなり、小川五郎さんがそれを担当することになって『文藝』から退いた。山本社長にすれば片々たるパンフレットのようになった文芸雑誌にはほとんど関心も興味もなくなっていたのであろう、私をよんで、「『文藝』は君でやれるか?」「ええ、まあなんとか……」それだけで簡単に私が『文藝』の采配をふるうことになったのだった。私にしても、これまでどおりの小川さんのやり方を踏襲する、というより、ただ雑誌の存続だけが目的の職人仕事で事足りるわけだから、あらためて気負う心もなく、若い水野保君を相手に仕事を続行した。

 主任になってすぐ、情報局から、各文芸雑誌の責任者と懇談がしたいと呼び出しがかかってきた。出向いてみると、数人の編集長を前にして早速中年の担当官が、今後の編集方針を質しかけた。はじめに最年長の『新潮』の楢崎勤氏が口をきったのだが、作家というものは自発的な意欲が湧かない限り執筆できないものであり、よい作品も生れない、だから……と至極当然なことを述べはじめた。すると係官はまだ楢崎さんの発言が終らないのに、それを遮って、君の考えは編集長としてあるまじき時勢を弁えないもので、個人主義思想以外の何物でもない、と声を荒げて述べたてたのである。こうした場に出るのは初めてのことであり、私はびっくりした。編集主任になったのはいいとして、これは大変なことだったのだという実感が、はなはだ迂闊うかつな話だが、初めて胸に来たのである。楢崎さんに向けられた罵詈讒謗ばりざんぼうを耳にして、軍人でも刑事でもないのが、なぜこんなに威丈高に怒鳴るのかと憤慨に堪えなかったが、自分の番になったときの返答の持ち合わせがなくて内心では慌てていた。

 それより前、私は予備召集といったか訓練召集といったか忘れたが、本郷区の中学校の講堂に出頭を命ぜられたことがあった。そのとき、集められた数百人に向かって一人の将校が開口一番、「今次の戦争はいかなる理由によって勃発したか」と大音声を発した。全堂がしーんとすると、将校は名簿を繰って、誰それと指名した。名指された男は間髪を入れず大声で、「神国日本に向かって鬼畜米英が挑戦したからであります」と淀みなく答えた。「よーし」と将校は満足気にうなずいた。私は舌を巻いた。とてもじゃないが、私にはあんな風に要領よく、明快極まる返答を、しかもとっさに口にするような芸当はできない、と感心したのだ。以来私はこういうたぐいの対応には全く自信がなかったのである。

 しかしそれでも順番がくると、急場の思いつきで、「日本の民話の中には志気を鼓舞するものが少なくありません。それを発掘することも文芸雑誌の役目と考えます」と答えるだけは答えたが、これには係官から一言も反応もなく、無視したように次のひとに顔を向けた。要するに、年長者の楢崎氏を叱咤することで全員にハッパをかけるのが目的だったのであろう。

 この呼び出しがあってからは、私はこんなことが度重なって、編集主任の資格がないということでやめさせられるなら、それもよかろう、いずれそのうち赤紙がくるか、徴用令がくるか、どちらかなんだからと、肚をくくった。

 事実、それから間もない四月のはじめに赤紙がきた。丙種で三十三歳の私にも召集令状が届いたのだが、予想したほどの心の衝撃もなかった。すでに三年前に結婚していて子供もあった私は、彼らを引き連れて急遽京都の実家に戻った。そして当日は型どおり在郷軍人会や愛国婦人会その他大勢の人びとの万歳の声に送られて伏見の第三十八聯隊に入隊したのだが、結果は即日帰郷であった。しかし私はそのとき、“後髪を引かれる”という文句が余りにも実感的なことを知った。

 私の実家は叡山電車の山端駅の近くにあって、人びとは駅のホームまで見送りに来てくれた。

 電車が動きだすと、車両の最後尾に立つ私の目に、人びとの姿が小さくなってゆく。その中で、三歳になった女の子を抱え上げたまま家内がいつまでも動かない。人びとがホームから去った後もなおこっちを向いて突っ立っている。その姿が点になるまで見まもっていた私は、正に“後髪を引かれる”思いだった。生れて初めての経験だったと言っていい。恐らくこんな感情に胸を締めつけられて何十万、何百万の男たちが出征していったのかと思いやると、私は今でも瞼が熱くなる。

 どちらかというと右肺のほうが弱かったはずなのに、左肺浸潤のため即日帰郷とされたのにはいささか意外だったが、餞別にもらった煙草をすべて入隊した人たちに頒け、その人たちの伝言を十五あまり手帖に控えて、私は衛門を出た。即日帰郷は片足の不自由な青年と私の二人だけだった。ところがその青年は衛門を出るなり、「こんな戦争で殺されてたまるか。俺はな、わざわざ石臼を足の上に落したんだよ。痛かったぜ」と自慢気に口走るのである。「おい、そんな不穏なことを軽口に出していいのか」と私は怖ろしくなって早々に別れると、近くの親戚の家に寄って、頼まれた伝言を電話ですませた。それから実家へも電話で報告した。出てきたのは姉だった。[へえ? コッキ?あんた国旗忘れはったん?そら、えらいこっちゃ。どないしまひょ?」「ちがう、ちがう。ソッキ、即日帰郷や」「まーあ、よかったこと。そやけどな、今すぐ帰ってきたらあきまへんえ。まだご近所の大勢さんが、お酒飲んでいやはるさかい。即帰やなんてそんな恰好の悪いこと言えますかいな、恥ずかしうて。夜さりになってからお帰り。わかったな」そんな万才もどきのやりとりがあって、私はその夜遅くなってから帰宅した。そして翌朝早く再び妻子とともに東京に舞い戻った。僅か一週間の離社だったので、仕事には何の支障もなかった。

 その日以来、戦いが終るまで、私は頭を丸坊主にしたままでいた。即日帰郷になった自分の幸運に胸を撫ぜ下ろすにつけ、同じ辛い思いをして戦場にかり出されていった人たちへの後ろめたさがそうさせたのだった。

 責任者になってから『文藝』を二、三冊出したであろうか、程なく改造社は解散を命ぜられ、同時に『文藝』は河出書房に譲渡された。十二万円で売られたと聞いたが、さだかでない。

 五月中旬のある日、すでにもうかなり人数が減っていたが全社員が社長室に集められ、山本社長から事の次第が告げられた。予想の外の突発事ではなかっただけに、あらためて質問するものもなかった。憮然とした面持ちで社長は、将来改造社が復興する日には、諸君は必ず再び集まって、いっしょに仕事をしてもらいたい、という挨拶を素っ気ない声調で述べた。が、これに応じる声も誰からも発せられなかった。細川事件以後、自己保身に汲々とした姿勢ばかりが目立つ山本社長に対して、多くの社員が少からずあきたらなさを感じていたせいだったろう。しかし、さすがに永年勤めた会社の解散に際会する感慨は深く、一同は声もなく社長室を退出したのだが、その直後、今回の解散は当局の弾圧によるそれだから社員に退職金は出せないということを聞かされて、一抹の愛惜の念は霧散したのだった。編集部内は騒然とした。改造社という出版社への愛着は消し難く、万一改造社再建ともなれば馳せ参じることにやぶさかでない、しかしそれは山本実彦氏が社長でないという条件での話だ、と息巻くものもあり、それが編集部全員共通した気持であった。

 私たちは退職金要求について社長と折衝するための会合を重ねたが、それも長続きするはずもなかった。そんな余裕が誰しもなかった。空襲の危険におびえ、疎開の問題、食料確保の問題、生活の苦渋に押し流される日々の中で、これからの身のふり方を考え、職を探すのは、容易なことではなかったのである。

 そんなとき、作家の庄野誠一氏が私に恰好の話をもってきてくれたのだった。庄野誠一氏は当時、企業整理によって奈良県丹波市の天理時報社の出版部が京都の甲鳥書林その他と統合して新設された養徳社という出版会社の、東京支社の責任者であった。私と庄野さんとは、庄野さんが文藝春秋社の編集者時代からの顔見知りで、話というのは、養徳社の京都支社で企画編集長を求めている、そこで、「君は京都が郷里だから、この際疎開をかねて、また肩書つきだと徴用逃れに役立つだろうから、ひとつ行ってみないか」という、願ってもない勧誘であった。関西落ちはいささか残念だが、この際気儘きままなことは言ってられない。その上、日頃敬愛する庄野氏の推薦であり、また同氏と同じ社で働ける喜びもある。それほどの親交があったわけでもない私に殊更に声をかけてくれた庄野さんの厚情が私には限りなくありがたく、即答で話を受けた。

 そして九月上旬、本郷西片町の家をたたんで、京都御所に最寄りの家をみつけて移り、十月から養徳社の京都支社に勤務することになった。

 それからの一年間は、雑誌編集者の生活から離れた私の“長い休暇”であった。勝手知った京都の町であり、東京はじめ全国各都市の空襲の惨状は新聞ラジオで知るばかり、養徳社京都支社の企画編集長といっても、用紙統制の紙不足では仕事もひまなものであった。職場のお茶汲みガールが徴用逃れの先斗町の芸妓だという有様では真剣に働きようがない。ときたま旧甲鳥書林の顧問格で在京中の吉井勇氏や、湯川秀樹、高田保馬、梅原正治、大山定一氏ら京都大学の諸先生方を訪問する程度ですませた。しかし京都に来ても相変らずの食糧難に苦しめられ、酒が飲めなくて甘味好きの私の、当時の枕頭の書は、家内が持っていた古い婦人雑誌の付録「和菓子の作り方」であった。

 年を越すと、銀座の東京支社が爆撃を受けて、庄野さんたちが丹波市の本社に移り、京都支社も閉ざされ、私も本社勤務になった。それとほとんど時を同じくして、大阪大空襲のあと京都でも安閑としていられず、もう一つには食糧確保の便もあって、私は再び滋賀県守山町と琵琶湖畔との中間、近江平野の真ん中にある小村に疎開した。

 それからは毎日が肉体労働であった。朝六時半に家を出ると、守山駅まで四十分近く歩き、京都まで満員列車で揺られ、京都駅で近鉄に乗り換えて丹波市まで通うのだから、片道三時間はゆうにかかる。帰途は四時に丹波市を出ても守山駅に着くと、もうすっかり日が落ちている。ただひとり真っ暗な野道を辿る途中で、翼をつらねて頭上を通過する敵機の群に言い知れぬ恐怖感に襲われたり、広い平野の彼方から真珠色の雲霞のような源氏蛍の大群が近づいてくるのに戦慄したり、そんな単に身体を酷使するだけの日を飽きもせず、休みもせずに送った。不思議なことに、この時期の私は生涯のうちで最も健康に恵まれ、ろくな食物もなかったのに体重も重かった。持病の心臓ノイローゼに見舞われることが一度もなかったし、風邪ひとつひかなかった。言うなれば、それほど雑誌編集者の生活が不規則だとでもいうのであろうか。神経をすりへらすものなのであろうか。

 

 やがて終戦の日がきた。鎌倉の川端康成氏から思いがけない電報が届いたのは、それから一カ月後のことである。

  『人間』創刊

 シユツパンジギヨウニサンカクサレタシ」オイデコフ」カワバタヤスナリ

 こんな電報を川端康成氏から受け取ったのは、昭和二十年九月十六日、終戦の日からひと月あまり後のことである。当時私は、滋賀県守山の町と琵琶湖畔のほぼ真ん中あたりの片田舎に疎開していて、そこから奈良県丹波市(現在は天理市)の養徳社へ毎日通勤していたのだが、何の前ぶれもない突然の電報に、出版事業とあってもどういうことか見当もつかないままに、とりあえず早速近江八幡駅に駆けつけた。なにしろ終戦直後の、交通事情が極度に悪化していた時期だけに、なまなかなことでは東上したくても乗車切符が手に入らない。遠い親戚にあたる近江八幡駅長に泣きつくより術がなかったのである。駅長さんを拝み倒して、そんな田舎駅では日に数枚しか割り当てのない切符を都合してもらい、翌日の夕方東京に向かったのだった。どの列車も満員満員で、守山のような小駅からはとても乗り込めないので、いったん京都に出て京都発の汽車に乗ったのを覚えている。東京まで何時間かかったろうか。立錐の余地もないすし詰めの列車の中で夜を明かし、鎌倉の川端家に着いたのは正午前だった。

 ——久米正雄、川端康成、小林秀雄、高見順、中山義秀、石塚友二氏らの鎌倉文士たちが、それぞれ蔵書を持ち寄って鎌倉文庫という貸本屋を八幡宮前通りに始めたことは、関西の私も仄聞していた。相次ぐ空襲による未曾有の書籍払底の世に彼等の蔵書公開はまことに時宜を得た所業とおぼしく、読書階層に歓迎されて結構商売繁昌しているとも聞いていた。更にこの貸本屋は、執筆の注文が激減して生活不安に直面した文士たちにとって、食糧入手を主とした一種の消費組合組織をはかる事務所の役割をももっていたらしい。

 ところが、終戦間もない一日、この貸本屋鎌倉文庫の前を通りかかったある紙業会社の社長が、立ち働く文士たちの姿に感じ入って、こちらには終戦で残った紙と資本がある、これを提供して貴兄らと共同事業をやりたいと考えるものだがどうか……といった申し入れがあったというのである。すぐその紙業側と文士たちが会見したところ、たちまち話は出版会社鎌倉文庫の設立ということにまで発展し、新会社の社長には久米正雄氏、役員に川端、高見、中山氏らが就任し、紙業(大同製紙)側から営業・経理担当の役員が加わるということになった。(資本金三〇〇万円、文士側の株主には他に大佛次郎、吉屋信子氏らもいた。)

 こういういきさつを川端さんは私に説明した。そして、まず雑誌の発刊を計画しているのだが、

「その編集を、あなたやってくれませんか」

 と私の顔をみつめた。

「雑誌って、でも、どんな雑誌をつくるんですか」

「それはあなたが決めることです」

 えっ、と私は目を剥いた。呆気にとられた私に、川端さんは視線をなごませて、

「ただ、雑誌の名前だけはもう決まっているのですよ」

「なんというのです?」

「『人間』というのですがね」

「ああ、それはあの昔、久米さんや里見さんがやってらした同人雑誌の……」

 二十年も昔の小学生時代に見た「人間」の表紙が、私の目の底から不意に浮かび上がってきた。姉の机の上にあったそれは、有島生馬画伯の裸女の素描に、左肩に久米正雄、里見弴、田中純、吉井勇の同人名が刷り込まれてあった……。

「そうです。あなた知ってましたか。新しい『人間』はあなたの好きなように編集してください」

 返す言葉はなかった。編集者にとって、一つの雑誌の編集を無条件に任されようとは! まさに編集者冥利に尽きるというものである。感激が身内のすみずみにまで熱くひろがっていった……。

「それはあんたが決めることです」という川端さんの一言、それは私にとって生涯的と言えるほどの大きな感動をもたらすものだった。

「養徳社を退いて、こちらへ出てこられますか」

「それはもう……」

 胸いっぱいの私は、すぐに帰って養徳社と話をつけ、できるだけ早く東京に出てきますと答えるのも、しどろもどろだった。恐らく川端さんに向かってろくにお礼の言葉すら口に出さなかったのではあるまいか。

 川端さんは私を連れて大塔宮裏の久米邸へ行き、久米正雄氏に引き合わせた。

「君が木村君?まだ若いひとなんだね。大丈夫ですか」

 と久米氏は顎の長い赤ら顔を川端さんに向けた。

「いいでしょう。木村君なら」

 私を揶揄やゆするような目つきで川端さんはにやにやした。

 その日のそれからのことはもう全く記憶にない。ほかのことが眼中にないほど私は有頂天になっていたのだ。鎌倉から再び東京へ舞い戻った私のすることは、すぐにも帰洛する以外になかった。ところがまたもや苦労の種は乗車切符……。翌日私は窮余の一策に母を急死させることにして、でっち上げた証明書に義兄に捺印してもらい、それを携えて有楽町の日本劇場に足を運んだ。戦争末期に風船爆弾を製造していたという日劇には、戦後殺到する乗客群を整理規制するために鉄道案内所が仮設されていた。私の態度が迫真的だったせいか、証明書を見た係員は案外簡単に乗車許可書をくれた。

 私は京都へ着いたその足で丹波市に向かった。

 戦争が終って新しく蘇った時代に、東京の中央で元どおり編集の仕事に専念したいという客気をみなぎらした私を目前にして、私を養徳社へ世話してくれた庄野誠一氏も、岡島社長も、到底とめようがないと判じたのであろう、そんな表情で、私の退社と鎌倉文庫入社を快く許可してくれた。

 ——このたび木村徳三君が退社することになったが、養徳社としては、木村君がわが社を去るというのでなく、養徳社が至宝木村君を中央に送り出すという意味をこめて、盛大な歓送の拍手をしたい云々といった、私には面映ゆい限りの挨拶を送別会でしてくれた岡島社長の温情もさることながら、折角私を養徳社の仕事の片腕と目していたに違いない庄野誠一氏に対して、一抹の後ろめたさがないではなかった。私の願いを聞いたときの庄野氏の憮然の思いを、漂わせた微笑とともに、それは今も根深く消えない。

 自分に任された新しい雑誌を、どういう内容の雑誌にすればいいのか、これはおのずと決まっている。私には文芸雑誌以外にできるはずがないし、興味もなかった。とすれば、私はあらためて編集方針に思いをこらしたり考えあぐねることはほとんどなかった。過去六年間にわたる『文藝』編集の経験を通じて、いつしか私の脳裡には望ましい文芸雑誌のヴィジョンが出来上がっていたからだった。それは基本的には『文藝』の小川五郎氏から踏襲したものであり、その上に私の志向を加味し、結実させることなのである。端的に言うなら、文壇的な文芸雑誌でなく、文芸的総合雑誌ともいうべき雑誌であった。一般総合雑誌から政治、経済、法律、科学の面を落して、文学を中心に思想、芸術の域を総合した新しい雑誌——つまり新聞の文化・学芸欄の結晶に近い一種の文化雑誌を作りたかったのだ。若気の至りと言うべきか、若さの特権とたとえるべきか、私は迷わなかった。自分が思い描くヴィジョンの実現に邁進すること以外に念頭になかったのだ。

 省みると、久米・川端・高見・中山という錚々たる文壇人が経営する出版会社から発刊する雑誌が、その編集方針として非文壇的方向をとるというのも、非常識のそしりは免れないかもしれないし、多分に文壇的文壇人だった久米社長などは内心不満だったのではないかと察せられるのだが、当時の私にはそんな気遣いの余裕はなかった。また、新生日本の文芸読者の要求に対していかに応えるべきか、それがどれだけアピールするか、といった営業雑誌としての配慮にもこだわることはなかった。ただもう作りたい雑誌を作り上げるのだということだけに集中し、盲進したのが実状だった。

 まず第一に念頭にのぼったのは、トマス・マンの「来るべきデモクラシイの勝利について」だった。これはナチ・ドイツを逃れてアメリカに渡ったトマス・マンが一九三八年にアメリカの一五都市で行なった講演で、戦前芳賀檀氏のエッセイの中でこれにふれていた(無論反デモクラシイの立場から)のが記憶にあって、これの全訳こそ新雑誌を飾るのに何よりふさわしいものと思われたのである。京都で昵懇じっこんになった京都大学の大山定一氏にこれの翻訳を依頼し、これで一つの柱ができたという安堵感をもって、私は十月のはじめに再び東上した。

 東京では出版会社鎌倉文庫の設立事務所に丸ビルの、中央公論社の一室があてられていた。改造社で同僚だった鍛代利通、伊東栄之助君たちが招かれ、出版部長には巌谷大四氏が、また新進作家の北條誠氏も入社していた。私はすぐ皆に集まってもらい、『人間』創刊号の編集打ち合わせにかかった。それにしても、作家や評論家たちの多くが疎開していたり焼け出されて離京していたりしている。まず第一に彼らの近況を調べ住所を確かめなければならない。それが大変な苦労だった。

 東京は街中も近郊も無惨な焼跡ばかりだった。交通機関はあっても、大半が不規則にしか動いていない。のろのろと走る電車を乗りつぎ、元の道路もさだかでない瓦礫の中を記憶をよびさまして訪ねあぐねながら、編集者の作家訪問の仕事を私は一年半ぶりにはじめたのだった。

 そんなある日のことが今も私の眼の裏に鮮やかに焼きついている。渋谷駅のホームから眺めわたした風景——真っ青に晴れた秋空の下に、目黒方面から世田谷にかけて果てもなく鉄錆色がひろがり、ところどころに灰色の木が痩せた杭さながらに突っ立っているだけの焼野原は、マン・レイあたりのシュールレアリズム絵画を連想させた。壮厳なほど冷酷な、被虐美とも形容したくなる一望の眺めだった。茫然と立ちつくしていた私は、連れ立つ友人に「ゴミゴミしていた元の景色より、このほうがずっと美しい」と話しかけ、焼けだされたその友人から、「不謹慎なことを口にするな」と叱りつけられたものである。

 いたるところそんな焼跡ばかりの荒廃した東京から、何日かぶりで緑の美しい山なみに囲まれた京都に戻ると、かえって奇妙な脱力感が感じられ、東京での張りつめていた気持が萎えたものだ。

 守山に妻子をおいたままの私は、こうしてひと月の大半を東京で過ごし、あとの一週間ほどを守山に帰って毎日京都に出て仕事をする、という不規則な生活を十月、十一月のふた月間続けていた。が、厄介なのは例によって汽車の切符入手である。そこで私は悪知恵を働かせ、姉一家が疎開していた小田急線の中央林間駅で東京・京都間の乗車券を購入した際、切符発売係りの若い気のいい駅員に頼みこんで、乗車券の発行日印を何回も重ねて押してもらって、判読できなくしてもらったのだった。それを持って往きは途中下車で大津で降りる、帰りは横浜で途中下車する。つまり、いわゆるキセル行為の逆である。こうした悪だくみで一枚の乗車券で毎回東京・京都問を往復したのだった。まさしく違法行為には違いなく、今初めて白状するのだが、しかし大部分の日本人が多かれ少なかれ違法行為を犯していた、あるいは犯さざるを得なかった当時の社会情況の中の生活を体験したひとならば、必ずや私の行為を許容してもらえるのではないかと思う。

 こうして一枚の乗車券を利用したただ乗りで、夜行列車の人ごみの間に十何時間立ったきりの徹夜で、次に十月下旬東上したときには、鎌倉文庫は日本橋交差点の角にある白木屋デパートの二階に移っていた。デパートと言っても地階と二階が売場で、三階から上は事務所や医院その他の雑居ビルである。売場にしても台所用品や食器類が雑然と並んでいるばかり、ろくな品が売られているわけでなかった。その地階の一隅に貸本屋鎌倉文庫の出店があり、出版会社の鎌倉文庫は二階の四分の一ほどのスペースを占めていた。

 十一月になると原稿もぼつぼつ集まってきた。谷崎潤一郎氏に宛てた永井荷風氏の書翰を、久米社長が谷崎氏から預かってきたし、中山義秀さんは中村光夫氏や今日出海氏の原稿をもらってきてくれた。伊豆大仁に滞在中の里見弴氏の小説が入手できたのは北條誠君の努力の賜だった。それにもまして嬉しかったのは、終戦直前に逝去した島木健作氏の遺稿を川端さんから受け取ったことで、それは「赤蛙」と題された絶品であった。

 その頃になると、出版界も息を吹き返しはじめて、新雑誌発刊の噂が諸所からあがっていた。新生社の『新生』、岩波書店の『世界』、筑摩書房の『展望』等々である。ニュース映画会社の取材班が鎌倉文庫にも出向いてきて、満面に笑みを浮かべた久米社長が、私たちが机を並べる編集室内を横切る場面を撮影し、『世界』や『展望』の同じような光景とともに、“新雑誌盛観”と謳って映画館でニュースに流された。

 懸案の印刷工場も、板橋区志村の凸版印刷に決まった。が、植字工の人数が激減していて組み上がりに時間がかかるというので、早目に原稿を工場へ回さなければならなかった。さきに書いたトマス・マンの「デモクラシイの勝利について」を柱に、終戦前後に他界した三木清、島木健作、里村欣三氏らやフランスのポール・ヴァレリー、ロマン・ロランへの追悼文を特集とし、小説欄に正宗白鳥、里見弴、川端康成、林芙美子氏ら、それらの原稿がそろったのは十一月も末になっていた。そこで編集後記は私が書かねばならない。創刊号の後記を書くという重責は、私にとって初めてのことであった。十二月のはじめ、中山義秀さんと永井荷風氏を訪問した夜、熱海の旅館で、酔っぱらって寝てしまった義秀さんの寝顔を横目でみながら、私は一気にそれを書き上げた。

 この創刊号後記は、私にすれば忘れ難いものであるだけに、そしてまた、当時私の抱いていた文芸雑誌に対する抱負を示すものであるだけに、敢えて書き写すことを許してもらいたい。

★「人間」創刊号をおくる!

 あの敗戦の晩夏に、見わたすかぎりの惨憺たる焦土を前にして、幾たびか、絶望なすところなく佇みつくさなかつたひとがあつたらうか。しかしまた、荒廃の風景に点綴された菜園の鮮かな緑のいろに、涙の出るほどの感動を味ははなかつたひとがあつたらうか。あの緑、自然の中のどこにでもある謂はば平凡なそれだけに永遠のその色が、かくまでいぢらしく、勁く、更に気高く、心に沁みたことは嘗てなかつた。吾々はその緑の色に再建日本の表象を読みとつたのだ。そしてそれを育て燦然たらしめるこやしとしての文学の役割の重大さに烈しく思ひ及んだのである。

「人間」はあくまでこの文学の役割が十全に果されんがための最も充実せる場でありたい。

★現在の混沌を感傷的に言ひ立てその責任を狂熱的に追求することよりも、吾々はまづ敗戦国日本といふ悲愴な現実をめぐつて、謙虚に反省すべきではないか。さやうな感傷と狂熱こそが惨敗の大きな原因ではなかつたか。文学界に於てもまた厳しい自己批判がなされねばならないであらう。感傷と狂熱とを高い叡知と正しい表現へ導くべき文学者のこころとその発言の、この国に於ける社会的な非力さについて。在来の文学作品の思想性・社会性の貧困、つまり世界性の稀薄について。真の国民文学もこれらの課題の充足によつて確立されるに違ひない。今や日本文学の新しいよみがへりの朝にあたり、この方向に多くの文学的情熱が傾けられねばならない。しかもこれに関しては思想家の努力にも俟たねばならぬであらう。

「人間」はこの新なる日本文学の発展に積極的に寄与したい。

★「人間」は恒に新人を迎へる扉を大きく開けひろげたい。

 吾々の文学の新しい開花と実りが若き文学者の手によるべきことは言を俟つ迄もない。新しい時代は新しい文学者を喚んでゐる。「人間」は新人の清新溌刺たる作品の投稿を大いに歓迎する。しかし所謂新人募集などといふ在来のジャーナリズムの空虚な笛を吹いて新人登場を、敢えて性急にせき立てない。若い文学精神の自然な燃焼と噴出を絶えず待ち設けたいのである。

 (以下略〉

 これと同時に、創刊号の目次をも掲げておきたい。

  表紙・扉デッサン 須田國太郎

 

国民文化とヒューマニズム  西谷啓治

デモクラシイの勝利について トマス・マン

              大山定一訳

自由主義 福原麟太郎

印刷されなかつた原稿 小宮豊隆

杜少陵九日詩釋 吉川幸次郎

二葉亭の未発表書簡 中村光夫

高浜虚子 宇野浩二

  ヴァレリイ追懐 辰野 隆

  三木清氏の思い出 佐藤信衛

  島木健作の死 高見 順

  故里村欣三君のこと 今日出海

  ロマン・ロランを想ふ 片山敏彦

  ☆最近のソビエット文学をめぐつて 袋 一平

  雑記 菊池 寛

  三木清の一遺稿 谷川徹三

  遠山先生 坪田譲治

谷崎潤一郎氏へ寄する書翰 永井荷風

  花 木 呉 茂一

  街道筋・山里 宮城道雄

  我が鎌倉文庫の記 久米正雄

ニュートンの卵 大佛次郎

たつた一つの単純な事 北原武夫

  「新」に惹かれて 正宗白鳥

  女の手 川端康成

創 赤蛙 島木健作

  吹雪 林芙美子

  姥捨 里見 弴

作 (歌) 寶青菴朝夕 吉井 勇

  (詩) 山裾・氷の歌 室生犀星

  (句) こゝに住み 高浜虚子

   ☆カット岡鹿之助・三岸節子・高木四郎

 この創刊号の校了刷りは、内幸町のNHK会館にあったGHQ・CIE(進駐軍文化情報局)に提出した。二、三日して検閲がすんだという報らせがあってゲラ刷りを受け取りに出向いたところが、軍服を着た二世らしい若い検閲係員が、二つの原稿の発表は許されないというのである。

 一つは今日出海氏の原稿で、報道班員としてフィリッピンに従軍し敗戦直前に戦死した里村欣三氏を悼む文であったが、この中で敵軍と書かれであるが、戦争が終った今では不当である、という。

 もう一つは小宮豊隆氏の「印刷されなかつた原稿」という一文である。これは小宮氏が戦時中に執筆した原稿のうち、日の目を見なかった五篇の感想文を集めたものだが、その中の一篇が検閲にひっかかったのだった。これにも今氏の場合と同じように敵軍の使用が指摘されたが、それよりも全文がまかりならぬという。文中には東京空襲の情況が描かれるとともに、米軍の日本本土上陸の予想について軍部に対する痛烈な批判が詳しく書き綴られてあった。小宮氏はこれを朝日新聞に寄せたが、編集方針に添わないとして返却されたのだった。当時の新聞では、こういう文章は、戦時下の国民の志気を損ねるものであるという判断であり、何よりも軍部批判は最大のタブーだったからであろう。小宮氏の文章の最後には、「私の五つの原稿は、その点で、一面、検閲の横暴によって惹起された編輯者の悸えの、記念ともする事が出来るものである」と書かれであったが、それが今度は逆に、それも大体同じ理由で、占領軍は発表を許さないのである。つまり、米軍にすれば自軍のすさまじい東京空襲の光景は葬りたいことであろうし、日本上陸作戦云々は許し難かったに違いない。敵味方いずれの側にしても軍部の意識というものは共通なのであろう。

 検閲が通らないとなれば致し方がない。印刷工場に聞き合わせると、すでに紙型が鉛版になっており、印刷にとりかかる待期中(ママ)だという返事である。私は志村へ駆けつけた。今更この期に及んでどうしょうもなく、今氏の文の方は数カ所の語句を削って空白にし、小宮氏の方はその三ページ分を鉛版をつぶして読めなくするという応急の処置をとって、そのまま印刷にかけた。そうでもしなければ到底発刊日に間に合わない。後は野となれ山となれの気持だった。

 こうして予定どおり創刊号は十二月二十日発刊の運びとなった。総べージ二四〇ページ、定価四円五〇銭、部数二万五〇〇〇。

 それにしても私が、私だけでなく多くの人々もそうであったろうと思われるが、進駐軍という名称にまやかされて、占領軍下にあるという現実の受け止め方をなおざりにしていたことは否めなかった。また、軍国日本の桎梏しっこくを脱した解放感と喜びのあまり、国民の権利として与えられた思想の自由、言論の自由、表現の自由を呑みにしてしまっていたそしりは免れない。そまり(ママ)、占領軍下にあるという現実を失念していた一種の甘えは、検閲で冷水を浴せかけられたのだった。その報いは覿面てきめんにきた。

 CIEに納本した翌日、私は呼び出しを受けた。一抹の不安にかられて出頭すると、今度は中年の婦人将校が二世の通訳を従え、私を別室に連れていった。

 私はあなた方を指導するものとして伝えるのだが、と前置きして、「あなたは検閲の結果を理解していなかった。三つのミスを犯している」と言った。一つは、今氏の文章の中で削除しなければならない語句を空字のままにしていること。一つは、小宮氏の文章を削除せずに誌面を黒くつぶしてあるにすぎないこと。更にもう一つは、これは最も重要なことなのだが、以上の二つを通じて事前検閲のあとが歴然と残っている、すなわち検閲が行われたことが完全に読者にわかるということだ、と鋭い視線で私の顔を正面から見つめて、瞬きもしない。私が後は野となれ山となれと横着をきめこんだ処置に対する糾弾である。愕然とした私は、「確かに私の不注意と怠慢の結果です。なにぶん初めてのことで……」と言葉を濁しながら、私もその婦人将校の目から目を離さなかった。

 常日頃とかく年齢より若く見られがちだった私は、恐らく外人の目にはせいぜい学生あがりぐらいの未経験な若僧にしか映らなかったのであろう。

「あなたは年が若いらしいが、編集者のキャリアーはどれほどあるのか」、と婦人将校は質問した。とっさに私は渡りに舟の気持で、「私は戦後初めて編集者になったばかりです。だから行届かない点があったと反省しています。今後はこんなミスは繰り返しません。信じてもらえませんか」と神妙な態度で答えた。数瞬私に目をすえていた彼女は、かすかに唇をゆるめると、

「ではこの件は強いて追求しない。私の要望をより一層理解することを望む」とうなずいた。

 ほっとして私が腰を上げかけると、「それから」と手で制した。

「この表紙の絵だが、これは次号から変更してほしい。この絵は表紙絵として不適当だ」

「なぜですか」

「これは囚われ人の姿ではないか。現在の日本人は決して囚人ではない。連合軍によって解放された人民でなければならない」

「とんでもない」思わず私は叫んだ。

 『人間』創刊号の表紙絵は、須田國太郎画伯のデッサンであった。(ジャケット参照)私は昔の『人間』の表紙が有島生馬氏や石井鶴三氏のデッサンだけで飾られていたことが記憶の底にあったので、その形式を踏襲する意図から、新『人間』の表紙もデッサンだけでいこうと当初から考えていたのであった。そこで、西下している間に、友人である二科会所属の高木四郎氏が須田國太郎氏の弟子格だったので頼みこんで、須田氏の書き置きのデッサンの中からこれを選んだのだった。

 若い男女が手をうしろにまわして並び立つ裸像——私にはこの絵がエデンの園を追われたアダムとイヴの姿と受け取れた。これを見つけたとき、私は小躍りした――これこそ人間そのものの姿ではないか。雑誌『人間』の表紙絵としてこれほどふさわしいものはめったにあるものじゃない! にもかかわらず、これを両手を背後に縛られた敗国人の姿として現在の日本人を表現するものだとは、かんぐりもはなはだしい、言いがかりというものだ。私は縷々るるとして選んだ理由を述べ立てた。

「だから変更する意志はありません」

 私がしゃべっている間も婦人将校はゆっくり首を横に振りつづけていたが、

「あなたの意向は理解できないではないが、しかしすべての人があなたの意向どおりに受け取るまい。私は次号からこれを変更することが望ましいということを繰り返すだけだ」と自説を譲らなかった。

 この表紙絵についてはそれ以上に言及しなかったので、私は「サンキュー」とお愛想を残して小部屋を出た。しかし翌月号もその次も表紙絵は変えずに半年間続けたが、係りの検閲員が要望を必ず付け加えるだけで、ほかに何の沙汰もなかった。

 要するに、検閲の結果としては、小宮豊隆氏の原稿は、残念ながら、またしても題名どおり、“印刷されなかった原稿”に終り、と言うよりも、“印刷されても読むことができなかった原稿”になってしまったのであった。

 このようなCIEの叱責は、苦労の末の創刊号発刊の喜びに、また発刊と同時にたちまち売り切れ、リュックを背負った本屋さんが直接購入に詰めかけるというような好況の嬉しさに、水をさされた思いで、不愉快には違いなかったが、同時にそれは私の有頂天のほとぼりをさめさせる動機を与えるものだったことも疑えない。とにかく占領軍政下で雑誌編集の仕事をしているのだ。だからわれわれにはその自覚とそれにともなう緊張が不可欠なわけで、その側面では元と変らないと思えばいい……こういう撫然たる思いは、しかし私たちが現実に直面しているすさまじい食糧難や、狭少な新聞紙面に押し込み強盗の記事が載らない日のないような荒んだ社会状況の前には、吹き飛んでしまう些事にすぎないとも感じられた。

 

 それにしても一日も早く疎開先から妻子を東京へ引揚げるのが私の急務だった。東京と関西を往復しながら仕事をするのは無理であり長続きするはずがない。その上、終戦以来東京へ戻ってくる人の数が日ごとに激増して、そうした転入者を制限するとか、だから今年いっぱいで転入受付を一時停止するとか、さまざまな噂が巷間に流れていた。気が気でなく焦っていた私は、一応仕事の片がつくと、急いで西下した。そして引揚げ準備を整えて待期(ママ)していた妻と子供を伴い、翌日守山駅を発った。いったん京都に出て京都駅前の旅人宿で仮眠し、早朝京都初発の列車にようやくのことで乗り込んだ。車内は、騒然としていた。妻が三歳の子供のために便器がわりに小空瓶を用意したのが予想以上に役立つほどの込みようだつた。

 夜明けにまだ間のある暗闇に粉雪が舞いしきっていた。その流れを窓外に眺めながら、何やら遠国へ落ちていくような悲愴な気分と、緊張と激しい寒さに、膝をくっつけ合わせるようにして私たちは東京へ向かった。十二月二十六日のことである。

 こうして無我夢中で過ごしたような私の終戦の年が暮れたのだった。