なぜ生まれたのか、なぜ生きなければならぬのか、なぜかうやつて生きてゐるのか、さうしてなぜ老い朽ちて、なぜ死なねばならぬのか、私はもう四十だが、さうして多く考へてばかり暮らしてゐる身だが、今もつて分らない。恐らく死ぬまで分るまい。
私はたゞ漠然と生きてゐる。時々金がほしいと思ふ事もある。けれどもそれは美人を見たり、立派な邸宅を見たり、世界漫遊がしたくなつたりする時にかぎる。かうやつて、まづい物をたべて、汚い着物をきて、本を読んだり、翻訳をしたり、ゴロリと臥ころんだりしてゐる時は、何にもほしくない。さうして頗る満足だ。
併し随分退屈で困る時もある。文章は書く気にならず、本は読む気にならず、ゴロリと臥て見る気にもならず、実際在ても立つてもゐられなくなるほど、退屈で退屈でたまらない事がある。さういふ時には、一番景気よく新橋か柳橋へ出かけて、大勢美人でもよんで、成金達のやりさうな馬鹿真似がしたいと思ふ。が、考へて見ると、私にはそんな金のありさうな筈はない。そこで美人は断念する。友達のところへでも押しかけて話し込まうかと思ふ。けれども友達は皆他人だ。会つて話して見たところで、お互ひにごく上つ面の事しきや話す筈はない。友達はやめにする。芝居にも寄席にも行く気はしない。たゞブラブラと散歩するのも下らない。どうしていゝか分らなくなつて、しかもいよいよ退屈でしかたがなくなる時がある。
矢も楯もたまらなくなると、とりあへず、兎に角外へ出る。歩けば露路に沿うて自然と電車通りへ出る。知らず知らず停留場の前までゆく。築地両国が来る。九段両国が来る。浅草が来る。上野が来る。三四台やりすごすうちに、自然と出かける方向がきまる。大抵は浅草へゆかうと思ふ。新聞広告で見たキネマ倶楽部か電気館か帝国館かへ行つて見る気になるのである。さうしてその三館を皆見て了つたやうな時には、銀座へゆかうと思ふ。銀座はたゞブラつくだけだ。
帰ると大抵十一時すぎになつてゐる。婆さんの敷いて置いてくれた寝床の中へすぐにもぐり込む。さうしていろいろな夢を見て、翌朝目がさめると、この退屈が生ずるまで、まづい物をたべ、汚い着物をき、書を読み、翻訳を続けるといふ、甚だ平凡な、しかも甚だ満足な日程に這入る。
――人は希望に生き、満足に死す。といふやうな諺をば子供の時耳にした事があつた。考へて見ると、私には今全く希望といふものがない。さうしてたゞ現在の満足だけが残つてゐる。諺の言葉に準ずると、私は死んだ人間と云はなければならぬ。
財布の中に金がなくなると、同時に私には世の中がなくなつて了ふ。たとへば友人と会食する約束をしたとする。友人は私の財布にも相当の金があるものと信じてその約束を守る。然るにその当日となつて私の財布に一文の金もなくなつてゐる場合には、私は約束した会食の場処へ行く事が出来ない。葉書も買へない時がある。心ならずも私は友人に待ちぼけを食はせるやうになる。従つて友人は私を信用しなくなる。友人に信用がない事は「世の中のない」最も有力なる証拠である。
いつぞや、活動で、Beggars on horsebackといふ文字を見た事があつた。さうして自分も亦馬上の乞食の一人だと思つた。
この世智辛い世の中に、何事もたゞ金ばかりで解決が出来さうに見えてゐる世の中に、私は悠々閑々として棲息してゐる。即ち金になりさうな事には全く頭も手も使はずに生きてゐる。自分ながら随分愚かな人間だと思ふ。随分無能を極めた人間だと思ふ。でも仕方がないと思つてゐる。かういふ風な傾向を持つて生まれて来たのだから止むを得ないと思つてゐる。奮発といふ事をしなければ、努力といふ事をしなければ、人生は果して過してゆけないところだらうか? それが為に若し人間が必ず自滅する筈に出来てゐる人生なら、私は晏如として自滅するより仕方がない。昔は従容として死に就く事を士の本分だと心得てゐた。犬死でも何でもかまはない。金をとる努力をしなかつた為に、私は従容として死に就かう。さう覚悟して私は生きてゐる。
私のやうな人間が多くなれば、その社会は必ず堕落する。その国家は必ず滅亡する。私は社会主義者の敵である。私は国家主義者の黴菌である。けれども生物学上の見地からすると、一主義者の敵も、一国家の黴菌も、それ自身としては、必ず溌剌たる一箇の生物である事を忘れてはならない。
私の両親は私に失望して死んだ。私の妻は私に虐待されて去つた。私の友人は私と行動を共にする事を厭うて遠ざかつた。又いろいろの処女は私に弄ばれたさうである。又人妻で私の為に身を誤つた女もあると云ふ。けれども私は彼等の誰もに対して決して罪悪を犯すなどとは思つてゐない。私はたゞかく生れたにすぎない。さうしてたゞかく外界と接触して来たにすぎない。正とか善とか称せらるゝ一箇の幻影があつて、そこにはじめて罪悪とか不正とかいふアトリビュートが生ずる。私には幻影がない。随つて正邪の観念がない。善悪の差別が分らない。私は恐らく道徳上の色盲患者なのであらう。
日の経つてゆくのが恐ろしいやうな気がする。勿体ないやうな気もする。怠惰といふ事に対する因襲的の観念が無意識に働いて、さうした気を私の心に起させるのはよく分つてゐる。怠惰と戦つて何かするのも、怠惰のまゝにうち任せて暮らすも、結果から見ると同じ事なのだが、結果といふものに重きを置く観念がやつぱり因襲的のそれに外ならない。私は怠ける事も出来ぬ。又勿論働く気も起らない。さうして日は経つてゆく。どしどしと経つてゆく。
明らかに私は穀潰しである。社会にとつて有害無益な人間である。けれどもそれに対して私は責任を持つ事が出来ぬ。私は勝手に生れたのではない。生まれたくて生まれたのではない。私の父母も私のやうなものを生みたくはなかつたであらう。それゆゑ父母にも責任はない。生まれて見ると、私は斯く穀潰しであつたにすぎない。これは誰にもどうする事も出来ない。一日も早く私の有害無益なる生存が社会から消滅する日を待つより外に仕方がない。但しそれは社会といふものを標準にした場合にかぎる。私には社会を無視する事が出来る。利己の外何事をも考へないでゐる事が出来る。自己以外の一切を持つて、悉く、たゞ自己の生存の材料であると考へる事が出来る。さう考へると、私は決して穀潰しではない。宇宙は皆私自身の生存を享楽させる為に存在してゐるのだから、享楽の出来得るかぎり彼等を享楽して死ねばいゝわけである。社会中心か自己中心か、而も私はそのどちらをも信用が出来ない。元来中心のない宇宙に、そのどちらも強ひて仮設の中心を置いて考へた事だからである。然らば仮設の中心を置かずに、人は何事かを考へる事が出来るか。それは出来ない。出来なければ中心を置いて考へるより外に仕方がないではないか。けれども人は必ずしも考へる為ばかりで生きてゐるわけではない。仮設の中心を置いて強ひて考へるにも及ばない。考へたい人は考へるがいゝ。併しどの考もすべて皆仮設の上に立たざるを得ない。さうして人には一切の仮設を信用しない自由がある。私はたゞ一切の考を信用しないやうな傾向を持つて生まれ出た人間であるにすぎない。
友人が来る。飲みに出る。梯子をやる。自動車へ乗る。よからぬところへ足を踏入れる。四十円や五十円は忽ち飛んで了ふ。私の収入は月に百円しきやない。友人が二三回やつて来ると、家賃も払ふ事が出来なくなる。私には友人は禁物だ。或友人は私の収入は少くとも三百円位あるだらうと云つてゐる。して見ると、私の生活の外形は二百円がた虚偽が含まれてゐるわけだ。さうして相互の友情は多くその虚偽の上に成立つてゐるから面白い。友人と遊び歩いたあとで、私はいつも不快を感じない事は少い。
それは酒をのむからだ。それは性慾を充たしたくなるからだ。尚一歩進めて云ふと、女なしに生活してるからだ。云ひ換へれば、幸福なしに生活してるからだ。働かずに生活してるからだ。働かないから退屈する。幸福を感じないから生きてる甲斐がないやうに思ふ。心から愛し合ふ女がゐないから幸福が感じられない。そこで酒でごまかす。そこで遊女を抱いて一時の慾を遂げる。ますます不快となる。ますます得られぬ幸福を憧憬する。ますます捨鉢な了見が起る……私はなぜこんな生活ばかり続けてゐなければならぬのか?
私の心はまた混乱しはじめた。やりかけた翻訳も続ける勇気がなくなつて了つた。書物などはもう二十日間まるで手にさへした事がない。起きると机へ向つてすぐ手紙を書くのだ。どこへ? どこへと考へてもいやになる。どうした心の加減か知らぬが、私は急に或女を恋しはじめたのだ。それは人の奥さんだからいやになる。どうせ遂げぬ恋とは承知しながら、何の因果かどうしても諦められぬ。そこでその苦しさを筆に愬へる。それが手紙となる。出したつて仕方がないと思ひながら、封筒の上書をかく。切手を貼る。ポストヘ抛り込む。今度は返事が待遠しい。一日に何度となく郵便受函を覗いて見る。その奥さんは勿論おやさしい方だから、可哀さうだと思はれて、三度に一度は返事を下さる。それゆゑなほ恋が募る。ねてもさめても目先にチラつくお顔が実際に見たくなる。顔を見たらそれでいゝのか。話が出来たらそれでいゝのか。何といふ私は馬鹿者なのであらう?
家に居ても何一つ手につかない。外へ出る。酒をのむ。よからぬところへ足を向ける。茹だるほど飲んで飲んでからだをこはす。一文なしになつて、死んだやうになつて、立帰るとすぐ寝床の中へ横たはる。さうして奥さんの事ばかり思ふ。たまらなくなると、机へ這ひよつて手紙を書く。さうして足を曳きずるやうにして出しにゆく。たまたま返事でもくると、蘇つたやうに終日その手紙を読み直してゐる。私は気が狂つたのかも知れぬ。奥さんは決して私のやうな無法な恋を受入れるやうなお方ではない。それはよく分つてゐる。分つてゐるくせに諦めかねてゐるのだ。諦めるどころか、いよいよ恋しくてたまらなくなるのだ。馬鹿な。馬鹿な。どうしたらこの恋を思ひきる事が出来るだらう?
家財道具を叩き売つて了ふ事にきめた。書物はもうみんな売つて了つた。私は鞄一つになる。さうして日本中を放浪する。札幌にある私の地面が売れるまでは日本の外へは出られない。併しそれも売れる筈になつてゐる。さうしてそれが若し売れた時には、私は日本を立去る筈になつてゐる。何の為に鞄一つになる気なのか、何の為に外国へ行く気になつたのか、自分でもわからない。その外遊について或友人はこんな手紙をくれた。
――君が求めてゐるものは「仕事」とそれから「愛」の二つではないでせうか。それが得られない為に、君は始終自己に対してむごたらしい反逆を企ててゐるのではないでせうか。この二つのものを把握しさへすれば、君は聡明な善良な同時に幸福な人として生きる事が出来るのではないでせうか。僕にはどうしてもさうとしか思はれないのです。
――この二つのものは外国に求めるよりも寧ろ日本に於いて求むべきだと思ひます。また日本でなければ求められないかとも思はれます。
手紙はまだ長いものだが、主意はこれだけのものである。私は果して「仕事」を求めてゐるのか知らん。また「愛」を求めてゐるのか知らん。よし求めてゐるとして、それが求め得られるものか知らん。私には妻がない。職業がない。なぜ私に妻がないのか知らん。なぜ私に職業がないのか知らん。なぜ私はその二つのものを求めようとはしないのか知らん。さうして私は鞄一つになるのだ。さうしてその鞄を棄てて了ふ日もさう遠い事ではなからう。さうしてそれは恐らく私のこの世を去る時であらう。
――私は死ぬのは平気ですよ。と、奥さんが云つた。
――あなたは? と、訊かれて、私は返事に困つた。
私は別に今死にたくはない。併し死が目前に迫つたところで私は決して恐れもしない。が、さういふ死はいつ私の目前に迫るであらう。
放浪をはじめて今日でもう五日目になる。爰は静かだ。十畳間の天井が高い。取替へたばかりの畳が清新な匂ひを放つ。波の音が遥かに轟いてゐる。広い庭に松ばかりある。松を越えて海が見える。海のかなたには島も見える。ゆうべはその島にチラチラあかりなども見えてゐた。
私はどうしてこんなところへ来たのだらう? 爰は谷崎君が時々見える宿屋ださうな。又昔山本君も長らく滞在してゐた事があるとかきいた。なるほど両君の気に入りさうな家だ。金のある間は私もかういふ家にゐたいと思ふ。
――お一人ではお淋しうございませう。と、どの女中もどの女中も同じ事を云ふ。
――奥さんをお招びになつたらいかゞでございます? と云つてくれる者もある。
招びたいのは山々だが、人の奥さんでは致し方もない。
放浪をはじめた日から、私の頭の中にはあの奥さんの姿ばかり執拗にコビリついてゐる。その奥さんの顔が見たくて、手が握りたくて、たゞそれだけの為に、忠実な婆さんを棄て、愛する猫をすて、家財道具の一切を棄て、書物を棄て、東京の生活全部を後にして、フラフラとかうして出て来たやうな気がしてたまらない。
家を出る時には、婆さんはまだ残つた品物に未練らしく取りついてゐた。辻君が頼んで来てくれた車に乗つて、私は東京駅へ赴いた。さうして鞄を一時預けにして、食堂へ這入つた。二三杯引つかけたウヰスキイの元気で、私はそれからお名残りに銀座を散歩した。
その四五日前、私は辻君と二人で銀座をブラついたが、その時辻君はこんな事を云つた。
――僕は銀座へ来ると、自分がエトランゼのやうな気がする。
私は心の中でかう思つた。
――俺はこの世の中にゐるなと考へる時、いつでも自分がエトランゼのやうな気がする。広い天地に俺は死ぬまでひとりぼツちでゐなければならぬのだ。
辻君はプロレタリヤを以て自ら任じてゐる人だ。それゆゑに仲間がある。さうしてその仲間は世界中に拡がつてゐる。私には仲間といふものがない。私の頭には国家もない、社会もない、世界すらもない。たゞ奥さんの姿ばかりがある。さうしてその姿が私の頭から消ゆる時は……
――香風園まで。
――宿屋ですね。
――さう。
山本君のところへ立寄り、水島君の家へ一泊して、私は雨の東京を去つた。さうして三浦半島の唯ある停車場で降りた。
香風園といふのは、小綺麗な温泉旅館で、広い美しい庭園の中に、貸別荘がいくつか建つたところだときいてゐたが、車夫の挽き込んだ家は、小汚い下宿屋見たやうな家であつた。あんまり不思議なのできいて見ると、
――あすこはこの六月に成金さんに買はれて了ひましたので一時廃業致しましたが、先月から又こゝで始めましたのでございます。と、たつた一人しきやゐない女中が答へた。
雨は降る。夜にはなる。止むを得ず一泊する事にきめた。ヤケ気味で、藝者なンどよびよせ、大酒を呷つてねた。それが放浪の第二日目。
三日目はいゝ天気であつた。
前日にこりたので、昼飯は小町園で認める事にした。隣りは婆さんの信心する日朝様だ。その寺の屋根が見えて、目前に拡がつた広い庭の一隅には、菊などが造られてあつた。
酒をのみながら奥さんへ手紙を書いた。すぐ返事があつて、七時頃まで待つててくれといふ命令だ。所在なさに、又昨日の杏のやうな顔をした藝者をよんで、トランプなどして他愛もなく遊んだ。
藝者を返すと、間もなく奥様が見えた。
逢つたら、いろんな話をするつもりだつたが、顔を見ると、何にも話す事はない。
――そんなもの見なくたつてよござんす。と、奥様は私の手にあつた旅行案内を奪つて、食卓の下へ押し込んだ。
――では、どうしたらいゝでせう? と、私は酔つぱらつた眼を強ひて見張つてきゝ返した。
――遠くへ行つちやいやよ。と、奥様は媚びるやうに答へた。私はその媚びるやうな眼に征服された。
一寸先は暗だ。私はとにかく小町園へ荷物をあづけて、而も勘定をすまして、手拭までもらつて、奥様と手をつないで歩いた。暗い町を歩いた。どこまでもどこまでもと歩いた。私はどこをどう歩いてゐるか知らない。が、奥様はよく知つてゐるのだ。御自分の家へお帰りになる道を歩いてゐられる事を知つてゐるのだ。私と奥様とはそれだけ地位が違ふ。道がわるかつたので、二人は時々手を放さなければならなかつた。けれども星は美しい夜だつた。
四日目には奥様へ電報などかけた。どうせ来ては下さるまいと思つてゐると、
――御婦人のお客様でございます。と、翌日の午後、女中が物静かに襖をあけて案内した。私はハッと嬉しかつた。が、坐るか坐らぬのに、
――けふはすぐ帰ります。あしたまた来ます。と、奥様は意地の悪い事を仰しやるのだ。
――それぢや、お帰りなさい。もう来なくたつてよござんす。と、癪に触つたので、私は心にもない事を云つた。
――憤つちや駄目よ。けふはよつぽど止さうかと思つたの。都合のわるい事もあつたし、それに雨も降つてゐたので……
それでも奥様は夕食に箸をつけてから帰られた。
暗い、道のわるい、方向のさつぱりわからぬ松原の道を、さんざんに迷ひ迷つて、二人は又手をつなぎながら歩いた。かうして歩いて下さる奥様のお志のほどを思ふと、私はもうこのまゝ死んでもいゝやうな心持になつた。
翌日も曇つたり降つたりした。
けふこそは来て下さるまいと思つて、別れの手紙など認め、夕飯の膳に向つて、チビリチビリのみはじめてゐると、案外にも奥様は又来て下さつた。
ゆうべは思ひがけなく奥様が来て下さつた嬉しまぎれか、或ひは一本よけいに飲んだ為か、ひどく神経が昂奮して、さんざん子供のやうに駄々をこねた挙句、奥様の帰られたあとで、妙に胸が一杯になつて、ポロポロ涙さへとめどなく流した。
その涙の顔を女中に見られたのが小塊かしくて、爰の家にゐるのが一刻もいやになつた。それに天気がばかによくなつた。とにかくヂッとしてゐられなくなつたので、朝飯をすますと、すぐ勘定して出かける事にした。
――大そうお早いのですね。これからどちらへおいでになります。と、女中が云つた。
――さア、とにかく藤沢まで出よう。
――それでは車屋さんにさう申して置きませう。
あんなに駄々をこねたまんまで、永久に遠いところへ行つて了ふのも、何だか寝覚がわるいやうな気がしたので、藤沢の方へゆく電車に乗る事は見合はした。
鞄を一時預けにして置いて、心地よく朝日の輝いた松林の道を通つて、鳥居を潜つて、橋をわたつて、畦道をぬけて、もう決してまたぐまいと思つた家の玄関へかゝつた。玄関には男の下駄が一足脱いであつた。それを見ると急にいやアな気がしたので、よつぽど引返さうかと思つたが、そのうち女中が出て来て、
――どうかお上り下さい。と、云つたので、心弱くも、やつぱり又例の立派な玄関へ通る事になつて了つた。やがて奥様が出て来られた。非常に蒼白い顔をして……
――誰か来てゐるのですか。
――いゝえ。なぜ?
――でも男の下駄があつたから。
――さう? と、云つて、奥様はニッコリせられた。さうして俯向いて、頻りと火鉢の中へ火箸で字を書いてゐられたが、思ひ出したやうに、もう一度ニッコリして、チラリと、私の顔を、竊視るやうにしながら、
――駄々つ児! と、叱るやうに、小さな声で云はれた。
私は嬉しかつた。
――すまないと思つて来たの? あんなに来るのをいやがつてゐた家へ……ゆうべは本当に困つたわよ、あんまり駄々ばかりこねるんだもの……でも、本当に可愛いと思つたの……と、奥様は言葉を続けられた。さうして一寸愧かしさうに火鉢へかじりつかれた。
私は顔が赤くなるやうな気がした。
――だからお詫びに来たのです。悪かつたから許して下さい。私はどんな事をしても、人にあやまる事は嫌ひだけれど、あなたにだけはあやまります。すぐ上方へ行つて了はうかと思つたけれど、何だかあやまらずには行かれないやうな気がしたので、思ひきつて来たのです。ね、どうか許して下さい。悪かつたから……、
いゝわよ。あやまらなくたつて……でも、あなたにはさういふしをらしいところもあるのね……
――冗談ぢやない。まア、お詫びがかなつたら、早速お暇としませう。これからすぐ汽車へのつて上方へゆきます。
さう云つて私は立ちかゝつた。奥様は少しばかり慌てたやうに、
――そんなに急いで行かなくちやならないの? と、引留めるやうな眼つきをせられた。その眼を見ると、私はまたグニャグニャになつて了つた。
――急ぐわけぢやないけれど……と、口籠りながら、――ぢや、けふは天気がいゝから、二人でどこか散歩しませう。夜まで……どうせ汽車へ乗るのは夜の方がいゝんだから……
――でも、けふは駄目よ。
――下駄の一件で?
――そんな事はないけれど、今晩どこか近所で泊まつてくれない?あした朝早くゆくから……
――そりやかまはないけれど……ぢや、今晩はあすこで泊りませう……私はまだ一度も行つた事はないけれど、私の妹がいつぞや新婚の晩泊まつた家……知つてるでせう?
――知つてるわ……ずつと昔一度行つた事があつたわ……景色のいゝ家よ。
――出来るだけ早くいらつしやい。
――寝込みに踏んごんであげるわ。
――きつと?
――それでもよければ……
――いゝどこぢやない……
停車場まで帰る途中で、駱駝の肌衣だの猿叉などを買つた。
――襟巻はいかゞです。これは本年の流行で……と、番頭は黒天鵞絨の襟巻を出して見せた。
ボヘミアンに流行は何だかをかしいやうな気がした。けれども余程買はうかと思つた。
辻君は私の事をエレガント・ボヘミアンだと云つた。或は蓋し適評かも知れない。
次の停車場で降りて、自動車にのつて、別荘地をすぎて、大杉栄君が市子に傷けられた家の前をすぎて、近所に全く人家のない唯ある海角で自動車から降りた。
――御昼飯でございますか。と、女中が訊いた。
――泊つちやいけないのかい。
――お泊りでございますか。
――さア、まア。とにかく昼飯をたべてから……
――フム、この部屋かい。私は盃を手にしながら、妹がはじめて亭主と寝たといふ座敷を見廻した。
あんまり上等な座敷でもない。それでも、襖の代りに厚い板戸などがはまつた、極めて森閑とした二間つゞきだ。縁側の隅には鏡や洗面台が取着けてある。朝起きた時などは至極工合がよささうだ。坐つてゐて外の見えるのは縁側の方ばかりで、一方の側は高窓になつてゐる。さうしてその縁側の方から見えるのは、前の芝生と、芝生を越した海と、それから海の上の富士ばかりだ。
――なるほど、新婚旅行には持つて来いといふ部屋だね。これでこの部屋専用の温泉でもあつたら申分はない。
――左様でございます。と、女中はニコリともせず、恐る恐る酌をした。
その晩は気がイライラして寝つかれなかつた。昼食と夕食の両方で八合ばかり飲んだ酒が、妙に胸から頭へ停滞してゐて、少しも酔が発散しないばかりでなく、却つて神経を病的に昂奮させ、しきりに感傷的の精神状態に陥つて、右往左往に心が乱れた。
私は死にたくなつた……
たべたくもない朝飯をそこそこにすまして、縹渺と朝日のあたつた海波の上へ、幻のやうにボンヤリと浮んでゐる冨士の姿を眺めながら、私は寝不足の頭を強ひて机の方へ押向けつゝ、書きさしの随筆を続けて見た。
書物は残らず売つて了つた。ノートや原稿は皆焼きすてて了つた。さうしてこの書きさしの随筆だけを携へて、私は放浪の旅をはじめたのだ。
この随筆は私に残つた唯一の友だ。これから先の私の生活は、荒涼たる人生の曠野にたつた一人でさまよひ歩く私の生活は、恐らくこの随筆の外に、この随筆を続ける事の出来得る時の外に、私に対して生の意義をも慰めをも与へる事はないであらう。
私にとつては、この人生は全く無意義だ。又全く無価値だ。けれどもその無意義なる無価値なる人生との接触から生まれて来る、このはかない、貧弱な、空疎な、とりとめのない、同時に気まぐれなる私の随筆は、私にとつては決して無意義でも無価値でもない。
これから先の私は、何だかこの随筆を続ける為に生きてゆくやうな気がする。この随筆をも続ける勇気のなくなつた時は、同時に私のこの世を去る時であらう。この随筆はこの随筆を入れた鞄と同様に死ぬまで私には必要だ。
寝込みには踏込んでは下さらなかつたが、約の如く奥様は見えた。
――またこんなものを見てゐて……と、机の上にあつた汽車の時間表を見つけて、たしなめるやうに、先づ口を開かれた。
――もつと早く来るんだつたけれど、店の番頭に私があべこべに寝込みに踏込まれてしまつたんで……いゝ加減にあしらつて追返すと、今度はまた停車場で出つくはして了つたの……一寸面喰つたわ……どちらへと云ふから、ついそこまでと誤魔化して来たの、と、言葉をつゞけて、嬉しさうにニッコリ微笑まれた。
――ゆうべは寝られなくてねと、私が云ひ出すと、
――私だつてちつとも寝やしないと、奥様はホッと溜息をつかれた。
――でもけふは大層血色がいゝ。
――そりやあなたの顔を見たからサ。
――ばかにしてる……併しあなたがさういふ健康さうな顔をしてると私は嬉しい……きのふの朝の顔色ツたら無かつたからネ。
大騒ぎをやつて見たところで、二人はこんなはかない会話をとりかはすだけなのだ。云ひたい事は胸一杯に充ち溢れてゐるのだが、どういふものだか、顔を見ると、こんな言葉より外に口ヘ出て来ない。
二人は何時の間にか唇を接したまゝ、抱きあつてゐた。
「顔を見れば、それでいゝのか。手を握れば、それでいゝのか。犇と抱きあへば、それでいゝのか……」と、緑雨は感傷的に冷笑つた。
私の手首が敢て最後の行動にうつらうとした瞬間、金属的のやうな感触で、奥様の手首が、ピタリと私のそれを押へた。
奥様の細い体が私の膝から滑りおりた時、
――私のからだ針金のやうでせう……と云つて、奥様の目がニッコリした。
午餐をすますと、
――サア、早く、その着物とお着かへなさい……と、奥様はせき立てた。
私は褞袍をぬぎすて、女中がゆうべ畳んで置いてくれた自分の着物を着た。
硝子戸をあけると、宿の下駄が二三足揃へてあつた。二人はそれを穿いて芝生へ出た。
――いゝお天気ね……嬉しいわ。と奥様はいかにも晴々としたやうに、滴るやうな空や海を眺めながら云つた。
黄いろく枯れはてた草土手を下りて、波打際の砂浜へ出た。右手には御用邸の大きな一郭を越して、遠くの方に色々の形をした別荘地の家々が、小さく小さく画のやうに見える。左にはすぐ目の前に松などの生えた岩つゞきの細長い海角が突出てゐる。海は極めてのどかだ。沖には心持よささうに漁船が漂つてゐる。さうして恰もこの地上から解脱でもしたやうに、空と海との間に夢のやうな冨士が浮ぶ。
――あの鼻の端へ行つて見ませうか。と、私は左手の海角を指した。
――えゝ。と、奥様は何だか行かれさうもないところだといふ眼つきをして、私の指す方を見やつた。
人気がないので、二人は手をつなぎ合つて歩いた。
砂浜の尽きたところに絶壁が聳えてゐる。さうしてその絶壁が即ち海角の根方なのだ。とても伝はつて行けるやうな岩ではない。
――こりや駄目だ……あの後ろへ廻つて見ませう。と、私は草土手の小径について登りはじめた。
――それ御覧なさい。といふやうな顔をして、奥様も後れじと跡につゞいた。
登り終ると街道へ出た。坂の上から荷車が一台下りて来た。それをやりすごして二人はその小さな坂を登つた。と、そこは丁度道路の曲角になつてゐた。突当りに柵があつて、道は柵について左へ折れてゐる。柵の外は絶壁で、向側の海が際涯なく見える。右手は岩組だ。即ち海角と陸地とが接合した結目だ。
私はその結目の岩組へつかまつて攀ぢ上つて見た。が、やつぱり海角の尖端へ出られさうな小径はなかつた。
――およしなさいよ。どうせ行かれる気遣ひはありやしないから……お降りなさいツてば…てんと、岩組の下で奥様が云つた。さうして困つた坊やだといふ顔つきをした。
仕方なしに私は降りた。
それから二人は寄添つたり離れたり、手をつないだり放したりしながら、爪先下りの街道に沿うて、ブラリブラリと歩いた。暖かい日光を心ゆくばかりに浴びながら、際涯を知らぬ大洋をいづくまでもと見はるかしながら……
小さな橋をわたつて、ゆく手の道端に、十本ばかりの木立が海を遮つたところがある。その木蔭にベンチなどが置いてあつた。さうしてそのベンチの上には人がゐた。
その側までゆくと、二人は云ひ合はせたやうに、ピタリと立ちどまつた。さうして顔を見合はして、同時にニッコリした。
――下へ降りて見ませうか。
――えゝ。
草土手について砂浜まで降りる小径がある。二人はその小径を下つた。途中に一寸した平地があつた。
――休みませうか。と、先へ立つた私が云ふと、
奥様はやツぱり簡単に、
――えゝ。と、答へて、さうしてもう一度ニッコリして見せた。
私も又思はずニッコリして枯草の上へ腰を卸した。さうして巻煙草を出してマッチをすつた。
――羽織を脱いで敷いてあげるところだけれと、私は何だかウォルタア・ラレエでもなささうだからネ……
――私こそエリザベス女王ぢやないわ。と、奥様も腰を卸して横倒しに草の上へ坐つた。
――何だか新婚旅行のやうですネ。
――さうなのかも知れない。と、云つて、奥様は一寸下を向いてクスクス笑つた。
――新婚旅行は新婚旅行でも、悪くすると、勘弥と菊枝の新婚旅行になりさうだ。
――でも、あなたは勘弥ぢやないわ。
――勿論、あなただつて菊枝ぢやないけれど……併し、さう云へば、何だかこの下の砂浜を房子のお婆さんが通りさうですネ。
――情愛の水を持つて……
—その情愛の水を今頃宗之助があなたの家へ忍び込んで、万年筆のインキでいたづらしてるかもわからない。
――よしませうよ、もう、そんな下らない喜劇のしやれなんて……
二人はいゝ心持で宿へ帰つた。よほど傾いた夕日が、縁側から部屋の中へかけて、やんはりとさし込んでゐた。と、そこへ今迄浜辺で遊んでゐたらしい漁村の子が二三人、てんでんに介殻を手の平へ盛りあげて、縁の前まで来て、物ほしさうな眼つきをしながら、その手の平を私等の方へ突出した。
――お茶屋の旦那さん、辻占を買つて下さい。と、云はれたやうな気がして、私はいやな気持がした。
小銭をやつて子供等を追返すと、私は障子を閉めて了つた。
――さあ、いつまでかうしても居られない……そろそろ支度にとりかゝらうか。と、私は奥様から離れて、原稿紙やいろんな物をバスケットヘ詰めはじめた。
鏡の前で髪を直してゐた奥様は、いかにも無器用な私の手つきを横目で見て、
――私が今チャンと入れてあげるから、お風呂へでも這入つていらつしやい。と、叱るやうに云つた。
私は云はれるまゝに手拭をブラ下げて風呂へ行つた。帰ると電燈がついた。さうして夕飯になつた。
何から何まで鯛づくめの食卓に向つて、私は元気よく酒をのんだ。さうして元気よく喋つた。
夕飯がすむと間もなく自動車が来たといふ知らせがあつた。
――ぢやア、行きませう
――えゝ……
おなごりに、二人は犇と抱きあつた。
部屋を出る時、ふと気がつくと、バスケット一つだけの筈なのに、丈の高い風呂敷包が殖えてゐた。
――こりや何です。
――ウヰスキイよ。あなたは私よりこの方が可愛いんでせう? これと心中なさい。と、奥様は口早に云つて、丁度そこへ来た女中にそれをわたした。
三浦半島に別れを告げて、東海道線の列車へ乗換へると、私の酔は一時に発して来た。空気枕にあてた頭が、車輪の音と呼応してガンガン鳴つた。さうしてどこからともなく大風の吹きすぎるやうな悲壮な声がして、
――虚無だ。虚無だ。一切が虚無だ……
――破壊、破壊……破壊の外に人間のなすべき事はない……と、きりに絶叫して、絶叫して、絶叫しつづけてゐるやうにきこえて来た。
夢をみてゐるのか、目がさめてゐるのか、私にはわからなかつた……
――大正九年三月――