この話を残して行つた男は、今どこにゐるか行方もしれない。しる必要もない。彼は正直な職人であつたが、成績の好い上等兵として兵営生活から解放されて後、町の料理屋から、或は遊廓から時に附馬を引いて来たりした。これは早朝、そんな場合の金を少しばかり持つて行つた或日の晩、縁日の植木などをもつて来て、勝手の方で東京の職人らしい感傷的な気分で話した一売笑婦の身の上である。
その頃その女は、すつかり年期を勤めあげて、どこへ行かうと自由の体であつたが、田舎の家は母がちがふのに、父がもうゐなくなつてゐたし、多くの客の中でどこへ落着かうといふ当もなかつたので……勿論西の方の産れで、可也な締りやであつたから、倉敷を出して質屋へあづけてある衣類なども少くなかつたし、今少し稼ぎためようと云ふ気もあつたので、楼主と特別の約束で、いつも二三枚目どころで相変らず気に向いたやうな客を取つてゐた。
その客のなかに、或私立大学の学生が一人あつた。彼は揉みあげを短く刈つて、女の羨しがるほどの、癖のない、たつぷりした長い髪を、いつも油で後ろへ撫であげ、いかに田舎の家がゆつたりした財産家で、また如何に母親が深い慈愛を彼にもつてゐるかと云ふことを語つてゐるやうな、贅沢でも華美でもないが、どこか奥ゆかしい風をしてゐた。勿論年は彼女より一つ二つ少いと云ふに過ぎなかつたが、各階級の数限りない男に接して来た彼女の目から見れば、それはいかにも乳くさい、坊つちやん坊つちやんした幼ない青年に過ぎなかつた。
初めて来たのは、花時分であつた。どこか花見の帰りにでも気紛れに舞込んだものらしく、二人ばかりの友達と一緒に上つて来たのであつたが、三人とも浅草で飲んで来たとかいつて、いくらか酒の気を帯びてゐた。彼等は彼女の朋輩の一人の部屋へ入れられて、そこで新造たちを相手に酒を飲んでゐたが、彼女自身はちよつと袿を着て姿を見せただけで……勿論どんな客だかといふことは、長いあひだ場数を踏んで来た彼女にも、淡い不安な興味で、別にこてこて白粉を塗るやうなこともする必要がなかつたし、その時は少し病気をしたあとで、我儘の利く古くからの馴染客のほかはしばらく客も取らなかつたし、初会の客に出るのはちよつと面倒くさいといふ気もしてゐたので、気心を呑込んでゐる新造にさう言はれて、気のおけないやうなお客なら出てもいゝと思つて、袖口の切れたやうな長襦袢に古いお召の部屋着をきてゐたその上に袿を無造作に引つかけて、その部屋へ顔を出して行つたのであつたが、鳩のやうな其の目はよくその男のうへに働いた。
「ちよいちよいこんな処へ来るの。」
「いや、僕は初めてだ。」
「お前さんなんかの、余り度々来るところぢやありませんよ。」
彼女はその男が部屋へ退けてから、自分で勘定を払はせられて、素直に紙入から金を出してやるのを、新造に取次いだあとで、そんなことを言つて笑つてゐたが、男は女に触れるのをひどく極り悪さうにしてゐた。
「今度来るなら一人で来るといゝわ。あんな取捲なんかつれて来ちや可けませんよ。」彼女はまたそんな事を言つて、これも其の男に触れるのを遠慮するやうにしてゐた。
「それあ何うしたつて、こんな処にゐるものには、悪い病気がありますからね。不見転なんか買ふよりか安心は安心だけれど……。」彼女は幾分脅かし気味で、そんな事を話したが、男が彼女のここへ陥ちて来た径路などを聞かうとして、色々話しかけると、若い癖にそんなことは聞かなくともいゝと言つた風で、笑つてゐた。
しかし何のこともなかつた。朝帰るときに、いつも初めての客にするやうに肩をたゝくやうなことも、わざとらしくて為る気がしなかつたので、たゞ、「思出したら又おいでなさい」と、笑談らしく言つたきりであつた。
それから其の男は正直に二三度独りでやつて来た。そして馴染むにつれて、お互に身の上話などするやうになつた。女は別にその男の来るのに、特別の期待をもつた訳ではなかつたが、部屋のあいてゐる時などには、ふと思出すこともあつた。むかし娘時代に、田舎の町で裁縫のお師匠さんに通つてゐる頃、きつと通らなければならない、通りの時計屋の子息に心を惹着けられて、淡い恋の悩みをおぼえはじめ、その前を通るとき、又は思ひがけなく往来で、行合つたりした時に、顔が紅くなつたり心臓が波うつたりして、夜枕に就いてからも角刈の其の丸い顔が目についたり、昼間針をもつてゐても、自然に顔が熱したりした。勿論言葉を交す機会もなかつたし、そんな機会を作らうとも思はなかつたから、単純に美しい幻として目に映つただけで、微かなその恋の芽も土の下で其のまゝ枯れ凋んでしまつた。彼女の生家は、町でちよつと名の売れた料理屋であつたが、その頃から遽かに異性といふものに目がさめはじめると同時に、同じやうな恋の対象がそれから夫へと心に映じて来たが、だらしのない父の放蕩の報いで、店を人手に渡したのは其から間もなくであつた。で、家名相当の縁組をすることもできなくて、今のやうな境涯に陥ちることになつたのであつたが、ちやうど其の時分の淡い追憶のやうなものが、彼の大学生によつて、ぼんやり喚覚まされるやうな果敢ない懐かしさを唆られた。
彼は飲むといふほどには酒も飲まないし、どこか女に臆するやうな様子で、町に明りのつく時分独りで上つて来たが、忙しいときなどは、朝客を帰してから部屋へいれて、一緒に飯を食べることもあつた。晩春の頃で、独活と半ぺんの甘煮なども、新造は二人のために見つくろつて、酒を白銚から少しばかり銚子に移して、銅壷でお燗をしたりした。水桶だのお鉢だの、こまこました世帯道具が一切そこにあつた。女は立膝をしながら、割箸で飯を盛つてくれたり、海苔をやいてくれたりした。彼はこの世界の生活を不思議さうに眺めてゐた。女はとろりとした疲れた目をしてゐたが、やがて又窓を暗くして縮緬の夜具のなかへ入つて.行つた。
「一体君たちは、こんなことをしてゐて、終ひに何うなるんだね。」彼は腹這ひになつて、莨をふかしながら、そんな事を訊ねた。
「ふゝ」と、女は嗤つてゐたが、「まあ余り好いことはありませんね。親元へ帰つて行く人もあるし、東京でお客と一緒になる人もあるしさ。」
「君なんか何うするんだね。」
「何うしようと思つて、今思案中なのよ。」女も起きあがつて莨をふかしながら、「今のところ二人ばかり当があるんだけれど……。」
「商人かね。」
「さうね、一人は日本橋の木綿問屋の旦那だし、一人は時時東京へ出てくる田舎のお金持だけれど、どつちもお爺いさんよ。木綿問屋の方は、まあそれでもまだ四十七八だから、我慢のできないこともないのよ。その代り上さんも子供もあるから、行けばどうせ日蔭ものさ。子供のお守なんかもして、上さんの機嫌を取らなくちやならないから、なかなか大変よ。田舎の隠居の方は、それにかけては気楽だけれど、お爺いさんは世話がやけて為方がないでせう。だどっちから孰も駄目さ。」
「君のところへは、何うしてさう年寄ばかり来るんだ。」彼は痛ましいやうな表情をして訊いた。「君はまだ若くて美しいぢやないか。」
「ふゝ」と、女は袖口のまくれた白い肱をあげて、島田の髷をなでながら、うつとりした目をして天井を眺めてゐた。
「ほんとうに夢中になつて、君に通つてくるやうな若い男はないのか。」
「まあ無いわね。有つても長続きはしないのさ。」
「でも一度や二度商売気を離れて、恋をしたと云ふ経験はあるだらう。」
「それあ、そんな人は家にも偶にはあるのさ。それあ可笑しいのよ。七おき八おきして、終ひにその男のために年期を増すなんて逆上せ方をして、そのためにお客がすつかり落ちてしまつて、男にも棄てられてしまふつて言つた風なの。そんなのが江戸児に多いのよ。第一若いお客といへば、まあお店者か独身ものの勤め人なんだから、深くでもなれば、お互ひの身の破滅ときまつてゐるんですからね。それかといつて、貴方のやうなお母さんの秘蔵息子を瞞せば尚罪が深いでせう。先のある人を、学校でもしくじらせてごらんなさい、それこそ大変だわ。」
「だけれど、先きで熱情を以つてくれば為方がないぢやないか。」
「熱情ですつて。それあ然ういふ人もあるわね。少し親切にすると、すぐ上さんにならないかなんて言ふ人があるわ。だけれど其もこゝにゐるからこそ然うなんだよ。出てしまつちや、やつぱり駄目さ。」彼女は慵げな声で言つて、空で指環を抜差してゐた。
「それはかうした背景に情趣を感ずるとでも言ふんだらうけれど、そんなのは駄目さ。ほんとうにその人を愛してゐるんでなくちや。」
女はまた「ふゝ」と笑つた。
「瞞すつて一体どんな事なんだい。」
「まあ惚れさうに見せかけるのさ。」女は吭で笑ひながら、「だけれど私には何うしてもそれが出来ないの。たゞお客を大事にするだけなの。それに私なんか恁う見えても温順しいんだから、鉄火な真似なんか迚も柄にないの。ほんとうに温順しい花魁だつて、みんなが然う言ふわよ。」
「あゝ」と、男は悩ましげに溜息をついたが、暫くすると、「僕は君のやうな人は、一日も早くこゝを出してあげたいと思ふね。」
「ふゝ」と、女は又持前の笑声を洩した。「そして、何うするの。お上さんにしてくれて…」
「いや、そんなことは何うでも可いんだ。たゞ金のためにこんな処に縛られてゐて、貴重な青春をむざむざ色慾の餓鬼のために浪費されてしまふのが堪らないんだよ。恋もなしにそんな老人と一生寂しく暮すことにでもなれば、尚更ら悲しいぢやないか。君だつてそれは悲しいに違ひないんだからね。」男は熱情的に言つた。
「まつたくだわ。」女も感激したといふよりも、寧ろ驚いた風で、「さう言つてくれるのは貴方ばかりよ。」
そして彼女はまた腹這ひになって、莨を吸ひつけて彼の口へ運んで行つた。
「わたし幾許も借金がないのよ。」
「幾許あるの。」
「さうね、御内所の方は勘定したら何のくらゐあるかしら。それに呉服屋の借金がね、これが一寸あるわ。出るとなれば、少しは派手にしたいから、それにも一寸かゝるのよ。」
そして彼女は胸算で、五百円ばかりを計上した。勿論彼女としては、素人になれば買ひたいものも少くはなかつたが、単に足を洗ふにはそれだけの額は余りに多過ぎた。
「僕母に言つてやれば、その位は出来ると思ふ。母は僕の言ふことなら、何でも聴いてくれるんだから。僕の母はほんとうに寛容な心をもつた人なんだ。」
「それでも女郎と一緒になるといへぱ、きつと吃驚するわ。」
新造が入つて来た。
一週間ほどたつと、男はそれだけの金を耳をそろへて持つて来たが、女は其のうち幾分を取つただけで、意見をして幾んど全部を返した。
夏になつてから、その学生は田舎へ帰省してしまつた。勿論その前にも一二度来たが、女は何だか悪いやうな気がして、わざと遠ざかるやうに仕向けることを怠らなかつた。勿論彼女は、飲んだくれの父のために、不運な自分や弟たちが離れ離れになつて世のなかの酸苦をなめさせられたことを、身に染みてひどく悲しんでゐた。彼女の唯一の骨肉であり親愛者である弟も、人づかひの劇しい大阪の方で、…弱い体で自転車などに乗つて苦使はれてゐた。彼女は時時彼に小遣などを送つてゐた。病気をして、病院へ入つたと云ふ報知の来たときも、退院してしばらく田舎へ帰つたときにも、彼女は出来るだけ都合して金を送つてゐた。最近彼の運も少しは好くなつてゐたが、客として上つてくる若いお店者などを見ると、つい厭な気がして、弟の境涯を思ひやつた。そんな事が妙に心に喰入つてゐたので、自分の境涯に酔ふと云ふやうな事は困難であつた。彼女は所在のない心寂しいをりなどには、針仕事を持出して、襦袢や何かを縫つたり又は引釈きものなどをして単調な重苦しい時間を消すのであつたが、然うしてゐると牢獄のやうな檻のなかにゐる遣瀬なさを忘れて、むかし多勢の友達と裁盤に坐つてゐたときのやうなしをらしい自分の姿に還つて、涙ぐましい懐かしさを感ずるのであつた。しかし客によつては、色気ぬきに女を面白く遊ばせて、陽気に飲んで騒いで引揚げて行く遊び上手もあつて、そんな座敷では彼女も自然に心が燥いで、萎えた気分が生き生きして来た。しかし体の自由になる時が近づいて来ると、うかうか過した五六年の月日が今更に懐かしいやうで、世のなかへ放たれて行かなければならぬのが、反つて不安でならなかつた。どこを見ても、耀かしい幸運が自分を待つてゐてくれさうには見えなかつた。
大学生と別れてから、彼から一度手紙をもらつたきりで、こつちからは遠慮して……寧ろ相手になるのが大人気ないやうな気もして、また別に書くやうな用事もなかつたので、いくらか気にかゝりながら返事を怠つてゐた。しかし其と同時に、余り自分を卑下しすぎたり、彼の心の確実さを疑ひすぎるやうな気がして、折角嚮いて来た幸運を、取逃してしまつたやうな寂しさを感じた。取止めのない男の気持や言草が何だかふはふはしてゐて、手頼ないやうにも思はれたが、真実に自分を愛してくれてゐるのは、あの男より外にはないやうに思はれた。彼の好意を退けたのが、生涯の失策だと云ふ気がした。そして其の考へが段々彼女の頭脳に希望と力を与へてくると同時に、彼の周囲や生活を分明見定めたいと云ふ望みが湧いて来た。慈愛の深い彼の老いた母親や、愛らしい彼の弟が世にも懐かしいもののやうにさへ思はれた。
或日の午後、彼女は私と新造に其事を話して、廓を脱け出ると土産物を少し調へて、両国から汽車に乗つた。近頃彼女は、内所の上さんや新造と一緒に──時としては一人で、時々外出してゐて、東京の地理もほゞ知つてゐたし、千葉や成田がどの方面にあるかくらゐの智識はもつてゐた。彼の妹は今年十九だとかいふので、何か悦びさうなものをもつて行きたいと思ふと、ふらふらと遽かに思ひついたことなので、考へてゐる隙もなかつたところから、客から貰つたきり箪笥のけんどんや抽斗の底に仕舞つておいた、半玉でも持ちさうな懐中化粧函だの半衿だのを、無造作に紙にくるんで持つて来た。それに浅草で買つた切山椒などがあつた。
避暑客の込合ふ季節なので、停車場は可也雑踏してゐたが、さうして独りで旅をする気持は可也心細かつた。十九から中間の六年間と云ふものを、不思議な世界の空気に浸つて、何か特殊な忌はしい痕迹が顔や挙動に染込んででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが、周囲の人と自分とを齅ぎわけ得るやうな人もなささうに見えた。実際また不断からそれを心がけてもいた。
海岸にちかい或町の停車場へおりたのは、暑い七月の日も既に沈んで、汐つぽい海風がそよそよと吹き流れてゐる時分であつた。町には電気がついて、避暑客の浴衣姿が涼しげに見えた。
男の家は、この海岸から一里ほど奥の里の方にあつた。彼女は三時間ばかりの汽車で疲れてもゐたし、町で宿を取つて、朝早く彼を訪ねようと思つたが、宿はどこも一杯で、それに一人旅だと聞いて素気なく断わられたので、為方なしいきなり訪ねることにした。
俥はやがて町端を離れて、暗い田舎道へ差懸つた。黝い山の姿が月夜の空にそゝり立つて、海のやうに煙つた青田から、蛙が物凄く啼きしきつてゐた。太鼓や三味の音色ばかり聞きなれてゐた彼女の耳には、人間以外の声がひどく恐しいもののやうに、神経を脅かした。高い垣根を結へた農家がしばらく続いた。行水や蚊遣の火をたいてゐるのが見えたり、牛の啼声が不意に垣根のなかに起つたりした。
道が段々山里の方へ入つて行くと、四辺が一層闃寂して来て、石高な道を挽き悩んでゐる人間さへが何んな心をもつてゐるか判らないやうに怕れられた。灯の影もみえない藪影や、夜風にそよいでゐる崖際の白百合の花などが、殊にも彼女の心を悸えさせた。でも、彼の家を車夫までが知つてゐるのでいくらか心強かつた。
彼の屋敷は山寺のやうな大きな門構や黒い塀やに取囲まれて、白壁の土蔵と並んで、都会風に建てられた二階家であつたが、門の扉がぴつたり鎖されて、内は人気もないやうに闃寂してゐた。それに石段の上にある門と住居との距離も可也遠かつたし、前には山川の流れが不断の音をたゝへて、門内の松の梢にも、夜風が汐の遠鳴のやうに騒めいてゐた。しかし生活の豊かな此辺は人気が好いとみえて、耳門を推すと直ぐ中へ入ることができた。女はちよいと気が臆せて、其のまゝ其俥で引返へさうかと思案したが、四里も五里もの山奥へ来たやうな気がしてゐたので、引返す気にもなれなかつた。で、玄関の土間へ立つて、思ひ切つて案内を乞うてみたが、誰も応じなかつた。遠い奥の方から明がさして人声が微かにしてゐるやうであつた。古びた広い家ががらんとしてゐた。何処からか胸のわるい牛部屋の臭気が通つて来た。
彼女は失望と不安とを強ひて圧へるやうにして、門の内を仕切つてある塀についてゐる小い門の開いてゐたのを幸ひに、そつと其処から庭へ入つて見た。庭は木の繁みで微暗く、池の水や植木の鉢などが月明りに光つてゐた。開放した座敷は暗かつたが、藤椅子が取出されてあつたり、火の消えた盆燈籠が軒に下つてゐたりした。ふと池の向ひの木立の蔭に淡赤い電燈の影が、月暈のやうな円を描いて、庭木や草の上に蒼白く反映してゐるのが目についたが、それは隠居所のやうな一棟の離房で、瓦葺の高い二階建であつた。そして其処に若い男が浴衣がけで、机に坐つて読書に耽つてゐた。顔は焦けてゐたが、それは疑ひもなく彼であつた。
ふと窓さきへ立つた彼女の白い姿を見たとき、彼はぎよつとしたやうに驚いた。
「私よ。私来たのよ。」彼女は嫣然して見せた。
「誰かと思つたら君だつたのか。僕はほんとうに脅かされてしまつた。」さう言つて彼は彼女を今一応凝視めた。
「わたし何だか急に来て見たくなつて、私と脱出して来たの。まさかこんなに遠い処とは思はないでせう、来てみて驚いてしまつたわ。」
「ほう、そんな好きな真似ができるのか。」彼は蒼白くなつた顔を紅くして、急いで彼女を内へ入れた。
「上つても可いんですか。」彼女はちよつと気がひけたやうに入口で躊躇してゐた。
家は上り口と、奥の八畳との二室であつたが、八畳から二階へ梯子が懸わたされて、倉を直したものらしく、木組や壁は厳重に出来てゐたが、何となく重苦しい感じを与へた。で、上つて行つて、蒲団などを侑められると、彼女は里離れのした態度で、更めて両手をついて叮嚀にお辞儀をした。彼は面喰つたやうな困惑を感じた。裏の畑にでもできたらしい紅色した新鮮な水蜜桃が、盆の上に転つてゐた。
「しかし能く来てくれたね。まさか君が今頃来ようとは思はないもんだから、ふつと顔を見たときには、君の幽霊か、僕の目のせゐで幻が映つたのかと思つて、慄然としたよ。」
「さう。私はまた自分の気紛れで、飛んだところへ来たものだと思つて、何だか悲しくなつてしまつたの。夢でも見てゐるやうな気がしてならなかつたんですの。でも貴方に会へて安心したわ。道がまた馬鹿に遠いんですもの、私厭になつちまつたわ。」
「夜だから然う云ふ気がしたのだよ。」
「貴方はこんな処にゐて、寂しかないの。」女はさう言つて四下を見まはした。
「こゝが一番涼しいから。」彼はさう言ふうちも、どこかおどおどした調子で、時々母屋の方へ目をやつた。
「私こゝにゐても可いでせうか。貴方の御母さんや御妹さんに御挨拶もしなければならないでせう。」女も不安さうに言つた。
「いや、いづれ明朝僕が紹介しよう。それに親父は浦賀の方の親類へ行つてゐるんだ。多分二三日は帰らないだらうと思ふ。当分ゐたつて可いんだらう。」
「さうね、御内所の方は幾日ゐたつて介意やしませんわ。私貴方のお手紙で、海へでも遊びにいかうと思つて、来たんですけれど……それには色々話したいこともあるにはあるんですの。でも私こゝにゐても可いの。」
「それあ可いんだけれど、何なら町の方で宿を取つてもいいと思ふね。」彼は女に安心を与へるやうに言つたが、何処においていゝかと惑つてゐる風であつた。
話が途切れたところで、彼女は持つて来た土産物を出して、「急に思ひついて来たんですから、何にももつて来なかつたのよ」とさう言つて、彼の前においた。
彼はたゞ大様に頷いたきりであつたが、やがて女の傍を離れて、母屋の方へ行つた。
彼の家は農家ではあつたが、千葉の方から養子に来た父は、元が商人出であつたから、ちよいちよい色々なことに手を出してゐた。東京へも用達しに始終往復してゐて、さう云ふ時の足溜りに、これまで女を下町の方に囲つておいたこともあつた。
大分たつてから、一人の女中がお茶や菓子を運んで来たが、間もなく彼も飛石づたひに此方へやつて来た。
「母に話したら、是非お目にかゝるから此方へおつれ申せと言つたんだけれど、僕は今夜はもう遅いから明朝にしたら可いだらうと言つておいたよ。」
「さう、貴方のお妹さんもいらつしやるの。」
「妹は東京へ行つてゐて、今家にはゐないんだ。」彼は気の毒さうに言つて、「僕は母には、友人の姉さんで、海水浴へ来たついでに、わざわざ訪ねてくれたんだと、さう言つて話したら、すつかり真に受けられて極りが悪かつた。」
「さう」と、女は寂しい微笑を浮べたが、やっぱり当にならないことを頼りにして来たのだと云ふ、淡い悔いを感じた。
その晩は葡萄酒などを飲んで、遅くまで話したが、それも取留めのない彼の感激から出る辞ばかりで、期待したやうな実のある話は少しもなかつた。
明朝海岸の町の方へ出て行つたのは、お昼頃であつた。勿論母屋の方へつれて行かれて、二階の座敷も見せられたし、五十ばかりの母親にも紹介された。母は東京で世話になる人だといつて、彼が誇張して話したとみえて、素朴ではあるが、ひどく慇懃に待遇してくれるので、彼女は挨拶に困って、可成口を利かないことにしてゐるより外なかつた。
裏の果樹園へつれ出されて、彼女は初めて吻とした。水蜜桃の実るところを、彼女は初めて見た。野菜畑なども町で育つた彼女には不思議なものの一つであつた。茄子や胡瓜に水をやつてゐる男が、彼女の姿を見て叮嚀にお辞儀をした。ダリヤが一杯咲いてゐた。薮蔭には南瓜が蔓をはびこらせてゐた。朝露が名残なく吸取られて、太陽がかつかつと照してゐたが、風は涼しかつた。一夏脚気の出たとき、朝早く外へ出て、跣足でしつとりした土を踏んだことなどあつたが、いくら休が丈夫になつても、こんな処には迚も一生暮せさうもなかつた。彼は東京で暮すのだと言つてゐたが、他の男の子がないところから見ると、つまりは此処に落着くのぢやないかと云ふ気がした。
彼はそんな事については、少しも語らなかつた。
やがて支度をして、二人は家を出たが、山路とはいつても、海岸に近いので、何処を見ても昨夜あれほどにも心ををのゝかせたやうな深い山は何処にも見えなかつた。蒼々した山松や、白百合の花の咲乱れた丘や、畑地ばかりであつた。そして思つたより早く、いつか町の垠へ出て来てゐるのに気がついた。
海岸の松原蔭にある新しい宿屋の二階の一室に、やがて彼女は落着くことができた。そこからはそよそよと風に漣をうつてゐる広い青田が一と目に見わたされ、松原の藁屋の上から、紺碧の色をたゝへた静かな海が、地平線を淡青黄色の空との限界として、盛りあがつたやうに眺められた。真夏の日がきらきらと光り耀いてゐた。人間と人間との特殊な交渉より外には何物もない隘くて窮屈な小い部屋のなかに住みなれて来た彼女に取つては、際限もない青空を仰ぐことすらが、限りない驚異でもあり喜悦でもあつたが、心ゆくまで胸を開いて、其等の自然に親しむことは迚も出来なかつた。
海風に吹かれながら、昼飯を食べてから、二人はしばらく横になつて話してゐたが、するうちに疲れた頭脳も体も融けるやうな懈さをおぼえて、うとうとと快い眠に誘はれた。下の部屋で学生がやつてゐるハモニカの音などが、彼等の夢心地をすやした。
四時頃に、二人は一緒に海岸へ出て見た。日は大分傾いてゐたが、風が出たので、海には波が少し荒れてゐた。焦げつくやうな砂を踏んで彼女は汀に立つて、ぼんやり波の戯れを見てゐたが、長く立つてゐられなかつた。目がくらくらして波と一緒に引込まれて行きさうであつた。海水衣に海水帽をかぶつた、女学生らしい女の群が、波に軽く体を浮かせながら、愉快さうに毬投をやつてゐるのが彼女には不思議にも羨ましくも思はれた。印度人のやうな黒い裸体が、そこにもこゝにも彼女の目を驚かした。
二人はやがて着物の脱ぎ場へ入つて、足を休めながら海気に吹かれてゐた。彼は彼女をかうした自由な自然の前へつれて来たことに、この上ない幸福を感じてゐるらしかつたが、彼女の頭脳は其の感じを受容れるには、余りに自分を失ひすぎてゐた。
するとその時、ぼうと云ふ空洞な汽笛の音が響いて、いつの間にか汽船が一艘黒い煙を吐きながら、近くの沖へ来て碇泊してゐるのに気がついたが、間もなく漕ぎ寄つた一艘の端艇に、荷物や人を受取つて、陸の方へやつて来た。
端艇が浜へついたとき、懸わたされた船板から、四五人の男女が上陸して来たが、その中に旧式なパナマを冠つて、小さい手提鞄と細捲とをもつて、肥満した老人が一人こつちへ遣って来た。近づくに従つて、其の姿は段々はつきりして来て、白地の帷子や絣や、羽織の茶色地までがきらきらする光線に見分けられた。帯の金鎖や眼鏡がちかちか光つてゐた。
彼女はじつと其の姿を凝視めてゐたが、それは何うやら能く自分のところへ通つてくる、千葉在だと云ふお爺らしく思はれて来た。
と、それと同時に彼の面にも暗い困惑の色が浮んで来て、やがて其処を立つて、そろそろ葦簀張の外へ出て行つた。間もなく彼女もそこを離れた。
それが彼の父親だといふことは、後で彼が言つて聞かせたが、彼女は何にも語らなかつた。
其の晩も二人は町や海岸を散歩して、帰つてからも遅くまで月光の漾ひ流れてゐる野面を眺めながら話してゐた。彼は彼女の憂欝な気分を悲しく思つたが、女は自分を如何にして幸福にしようかと悩んでゐる彼を哀んだ。
三日目に、彼はちよつと家へ帰つてくると言つて立つて行つたが、その夕方彼女は宿へも無断でそこを立つてしまつた。
(大正九年四月)