或賣笑婦の話

 この話を残して行つた男は、今どこにゐるか行方ゆくへもしれない。しる必要もない。彼は正直な職人であつたが、成績のい上等兵として兵営生活から解放されて後、町の料理屋から、或は遊廓から時に附馬つけうまを引いて来たりした。これは早朝、そんな場合の金を少しばかり持つて行つた或日の晩、縁日の植木などをもつて来て、勝手の方で東京の職人らしい感傷的な気分で話した一売笑婦の身の上である。

 その頃その女は、すつかり年期を勤めあげて、どこへ行かうと自由の体であつたが、田舎の家は母がちがふのに、父がもうゐなくなつてゐたし、多くの客の中でどこへ落着かうといふ当もなかつたので……勿論西の方の産れで、可也かなりしまりやであつたから、倉敷を出して質屋へあづけてある衣類なども少くなかつたし、今少し稼ぎためようと云ふ気もあつたので、楼主と特別の約束で、いつも二三枚目どころで相変らず気に向いたやうな客を取つてゐた。

 その客のなかに、或私立大学の学生が一人あつた。彼はみあげを短く刈つて、女のうらやましがるほどの、癖のない、たつぷりした長い髪を、いつも油で後ろへ撫であげ、いかに田舎ゐなかの家がゆつたりした財産家で、また如何いかに母親が深い慈愛を彼にもつてゐるかと云ふことを語つてゐるやうな、贅沢ぜいたくでも華美でもないが、どこか奥ゆかしい風をしてゐた。勿論年は彼女より一つ二つ少いと云ふに過ぎなかつたが、各階級の数限りない男に接して来た彼女の目から見れば、それはいかにも乳くさい、坊つちやん坊つちやんした幼ない青年に過ぎなかつた。

 初めて来たのは、花時分であつた。どこか花見の帰りにでも気紛きまぐれに舞込んだものらしく、二人ばかりの友達と一緒にあがつて来たのであつたが、三人とも浅草で飲んで来たとかいつて、いくらか酒の気を帯びてゐた。彼等は彼女の朋輩の一人の部屋へ入れられて、そこで新造しんぞたちを相手に酒を飲んでゐたが、彼女自身はちよつとうちかけを着て姿を見せただけで……勿論どんな客だかといふことは、長いあひだ場数を踏んで来た彼女にも、淡い不安な興味で、別にこてこて白粉おしろいを塗るやうなこともする必要がなかつたし、その時は少し病気をしたあとで、我儘わがまゝの利く古くからの馴染客なじみきやくのほかはしばらく客も取らなかつたし、初会しよくわいの客に出るのはちよつと面倒くさいといふ気もしてゐたので、気心を呑込のみこんでゐる新造にさう言はれて、気のおけないやうなお客なら出てもいゝと思つて、袖口の切れたやうな長襦袢ながじゆばんに古いお召の部屋着をきてゐたその上にうちかけ無造作むざうさに引つかけて、その部屋へ顔を出して行つたのであつたが、鳩のやうな其の目はよくその男のうへに働いた。

「ちよいちよいこんな処へ来るの。」

「いや、僕は初めてだ。」

「お前さんなんかの、余り度々来るところぢやありませんよ。」

彼女はその男が部屋へ退けてから、自分で勘定を払はせられて、素直に紙入から金を出してやるのを、新造に取次いだあとで、そんなことを言つて笑つてゐたが、男は女に触れるのをひどく極り悪さうにしてゐた。

「今度来るなら一人で来るといゝわ。あんな取捲とりまきなんかつれて来ちやけませんよ。」彼女はまたそんな事を言つて、これも其の男に触れるのを遠慮するやうにしてゐた。

「それあうしたつて、こんな処にゐるものには、悪い病気がありますからね。不見転みずてんなんか買ふよりか安心は安心だけれど……。」彼女は幾分おどかし気味で、そんな事を話したが、男が彼女のここへちて来た径路などを聞かうとして、色々話しかけると、若い癖にそんなことは聞かなくともいゝと言つた風で、笑つてゐた。

 しかし何のこともなかつた。朝帰るときに、いつも初めての客にするやうに肩をたゝくやうなことも、わざとらしくてる気がしなかつたので、たゞ、「思出したら又おいでなさい」と、笑談ぜうだんらしく言つたきりであつた。

 それから其の男は正直に二三度独りでやつて来た。そして馴染なじむにつれて、お互に身の上話などするやうになつた。女は別にその男の来るのに、特別の期待をもつた訳ではなかつたが、部屋のあいてゐる時などには、ふと思出すこともあつた。むかし娘時代に、田舎の町で裁縫のお師匠さんに通つてゐる頃、きつと通らなければならない、通りの時計屋の子息むすこに心を惹着ひきつけられて、淡い恋の悩みをおぼえはじめ、その前を通るとき、又は思ひがけなく往来で、行合つたりした時に、顔があかくなつたり心臓が波うつたりして、よる枕にいてからも角刈の其の丸い顔が目についたり、昼間針をもつてゐても、自然に顔が熱したりした。勿論言葉を交す機会もなかつたし、そんな機会を作らうとも思はなかつたから、単純に美しい幻として目に映つただけで、かすかなその恋の芽も土の下で其のまゝ枯れしぼんでしまつた。彼女の生家は、町でちよつと名の売れた料理屋であつたが、その頃からにはかに異性といふものに目がさめはじめると同時に、同じやうな恋の対象がそれからそれへと心に映じて来たが、だらしのない父の放蕩はうたうむくいで、店を人手に渡したのは其から間もなくであつた。で、家名相当の縁組をすることもできなくて、今のやうな境涯きやうがいちることになつたのであつたが、ちやうど其の時分の淡い追憶のやうなものが、の大学生によつて、ぼんやり喚覚よびさまされるやうな果敢はかない懐かしさをそゝられた。

 彼は飲むといふほどには酒も飲まないし、どこか女におくするやうな様子で、町に明りのつく時分ひとりで上つて来たが、せはしいときなどは、朝客を帰してから部屋へいれて、一緒に飯を食べることもあつた。晩春の頃で、独活うどと半ぺんの甘煮うまになども、新造しんぞは二人のために見つくろつて、酒を白銚はくてうから少しばかり銚子に移して、銅壷どうこでおかんをしたりした。水桶みづをけだのお鉢だの、こまこました世帯道具が一切そこにあつた。女は立膝をしながら、割箸で飯を盛つてくれたり、海苔のりをやいてくれたりした。彼はこの世界の生活を不思議さうに眺めてゐた。女はとろりとした疲れた目をしてゐたが、やがて又窓を暗くして縮緬ちりめんの夜具のなかへ入つて.行つた。

「一体君たちは、こんなことをしてゐて、しまひにうなるんだね。」彼は腹這はらばひになつて、たばこをふかしながら、そんな事をたづねた。

「ふゝ」と、女はわらつてゐたが、「まあ余り好いことはありませんね。親元へ帰つて行く人もあるし、東京でお客と一緒になる人もあるしさ。」

「君なんか何うするんだね。」

「何うしようと思つて、今思案中なのよ。」女も起きあがつて莨をふかしながら、「今のところ二人ばかりあてがあるんだけれど……。」

「商人かね。」

「さうね、一人は日本橋の木綿問屋の旦那だし、一人は時時東京へ出てくる田舎のお金持だけれど、どつちもお爺いさんよ。木綿問屋の方は、まあそれでもまだ四十七八だから、我慢のできないこともないのよ。その代りかみさんも子供もあるから、行けばどうせ日蔭ものさ。子供のおもりなんかもして、上さんの機嫌を取らなくちやならないから、なかなか大変よ。田舎の隠居の方は、それにかけては気楽だけれど、お爺いさんは世話がやけて為方しかたがないでせう。だどっちからどつちも駄目さ。」

「君のところへは、何うしてさう年寄ばかり来るんだ。」彼は痛ましいやうな表情をしていた。「君はまだ若くて美しいぢやないか。」

「ふゝ」と、女は袖口のまくれた白いひぢをあげて、島田のまげをなでながら、うつとりした目をして天井を眺めてゐた。

「ほんとうに夢中になつて、君に通つてくるやうな若い男はないのか。」

「まあ無いわね。有つても長続きはしないのさ。」

「でも一度や二度商売気を離れて、恋をしたと云ふ経験はあるだらう。」

「それあ、そんな人はうちにもたまにはあるのさ。それあ可笑をかしいのよ。しちおき八おきして、しまひにその男のために年期を増すなんて逆のぼせ方をして、そのためにお客がすつかり落ちてしまつて、男にも棄てられてしまふつて言つた風なの。そんなのが江戸児に多いのよ。第一若いお客といへば、まあお店者たなものか独身ものの勤め人なんだから、深くでもなれば、お互ひの身の破滅ときまつてゐるんですからね。それかといつて、貴方あなたのやうなお母さんの秘蔵息子をだませばなほ罪が深いでせう。先のある人を、学校でもしくじらせてごらんなさい、それこそ大変だわ。」

「だけれど、先きで熱情を以つてくれば為方しかたがないぢやないか。」

「熱情ですつて。それあういふ人もあるわね。少し親切にすると、すぐかみさんにならないかなんて言ふ人があるわ。だけれどそれもこゝにゐるからこそ然うなんだよ。出てしまつちや、やつぱり駄目さ。」彼女はものうげな声で言つて、空で指環を抜差ぬきさししてゐた。

「それはかうした背景に情趣を感ずるとでも言ふんだらうけれど、そんなのは駄目さ。ほんとうにその人を愛してゐるんでなくちや。」

 女はまた「ふゝ」と笑つた。

だますつて一体どんな事なんだい。」

「まあれさうに見せかけるのさ。」女はのどで笑ひながら、「だけれど私には何うしてもそれが出来ないの。たゞお客を大事にするだけなの。それに私なんかう見えても温順おとなしいんだから、鉄火てつかな真似なんかとても柄にないの。ほんとうに温順しい花魁おいらんだつて、みんながう言ふわよ。」

「あゝ」と、男は悩ましげに溜息をついたが、暫くすると、「僕は君のやうな人は、一日も早くこゝを出してあげたいと思ふね。」

「ふゝ」と、女は又持前の笑声をもらした。「そして、何うするの。お上さんにしてくれて…」

「いや、そんなことは何うでもいんだ。たゞ金のためにこんな処に縛られてゐて、貴重な青春をむざむざ色慾の餓鬼がきのために浪費されてしまふのが堪らないんだよ。恋もなしにそんな老人と一生さびしく暮すことにでもなれば、尚更なほさら悲しいぢやないか。君だつてそれは悲しいに違ひないんだからね。」男は熱情的に言つた。

「まつたくだわ。」女も感激したといふよりも、むしろ驚いた風で、「さう言つてくれるのは貴方ばかりよ。」

 そして彼女はまた腹這はらばひになって、たばこを吸ひつけて彼の口へ運んで行つた。

「わたし幾許いくらも借金がないのよ。」

「幾許あるの。」

「さうね、御内所ごないしよの方は勘定したらのくらゐあるかしら。それに呉服屋の借金がね、これが一寸あるわ。出るとなれば、少しは派手にしたいから、それにも一寸かゝるのよ。」

 そして彼女は胸算で、五百円ばかりを計上した。勿論彼女としては、素人しろうとになれば買ひたいものも少くはなかつたが、単に足を洗ふにはそれだけの額は余りに多過ぎた。

「僕母に言つてやれば、その位は出来ると思ふ。母は僕の言ふことなら、何でも聴いてくれるんだから。僕の母はほんとうに寛容な心をもつた人なんだ。」

「それでも女郎と一緒になるといへぱ、きつと吃驚びつくりするわ。」

 新造が入つて来た。

 一週間ほどたつと、男はそれだけの金を耳をそろへて持つて来たが、女は其のうち幾分を取つただけで、意見をしてほとんど全部を返した。

 夏になつてから、その学生は田舎ゐなかへ帰省してしまつた。勿論その前にも一二度来たが、女は何だか悪いやうな気がして、わざと遠ざかるやうに仕向けることを怠らなかつた。勿論彼女は、飲んだくれの父のために、不運な自分や弟たちが離れ離れになつて世のなかの酸苦をなめさせられたことを、身にみてひどく悲しんでゐた。彼女の唯一の骨肉であり親愛者である弟も、人づかひのはげしい大阪の方で、…よわい体で自転車などに乗つて苦使こきつかはれてゐた。彼女は時時彼に小遣などを送つてゐた。病気をして、病院へ入つたと云ふ報知しらせの来たときも、退院してしばらく田舎へ帰つたときにも、彼女は出来るだけ都合して金を送つてゐた。最近彼の運も少しは好くなつてゐたが、客としてあがつてくる若いお店者たなものなどを見ると、つい厭な気がして、弟の境涯きやうがいを思ひやつた。そんな事が妙に心に喰入つてゐたので、自分の境涯に酔ふと云ふやうな事は困難であつた。彼女は所在のない心寂しいをりなどには、針仕事を持出して、襦袢じゆばんや何かを縫つたり又は引釈ひきときものなどをして単調な重苦しい時間を消すのであつたが、然うしてゐると牢獄のやうなをりのなかにゐる遣瀬やるせなさを忘れて、むかし多勢の友達と裁盤たちばんに坐つてゐたときのやうなしをらしい自分の姿に還つて、涙ぐましいなつかしさを感ずるのであつた。しかし客によつては、色気ぬきに女を面白く遊ばせて、陽気に飲んで騒いで引揚げて行く遊び上手もあつて、そんな座敷では彼女も自然に心がはしやいで、えた気分が生き生きして来た。しかし体の自由になる時が近づいて来ると、うかうか過した五六年の月日が今更に懐かしいやうで、世のなかへ放たれて行かなければならぬのが、かへつて不安でならなかつた。どこを見ても、耀かゞやかしい幸運が自分を待つてゐてくれさうには見えなかつた。

 大学生と別れてから、彼から一度手紙をもらつたきりで、こつちからは遠慮して……むしろ相手になるのが大人気おとなげないやうな気もして、また別に書くやうな用事もなかつたので、いくらか気にかゝりながら返事を怠つてゐた。しかし其と同時に、余り自分を卑下しすぎたり、彼の心の確実さを疑ひすぎるやうな気がして、折角せつかくいて来た幸運を、取逃してしまつたやうな寂しさを感じた。取止めのない男の気持や言草いひぐさが何だかふはふはしてゐて、手頼たよりないやうにも思はれたが、真実ほんとうに自分を愛してくれてゐるのは、あの男より外にはないやうに思はれた。彼の好意を退しりぞけたのが、生涯の失策だと云ふ気がした。そして其の考へが段々彼女の頭脳あたまに希望と力を与へてくると同時に、彼の周囲や生活を分明はつきり見定めたいと云ふ望みが湧いて来た。慈愛の深い彼の老いた母親や、愛らしい彼の弟が世にも懐かしいもののやうにさへ思はれた。

 或日の午後、彼女はそつ新造しんぞに其事を話して、くるわを脱け出ると土産物を少し調とゝのへて、両国から汽車に乗つた。近頃彼女は、内所の上さんや新造と一緒に──時としては一人で、時々外出そとでしてゐて、東京の地理もほゞ知つてゐたし、千葉や成田がどの方面にあるかくらゐの智識はもつてゐた。彼の妹は今年十九だとかいふので、何かよろこびさうなものをもつて行きたいと思ふと、ふらふらとにはかに思ひついたことなので、考へてゐるひまもなかつたところから、客から貰つたきり箪笥のけんどんや抽斗ひきだしの底に仕舞つておいた、半玉でも持ちさうな懐中化粧函だの半衿はんえりだのを、無造作に紙にくるんで持つて来た。それに浅草で買つた切山椒きりざんせうなどがあつた。

 避暑客の込合ふ季節なので、停車場は可也かなり雑踏ざつたふしてゐたが、さうして独りで旅をする気持は可也心細かつた。十九から中間ちゆうかんの六年間と云ふものを、不思議な世界の空気にひたつて、何か特殊ないまはしい痕迹こんせきが顔や挙動に染込しみこんででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが、周囲の人と自分とをぎわけ得るやうな人もなささうに見えた。実際また不断からそれを心がけてもいた。

 海岸にちかい或町の停車場へおりたのは、暑い七月の日も既に沈んで、しほつぽい海風がそよそよと吹き流れてゐる時分であつた。町には電気がついて、避暑客の浴衣姿ゆかたすがたが涼しげに見えた。

 男のうちは、この海岸から一里ほど奥の里の方にあつた。彼女は三時間ばかりの汽車で疲れてもゐたし、町で宿を取つて、朝早く彼をたづねようと思つたが、宿はどこも一杯で、それに一人旅だと聞いて素気なく断わられたので、為方しかたなしいきなり訪ねることにした。

 くるまはやがて町端まちはづれを離れて、暗い田舎道へ差懸さしかゝつた。くろい山の姿が月夜の空にそゝり立つて、海のやうに煙つた青田から、蛙が物凄くきしきつてゐた。太鼓や三味の音色ばかり聞きなれてゐた彼女の耳には、人間以外の声がひどく恐しいもののやうに、神経をおびやかした。高い垣根をゆはへた農家がしばらく続いた。行水ぎやうずい蚊遣かやりの火をたいてゐるのが見えたり、牛の啼声なきごゑが不意に垣根のなかに起つたりした。

 道が段々山里の方へ入つて行くと、四辺あたりが一層闃寂ひつそりして来て、石高いしだかな道をき悩んでゐる人間さへがんな心をもつてゐるか判らないやうにおそれられた。灯の影もみえない藪影や、夜風にそよいでゐる崖際がけぎは白百合しらゆりの花などが、ことにも彼女の心をおびえさせた。でも、彼の家を車夫までが知つてゐるのでいくらか心強かつた。

 彼の屋敷は山寺のやうな大きな門構や黒いへいやに取囲まれて、白壁の土蔵と並んで、都会風に建てられた二階家であつたが、門の扉がぴつたりとざされて、内は人気ひとけもないやうに闃寂ひつそりしてゐた。それに石段の上にある門と住居すまひとの距離も可也遠かつたし、前には山川の流れが不断の音をたゝへて、門内の松の梢にも、夜風が汐の遠鳴のやうにざわめいてゐた。しかし生活くらしの豊かな此辺は人気にんきが好いとみえて、耳門くゞりすと直ぐ中へ入ることができた。女はちよいと気がおくせて、其のまゝそのくるまで引返へさうかと思案したが、四里も五里もの山奥へ来たやうな気がしてゐたので、引返す気にもなれなかつた。で、玄関の土間へ立つて、思ひ切つて案内をうてみたが、誰も応じなかつた。遠い奥の方からあかりがさして人声がかすかにしてゐるやうであつた。古びた広いうちががらんとしてゐた。何処どこからか胸のわるい牛部屋の臭気がかよつて来た。

 彼女は失望と不安とをひておさへるやうにして、門の内を仕切つてあるへいについてゐる小い門のいてゐたのを幸ひに、そつと其処から庭へ入つて見た。庭は木の繁みで微暗ほのぐらく、池の水や植木の鉢などが月明りに光つてゐた。開放あけはなした座敷は暗かつたが、藤椅子が取出されてあつたり、火の消えた盆燈籠ぼんどうろうが軒に下つてゐたりした。ふと池の向ひの木立の蔭に淡赤うすあかい電燈の影が、月暈つきのかさのやうな円を描いて、庭木や草の上に蒼白あをじろく反映してゐるのが目についたが、それは隠居所のやうな一棟の離房はなれで、瓦葺かはらぶきの高い二階建であつた。そして其処に若い男が浴衣ゆかたがけで、机に坐つて読書にふけつてゐた。顔はけてゐたが、それは疑ひもなく彼であつた。

 ふと窓さきへ立つた彼女の白い姿を見たとき、彼はぎよつとしたやうに驚いた。

「私よ。私来たのよ。」彼女は嫣然につこりして見せた。

「誰かと思つたら君だつたのか。僕はほんとうにおどかされてしまつた。」さう言つて彼は彼女を今一応凝視みつめた。

「わたし何だか急に来て見たくなつて、そつ脱出ぬけだして来たの。まさかこんなに遠い処とは思はないでせう、来てみて驚いてしまつたわ。」

「ほう、そんな好きな真似ができるのか。」彼は蒼白くなつた顔をあかくして、急いで彼女を内へ入れた。

「上つてもいんですか。」彼女はちよつと気がひけたやうに入口で躊躇ちうちよしてゐた。

 家は上り口と、奥の八畳との二室ふたまであつたが、八畳から二階へ梯子はしごかけわたされて、倉を直したものらしく、木組や壁は厳重に出来てゐたが、何となく重苦しい感じを与へた。で、上つて行つて、蒲団などをすゝめられると、彼女は里離れのした態度で、あらためて両手をついて叮嚀ていねいにお辞儀をした。彼は面喰つたやうな困惑を感じた。裏の畑にでもできたらしい紅色べにいろした新鮮な水蜜桃すいみつたうが、盆の上に転つてゐた。

「しかし能く来てくれたね。まさか君が今頃来ようとは思はないもんだから、ふつと顔を見たときには、君の幽霊か、僕の目のせゐでまぼろしが映つたのかと思つて、慄然ぞつとしたよ。」

「さう。私はまた自分の気紛れで、飛んだところへ来たものだと思つて、何だか悲しくなつてしまつたの。夢でも見てゐるやうな気がしてならなかつたんですの。でも貴方あなたに会へて安心したわ。道がまた馬鹿に遠いんですもの、私厭になつちまつたわ。」

「夜だからう云ふ気がしたのだよ。」

「貴方はこんな処にゐて、寂しかないの。」女はさう言つて四下あたりを見まはした。

「こゝが一番涼しいから。」彼はさう言ふうちも、どこかおどおどした調子で、時々母屋おもやの方へ目をやつた。

「私こゝにゐてもいでせうか。貴方の御母さんや御妹さんに御挨拶もしなければならないでせう。」女も不安さうに言つた。

「いや、いづれ明朝あした僕が紹介しよう。それに親父は浦賀の方の親類へ行つてゐるんだ。多分二三日は帰らないだらうと思ふ。当分ゐたつて可いんだらう。」

「さうね、御内所の方は幾日ゐたつて介意かまやしませんわ。私貴方のお手紙で、海へでも遊びにいかうと思つて、来たんですけれど……それには色々話したいこともあるにはあるんですの。でも私こゝにゐても可いの。」

「それあ可いんだけれど、何なら町の方で宿を取つてもいいと思ふね。」彼は女に安心を与へるやうに言つたが、何処においていゝかとまどつてゐる風であつた。

 話が途切れたところで、彼女は持つて来た土産物を出して、「急に思ひついて来たんですから、何にももつて来なかつたのよ」とさう言つて、彼の前においた。

 彼はたゞ大様おほやううなづいたきりであつたが、やがて女の傍を離れて、母屋おもやの方へ行つた。

 彼のうちは農家ではあつたが、千葉の方から養子に来た父は、元が商人出であつたから、ちよいちよい色々いろんなことに手を出してゐた。東京へも用達ようたしに始終往復してゐて、さう云ふ時の足溜りに、これまで女を下町の方に囲つておいたこともあつた。

 大分たつてから、一人の女中がお茶や菓子を運んで来たが、間もなく彼も飛石づたひに此方へやつて来た。

「母に話したら、是非お目にかゝるから此方こつちへおつれ申せと言つたんだけれど、僕は今夜はもう遅いから明朝あしたにしたら可いだらうと言つておいたよ。」

「さう、貴方のお妹さんもいらつしやるの。」

「妹は東京へ行つてゐて、今家にはゐないんだ。」彼は気の毒さうに言つて、「僕は母には、友人の姉さんで、海水浴へ来たついでに、わざわざ訪ねてくれたんだと、さう言つて話したら、すつかりに受けられて極りが悪かつた。」

「さう」と、女はさびしい微笑を浮べたが、やっぱりあてにならないことを頼りにして来たのだと云ふ、淡い悔いを感じた。

その晩は葡萄酒ぶだうしゆなどを飲んで、遅くまで話したが、それも取留めのない彼の感激から出ることばばかりで、期待したやうなのある話は少しもなかつた。

明朝あした海岸の町の方へ出て行つたのは、お昼頃であつた。勿論母屋おもやの方へつれて行かれて、二階の座敷も見せられたし、五十ばかりの母親にも紹介された。母は東京で世話になる人だといつて、彼が誇張して話したとみえて、素朴ではあるが、ひどく慇懃いんぎん待遇もてなしてくれるので、彼女は挨拶に困って、可成なるべく口を利かないことにしてゐるより外なかつた。

 裏の果樹園へつれ出されて、彼女は初めてほつとした。水蜜桃のるところを、彼女は初めて見た。野菜畑なども町で育つた彼女には不思議なものの一つであつた。茄子なす胡瓜きうりに水をやつてゐる男が、彼女の姿を見て叮嚀にお辞儀をした。ダリヤが一杯咲いてゐた。薮蔭には南瓜かぼちやつるをはびこらせてゐた。朝露が名残なごりなく吸取られて、太陽がかつかつと照してゐたが、風は涼しかつた。一夏脚気かつけの出たとき、朝早く外へ出て、跣足はだしでしつとりした土を踏んだことなどあつたが、いくら休が丈夫になつても、こんな処にはとても一生暮せさうもなかつた。彼は東京で暮すのだと言つてゐたが、ほかの男の子がないところから見ると、つまりは此処に落着くのぢやないかと云ふ気がした。

 彼はそんな事については、少しも語らなかつた。

 やがて支度をして、二人は家を出たが、山路とはいつても、海岸に近いので、何処を見ても昨夜ゆうべあれほどにも心ををのゝかせたやうな深い山は何処にも見えなかつた。蒼々あをあをした山松や、白百合の花の咲乱れた丘や、畑地ばかりであつた。そして思つたより早く、いつか町のさかひへ出て来てゐるのに気がついた。

 海岸の松原蔭にある新しい宿屋の二階の一室ひとまに、やがて彼女は落着くことができた。そこからはそよそよと風にさゞなみをうつてゐる広い青田が一と目に見わたされ、松原の藁屋わらやの上から、紺碧こんぺきの色をたゝへた静かな海が、地平線を淡青黄色うすあをぎいろの空との限界として、盛りあがつたやうに眺められた。真夏の日がきらきらと光り耀かゞやいてゐた。人間と人間との特殊な交渉より外には何物もないせまくて窮屈な小い部屋のなかに住みなれて来た彼女に取つては、際限はてしもない青空を仰ぐことすらが、限りない驚異でもあり喜悦でもあつたが、心ゆくまで胸を開いて、其等の自然に親しむことはとても出来なかつた。

 海風に吹かれながら、昼飯を食べてから、二人はしばらく横になつて話してゐたが、するうちに疲れた頭脳あたまも体もけるやうなだるさをおぼえて、うとうとと快い眠に誘はれた。下の部屋で学生がやつてゐるハモニカの音などが、彼等の夢心地をすやした。

 四時頃に、二人は一緒に海岸へ出て見た。日は大分傾いてゐたが、風が出たので、海には波が少し荒れてゐた。げつくやうな砂を踏んで彼女はみぎはに立つて、ぼんやり波の戯れを見てゐたが、長く立つてゐられなかつた。目がくらくらして波と一緒に引込まれて行きさうであつた。海水衣に海水帽をかぶつた、女学生らしい女の群が、波に軽く体を浮かせながら、愉快さうに毬投まりなげをやつてゐるのが彼女には不思議にもうらやましくも思はれた。印度人のやうな黒い裸体が、そこにもこゝにも彼女の目を驚かした。

 二人はやがて着物の脱ぎ場へ入つて、足を休めながら海気に吹かれてゐた。彼は彼女をかうした自由な自然の前へつれて来たことに、この上ない幸福を感じてゐるらしかつたが、彼女の頭脳あたまは其の感じを受容うけいれるには、余りに自分を失ひすぎてゐた。

 するとその時、ぼうと云ふ空洞うつろ汽笛きてきの音が響いて、いつの間にか汽船が一艘黒い煙を吐きながら、近くの沖へ来て碇泊ていはくしてゐるのに気がついたが、間もなく漕ぎ寄つた一艘の端艇はしけに、荷物や人を受取つて、をかの方へやつて来た。

 端艇が浜へついたとき、かけわたされた船板から、四五人の男女が上陸して来たが、その中に旧式なパナマを冠つて、小さい手提鞄てさげかばん細捲ほそまきとをもつて、肥満した老人が一人こつちへ遣って来た。近づくに従つて、其の姿は段々はつきりして来て、白地の帷子かたびらかすりや、羽織の茶色地までがきらきらする光線に見分けられた。帯の金鎖や眼鏡がちかちか光つてゐた。

 彼女はじつと其の姿を凝視みつめてゐたが、それは何うやら能く自分のところへ通つてくる、千葉在だと云ふおやぢらしく思はれて来た。

 と、それと同時に彼のおもてにも暗い困惑の色が浮んで来て、やがて其処を立つて、そろそろ葦簀張よしずばりの外へ出て行つた。間もなく彼女もそこを離れた。

 それが彼の父親だといふことは、後で彼が言つて聞かせたが、彼女は何にも語らなかつた。

 其の晩も二人は町や海岸を散歩して、帰つてからも遅くまで月光のたゞよひ流れてゐる野面のづらを眺めながら話してゐた。彼は彼女の憂欝いううつな気分を悲しく思つたが、女は自分を如何にして幸福にしようかと悩んでゐる彼を哀んだ。

 三日目に、彼はちよつとうちへ帰つてくると言つて立つて行つたが、その夕方彼女は宿へも無断でそこを立つてしまつた。

 (大正九年四月)

徳田秋聲記念館