第一章 ルージュと血のかおり
一
佐久間博は朝の散歩に出かける。高原の朝である。光の中を歩み始めると、昨夜の苦しいような夢もたちまち消えてゆく。もう、跡形もない。悪夢は去り、生のきらめきが溢れる。美しい樹木のあいだの小道を歩む。
程なくして、牧場にたどり着く。佐久間は何時ものように牧場が経営するレストランに入る。朝食をとるのだ。暖炉があり、臼のような木製の椅子は座り心地が良い。暖炉の燃える火や、窓からの緑を眺めながら、ゆっくりと食べるのだ。
ウエイトレスが朝食の盆を運んでくる。
「お早うございます」
明るい笑顔。チャーミングな口元をほころばせる。目は朝露のように清らかに輝いている。朝倉春菜。娘の名前である。佐久間はウエイトレスの名前を知っている。常連客なのだ。
春菜のやわらかそうな唇や、目を佐久間は気に入っている。初老の男が、二十歳にもなっていない小娘に胸を躍らせている。初老の男だからこそそうなのだ。純粋に美しいものを美しいと感じるだけ。愛でているだけだ。佐久間はそう想っている。
佐久間は羞恥を感じている。少女に対する気持ちを認めたくない。胸のふくらみや、硬そうな尻の丸みを愛でるのは、美しい花を美しいと感じるのと同じだと思っている。動物的な性などではない。
「お早うございます」
「お早う。有り難う。今朝も美味しそうだ」
「お代わりもどうぞ。たくさん召し上がってください」
「そんなには食べられない。老人だからね」
「そんなことはありません。とても若いです」
春菜は屈託ない物言いをする。客を喜ばせる。佐久間の言葉も軽口なのだ。軽口に乗って軽口をたたく。単調な仕事の色付けである。春菜は明るく、少しはすっぱな少女なのだ。佐久間はそう思っている。
佐久間はトースト、ベーコンエッグ、サラダ、コーヒー、ミルク、などの朝食をゆっくりと食べる。朝食は向こうの厨房にいる若者が作っているのを知っている。背の高いその若者と春菜が笑いながら話しているのを佐久間はちらりと見かけたことがある。まさか恋人ではあるまい。しかし、不愉快だった。
そんなことを考えてばかりいては、朝食がまずくなる。毒が入っているかもしれない。しかし、若者も客と春菜の仲を知っているわけではない。まあ、安心だ。
仲といっても佐久間と春菜は足しげく通う店の客とウエイトレスの関係というだけだ。顔見知りというだけだ。
佐久間はそれだけでは物足りない。何とかもっと親しくなりたい。何とかもっと春菜を知りたい。もっともっと隅々まで見詰めたい。
二
佐久間はあることを思いついて電車に乗り、出かけた。買い物のためだった。田舎では売っていない。外国製ブランドの買い物をひとつした。満足だった。自分の思いつきに心が弾んだ。
足取りも軽く、その帰り道ビアホールによってしたたかに飲んだ。ビアホールのウエイトレスをからかいたくなった。包みを広げて見せたらびっくりするだろう。最新発売のブランド物だよ。
ビアホールのウエイトレス達は垢抜けた感じはしたけれど春菜ほど美しくもなく、清楚でもなかった。佐久間はその発見に満足した。遠出をしてまで、買い物をしたことに満足した。
次の日、佐久間は厚手のジャンバーのポケットに小さな包みを忍ばせて、散歩に出る。近所の牧場は徒歩十五分ぐらいだ。北欧旅行のとき買ったトナカイのジャンバーのポケットに手を突っ込んで林の小道を踏みしめる。
牧場は北海道からこの高原に入植した人間によって営まれている。集団入植者達の努力で、今では観光施設もかねている。
レストランや宿泊施設も整い、乳製品や肉の加工製品の製造販売を行っている。鱒の養殖もある。釣堀に観光客が群がり、馬に乗る子供達の黄色い声が牧草地に流れる。
牧場の従業員達はそれぞれの持ち場で働いている。佐久間には何人居るのか解らない。老若男女合わせて数十人は居るだろう。彼らは山羊や馬の世話をして寡黙に働いている。
ハムやソーセージを販売している建物がある。春菜がそこで働いているらしい。ガラス戸を開けると、春菜はワインのビンを拭いていた。
「今日はこっちに居るの」
「お休みの子がいて、手伝いです」
春菜は売店の留守番をしていた。赤黒いものからピンクのものまで大小さまざまなハム、ソーセージがショーケースに並ぶ。天井から燻製がぶら下がり、農場特産のワインボトルが並ぶ。
「どれか、ひとつ頂こうかな」
「どれがよろしいですか。柔らかいもの、それとも硬いもの」
「硬い肉が好きだ。こり、こりとしたもの」
「辛いもの、それとも香辛料の少ないものですか」
「君はどれが好きだい」
「私は美味しいものなら」
「答えになってないな。どれも美味しいものだろう」
「この太いのはどうですか」
「それにしようか」
佐久間は二三種類選びレジに立つ。春菜はレジに回った。
レジを打っている間にポケットから包みを取り出した。
「プレゼントだよ」
その時、観光客が数人店に入ってきた。春菜はそちらを見た。
春菜の顔にたちまち血が上った。セーターからのぞく項もピンクに染まる。
「遠慮せずに受け取ってもらいたい」
「ありがとうございます」
春菜は他の客の視線を気にしている様子だった。佐久間と言葉を交わすのもためらっていた。
ハムの小さな包みをぶら下げて満足した気分で佐久間は家に帰った。
真夜中に寝付けずに居る。佐久間は安楽椅子に沈み、ブランデーを飲みながら眠気を待っている。
佐久間は春菜を想像する。大学進学もせずに農場で働く娘だ。家はそう豊かではないだろう。両親は健在なのか。兄弟は居るのか。どんな間取りの家に暮らしているのだろう。パジャマの柄や下着はどんなものか。カーテンや部屋に並ぶ書籍は。壁に飾られる絵は。なにひとつ、佐久間は知らない。
短くない人生の間に佐久間は女の部屋は幾つも訪ねている。だが、春菜の部屋は想像できなかった。洋室なのか和室なのか。それさえ明確に浮かばない。
春菜がプレゼントの包みを開けたときの表情。輝く口紅を手にしたときのため息。ため息があったのか。驚きはあったのか。口紅は春菜の好きな色合いだったろうか。
和室なら鏡台があるかもしれない。その鏡台の前にべったりと座り込んで、口紅を塗る。薄く開いた形よい唇。あのようにくっきりとした唇は珍しい。
春菜の唇は雨に濡れた薔薇のように輝きだす。佐久間は胸苦しくなる。ブランデーを飲みすぎたせいかもしれない。自分は病にかかっている。春菜という病にかかっていると感じた。珍しいことだ。久しくかからなかった病だ。大丈夫なのか。耐えられるだろうか。
三
佐久間はサラリーマンだった。定年になり高原の別荘地で田舎暮らしを始めた。移住は妻の希望だったが、妻は癌に侵されてあっけなく死んだ。子供達は家庭を持っている。同居はしたくなかった。健康だから、まだ一人で暮らしていける自信はあった。山の中の寂しい生活だが、人恋しくなれば都会に出かければよい。
都会の悪友達がもしも、佐久間が春菜に夢中になっていることを知ったら、若いころから女道楽を繰り返している佐久間が年甲斐もなく若い女のしりを追い掛け回している、と笑うだろう。滑稽であると罵るかもしれないし、老人のロマンチィズムと、感銘するかもしれない。
夕暮れにもう少し間がある時刻。佐久間は散歩に出かける。別荘地のあちこちをうろうろと歩き回り、最後は牧場に行く。コーヒーを飲み休憩するためだ。目的の一番は勿論、春菜の姿を求めてのことだ。
牧場の裏手。囲いの隙間から敷地内にもぐりこむ。毎日来ているので勝手は知っている。
貧弱な牧草地に二三頭の牛がうつろな目で佇んでいた。家畜小屋には馬がつながれている。観光客を乗せて円形の道を日がな一日歩くのだ。
佐久間は見慣れた牧場の様子を眺めながら、コーヒーハウスに向かう。途中、羊小屋のところで、お目当ての春菜に出会って、嬉しくなる。
春菜はむくむくと脂ぎった羊、二頭に挟まれるようにして、小屋掃除をしていた。佐久間は春菜の唇が灯の点ったように明るいことに気づいた。
「こんにちは。この間は有難うございました」
辺りに人影はなかった。春菜ははっきりした声で言った。
「トテモよく似合うよ。嬉しいよ」
「そうですか」
春菜はまた赤くなった。
「今度は何が良いだろう」
春菜は不思議そうな、困惑した表情になる。顔が透けて見えるような気がした。
「どうしてですか」
「なにがだい」
「どうして、そうするのですか。わたしに」
「そうしたいからだよ。そうしたいから、そうするのだよ」
「それは変です。変なことです」
「そうだろうか。変なことだろうか」
「決まっています。あなたは変です」
春菜の物言いは佐久間の心を傷つけるものではなかった。逆だった。傷ついた心を優しく愛撫されるに等しかった。
春菜から非難される。若い娘から、変だと言われる。屈辱を与えられる。嘲笑であり、拒絶である。しかし、佐久間はちっとも嫌な気がしない。やはり、娘の言うように自分は変な人間なのだろう。それならば、もう少しだけ変になっても構わないだろう。お墨付きを与えたのは春菜なのだから、と思う。
四
思いつきはしたものの、最近の若い女のファッションについては、佐久間は何一つ知識がなかった。牧場で働く田舎暮らしの娘でも、最近流行のファッション知識があるだろう。たとえ、下着にしても、何でもいいというわけにはいかない。肌に直接触れるものだから、なおさら何でもとはいかない。
佐久間は最近没交渉の昔の女に相談しようかと思いついた。女と佐久間の妻は長年戦っていたが、どちらに勝負がついたと言うのでもなく、戦いは収束した。女達は戦いのばかばかしさに気づいたのだ。つまらない男の所有権を主張することの詰まらなさに気がついたのだった。
「最近はどうしているのだい」
「老人介護よ」
「おやおや、それはご苦労なことだ。僕はまだ元気さ」
「ひとりで不自由でしょう。強がり言っているけれど」
「そんなことはないさ。清々しているよ」
女は濃い水色のインナーが似合った。浅黒く長い綺麗な足をしていた。佐久間は今でもその足にキスしたくなる。女は笑いながら、娘の下着を買うことを承知してくれた。佐久間は上機嫌で「有難う。待っているよ」と、言い。それから、ウイスキーをがぶがぶ飲んで、泣いた。
佐久間は春菜から携帯の番号を聞き出す手を考える。上手い手がないものか。
佐久間はある方法を思いついた。牧場に電話した。
「マフラーを忘れてしまったらしい。暖炉のそばのテーブルだ。朝倉春菜さんが担当していた。探して彼女から電話を貰いたい」
佐久間は自分の携帯の番号を電話口の牧場の従業員に伝えた。
昼の忙しい時間が過ぎた頃、春菜から電話があった。
「すみません。探したけれど見付かりませんでした」
「わざわざお手数をかけて、すまないね。私の勘違いだったろう」
春菜は自分の携帯でかけてきた。レストランに備え付けの公衆電話を使うはずはないと、予想していた。春菜の携帯番号は佐久間の携帯にしっかりと記録されたわけだ。
一週間ほどで女から小包が届いた。
佐久間が想像した通りものが入っていた。生まれたての蝉の羽。薄く柔らかなインナーがひと揃え入っていた。どんな娘でもこれらを嫌うはずはない。うっとりと愛でるに違いない。娘は自分のなかで、未知の何かが湧き上がるのを感じるだろう。
佐久間はさっそく牧場に出かけた。高原の天気は変わりやすい。さっきまで晴れていたはずが、突然雨が降る。空は曇り、危ないと感じたので、傘を用意した。ものの、十分も歩かないうちに雨が振り出した。
春菜は鱒の養魚池で作業をしていた。紺色のカッパを着ていた。
「雨の中を大変だね」
「先日はすみませんでした」
「いや、いや。こちらこそ。実は家にあったのだ。大分、呆けてきたらしい」
「そうですか。気をつけてください」
「そのときになったら、春菜ちゃんに御願いしよう」
「わたしは嫌です。年よりは嫌いです」
「どうしてだい。何故嫌いなのだ」
「何だが、汚いでしょう」
「そうだね。汚いことをするね。それを知恵と呼ぶことも出来るが」
春菜は佐久間の言っている意味はわからないだろう。作業に熱中していて、気にも留めていない様子だった。
池の中では、水とは違う黒い影がちらちらと蠢いていた。
五
佐久間の娘の美代が父を案じて電話をよこした。
「お父さん本当に大丈夫ですか」
「大丈夫さ。何一つ不自由はしていない」
「私も心配なのだけど、遠くてたびたびはいけないわ」
「そう言ってくれるだけで嬉しいよ」
「山の中で寂しくないの」
「観光地だから、人はうんざりするほど居るよ。旅に出ると人は誰でも人恋しくなるらしい。話し相手など直ぐに見付かるわ」
「お父さんの性格ならそうだと思うけれど、体が心配なの。飲みすぎちゃ駄目よ」
「気をつけているよ。最近、ガールフレンドが出来た」
「いいわね。誰なの」
「牧場の娘さんだ。可愛い子だよ」
「それは良かったわね。ロマンチックね。でも、もう年なのだから、恥ずかしいことをしちゃ駄目よ」
美代は佐久間の女道楽の癖を良く知っている。心から心配しているのではないが、あらかじめ釘を刺したのだ。
「温かそうな下着を見つけたの。昨日、送ったから」
「ありがとう。いつもすまないね。美代の誕生日も近いな。何かプレゼントしたい。何がいいかい」
「覚えていてくれたの。嬉しいわ。宝石でも貰おうかしら」
美代も可愛い娘だ。春菜と同じ年のときもあった。気がつくと佐久間は回想にふけっている。ひとりになったからだ。老人になったということか。過去が落葉のように積み重なり、しっとりと湿っている。佐久間はその上に静かに身体を横たえる。
プレゼントを春菜は身体に付けてくれただろうか。佐久間はそれを確かめたくて、牧場に通った。何度、行っても牧場に春菜の姿はなかった。
辞めたとは思えないが長い休みだ。携帯の番号を知っているので、何時でも連絡はとれる。が、そうはしたくない。佐久間は春菜の姿が見たいのだ。
数日、我慢する。我慢できなくなって、牧場の従業員に尋ねる。やっぱり、休暇を取っているらしい。海外旅行だ。携帯電話しても繋がらないだろう。佐久間は電話しなくて良かったと思った。
春菜の居ない牧場に足を向ける気がしなくて、散歩の道を変えた。近所のペンションが立ち並ぶ、ペンション村の喫茶店に出かける。その店は自家製のパン屋でもあって、店内には香ばしい香りが漂っている。
コーヒーを飲み、色とりどりのごちゃごちゃした観光客達のはしゃぎぶりを眺めてすごす。若い男女が多い。
白内障にかかって少し見えにくくなった佐久間の目に春菜の姿が飛び込んできた。牧場で働いているときの洋服とは違って鮮やかな若い女らしい可愛い服装である。テーブルには若い男女、数名が居る。
春菜も佐久間に気がついた。
「どうしたのだ。しばらく姿を見なかったが」
「こんにちは。お休みして、バリに旅行していました。友達と」
「そうか。それは楽しかっただろう。私は寂しかったよ」
「これお土産です」
春菜がバリの土産だと言って佐久間にくれたものは土俗的な木製の人形だった。佐久間は人形をしみじみと眺めて、佐久間自身に良く似ていると感じた。口紅や下着に比べれば、いかにもみやげ物といった品物だったが、春菜の気持ちが嬉しかった。
六
木製の人形を佐久間は握って眠った。そのためか奇妙な夢を見たが、目が覚めると忘れていた。血なまぐさいような怖い夢だった。覚えていなくて幸いである。
佐久間は携帯をかけた。今日はどこで働いているか知りたかった。
初めて春菜の電話の声を聞いた。明瞭で可愛い声が心地よく佐久間の耳をくすぐった。
「今日はどこで働いているのだね」
「レストランです。手前の鉄板焼きのほうです」
羊の肉を焼く香りを佐久間は思い出している。佐久間は肉類には目がないのだ。ジンギスカンが食いたくなった。
「食べに行こうかな」
「是非来てください」
「ところで今日の仕事は何時までだね」
「六時までです」
「それから、ドライブに行かないかい」
「何処へ、ドライブですか。暗くなりますよ」
「夜のドライブもいいものだよ」
佐久間は牧場から小一時間ばかりのホテルの食事に春菜を誘った。ホテルは有名でフレンチのディナーは高いものだった。小娘の春菜がいつもいけるようなところではあるまい。
春菜は躊躇していたが結局は承知した。
夕暮れの牧場の駐車場で春菜を待った。観光客も大方は帰った。濃い紫の空に黒い森が浮かび上がっている。もうすぐ、夜がやってくる。
砂利を踏む足音がして、春菜が佐久間の車に近づいてきた。
春菜が車に乗り込むと、一日中焼けた羊の煙にさらされて働いていた匂いがした。佐久間はそれを深く吸い込んだ。
「待たせて御免なさい」
「いいのだよ。春菜を思って待っていたのだから」
中世の城に擬した建物は夜の薄明かりの中で重々しかった。レストランの席に落ち着くと、佐久間は改めて、春菜の顔を見詰めた。このように怠惰な夢のような食事をするのは久しぶりである。
レストランに客は佐久間と春菜だけだった。
佐久間は春菜がレストランの雰囲気に飲まれておどおどすると想像していた。だが、案外、平気そうでゆったりと笑みを浮かべている。それでも子供のように辺りを見回している。
「こんな素敵な食事初めて」
「海外旅行はどうだった」
「楽しかったわ」
「誰と一緒だったの」
「友達です。四名で」
佐久間は嫌な気分になった。旅行は男女四人の若者だという。それならば二組の恋人という事になるのか。それ以上、春菜の旅行の話はしたくなかった。
食事が終わり、飲んだワインで眠気が起きてきた。これでは車の運転は無理だ。ハンドルは握れない。佐久間は春菜の手を引き寄せて握った。春菜は少し焦点の合わない目で佐久間を見た。
七
佐久間は春菜から拒絶された。春菜は顔を背けて佐久間の口付けを避けた。佐久間に残ったのは、春菜の上半身の微かな感触だけだった。
拒絶されても当然なのだ。相手は小娘なのだ。自分は老人である。しかし、否、と甲高く叫ぶ声が心にわきあがる。
二三日すると春菜から小包が届いた。口紅やインナーなどプレゼントした品物が全て返ってきたのだった。それらの拒絶が佐久間の苦痛に追い討ちをかけた。
佐久間は放心したように家でじっとしていた。食事も取らず、眠りもしなかった。酒をすすりながらぼんやりとしていた。体力が急速に落ちていた。白いものが混じっている髭が伸びてきて、頬がこけだした。落ち窪んだ目の光は強くなっていった。命が腐ってゆくようだった。
佐久間はあることを決心して台所に行き、戻ってきて出かける準備を始めた。
夜だった。満月に近い月が出ていたので、外は明るかった。目が慣れると林の中の道でも歩くことが出来る。懐中電灯は持っていた。
佐久間は牧場に向かう。何をしようという考えもなかった。さっきの決心の中身がわかっていないのだ。もはや、決心などどうでも良かった。何者かに導かれるように手足が動いているだけだ。
林の木々が悪意ある魔物のように感じられた。月に救いを求めた。月は美しい。めらめらと燃える真実の瞳だった。目がくらみそうだった。
佐久間の体は麻痺しているのにもかかわらず、ずんずんと林の小道を進んで、やがて牧場に出た。
黒い家畜小屋や、牧場の建物が点在していた。月に照らされた建物の影が黒々と地面に伸びている。牧草地は深い湖のように広がっていた。
佐久間は地面に月の影を引きずりながら家畜小屋に近づいていった。
次の朝、牧場は大騒ぎになった。パトカーや救急車のサイレンが辺りの山々にこだました。
家畜小屋で老人の死体が発見されたのだった。それに山羊の死骸が発見された。
老人は佐久間だった。山羊は首を切られて家畜小屋の床は赤黒く汚れており、佐久間の死体は血に染まっていたが、傷は負っていないようだった。
後に死因は心臓麻痺の発作と判明した。司法解剖したのだ。老人の唇に鮮やかに口紅が引かれて輝いていた。それに、女性の下着を着けていた。
何故、老人が自分の家から持ち出した包丁で山羊を殺したのか。不思議なことだった。老人の目的は何だったのだろう。山羊の血液が欲しかったのか。それとも、はじめから山羊を殺そうとして、家畜小屋に忍び込んだものか。
春菜はいつもより早く、牧場に出勤した。いつもの朝とは違う異様な雰囲気に気がついた。パトカーや救急車が居る。春菜は小走りに急いだ。
佐久間が救急車に運び込まれようとしていた。
「あの人、いつも食堂に来る人じゃない」
同僚の女の子が春菜に言った。
「そうね。どうしたの」
「家畜小屋で倒れていたのだって」
「どうして」
「知らないわ。死んでいるらしいわ」
春菜はひざをがくがくと振るわせた。立っているのがやっとだった。勇気を振り絞って、家畜小屋に近づき、人だかりの間から、搬送されようとしている佐久間の姿を見た。土気色の顔に唇がつややかに赤い。血をすすったようだ。
「山羊も死んでいるの」
「あの人が殺したの」
春菜は佐久間の名は口にしなかった。
「しらないわ。包丁が落ちていたらしいけれど」
春菜は佐久間の骸をじっと眺めた。
第二章 月と薔薇の狂気
一
敏子の結婚には周囲の反対や危惧があった。
求婚者の和田俊夫が障害者だったからだ。下半身が不自由で子供の頃から杖をついていた。病は進行する可能性もあった。将来は車椅子になってしまうかもしれなかった。
敏子は俊夫を愛していたので、障害のことは気にしていなかった。和田俊夫が内科医だったこともあり、結婚生活には不安を感じなかった。
事実、敏子は豊かな結婚生活をおくることが出来た。高級住宅地に医院を開業し、新築の家に暮らしている。敏子の両親もその生活ぶりを見て、考えを変えたのだった。
医院は和田俊夫と事務員、看護婦の三名で営まれていた。敏子も経理処理の多忙なときは医院に出向いたが、医院の隣の住宅に居た。
結婚して一二年経つと、俊夫の下半身はますます不自由になり、とうとう半分車椅子の生活になった。それでも、医者をやっていくことは出来た。
「暖かくなってきた。薔薇の家に行ってみるか」
俊夫は整っているが青白い腺病質の顔である。敏子は色々工夫して食事を作る。俊夫は食も細かった。酒もあまり飲まない。敏子は俊夫の健康を第一番に考えていた。医者の仕事で無理をさせたくなかった。
「いいわね。久しぶりに」
俊夫の言葉には訳がある。一週間ほど前に敏子が妊娠したかも知れない、と言い出した。結局、敏子の思い違いだった。俊夫も敏子も子供を望んでいたので、間違いだと知って、がっかりした。
「薔薇の家」とは高原にある和田の家の別荘だった。俊夫の父親は薔薇が好きで別荘の庭を薔薇園にしていた。百種類ほどの薔薇が植えられていた。年老いた和田一人では管理が出来ず、庭園業者に委託していた。
想像妊娠をした妻を慰めようと気を使ったのだろう。俊夫は妻を別荘に誘った。自分も気分転換をしたかったのかもしれない。
「嬉しいわ。それなら買い物をしてきていい」
「何をだい」
「あなたのカーディガンとか、色々。薄手のものが欲しいと思っていた」
「僕のものならいいよ。わざわざ買いに行かなくとも」
「おしゃれしてもらいたいのよ」
「車椅子ではさえないことだ」
「変な事を言わないで」
敏子は俊夫を睨みつける。怒ると、敏子の大きな目はますます強く輝き美しさを増す。
「とにかく、デパートに行くわ」
「好きにするといいさ」
俊夫は車椅子になってから、妻の行動に過敏になっているようだった。敏子が側に居ないと不安らしかった。細々と子供のように妻に世話をさせることを望んだ。身体がますます不自由になり、利己的な性格が露になってしまったのか。
二
車椅子のため、ワゴン車に買い換えた。
俊夫は前の車と同様、深紅の車を選んだ。好きな薔薇の花の色だった。希望の色と車種が一致しなくて色々探して、やっと見つけた。
車椅子を入れるのに改造して、助手席に固定する装置を取り付けた。
敏子は動きやすいパンツにブラウスとカーディガン姿だった。俊夫はネクタイをしめて、ジャケット姿だった。ひどくやせているので、貧弱に見える薄着は好まないのだ。
高速に乗り、小一時間でインターを降りて別荘地に向かう。途中、食糧を買い込むため、産地の直売所やスーパーなどに寄り道をする。
車一台がやっと通れる細いくねった道をしばらく行くと、古い洋館が切り開いた林の中に現れた。
和田家の別荘「薔薇の家」だった。
別荘の南側に大きな温室があり、薔薇はそこで栽培されている。寒さと風に強い品種の一部は庭の芝生の間にも植えられている。門のアーチには蔓薔薇を這わせていた。壁のペンキがはげた古い洋館に比べ、専門家に任せてある庭や温室は生き生きとしていた。
敏子は巧みに操作して、車椅子の俊夫を玄関に降ろす。
「杖を取ってくれないか。少し歩いてみよう」
敏子は杖を渡す。杖の頭部は鴨の頭のデザインである。俊夫は杖にすがってふらりと立った。その姿は枯れかけた植物のように弱弱しい。
しばらく人が入っていない建物は荒れていた。水道ガス電気は大丈夫のようで、電化製品にも異常はなかった。
けれど建物の内部は空気がよどみ、黴のにおいが鼻腔を満たした。敏子は大急ぎで、家中の窓を開け放して、山の外気を入れた。空は澄み渡り、窓からの林の風景は美しい。若葉の新鮮さに身を清められるようだった。
敏子は寝室のベッドを整え、冷蔵庫に食料を移し、食事の準備に取り掛かる。
「あなた。疲れているならベッドで休んだら」
「いいよ、温室に居る」
俊夫は好きな薔薇の花を見ていたいらしい。
土地の新鮮な野菜は豊富にある。サラダや鱒の料理、地元の特産牛肉のシチューなど敏子は二時間ほどかけて料理した。
「ワインがあったわ。忘れていたけれど、上等なものらしいわ」
敏子は納戸から贈答品のボルドー・ワインを食卓に出した。
敏子は俊夫より酒は好きで、強かった。
「鱒を食べないの」
「川魚はどうも苦手だな。匂いがね」
「そうだったかしら。美味しいのに。シチューを食べて頂戴」
「そうするよ。そのほうがいい」
「こっちにくると、お野菜がびっくりするほど安いの」
ふたりはたわいもない話をするが、敏子はしだいに胸のつかえを感じる。それを振り払うようにワインのグラスを何度も満たす。
家の食事もたいていは夫婦二人だ。今夜は何時もよりひどい。
この古い建物の所為なのだわ、と敏子は感じる。陰気な建物の所為で気分が塞ぐのだ。
「この別荘、さすがに古くなったわね」
「君は好きではないだろう。ここは」
「そんなことはないわ。温室もきれいだし」
「薔薇はきれいだが、建物は幽霊屋敷だ」
「あなたは子供の頃からよく来ていたのよね」
「そうだね。夏の間はずっと居た家だよ」
「思い出がいっぱい詰まっているところ」
「いい思い出ばかりではないが」
「つらいこともあったの」
敏子は夫の思い出話を少しも聞きたいとは思わなかった。しかし、聞き出そうとしている。食卓を楽しいものにしたいからだろうか。いや、自分はそんなことを望んではいない、と感じた。かすかに吐き気を感じて、急いでワイングラスに手を伸ばした。ワインを大きく飲み、微笑を浮かべようとした。出来なかった。
三
「明日はどこかホテルに泊まりましょう。温泉に入りたいし」
「それも良いね。君も骨休めになる」
「私の奢りよ。どこがいいかしら」
医院は株式会社組織になっていて、敏子は給料をもらっていた。
ふたりは色々相談して、別荘から三十分ばかりの温泉ホテル「月の館」に予約を入れた。敏子は俊夫の希望を聞くことが必要なのだと考えた。
俊夫は夫婦一緒の寝室に休みたがっているようだったが、敏子は一人になりたくて、ゲストルームのベッドを使うことにした。
「何かあったら、呼んで頂戴」
俊夫をベッドに寝かせると、ドアを閉めた。ひどく疲れていた。これが何十年続くことだろう。夫の看護が肉体的につらいというのではなかった。こんな憂鬱な気分のまま生活していかなければならないのか。敏子は何が原因なのか自分で分からなかった。
一人になり、ゲストルームに入った。窓は午後開け放したまま、閉め忘れていた。窓から月の光が差し込んでいる。周囲の林が影絵のように浮かび上がっていた。ベランダに月の光にみたされて明明と夜の中に浮かび上がっていた。
敏子はベッドで月を眺めた。
次の日、ふたりは出かけた。出掛けに俊夫は言った。
「薔薇の花を切ってくれないか。花束をホテルに持ってゆきたい」
「どうして」
「ホテルの部屋は殺風景だろう。薔薇を見たいのだ」
「それなら花瓶も用意したほうがいいわね」
「そうしてくれないか。お手数だけれど」
敏子は温室に行き、薔薇を切り取った。今盛りに咲いている深紅の薔薇だった。その吸血鬼の唇のような赤い薔薇を一抱えほど摘み取った。
「うん。綺麗だね」
俊夫は満足そうだった。
車椅子の俊夫を車に乗せ、薔薇の花束を作り、戸締りをして出かけるのに手間取った。すべて、敏子一人でしなければならない。俊夫は調子が悪いのか、車椅子から一歩も歩こうとしない。
途中、牧場に寄るのを敏子は提案した。以前は家族でよく利用したものだ。牧場は旅館やレストランなど観光施設を設けていて、休日は観光客でごった返している。
乳製品や牛や羊などの肉類の加工販売もしている。ジンギスカンのレストランや鱒の釣堀などもあった。
観光客の大半は自家用車で訪れる。広い駐車場が用意されているが、舗装もされておらず、砂利が敷かれているだけだ。
混雑していて牧場の入り口から離れたところにしか駐車できなかった。
「ここからでは、車椅子では無理だわ」
「いや、歩いていくから大丈夫だ」
「遠いわよ。他で食事しましょう」
「心配ない。歩きたい気分なのだ」
「それならそうしましょうか」
敏子は俊夫に杖を渡した。俊夫は真っ白な骨ばった手で杖を握り締めゆらゆらと歩き出した。
「久しぶりにジンギスカンを食べてみないか」
「いいわよ。そうしましょう。ホテルでは出ないでしょうから」
「たしか。あの建物がそうだったね」
俊夫はジンギスカン、焼肉があるレストランのほうに歩いて行く。
羊の肉の濃い匂いが敏子を苦しめたけれど、同時に美味しいとも思った。食の細い俊夫も珍しく何時もよりは食べているらしかった。
敏子はビールを欲しいと思ったけれど、運転中なので飲むことが出来ない。
「君は、僕と結婚して、後悔しているんじゃないか」
「どうして、そんなことを言うの」
「何となくそう思うことがあるよ」
「そんなことを言い出すなんて変だわ」
「変なのは分かっている。妊娠のことで君ががっかりしていることも」
「私が勘違いしただけよ。悲観はしていないわ」
「僕はもうすぐ歩けなくなるようになるかもしれない。医者も何時まで続けていられるか」
「大丈夫よ。あなた、医者でしょう。しっかりしなくては」
「それはそうだが」
愛情のある会話ではないと敏子は感じた。自分は上の空で応えているだけだ。俊夫以上に不安なのだ。俊夫の病を心配してのことではない。自分の将来が不安なのだ。病人の看護をしなくてはならない。医者を廃業しなくてはならなくなったら貧しくなる恐れもある。俊夫の父親も何時までも元気ではない。いずれ、敏子が面倒をみなくてはならない。
四
食事の後、小さな事故があった。
俊夫がレストランの出口の低い階段で転倒したのだ。敏子は悲鳴を上げ駆け寄った。勘定をしている間に俊夫が動き出したのだ。
俊夫の華奢な体は階段の下に転がった。
レストランの従業員が飛び出してきて、俊夫を抱き起こした。若者だった。
「有り難うございます」
「よかったら、僕が負ぶいます。どこですか車は」
ジーンズの若者は上背があり、がっちりしていた。腕も太く、俊夫なら軽々と背負い、走り出すことも出来るだろう。
焼肉の匂いの中で働いているから、微かに肉のにおいがした。
俊夫は青白い顔をして、目を半分瞑っている。怪我はしていないようだ。無様に転んだことで、自尊心が傷ついているのだ。若者を無視している。夫に注意を怠った敏子を非難しているのかもしれない。
それ以上の自尊心も、断る気力も萎えたのか、俊夫はおとなしく若者の背に負ぶわれた。
若者は車を見送ってくれた。明るく日焼けした顔が輝いて見えた。ちょっと腕を上げて、親しそうに敏子に微笑んだ。
「ごめんなさい。大丈夫だった」
「なんともない」
「本当に親切な、従業員だったわね。初めて見る顔だけれど」
敏子の言葉に俊夫は返事をしなかった。
俊夫の心を考えて敏子はむなしさを覚えた。
五
ホテルはイギリスの古城をイメージした建物だった。
ホテルマンは車椅子と大きな薔薇を抱えた泊り客を少し好奇な目で見たかもしれない。
「素敵な薔薇ですね」
案内係がエレベーターの中で敏子に言った。
「家の温室で育ったものよ。私の家はここから三十分ぐらいよ」
「そうでございますか」
案内係はうやうやしく言った。
部屋は居心地がよさそうだった。上階なので周りの山々が明るく広がっている。森の影になっているが牧場の方を見下ろすことが出来る。
「疲れた。寝るよ」
俊夫は転倒したため弱っているのか、機嫌が悪いのか、部屋に入ると、ベッドにもぐりこんだ。敏子は少しほっとした。
薔薇を持参した壺にいけなおして、俊夫のベッドサイドに置いた。薔薇の香りが強く流れる。
窓辺の椅子でしばらくぼんやりとしていた。徐々に夕暮れが近づいてくる。寂しさを感じる。自分はここでなにをしているのか。
灰色の意識の中で、不意にあることを想起する。手にもっていた、あのポシェットはどうしたろう。財布とカードが入っていた。牧場のレストランで支払いを済ませた。その時まではあった。車の中に置き忘れているのか。
急いで、ホテルの駐車場に向かった。ワゴン車の中のどこにもポシェットは見当たらなかった。やっぱり、あの時、気が動転して、落としてしまったのだ。牧場のレストランの階段で。そう思いついて、部屋に戻る。眠っているかもしれないが、俊夫に告げてから牧場に出かけよう。
敏子は何故か気分が明るくなった。牧場に行くのだ。忘れ物を取りに。
フロントの前でホテルマンに呼び止められた。
「今、お電話がございました」
「どなたから」
「この先の牧場からですが、落し物をしたそうです。お客様の運転免許証からこちらにご宿泊ではないかと」
そう言えば、あの若者に「これから月の館」と、言ったのだった。
「牧場の電話番号を教えてくれない」
「先ほど、牧場の電話をお繋ぎしたのですが」
敏子はその時、駐車場にいたのだ。
「携帯番号をお聞きしています。そちらに連絡を頂きたいそうです」
あの若者の電話番号に違いなかった。
「いただきにいきます」
「でも、免許証不携帯になりますよ」
そういわれればそうだ。
「これからお届けします。待っていてください」
牧場の従業員の若者は宇佐美真と言った。
免許証や財布を拾ってくれたのだ、お茶ぐらいはご馳走しなくては。敏子はホテルのラウンジに宇佐美真を誘った。
「ご主人大丈夫でしたか」
「今は部屋で休んでいるわ。お世話になりました。二度もね」
「そんなことは何でもありません」
若者は言葉を詰まらせた。俊夫が敏子の夫だと分かって、真は何を感じたのだろう。車椅子の男に。
「医者なのですが、難病で・・あんなふうなのです」
「お医者さんですか」
真は複雑な表情になった。言葉の接ぎ穂が見つからなかったのだろう。
それから、敏子と真はいろいろな話をした。
敏子は真のすべてを知りたいと感じた。
「何時から働いていらっしゃるの」
「牧場は、学校を卒業してから。専門学校で絵を習っていたけれど、就職できなくって。家はこっちなのです」
「私の別荘は牧場から直ぐのところよ」
「そうなのですか。別荘ならいいですね。夏は」
「父の代からなの。父はこちらが好きで、薔薇作りをしている」
「薔薇ですか」
「貴方は薔薇がお好き」
「薔薇ですか。あまり好きではないな」
「私も、よ」
敏子は笑った。真もつられて笑った。
「もう帰らないと」と、真は言った。
「家はどこなの。この近くなの」と、敏子は言った。
「今日は夜勤なのです。牧場に居ます」
敏子は部屋に戻った。窓際の椅子に深く身を沈めた。俊夫は眠っているのか、ピクリとも動かない。
部屋の照明を付けていないので、夕暮れの暗さがそのまま忍び込んでくる。敏子は紫色に暮れなずむ森を見詰めている。その向こうに牧場がある。
飢えと、渇きと、叫びがじょじょに敏子の心を満たしていった。
夕食の席では敏子は先ほどとは変わって明るい雰囲気だった。俊夫の口数も多かった。子供の頃、遊んだ近所の様子を話した。俊夫にとっては良くなじんだ土地なのだ。
「あの頃は、こんなホテルもなかった。本当の田舎だったよ」
「自然の中を転がりまわっていたのね」
「人間にとって、子供の頃が一番の幸せさ」
「そうね。そうかもしれない」
敏子は上の空になるのを必死にこらえた。水の中に沈みそうになるのを、微笑と共に必死に浮かび上がる。俊夫に気取られてはならない。
六
隣のベッドを伺っている。俊夫の寝息をはかっている。息苦しい時間をどれほど耐えたことだろう。
もう大丈夫と思われるところで、そっと身を起こした。
着替えをし、花瓶の薔薇を一本引き抜くとドアの外に出た。
駐車場の車の前で宇佐美真に電話した。
「会いたいの。ひとりなの」
「ひとりです。でも、宿直だから出られません」
「私が行くわ。待っていて」
敏子は車に乗り込んだ。夜の山道を駆け下りた。月が出ている。満月に近い明るい月だ。空は青黒く微光をたたえている。
車のライトが樹木の暗いトンネルを激しく切り裂きながら疾走した。万一ハンドルを切りそこなったら、断崖に転落する。
牧場の入り口にはトーテンポールが黒々と起立している。門のアーチの頂上には雄牛の髑髏が掲げられている。牛の髑髏は月の光に白っぽく輝いている。
牧場の入り口に真は立っていた。
「よく来てくれたね。待っていたよ」
「お土産よ。薔薇の花」
「ありがとう」
「あなたが薔薇は嫌いだと言ったから」
真は声を上げて笑い、敏子が差し出した一本の薔薇を受け取った。月の光で薔薇は黒い陰のように見える。
「何処なの。宿直の部屋は」
「あっちのはずれ。元は客を泊めていたバンガロー。古くなったから従業員用に使っている」
「そうなの。今夜はひとりなのね」
「汚いから貴女を案内できないよ」
「夜の牧場は初めて。ここのほうが気持ち良いわ」
暖かい夜だった。湿った夜のにおいがした。牧草と大地と月の匂いなのだ。
「案内して頂戴。牧場の隅々まで」
真は歩き出した。敏子は真の腕に腕を巻きつけた。たくましい温かさが伝わってきた。
牧場は林に取り囲まれていて、林の黒い輪が牧草地を取り囲んでいる。牧草地は水をたたえた湖のように見える。
牧場の一角に円形の柵が作られている。観光客を馬に乗せて廻る場所だった。
「馬に乗ってみませんか」
「乗って良いの。乗りたいわ」
真は黒々とそびえる家畜小屋に敏子を案内した。扉を開けると家畜の排泄物の強いにおいがした。暗くて内部は見えなかったけれど、何頭もの馬が立ったまま眠っているらしい。
やがて真は馬を引き出してきた。馬は月の光を浴びて灰色に見えた。
「怖いわ。初めてなの」
「大丈夫だよ。僕も乗るから」
牧草地に引き出された馬は大人しくまだ眠っているように見えた。近くで見ると馬は大きく、とてもひとりでは馬にまたがることさえ出来ないだろう。
「素敵だわ。月の光の中で馬に乗るなんて」
「もっと素敵な乗り方があるよ」
敏子は辱められているとは思わなかった。辱められたとしても構わなかった。
「ひとりでは嫌よ」
「僕も脱ぐよ」
衣類を取り去ると、夜の空気と月の光が全身にしみ込んでくるようだった。心に羽根が生えたように軽くなり、敏子は神秘的な体験をしているのだ、と感じた。
「とても綺麗だよ」
「月のせいね」
背中に真の体温を感じたけれど、月の光に歩みこんでゆく感動が強かった。真は馬をゆっくりと進めた。出来る限り敏子を怖がらせまいとしているらしかった。馬は牧草の海を進み、やがて定められた地点に着いた。
馬から降りると、ふたりは向き合い、始めて抱き合い口付けを交わした。
真の命令に敏子は素直に従った。膝と掌を草で少し汚すだけですむ。それよりもここでは、それ以上ふさわしい姿勢はないように思われた。
真は激しかった。敏子も百舌のように身震いした。薔薇の鞭で敏子は少しばかり傷を負った。真は口で愛撫して痛みを癒すのだった。
馬は彼らのそばで草を食むこともなく瞳に月をうつして、じっと佇んでいた。
七
敏子がそっと部屋に戻ってきたとき、俊夫は向こうを向いて眠っていた。敏子は音を立てないよう、そのままベッドにもぐりこんだ。
しばらくすると、東の空がエメラルド色に明るんできた。寒さと興奮で敏子はベッドの中でがくがくと震えた。体には真と夜の匂いがしみ込んでいる。
「今日は戻らなくては」
「どうして。もう少し居ましょうよ」
「病院のこともある」
俊夫にそう言われれば、敏子は反論し難かった。真と会いたい。もう、真のことしか考えられなかった。家に戻ったら、準備をして家出をしようと決心していた。
そのために戻ると思えばよい。
「何があったのだ。昨夜は何処に行っていた」
「眠れなかったから、散歩よ」
「嘘をつくな」
「嘘じゃないわ」
俊夫はそれっきり黙った。死ぬまで一言も言葉を発すまいと決意してでもいるかのように。
石ころ同然になってしまった俊夫をそれでも、形だけは丁寧に車椅子に乗せ、宿を引き払った。別荘に戻ったのは昼近くだった。
「奥さん来ていたのですか」
庭師が薔薇の手入れをしていた。
「ありがとうございます。とても綺麗だわ」
庭師をおいて直ぐに帰るわけにも行かず、家の掃除などもあり、結局夜になった。
敏子はひと目でも真に逢いたくて牧場の前で車を止めた。
「昨日、忘れ物をしたらしいの。家で探したけれど無かった」
俊夫は返事をしなかった。
敏子は人影の少ない牧場のレストランに入った。従業員を捕まえて宇佐美真はどこかと尋ねたが知らないといわれた。馬小屋に居るのか。今日は何処で働いているのだろう。
電話をした。真の声だった。声を聞くと涙が溢れた。
「これから帰らなくちゃいけないの。何処なの」
「牧場の用事で出ているよ。今度は何時来るのだ」
「あなたと離れていられない。家を出るわ」
「そうしてくれる。本当に」
「そうよ。待っていて」
敏子の声は涙で詰まった。
敏子は車に戻ると、黙って、発進させた。俊夫は口を利かないのだから、話すことなどもう無い。
山道を上り下りして、岐路に着いた。三十分も走ればハイウエーに出られる。日はとっぷりと暮れてきた。真っ暗な山道でスピードを出している。敏子は運転が上手かった。初めての路でもない。時々、すれ違う車のヘッドライトが黒い森を切り裂いた。
片側が崖の道に出る。道は山を這うように蛇行している。石ころのようにじっと動かずに居た俊夫がいきなり、敏子の握っているハンドルに飛びついてきた。車椅子から半身を精一杯伸ばして、力任せにハンドルを切ったのだ。
敏子は悲鳴を上げた。目の前のヘッドライトから道は消えた。
その事故を目撃した証言者によると、遠方の山に突然、火が立ち上ったという。車が爆発、炎上したのだと後で知ったらしい。火は遠くに一輪の薔薇のように明々と美しかった、という。
第三章 挽歌、そして風
一
天城静香が七歳の時、牧場で行方不明になった。十年前のことである。
静香の姉の恵子は半年ほど以前から交際している恋人の深山文夫をその牧場に誘った。
十年以前、姉妹で観光牧場に遊びに行った。休日で賑わっていた。恵子がアイスクリームを二つ買っている間に、そばに居たはずの妹、静香が姿を消した。
警察や消防団により牧場を中心として一帯が捜索された。事故と事件の両面捜査だった。誘拐の可能性も高い。牧場や周囲は危険と思われる場所はない。幼いとはいえ七歳で水溜りや草むらに落ち込むことは考えにくい。小さな谷川はあったが、水量は少なかった。
誘拐だと仮定しても、犯人からも脅迫や、その他の連絡はなかった。誘拐だとすれば、少女に対する悪戯目的の犯行が考えられた。万一そうなら、静香の命は失われている可能性がある。
周囲の捜索では何の手がかりもなかった。犯人は車などで静香を遠くに連れ去ったのか。当日、その時間帯に牧場の駐車場には多くの車が駐車していた。
警察は牧場関係者、数十名も徹底的に調べた。過去に前科や性的な事件を起こしているものは居なかった。失踪事件は迷宮入りになった。
十年前、十三歳の天城恵子と妹の静香のふたりが牧場で遊んでいた。叔父と叔母と温泉旅館に来ていたのだった。姉妹の両親はふたりが赤ん坊の頃、交通事故でなくなっていた。
両親も妹も失い、恵子の精神は狂いだした。一年ほどでなんとか、回復したけれど恵子は笑いの少ない人間になった。
恵子は大学を卒業し、就職して叔父の家を出、一人暮らしをしている。職場の同僚の深山文夫と知り合い、恋仲になった。
「毎年、その日が近づくと、いてもたっても居られなくて、牧場に行くの」
「妹が居るような気がするのかい」
「どうしても、納得がいかないの。あの子が突然目の前から消えてしまったなんて。牧場の隅から隅まで歩き回るの。奇跡が起こって静香がひょっこりあらわれるかも、って」
「七歳の静香ちゃんが」
「判らない。七つのあの子なのか、十七歳のあの子なのかは」
「どこかで生きているかもしれない」
「誰かに誘拐されて、生きているのだとすれば、あの牧場には居ないことはわかりきったことだけれど」
深山文夫にもこの十年間、恵子が自分自身を責め続けているのだと、痛いほど感じるのだった。恋人が愛おしかった。
二
去年までと違って、今回は連れが居る。恵子の気持ちは今までと少し違っていた。暗く、後悔に染まっているばかりではなかった。時がじょじょに苦痛を癒しているのか。文夫の存在がありがたかった。
深山文夫の運転する車で、恵子は高原の牧場に向かった。
「よいところだね。綺麗な土地だな」
「特別な場所よ。私にとっては、変な言い方だけれど聖地のようなところ」
「今でも、捜査は続いているのだろう」
「事故として処理されたとは聞いていないわ」
「それにしても十年か。長い歳月だね」
ハイウエイを降りて、一般道に出る。松並木の道を行くと、両側に田園が広がる田舎に出る。十年以前は沿道の飲食店も少なかったけれど、現在ではすっかり観光地になってしまっているようだ。
「少し休んでいこう、何か食べないかい」
「良いわね。文夫さんも疲れたでしょう」
ふたりは沿道の小さな蕎麦屋に寄った。店の半分が土産物屋になっている。
軽い食事を取り、ふたりは店の外に出た。
駐車場に子供がいた。客の一人ではなさそうだ。五六歳ほどに見える。近所の、多分農家の子だろう。やんちゃに遊びまわっていたのか、服は汚れていた。日焼けした手足に土がついている。
男の子はボール箱を抱えている。
恵子は子供の箱に興味を抱いた。いかにも大切に抱えている。今にも奪われそうな宝を守ろうとしているかのようだ。
「坊や。何なのそれは」
「教えない」
恵子は思わず笑ってしまった。何が何でも知ってやる、という悪戯心が湧いた。男の子に近づいて、箱を覗いた。土らしいものが入っている。
「お姉さんに教えなさい」
「団子虫だよ」
「それは土の中にどこにでもいる虫だよ。危険を感じると丸くなるので団子虫と呼ばれている」
深山文夫は恵子に説明する。紫色の豆のような虫である。美しくもない。良く視ると何匹もうごめいているようだ。恵子は気持ち悪くて思わず眉間に皺を寄せた。
「坊やはこれがかわいいの」
「知らないよ」
この変な虫のようにこの子供もかわいくない、と恵子は思った。
「とても大切な虫なのだ。どんな生き物の死骸でも食い、処理して大地に戻すのだから。シデ虫、とも呼ばれている」
文夫は物知りで、なんでも教えてくれる。文夫を気に入っている理由のひとつだった。
車に乗り込むと、恵子は子供のことをすぐに忘れてしまった。
「この辺りは、よほど風が強いのだね」と、文夫は路傍の一本の松ノ木を指しながら恵子に言った。
大きな松ノ木の幹が真ん中から折れている。ざっくりと割られて、幹の白い内部をさらけ出している。
「あんなに大きな木がへし折られるものかしら」
眼に見えない荒々しさを想像して恵子は不安な気持ちに襲われた。いつものことだけれど、この土地を訪れると、視るもの、聞くもの全て妹の静香に繋がるのだ。静香から逃れることは出来ない。時には優美に、時には不安と恐ろしさに彩られた想念に囚われ続けるのだった。
三
美しいけれど悲愁が漂う光景を目にする。
遠くに見える農家。家の前の田んぼ。の青々とした中に行列が出来ている。人影は黒一色だった。気がつくと黒塗りの車の影も見える。
葬儀が行われているらしかった。今、死者を送り出そうとしているのだ。
恵子の視線の先に文夫は気がついたけれど、黙っていた。恵子も目にしている光景を語ることはなかった。文夫は恵子の心に触れてはいけないと思った。
いつも暖かい季節に訪れているためか、牧場は観光客で賑わっている。
「随分賑やかだね」と、文夫は言った。
「この季節はいつもこうなのよ」と、恵子は周囲を見回しながら言った。恵子の視線は気付かないうちに何かを探す視線になっている。無意識に静香を探しているのか。文夫はあの時も、このように人が多かったのか、と考えていた。子供連れの家族や、自分達と同じような若いカップルが多い。
文夫は目の前の小さな女の子に気付く。静香のことがあるので、自然に目が行ってしまうのだ。文夫は静香のことは知らない。けれど、恵子の子供のころを想像する。女の子は人形を小脇に抱えている。フランス人形だ。ぽっかりと見開いた目が美しかった。それ以上に何か怖いようにも思えた。
「恵子。お腹すいていないかい」と、文夫は食事に誘った。
「レストランが幾つもあるようだけれど」
牧場の敷地内には、バーベキュー専門のレストランや、その他二棟の建物があった。
「あっちが雰囲気は良いわよ。古民家風なの。暖炉もあるし、農機具がインテリアとして飾られたりしているの」と、恵子は文夫に説明した。
ふたりはテーブルにつく。
恵子が美味しいと勧めた、ハンバーグを二皿頼んだ。ワインのボトルも注文した。
ハンバーグは濃い獣の匂いがした。文夫にはそれが美味しく感じられた。ワインの酔いで勇気が出てきたので、失踪事件についてもっと話そうと思った。恵子が自分を誘ったのも、事件を話したかったからだ。十年以前に失踪した妹を探しつづけて、毎年その日に足を運ぶ恵子の心情を痛々しく感じた。恵子は逃れたがっている。逃れられないで居る。何時までも、事件に囚われている。もう居るはずの無い妹を捜し求めて、毎年足を運んでいる。まるで、死者の墓を訪れるように。
「十年前。静香ちゃんを見失ったのは、さっき通った店の前だったね」
「店の前にソフトクリームを売っている、カウンターがあって」
「ソフトクリームを買っている間に」
「ほんの短い時間。ソフトクリームをふたつ受け取って、振り向いたら。後ろに居るはずの静香がいないの」
「静香ちゃんは何をしていたの」
「私が買うのを見ながら待っていたわ。確かに」
「じゃ。ほんの一二分のことだね」
「信じられなかった。透明に消えてなくなったような気がした」
「周りには人が大勢いたのかい。今日のように」
「居たわ。たくさん」
「後で思い出して、変な雰囲気の人は居なかったかい。誰かに見られているといった風に感じたことは」
「思い出そうとしたわ。でも、駄目ね」
文夫は静香が誘拐されたに違いないと思った。七歳の女の子をどうやって大勢の人前から連れ去ることが出来たか。無理に連れ去ろうとすれば、悲鳴など声を上げるだろう。話し掛けて一二分で連れ去ることが出来るだろうか。
(お嬢ちゃん。お手洗いはどこか知らないかな)(知っているわ。あっちよ)
(すまないけれど。案内してくれないかな)(いいわ。ついていらっしゃい)
文夫は誘拐犯と静香のこんな会話を想像した。想像を恵子に言うことはしなかった。残酷すぎる。恵子も想像したことだろう。
犯人はいきなり、幼い静香の口をふさぎ、トイレに連れ込み、薬をかがせて眠らせ大人しくさせる。犯人は静香を背負い、或いは抱きかかえて、トイレから出る。周りの人々は、ふたりを見ても、遊びつかれて眠った子供を連れた、親子としか思わない。犯人は車で静香を運び去る。そのころ二つのアイスクリームを手にした、姉の恵子は静香を探し回っている。
「静香は誘拐されたのよ。誰かは知らないけれど」
「そうかもしれないな」
文夫は自分の想像を指摘されたように感じて、うろたえた。絶望を確認したくは無かった。言葉を濁した。
「でも、私には静香がこの牧場に居る気がしてしかたないの」
文夫は不吉な想像に震えを覚えた。恵子は妹の静香の骸を探しに来ているのか。それとも、奇跡に出会うために牧場に足を運んでいるのか。
「今年もやろうと思っているわ」
四
カラスだと見まちがえている。農業用の黒いビニールである。ビニールハウスに使われるものだ。畑のあちらこちらに、芽吹いた野菜を保護し、成長を助けるために、それでおおうのだ。
それらが風などで千切れて、空に舞い上がる。木の枝に引っかかり絡みつく。ビニールの切れ端が黒い襤褸となり風に吹かれる。遠くから見るとカラスの羽ばたきと錯覚する。不吉なカラス。
恵子はこの牧場に毎年来て、行っていると言うこととは何なのか、文夫には想像がつかなかった。同時に、恵子が感傷的な思いだけで、牧場に来ているのではないらしいことに、心強さを感じた。内容がわからないけれども。
「牧場の関係者に聞いているの。何か変わったことが無いか」
「どんなことを聞いているの」
「最近何か変わったことが無かったか。毎年来ている客は居ないか。何でもいいの話を聞くのよ」
「全員にかい」
「それは出来ないわ。一日二日だけだもの」
「今年も、それを」
「ええ。今年は貴方が居てくれるから、嬉しいわ」
文夫は恵子が自分と宿に泊まってくれることを歓んだ。愛されていると感じた。恵子がどのように牧場関係者に何を聞きだすのか、興味もあった。恵子はこれまでに何回もおこなっているのだ。
牧場の敷地内にある、旅館の部屋は古いけれど文夫は気に入った。建具や家具は一昔前の雰囲気である。少し陰気な気がしたけれど、恋人の恵子と一緒なら落ち着いて、楽しい濃密な空間だと感じた。
この宿に恵子は十年も毎年宿泊しているのだ。妹の静香の面影と悲しみを抱いて暗い夜を幾度も過ごしているのだ。文夫は恵子が本当に優しい女なのだと感じた。愛しかった。
「蒲団で眠るなんて、久しぶりだな」
食事どころから戻ってみると、部屋には蒲団が二組用意されていた。ぴったりと並んで用意されている蒲団を見て、文夫は照れくささを感じた。明るい調子で声をあげるのだった。恵子も静かにはにかんでいた。
暗く辛い旅のはずだけれど、文夫にも恵子にとっても、嬉しい夜だった。おさない妹の静香の悲痛な思い出の場所だとしても、十年の時間が、おぼろなものに変えているようでもあった。ふたりの若者は抱き合う。お互いの肉体の温かさは辛い過去の反転の様でもあった。
文夫の胸に頬を乗せていた恵子は夢から覚めたように言うのだった。
「よかった。もうあまり、苦しくは無いの」
「治ったのかい」
「まだ、悲しくて、辛い気持ちがあるけれど、今までとは違うわ」
「恵子の気持ちが知りたいよ」
「怖くないの、淋しくないの。不思議ね。何だかあの子がそばに居るような気がする」
「愛していたのだね。本当に」
「そうよ。かわいかったもの。とっても好きだった」
恵子は泣いていた。裸の文夫の胸が濡れた。
恵子はこの十年間、一度も泣かなかったろう、と文夫は思った。
五
文夫は目を覚ました。まだ時間は夜明けまでには間がある。カーテンの隙間から外を覗いても真っ暗である。恵子が隣で静かな寝息を立てている。
文夫はそのまま目が冴えて眠れなかった。恵子を揺り起こすのもかわいそうに思った。疲れているのだ。自分にとってもこの場所は特別な場所になるのだろうか。文夫は静かな牧場を見たくなった。
そっと、蒲団を抜け出して、部屋の外に出た。ひんやりとした空気が身を包んだ。人のけはいは無い。
牧場の建物は暗闇の中に巨大な家畜のようにうずくまっていた。しばらく柵にもたれてぼんやりしていたようだった。空がスミレ色に明るくなり、周りの風景が影絵のように浮かび上がってくる。微かに草と土と獣の臭いが風の中に混じっている。草露が文夫の足元をぬらす。
「おはようございます」と、牧場の従業員らしい中年の女が文夫に声をかける。
文夫は恵子の言葉を思い出す。中年の女にあのことを聞いてみようと思う。
「牧場の朝は早いのですね」
「そうですよ。お客さんも早起きですね」と、女は愛想よく応えた。
「ここで働いて、長いのですか」と、文夫は尋ねた。
「若い頃からだから、何年になるかしら」
女は屈託なく明るい笑いを見せた。
「十年前に、この牧場で行方不明になった女の子が居たのを覚えていますか」
「覚えているよ。大変な事件だったから。未解決だけれど」
「その頃働いていた人は、今もこの牧場に居るのでしょうか」
「辞めていった人もいるわね。若い人で最近入っている人もいるし」
「奥さんは、あの事件について何か知りませんか」
「さあ。当時は皆、警察に事情を聞かれたりしたけれど、私は居なくなった子供も知らないしね」
「警察以外に話したことがありますか」
「ないわね。誘拐事件じゃないの。気の毒に、未解決のようだけれど」
恵子と文夫は朝食を取るためレストランに下りていった。
「さっき、女の人から話を聞いたよ」と、文夫は言った。
「どんな話」
恵子の目は熱っぽく輝いていた。文夫はその思いつめた視線にたじろぐ。恵子を失望させるのではないかと不安になった。たいした話ではないかもしれないのだ。
「十年前に勤めていた、男性が最近此処に戻ってきたらしい。また、働いていると言っていた」
「誰なの」
「詳しくは聞けなかったけれど、十年前に辞めた男らしい。あの当時のことを何か覚えているかもしれない」
恵子は胸に手を当てた。激しく動悸しているのかもしれない。
「その人に逢ってみたいわ」
恵子は食事も上の空らしかった。食事中も文夫に甘えることも無かった。文夫は自分の言葉を後悔した。恵子に知らせるべきではなかったか。
食事を終えるとふたりは文夫が早朝に会った牧場の従業員の女を探し回った。女は別のレストランで働いていた。休日空けで、レストランは空いていた。
男は暗い感じがした。四十歳は過ぎているだろう。痩せていて、背丈もそれほど高くなかった。
家畜小屋で羊の世話をしていた。羊小屋には朝日が差し込んでいて、明るかった。羊の臭いが胸を突いた。十数頭の羊達が身を寄せ合うように小屋の隅に固まっている。中の何匹かが、時々泣き声を挙げた。強く何かを訴えるような泣き声は、悲痛な何かを思い起こさせた。
「十年前にこの牧場に居たということですが」
文夫は恵子の代わりに男に質問した。恵子の表情は硬くなっていた。じっと男を見詰めている。男はそんな恵子の視線を気にする風でもない。
「十年になるかな。働いていたよ」
「その頃、この牧場で女の子が行方不明になった事件がありました。その事件を覚えていますか」
「いや。知らないな。私が辞めた後のことじゃないか。そんな事は無かったと思うが」
男はゆっくりとした口調で、はっきりとそう言った。
「その頃、牧場の仕事をやめて、また、十年後に戻ってこられたのですね」
「ああ、色々あってね」と、男は曖昧な表情を作った。
「辞められたのは何年の何月ですか。出来るだけ正確に教えてください」
「そんなことがあなたたちに何か関係があるのかな」
「女の子の失踪事件について知りたいのです」
「さっきも言ったが、覚えていない。もしも、そんなことがあったとしたら、私がここを離れてからだろう」
「この人は、その時、失踪した女の子の姉なのです」
文夫はそう言うと、男は改めて恵子を見た。曖昧な表情に別のものが走ったようだ。興味が湧いたのか。
六
温泉がいたるところから湧き出しているこの地方では、それに伴ってガスが噴出している個所がいくつかある。有害な硫黄のガスが周囲の草木を枯らし、岩肌が剥き出しになっている。ガスの腐食のためか岩は白っぽい。まるで多くの骨を積み上げたようにも見える。
恵子は神社でおみくじを引いた。大吉と出た。牧場の近くにある「地獄谷」に二人は来ていた。恵子は思いつめた表情である。文夫は気が付いていたけれど、話し掛けなかった。おみくじが良いことを喜んで見せた。恵子の気分を変えてやりたかった。毎年の「行事」は終わったのだ。恵子は来年も、次の年もこの地を訪れるだろう。これからはずっと何時までも、ふたりでこの地を訪れよう、と文夫は思うのだった。それを今、恵子に言ってもいいな、と文夫は思う。ふたりは一生はなれない。
「あの男は嘘をついているかもしれない」
恵子は独り言のように、突然言い出した。
「あまり良い人生ではないようだ。昔を思い出すのが厭なのだろう」
「静香が失踪した事件を知っているのよ。あの時は牧場にいた」
「どうして、そう思うのだ」
「そう感じるの」
「まさかあの男が犯人だとでも言うのか」
「分からないわ。でも、嘘を言っているように思うの」
「しかし、もしも、そうならもうこの土地には戻ってこないだろう。危険じゃないか。十年しか経っていないし」
「もしも、あの男が静香を誘拐して、殺したとしたら、牧場か、牧場の近くに静香の遺体を隠しているわ。それが気になって、戻ってきたのよ。その場所がまだ安全かどうか確かめに戻ってきたのよ」
「まったく考えられないことではないけれど」
文夫はそう言うしかなかった。牧場の草地の下に少女が眠っている。家畜小屋のしたの地面に少女の骨が眠っている。恵子は十年もの長い間、そんなことを想像していたのか。幼い妹の遺骨が明るい陽射しが降り注ぐ牧草地に、冷たい雨が降りしきる牧草地に、眠っている、と思いつめてきたのか。恵子は自分を責めつづけ、妹に謝りつづけて生きてきた。
冷たくなった、少女の死体に土をかぶせてゆく男の姿を想像した。もくもくと羊の世話をしていたあの男が美しい少女をどのように扱ったものか。どのように殺害して、遺体を何処に隠したものか。文夫は恵子の思いを想像して、体が震えてくるようだった。
「何か方法があるはずだ」と、文夫は言った。
「どんなこと」
「万一、あの男が犯人だとしたら、何とか白状させる方法だよ」
文夫に明確な考えがあるわけではなかった。しかし、あの男だとしたら、あの男は脅えているはずだ。あてずっぽうに脅してみるのも方法だ。
「もう一度、牧場に戻ってみよう」
田舎道を牧場に向かって、ふたりは歩き始めた。田んぼには青々とした深い静けさが広がっていた。この自然の中のどこかに静香はいるのだ。ふたりは手を繋ぎゆっくりと進んだ。一歩一歩が静に近づいてゆく歩みのようだった。十年なんて、ついさっきのことのように思えた。道端で、虫を持った少年に出会った。牧場で人形を抱えた女の子が居た。愛らしい子供達が無事、何事もなく、成長してくれればいいが。静香のような不幸に逢わずに、一日一日を生きて欲しい。
風が流れた。文夫も恵子も同時に顔を上げた。周りの風景を改めて眺める。陽射しが影って、微かに風が強くなっているようだ。
風の中に歌が聞こえた気がした。
(了)