一
ぼくは心をきめた。ぼくは文学のために一生をかける。
文学の仕事は高くそして大きい。それは男の一生をかけるにあたひする。いな、一生をかけないかぎり、文学は――およそ文学の名にあたひしうるものは、けつして生まれない。
(ここでぼくは、はでな宣言文章をかかうとしてゐるのではない。作家としての再出発を行ふにあたつて、小さなおぼえ書をつくらうとしてゐるにすぎない。だから、いふことはおのづから単純である。それは心の複雑な、大人びた同時代人の微笑をさそふものであるかもしれない。しかし、「確信によつてうらづけられた単純なことば」のみを、ぼくはいまこの上なくあいしてゐる。そのことばのみが、まことの詩であり、ただ一つの文学であることも、知つてゐるつもりである。)
ながいあひだ、ぼくは、プロレタリア作家の一人として、「政治」と「文学」といふ二つのポールのあひだをぐらついてゐた。もちろん、このぐらつきは、頭の中だけで行はれた。それを積極的な行動としてあらはしたことはなかつた。すなはち、つねに作家としてしか行動してこなかつた。しかも、頭の中では、文学を政治にしたがはせたり、政治から文学をきりはなしたり、しかし要するに多くの場合、政治の名において文学をおしさげること、自ら作家でありながら作家としての自分を卑下すること、に終始してきた。
このぐらつきと自卑の原因を、ぼくはこれまで、「時勢」と「良心」のせゐだと考へてゐた。事物の関係がつねに安定せず、つねに転変する「過渡期」のせゐであり、またプロレタリアートに忠実であらうとするインテリゲンチヤの「良心」のせゐだと解釈してゐた。しかし、いまになつてわかる――原因を第二義的なところにもとめてはならない――ぐらつきと自卑の原因は、ぼくが文学をただしく理解してゐなかつたといふ、明白なそして根本的な事実の中にあつたのだ。
たとへば、ぼくは作家と記者の区別をさへ、はつきりとは知つてゐなかつた。
もう五六年もまへのはなしである。蔵原惟人と一しよにテルノフスカヤ女史をたづねたことがあつた。女史は千駄ヶ谷の小さい露路のおくの家にゐて、そのころの「文藝戦線」同人の作品をほんやくしてゐた。ぼくの作品もその中に入つてゐたので、はなしのついでに、女史はいろいろと、ぼくについての批評をした。その中に次のやうなことばがあつた。
「『林檎』『繭』『絵のない絵本』などは、まづ文学になつてゐます。しかし『公園の媾曳』『エテイケツト』などは文学でありません。ジアーナリスト――記者のかくものです。作家はけつして記者のかくやうなものをかいてはいけません。」
ぼくはなんの意味だかわからなかつた。わからなかつたから、かんたんに女史のいふことをけいべつしてしまつた――心の青いくせに、ひたすらに傲慢なものの手つとり早い逃げみちとして。ぼくはひそかに思つたのだ。
「この婦人共産党員は、出身が労働者だといふのに、なんといふ古い文学観にとらはれてゐるのだらう? かの女は、すくなくとも文学については、ロシアのあたらしい教化をうけてゐないのではなからうか? それとも、ロシアの一部には旧時代のかすとして、まだこんな古ぼけた文学観がのこつてゐるのであらうか?――新時代の作家は記者でたくさんだ! とくにプロレタリア作家は、闘争の従軍記者であり、生活のすばしこい報告者でなければならない。ぼくらはむしろよき記者であることに誇りと満足を見出すべきではないか!」
いまになつて――三十歳になつてはじめて、この考へがたいへんなまちがひであつたことに気がついて、冷汗をかんじてゐる。テルノフスカヤは、サヴエート・ロシアのすぐれた批評家・鑑賞者たちとひとしく、文学について、まことにたしかな理解をもつてゐた。まちがつたのは、ぼくであつた。
「作家はけつして記者であつてはならない」といふこのことばの意味を、さらにいつさうはつきりさせてくれたのは、つい近ごろよんだ、バルザツクとゾラについてのエンゲルスの比較であつた。「プロレタリア文学」と「思想」の七月号に発表された、リアリズムを論じたエンゲルスの手紙の中に、次のやうな一句がある。
「……わたしはバルザツクを、過去現在未来のあらゆるゾラよりも、偉大なリアリステイツクな藝術家だと考へてゐます。…」
バルザツクとゾラを、いまのぼくは、たいして知つてゐるわけでない。しかし、知るかぎりの二人の作家について、しづかに思ひかへしてみるとき、エンゲルスのこの断定から、ふかい文学的教示をうけとる。
これはまづ文学史の常識をやぶることばである。フランスではすでに、これに似たことが、たれかによつていはれてゐるのではないかといふ気がするが、すくなくとも日本におけるフランス文学史の常識としては、バルザツクはロマンテイシズム末派・リアリズム前派の作家であり、真のリアリズムはゾラとその友人作家たちによつて花さいたことになつてゐる。リアリズムをかたるのには、まづゾラを最高の場所におかなければならぬことになつてゐる。
だからエンゲルスのはげしい断定は、文学史的常識――すくなくともぼくのそれ――をやぶつてくれた。常識のめがねをはづして、あたらしくこの二人の作家をながめなほしたとき、ぼくは、バルザツクがより多く作家的な作家であり、ゾラが、その偉大さにもかゝはらず、より多く記者的な作家であることに気がついた。
ここであらためて、バルザツクの作家性とゾラの記者性を説明する必要があるであらうか? だまつて書架から「従妹ベツト」と「金」とをとつて、読者の机の上におくことで十分なのではなからうか?――心をもつて、この二つの作品をよみとほす人は、記者性と作家性の差異を、たやすくよみとることができるであらうから。
だが念のために、一つのたとへばなしをつくらう。
もえてゐる熔鉱炉があり、うごいてゐるトラツクがある。トラツクは鉱石をはこび、熔鉱炉は鉱石をとかす。
トラツクの任務は、その中に○・五パアセントの金をふくむ鉱石を、できるだけ多く、できるだけ敏速にはこぶことである。多く、そして早くはこべばいいのである。むろん、まるで金をふくんでゐない鉱石を、まちがつてはこんだトラツクは、まぬけだといはれるであらう。しかし、すくなくとも金をふくんだ石をはこびさへすれば、それはよきトラツクであり、それで責任ははてるのである。
しかし熔鉱炉は鉱石をとかす。胸の中の、地獄のやうにきびしい火熱によつて、山なす鉱石をとかし、九十九パアセントをすて、○・五パアセントをあつめ、かがやきわたる純金の流れとして、はきだす。山なす鉱石があつても、熔鉱炉がなければ、人は純金を手にすることはできない。また、そのうかつさの故に、金をふくむ鉱石の価値を知らず、いたづらに鉱石のきたなさと重さをなげいてゐた人々も、熔鉱炉の口からあふれでるかがやく流れを見るとき、例外なしにそのうつくしさをたたへ、鉱石の山をみなほし、そのよごれと重さをなげくのをやめ、自ら発掘のためのつるばしをとりあげることさへするのである。
トラツクが記者であり、熔鉱炉が作家であり、鉱石とは人生、純金とは本質性でありリアリテイである、と説明するのはよけいであらう。
作家の任務は、いかにひろく材料をあつめるかといふ点にあるのではない。いかに完全にそれを熔かして、本質性とリアリテイにみちたあたらしい世界を創造するかといふ点にある。
明快をこのむ比較者は、ゾラをトラツクにバルザツクを熔鉱炉にたとへてもいい。しかし、ゾラにもまた作家としての敬意をもつぼくは、むしろ、ゾラをよりひくい熱度をもつた熔鉱炉に、バルザツクをよりたかい熱度をもつたそれにたとへたい。「山のごとき材料」「統計のごときノート」を、創作の前段的事業として腹の中にとりいれる点では、ゾラの方がむしろまさつてゐたであらう。しかしその熱度のひくさの故に、かれは多くのかすを、またはなまな鉱石を、とかしきれないままにはきだした。だから、正しく文学をかんじうる人々は、ゾラの作品の中に、バルザツクのそれにくらべて、より多くの新聞記事をみる。
二
作家はトラツクであつてはならない。うちにもえさかる心熱をひそめて、一切をとかし、その本質を昇華させる熔鉱炉であらねばならぬ。ソヴエート・ロシアの批評家たちが、プロレタリア作家に要求する、
「作家は前衛の眼をもつて事物をながめなければならない。」
「作家はつねに時代の最高文化水準を代表しなければならない――ゲーテのごとく、トルストイのごとく。」
といふことばもまた、作家が単なる記者・報告者であつてはならないこと――現象の底に入つて、俗眼のみおとす、リアリテイの世界を大衆のまへに啓示するものでなければならないことをおしへることばにほかならぬ。
「リアリストにして、もしかれが藝術家なら、人生の平凡な写真をわれわれに示すことなく、現実そのものよりもつと完全な、もつと迫るやうな、もつと納得できるやうな人生の幻影をわれわれにあたへるやうにつとめるであらう。」
これは、人も知るとほり、モオパツサンの有名なことばである。有名であるだけでなく、文学の任務について、たしかなまちがひのないことばである。これと「藝術方法についての感想」の中に蔵原惟人によつてひかれたベリンスキーのことば、
「才能ある画家によつてカンワ゛スの上に創造された風景は自然におけるあらゆる絵画的な眺望よりもすぐれてゐる。」
「……科学と藝術における現実は、現実そのものにおけるよりも現実に似てゐる……」
「……現実が藝術家をひきまはすのでなくて、藝術家が現実の中に自己の理想をみちびき人れ、それにしたがつて現実を改造するのである。……」
さらに、マルクス主義者として、ベリンスキーを正しく訂正する蔵原惟人の
「……藝術家はその眼から見て、その現象に偶然的なものと見えるものを除き、それに固有なものと見えるものをひきだして、それによつて新しい世界を創造する。……」
といふことばを考へあはせれば、エンゲルスのはげしい比較の意味が、もつとはつきりするであらう。すなはち、ゾラにくらべると、バルザツクはより多く創造者であり、バルザツクにくらべると、ゾラはより多く報告者であつた。そして、報告はけつして文学でなく、記者はけつして作家ではない。
しかし、さういふことによつて、ぼくはゾラを「平凡な写真師」として、不当におとしめようとするのではない。ぼくがもし、バルザツクの肩車にのつて、ゾラを小人あつかひにしたならば、それはあまりにも小憎らしいげいとうであらう。またもし、エンゲルスの権威をかりて、ゾラの文学史的光明を消さうとするなら、巨人を巨人としてみとめえない自らの盲目ぶりを告白することにならう。しかし、現在のぼくのまづしい鑑賞力によつても、かねてゾラの作品にばくぜんとした不満をいだき、バルザツクの作品に自ら説明しかねるはげしい熱中をもつてゐたことは事実である。
だから、一月ほどまへ、ゾラをしらべてゐるある若い研究家が
「ゾラは作家としてよりも文学運動の指導者・評論家としてえらかつた。かれの十一巻の評論集はあきらかにそれを示してゐる。かれの作品の中で、文学としてあげることのできるものは、まづ『居酒屋』くらゐなものであらう。」
といふ意味をいつてくれたときに、眼から最初のうろこがおちた気持がした。そしてエンゲルスの暗示は最後のうろこをおとしてくれた。作家は記者であつてはならないこと、プロレタリアートのすぐれた指導者たちは、作家にたいしてこのやうに高い精神の水準を要求してゐるといふこと、プロレタリアートの作家でありうるためには、ぼくらはゾラであつてもなほたりないといふこと――この自覚はぼくをひきしめる。過去をはづかしくふりかへさせると同時に、一生を文学にさゝげるあたらしい覚悟をよびおこす。
三
作家と記者の区別さへ知らず、いな、心の幼さとからつぽさによつて、知らうにも知りえなかつたぼくが、しかも奇妙な自信と自己満足とをもつて、作家的任務を記者的任務におきかへ、従軍記者、事件報告者、即興作者、通俗解説者こそが新時代のプロレタリア作家であると信じこんでゐるとき、そこにおこつたものはなんであつたか?――作家としてのみじめな自己卑下であつた。
「文学は政治(すなはち階級の総体的利害)に従属せねばならぬ。」といふただしくまちがひのないことばを、きはめて小児的に理解して、「文学か政治か」などとみじめにぐらつくことによつて、ひどくこつけいな政治的誤謬におちいつたのである。ぼくは熔鉱炉を敵の手にわたして、トラツクにのつて逃げだしたのである――しかも自分では、それこそプロレタリア作家の正当な態度であると自信しながら。
これまでのぼくの作家としての醜体も根本の原因はここにあるのだ。あれをぼくのモダン・ボーイ性に帰することが、一部の批評家・読者の常識になつてゐるやうであるが、それはまちがひである。自ら記者・報告者であると考へ、文学そのものを第二義的にしか理解しえず、したがつて文学にたいしてつねにイージイ・ゴーイングであつたことが一切の原因だつたのである。
しかし、もうぼくは記者ではない。自ら放棄した熔鉱炉をたてなほす。もうぐらつかない。すべての自卑をすてる。
一生をかける。――そして一生とはなんであらうか? すぎさつた日が一生であらうか? これからくる日が一生であらうか? どちらでもない。ぼくの一生は今日一日をほかにしてない。ぼくは今日一日を、生きてゐる日の一日一日を、文学のためにかける。
ぼくは毎日だまつて、八時間だけ机のまへにすわりとほす。それがもう三月つづいた。一生つづける決心である。
今かいてゐるのは小説「青年」である。作家としての最初の出発。記者的要素を全力をあげてのぞきさること。
「青年」は、ぼくの血と肉をすひとる。ぼくは「青年」をかいてゐるときには毎日やせ、ほかのものをかきはじめると、またふとる。「青年」においては、、ぼくはまづ、作家として活動するまへに、資料蒐集家として、考証家として、風俗史家として活動する。すぐれた歴史家たちの概括や結論はもちろんたふとい。しかし、作家は人のあたへてくれた概括や結論の上に作品をきづくことはできない。自分自身の資料を開拓しなければならない。
しかし、この資料開拓にあたつて、作家がややもすればおちいるあやまりは、それが創作の前段的仕事にすぎないことをわすれ、歴史家的考証家的興味にとらはれて歴史小説をかくつもりで、歴史そのものをかいてしまふことである。森鷗外の歴史小説がそのいい例だ。かれのもつとも歴史小説的な「高瀬舟」にしても、純粋な考証文献としての「伊沢蘭軒」や「渋江抽斎」と大きなへだたりはない。鷗外はリアリテイにもつとも近いつもりで、もつともとほい作品をかいてしまつたのである。
この逆をゆくものは、菊池寛、芥川龍之介などの作品に代表される歴史小説であらう。これは社会的時代的背景から抽象した個々の事象に、作家が「現代人的」解釈を加へたもの、現代に過去の衣をきせたアレゴリイの一種であつて、根本的な歴史解釈――歴史のリアリテイとははるかにとほい。……そのカリカチユアライズされたものが、すなはち大衆文藝家諸氏の「歴史小説」にちがひなからう。
この二つの非歴史的歴史小説の型からぬけでようとしてゐるものは、島崎藤村の「夜明け前」だ。そして、それは、すくなくとも、菊池・芥川的アレゴリイからは、完全にぬけきつてゐる。しかし、資料蒐集家・歴史学者にひきづられてゐる点では、まだまだだといふ気がする。素材におされて、藤村は作家としての十分に自由な創造的活動をさまたげられてゐる。
「夜明け前」の読者の九〇パアセントまでは、あの作品のよみにくさをなげく。まつたくよみにくい。そして、このよみにくさは、作者自身の責任だとぼくはあへていひたい。
(「夜明け前」への讃歌はすでに小論「文学のために」の中で、十分にうたひつくした。こゝでは不遜をかへりみず、あへてその欠点のみをとりあげる。)
「夜明け前」の藤村は、けつしていい熔鉱炉ではなかつた。炉口からほとばしりでるものが、一いろの火のながれにとかされてゐない。注意ぶかい読者は、あのみがきあげられた七宝のやうな表面をすかして、とかしきれない鉱石の破片をじつにおびただしく発見する。
また、わざわざ「夜明け前」をよまなくとも、ありきたりの明治維新史をよめばたくさんなことがらが、あたかも小説であるかのごとくならべられてもゐる。歴史小説でなくて、歴史そのものである部分が多すぎるのだ。それが読者をこの上なくつからせる。
極端をおそれずにいへば、ぼくはあの作品に、文学的興味よりも、資料的興味をかんじたくらひである。
トルストイの「戦争と平和」は、人もしつてゐるとほり、そのある部分は歴史家の根本資料としてもみとめられてゐる。かれが、その社会的地位の便宜を利用して、普通の歴史家が手に入れえない貴族や旧家に秘められてゐる文献をあつめ、それを作品の中にもりこんだからである。
藤村が、かれの近親者の残しためづらしい事蹟と文献によつて、いままでの維新史家がみおとしてゐた「平田篤胤死後の門人」の運動、すなはち革命化した農民上層の全国的組織の活動を発見し、えがきだしたことは、このトルストイの歴史家的貢献と共通するものがある。
しかし、「戦争と平和」の偉大さが、そのやうな資料的方面にあるのではなく、その作者が、世にも偉大な熔鉱炉であつた点にあることは、もうくりかへさなくともいいであらう。(このことは歴史小説のみならず、現代をあつかつた小説にも――いな、文学全体にあてはまる。長篇たると短篇たるとをとふことなしに。)
「青年」において、ぼくはこれら一切の欠点から自分をまもることにつとめてゐる。非力なぼくがそれを十分に行ひうるか、どうかは、神のみが知る。しかしこの努力はどこまでも作家の義務である。
四
をはりに、小さな夢をかたらせてもらひたい。むろん夢ものがたりであるから、ややちぐはぐである。わらつてよまれてもかまはない。
ぼくはいまプロレタリア・ルネツサンスといふことを考へてゐる。
西鶴・近松の元禄時代に、最初のルネツサンスをむかへそこねた日本のブルジヨア文学は、つひに明治以後においても、ルネツサンスの名にあたひしうるものをもつことができなかつた。ヨーロツパのルネツサンスは、ギリシヤの文化的遺産と地中海を中心とする当時の世界市場の上に花さいた。しかし、日本のブルジヨア文学は、大唐・王朝文化(その本質においてギリシヤ文化におとらぬ文化的遺産)を背景にもつてゐながら、徳川幕府の鎖国制度によつて世界市場を足もとからさらはれたために、馬琴・一九・八文字屋本のあはれな化政度文学にまでちぢみこんだ。西鶴と近松とは、完全にわすれさられ、かれらがふたたび文学的に復活するためには、明治の二十年代三十年代をまたなければならなかつたのである。
ある人々は明治文学の創建者である「紅鷗露逍」らの少青年期の読書目録の中に、一冊の西鶴さへなかつたといつたら、おどろかないであらうか?――逆説をおそれずにいへば、明治創建期の文学は、外国文学のとりいれと、自国において一度花さいた元禄期リアリズム、すなはち西鶴一人におひつくことでせい一ぱいだつたのである。
しかも、明治の文学が、ようやく本来のブルジヨア・リアリズム・ムーヴメントとしての自然主義運動にまで発展しはじめたころには、ブルジヨアジー自身は、すでに革命的勢力たることをやめ、生れはじめた自然主義文学を、山県・桂官僚政府の攻撃のまへにさらして平然としてゐたのである。
日本の自然主義文学は、そのために、おさへられた小ブルジヨア・インテリゲンチヤの文学運動として、小さくまがつて畸型化してしまつた。
大正期に入って、ブルジヨアジーが、うなぎのやうにぬけ道をくぐつて政治的首位にのぼつたときには、日本の反資本主義的諸勢力は、すでにその第一歩をふみだしてゐた。
この一般的な反資本主義気分の上に花さいたのが、白樺派の文学である。それは貴族の没落した部分――主として公卿貴族とその友人たちを中心としておこり、当時の都会と農村のインテリゲンチヤの心をふかくとらへた。武者小路実篤の「人道主義」や空想的社会主義気分を理解するためには、ブルジヨアジイによつてめちやめちやにされた公卿貴族たちの生活とその反ブルジヨア気分を知らなければならない。(熱心な読者には、武者小路の自伝作品以外に、正親町季董の自伝や、入江たか子の自叙伝をよむことをおすすめしたい。)また白樺派末期におけるあの見事な混乱と解体――武者小路をはじめとして、志賀、有島、里見たちの作家がしめしたそれぞれ特色のある転向と自壊とを理解するためには、かれらの階級的基礎とプロレタリアートの勃興を頭にいれれば十分であらう。
このやうに、日本のブルジヨアジイは、つひに人と社会とを底の底からまきかへす真のルネツサンスをもつことなく、文化の促進者としての役割ををはつた。
それ以後は、まがりくねりながら、ぞろそろとプロレタリアートの側にちかづいてゆく、インテリゲンチヤのプロレタリア的文学運動がつゞいた。それとならんで、出版資本家の活動によつて「大衆文藝」のめざましく俗悪な進出があつた。日本ブルジヨアジイの最近の文学的功績! そのあひだにはさまれて、たえず黄色い汁や青い汁をはきだしてゐる「純文学」なるものもある。
これは自ら称するとほり「純文学」であつて、文学ではない。自分が出版資本にみはなされたことを、まるで文学の滅亡であるかのやうに考へて、亡ばうか亡びまいかとしきりに煩悶してゐるむじやきな「文学」である。
どの流れが日本のルネツサンスを完成するであらうか?
ぼくはいま、「日本プロレタリア作家同盟」の中ではたらいてゐる。
そして、この作家同盟が知識階級性をしだいにあらひおとして、プロレタリアートに組織の中心をうつし、このあたらしい文化の泉をふさぐ最初の石をとりのけたことを知つてゐる。――こたへはこの事実の中にある。
ぼくたちはがんばらねばならぬ。日本のルネツサンスはプロレタリア・ルネツサンスであり、文学のルネツサンスはプロレタリア文学に課題されてゐる。
これは、ぼくの夢である。しかし、ぼくはまた知つてゐる。努力はしばしば夢を現実にすることを。
(一九三二・七・三一)