暗愁

  

 なまぬるい不吉な風が彼の心に吹きはじめている。気づいたときにはもう抵抗する力は失せていた。

 ただ得体のしれぬ風に翻弄される。嘲笑される。

 なす術もなく彷徨さまよう。あるいは立ちつくしているのだった。

 ごったがえす駅の改札で。うるさいだけの街の雑踏のなかで。

 にぎわうショッピング・センターのフロアで。たむろする映画館のロビーで。

 無味無臭の風。ゆえに行き交う人々も無関心なのだ。

 誰が他人の心の中を理解できるだろう。無関心に罪はない。

 彼は他人に期待しない。自分にも期待できない人間なのだ。

 ごく親しい人が目前にいたとしたらどうだろう。やはり彼の状況はかわることはあるまい。

 彼は重病だ。そう考えていないから余計に重病だ。

 風は彼を盲人にする。聾唖者にする。

 彼の芯が容赦なくもちさられる。彼はみっともなく浮遊する。

 観念的言いぐさではない。じっさい足が地につかないのだ。

 その風を「淋しさ」と名付けてみた。けれどもそれだったら毎度のことだ。

 万人のことだ。「淋しさ」に襲われない人間がはたしているだろうか。

 「感傷」と名付けてみた。これも右に同じ。

 それに甘さも不足している。せめて甘さがあれば縋れる。

 いろいろ名付けてみたがしっくりこない。だんだん焦立ってくる。

 妥当な言い方がみつからないと困る。いっそう翻弄されてしまう。

 かつてうつ病の友人を馬鹿にしたことがあった。馬鹿にした者には馬鹿にされる番が来る。

 あるとき本をめくっていた。ごく若いころに読んだ本だった。

 こんなときは本も読めない。字面をながめるだけだ。

 すると「暗愁」という文字が浮かびあがってきた。彼の辞書にはない語。

 彼は手前勝手にうなずいた。これがもっとも近いかもしれない。

 よしよし。なにがよしよしだ。

 言い方がみつかっても根本治療ではない。花より団子、言葉より薬だ。

 特効薬があれば苦労はしない。だがおかげで焦立ちはなくなった。

 「暗愁」があるなら「明愁」もあるのだろうか。なんとか「明愁」にまでもっていければと祈願する。

 何に祈るのか。だれに願うのか。

 風吹き乱れるあの森にか。風吹き荒ぶわが心にか。

 それとも神とびたい得体のしれぬ風そのものにか。それとも。

 無念ながら彼にはわかっていた。そう簡単には元にもどらない。

 これから一年間つづくのだ。否応なくつづくのだ。

 なまぬるい不吉な風とのつきあい。「暗愁」との黙契。

 十年前もそうだった。彼が四十歳のとき。

 二十年前もそうだった。彼が三十歳のとき。

 節目の歳なのは偶然なのだろうか。それとも。

 三度目の「暗愁」。前の二度よりはましかもしれない。

 すくなくとも言い方がみつかっただけでも。「暗愁よ」と呼びかけることができる。

 それに経験がある。経験者は語れるからだ。

 

  

 

 彼の母が死んだのは二十年前だ。自殺だった。

 彼の妹の婚約解消。それが発端だった。

 妹の相手は或る新興宗教の信者だった。それを丸一年間隠していた。

 結納がすんでから言い出した。「信者になってくれなければ結婚しない」と。

 妹は即座に承知しようと考えた。式の日取りも決まっていたのだから。

 それに男は性格も顔もわるくなかった。一流といわれる企業の社員でもある。

 妹の方は適齢期をすぎていると思っている。だから見合いをしたのだ。

 けれども話合いのなかで知らされたことがあった。男は隠し事はしても嘘はつかない。

 男はかつてその姉と近親相姦だった。男は姉の強い命令で発言させられたのだった。

 妹は即答をさけ彼に相談した。彼は知っていることを告げる他はなかった。

 その教団はひどく評判が悪かった。教祖は面相からしてサギ師だった。

 だまして金品を調達することなど序の口。「さらう・おかす・ころす」という噂すらたっていた。

 「噂はあくまで噂だ」と彼は言った。「俺自身も悪い噂で弱っている」

 妹は熟慮の末に婚約者にこう回答した。「結婚後に時間をかけて入信します」

 相手は熟慮せず婚約解消を告知した。姉にはさからえなかったのだ。

 姉は激しくこう叫んだとのこと。「あたしとあの女とどっちが大事なの!」

 さっぱりした性格の妹はあきらめた。けれども母はちがった。

 般若の顔になって激怒した。「侮辱された」と吐いて悲嘆した。

 母は見栄っ張りだった。生活が苦しいときでも美食家だった。

 母はプライドが高かった。「武家の出」が最大の自慢だった。

 彼が嫌いつづけた母の性格。それがわざわいした。

 激怒と悲嘆がかわるがわるつづいた。そして十日後に気がふれた。

 病状は一進一退。よい日はいつものほがらかな母だった。

 悪い日はだまりこくっている。たまに口をひらくと「死んでやる!」と叫んだ。

 そのうちやることもおかしくなった。くりかえし同じことをする。

 たとえば洗濯物。一度ほしたものをまた洗う。

 またほしてはまた洗う。注意するまで何度もやっている。

 たとえば料理。つくって皿に盛ったものをまた鍋にもどす。

 くりかえし火にかける。焦げた煮物や炭になった魚肉を食べることになる。

 こういう状態が約半年続いた。妹は母の世話で疲れ切ってしまった。

 何度精神病院にあずけようと考えたか。しかしその都度母は見事に正気を装った。

 もちなおしたと思われた春の或る日。母は本当に自殺してしまった。

 家から1キロほどのところに荒川が流れている。泥色の水をはこぶ大河だ。

 子供のころ彼はここでよく遊んだ。魚釣りや粘土とりや石投げ。

 溺れて死にそうになったこともある。でも二十年後ここで母が死ぬとは思いもしなかった。

 母はコートを着たまま入水した。三日後に河川敷のゴルフ場のキャディーが発見した。

 キャディーは毛皮が浮いていると思った。高価そうなので手に入れたかったのだ。

 妹が母の死を連絡してきた。妹の電話の声はかぎりなく震えていた。

 母の遺体はいま赤羽警察署に安置されていると言う。彼は「わかった」とだけ言った。

 彼はスタッフとミィーティング中だった。それでスタッフに五分間の休憩を告げた。

 そのままトイレに駆け込んだ。便器をかかえて慟哭した。

 母は若々しく美しい人だった。そういう他に言い方はみつからない。

 六十歳をすぎていたけれど三十代にまちがわれた。皺も白髪も一本すら無かったのだ。

 まだ少女のころには淑女とまちがわれた。少女を勝ち取るために大の男が三人で殺し合いを演じた。

 母を裸にして検屍した係官は私にこう言った。「奥様はまちがいなく水死です」

 母は荒川ばたまで歩いていった。母は何を思っていたのだろう。

 このときの母の心にもあの風が吹いていたのだろうか。「暗愁」が。

 歩く母をたまたま見かけた近所の婦人はこう言った。「微笑んでいましたよ」

 そうだろう。「暗愁」にとりつかれると微笑むしかないのだ。

 

  

 

 それが発端だった。ジゴクの門。

 母の死から半年間以上。彼の心の中に風が吹いた。

 初めての体験。奇妙で恐るべき実感だった。

 風が吹き過ぎることは無いと思われた。金輪際。

 彼は来る日も来る日も彷徨さまよった。彷徨い疲れて立ちつくした。

 盲人のごとく。聾唖者のごとく。

 彼には盲導犬がいなかった。補聴器もなかった。

 また彼は道に迷った動物だった。ストレイ・シープ。

 わざわざ声をかけてくれた人がいた。やさしい婦人は母に似ていた。

 似ていただけだ。もう母はこの世の人ではないのだ。

 彼は無言で立ち去るのだった。雲水うんすいのごとく。

 親しみや気配りや心づかい。そういうものがかえって鬱陶しかった。

 母ではないが「死んでやる」か。死ぬより他に救われるすべはない。

 それは確信だった。それなのに彼は死を選ぶことをしなかった。

 どうして自殺しなかったのだろう。いまでも釈然としない。

 たぶん面倒くさかったのだ。いつでもできることなんかやるものではない。

 それに母の死に方を彼はうらんでいた。まるで俺が殺したようではないか。

 母の死の五日前。それは母と最後に会った日だ。

 母は彼にすがって泣きじゃくった。「帰らないで!」

 「また来るよ」。いいかげんに応えて彼はそそくさと帰った。

 いや帰ったのではない。いまさら嘘をついてなんになる。

 女を買いに行ったのだ。セックスだけの目的で向ったのだ。

 というよりもストレスの解消。真っ裸でやるスポーツ。

 あのとき母と一緒にいたらと考える。母は死なずにすんだろうか。

 おそらくそうだ。まちがいなくそうだ。

 母の心のなかに風が吹いている。その風は母を冥土へと運ぶ不吉な風だ。

 当時の彼には解らなかった。「暗愁」のオソロシサを。

 彼はそこに居続けなければならなかったのだ。吹き荒ぶ風を遮る壁となって。

 母が飛び込んだ丁度その時間。母の肺に荒川の水が吸いこまれた刻。

 またもや彼は買った女とラブ・ホテルにいた。女の肉の上を泳いでいた。

 かぎりない恥辱の遊泳。おのが半生に対する冒涜。

 女は五日前に買った女とはちがう。前のが砂袋だとしたら今度は蜜壺。

 彼は(彼らは)長い喜悦を味わった。蛇の交尾さながら。

 母の死を知った瞬間胸に去来した言葉は駄洒落にもならない。(俺が天国に行ったとき母も天国に行ったのだ!)

 はてさていつ風が過ぎ去ったのか。まったく覚えていない。

 気がつくと一年も経っていた。気がつくと仕事に追いまくられていた。

 恥辱も冒涜も忘れていた。「もう女は買うまい」という堅い決心も。

 少なくとも居直っていた。「これが人生だ」

 なにも以前と(母が死ぬ前と)変わらなかった。仕事も生活も考え方も。

 非情なくらい。そして無残なほどに。

 変わったのは妻が別の部屋で寝るようになったこと。それと哀しい想い出がひとつ増えたことだ。

 

  

 

 一度あることは二度ある。十年前にも同じ目にあった。

 目? つまり「暗愁」。

 彼は四十歳だった。不惑の歳。

 けれども惑ってばかりいた。愛人がいたのだ。

 妻は肝臓を患って入院中。心労のせいにちがいない。

 女は二十五歳で熱子といった。大手の印刷会社の営業だった。

 彼の仕事に関わり彼に関わった。きっかけは他愛もないことだ。

 熱子のふくらはぎを見た彼が発情したのだ。まるで久米の仙人だ。

 小声で誘うと熱子は静かにうなずいた。宝クジに当たった気分だった。

 「喫茶店で打ち合わせをする」と告げて会社を出た。すぐさま熱子とタクシーに乗った。

 まだ昼間だ。渋谷のラブ・ホテルはすいていた。

 ふだんの彼女は「冷子」という印象だった。地味な眼鏡をかけている。

 彼女はその眼鏡をそっと外した。予想外の美貌だった。

 抱き締めるとやはり「熱子」だった。熱子の性欲は彼をたじろがせた。

 ベッドの上で熱子は彼の教師だった。情熱的で大胆な教師。

 初めての相手にどうしてこうできるのだろう。おそらくなにかに自信があるのだろう。

 熱子は灯りを暗くしなかった。彼はきめの細かい白い肌を満喫した。

 性器は格別きれいだった。この世のものとは思われなかった。

 一度かぎりの火遊びのつもりだった。なのに彼はすっかりまいってしまった。

 女たらしでもまいることがあるのだ。彼はたびたび熱子と寝た。

 主導権は熱子にとられた。熱子が眼鏡に指をかけると彼は外出した。

 電話で誘い出されたこともある。「眼鏡が曇って困るわ」がサインだった。

 彼は熱子の白い躰におぼれた。きれいな性器にのめりこんだ。

 そのうち熱子はきわどい下着をつけるようになった。シックな上着とのアンバランスが彼を刺激した。

 熱子の欲情はエスカレートした。SMまがいのことも強要してきた。

 断わると自慢の性器を開いてそそった。彼はプレイで熱子を殺すところだった。

 別れるべきだと考えた。どうせろくなことにはならない。

 「愛」のない不倫。過激なセックス。

 それに熱子には彼氏がいた。オグラ君。

 かつてのクラス・メート。「友だちの延長線ね」と熱子は言った。

 それでも同棲二年。結婚を約束しているという。

 写真を見せてもらった。実に冴えない風貌。

 当時はやりのオタク青年と思われた。実際にそのとおりだった。

 定職につかない。映画とビデオにのめりこんでいる。

 かつての彼もそうだった。子供ができて変わった。

 そう言うと熱子は意地悪そうに笑った。「アイツは変わらないわよ」

 彼は小さな衝撃を受けた。それが顔に出たのかもしれない。

 「いたの」と熱子は聞いた。そういうものではない。

 「友だちの延長線」というものは案外強いかもしれない。「切れ」と言っても切れないだろう。

 なぜかオグラ君に親近感が湧いてきた。気取らない服装も気に入っていた。

 熱子の友だちというだけだったなら彼も友だちになれるだろう。馬が合いそうだし。

 「セックスはするの」と野暮なことを聞いた。万分の一の期待もあった。

 熱子はこともなげに答えた。「あたりまえでしょ」

 彼は平然さをとりつくろってまた聞いた。「どういうセックスするの」

 「ふつうのセックスよ」。熱子はそれ以上は言いたがらなかった。

 

  

 

 或る日熱子が言いにくそうに切り出した。オグラ君が彼に会いたがっているという。

 「ばれちゃったの」と舌を出した。どういうばれ方をしたのだろう。

 聞くまでもなく熱子の方から言った。「あのときあなたの名前を叫んじゃったのよ」

 なるほど。喜ぶべきか悲しむべきか。

 ともかくこんな経過で会いたくなかった。けれども熱子に懇願されて渋々腰をあげた。

 時間と場所はオグラ君が指定してきた。日曜日の昼下がり荻窪駅前の喫茶店に行った。

 オグラ君は一人ではなかった。やや面くらった。

 オグラ君の母親がいた。祖母もいた。

 二人ともちゃんとした人間に思われた。少なくとも彼よりは。

 二人のちゃんとした人間は彼を凝視した。二枚目ではない顔に穴があくほど見つめられた。

 オグラ君は呆然自失していた。目が焦点を失っていた。

 このとき彼には解らなかった。オグラ君の心の中に風が吹いていたことを。

 (形だけの挨拶の他は)オグラ君は何も言わなかった。二人の婦人はよく喋った。

 彼の不義不徳をなじった。二人とも憎悪の涙を浮かべていた。

 「たぶらかす」という言葉が頻繁に出た。「かどわかす」という言葉もまじった。

 熱子の美点を数え上げた。「中年男にゃもったいない」とつけ足した。

 それは彼が知っている美点ではなかった。彼女の営業用の顔だった。

 熱子とオグラ君の同棲生活を詳細に解説した。彼女たちいわく「愛の日々」を。

 二人の思わくに反し彼は嫉妬しなかった。熱子との間に「愛」などないと信じ込んでいたためだろう。

 愛の表現は熱子と彼の口からは一度も出なかった。禁句みたいに。

 顔を突き出して母親が叫んだ。「手を引きな!」

 ちゃんとした人間の台詞ではないと気づいたのだろう。「身を引いていただけませんか」と言いかえた。 

 彼は自分の母を思い出した。オグラ君よりもその母親の方がもっと心を痛めているのか。

 それでも彼はややかたくなになっていた。予期していなかった二人の婦人の登場が原因だった。

 卑劣にも彼は「熱子しだい」と応えた。「彼女が納得するなら身を引きます」

 言ってからマズイと思った。今日の件を彼女たちは熱子に報告するにちがいない。

 彼はかなりうろたえていたのかもしれない。彼は(先方の台詞を遮ってまで)こうつけ加えたのだ。

 「熱子と私は深く愛し合っています」。

 とんでもないことを口走ったものだ。

 二人の婦人は言葉をなくした。彼は(おそらく意地悪げな)うすら笑いを漏らした。

 本当のことを言ってやろうか。二人の婦人の戸惑いの目を見てそう考えた。

 けれどもすでに言葉にしてしまったものが本当のことだった。もはやとりかえしがつかない。

 正直彼はわずらわしかった。熱子との性の悦楽に入りこんだお邪魔虫が。

 もともと彼は別れたかったはずなのだ。それがどういうはずみか逆の目が出てしまった。

 その後はとりとめのない話になり頃合いを見て退出した。そとへ出ると夜が始まっていた。

 駅前の屋台で一杯やってから熱子に電話を入れた。案の定オグラ君の母親が報告済みだった。

 熱子はあきらかに興奮していた。「深く愛し合っている」という彼の台詞に歓喜していた。

 熱子もふつうの女だったか。なぜか彼は興ざめの気分を味わった。

 熱子は阿佐ヶ谷のアパートに彼を呼んだ。有無を言わせぬ物言いだった。

 部屋には熱子とオグラ君のツー・ショットの写真が飾られていた。それはまさに恋人同士という印象だった。

 熱子はそれを素早くゴミ箱に捨てた。そしてもっと素早く裸になった。

 熱子は(オグラ君と彼女のベッドに)彼を誘った。(彼も経験があるから)熱子が発情しているのが解った。

 彼がためらっているとそそる声で囁いた。「こないならひとりでしちゃうわよ」

 ひとりでさせるわけにはいかない。この夜彼は恥知らずになった。

 

  

 

 (女たらしで恥知らずではあっても)彼はふつうの人間だ。平凡な社会人だ。

 会社は大きくもなく小さくもない。立場はえらくもなく下っぱでもない。

 仕事はできる方でもなくできない方でもない。給料は高くもなく安くもない。

 家庭は楽しくもなくわびしくもない。生活は楽でもなく苦しくもない。

 妻はやさしくもなく冷たくもない。子供は親孝行でもなく親不孝でもない。

 こんな平凡な男がふつうでないことをした。熱子との半同棲生活が始まったのだ。

 吉祥寺のマンション。家賃八万円。

 家賃も生活費も彼がもった。平凡な男には大変な負担だった。

 母に似て彼は見栄っぱりだったのだ。それと後ろめたさがそうさせたのだ。

 熱子は自分の給料を自由に使えた。彼女は見るからに派手になった。

 眼鏡をコンタクト・レンズにかえた。化粧も濃くなった。

 英会話教室に通った。ブランドもののウエアをよく買った。

 (熱子はオグラ君ときっぱり別れたが)彼は妻子と別れなかった。妻は病身で子供はまだ幼かったからだ。

 そのことで熱子は彼を責めなかった。彼を困惑させたのは別のことだ。

 熱子は彼を過大評価していた。給料の額も脳みその量も。

 熱子にとって彼は人生の導き手。彼女いわく「偉大な男」だった。

 そんなばかなことはない。もしそうならセックスなどに溺れたりはしない。

 もしそうならしがないサラリーマンなぞやっていない。ヒゲでも生やしている。

 熱子こそ「偉大な女」だ。偉大な性愛思想家。

 彼女にとって性愛の相手は「偉大な男」なのだ。だからかつてはオグラ君もそう呼ばれていた。

 (生理中以外は)熱子は毎日求めてきた。彼は応じながら(精気を吸い取られたような)オグラ君の顔を思い浮かべた。

 熱子は残業の多い印刷会社を辞めた。(英語力を買われて)青山の外資系会社に再就職した。

 好調の会社だからしょっちゅうパーティーがあった。彼女は彼なんかよりいい男と接する機会が多かった。

 そのうち熱子はこんなことを言うようになった。「とてもセクシーな人との出会いがあったの」

 なんというキザな台詞。だからどうだというのだ。

 幾度聞かされても彼は平気だった。こっちがその気になってもむこうがその気になるとはかぎらない。

 それに心の底では熱子を信じていた。彼女に性の不満があるとも決して思われなかった。

 何の拍子か彼は熱子一筋だった。仮にその気になっても余分な精力と金力がなかった。

 念の為に熱子を寝取られない方策を考えた。もちろんそれには熱子の同意が必要だった。

 熱子はあっさりと同意した。「あなたがそうさせたいならそうするわ」

 彼は熱子のきわどい下着を総て捨てた。かわりに女児がはくようなパンツを買いこんだ。

 いまから思えば赤面ものだ。それにどれだけ効果があったか疑わしい。

 そのうち毎日男から電話が入るようになった。携帯電話はまだ普及していなかった。

 彼が出たことがあった。たしかにセクシーな声だ。

 男はこう聞いた。「妹さんはいますか」

 聞いたことのある声だと彼は思った。まさか鬼頭ではないだろう。

 「僕は鬼頭です」。彼は返事に窮した。

 鬼頭はかつて彼の同僚だった。たまにまちがわれるくらい彼に似ていた。

 身長も体重も年齢も同じ。家庭状況も考え方もよく似ていた。

 極端にちがうところはふたつだけ。鬼頭は声がやたらセクシーで麻薬常習者だった。

 まだあった。鬼頭は英会話が堪能だ。

 或る夜マンションに帰ると熱子が電話をしている。しかもベッドの上で真っ裸。

 テレホン・セックスをしていたとしか思われない様子だった。相手は鬼頭だろう。

 「誰だ」と聞くと「外国のお友達」と応える。そして英語でなにやら言って切った。

 彼が学生の頃の母の口癖を想い出した。「英語できないと苦労するわよ」

 彼が渋い顔をつくると熱子は意味深いみしんに笑って言った。「あの人は前座で本番はあなた」

 

  

 

 熱子には「出張は五日間」と嘘を言った。そして彼は三日目の朝に帰ってきた。

 彼の作戦は当たりすぎた。思わず目をつむり舌打ちをした。

 ベッドがひどく乱れている。あきらかにヤクをやったあとが残っている。

 おまけの使用済みのコンドーム。ゴミ箱に捨てたつもりのやつが縁にひっかかっていた。

 脳みそをたたきつぶされた感じがした。もし彼に脳みそがあったらの話だが。

 「鬼頭を引っぱりこんだのだ!」。彼はゴミ箱をけっとばした。

 そとへ弾き出た。井の頭公園を歩き回った。

 このとき心にあの風が入りこんだのだろう。「暗愁」が。

 彼は三時間ばかり彷徨った。時として立ち尽くした。

 ようやく熱子の会社へ電話を入れる気になった。彼女は仕事用の声だった。

 彼はつとめて平静さを装った。昼休みに会う約束をかわした。

 表参道の交差点で待っていると熱子がやってきた。彼の心の中で風が立っていた。

 遠目でもいい女だった。楚々として歩いてくる。

 彼に気づくと微笑んで手を振った。昨夜他の男とセックスをした女には見えなかった。

 開口一番熱子は自分が気にしていることを聞いてきた。「まだ部屋には帰ってないんでしょ」

 焦立ちの声で言った。「他に帰るところがあるっていうのか」

 熱子は蒼白になった。鋭敏な彼女は覚ったのだ。

 「ごめんね」と言って下を向いた。「たった一度のアヤマチよ」

 そして人目を無視して彼に抱きついてきた。振り払って「売女!」と叫んだ。

 通行人の総てが熱子ではなく彼を見た。売女ではなく寝取られ男の方を。

 風を感じながら苦々しく呟いた。「鬼頭と仲良くやれよ」

 そして熱子への未練のためにひとことつけ足した。「ただヤクだけはもうやるなよ」

 熱子は黙ってうなずいた。横顔がなぜか微笑している。

 こんないい女を失うなんて。なんてこった。

 鬼頭のことはさほど憎くはなかった。いささかうらやましかっただけで。

 鬼頭は一年前の彼だった。今の彼は一年前のオグラ君だった。

 ただ彼には母親も祖母もいなかった。敗北者は立ち去るのみだった。

 いまや鬼頭は彼女にとって「偉大な男」だった。彼はふつうの男にもどっていた。

 仕方なく妻のいる家に帰った。仕事を一週間休んだ。

 久しぶりに息子の相手をした。キャッチ・ボールとかピンポン。

 息子は無邪気で可愛かった。それでも彼の心の中の風は吹き過ぎることがなかった。

 数日して熱子から簡単な手紙が来た。アメリカへ行くと書いてあった。

 鬼頭のことは一言も触れてなかった。本当に「たった一度のアヤマチ」だったのかもしれない。

 また数日して宅急便が届いた。家族が留守だったのでダンボール箱を開いてみた。

 彼の衣類や食器類。それと熱子に買ってあげたもの総て。

 例の女児のパンツも入っていた。戻ってきた敷金の一部も。

 これが人生だと思われた。人生はひとつのダンボール箱。

 はてさていつ風が過ぎ去ったのか。まったく覚えていない。

 気がつくと一年経っていた。気がつくと仕事に追いまくられていた。

 もう恋愛はこりごりだった。熱子とのことが恋愛だったとしたなら。

 

  

 

 二度あることは三度ある。それが現在進行形の「暗愁」だ。

 彼は五十歳だ。丸十年経ち「暗愁」の季節の到来。

 それを彼は怯えていた。怯えつつ安くはない酒をよく飲んだ。

 三年前に妻子とは別れていた。文句を言う者はいない。

 払うべき義務はあったが守るべき家庭はなくなった。正直せいせいした。

 息子とはたまに会えた。元妻とは離婚前より会話が増えた。

 一人住まいが痛飲に拍車をかけているのかもしれない。それに加えて老いの自覚。

 ともかく「暗愁」の原因から語らねばならない。来るべくして来たジゴクの門から。

 (妻子と別れてから)彼はフィリピン・パブによく行くようになった。行きつけは池袋の繁華街にある〈メトロ〉。

 カタコトの日本語の女たち。明るく開放的なタレントたち。

 沈みこみやすい性格の彼には心地よかった。いずれ女たらしの腕を発揮できる予感もあった。

 〈メトロ〉に入ると別天地の気がした。窓際族の不安も一人住まいの孤独も忘れた。

 〈メトロ〉はマガンダ(美人)ぞろいだった。目移りばかりして彼は特定の女を決めかねていた。

 そんな彼はシャー(彼女)たちから「パロパロ」(浮気者)サン」と呼ばれた。少々馬鹿にされていたのだ。

 その方が気は楽だった。指名料無しだから安く遊ぶこともできた。

 ところが運命の夜がきた。店に入るととびきりの女がいるではないか。

 マネージャーに聞くと「新宿の店から移ってきたばかり」。なるほどトラブル・メーカーか。

 そうと知りつつも彼は指名した。マネージャーは意味深な苦笑を漏らした。

 彼女は指名を(喜ぶよりも)不思議がった。他のタレントたちもそういう顔つきだった。

 フィリピーナはおよそ面喰いではない。それが好都合だ。

 久しぶりに女たらしの癖が出た。彼はウイスキーで喉をしめらせた。

 「イカオ(君)にひとめぼれさ」と言った。「ロロ(じじい)だってイン・ラブなるのさ」とも言ったのだ。

 彼女はニッコリ笑ってすり寄ってきた。まだ商売用のしぐさだった。

 とりあえずこれでいい。第二弾はママヤ(後で)。

 たいした話はしなかった。フィリピーナは話よりも好きなものがあるのだ。

 名前と歳ぐらいは聞いた。いわゆる源氏名はマヤで二十一歳。

 帰り際に名刺をあげた。彼の携帯電話番号が入っている。

 チップを一万円あげた。ここでケチってはいけない。

 外へ出るとすぐに電話がきた。作戦が成功したのだ。

 「アシタモキテネ」とマヤは甘い声で言った。「オネガイアルヨ」

 「わかった」と言って電話を切った。マヤのケイタイのナンバーが記憶されていることを確かめた。

 約束通り翌日〈メトロ〉に顔を出した。マヤは他の客についていた。

 座った彼はマヤと目が合った。マヤはウインクをした。

 十分ほどしてマヤは彼のテーブルに移ってきた。まるで人形みたいな愛らしさ。

 この女と一回でもソクソクセックスできれば思い残すことはない。女たらしにしては素朴な気分が湧いた。

 デュエット曲をひとつ歌った後で聞いた。「オネガイって何だい?」

 マヤは言いにくそうだった。「アコ(私)ハズカシイヨ」と言った。

 これも商売用の台詞だ。彼もずいぶんフィリピーナ通になったものだ。

 「なら今度でいい」と彼はあえて冷たく言った。「俺がパタイ(死ぬ)なったら聞くよ」。

 するとマヤは彼の耳に唇を押しつけてきた。「タスケテヨ」

 おいでなすった。そういうことだと思った。

 まちがいなく金のことだ。フィリピーナのオネガイが金以外なんてことはない。

 マヤは眉をしかめて言った。なんてセクシーな表情だろう。

 要するに父親が死んで工場に借金が残った。それを返さないと人手に渡ってしまう。

 そうなるとファミリーの生活が困る。自分の力だけではどうしようもない。

 いくらかと聞くと五十万だという。それなら何とかなる。

 「俺のショーター(恋人)になるか。恋人ならヘルプするのが当たり前だ」

 彼はすでに用意した言葉を発した。マヤが俺のものになるのは時間の問題だ。

 マヤはすぐにうなずいた。はじめからそのつもりだったようだ。

「デートはいつ?」と聞くと「ブーカス(明日)」と答えた。すぐにも金が必要らしい。

「いいよ」と彼はややためらいつつ答えた。マヤが男たらしに思われたのだ。

(女と寝る約束ができたのに)少々気が沈んだ。マヤは彼にしがみついて離れなかった。

 

  

 

 久しぶりに会社を休んだ。銀行カードで金をおろした。

 マヤのケイタイに電話を入れた。まだ昼前なのにマヤは「イクヨ」と言った。

 池袋パルコ前で午後一時の待ち合わせ。マヤは時間通りに来た。

(真夏でもないのに)タンクトップとホットパンツ姿。足が長く尻があがっている。

 歩いて五分のラブ・ホテルにむかった。マヤは厚底サンダルを鳴らせてついてくる。

 彼には五時間にも感じられた。マヤを人目にさらしたくなかった。

 ルームに入るとホッとした。マヤはすぐに脱ぎはじめた。

 Tバッグ・ショーツ一枚になってベッドに横たわった。手をのばしスイッチを調節してルームを暗くした。

 慣れていた。そのことがひどく気になった。

 金で買った女と同じだと自分に言いきかせた。五十万は高すぎるがこの躰なら許せる。

 私も裸になって重なった。ちょっと愛撫するとすぐに悶えた。

 「コンゴームイラナイヨ」と言った。「ソトダシデネ」

 なんちゅうコトバだ。前の男の受け売りだろう。

 彼は素直に従うことにした。ためらいが生まれるほど冷静ではなかった。

 マヤは「グスト(いい)」と幾度も叫ぶ。勝手にやって勝手に感じている。

 女たらしもかたなしだった。腕のみせどころはなくただ機械的に腰を動かすのみ。

 マヤはあっけなくおわりすぐに躰をはなす。仕事はすんだと言わんばかりに。

 一応彼もつきあって射精していた。でも快楽はまるでなかった。

 なぜだろうと考えているとマヤはシャワールームに行った。彼も後に続いた。

 化粧を落としたマヤの顔をみて驚いた。あまりに童顔だった。

 あらためて歳を聞くと「ホントハ」十六歳だと言う。マニラにベビーもいると言う。

 十四歳のとき男にだまされた。男はアーミーで妻子がいた。

 ベビーのために日本に働きにきた。日本人の恋人がいたが一ヵ月前に別れたので店をかえた。

 ふむふむ。つじつまは合う。

 このとき彼は覚った。彼に快楽がなかったのは躰でマヤの幼さを覚ったせいだ。

 けれどもこのスッピンの顔のあどけなさと愛しさ。一回限りのつもりがそうはいかなくなった。

 おそらくマヤの存在には毒がある。けれども毒を味わった今では皿までの気持ちだった。

 服を着けてから五十万渡した。そして一週間一回のデートを約束させた。

〈メトロ〉へは一週間三回行くことを告げた。それが予算的にギリギリの線だった。

 マヤはニッコリ笑った。この笑顔を見る為なら彼は人殺しでもしただろう。

 

  10

 

 浮わついた心は一週間かぎりだった。二回目のデートから彼はマヤに翻弄された。

 毎週月曜日彼は会社を休んだ。けれども休む意味はほとんどなかった。

 マヤは約束の時間に現れたことはなかった。パルコ前で彼は五時間立ち続けたこともある。

「アトサンプン」がマヤには三時間だった。けれども顔を見ると怒れなかった。

 慌しくラブ・ホテルに駆け込み慌しいセックスをした。甘い囁きをかわしあうゆとりなどまったくなかった。

 その後銀行に駆け込んだ。「オカネチョウダイ」と毎回必ず言うからだった。

 それもベッドでさあこれからというときに言い出す。アヤオ(嫌)と言おうものなら足を閉じ服を着るだろう。

 マヤは彼の金を当てにして豪買した。すべて仲間のタレントから借金した。

 彼が出さねば誰が出すのだ。マヤは(気前のいい)次の男を探すだろう。

 デートのたびにマヤの装飾品は増えた。彼の悩みも激増した。

 みんな高価なものだ。彼には買う気も起きないもの。

 18K五百グラムのネックレスとブレスレット。同じくプラチナのセット。

 ルイ・ヴィトンのバッグとリュック。ローレックスの時計。

 最新のコンポとビデオデッキも買ったという。それと店で着るウェアー十着。

 さすがに「ふざけるな」と彼はカンシャクを起こした。マヤはキョトンとしている。

 前の男はBMWをを買ってくれたとマヤは言う。彼はあいた口がふさがらない。

 それでも彼はあきずにこりずにセックスする。マヤは(くやしいくらい)悶え叫ぶ。

 あいかわらず彼に快楽はない。あるのはただマヤを失いたくないという強い執念。

 あいかわらず彼は銀行に駆け込む。カードはとっくにマイナスになっている。

 銀行カードは三枚。計三百万借りることができる。

 Aのカードで十万おろす。Bのカードで十万いれる。

 Cのカードで十万おろす。Aのカードで十万いれる。

 次はCのカードで十万いれなければならない。どのカードでおろせばいいのか。

 とにかくそんなことばかりやっている。頭がおかしくなってくる。

 そのうち会社から金を借りるようになった。伝票をごまかすようにもなった。

 情ない。いったいなにをしているんだ俺は。

 それでもまだ風は吹いていなかった。いや実際にはもう吹きはじめていたかもしれない。

 

  11

 

 金の工面に四苦八苦しだして一ト月後。マヤと関係をもって三ヵ月後。

 マヤと別れたがっている自分に気づいた。別れたくないくせに別れたがっている。

 おそらく熱子に裏切られた傷がまだ残っているのだ。いい歳をして。

 マヤに裏切られる前に別れよう。そのことを彼は考えてばかりいた。

 マヤは存在しなかったと思えばいい。この三ヵ月は空白の時間。

 俺は元の自分に戻ればいい。マヤを知る前のバツイチに。

 このまま続けてなにがのこる。借金と疲労と恥辱。

 マヤには羽振りのいい客が少なからずいる。みんなマヤの小麦色の躰を狙っている。

 金の切れ目が縁の切れ目。マヤが男をかえるのは時間の問題だ。

 マヤは俺によくマハル(愛してる)と言う。しかしそんなことは他の客にも言っていることだ。

 よくよく考えれば未練も残るまい。俺は彼女にとって思い通りになるオヤジにすぎないのだ。

 鏡に容姿をよくうつして見るといい。このオヤジが愛される訳がないではないか。

 ある日池袋のマクドナルドで二人の男の噂話が聞こえた。〈メトロ〉の客だ。

 マヤにはアサワ(旦那)がいると話している。思わず彼は手にした新聞で顔を隠した。

 ところが彼のことではなかった。マヤの旦那は〈メトロ〉の店長だという。

 カルボ(禿)の赤ら顔を思い起こした。まさか。

 噂話は詳細を極めている。単なる中傷ならここまでの情報はないだろう。

 客は「旦那が店長だから〈メトロ〉に移れた」と言っている。「マヤのニックネームはエンジェル・フェイス/デビル・ハートだ」と言っている。

 彼はこのとき例の風を意識した。「暗愁」を。

 ほとんど同時に自分を責める声が聞こえた。彼自身の声が。

 よくあることだ。この程度のことで五十男が落ち込んでみっともないではないか。

 別の彼が口ごたえをする。みっともないのが人間ではないか。

 おまえは実に人間らしいぜ。みっともなさもここまでくればな。

 どうせならもっと駄目男になってみろ。たとえばマヤと店長の関係をチェックしてみるとか。

 だがそんな必要はないかもしれなかった。三ヵ月間の疑問がこの噂話で解けた気がした。

〈メトロ〉の女たちのバハイ(住まい)はサンシャイン・シティの先だ。けれどもマヤはまったくちがう方角からやってくるのだ。

 いつも西武デパートにそってパルコ前に出る。その方向には確かに店長の住まいがあるのだ。

 ホテルにいると必ずマヤのケイタイに電話が入る。出なければいいものを必ず出る。

 ひとさし指を唇の前に出す。テレビをつける。

 そうしてから出る。言うことは「イマトモダチノアパートニイルヨ」

 相手はいつも同じ男だ。つまり店長だったのだろう。

 相手はトモダチと代われと言っているようだ。要するにマヤをチェックしているのだ。

 マヤは彼にむかってかわいい舌を出す。甘い声で「イマヒトリダケ」と言う。

 したたかな女め。どっと疲れがでて彼はベッドにへたりこむ。

 まだある。〈メトロ〉の休日とマヤの個人休暇の問題だ。

 マヤは常に言っている。「ヤスミノトキハアナタトイッショ」

 でもイッショしたことはない。マヤは休みを彼に教えないのだ。

〈メトロ〉に行ってみてはじめて休みを知る。そんな恋人がいるわけはない。

 

  12

 

 あるとき三越で〈メトロ〉のホステスに会った。名前と顔ぐらいは知っていた。

「マヤとデート?」と聞いてきた。「旦那のいる女とデートはもうしないよ」

 彼はカマをかけてみたのだ。相手は苦笑した。

 またカマをかけた。「俺より店長はずっと前からだろう」

 相手は指を一本出した。一ヵ月前じゃないだろうと言うと一年だとちゃんと言った。

 次のデートのとき彼は詰問した。「暗愁」をふりはらうにはこれしかないと考えた。

 マヤはすこぶる強情だった。店長とのことは噂にすぎないと言い張った。

「シンジテナイナラワカレルガイイ」。マヤは泣き喚きながら言った。

 もちろん信じていなかった。彼は断固別れることに決めた。

 深呼吸をひとつして微笑とともに口を開いた。「信じるさ別れないさタガラ(本当だ)」

 ほとほと情ない。俺にはたぶんプライドというものがないのだ。

 エンジェル・フェイス/デビル・ハートは泣きやまず喚きつづけた。要約すればおよそ次のようなことだ。

 じぶんはひかりかがやく若い肉体をしょぼくれたくそおやじに与えている。それなのに何の文句があるというのか。

 おっしゃるとおりだ。ごめんなさい。

 こうしてあいかわらず彼はマヤとつきあっている。店長のことは言わないことに決めた。

 いまだに快楽のないセックスをしている。娼婦の十倍の金を渡している。

 彼はだまされていると知りつつだまされ続けている。愛されていないことを認めながら愛されているふりをしている。

 年甲斐もなく彼は若作りをする。つけたことのないコロンでジャケットをびしゃびしゃにする。

 遠からず俺はつぶれるだろう。リストラにあいマヤにはあえなくなるだろう。

 近いうちに俺は殺されるかもしれない。俺を殺すのは店長かそれとも「暗愁」か。

 いまや天は若い女に味方しているのだ。(国籍を問わず)若い女は二人の男を持っていると考えよう。

 セックスをして金をくれる男。それとセックスをして割カンの男の二人。

 俺はわりのあわない方の第一の男。いやはや分かっちゃいるけどやめられない。

 どうでもいいと思いたい。マヤが亭主と愛人を持つ女ならかつての俺もそうだったのだ。

 マヤがそうしたいなら俺にとやかく言う資格はない。しっぺ返しがきただけなのだ。

 純潔純情。己にあるはずのないものを相手に求めるな。

 どうにかなると感じたい。「暗愁」の季節は(経験上)一年で終るはずなのだ。

 それにいずれは俺も死んでしまうのだ。あと十年か二十年か。

 かつての死者たちと同様に。そのときがくれば。

 彼が少年の頃の母の口癖。「人間は馬鹿ね」

 彼は口をとがらせたものだった。「ぼくは馬鹿じゃないよ」

 まったく。この歳になって気づくなんて。

 人間は馬鹿だ。少なくとも俺は大馬鹿者だ。

 ところが馬鹿をやって馬鹿に気づく。そのときはもう馬鹿をやめられなくなっている。

 人間をやめられないように。男をやめられないように。

 母の死の際に英断すべきだった。脳みそと血液とペニスを取り替えるべきだったのだ。

 

  13

 

 身体の具合が悪い。「暗愁」のせいか。

 どこもかしこも調子悪い。下腹部が特にひどい。

 ふらふらと彼は病院に行く。精神科に行くべきなんだろうがとりあえず内科。

 幾度目かの検査が終った後に担当医に宣告された。「立派な梅毒です」

 梅毒に立派とか不立派とかがあるのだろうか。笑いが出るほどいまいましい。

 医者は余計なことをつけ加えた。「エイズでないだけでよかったですね」

 彼はふてくされて応じた。「淋病ならもっとよかった」

 これでマヤと別れられるだろうかと考えた。貢いだあげく性病をうつされた。

 いい歳をしてみっともない性病科通いがはじまる。治るという保証は医者からまだもらっていない。

 けれども彼は徹頭徹尾馬鹿野郎だった。彼はマヤの分も薬をもらったのだった。

 外へ出ると気持ちの悪い風が吹いていた。彼は道ばたにかがんでしこたま嘔吐した。

 それから風の中を夢遊病者のごとく歩きつづけた。だれになんと言ったらよいのか。

 うんざりしつつ「暗愁よ人生の花よ」と呼びかけた。「なんなら死ぬまでおまえとつきあってやってもいいんだぜ」

「暗愁」は答えなかった。ただ彼の馬鹿さかげんを嘲笑うばかりだった。