巌頭之感

悠々たるかな天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以てこの大をはからんとす。ホレーショの哲学つひ何等なんらのオーソリテーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く「不可解」。我このうらみいだいて煩悶つひに死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを

 

 

「藤村君とは深い交りの歴史はない。然しあの巌頭の感はいかばかり僕の心をうつたであらう。僕の過ぎし日の苦痛は藤村君の外に知りうるものはなく、藤村君の死んだ心は僕の外に察しうるものはないといふ様な感がした。又藤村君は至誠真摯であつたから死に、僕は真面目が足りなかつたから自殺し得なんだのだと思つた。こまかい事はわからぬが、僕は藤村君の煩悶と僕の煩悶とは甚だ似てゐたものだと思ふ心は今もかはらない。羨しき藤村君の死は僕をして慟哭せしめ悶絶せしめた。僕は生れて以来藤村君の死ほど悲痛を感じたことはない。僕は死を求めて得ざるに身を倒して泣いた。かゝる思は数日つゞいた。僕の心は暴風のふきまいた後の様な感じであつた。」(藤村友人の魚住影雄『折蘆遺稿』より。)また魚住は斯く『弔辞』も書いて友の死を哀惜した。「悲惨の事伝りて満都の同情を動し遠近の涙を促ししもの真に故あり、道路相伝へて君が辞世の感慨を暗誦しぬ。君をして時代の煩悶を代表せしめし明治の日本は、思想の過渡期に当りて実に高貴なる犠牲を求めぬ。」

 

「我国に哲学者なし、この少年に於て始めて哲学者を見る。いな、哲学者なきにあらず、哲学のために抵死ていしする者なきなり。」(萬朝報社主黒岩涙香「少年哲学者を弔す」より)

 

「その頃は憂国の志士を以て任ずる書生が、乃公だいこう(自分)出でずんば創生(民衆)をいかんせん、といつったやうな、慷慨悲憤の時代の後をうけて、人生とは何ぞや、我は何処いづこより来りて何処へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悶時代であつた。立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥じ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭はずといふ時代であつた。

 当時私は阿部次郎、安倍能成、藤原たゞし三君の如き畏友と往来して、常に人生問題になやんでゐたところから、他の者から自殺でもしかねまじく思はれてゐた。事実藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であつた。巌頭之感は今でも忘れないが当時これを読んで涕泣したこと幾度であつたか知れない。」(藤村友人で岩波書店創業者岩波茂雄の回想による。岩波は「死以外に安住の世界がないことを知りながら自殺しないのは、勇気が足りないからである」と煩悶したことも書いている。)

 

「憂鬱の日がつゞいた。それから大学を出る頃まで、われわれのクラスは自殺者を三人出した。」(藤村と同級であった文学者野上豊一郎の回想による。)

 

「さながら見知らぬ曠野の中におのれを見いだした人のやうに、怪しき不安が私のうちにきざした。何か深刻な欠乏を私は意識しはじめたのである。しかしながらそれが何であるかは私自身にわからなかつた。たゞ私はさびしくあつた。

 何としもなきさびしさが日々の私のうちにつのつた。目にふれ事にふれるものみながさびしく感じられた。美しい秋の日の光がさびしかつた。軒にひびく豆腐屋のラッパ、野路にほゝゑむ野花の色、一つとして私にさびしからぬはなかつた。

 不安は要求を意味する。アウガスチンのいつたとほり、人のたましひはある処に憩ふまでは平安を得ないのである。」(藤村の死んだ同年に一高に入学した藤井武の感慨。『藤井武全集』より)

 

 そして藤村自死後一年、再び学友魚住折蘆は「一高校友会雑誌」に「自殺論」を寄せ、或る意味で画期的な、彼覚了の「前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん」の言句を吐き、国是国策である「君」でも「家」でもない、「自我」こそが世界の中心と言い切った。「明治」絶対専制国家へ放ついわば「自我」からの対決の宣明、新時代への変化の宣言であった。

 

「至誠の結論は天地の空白虚無を観じて自らこの世界を去つて一切と交渉を断つに至らしむ。この覚了なる、その前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん。我れあに父母に乞ひて生れ来らんや、君国に誓ひて生れ来らんや。君国の恩は我等が無垢の児心に小学校教員が刻み込みたる迷信にあらずや。この迷信を脱却して自我本然ほんねんの純なる中心の声を聞かんがために要せし苦心はそも幾何いくばくなりけん。誰かなほ君父の空名を傭ひ来つて死の一念をひるがへさしめんとするや、人の尊厳はその自由にして外物の支配を受けざるにありと悟らずや。」