あひゞき

 このあひゞきは先年仏蘭西フランスで死去した、露国では有名な小説家、ツルゲーネフといふ人の端物はものの作です。今度徳富(蘇峰・国民之友社主)先生の御依頼で訳して見ました。私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、是れでも原文は極めて面白いです。

 

 秋九月中旬といふころ、一日自分がさるかばの林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおりおりあたゝかな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧さかに見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空あおぞらがのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上づじやうかすかにそよいだが、その音をきいたばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白さうな、笑ふやうなさゞめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶさうなお饒舌しやべりでもなかツたが、只漸やうやく聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語の声で有つた。そよ吹く風は忍ぶやうに木末こずゑを伝ツた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のやうすが間断なく移り変ツた。或はそこに在りとある物すべて一時に微笑したやうに、くまなくあかみわたツて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思ひがけずも白絹めく、やさしい光沢つやを帯び、地上に散りいた、細かな、落ち葉はにはかに日に映じてまばゆきまでに金色こんじきを放ち、かしらをかきむしツたやうな「パアポロトニク」(蕨の類ゐ)のみごとな茎、加之しかえ過ぎた葡萄ぶだうめく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。

 或はまた四辺あたり一面俄かに薄暗くなりだして、またゝく間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ツた儘でまだ日の眼に逢はぬ雪のやうに、白くおぼろにかすむ――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するやうにパラパラと降ツて通ツた。樺の木の葉はいちじるしく光沢つやめてゐても流石にほ青かツた、が只そちこちに立つ稚木わかぎのみは総て赤くもきいろくも色づいて、をりをり日の光りが今ま雨に濡れたばかりの細枝の繁味しげみを漏れて滑りながらにけて来るのをあびては、キラキラときらめいてゐた。鳥は一ト声もを聞かせず、皆何処どこにか隠れてひそまりかヘツてゐたが、只折節に人をさみした白頭翁しゞふがらの声のみが、故鈴ふるすゞでも鳴らす如くに、響きわたツた。この樺の林へ来るまへに、自分は猟犬を曳いて、さる高く茂ツた白楊はこやなぎの林を過ぎたが、この樹は――白楊は――全体虫がすかぬ。幹といへば、蒼味あをみがゝツた連翹色れんげういろで、葉といへば、鼠みとも附かず緑りとも附かず、下手な鉄物かなもの細工を見るやうで、しかたけ一杯にくびを引き伸して、大団扇おほうちはのやうに空中に立ちはだかツて――どうも虫が好かぬ。長たらしい茎へ無器用にヒツ付けたやうな薄きたない円葉をうるさく振り立てゝ――どうも虫が好かぬ。この樹を見て快よい時と云ツては、只背びくな灌木くわんぼくの中央に一段高くそびえて、入り日をまともに受け、根本ねもとより木末こずゑに至るまでむらなく樺色に染まりながら、風にそよいでゐる夏の夕暮か、――さなくば空名残なごりなく晴れ渡ツて風のすさまじく吹く日、あをそら影にして立ちながら、ザワザワざわつき、風に吹きなやまされる木の葉の今にも梢をもぎ離れて遠く吹き飛ばされさうに見える時かで。兎に角自分は此樹を好まぬので、ソコデその白楊の林にはいこはず、わざわざこの樺の林にまで辿たどり着いて、地上わづか離れて下枝の生へた、雨凌あめしのぎになりさうな木立を見立てゝ、さて其の下にすみかを構へ、四辺の風景を眺めながら、唯遊猟者のみが覚えの有るといふ、例の穏かな、罪のない夢を結んだ。

 どきばかり眠ツてゐたか、ハツキリしないが、兎に角暫しばらくして眼を覚まして見ると、林の中は日の光りが到らぬ隈もなく、うれしさうに騒ぐ木の葉を漏れて、はなやかに晴れた蒼空がまるで火花でも散らしたやうに、あざやかに見渡された。雲は狂ひ廻はる風に吹き払はれて形をひそめ、空には繊雲ちりくも一ツだも留めず、大気中に含まれた一種清涼の気は人の気を爽かにして、穏かな晴夜の来る前触れをするかと思はれた。自分はまさに起ち上りてまたさらに運だめし(但し銃猟の事で)をしやうとして、フト端然と坐してゐる人の姿を認めた。眸子ひとみを定めてく見れば、それは農夫の娘らしい少女であツた。廿歩ばかりあなたに、物思はし気に頭を垂れ、力なさゝうに両の手を膝に落して、端然と坐してゐた。旁々かたがたの手を見れば、なかばはむき出しで、その上に載せた草花の束ねが呼吸をするたびに縞のペチコートの上をしづかにころがツてゐた。清らかな白の表衣うはぎをしとやかに着做きなして、咽喉元のどもと手頚てくびのあたりでボタンをかけ、大粒な黄ろい飾り玉を二列に分ツて襟から胸へ垂らしてゐた。この少女なかなかの美人で、象牙をもあざむく色白の額際ひたひぎはで巾の狭い抹額もかうを締めてゐたが、その下から美しい鶉色うづらいろで、加之しかも白く光る濃い頭髪を丁寧にとかしたのがこぼれ出て、二ツの半円を描いて、左右に別れてゐた。顔の他の部分は日に焼けてはゐたが、薄皮だけにかへつ見所みどころが有つた。まなざしは分らなかツた、――始終下目のみ使つてゐたからで、シカシその代りひいでた細眉と長ひ睫毛まつげとは明かに見られた。睫毛はうるんでゐて、旁々かたがたの頬にも亦蒼ざめた唇へかけて、涙の伝つた痕が夕日にはえて、アリアリと見えた。総じて首付が愛らしく、鼻がすこしおほきく円すぎたが、それすらのみ眼障りにはならなかツた程で。取分け自分の気に入ツたはそのおもざし、まことに柔和でしとやかで、取繕ろツた気色けしきは微塵もなく、さも憂はしさうで、そしてまた愛度気あどけなく途方に暮れた趣きも有ツた。たれをか待合はせてゐるのと見えて、何かかすかに物音がしたかと思ふと、少女はあわててかしらもたげて、振り反つて見て、その大方の涼しい眼、牝鹿のものゝやうにをどをどしたのをば、薄暗い木蔭でひからせた。クワツと見ひらいた眼を物音のした方へ向けて、シゲシゲ視詰めたまゝ、暫らく聞きすましてゐたが、やがて溜息をいて、静に此方こなたを振り向いて、前よりは一際ひときは低くかゞみながら、またおもむろに花をり分け初めた。りあかめたまぶちに、厳しく拘攣こうれんする唇、またしても濃い睫毛の下よりこぼれ出る涙のしづくは流れよどみて日にきらめいた。かうして、暫く時刻を移していたが、その間少女は、かわいさうに、みじろぎをもせず、唯折々手で涙を拭ひ乍ら、聞き澄ましてのみゐた、只管ひたすら聞き澄ましてのみゐた……フとまたガサガサと物音がした、――少女はブルブルと震へた。物音はまぬのみか、次第に高まツて、近づいて、遂に思ひ切ツた闊歩の音になると――少女は起き直ツた。何となく心おくれのした気色けしき。ヒタと視詰め眼ざしにをどをどした所も有ツた、心のあせられて堪へかねた気味も見えた。しげみを漏れて男の姿がチラリ。少女はそなたを注視して、俄にハツと顔をあからめて、我も仕合しあはせとおもひ顔にニツコリ笑ツて、起ち上らうとして、フトまたしをれて、蒼ざめて、どきまぎして、――先の男が傍に来て立ち留つてから、やうやくおづおづ頭をもたげて、念ずるやうに其の顔を視詰めた。

 自分は尚ほ物蔭に潜みながら、怪しと思ふ心にほだされて、その男の顔をツクヅク眺めたが、あからさまにいへば、余り気には入らなかった。

 是れはどう見ても弱冠の素封家そほうかの、あまやかされすぎた、給事らしい男で有つた。衣服を見ればことさらに風流をめかしてゐるうちにも、また何処どことなく止度気しどけないのを飾る気味も有ツて、主人の着故きふるしめく、茶の短い外套ぐわいたうをはをり、はしばしを連翹色れんげういろに染めた、薔薇色ばらいろの頸巻をまいて、金モールの抹額もかうを付けた黒帽を眉深まぶかにかぶツてゐた。白襯衣しろシヤツの角のない襟は用捨もなく押し付けるやうに耳柔をささへて、また両頬を擦り、糊で固めた腕飾りは全く手頸をかくして、赤い先の曲ツた指、Turquoise(宝石の一種)製のMyosotis(艸の名)を飾りに付けた金銀の指環を幾個ともなくはめてゐた指にまで至ツた。世には一種の面貌が有る、自分の観察した所では、常に男子の気にもとる代り、不幸にも女子の気にかなふ面貌が有るが、此男のかほつきは全くその一ツで、桃色で、清らかで、そして極めて傲慢がうまんさうで。おのがあらけないかほだちに故意わざと人を軽ろしめ世にみはてた色をよそはふとして居たものと見えて、絶えず只さへひさな、薄白く、鼠ばみた眼を細めたり、眉をしわめたり、口角を引き下げたり、しひ欠伸あくびをしたり、さも気のなさゝうな、やりばなしな風を装ふて、或は勇ましく捲き上ツたもみあげを撫でゝ見たり、または厚い上唇の上の黄ばみた髭を引張て見たりして――ヤどうも見て居られぬ程に様子を売る男で有ツた。待合せてゐた例の少女の姿を見た時から、モウ様子を売り出して、ノソリノソリと大股にあるいて傍へ寄りて、立ち止ツて、肩をゆすツて、両手を外套のかくしへ押し入れて、気の無さゝうな眼を走らしてヂロリと少女の顔を見流して、そして下に居た。

「待ツたか?」ト初めて口をきいた、尚ほ何処をか眺めた儘で、欠伸あくびをしながら、足をうごかしながら「ウー?」

 少女は急に返答をしえなかツた。

「どんなに待ツたでせう」ト遂にかすかにいツた。

「フム」ト云ツて、先の男は帽子を脱した。さも勿体もつたいらしく殆ど眉際まゆぎはよりはへだした濃い縮れ髪を撫でゝ、鷹揚おうやう四辺あたり四顧みまはして、さてまたソツと帽子をかぶツて、大切な頭をかくして仕舞た。「あぶなく忘れる所よ。それに此の雨だもの!」トまた欠伸。「用は多し、さうさうは仕切れるもんぢやない、その癖やゝともすれば小言だ。トキニ出立は明日あしたになツた……」

「あした!」ト少女はビツクりして男の顔を視詰みつめた。

「あした……オイオイ頼むぜ」ト男は忌々いまいましさうに口早に云ツた、少女のブルブルと震へて差うつむいたのを見て。「頼むぜ『アクーリナ』泣かれちやアあやまる。おれはそれが大嫌ひだ」。ト低い鼻に皺を寄せて、「泣くならおれはすぐ帰らう……何だ馬鹿気た――泣く!」

「アラなきはしませんよ」、トあわてゝ「アクーリナ」は云ツた、せぐり来る涙をやうやくの事で呑み込みながら。しばらくして、「それぢや明日あしたお立ちなさるの。いつまた逢はれるだらうネー」

「逢はれるよ、心配せんでも。左やう、来年――でなければさらいねんだ。旦那は彼得堡ペテルブルグで役にでも就きたいやうすだ」、トすこし鼻声で気のなさゝうに云ツて「ガ事に寄ると外国へ往くかも知れん。」

しさうでもなツたらモウわたしの事なんざア忘れてお仕舞ひなさるだらうネー」、ト云ツたが、如何にも心細さうで有ツた。

「何故?大丈夫!忘れはしない、ガ『アクーリナ』ちツと是れからは気を附けるがいゝぜ、わるあがきもいゝ加減にして、をやぢの云ふ事もちツとは聴くがいゝ。おれは大丈夫だ、忘れる気遣ひはない、それはなア……イ」、ト平気でのびをしながら、また欠伸をした。

「ほんとに、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、忘れちやアいやですよ」。ト少女は祈るが如くに云ツた、「こんなにお前さんの事を思ふのも、慾徳づくぢやないから……おとつさんのいふこと聴けとおいひなさるけれど……わたしにはそんな事ア出来ないワ……」

何故 なぜ?」トふ向けざまにねころぶ拍子に、両手を頭に敷きながら、あたかも胸から押し出したやうな声で尋ねた。

「なぜといツてお前さん――アノ始末だものヲ……」

 少女は口をつぐんだ。「ヴヰクトル」は袂時計たもとどけいの鎖をいらひだした。

「ヲイ、『アクーリナ』、おまへだツて馬鹿ぢや有るまい」トまた話し出した、「そんなくだらん事をいふのは置いて貰はふぜ。おれはお前の為を思ツていふのだ、わかツたか?勿論お前は馬鹿ぢやない、やツぱりお袋のしやうを受けてると見えて、それこそ徹頭徹尾いまのソノ農婦といふでもないが、シカシ兎も角も教育はないの――そんなら人のいふことならハイと云ツてきいてるがいゝぢやないか?」

「だツてこわいやうだもの」。

「ツ、こわい。何もこわいことはちツともないぢやないか? 何だそれは」、「アクーリナ」の傍へすりよツて「花か?」

「花ですよ」ト云ツたが、如何にも哀れさうで有ツた「この清涼茶は今あたしが摘んで来たの」トすこし気の乗ツたやうす「これを牛の子にたべさせると薬になるツて。ホラBur-marigole――そばツかすの薬。チヨイと御覧なさいよ、うつくしいぢや有りませんか、あたし産れてからまだこんなにうつくしい花ア見たことないのよ。ホラ myosotis、ホラすみれ……ア、これはネ、お前さんにあげやうと思ツて摘んで来たのですよ」、ト云ひながら、黄ろな野艸のぐさの花の下にあツた、青々としたBlue-bottle の細い草で束ねたのを取り出して「りませんか?」

「ヴヰクトル」はしぶしぶ手を出して、花束を取ツて、気の無さゝうに匂ひを嗅いで、そして勿体を付けて物思はしさうに空を視あげながら、その花束を指頭でまはしはじめた。「アクーリナ」は「ヴヰクトル」の顔をジツと視詰めた……その愁然しうぜんとした眼付のうちになさけを含め、やさしい誠心まごころを込め、吾仏あがほとけとあふぎうやまふ気ざしを現はしてゐた。男の気をかねてゐれぱ、あへて泣顔は見せなかつたが、その代り名残なごり惜しさうに只管ひたすらその顔をのみ眺めてゐた。それに「ヴヰクトル」といへば史丹の如くにそベツて、グツと大負けに負けて、人柄を崩して、いやながらしばらく「アクーリナ」の本尊になつて、その礼拝祈念を受けつかはしてをつた。その顔を、あから顔を見れば、ことさらに作ツた堰蹇えんけん恣睢しき、無頓着な色を帯びてゐたうちにも、何処どこともなく得得とくとくとした所が見透かされて、憎かつた。そして顧みて「アクーリナ」を視れぱ、魂がなく身をうかれ出て、男の方へのみ引かされて、甘へきつてゐるやうで――アヽよかツた! しばらくして「ヴヰクトル」は……「ヴヰクトル」は花束をくさの上に取り落して仕舞ひ、青銅のわくめた眼鏡を外套の隠袋かくしから取り出して、眼へあてがはふとしてみた、がいくら眉を皺め、頬をぢ上げ、鼻まで仰ふ向かせて眼鏡を支えやうとして見ても、――どうしても外れて手の中へのみ落ちた。

「なにそれは?」と「アクーリナ」がケヾンな顔をして尋ねた。

「眼鏡」と「ヴヰクトル」は傲然として答へた。

「それをかけるとどうかなるの?」

「よく見えるのよ」。

「チョイと拝見な」。

「ヴヰクトル」は顔をしかめたが、それでも眼鏡は渡した。

「こわしちやいけんぜ」。

「大夫丈ですよ」トこわごわ眼鏡を眼のそばへ持つて来て「ヲヤ何にも見えないよ」ト愛度気あどけなくいツた。

「そ、そんな……眼を細くしなくツちやいかない、眼を」トさながら不機嫌な教師のやうな声で叱ツた。「アクーリナ」は眼鏡をてがツてゐた方の眼を細めた。「チヨツ、まぬけめ、そツちの眼ぢやない、こツちの眼だ」トまた大声に叱ツて、仕替える間もあらせず、「アクーリナ」の持ツてゐた眼鏡をひツたくツてしまツた。

「アクーリナ」は顔を赤くして、気まりわるさうに笑ツて、余所よそをむいて、

「どうでも私たちの持つもんぢやないと見える」。

「知れた事サ」。

 かわいさうに、「アクーリナ」は太い溜息をして黙してしまツた。

「アヽ『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、どうかして、一所に居られるやうには成らないもんかネー」トだしぬけに云ツた。

「ヴヰクトル」は衣服の裾で眼鏡を拭ひ、再び隠袋かくしに納めて、

「それやア当坐四五日はちツとは淋しからうサ」ト寛大の処置を以て、手づから「アクーリナ」の肩を軽く叩いた。「アクーリナ」はその手をソツト肩からはづして、おづおづ接吻した。「ちツとは淋しからうサ」トまた繰返して云ツて、得々と微笑して、「だがやむを得ざる次第ぢやないか? マア積ツても見るがいゝ、旦那もさうだが、おれにしてもこんなケチな所にやゐられない、けだしモウぢきに冬だが、田舎ゐなかの冬といふやつは忍ぶべからずだ、それから思ふと彼得堡ペテルブルグ、たいしたもんだ! うそとおもふなら往ツて見るがいい、お前たちが夢に見た事もない結構なものばかりだ。かう立派な建家、町、カイ社、文明開化――それや不思議なものよ!……」(「アクーリナ」は小児の如くに、口をあいて、一心になツて聞き惚れてゐた。)

「トはなしをして聞かしても」ト「ヴヰクトル」は寝返りを打ツて、「無駄か。お前にや空々寂々だ」。

「なぜへ、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、わかりますワ、よく解りますワ」。

「ホ、それはおえらいな!」

「アクーリナ」はしをれた。

「なぜ此頃わさう邪慳じゃけんだらう?」ト頭をうなだれたまゝで云ツた。

「ナニ此頃わ邪慳だと……?」ト何となく不平さうで「此頃!フヽム此頃!……」

 両人とも暫時無言。

「ドレ帰らうか」ト「ヴヰクトル」はひぢを杖に起ちあがらうとした。

「アラモウちツとお出でなさいよ」ト「アクーリナ」は祈るやうに云ツた。

「何故?……暇乞ひならモウ是れで済んでゐるぢやなひか?」

「モウちツとお出でなさひよ」。

「ヴヰクトル」は再び横になツて、口笛を吹きだした。「アクーリナ」はその顔をジツと視詰めた、次第々々に胸が波だツて来た様子で、唇も拘攣しだせば、今まで青ざめてゐた頬もまたほの赤くなりだした……

「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」トにじみ声で「お前さんも……あんまり……あんまりだ」。

「何が?」ト眉を皺めて、すこし起きあがツて、キツと「アクーリナ」の方を向いた。

「あんまりだワ、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、今別れたらまたいつ逢はれるか知れないのだから、なんとか一ト言ぐらゐ云ツたツてよさゝうなものだ、何とか一ト言ぐらゐ……」

「どういへばいゝといふんだ?」

「どういへばいゝか知らないけれど……そんなこつたア百も承知してゐるくせに……モウ今が別れだといふのに一ト言も……あんまりだからいい!」

可笑をかしな事をいふやつだな! どういへばいゝといふんだ?」

「何とか一ト言くらゐ……」

「エーくどい!」ト忌々いまいましさうに云ツて、「ヴヰクトル」は起ちあがツた。

「アラかに……かにして頂戴よ」ト「アクーリナ」は早や口に云ツた、辛うじて涙を呑み込みながら。

「腹も立たないが、お前のわからずやにも困る……どうすればいゝといふんだ?もともと女房にされないのは得心とくしんづくぢやないか? 得心づくぢやなないか? そんなら何が不足だ? 何が不足だよ?」トさながら返答を催促するやうに、グツと「アクーリナ」の顔をのぞきこんで、そして指の股をひろげて手をさしだした。

「何も不足……不足はないけれど」トどもりながら、「アクーリナ」もまた震へる手先をさしだして、「たゞ何とか一ト言……」

 涙をはらはらと流した。

「チヨツきまりを始めた」、ト「ヴヰクトル」は平気で云ツた、うしろから眉間みけんへ帽子を滑らしながら。

「何も不足はないけれど」ト「アクーリナ」は両手を顔へ宛てゝ、すゝり上げて泣きながら、再び言葉をいだ、「今でさへ家にゐるのがつらくツてつらくツてならないのだから、是れから先はどうなる事かと思ふと心細くツて心細くツてなりやアしない……屹度きつと無理矢理にお嫁にやられて……苦労するに違ひないから……」

「ならべろならべろ、たんと並べろ」、ト「ヴヰクトル」は足を踏み替え乍ら、口のうちで云ツた。

「だからたツた一ト言、一ト言何とか……『アクーリナ』おれも……お、お、おれも……」

 不意に込み上げて来る涙に、胸がつかえて、云ひきれない――「アクーリナ」は草の上へうつぶしに倒れて苦しさうに泣きだした……総身をブルブル震はして頂門で高波を打たせた……こらへにこらへた溜め涙の関が一時に切れたので。「ヴヰクトル」はなきくづをれた「アクーリナ」の背なかを眺めて、しばらく眺めて、フト首をすくめて、身を転じて、そして大股にゆうゆうと立ち去ツた。

 暫くたツた……「アクーリナ」は漸く涙をとゞめて、頭をもたげて、をどり上ツて、四辺あたりを視まはして、手をうつた、跡を追ツて駈けださうとしたが、足がかない――バツタリ膝をつひた……モウ見るに見かねた、自分は木蔭を躍り出て、かけよらうとすると、「アクーリナ」はフト振りかへツて自分の姿を見るや否や、たちましのにアツと叫びながら、ムツクと跳ね起きて、木の間へ駈け入ツた、かと思ふとモウ姿は見えなくなつた。草花のみは取り残されて、歴乱として四辺に充ちた。

 自分はたちどまった、花束を拾ひ上げた、そして林を去ツてのらへ出た。日は青々とした空に低く漂ツて、射す影も蒼さめてひやゝかになり、照るとはなくて只ジミな水色のぼかしを見るやうに四方に充ちわたツた。日没にはまた半時間も有らうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄ろくからびた刈科かりかぶをわたツて烈しく吹付ける野分のわきに催されて、そりかヘツた細かな落ち葉があはたゞしく起き上り、林に沿ふた往来を横ぎつて、自分の側を駈け通ツた、のらに向いて壁のやうにたつ林の一面は総てざわざわざわつき、細末の玉の屑を散らしたやうに、きらめきはしないが、ちらついてゐた、またくさはぐさわらの嫌ひなくそこら一面にからみついた蜘蛛くもの巣は風に吹きなびかされて波たツてゐた。

 自分はたちどまった……心細く成ツて来た、眼にさへぎる物象はサツパリとはしてゐれど、おもしろもおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になツた冬のすさまじさが見透かされるやうに思はれて。小心なからすが重さうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フトかうべめぐらして、横目で自分をにらめて、急に飛び上ツて、声をちぎるやうに啼きわたりながら、林の向ふへかくれてしまツた。鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んで来たが、フト柱を建てたやうに舞ひ昇ツて、さてパツと一斉に野面のづらに散ツた――ア、秋だ! 誰だか禿山はげやまの向ふを通ると見えて、から車の音が虚空に響きわたツた……

 自分は帰宅した、が可哀さうと思ツた「アクーリナ」の姿は久しく眼前にちらついて、忘れかねた。持帰ツた花の束ねは、からびたまゝで、ほいまだに秘蔵して有る………………………

(明治二十一年七~八月)