狂言の話芸性
「話芸」というのは、大ざっぱな言いかたをすると、口舌の芸すなわち〈話の芸〉のことである。つまり、落語、講談、浪花節などのように、〈話す〉、〈読む〉、〈語る〉といった技法で表現する芸が、一応、話芸というジャンルでくくれるわけだ。それを、さらに漫談、漫才、活弁、古くは節談説教から、隣接する〈語り物〉の平曲、浄瑠璃のたぐいにまでひろげることもできるわけである。
最近、「話芸」ということばは、マスコミをはじめ一般にもよく使われているので、古くからある呼称のように思われているが、実はきわめて新しいことばなのである。もともと話芸という呼称がおこったのは戦後(太平洋戦争)のことで、一部の研究者がぼつぼつ論文の中などで使いはじめるようになったのが昭和三十年前後である。しかし、こんにちのように一般用語としてひんぱんに使われだしたのは、寄席の盛況が伝えられだした、四十年代に入ってからのことである。
いまためしに、現在(1976年現在)刊行されている国語辞典、百科事典、現代用語辞典などの辞書類をひいてみれば判ることだが、どれを見ても「話芸」という語彙は出てこないはずである。ということは、「話芸」ということばが、まだその筋からは正式(?)には認知されていない呼称だからである。
しかし、大部分の人は話芸というものを、その字づらから、あるいは実態から、落語、講談のような〈話す芸〉(話術とは違う)をさしている呼称だということを概念的にはとらえているのではなかろうか。
ところで、この話芸と狂言はたいへん共通する点がある。たまたま、本紙(1976)3月号の “能楽対談” の中で、和泉保之(元秀)氏が「狂言にはいろいろな要素があり、多分に話芸的ですから……」ということを話していたが、これなどもそういう意識があってのことだろう。
さて、この傍点をふった和泉氏のことばだが、前後の話から考えると二つの意味があるのではないかと思う。ひとつは狂言の話芸性の強調、つまり狂言は本質的にはせりふ中心の話す芸だということであり、もうひとつは狂言の構成要素の中に話芸的なもの、つまり〈話しの芸〉に共通する要素が多いということである。
そこで、なぜ狂言が「多分に話芸的」なのか、狂言の中のそういう話芸的な要素がどんなふうな実態をもっているのか、思いつくままに述べてみることにする。
狂言は無論口をきく芸能であるが、だいたいにおいて、複数の登場人物の〈せりふ〉と〈しぐさ〉による対話によって筋がはこばれる。その上、さらに扮するという行為が加わるわけだから、話芸というよりは明らかに演劇である。しかしながら、他の演劇などにくらべた場合、やはり話芸的な要素がいちばん多い芸能ではないかと思う。
もちろん、狂言には他の演劇には見られない歌舞的な要素も非常に多く、その占める比重はかなり大きいといえよう。能と同じように、演技の基礎として〈舞歌〉の二曲を習いきわめることを強調しているのもそのあらわれである。しかし、狂言が「科白劇」といわれながら、その性格も、演出も、〈しぐさ〉より〈せりふ〉に、より多くのウエイトがかけられていることもまた明らかである。その修業過程を見ても——舞歌の稽古は別として——、〈せりふ〉と〈しぐさ〉ということで考えるならば、より多くせりふの方が重要視されていることははっきりしている。つまり、本質的にはやはりせりふ中心の話芸性の強い演劇なのである。
この狂言のせりふを構成している大きな要素が〈語る〉〈謡う〉という技法である。これらの技法は形式の上ではせりふと異なるわけだが、狂言の演技の基礎になる重要な要素になっている。なかでも、〈語り〉の技法は、能の中で狂言師がうけもつ、間狂言においても大いに生かされているのである。
狂言に話芸的な要素が濃いといわれる理由のひとつは、この〈語る〉という独特な演技があるためである。すなわち、普通の対話のせりふではなく、見物人である観客に向って語りかけるという技法、とくに改まった口調でしゃべったり、語ったりする部分がたいへん話芸的なわけである。
もう少し具体的にいうと、狂言には、対話劇でありながら、長いせりふになると、正面を向いて話したり、語ったりする技法がある。この正面を向くという演技は、完全に、相手役に話すという次元だけではなく、観客(聴衆)に対しても語りかけているわけである。同じように、能におけるアイの「語り」の場合でも、最初はワキに対して話しているが、正面を向いた時には観客に語る、つまり説明するという姿勢になるわけである。こうした〈語り〉の手法は、能や歌舞伎の中にも見ることができるが、やはり狂言の技法がいちばん話芸的で、特色があるのではなかろうか。
いってみれば、話芸というのは、〈話す〉にしろ、〈語る〉にしろ、〈読む〉にしろ、基本的には聞き手である観客に向って口をきく芸のことなのである。したがって、狂言の中の「語り」とか、間狂言の「間語り」みたいなものは、本来は相手役であるアドやワキに対してのことばであるにせよ、意識としては第三者である観客に向って語っているわけだから、そういう意味でも話芸的であるということがいえよう。
ところで、能で狂言師が一役をになう間狂言の、もっとも一般的な形が「語り間」である。この「語り間」は、居語りと立しゃべりに分けられるが、ともに能の中で重要な役割をもっている。すなわち、能の前場と後場の間で、その曲の主題とか状況を、観客に判りやすくかみくだいて話すという役目があるわけだ。つまり、アイの〈語り〉は、観客と能との間に立って、解説役を果しているのである。それだけにこの〈語り〉は、シテが装束を替える間の単なるつなぎの物語ではなく、その曲の雰囲気を醸成して、観客に伝えるだけの語りのテクニックが必要なのである。「語り」の内容は、神話、説話のたぐいから、人情話、戦物語までいろいろな種類がある。だから、「語り」といっても一様ではなく、しみじみしたものもあれば、はげしいものもあり、技術的にも難しいといわれている。この話法は、狂言のせりふの技術と、能の謡としてのせりふの技術の接点にあるといえるだろう。
だいたいにおいて、アイの語り口というのは、それほど大きな抑揚をつけず、どちらかというと淡々とした調子で語る場合が多い、このような説明的な〈語り〉の技法も、また話芸に共通する部分ではないかと思う。これは講談の「読んで聞かせる」という表現にも通ずるところがあるのではないだろうか。
いま、講談の田辺南洲が野村万作氏のところで狂言の稽古をしているが、講談の修羅場を読むときに、狂言の戦物語が役に立つと言っている。講釈と戦記物の語りとがテクニック的に似ているのである。狂言のもつ〈語り〉の技法が軍談物の〈読み〉に役立っているわけである。野村万之丞(現・萬)氏は、「せりふよりも語りの方が、息中心の技術を用いなければ、強い訴えかけができない、〈語り〉はこの技術を正確に把えやすい」と、〈語り〉における呼吸の演技の必要性をといているが、講談も、軍談物の調子には、序・破・急の三つの呼吸があり、ひく息は、はく息の調子に、はり扇のひびきが加わり、全体の盛りあがりが生まれるのだといわれている。息扱いによる語りの技術が、狂言の場合も、講談の場合も力強い表現を生みだしているわけである。
ところで、狂言の〈語り〉にはたしかに講談調の写実的なものもあるし、戦記物などは事実講談の〈読む〉という形式に近いといえよう。しかし、根本的に違うところがある。それは、間語りはともかく、狂言は必らず扮してやるものだということだ。つまり、狂言師が〈語る〉のではなく狂言師が扮した役、たとえば太郎冠者ならば太郎冠者が語るということなのである。この扮するということは話芸と決定的に違うところである。
たとえば、「奈須の語」を独立させて演じる場合でも、やはり〈語り手〉に扮しているといってよいだろう。ただこの場合は、ほかのものと違って演者の “素” の部分が強く出ることは否定できないであろう。しかし、狂言の〈語り〉というのは “素” に近いものはたしかにあるが、本当の意味での “素” の語りというのは存在しないわけである。常になにかに扮していることになる。だから、狂言にはいろいろな役があるが、その役になるには、その役の気持でせりふを言ったり、また語ったりしているわけである。
そういった意味では、落語の表現法とか演出法は狂言に似ている点がある。一例をあげてみよう。落語の話術というのは、はじめから演者を消し去ってということは役に扮して、対話だけではなしを進める。それも一人の声で老若男女を演じるわけで、それぞれの登場人物になりきって、いわゆる役づくりをして対話をはこんでいくという独特のテクニックをもっている。だから、マクラのおしゃべりは別として、本題に入ってせりふのやりとりが始まると、演者は消えてしまい、ドラマの世界になるわけである。桂米朝はこうした落語の話術について「演者が消えてしまう話法」という説明をしている。これなどは、逆に話芸のなかにある演劇的要素といえるであろう。
ところで、そろそろ私に与えられた紙幅がつきそうである。この辺で狂言の中にある話芸的な要素、つまり、〈話し〉〈喋べり〉〈語り〉といった技法が、実際にどうあるのか、少し具体的に例をあげてみよう。
まず〈話し〉だが、話すというのはもちろん相手があっての話しだが、この場合は短いことばをやりとりする会話という意味ではなく、登場人物の一人が相手にながながと話しをするという形式のものだ。たとえば、「鐘の音」「菊の花」などが例にあげられる。
次に、話す技法がもう少し複雑になって、口調としては〈語り〉に近いものとして「空腕」とか「縄綯」があげられるだろう。これらは、〈語り〉ほど改まらないにしても、普通のせりふともちょっと違う、やや “語り的” といった部分がある。しゃべり語りともいわれている。
さて、〈語り〉だが、語りも相手があってしゃべるのだが、せりふでもない、また音楽性があるが歌謡でもない、要するに物語り用の特殊なしゃべり方なのである。狂言にはこの〈語り〉を中心にした曲、つまり〈語り〉を語らせるために出来ている曲と、そうではないが〈語り〉が入っている曲が割合に多い。その代表的なものをあげると、昔話、伝説を物語るものに「釣狐」「箕被」、戦物語に「文蔵」「朝比奈」、事物の起源や由緒を物語るものに「膏薬煉」「二千石」、神仏の縁起譚に「夷大黒」などがある。これらの曲は、もちろん筋はあるわけだが、シテである演者になにかを物語らせること、つまり〈語り〉の部分がそれぞれ眼目になっているといってよいだろう。
たいへん雑ぱくな内容になってしまったが、狂言の話芸的な面についてふれてみたつもりである。あらためていうまでもなく、たしかに狂言は多分に話芸的である。だが、この話芸的要素と歌舞的要素があるからこそ、狂言が対話劇でありながら、写実につきすぎないように抑制されているのであり、また様式性と象徴性の強い、ユニークな演劇としての存在理由があるわけである。
日本では朗唱術が完成されなかったといわれている。しかし、その代りをつとめたのが「語り」であり、それがこんにちの話芸という形で多彩な展開をとげたのである。狂言の中にある話芸的要素が、いわゆる「話芸」といわれる落語、講談などに、多くの影響をあたえ、また摂取されるものがあったことはまちがいないだろう。
残念ながら、最近ではことば中心の曲より、動き中心の曲が上演される機会が多い。これは観客側の好みなのかも知れないが、演者側にも安易さがないとはいいきれないはずである。狂言が話芸性(演出面でも技術的にも)を失なったときがこわい、そんなことはないとは思うが。
(「能楽タイムズ」一九七六年八月)
家元制度雑感
近藤乾三氏の発言
昨年(1985)十二月四日付朝日新聞夕刊の『新人国記』に、”能—伝統を守る道”の標題で、能界の実力者の談話が紹介されていたが、能界の周辺にいる私にとって、これは実に面白かった。なかでも、能楽界の最長老である近藤乾三氏と宝生流家元宝生英雄氏(先代)の家元制度にふれての発言は、最近家元にからむ事件が二、三あっただけに、家元制度という問題について改めて考えるきっかけになった。ともあれ、その記事を読んでいない人もあるかと思うので、まずおふたりの談話を紹介しよう。
乾三氏は「家元制度ですか。私は、芸の優れた者が、順々に流儀を継いでいくのがいいと思っていますがね」と、記者の質問に答え、これを承ける形で、英雄氏が「日本舞踊のように自由に流派が作れるなら別でしょうが、五流しかない能で伝統を守るのに、力のある者の支配でうまくいくでしょうか」と言っているのである。
もちろん、この発言はそれぞれ別の場で取材されたものだが、二人の立場の違いがはっきり表われていて面白い。乾三氏は、芸術院会員、人間国宝であり、昨年はまた文化功労者にも選ばれている斯界での芸の実力者である。だからこそ出来た発言であり、またこうした発言が許される
わけだが、これは現代の家元制度あるいは家元に対するはっきりした批判といってよいだろう。当り前のことだが、家元制度や家元を批判するのは、常に芸の実力者で、近年でいえば桜間道雄や観世寿夫といった人たちである。ところで乾三氏の批判、よくよく読んでみると従来の批判とはひと味違うことに気がつく。家元あるいは家元制度は認めた上で、その地位を世襲的に継ぐことへの批判をしているのである。
流儀の統率権
英雄氏の発言は、多分乾三氏の発言を聞いた後での取材だろうから、下世話にいえば相当 “頭にきていた” のであろうと思う。せい一杯の反発とにがにがしさがその発言にうかがわれる。たしかに、芸の力があるからといって流儀を支配できるものではない。統率力も必要だろうし、人望もなければなるまい。これは芸とは別の力である。名人名手といわれる人は往々にして、芸のためにはわがままであり、自分勝手である。流儀の統括のため、発展のためといういわば芸事上以外のことに、どの程度神経を使ったり、かかずらわったりすることができるであろうか疑問である。なかには雑事にわずらわされず芸の修行に専念できたからこそ名人名手になれたといえる人もいるであろう。もっとも、芸に専念したからといって誰でも名人名手になれるわけのものではないことも至極当然である。しかし、例えばの話、現在のような枠組みの中で桜間道雄、近藤乾三、後藤得三といった人たちが家元であったとしたらどうだっただろう。
また名人名手になるには、やはり資質だけではなく、環境というか、そのおかれている状況みたいなものも大きく影響するのではないだろうか。
能の世界では、家元系統で芸術院会員とか人間国宝になった人は少ない。芸の名人でもあり、流儀をとりしきる政治家でもあるというのは、容易なことでは両立しにくい条件なのかも知れぬ。喜多六平太は名人といわれ、芸術院会員、人間国宝になり、文化勲章を受賞しているが、これなどは珍しい例である。宝生九郎重英、喜多実も芸術院会員になっているが、名人名手であるという話は聞いたことがない。しかし、この二人が、家元としての統率力に優れ、名伯楽として優秀な後継者を数多く育てたことはよく知られている。
ことに宝生九郎などは、芸についてはいろいろと批判された人だが、こんにちの宝生流を見ると、指導者としては優れていたことが分かる。松本恵雄、今井泰男、三川泉、金井章、近藤乾之助など、皆九郎の育てた人たちだが、いずれも芸の上での実力派になっている。伝統を守るという基本は、優れた後継者を養成することである。とすれば、九郎などは家元の役割を立派に果たしたといえよう。
ところで、その家元だが、家元制度の中では芸の実力がなくとも家元たりうるわけである。つまり、現代では大体において世襲的にその地位につくといってよいだろう。そして、ついでに免状、謡本の発行権なども家元が独占的に世襲する。家元を家元たらしめるものは実技上の権威ではなく、こうした権利を柱とする流儀の統率権である。この統率権が家元に集中しているために、家元は家元制度の中にあって芸の実力とは関係なく強大な支配力をもつことができるのである。
世襲か実力者か
さて、乾三、英雄両氏の発言に触発されて思いつくままに筆を進めてきたが、この辺で問題を一たん整理してみよう。
まず乾三氏の発言だが、要するに家元は世襲でなく芸の優れた者、つまり名人名手と云われるような人が継いでいくべきだという実力本位の考え方である。これはその人が統率力、指導力をも兼ね備えていたならば理想的だろう。しかし、先に述べたようなことであれば困る筈だ。次いでの英雄氏の発言だと、《伝統を守るのに芸の実力者の支配でうまくいくでしょうか》と疑問形になっているが、要するにうまくいかないだろうと言っているわけだ。その前段に《日本舞踊のように自由に流派が作れるならば別》と言っているから、能の場合は分流が出来ないことが、芸の力だけでは無理な理由ということになるのだろうが、意味がよく分らない。恐らく、伝統を守り、流儀を継いでいくには別の能力や世襲を含めての条件が必要だということを言いたかったのだろう。同じ『新人国記』の中で、観世元正氏が「能のような伝統芸術を伝えるには、家組織
がある程度必要」と語っているが、英雄氏もそれを言っているのかも知れぬ。元正氏の言っている家組織というのは観世家とか宝生家といった家を頂点とする流儀のことを指しているのだと思う。つまり家元を中心とする流儀のことである。
家元の最大の役割は優れた後継者を養成することだとして、先代宝生宗家九郎のことを書いたが、実はその功績は九郎だけのものではない。先々代宗家で名人と言われた宝生九郎知栄に厳しく仕込まれた野口兼資、近藤乾三、高橋進、田中幾之助などの名手が同時代にいたのである。ここが肝心なところである。これらの人たちは九郎の弟子たちに直接に指導はしなかったであろうが、間接的には芸のお手本として影響を与えていたと考えてよいだろう。同じことは、喜多流の後藤得三にも言えるだろう。能の伝統を守り、流儀の芸格を守り、後継者を育ててきたのは家元を中心とする家元制度であるかも知れぬが、同時に、同時代に生きた名人名手たちでもあったのだ。.
家元制度は日本人の根強い権威主義的性格によって支えられているといってよいだろう。だから、家元の名の入った免状を欲しい人がいる限り、家元制度は安泰といえるであろう。その家元、世襲か実力者かの選択は免状の欲しい人にアンケートをとってみると面白い。多分、芸の実力者=名人が家元の方がよいという答えが多いであろう。なぜならば、現代では世襲による地位を権威と認める感覚だけはなくなっているからである。従ってそんな都合の悪いアンケートを現在の家元がとることは絶対にないといえよう。
ともあれ、乾三氏のような能界の最長老の強い発言があったとしても、家元権は従前通り芸の実力とは関係なく家元の家系の世襲によって継承されるであろう。また、優れた芸の持ち主が必らずしも家元として適任であるとは限らない。ならばどうすればよいであろう。長老の意見も尊重し、世襲制度を残した次善の策はないものだろうか。ない知恵を絞って考えたのが次のような「家元機関説」に基づく家元制度近代化案の骨子である。
継承権の明確化
モデルは能界の最大流派観世流ということにしよう。まず家元は宗家の名称で観世流という法人の “機関” だということにする。統率権はないが流儀の象徴としてうやまわれ、対外的なセレモニーに参加するほか、舞台を含めすべての象徴的行為に携わる。
その地位の継承は、血統主義すなわち世襲を原則とする。次に芸事上の統括者として別に家元を置く。家元は職分の中から芸の優れた者を互選、職分の三分の二以上の賛同をもって選任する。さらに家元補佐を職分の中から数名任命、その適性によって芸事上、芸事上以外の流内業務をそれぞれ管掌させる。職分は準職分或いは師範の中から職分昇格試験に合格したもので、芸はもちろん人格・識見ともに優秀と認めたものを登用する。なお、家元、職分についてはその世襲を認めないが、準職分、師範は一定の基準をもって世襲を認める。また免状、謡本の発行権は流儀に帰属し、その収入は家元を含む職分会が管理・運用し、後継者の養成など流儀の発展と面・装束など舞台関係の必需品の購入、師範以上の福利・厚生のために使う。宗家には流儀の象徴としての役割と体面とを保持するために必要経費を宗家費の名目で特別会計に組む。
この案の最大の特徴は宗家と家元を分離し、その役割と継承権を明確にしたことである。宗家は能力の有無にかかわらず世襲だが地位は単なる流儀の象徴にとどめる。そして家元には名人名手といわれるような芸の実力者をつかせ、芸事上の指導者として正しい芸の伝承と発展に当らせる。家元補佐は芸事上と芸事上以外の担当を決め、家元の補佐として流儀の統括と発展に協力させる。
家元、家元補佐の選出母体になる職分は会社・企業の役員に当たるわけで流儀の根幹になることを考えて、一切の世襲は認めず厳しい試験で登用するのがよいだろう。その代わり、準職分については家格・流儀への貢献などを考慮して、歌舞伎の名題試験のようなもので世襲を認めたらどうだろう。職分に昇格するためには、実力がなければ駄目なのだから。
家元制度の近代化
さて問題は、家元制度の中核をなす免状、謡本の発行権だが、これは流儀のものと考えるのが近代的であり民主的だろう。宗家には “皇室費” みたいな形で年間一定の予算を組むが、収入の大部分は流儀のために使われるべきで、流儀のプロの芸術的活動の援助や生活権を守るためにも使われてよいのではないだろうか。例えば流儀を代表するような芸に優れた人たちには、遊芸の師匠的なことはやめてもらって芸術家として舞台活動に専心してもらうとか、病気になって収入のなくなった者には生活を援助してやるとか、収入の範囲でいろいろと考えられるだろう。
なおつけ加えるならば、宗家は流儀の象徴にふさわしくあるよう芸の修業研鑽に励んでもらい、例えば宝生九郎知栄が名人と言われたように、名人宗家が生まれるのは好ましいだろう。
近藤乾三氏の《家元は芸の実力者が》という発言から、私の “家元制度近代化案” に展開してしまったが、”案”などと言ったものの、種を明かせば実は会社企業の組織や形態に能の流儀をあてはめただけのことである。
企業は利益を追究し、会社を守るため、能は芸道を追究し、伝統を守るため、とその目的は違っているかも知れぬが共通するところもあろうかと思う。
国立能楽堂が開場し、能界はますます繁盛している。が、中身はだんだんに薄くなるというのが能をよく知る人の実感である。純粋な観客も増えてはいる。しかし、マクロでみた場合、やはり能の社会を支えているのは構造的には素人弟子といえよう。そして、この素人弟子のきわめて日本的な権威跪拝意識が家元制度を支えているといってよいだろう。従って、こうした日本人の権威跪拝意識が改革されない限り、家元制度は厳然と存在する筈である。さればと、家元制度の是非はともあれ、容認折衷しての近代化案となったわけである。
能を守ろうと心配している人は、能界の内側にも外側にもまだたくさんいる。私のいうことなどはミミズ
の戯言のようだが、誰でもこのぐらいのことは考えたことがあるのではないだろうか。家元制度の近代化の時期は間近かにきているといえよう。
(「現代能楽」一九八六年四月)
黒川能 ―農民の芸能―
雪深い山形県の小さな里、黒川にひと月遅れの正月、つまり二月一日から二日にかけて夜を徹して演じられる黒川能がある。
黒川能との出会い
私が初めて黒川を訪ねたのは、昭和四十一年(1966)の王祇祭である。早朝に東京を立ち、鶴岡に着いたときはすでに日も暮れ、黒川でバスから降りると、辺りはすっかり暗くなっていた。私はバスの中で知り合った村の人に伴われて、雪あかりをたよりに、白一色の野の道を黒川能が行なわれる下座の当屋(毎年、上・下両座のそれぞれ最年長者が当屋頭人に選ばれ、自宅を神宿として能舞台に開放する)へ急いだ。厳冬の如月である。外は相当に寒気が厳しかった筈だが、私にはその感覚はいま思いだせない。しかし、当屋の中の人いきれによる暖かさの方はよく覚えている。
だが、それよりなにより、当屋の中に入ったとたん、私はその異様な光景に目を見張った。内部は、板戸や障子・襖などのしきりがすべて外され広いひと間にされ、そこに村人たちがすでにびっしり座り込んでいた。そして、その中央に、四メートル四方ぐらいの舞台が敷かれ、ぐるりには五百目掛け、一貫目掛けの大蝋燭が赤々とともされ、天井や梁には “御神酒代五千円也” とか、”玄米一斗” などと奉納品を書いた紙が所狭しとぶら下がっているのである。それは、長い間、いろいろなところで能を見てきた私にとっても、まったく未知の空間だった。
そして、さらに私を驚かしたのは、脇能(神の能)が終わり、”中入り” と称する休憩時間になると、役者衆が舞台の上に居並び、酒を飲み夜食をとり始めたことだ。それをきっかけに見物人も持参の重箱をひろげ、樽に入ったかん酒を世話人がすすめ始める。身動きもできないほどぎっしり詰まった見物人の間を、酒樽や熱い砂糖湯が回る。私もその振る舞いにあずかったことはもちろんである。やがて、また能が始まったが、見物は御馳走を食べながらの観能である。そういう見所(観客席)、こういう観客にかこまれた能は、いまではほかに見られない風景である。
その夜、私は下座の当屋から上座の当屋へと移動して、農民の舞う能を見て回った。しんしんと更けてゆく当屋の中、舞台では悠々と、淡々と、謡を謡い、笛を吹き、鼓を打つ。見物も、時々は、退屈したり、窮屈だったり、眠くなったりするけれど、徹夜の演能にひたり、祭りの雰囲気を楽しんでいるのである。明け方の五時頃、祝言の能が終わった上座の当屋で朝食をご馳走になった。名物の凍豆腐に、漬物、みそ汁、ご飯と簡単なものだったがその美味しかったこと、私の忘れられない黒川の味である。
翌年、私は、顧問をしていた能楽春秋会のメンバーを誘って再び王祇祭を訪れた。亡くなった観世寿夫さんも一緒で、われわれ一行は上座能太夫釼持泉家と下座能太夫上野左京家に分宿させて貰った。そして、それぞれの座の王祇祭を始めから終わりまで見物させていただいた。祭りの翌日、春日神社の舞台に、観世寿夫さんは「安宅」の舞囃子を奉納、狂言の山本東次郎さんは、水垢離をとって「那須」の語りを神前に捧げた。この時の、黒川の役者衆と東京の能楽師たちの、真剣でなごやかな交歓は美しかった。黒川能の戦後の歴史に大きく記される出来事になった。
黒川能の魅力
私がそうであるように、黒川能を見に黒川を訪れた人は不思議と二度、三度とこの地に足を運ぶ。なかには毎年のように通う人もいる。かつて、法政大学能楽研究所長で能楽研究の権威である表章さんが、ある席でこう警告したことがある。「黒川へは行かぬ方がいい、行った人はみな黒川に淫する」と。事実、黒川に淫し、とりこになったと言われる人は多い。そうした、黒川能に魅せられ通いつめる人々の共通した特色は、能そのものだけの魅力ではなく、黒川そのものの魅力に取りつかれてしまうところにある。
歌人の馬場あき子さんもその一人で、「何年もかかって黒川能をみているうち、いつしか黒川は、心のふるさとになってしまったようだ」という。そして、黒川には「現代が忘れている心の原点がある。謙虚な心の暖かさがある」とその惹かれていった理由について語る。黒川の能と風土の美しさ、能の村の人々の心のやさしさ、これは黒川を訪れた人のだれもが口にする言葉である。ともあれ、ここでは黒川能を紹介するのが私の役目である。
黒川能の里
上野から上越新幹線に乗り、新潟で羽越線の特急「いなほ」に乗り換え鶴岡まで約四時間。鶴岡駅からバスで三十分。黒川能のふる里、山形県東田川郡櫛引町大字黒川は、鶴岡市の東南八キロばかりのところにある。北に鳥海山を望み、西は朝日連峰の北端、金峰、母狩の連山、南東に羽黒山、月山、湯殿山など、いわゆる出羽三山をひかえた庄内平野の一角である。
冬は、日本海からの風がまともに吹きつけ、よほどの暖冬でもないかぎり深い雪に閉ざされ、すっぽりと白の世界に変身する。春は、里にも山にもいちどきにやってくる。田んぼのあぜ道の雪が消え、淡いみどり色のフキのとうがまぶしそうに花をひらく。果樹園の桜桃、ナシ、リンゴ、モモが一斉に花をつけ、その香りが村中にただよう。この頃、春の農作業も一斉にスタートを切る。梅雨がひっそりとやってきて田畑を肥やし、夏が来る。田んぼが緑のジュータンに移り変わり、村は真夏の陽光の中に静まりかえる。しかし、農民たちはもくもくと田の草取りに精を出す。やがて実りの秋、ササニシキの穂が色づき、あたり一面黄金色に輝く。たわわに実るりんご、ぶどう、そして庄内柿と、果樹も鮮やかに色づき、ススキがにぶい銀色に光る頃には、草も木もすっかり紅葉する。黒川能のふるさと、櫛引町の四季の移ろいはまことに美しい。
黒川能の歳時記
黒川能はこうした黒川の美しい四季と深いかかわりをもつ。さらにいうならば、四季の祭りと切っても切れない芸能といってもよいだろう。
その祭りの中心になるのが王祇祭である。ひと月遅れの正月、つまり二月一日から二日にかけて行なわれるこの祭は、黒川にとってもっとも重要な行事で、一年の祭りごとの事始めであるばかりでなく、すべての生活のリズムの頂点にもなっている。黒川能は、この冬の祭りのメイン・イベントとして夜を徹して演じられるわけである。
次にここで、王祇祭に始まる黒川能の一年を歳時記風にひろってみよう。
王祇祭のあと、能が演じられるのは三月二十三日の春日神社祈年祭である。月山の雪解け水で、集落の西を流れる赤川の水量が増し、川沿いの新緑が美しい頃である。神社の拝殿舞台で能は舞われる。五月十三日の春日神社例大祭も同じ社殿で舞われる。さわやかな青葉の候である。
夏、七月十五日には、羽黒山の花祭りに能二番、狂言一番が奉納される。古くからの慣例である。八月十五日にも、旧藩主酒井家を祀ってある鶴岡市の庄内神社の祭礼に、翁と二番の能が奉納される。また、夏の演能行事として三年前から新しく加わったものに、七月三十日の「水焔の能」がある。黒川能による唯一の野外能であり、これは今をはやりの薪能である。
秋、十一月二十三日の新穀感謝の日、春日神社に氏子の人びとが新しく収穫した米を精白して献納するが、神社の収穫感謝の祭典儀式として能が奉納される。そして、年の暮れの押しつまった十二月十五日、仲村の六所神社の霜月祭りで、春日神社の宮司とともに祭典に奉仕する。これは、正月の王祇祭りの前夜祭ともみられている。
黒川能と春日神社
さて、この辺で黒川能と春日神社について少し説明せねばなるまい。
黒川能は、黒川の地に四百年も前から伝わってきた農民の能である。といっても、本当のところ、いつの頃、誰の手によって、どういう経路をたどって、黒川能がこの地に伝えられたか、今日まだ謎につつまれたままである。地元には、古くから後小松天皇第三皇子の小川宮が能を伝えたという伝説もある。だが、実のところその起源や江戸初期以前の実態はほとんど不明といってよいだろう。しかし、黒川に伝わる古文書などから寛永元年(一六二四年)には神事能としてすでに行なわれていたことは確かとされている。
ところで、黒川能の性格について述べる場合、旧黒川村の氏神である春日神社との関係に触れねばなるまい。なぜならば、黒川能は、春日神社の神事能であり、また能を演ずることこそが春日神社の大切な祭典であり、神事であると言ってもよいからである。
黒川能の行事化された年間の演能日程をみても分かるように、もっとも重要な行事である王祇祭をはじめその大部分は氏神である春日神社の祭りごとである。つまり、春日神社の祭礼、神事を支えているのが黒川能の上・下両座であるといってよいだろう。
ここでは、神社の氏子の祭祀集団である宮座は、そのまま能座の組織でもある。従って、いわば春日神社と黒川能は完全に一体となっていると考えてよいわけである。ここに黒川能の特徴がある。
黒川能の特色
黒川能は、中央の五流(観世、宝生、金春、金剛、喜多)の能と同系ではあるが、いずれの流儀にも属さない独自の様式を持ち、五流では亡びてしまった演目や演式も数多く残している。黒川が今日に伝えるレパートリーは五百番にのぼるというが、これは五流の現行曲のほぼ二倍にあたる数である。昭和六十年(一九八五年)に、国立能楽堂に招かれて東京公演をした際の演目に選ばれた、上座の「大般若」(近年、梅若紀彰が復曲した)「河水」、下座の「鐘巻」「変化信之」などは、五流に絶えてしまった貴重な存在である。
また、舞台面で見た黒川能独特の印象として、着装法に五流の能との違いが多いことに気がつく。例えば、唐織り着流しの出立ちは、五流では襟を折り返して裏を見せるが、黒川では、普通の着物を着るように襟を合わせて着る。そのほか、鬘の結いかた、鬘帯の位置、尉髪の結いかた、腰巻きにした小袖の袖の処理、水衣の肩上げのしかた、腰帯の結びかたなども明らかに違いがある。根本的に異なるのは女面のかけ方である。五流の能とは、つける位置の高さも順序も違う。最初に面をかけ、鬘をつけ、鬘帯を面の額の上からしめる。能面を扮装の最後にやや高めにつける五流の方法は美的感覚を優先させた後世の工夫といえよう。
黒川能を支える人びと
下座の能太夫上野左京さん(六十一歳)、上座の能太夫釼持泉さん(七十二歳)、そして春日神社の宮司の釼持大和さん(七十七歳)と黒川能保存会会長の蛸井伊右衛門さん(七十五歳)、この四人が戦後の黒川能の発展の中心になって活躍した人々である。
左京太夫は、厳格をもって鳴る名人であった父・丹宮譲りの激しい気性と、研究熱心な鋭い技に加えて、なかなかの理論家と言われ、若くして県の文化財に指定されている。また、酒豪の多い黒川でもその酒量のほどはつとに有名だ。
一方、泉太夫は、雑誌『太陽』の特集「雪国の秘事能」で、「騎馬民族の武将のような彫りの深い顔」と紹介された、見事なマスクを持つ。ひかえめで優しい性格で、典雅な芸の持ち主だけに、鬘物(若い女性をシテとする曲)を得意とする。
大和宮司は、黒川農協組合長や櫛引町議をつとめたこともあるが、現在は神職に専念。若いころ、左翼運動に首を突っこんだこともあり、絵画と酒を愛するロマンチストでもある。中でも、酒は二升は軽いと言われ、酒好きの黒川でも一、二を争う酒豪との評判。
伊右衛門さんは、黒川に何軒も分家がある旧家伊右衛門家の当主。温厚篤実な人柄は誰からも好かれ、神社責任役員なども勤める実力者である。
いま、黒川能はいろいろな意味で、世代交替の時期にきていると言われる。しかし、この四人が、その伝統を守るために果たした役割と功績は大きい。黒川能をこよなく愛した東北の詩人、真壁仁の名とともに、黒川の歴史に記されるべき人たちである。
祭祀の文化、信仰行事の芸能として、農民たちによって伝承されてきた黒川能だが、こんにち、時代の推移と社会の変容の中で、さまざまな問題をかかえ、大きな転機に立たされていると言えよう。だが、近年、町もこの郷土の文化財にしっかりと目を向け始めたことは確かである。
櫛引町郷土文化保存伝習館、六十年十一月に黒川能の後継者育成と資料保存を目的に、町と黒川能保存伝承事業振興会が共同で建てた施設である。黒川能伝承のためにこの施設が将来に投げかける光ははかりしれない。
(「東急観光パンフ」一九八九年一月)
夢幻能は能の中核である
本誌(1996)一月号に、堂本正樹氏が「夢幻能は能の中核ではなかった」というエッセーを寄せている。昨(1995)年十一月号に掲載された八嶌正治氏の「巻頭言・能の醍醐味」に触発されての寄稿である。私の寄稿は堂本エッセーに触発されてのものだ。
堂本氏の書くように、「夢幻能」という名称は大正末期に佐成謙太郎が生みだした造語であり(この経緯については田代慶一郎著『夢幻能』=朝日選書=に丹念に追跡されている)、世阿弥の時代、その実体はあったとしても能の中核でなかったことは確かである。また現在の「本三番目能」も江戸時代まで、能の中心だったという歴史的証拠はない。
しかしながら、そのことをもって現在の「夢幻能」や「本三番目物」を能の中核あるいは中心でないと否定することはできないだろう。何故なら、能は明治以後もすでに百数十年の歴史を経てきているのである。その中で、「夢幻能」も「本三番目物」もさまざまある種類の能の核としてのレーゾンデートルを確立しているのだ。それは、堂本氏のいうように、決して〈大きなマイナスを前提とした「現状追認」の価値観〉などではない。
そもそも、能は六百年の歴史と伝統を誇ると言われるが、実は世阿弥時代から現在まで変っていないのは、基本的には台本(能本)と能面の様式ぐらいなのである。なかでも、演出・演技などその表現技術についていえば、長い歴史の中で変化し続け多くの変遷を経てきていることは確かな事実といえよう。ことに、今日の能を見るとき大正以降の変化を無視することはできないだろう。つまり、大正期までは「夢幻能は能の中核ではなかった」わけだが、今日では能を代表する形式としてその存在を示しているのである。
堂本氏は、〈大正期の文化人などが、能といえば「複式夢幻能」と考えた〉のは、当時そうした能に感動が集中していたからであると言う。そしてその理由として、次のようなことを述べている。
*旧幕時代の「座」が解体したために、流儀がアンサンブルを失い、個人が催しの日にのみ集まり、部分の技術を寄せ集めれば出来るのが「能」だった。*この安易を正当化する為に、伝統への盲従が前提とされ、個人芸のみを見、ツレや地・囃子との総合性は没却されていた。*個人芸だけで我慢しないと、小流儀の能は見ていられない。しかも師匠の能を見る素人弟子の立場から個人芸に集中せざるを得ない。*かくて、「夢幻能」は能の中心のように思われてしまう、というのである。
分かり易いように整理したわけだが、要するに堂本氏は、夢幻能に感動が集中したのも、夢幻能が能の中心になったのも、明治以降の能が個人芸になったことがその原因である、ということを言いたかったらしい。そして、秀吉や綱吉などの殿様芸や素人弟子の芸でも破綻なく演じられるのが、〈シテ一人で独演する「夢幻能」だったのだ〉と言い切る。そしてさらに、〈一人でやれば他に比較される事もない〉〈巧いのか下手なのか、局外者には分からない〉とも付け加え、シテ一人主義の能を否定的にみるのだ。
確かに「夢幻能」は、シテの演技が中心になるよう作られている主役独演主義の能である。しかし、堂本氏がいろいろ言うような理由によって、能の中心になったわけではない。その内容・様式・表現などさまざまな要素が演者によって工夫を加えられ、渾然一体となって創り出した世界に魅力があったからこそ、観客に抜群の感動を与えるようになったのである。また、シテ中心主義というのは、シテ一人だけの芸で能が成り立つということではない。他の奏演者の総合を前提としてのシテ中心主義であることをこの際認識しておかなければなるまい。
考えてみると、能の歴史はまたパトロネージュの歴史ともいえるだろう。観阿弥・世阿弥父子が義満と出会ったことにより、秀吉や徳川幕府が保護したことにより、明治維新後は皇室・華族・新興財閥の後援により、そして戦後は謡曲愛好家の支援により、能は時代の変動の中で生きのびてきた。こうした時々のパトロンはまた目利きの観客でもあり、能への積極的な参加者でもあった。それだけに、これらの観客の能に与えた影響はどの時代も大きく、いうならば、観客が今日までの能を作ってきたともいえるのである。
演劇の三大要素というのがある。俳優と戯曲と観客のことだ。俳優と戯曲が必要なのは当然だが、観客もまた不可欠なのである。観客は舞台が良ければ感動を表明し、悪ければ不満を示す。その反応の波動はただちに舞台に及び、劇の成果を左右するのだ。無論、能とてその埒の外にあるわけではないのである。
ところで堂本氏は、〈劇とは本来「対立する人間との関係」で出来ているもの〉と規定する。その上で、個人芸の「夢幻能」は演劇的でないという理由から、〈負の遺産〉だとする。果たしてそうだろうか。本来、劇でいう対立とは人間と人間の関係だけではない筈である。人間と他の何ものか、例えば運命・神・魂・境遇・人間自体にひそむ相反する性情なども、劇の求める対立関係であり素材といえよう。複式夢幻能のもつリアリティーとはまさにそういうドラマのリアリティーといえるだろう。
さて、能は演劇のジャンルの一つであることは今日誰もが認めるところである。しかし、オペラはオペラであるように、能はあくまで能なのである。そして、能の他の演劇に見られない大きな特色はその構造であり舞歌を基本とする様式である。なかでも「夢幻能」は音楽的・舞踊的であると同時に、物語的・劇的であることを追求した結果生み出された独特の演劇形態であり、時間と空間を超えた世界の処理を可能とした演劇なのだ。
八嶌氏の巻頭言は、能の醍醐味を「夢幻能」にありとしたわけだが、堂本氏のいうように〈あげつらう〉、即ちその可否を言い立てたり、論じた部分はどこにも見当たらない。文脈から想像すると、堂本氏は〈あげつらう〉という言葉を、持ち上げるあるいは褒め讃えるという意味に誤用しているらしい。それはともかく、今日「鑑賞の専門家」ならずとも優れた「夢幻能」(作品・舞台成果とも)と出合えば、能の醍醐味を味わえることは間違いないだろう。
だが、堂本氏に言わせると、本三番目物に「最も能らしい感動」を得る人は、歴史的にはどうも正しくないらしいのである。何故なら、法政大学の表章氏がその講演で、鬘物や本三番目物が「尊重された証拠は過去にはなく、明治以後出来た価値観です」と断言したからだというのである。つまり、本三番目などの評価は明治以後の価値観なんだから正当ではないということを、表氏の言葉を都合よく借りて証明したかったわけである。
もともと価値観などというものは絶対的な、永久不変なものではない筈である。価値観とは時代が創り出すものといえよう。時代とともに変わり、また変わって当然なのだ。こんなところにも、劇能を能の核と主張したい堂本氏の思惑が見えかくれする。牽強付会もよいところだが、堂本氏はさらに「シテ一人主義」を、歌舞伎から出た日本舞踊の「仕方踊り」のような物だと述べる。そして、歌舞伎の中幕の踊りを歌舞伎の核だといえるだろうかと疑問を呈して、夢幻能が能の核にならないことを傍証して見せるのだ。
しかし、変化舞踊の『藤娘』が歌舞伎の核と言えないから、夢幻能が能の中核ではないという論理には無理があり、説得力がない。いうまでもなく、歌舞伎は歌舞伎で能は能、異質の演劇なのである。同じ伝統芸能だからといって、こんな形の比較はまったく意味がないといえよう。
能の醍醐味はもちろん夢幻能だけが専有するものではない。しかし繰り返して言うが、夢幻能が今日でも能の中核として存在していることは厳然たる事実である。近年、能の作劇法と演技様式はヨーロッパや日本の現代演劇に、多くの刺激や影響を与えてきた。その中心になったのも夢幻能なのである。能の劇性を強調するあまり、能という演劇の本質を見誤ってはならないということも、ここらで確認しておいた方がよかろうか。
(「橘香」一九九六年三月)