それまでは招かれても応じなかったフランシュコンテ地方へ、俄かに旅立とうときめたのは、「新潮」に連載の「蠣崎波響」を読んだからであった。
中村真一郎著『蠣崎波響の生涯』の冒頭は、波響の描いたアイヌの酋長たちの肖像画十二枚が、ブザンソンの博物館に発見されたことから書きおこされている。早速ブザンソンに住む友人に、メールで宿泊と美術館への依頼状をたのみ、パリの友人には関連する資料を送ってくれるよう手配した。
長年にわたって私は東洋と西洋の文化交流を追いつづけてきた。誘われて入った幾つかの学会でも、東と西の文化のはざまで右往左往する先人たちの姿をしらべて、知識人たちの跡をたどって歩いた。ロシアや英米の接近を身近に感じた学者や医師や通詞の資料は、鎖国下にもかかわらず数多く残されている。工藤兵助の『赤蝦夷風説考』、桂川甫周の『北搓聞略』などを学会で発表したので、松前藩の対ロシア外交やアイヌ族への対応については一応知識をもっていた。
蠣崎という姓は松前藩のものであり、北方への関心をかきたてるものがあった。祖父が農林学校を出て朝鮮満州で農林業指導にたずさわった人だったから、幼時からロシアとの交易、毛皮や鮭漁のことを耳にしていたせいもあろう。
はじめての北海道で、白老のアイヌ村へ行った時、長老や女性たちの話を聞いたのも鮮明によみがえってくるのであった。
洋学関係の学会では、同じ会員の磯崎康彦氏が松前藩の画人について研究発表し、著書も出版されたので、蠣崎の画は写真で見知っていて、およそのイメージは掴んでいたといえよう。
松前藩が「場所請負制」という商取引をおこない、寛文年間にクナシリで起きたアイヌの叛乱、同じ頃ロシアからラクスマンが来航したり、レザノフが幕府に通商を求めてきたという混乱した時期である。北方の状況がよく把握できなかった幕府は松前藩に期限つきで東エゾ地を上知した。
そういう危急混迷の際、まだ若い藩の家老が十二枚ものアイヌ人を肖像画に画いた背後になにがあるのか、それを作家中村真一郎がどう扱うのか。
故井上靖氏がラクスマン父子や日本の漂流民の苦難と交流を『おろしや国酔夢譚』に再現し、井上氏とお会いした時に詳しく聞けなかった苦い思い出が胸をよぎった。
一方で、蠣崎の描いたアイヌの酋長たち十二枚の絵が波涛万里をこえてフランス人に買われ、百年も前に生きたフランス人がその十二枚を散佚させることなく愛蔵し、命尽きる直前に国家の所有する博物館に寄贈した事実にも興味をもった。以前パリのギメ美術館に通っていた頃、そういう例は珍しくないと学芸員の尾本氏から聞いてはいたが、できればブザンソンのフランス人のことを詳しく知りたいという望みも頭をもたげてきたのである。
やがてフランスから、日本美術を扱ったカタログやパンフレット類が送られてきたなかに、このアイヌの酋長たちを描いた日本画も含まれていて、私の期待はより一層高まっていった。
中村真一郎氏といえば、戦後文学の旗手的存在で、たしか京都で桑原武夫氏の講義だったか「アプレゲール」という言葉をおぼえた日に、戦後派作家としての氏を知ったのである。
その後、めざましい作品の数々は目を通していたが、『頼山陽とその時代』が雑誌に連載されるに及んで、なぜ中村さんが頼山陽?とおどろいた。
近世詩人画人のパノラマに進んで心の障壁を除くうち、中村氏はこれら文人墨客のなかの一人に目をとめた。森鴎外のいわゆる歴史もの『伊澤蘭軒』『北条霞亭』に登場する「蠣崎波響」という武士である。
松前藩主松前資廣の五男として明和元年(一六七四年)福山城に生まれ、蠣崎家の養子となり廣年と名乗ったが、少年時代から利発で絵心のある才をみとめられていた。
江戸藩邸に出たのが八歳のころ、建部綾足に師事して絵を習った。私たちは『西山物語』『本朝水滸伝』の著者として綾足を認識しているが、文人画家凉袋の名でも有名である。
綾足の死後は、宋紫石について南蘋派の花鳥風景画を熱心に学んだという。南蘋派は精密微細な写生を根本とし、鮮明な色彩を駆使するのが特徴である。
波響が天明三年に東武というアイヌの酋長を描いた紙本淡彩の肖像画があり、東京国立博物館にのこされている。これは画家が二十歳の作ということになる。
* 最初中村氏が頼山陽に注目したのは「神経症」という一点にあったという。幼い娘をのこして妻が突然命を絶つという悲劇にみまわれて、中村氏は激しい神経症におかされた。
治療に苦しむ日々、神経衰弱と見られた先人のことが気がかりとなり、自身の症状を分析し、先人の作品の中に病気とのかかわりをもつ部分を読みとっていくようになる。
「紅旗征戎吾ガコトニ非ズ」と激しい文字で記した藤原定家の藝術についても、モノマニアックな情熱を一種病的を神経症と結びつけることで、今まで見のがしていたものを感じとるのであった。とりわけ山陽に自らの病状を重ね合わせてみると彼が鮮明に見えてきた。
山陽は開放的な自由人であり、すぐれた詩人・儒学者として文化文政期に活躍したが、成人するまではとかく矛盾した行動が多いことで世人の噂となっている。放蕩や脱走、女関係と、ゴシップのたえない人の、非常識とみえる部分を一つ一つ神経症との関係で分析することで、にわかに身近に思えたというのである。
江戸の文人による漢詩の蒐集と研究を精神的治療として自らに課しながら、この作業を「新しい遊び」としてたのしむようになる。遊びとはヨハン・ホイジンガーを引くまでもなく、積極的な精力を注入して虚構の世界に浸ることであろう。
いくらかの含羞をおびて「精神的ゲーム」と表現された執筆は、おどろくべきエネルギーで、愉しみながら延々と進められた。
まず山陽個人の出自から、家族親類、師友と交際範囲、当時の社会を分析し解読をこころみ、山陽の読書、書画の鑑賞、諸国への巡歴など、膨大な詩作を紹介しつつ筆を進める。どうしてここまでといぶかしむほど多数の漢詩を挙げ、菅茶山や梁川星巌などとの人間模様を緻密に描いていく。たしかに頼一族には色彩ゆたかな人物が絵巻のように登場する。山陽の弟子の中には女性も数人あり、のちに星巌の妻となる紅蘭や江馬細香のような才色兼備のひととの生涯にわたるロマンスもあり、女性たちとの作品のやりとりなど巧みに配置して、抜群の整理力で読ませていく。登場する人物は、おそらく百数十にのぼるだろう。
山陽の三男三樹三郎(鴨崖)は八歳で父に死に別れたが、幼少の頃から癇の強い情熱的な子で、父母を心配させ、塾でもとかく問題児であった点、父山陽の神経症をなぞる存在と、中村氏には映じたのであろう。叔父に伴われて昌平坂学問所に入寮したものの、ここでも飲酒して上野弁天堂の石灯を倒し寺僧に悪態をつくなどスキャンダルの種を作る。山陽亡きあと、父の後継者を自覚した鴨崖は詩作の一方で、星巌や梅田雲濱らと国事に奔り、安政大獄で京奉行所の捕縛をうけ、六角堂頂法寺の大捕物が評判になる。
彼の漢詩と、当時寮長であった秀才、斉藤馨の詩が紹介されている。漢詩というものは今でこそ限られた一部の趣味になっているが、天平の頃の『懐風藻』以来、日本の文学の大きな存在であった。そもそも異文化の文字を模倣して詩を作ることに異和感があるというのは昭和平成の子の言い分で、明治までは官民問わず学生でも漢文学を好んだ。平安文学はもちろん近世・近代といえども文学を読むに漢詩を知らずには不可能であると、かつて沢潟久孝・高木市之助・風巻景次郎などの師からしぼられたものだ。
中村氏の三大評伝の時代文化文政期のみに限っても「明」の詩の影響を受けたもの、菅茶山や六如上人らの学んだ「宋」の詩、山陽や梁川星巌が受容した新らしい「清」の詩というふうに、作風傾向がちがうのである。そうした詩風の分析は漢学者に任せよう。私たちは投与された詩人の心を胸に受け止めるだけでいい。
漢字のもつ力が最大限に発揮される漢詩というジャンルは、近江時代奈良朝時代から上流階級によって愛されてきた。懐風藻・白氏文集など唐の影響をうけた流麗な詩から、菅原道真の菅家文草をなど、今も学ばれている。
清少納言が「文は文集・文選」と記し、紫式部はその清少納言を漢文読みちらしていやなひととけなしたように、女性も漢文を読んでいた。
中村氏が好んだのは江戸時代の漫詩文だが、江戸を中心に日本各地で漢学が学ばれるようになった。
鎖国政策によって海外の文化文明の取り締まりがきびしく、欧米の文化の翻訳をしたことによって命を失い、あるいは処罰されて人生を台なしにされる時代が続いた。この時代、漢文は意外なはたらきをすることになり、オランダ語を学んだ学者や通詞が洋書を漢文に訳し、さらに訓点をほどこして遺している。
黒船来航の恐怖から、海外状勢を知ることの必要性を感じ、奉行所の検閲はきびしいが、中央政権では漢学者の学問にたよって世界を知ることができたのである。
『頼山陽とその時代』の連載されているころ、私は京都に住んでいた。京都は山陽が二十一歳で出奔して上洛し、その後三十すぎて住みついて以来、生涯愛してやまなかった町である。山陽は文筆生活者としても漢詩の大家としても、また塾の学長としても京都の名士だった。膨大な著作を世に出し、交際範囲の広いことでも当時の常識を大きく上回っていたし、大言壮語や女性との派手なゴシップの面においても「山陽はん」は衆目の的であり続けた。
その後は『日本外史』『日本政記』の著者として尊皇攘夷の運動に大きな影響を与え、文豪・思想家の地位にまつり上げられることになる。
若き山陽が頼りにした友、小石元瑞は解剖を実行した蘭医元俊の長男であり、大槻玄沢に学んだ先覚的な医師である。田舎者の山陽に遊びを指南した通人でもあった。同棲していた梨影を妻として入籍するのに親代りとなったり、美濃の蘭医江馬蘭斎の娘細香に山陽が一目惚れした時、間に入って江馬家へ出向くなど、公私まとめて世話を引きうける身近な友であったようだ。門人千人という元瑞の「究理堂」は同じ釜座竹屋町に今も現存している。三代目小石巌氏が戦死、いま秀夫氏が大学で医学史を講じ究理堂を守っておられる。文庫に山陽や春水の書が所蔵されている。
加茂の瀬音が聞える東三本木を定住の地とした山陽は、洛中洛北の山に野に舟遊びにと詩想をかき立て、多くの詩作を試みた。はじめは閉鎖的な京の学者グループから、倣慢で生意気な無礼者というので疎外された。だが画家の浦上玉堂・春琴父子、田能村竹田と親しくなったのをきっかけに、篠崎小竹・後藤松陰・北条霞亭などの知遇を得、日野中納言資愛にもその才を愛されて、京に二十年住み続け、東山長栄寺に眠ることになる。
名医新宮涼庭は、私財一万金を投じて南禅寺の門前に西洋医学校「順正」書院を建てた。今も京都に来て順正に寄らぬ医師はなく、料亭の名としても有名である。この涼庭も山陽を先生と呼び、医師と患者の関係にもあり三十年の交りだと自ら記している。
京大の恩師池上教授夫人は頼一族の子孫で、柔らかい広島弁のイントネーションで「頼の家ではね……」という声が耳にのこっている。また法学部の奥田教授は、山陽の書斎で史蹟に指定された「山紫水明処」の鍵を預かって、同じ三本木丸太町に、私の学生時代から住みつづけている。街の人々も「鞭声粛々夜河ヲ渡ル」や「雲カ山カ呉カ越カ」などはよくそらんじていた。「老ノ坂」を通るときは誰もが「老坂西ニ去レバ備中ノ道 鞭ヲ揚ゲテ東ヲ指セバ天尚早シ」を吟詠、本能寺を攻めた光秀の心を山陽の情熱的な詩に託すのであった。大阪で生れて江戸に遊学し脱走して京都に戻り、広島で座敷牢に入れられて著作に没頭するなどの経歴も、庶民には身近に感じられた。
謹厳な父の儒者春水、大阪の医家の娘で当時としては派手好みの、母静子、その間に生まれた山陽。血の気が多い繊細な青年が癇癖の症を発しノイローゼとなり奇矯な行動をくり返して世間の目をそばだて親を悲しませたこと、しかしその挙句、漢詩をもって一世を風靡、さらに学者として活躍し『日本外史』を著して松平定信に呈出し、権力をおそれず歯に衣きせぬ社会批判をくりひろげるというのは、当時の京童の気に入りそうな物語であった。権力の体制に反発的な京都人気質は、生涯禄を食まず筆一本で世を渡る山陽の心意気をよしとする面があった。
* 私は壮年時代の中村氏を知らない。作品には次々と注目していたが、ブライアのパイプを手に大きな眼で周囲を睥睨する写真からは近づき難いものを感じさせた。ベルナール・フランク氏とは森有正先生の元気な頃から親しくしていたので、フランク夫妻が東京に見えた時、中村夫妻を紹介された。初めて会う氏は白髪の和やかな紳士であった。その後も時折見かけたが、孤高の文士、傲岸な怪物という世評は取り消さねばならなかった。映画の試写会では瀬木慎一氏と並んで真紅のマフラーが目をひいた。
『蠣崎波響の生涯』を執筆中の氏を軽井沢の別荘に訪問したときは、佐岐夫人の呼びかけに応じて、二階からおりて来られた。紫色ベロアのガウン、白髪を黄色いバンダナでまとめ、若者のように軽やかな足取だった。マチネ・ポエティクの仲間でサド裁判弁護で知られる白井健三郎氏の伝言を伝えると、
「なあんだ、白健来ないのか。ばかだなあ」
一瞬さびしそうに呟き、ばたりと倒れてソファの上に引っくり返ってしまった。すぐに笑って少年がふざけるときのようにお喋りがはじまったが、私は永訣を予感した友情というものを痛いほど感じた。
そのあと軽井沢の野外パーティーで、体格も顔だちも立派な男性が、ビールの酔いで赤くなっているのを見て、私が波響描くアイヌの酋長を連想して、「アツケシの酋長イコトイね」とささやくと、中村氏は笑いながら慌てて目顔でたしなめられた。
同じパーティーで、ヴェネチアから来た友人を紹介すると、忽ち話はボッカチオやマンツォーニ、モラヴィアと止まるところを知らず、『とりかへばや物語』の話題になるとゴーチェのモーパン嬢との比較になるし、建礼門院右京太夫の歌のあとにはルイーズ・ラベの説明が始まるのだった。ギリシャ・ローマからヨーロッパに及ぶ広大な文学が頭に詰まっていて、自在にそれらを引出しから取り出しては対比し、説き去り説き進めるのである。文学に首まで浸り、さらに異国の文学のまわりを彷徨する者にとっては楽しいひとときであった。
東京での再会を約して別れるとき、氏は一点を凝視し「こんな世の中になっちゃあ、文学はもう終わりですね。」溜息とともに吐き出して去った。
『頼山陽とその時代』(中央公論社)は版を重ね、また次々と東山義亮えがく山陽像を表紙にした文庫本上中下三冊となって本屋の店頭に並んだ。江戸期の文人頼山陽や三樹三郎、門下の面々は中村真一郎によって生きかえり、昭和の子らの心の琴線にふれることになったといえる。
山陽ばかりでなく、その交際範囲にあった儒者や画家も脚光を浴び、すぐれた眼でえらばれたアンソロジーでもあったから、敗戦後アメリカの敷いた教育のもと漢字の数まで制限されていた世代に、漢文学漢詩の魅力をあたらしく認識させる結果になった。
その一方で氏は長編小説『四季』四部作を書き進めていた。
一九七〇年代のはじめ『頼山陽とその時代』を脱稿したあと、中村氏は王朝の伝説世界と江戸の知識人世界とを含んだ長い時間のなかに、孤独な近代的自我である自分を解放していく過程──つまりその時間を自分の外にある歴史的流れとして客観的に眺めるのでなく、その流れのなかに身を任せることで、自分が近代の個人という地獄の迷妄から脱出して、人間の本来の生き方、人類の伝続のなかに抱かれて生きるという人生観の形成の次第を描き上げることに専念した。それによって四部作の長編小説「四季」の完成を見たのである。
こうして中村真一郎三大評伝の第二弾として雑誌「新潮」に六十一年正月号から「蠣崎波響」が登場する。評伝の人物として中村氏が誰をえらぶか、どのように扱うかは誰しも大きな興味を持って見守っていた。
山陽が学者、詩人評論家、波響は文人画家いわば藝術家、という違いはあるが、戦乱のない時代同好の友と文学藝術を求めて生きた点で共通している。鴎外の史伝『伊澤蘭軒』の中に、墨田川の舟遊び両国川開きの花火の雅遊が描写され、蘭軒、菅茶山、波響の詩が点綴されている。私も舟で両国の花火を見、その折同行した人々の思い出に重ねて、師弟朋友の交情に胸を熱くした。
森鴎外は、医師として渋江抽斎や伊澤蘭軒に特別の思い入れを持って描き出し、中村氏はこれらの風流高雅な交遊を通じて波響という人に注目されたのであろう。森鴎外はまず波響を松前侯の親族として注目し、「公子」とか「君」「殿」と記されていることを強調している。
松前藩は秀吉時代に北辺を治めた安東氏の代官であり、大名の扱いを受けていない外様の小藩である。秀吉は松前慶廣が聚楽亭に伺候した時「夷酋の長」として会った。幕藩体制にあっては、松前は日本でない地と見られて無禄の扱いが長かった。
波響という人は、松前藩が移封を命じられ危機に瀕した文久のはじめから、復領に至るまで努力の限りを尽して奔走した。大藩姫路城主酒井忠仰の次男であった酒井抱一は別格として、この時代小藩の家老職といえば田原藩の渡辺崋山、古河藩の鷹見泉石など、知識学藝にすぐれた個性派のエリートが頭にうかぶ。波響の師建部綾足も家老の子であった。
家老職クラスの実力は現代の私たちから見ても驚異に値するものがある。
評伝を書くにあたって、中村氏は二十歳代のころ読んだサント=ブーヴが頭にあったという。サント=ブーヴは何人もの人物の伝記を世に送ったが、とりわけ「シャトブリアンとその文学的グループ」が適切だ。中村氏は、波響の場合、茶山との交遊、舟あそびや巨椋池の月見の宴のようなシーンをまず心にとめて、そこから彼の詩や画の資料をあつめ、政治的手腕をたどるなど一つ一つ積み重ねていく方法をとった。
中国の詩人たちが古くから師友との交流に酒をくみかわし山河花鳥をめでた様子は、彼らの人となりまで悟らせる。誰が何を詠み相手がどう受けるかでその人間がわかる。心中を詩に託してキャッチボールのよう吐露しあう高度な交流で、いかにも知識人の自意識に支えられた感情表現だ。
たとえば茶山は江戸で舟遊びの宴をたのしんだあと、以前京の巨椋池での交流を想いおこして詩を贈った。
椋湖明月堅蔵舟 却喜天涯継旧遊
如使交情無変態 何論墨水不西流
波響が「十一年前京でお目にかかった折りにはこうして再会できるとは思えなかった」と詠じたのに答えての心こめた感慨である。自分は老齢であと何年生きられるかの想いが滲み出ている。
詩を贈答する者の身の上、出会いの経緯、交際の態度などを考えに入れて応答を読むと感動も一しおとなる。
『蠣崎波響の生涯』に引かれた彼の詩稿は、『波響楼遺稿』二巻と『梅痩柳眠村舎遺稿』から年代順に初期の作品、性霊派の前衛的作品の時代、盛唐風の作品と、変化を追って紹介されている。鴎外は貴公子扱いしているが、身分よりむしろ、彼の詩作にみえる精神の風格、画風からうかがえる人格ののどかさを高貴と見るべきだろう。
書帙堆中心事虚 官忙老却逐居諸
今年亦是已径過 五十何能読五車
波響は本の山に埋もれて五十年の日々をかえりみ、官忙のうちに五車の書を読みきれるだろうかと、藩の要職にある読書士のいらだちと悲しみを吐き出した。
秋色繁於春色繁 胡枝桔梗菊花園
残生託処猶如許 何掛違魂入夢魂
「荘子」の有名な蝶の夢をふまえて「ナンゾ遊魂ヲナゲウチ夢魂ニ入ラム」花にことよせて人生を詩にした高雅な機智が感じられる。画のテーマにも「蝶の夢」を扱った名品があり、荘子のこころを愛好した人だとわかる。
華麗な美を描いた漢詩もあり、その修辞の巧みさからは、時にプルーストの『失われた時を求めて』の女性花鳥描写を連想し、六代目菊五郎の踊りを目に浮かべさせる。
詩人としての波響は、繊細で学識もあり遜色なしの人物とわかった。もうひとつの面、画家としての力倆を調べるべく、中村氏は北海道へ飛び、この文人画家の回顧展をみて「この人物に握手」したくなった。
私は同じ学会員である磯崎氏の研究発表と、その著『松前藩の画人と近世絵画史』(一九八六)によってこの文人画家の全貌と作品を見ることができた。一方フランスから友人たちが送ってくれたカタログやパンフレットにも「古い日本の美術」というタイトルで波響の紹介が記されている。資料をたずねることは期待とたのしみ、さらに予想外の新事実にふれた時の無上のよろこびがある。浅学菲才の私でも、新潮選書のための評伝を書いている時、机上の仕事より何年にもわたった国内外の取材旅行が、数倍たのしく充実していた。
ただ残念なのは私の場合美学の素養が、波響の画を追うには、不充分なことであった。日本画修行は根気が続かず油絵に転じてしまったのが今になって悔やまれる。もっぱら京都国立博物館に通って、林屋辰三郎館長のところへ押しかけ個人講義にあずかったこと、人文研の藝術思想研究会の諸先輩の発表やシンポジウムに参加したのが得がたい知識となった。
もっとも京住まい三十年のあいだ、時を分かたず寺社の障壁画・書画の軸・絵巻に親しむことができたから図像学の勉強になった。ベルナール・フランク教授と二人で、また源豊宗氏やNHKの教養番組のスタッフたちと、京都・奈良・大和・近江・鎌倉などの社寺を遍歴したのも貴重な経験となっていると思う。祖父や父のところへ持込まれる書画をみたこと、神田や祇園の美術品売立展示会、フランスでのオークションも、生きた鑑識眼を養ってくれた。
ベルナール・フランク夫妻、岸田夏子氏、秋山光和夫妻、アール・マイナー氏や天理図書館の木村三四吾氏、陽明文庫の名和氏、葵文庫の平尾氏の好意的な教導の恩は忘れがたい。
京都では、毎年祇園会の「屏風まつり」があって旧家の富豪や老舗が各家の玄関の間や座敷に、みごとな屏風を披露する。あけ放った広間や簾戸越しに秘蔵の宝物を競うように並べたものである。古雅な水墨画あり豪華絢麗で細緻の彩色画あり、形も御所風の四季屏風や、裏に立涌の綾を張った六曲一双、桃山風の豪壮な一帖もの、悠紀主基の写しや寺社の山水屏風、武家の衝立、扁額から、掛軸の三幅対、二幅対、招じ入れられてさらに門外不出の書画を見せてもらうこともある。戦災を受けなかった唯一の都市、それに染色・金箔・織物の町京都のことだから、間口一間の商家や職方の家でも、
円山応挙クラスの画、狩野・土佐派などをしまいこんでいることが珍しくなかった。
絵巻であったものを切って屏風や襖に切り貼りしたものも多く、先祖の志を大切に持ち伝えている家もあれば、ふちに紫檀や金具をはめたり引手に朱の房をつけたり心無い手を加える子孫もあり、散佚が惜しまれるのである。街の近代化が進み、美術品も死蔵される例が増え、わが家の屏風も頑丈な箱に施錠して納戸の奥に押し込まれてしまった。
南蘋派の画風を受けついで広めた波響であるが、大原呑響(左金吾)と親交を結び、松前の自宅に滞在させて、深い敬愛をよせる間柄となった。詩書を通じた交流は長く続いてその後も二人は互いに松前と京都で会うことになるが、波響は上洛して公卿たちや光格天皇にアイヌの酋長たちの列像を見せる次第となる。
仲に立ったのは尊皇家高山彦九郎だった。ロシア船が北辺をおびやかすと聞いてひとり北辺を視察し、波響の上洛を知ると松前の状況を聞きたいと申入れたのがきっかけである。『彦九郎日記』によれば足しげく木尾町三条升屋の波響の宿を訪問し、知人を伴ったり、岩倉家はじめ九条家などの公卿にもアイヌ画像を披露したのである。
光格天皇に叡覧をすすめ、画を一旦宮中に預けている。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六皇子で、男御子のなかった後桃園帝(百十八代)を受けて皇位を継がれた。この帝はわが家にも少々縁があり、屏風や人形・蒔絵など拝領品を見ると殊に繊細優美な藝術を愛する傾向がうかがえる。
京にいた数カ月の間、波響は老年の円山応挙の教えを受けた。波響を「松前の応挙」と称する人もあり、師弟の交流は短い間だったが応挙の影響は確実に受容している。
二度目の上洛の折には、菅茶山と会い六如上人や大原呑響と交流する。呑響は鴨川の東、今の川原町あたりに住んでいたらしい。彼らと円山の料亭や巨椋池で雅宴を催し、七言絶句が贈答されたのはこの頃のことだった。
酒井抱一とも画を共に措き、詩を詠じ友情を深めていった。
高山彦九郎はしばしば波響をおとずれたが、後には波響が会わなくなっていった。あまりにもユニークで、天皇家を熱烈に尊重しすぎるのが忌避の原因か。自尽したあとも三条の橋で御所を伏し拝む姿が銅像になり最近まで残っていた。余談ながら、彦九郎像は待ち合わせの場所にもなり、夜は彦九郎という屋台で、若き高橋和巳たちの文学談に花が咲いていたのを思い出す。
波響は師の紫石を介して、小田野直武や平賀源内などにも会ったらしい。この頃オランダからツュンベリーやミュンチングの植物図譜が舶来して医学・本草学・生物学の学者を啓蒙した。
平賀源内は知的好奇心の旺盛な多才の人で、色々のメディアに手を出し、風流山人・風流志道軒としても知られている。パリの友人ユベール・マエスの著書は知られざる源内の活躍を内外にひろめたし、私たちの学会では源内の『物類品隲』全六巻を研究した。彼の実験を再現して石綿布「火浣布」を作ったこともある。波響は「近代」を学びはしたが西欧の油絵やエッチングなど科学的異国趣味に溺れることはなかったようだ。当時の西洋画の影響は受けているし、近代的な前衛派ではある。しかも漢詩の性霊派といえばアヴァンギャルドなのだが、オランダやポルトガルの文明に惹かれる余裕はなかった。
松前藩のために命がけで働き、波響は三十歳代から四十歳にかけて江戸・京都に再三滞留したが、文化四年、幕府は松前藩の領地を直轄し、梁川その他の飛地に移封する旨を命じたのであった。ロシアがラクスマンの根室上陸以来エトロフ侵入など北辺に出没を重ね、松前藩の力では防備が不行届きで取締まりかねると幕府は見たのである。
藩ごと移住するという大事業の重責をはたしつつ、梁川居住後もあたらしい友と交流し、多忙のなかで画技をみがいていく波響であった。
復領を願って渾身の努力を続け、願いかなって幕府が松前復領を認可したのは文政五年(一八二二)、波響は五十九歳になっていた。復領が成ったのは、ナポレオンのロシア遠征で、ロシアの関心が日本から薄くなったなど、僥倖によるものであったともいえよう。
松前という特殊な藩は、重要な財源の一つとしてアイヌとの交易がある。アイヌはコタンを作って酋長がそれをまとめコタン相互の物々交換をおこなっていたが、松前の日本人にも交易を及ぼすようになった。藩はこれをチャンスに友好的な交易をはじめてアイヌの酋長を手厚くもてなした。自然を頼りに貧しく無知な生活をしているアイヌの世話をしてやるという態度で「介抱」と称し、三百石船一艘を毎年派遣した。アイヌの要求する米・たばこ・酒・布・糸を与え、代りに熊やオットセイ・ラッコ・鹿・鮫・アザラシの皮、熊の胆・なまこ・椎茸ほか薬になるもの、鮭・鱈・にしん・貝などの干したもの、樹皮で織ったアツシやシナの縄などの珍しい産物を得、それを日本人に売って、藩士の扶持にあてた。そのほか沖の口番所で船・積荷・旅人に課税した入津科も藩の収入であった。
交易品はエゾの産物として京・大坂・江戸の市場とも結ばれていた。慶長年間に花山院忠長が松前に遠島の刑を科せられてから、松前と京の公卿らは一そう親しくなった。
アイヌが度々叛乱をおこしたのは、きびしい労働条件や身分の不安定によるものであろう。シャクシャインの乱などは芝居にもなったが、寛文年間には大きな動乱がおこり、さらに寛政元年アイヌの反乱はクナシリ島メナシでおこった。そむいたアイヌ三十七人が斬られ、残りはメナシとノッカマプで降伏した。この時藩の征討に協力した十二人の酋長が、波響えがく「夷酋長列像」のモデルである。
* フランシュコンテ地方の首都ブザンソンは緑多い美しい古都である。水量ゆたかな清流が、街を貫き丘を抱きかかえるように流れている。気まぐれな訪問者の私を駅に迎えに来て強く抱きしめた友人は、すでにスケジュールは出来上がっているといって荷物ごと車に押しこんだ。
ガリア・ローマ時代の要塞や城壁、落着いた文化施設、パリでは聞くことのない古雅な言いまわしの残る素朴な人々、そんな街で友人一家や兄弟まで交えて楽しい日々をすごすうち、ようやく博物館からの許可がおりた。(この街がスタンダールの小説の舞台という噂は地元では否定的だった。)
石造りの博物館に入り、何人もの館員と話し書類を交したあと、彼らは電話で打ち合せして「では問題ないね」と言っているのが洩れ聞こえた。
おだやかな学藝員に奥まった部屋へ案内され、目的や経歴を書いてサインするよう求められるうち、用意ができたと館内電話が伝える。さらに奥まった部屋に入り、「夷酋列像」の箱が運ばれてきた。
光が当たるといけないからと弁解しつつ、カーテンもブラインドもすべて閉めて箱の蓋がとられる。
一枚ずつ薄紙で保護されたアイヌの肖像画は、あざやかな色彩で最良の保存状態をしめしていた。
以前カタログで見た時より格段の印象を与えるのは、なんといっても色の美しさで、二百年前に画かれたと思えない鮮明さである。
たとえば酋長ツキノエの衣装の赤と黒、ほてい腹の朱とビロードのような黒の空間対比、熊皮の敷物の鈍い黒茶色とがすぐれた手腕を示す。
老酋長ションコの背の曲がったカーブを覆う緑青(クジャク石を削った絵具か)の衣装、雲と龍の模様は裾に到って太縞の波となり床にひろがっている。画面を横断する美しい金の装飾を施した太刀、銀白の毛髪とひげ、異様にひねった姿態、ものいいたげな表情が、印象を強くする。
イコトイのガウンの赤は「波響の朱」といれれるスカーレットで、高価な「辰砂」を用いていると思われる。
大きな鹿を頭から背に負ったノチクサの体の拡がりを、丸くL字型の鹿の代赭色、花浅葱色の衣服の濃淡と袖口の白、両側に踏ん張った足に赤い獣皮の靴が、画面のアクセントとなって全体を締める。カワセミの翼を思わせる「紺青」の上に、面相筆で点々と胡粉を描き、腕や脛の毛もー本づつ丁寧に書きつけている。
構図といい色の配置といい、あのような詩を作り、南蘋派の衣や円山応挙の人物画を多く見てきた人の、インスピレーションをもって画いたものに相違ないと直感する。
このシリーズは、波響の他の人物画と一線を画す性質のものであろう。高踏派の藝術作品をねらったのではなく、美しさと印象的効果を第一にと考えた演出がある。当時流行の浮世絵や役者絵のおもしろさ、もしかすると芝居の絵看板のポーズのたのしさも知っている人の演出があるのではないだろうか。歌麿や写楽を売り出した仕掛け人の蔦屋重三郎は寛政九年、手鎖の刑を受けたあとで没したから、このアイヌ画の画かれた頃は活躍中だった。
芝居の絵看板は十七世紀末には出ていたという。藝術史的には如何なものかわからないが、ションコやイコトイの姿勢は、たぶんに役者の型を連想させる。ツキノエは「助六」と同じ赤と黒を着て床几に座を占め、猖々緋の衣装に黒陣羽織の武将のキメ絵のようだ。鹿を背に立上ろうとするノチクサは、今にも大声を発して見得を切りそうに動きがあり迫力もある。
全部を見て、或る目的のもとに一組のシリーズを描いたのは明らかだと確信した。多様で複雑なこの時代、濃絵・仏画・お札など彼が様々のジャンルから影響を受けたことが想像される。
シリーズに付した波響の叔父廣長の序文がある。漢文十行で二枚にわたっていて、文末に「老臣廣長謹撰」と署名が見られる。
これを読めば画かれた目的・背景がわかるわけだが、フランス側は廣長の宣伝めいた美辞麗句やペダンチックな誇張を削除して、次のような大要を示している。
辺境の地域がアイヌの獰猛な部族に脅かされ、安全ではなくなりわれわれは何としても軍事的介入を準備しなければならなかった。一五四七年、松前藩の先祖武田氏は、勇気をもってアイヌの叛乱を収め秩序と平和とを取り戻した。一六六九年、さらに激しいアイヌの叛乱が起こり、やはりわが藩により鎮められた。以後、百年以上の間問題は生じなかったが、寛政元年(一七八九)の夏、アイヌが叛乱を起こしたという知らせが東の地域から届いた。藩主は二百六十人の藩兵を送り三十七人の首長を殺して叛乱を鎮めた。死刑に処せられた者の首が松前藩の城の格子の前に晒される一方、叛乱を抑えて並々ならぬ貢献をした十二人のアイヌ首長は藩主に正式に褒められた。こうして褒賞と正当な罰を交互に行うことで、松前藩主の威信がさらに高められることとなった。藩主は常に、当地の行政や軍の準備、作戦などにきわめて注意を払っている。
この年(一七九〇)の八月、将軍から成功を認められて、わが藩主は大いに満足し、臣下の廣年(蠣崎波響)に、アイヌの首長たちを描くよう命じた。アイヌたちに、松前に対する忠誠の結果をしっかり見せるためである。廣年は画家としての才能をよく知られており、首長の肖像はきわめて巧みに描かれた。驚異の念に満たされた藩主は、この藝術作品の注文がどのような経緯でなされたかを書くよう私に命じた。
(廣長署名)
次に博物館の図録所蔵ナンバーに従って解説を列挙する。
三七四八 アツケシの酋長 シモチ
弓を引いている。すね当てをつけ花を描いた黒いローヴ・袖無し上衣、腰の所で折りまげた軽いマントをつけ、ベルトに射たばかりの三羽の鳥の首を紐で縛ってある。矢は竹を鋭く削り先には、恐らくトリカブトの毒が塗られているのだろう。
三七四九 アツケシの酋長 イニンカリ
金文字で名が記されている。片方に槍、もう一方には紐で白黒二頭の仔熊を引いている。渡辺広氏の説明によればアイヌは春季雌熊を狩で討ち、子をとらえて鮭や果実で育て、次の年頭に熊祭で犠牲に供える。この儀式は代々コタンの酋長に伝えられ、一カ月にわたることもあるという。
三七五〇 ベッカイの酋長 ポロヤ
赤い絹のローヴの上に白い毛皮の短いマントを着ている。短い剣と皮のケースとを携帯しこれには小さ刀が入っている。印籠を紐でさげ、猟犬を紐でつないで引いている。
三七五一 ウルヤスベツの酋長 マウタロケ
ここに座せる酋長がいる。腕を組んで何枚かの敷物の上に熊の毛皮をひろげて尻をつけてすわっている。マンチュリーのマントをたくし上げている。酋長たちの多くは清国風衣裳マンチュリーを着用しているようだ。この男の視線は定まらず空ろな目をしている。瞑想しているのか。
三七九六 ウルヤスベツ チョウサマ
恐らくマウタロケと同じ種族の酋長。
チョウサマは毛皮で裏打ちした豪華なマントを着ている。彼は片手にマントをたくし上げ、脇に儀式用の剣を帯している。この人物は皮肉っぽい表情をしてすでに老人である。
三七九七 アツケシの酋長 ニシコマツケ
この酋長は自ら弓を作っているところだと左上の説明に書かれている。
たぶん季節は冬なのだろう。この人物は薄手の青いマントの下に毛皮をつけたローヴを着け、手袋が寒さから手を守っている。その横には毛皮の長靴とすばらしい装飾をほどこした箙が矢を入れた状態で置いてある。
三七九八 ノッカマプの酋長 ションコ
毛皮の繍のある赤いローヴの上に灰緑色の長い豪奢なマントを羽織っていて袖は儀式用の長い太刀のためにまくれ上っている。脇を向いて横顔半面をみせながら横目をつかって正面を見、白い長いヒゲをしごくのに忙しい。(これは一九八〇年「エゾ風俗展」に東京で展示された。)
三七九九 クナシリの酋長 ツキノエ
この酋長は熊の皮がかけられた、カーヴした脚の彫りを施した椅子に腰をかけている。様式化された雲龍の模様の赤いローヴと、毛皮で裏打ちした黒いマントをまとい手には儀式用の美しい剣を持っている。(クナシリは北海道の北にある小島。第二次大戦後はロシアが領有。それ以前は日本が領有。)
三八〇〇 アツケシの酋長 イコトイ
右に「乙箇吐壱」と廣年の字で書かれている。この酋長は片手で長いマントの裾を持ち上げ、もう一方で槍を小脇にたばさんでいる。弓がアイヌの最も必要とする本来の武器で熊狩にさえ用いるが、日本人から買った石突のある槍や矛をも使う。この画の槍は、柄については少なくともこの土地のアイヌが制作した槍と思われる。この人物は下級の酋長である。はだしである。
三八〇二 シャモコタンの酋長 ノチクサ
右肩に金文字で「訥子葛末膚部下」云々の説明があり、彼は殺したばかりの牝鹿を肩に背負っている。両手で鹿の両足を掴んで立とうとしているところ。青灰色の様式的な模様の優雅なマントを着て、つばの広い冠りものを冠っている。鹿の体の下から美しい剣が見え袖の下に印籠が覗いている。
三八〇一 イコトイの母 チキリアシカイ
ここで酋長の母を見ることができる。
彼女は敷物をおおうような熊の皮の上に長いマンチユリーのチュニックをまとっている。唇と歯とは青い。口の周りをいれずみで青く染めるのはアイヌの女性の習慣である。女たちは収穫や耕作の上で無視できない役割を負う。狩りで得た獣肉を切ったり保存するのも家屋を作ったり増築すること、衣服を織り縫うこともする。それに熊まつりのための仔熊を監視し餌を与えるのも女性の仕事である。
イコトイの母、チキリアシカイの画像の左側に角型の印章が二つ押印されていた。注意して見ると、波響の叔父廣長の「夷酋列像序」に押された印章と同じであるようだ。
館側の厚意により「Collection des Musee」など幾つかの資料を貰った中にアイヌの絵についてフランス人による感想があった。拙訳を試みると、
アイヌが着ている衣服や首飾りアクセサリーは、アムールの内奥の谷から来たもので、日本人に大変重んじられていた。アイヌが仲介して、松前藩の手に渡り、大きな利益となった。絵により日本人がアイヌに対して抱いていたイメージが確認される。つまり体格が大きくて髭があり、堂々とした風采、中国の錦を着用、というものだ。
これらアイヌの絵が、日本の社会に対して、蝦夷の製品のプロパガンダの道具として使われたのではないだろうか? アイヌを搾取していた松前藩や商人が用いた、理想の宣伝だったのではないだろうか? 蠣崎波響による、部族長の足元での肖像は、この社会=文化的現実を、完璧に示している。一七八九年のアイヌの叛乱後、松前藩は評判を立て直そうとし、幕府に対する藩の政治的信用を取り戻そうとする。そのため、藩主は、叛乱の鎮圧にあたったアイヌの首長の肖像を注文し、画家はこれを、これまで通りのステレオタイプで描いたのだ。
この画は、光格天皇の天覧の栄に浴し、藩の宣伝目的を達して余りある結果となった。その後どういう経緯でフランスにまで流浪の旅をしたのか、公卿や天皇、熱血漢彦九郎らの手に触れ讃美を集めたかと思うと、画像の上にドラマが立ち添う。
京都で十二枚のシリーズを別に一揃い画いたとすれば、それらはどうなったのだろうか。一枚が欠けているのは誰が除いたのか、疑問は晴れようもない。
アイヌの酋長たちを描いた後、波響の画才はさらに深められ、花鳥画に人物画にすぐれた作品を輩出し多くが保存されて研究者たちに紹介されている。
中村氏の慧眼は波響作の西洋騎士のデッサンにも注目するところとなった。なるほど不思議な線描は想像・臆測をかりたてる。
かつてヴァチカン文書館に通い、トレド、エヴォラ、シントラ、リスボン、コインブラ、エスコリアルを巡歴したとき、これらに似た銅版画を見たような記憶があるし、神戸市の南蛮美術館の南蛮屏風のうち王侯騎馬図の一部に構図の相似があるようにも思う。かくれキリシタンの旧家をめぐった折に見せられた絵にも似かよっている。NHKで坂本満氏と対談した時、相談すればよかったのだが……。
松前で殉教したキリシタンは二十人ぐらい居たろうか。その関係かもしれない。余命があれば探索したい。
松前藩の復領後も、この文人画家は京や江戸へ行き、その交遊は予想以上に多岐にわたっていて、私は恩師の校訂による『甲子夜話』をはじめ、先輩や旧友から贈られた近世の本を再読せねばならなかった。
そうした本の頁を繰っている間に、作家は波響も訪れたことのある芝蘭堂四天王の一人木村蒹葭堂の執筆にとりかかっていたのである。青酸カリを持ち歩いていたという学生時代も、神経症にいためつけられた中年の苦悩も、すっかり払拭され跡かたもない。そこには一度心にとめたものは誰が何を言っても書き通さずにおかない人間探求の熱意と、大正昭和平成を生きた作家の悠々たる余裕の態度があった。
定家の子孫冷泉為臣氏も、山陽の親友小石元瑞の子孫も戦死、木村蒹葭堂跡はB29に焼かれて碑を残すのみ。
波響が半生をかけて守った松前藩は、徳川の版籍奉還・廃藩置県で一場の夢語りと帰した。
歴史は私たちの周囲を駆け巡るが、中村氏が強靱な精神力で文学の世界に積み上げた作品群は、限りなく私たちに意欲と安らぎを与えてくれる。