あの衝撃の電話が入ったのは、昭和五十七年十月二十七日水曜日の夜。受話器をとると大きな声が耳を打った。
「望月か、俺を覚えているか、鳥山だ」
「うーん、わかりません」
「新潟高等学校の鳥山だよ」
「そういえば名前を覚えている」
「俺、困っているんだ」
男の口調は乱暴で、何の依頼かと一瞬いぶかりながら、「どうしたの」と聞く私に意外な言葉が返ってきた。
「ゴトウテツオを知っているか」
「よく知っている。三十年位も会わないけれど」
「おまえさん、俺の顔を覚えていないかい」
「そう言われてみれば、鳥山というのは痩せ型で背が少し低かったかなあ」
「そう、そうだ……。後藤がルンゲンクレーブスで一週間の命だ。今度の日曜に行ってやってくれ」
声はあきらかに酔っているが、そのせいだけとは思えない切羽つまった昂ぶりが感じられた。
「そりゃあ大変だ、今度の日曜といわず明日行く。診療が五時に終わったらすぐ出る。どこなんだ」
鳥山は、現在、船橋に住んでいて医療センターに勤めているが、最近偶然後藤の病気を知って、家に見舞いに行き、重篤状態を見かねて無理やり近くの病院に入院させたのだという。
その時の奥さんの話では、六月に病気が発見され、七月から三ヵ月間日大病院で放射線療法を行い、もうこれ以上治療法はないからと言われ、本人の希望もあって退院になったらしい。
電話をきったあと、「長い間会えなかった親友に、こんな知らせで会いに行くのか」と感慨、懐旧こもごものおもいであった。
旧制高校時代に一生の友を得る、とよく言われるが、私の場合もそうだった。
昭和二十三年春、新潟高等学校に入学し、六花寮であこがれの生活をはじめて間もなく、私は後藤と知り合い親しくなった。
佐渡中学から四修で来た彼は、数学が得意で、数学の名物教授河野先生の授業が終わるとすぐ教壇の先生をつかまえて、私にはわからないような議論をよくしていた。或る時は、授業中に河野先生が示した数式を、「こうすればもっと早く計算できます」と教授を驚かせたこともある。私も数学が好きで、はじめて接した高等数学の玄妙に魅了されたものだった。
後藤と私とが、長年の交遊を楽しめなかったのは、彼の筆不精が原因と思えるが、当時はよく葉書をくれた。それはさまざまな矛盾ととりくむ若者らしい哲理的な論考で埋められていたものだ。
一学年が終了したとき、学制改革で旧制高校はすべて廃校となり、大正八年に設立され四千五百名の卒業生を出した新潟高等学校は新潟大学文理学部となった。
私は東北大学医学進学課程と新潟大学プレメヂカルの両方をパスしたが、後者をえらんだのは、新潟の風土に加えて幾人かとの友情が其処に縛ったのである。後藤も生家が医家なので、一緒にプレメジカルに入学した。
私は東堀通りに間借りして通学生活を味わい、学期末休暇を利用して趣味の旅行を楽しんだ。校庭につづく砂丘のむこうに横たわる佐渡ヶ島の後藤の家へは何度も訪れた。
はじめて訪問し、まぶしい程に美しいお母さんにお会いして、その口から告げられたあたたかい歓迎の言葉は、終生忘れないものだ。「うちへは幾日も泊まっていってください。だんだんご馳走が出てきますよ。たびたび来てくださいね。その度にもてなしがよくなりますから」
昭和五十八年の正月に、私の息子の学友が家に来て幾日も泊まっていったが、後藤のお母さんのようなもてなしを家内がしてくれたろうか。
あのころ、後藤の家へゆくのは何よりの楽しみだった。ご馳走もさることながら、昼間は彼が尖閣湾、小木、真野御陵などの名勝地を案内してくれ、夜は食後に妹達と人形劇や盆踊りに出かけるのである。ご両親は私と顔を合わせぬよう気をつかっておられたが、一晩だけ、内科開業医であったお父さんにまとまった話をうかがった。佐渡ヶ島の歴史、地理、文化のダイジェストで、更に、医人として社会とどういう風に関わりあいを持っていくかについての含蓄ある話であった。私は感銘をうけた。こんにち、地方の開業医となって十一年が過ぎ、ささやかながら地域文化の向上に努めそれをよろこびとしているのは、この夜の話に負うところが大きい。
やがて、千葉大学医学部に入った私は新潟大学医学部に進んだ後藤と別れることになった。
そして、二年生のとき、彼は医学部から理学部に転科した。
好きな数学に専念できるようなった後藤からは、折にふれて手紙や葉書がまいこんだ。
学部を終えて、彼は大阪大学理学部大学院へ進み、私はインターン生活に入るが、この頃から私達は音信不通になるのである。恐らく、私が手紙を出しても彼が返事をくれぬというのが重なって消息不明になったのだと思う。その後に発行された高等学校名簿には連絡場所が空欄となっていた。以来、後藤は心に描くだけの親友となった。
私は医師となり、産婦人科を専攻し、医局から命ぜられて赴任した地方病院の産婦人科部長の職を全うして開業するという、珍しくもない人生コースを辿った。
散歩の途中、街の電気屋のテレビに後藤の顔が大写しに出ているのを見て「アッ」と言ったことがある。教育番組で物理を講義している彼。
その年の暮れ、私は佐渡のお父さん経由で後藤に「君をテレビで見た、今どうしているんだ」と年賀状を出した。返事は来なかった。そのこともいつとはなく記憶からうすれていた。
そして − あの衝撃の電話によって後藤と会うことになるのである。
外来診療を五時に終えて出かけ、病室のドアを押したのは七時近かった。
近代的な明るい個室に、むしろ元気そうな表情があった。いつかテレビで見た顔である。
「しばらくだな」と声をかけた。
「うん、元気なときに会いたかった」
奥さんがいましがた帰宅したという。さりげなく家の電話番号を尋ねてから、ポツリポツリと話をはじめた。
「苦しいかい?」
「いや、この姿勢なら大丈夫だ、夜眠れないので困る」
「気管支腺腫だそうだな」
「肺に水がたまっているんだ、取ってもらえば楽になると思う、看護婦は親切だ……」
「話さなくていいよ、苦しいだろう」
私は立ちあがって窓に寄った。七階から見下ろすと、暗闇に豆電球をまいたような街の灯りがあった。
「三年ばかり前、君はテレビに出ていたね、見たよ」
「三年前?ああ、あれは七年前だよ、十年前から三年間にわたって、NHKで日曜毎に三十分番組に出ていたんだ」
「いま、日大の先生をしているのかい?」
「うん」
私は、近況や持参した自著について一方的にゆっくりしゃベった。
三十分近くも枕辺にいたが、交わした言葉は僅かだった。
「又、くるよ」と彼をのこした。
電話ボックスに入り、後藤の家にダイヤルした。
− 「散らかっておりますが、どうぞ」奥さんは私を招きいれた。通された部屋に、修学旅行の参加を急遽中止した高二の息子さんがいた。三十年前の後藤の面影を見た。
幸福であった親子三人の家庭に起こった突然の不幸。発病からいままでの経過を、キャリアウーマンらしく筋道を立てて奥さんは話してくれた。発病、検査、入院、手術不能、放射線療法、退院、自宅における対症療法。
「本当の病名は知らせてないでしょうね」という私に、
「ええ、言っていません。ですから、本人の生きようとする気迫は凄いものです。でも、大学側では知っている人もあって、面会を許して欲しいと言ってくるのです」
「本人が望まぬ限り、面会をさせないほうがいいでしょう」
「でも、主人は“今生の別れに会いたいやつは誰にでも会う”なんて言うこともあります」
「それには耳をかさぬことです。病名は最後まで告げないでください」
帰る道すがら、『今回の再入院には反対、点滴で延命させるだけで生の望みがゼロなら、苦しみの期間は短い方がよい』とする私の考えを、口に出さなかったが、それでよかったのだろうか、と自問した。
十一月一日、六時すぎ、病室に着いた。入院室のドアを開けると、顔色のよい後藤と、少し驚いたような奥さんの顔がこちらをむいた。
バツが悪かったが、奥さんに初対面の挨拶をした。奥さんはだまってお辞儀をした。後藤は何も言わなかった。
「奥さんに僕の本を読んでもらったかい?きょう、別のを持ってきたよ、こんどは軽いやつだ」と、また自著をさし出した。
この日の面会は十分間だった。
病院を出て、奥さんに新横浜まで送っていただいたが、車中、
「私は、いま、死が一番恐ろしいのです」という言葉が印象深かった。後藤の生への執念を毎日見つめているからに違いない。現在の治療は、抗がん剤と点滴・輸血で、処置としては胸水を千cc採取したという。
十一月の初旬、病室に入ると、既に三人の先客があり、私と入れちがいに帰っていった。大学の同僚らしかった。
二言三言話すと、後藤は苦しそうになった。
「しゃベらなくていいよ」と私。
「さっきまで気分よさそうに話していたのに急に痛んできたの?」と奥さん。
「いや」と彼は言った、「彼等と話している間中苦しかったんだ、我慢していたんだ」
「君じゃいいな」と言って、べッドからおりた。部屋の隅で小用をたすのを見ていて複雑な思いが頭をかけめぐった。
後藤の病気を私は友人の誰にも知らせていない。後藤を見舞うベき高校時代の友人の分を、私が代わりにと心がけている。見舞いは病人の希望によってならいいが、それ以外は病人の為にならないと思う。その人の前で平気で用がたせる見舞いならかまわないが、苦しみを抑えて話をしなければならぬ人は来ないほうがよい。苦しかったら苦しがるベきだ。
この夜は四十分ばかり一緒にいた。相変わらず会話はすくなかった。が、胸水を取ったので前より楽になったという。
「明日、丸山ワクチンを取りにゆきます」帰り支度をしながら奥さんが後藤に言った。一瞬ドキッとした。告げられている病名と、がん特効薬として有名な薬との関係を、彼はどう考えているのだろうか。
そこには触れず、関係ない提案をした。
「後藤、気晴らしになるなら、僕の為に短い随筆を口述して奥さんに書いてもらえないか?四年ばかり前から友人の文を貰って文集を作っているんだ」
帰る時刻になった。
「じゃあ」と後藤は笑顔で手を振った。気分よさそうに見えた。が、彼を生かしているのは、食品でなく血管に入れた医薬品だと思うと哀れでならなかった。
二、三日後、奥さんから電話が入った。随筆の口述は無理であること、以前発表したものを文集に入れて欲しいということだった。
郵送された随筆に略歴が添えられていた。昭和三十三年大阪大学大学院研究科博士課程を修了、翌年理学博士、大学院在学中に日本大学理学部助手となり、同専任講師、助教授を経て理学部教授、この間、非常勤で都立大、立教大、東大等の理学部講師を勤めたとある。
文集に入れさせていただくと返信した。
三回目の見舞いから一週間後、上京した帰り病院へ寄った。エレべーターで七階へ上り、いつものドアの前に立つと彼の名札に別の名がある。或る思いが頭をよぎった。ナースステーションに向かう。と、誰かに呼び止められた、「望月さんじゃありませんか」
待合室の隅に一団となっている中の一人が声をかけたのだった。後藤のお父さんの顔が目に入った。続いて、三十年前子供だった妹さん二人の成人した顔を見つけた。危篤の報によって昨日から泊まり込んでいる人達の表情には覚悟の色がうかがえた。
「いま眠っていますから、少しお待ちください」とお父さんが言われた。
「おなぐさめする言葉もありません。苦しませぬようにしたいものです……佐渡でお会いして以来ですから三十年ですね」
お父さんの瞳をみて、佐渡のあの家で過ごさせていただいた様々の場面がうかんできた。話をしているところへお母さんが来られた。柔和な顔も憂いをかくしきれない。久闊の気持ちを述ベ終わると、「ちょっと」とお父さんを伴って去られた。程なくお父さんが戻られて「鉄男と話が出来ます、一目見てやってください」と小声で告げられた。
死が迫っている友の顔を見た。私に注がれた視線が“来たね”と合図した。無言でうなずいた。苦しそうな息の下でお父さんに向かって「肺の機能が低下している」と言ったあと、私に「治るか?」と問うた。
「治るよ」と力強く答えた。
一分間といられなかった。目顔でお父さんに挨拶して皆さんを後にした。後藤に言うベき言葉はない。はじめてこの病院に見舞ったとき、彼は、私の心の中で既に死んでいたのだ。いや、鳥山の電話のとき死んだのだ。
訃報と葬儀の日取りが電話で知らされた。
式場に赴いた。正面の花生けに、『喪主後藤鉄蔵・レン』などの名が読めた。
五百人に近い参列者を前に弔辞が読まれた。
日本大学理工学部長は「昭和三十三年日本大学に原子力研究所を創設するに当たり全国より俊英が集められたが、後藤先生は在学中にもかかわらず招へいした」と英才をたたえた。
「後藤さん」という呼びかけにはじまる恩師の弔辞、又、二十五年間にわたる共同研究者の別れの言葉、それらは、会わなかった間の後藤の人生を私に語り聞かせているかのようだった。
焼香がはじめられた。奥さん、息子さんのあと、お父さんが立ち上がって力ない足どりで焼香台に向かわれた。と、急に、レンズの焦点がぼけたように見えにくくなった。はじめての経験だった。お父さんの後ろ姿に心のまんなかをゆすぶられたのである。
突然あらわれて、又、突然去っていったその間、私の心は重くてならなかった。火葬場で「これでホッとしました」と告げられたお父さんの気持ちは私も同じだった。
三十年ぶりの彼との邂逅は、思えば別離のためのものであったろうか。
惜別の念がペンを長く走らせた。
昭和五十七年十二月十八日付朝日新聞の死亡欄にこう載った。
後藤鉄男氏(ごとう・てつお=日大理工学部教授)十六日午後八時八分、肺がんのため川崎市中原区の関東労災病院で死去、五十一歳。葬儀・告別式は十九日午後一時半から東京都元麻生一の前福寺で。喪主は妻|順子(じゅんこ)さん。自宅は横浜市港北区大豆戸町八九一ノ二、大倉山ハイム五ノ二○六
素粒子論、場の理論専攻。著書に「拡がりを持つ素粒子像」などがある。