或る通訳的な日常

 罵り言葉考

 

 アンドレイ・サハロフ(砂糖)博士がゴリキー(苦い)市に流刑になったころ、市の名称をスラトキー(甘い)に改めるべきだ、などという小話が流行ったものだが、ご存知のとおり、最近現実の出来事として、長年公式筋に「ソビエト文学の父」視されてきたこの作家のペン・ネームは、「ソビエト水爆の父」の流刑先となったヴォルガ河畔の市の名称から外された。作家の生まれ故郷だった市は、作家の生まれた頃も、またその作品の中でもそう呼ばれているニジニイ・ノヴゴロドという昔の名前に戻った。

 スターリン時代の粛正への関与などの資料が白日のもとに晒されたこともあって、モスクワの目抜き通りの名称からも、「ロシア文学の父」プーシュキンの横顔と並んでワンセットになっていた、文学新聞のロゴからも姿を消してしまったゴリキーだが、その作品の全てが無価値になってしまうものでもあるまい。捨てがたい逸品がいくつもある。捨てがたい言葉もある。

 たとえば、ロシア語について、「世界に類を見ない罵り言葉の宝庫」と絶賛している。

 もっともロシア語しか知らなかったはずのゴリキーに、最低一千五百から最高六千ほどの言語があるといわれているこの世界に「類を見ない」などと言う資格があるのかと、至極当然な疑問がわいてくる。でありながら、一方で、妙な説得力を持っているから困る。

 たしかに言語によって、あるカテゴリーの語彙が極端に多かったり、少なかったりすることは度々ある。例えば、農耕菜食民族としての過去が長い私たち日本人のボキャブラリーには、肉体の各パーツを現す単語が狩猟民族だったアイヌの言葉などと較べてみても極めて貧弱で、内臓の各器官の呼称は、ことごとく中国語からの借用である、と金田一晴彦先生がどこかでおっしゃっていた。あるいは、遊牧肉食生活の伝統が長いモンゴル人の多くは、あらゆる種類の野菜をいとも簡単に無造作に「草」と呼んでしまう。そんな場面が、司馬遼太郎「街道を行く」シリーズの白眉「モンゴル紀行」に活写されている。

 今は主権独立宣言して「サハ共和国」と名乗るようになったかってのヤクート自治共和国を十年ほど前に訪れたとき、ヤクート語にはほとんど罵り、貶し、謗る言葉が欠如しているのでヤクート人は喧嘩をするときだけロシア語でやると伺った。これなど、ゴリキーの説を大いにバック・アップしているように思える。

 旧ソ連で日本向け書籍の出版社で長年編集者を勤めていらした関係で、多くの日本人翻訳者と交流し、奥様も日本人でいらっしゃるという、生きた日本語の格好の観察者の立場にあるP.トマルキン氏も、ご自身の体験から次のように述べておられる。

 

 日本人なら、単に首を傾げるか、せいぜい『そうかなあ』という言い方で相手に同意しかねる旨表現するところを、ロシア人なら十倍二十倍の罵り貶し言葉を口走る。水谷 修氏が『日本語の背景に腹芸と相手に対する思いやりがあるのに対して、英語はより相手に対して攻撃的であり過激である』(月刊「日本学」一九九一年十月号所収)と記されているが、英語に関する所見はそのままロシア語に当てはまる。

 (ロシア語通訳協会主催第四十一回学習会:一九九三年十二月十一日 於上智大学)

 

 また、ロシアの小説などに登場する数々の悪罵、愚弄の中でその80%は翻訳不能だと、著名なロシア文学者の先生方がボヤいらっしゃるのは事実だ。他の種類の単語なら、該当する日本語の単語が見あたらない場合、定語を付けたり、言い替えたりするのが常套だが、罵倒言葉を説明訳にしたのでは迫力が失われてしまうから悩みの種なのだという。さもありなんと同情しつつも、では、「このとんとんちき」とか「おたんこなす」とか「おまえなんか豆腐の角に頭ぶっつけて死んじまえ」なんていう言い回しを前にして、世界各国の日本文学翻訳者が途方にくれる姿をも同時に思い浮かべてしまうと、いやわが日本語も罵倒語の世界選手権では結構健闘しておるのではと、ついついひいき目にみてしまう私は、国粋主義の気があるのだろうか。

 ところで、書かれた言語よりも文章化されない言語の方にこの種の言葉の種類も豊富だし、使用頻度も高いのは、万国共通。といっても、私のような通訳者が、そういう場面に出喰わすのは、殆ど皆無に近いほど稀なことである。通訳者を介して意志疎通をはかる以上、決裂寸前の交渉であれ、非難と中傷合戦に終始する会談であれ、そこはお互い外国人相手であることを念頭に置くこともあって、最低の品位は保とうとする潜在意識が働くものらしい。

 実は通訳者にとってこの極めて貴重な、罵り言葉の通訳という体験をしたことがある。いや、正確には、通訳する羽目になって、できなかったことがある。日本のテレビ局が現在はサンクト・ペテルブルグと名を改めたレニングラードでのバレーボールの国際試合をソ連のテレビ局の協力を得て日本に生中継することになった。試合会場の八台のカメラから中継車に送られてくる映像に関する日本側ディレクターの様々な注文をソ連側ディレクターを通じて各カメラマンに伝え、また八つの映像の中からどの一つを選んで日本に送るかという指示を伝える。それを通訳するのが、私の仕事だった。初めのうちは、気取っていたソ連側ディレクターもカメラマンが指示通りの映像を送ってこないと言って苛立ち始めるや、たちまちよそゆきの仮面をかなぐり捨ててカメラマンたちとの激しいやり取りに没頭して行くのだった。それが、

 「ちゃんとボールを追って撮れ!」

 と言えば済むところを、その10倍の時間と語彙を駆使してこれでもか、これでもかという具合いに貶し、罵るのである。「糞」系と「ちんぽこ」系の単語を、まるで間投詞のようにふんだんに惜しみなく散りばめた罵り雑言もこれほど密集すると、憎悪よりも滑稽をもよおすというのが、この時の発見。完全に忘れ去られた格好になった日本側ディレクターが、

 「ネエネエ、なに言ってんのか教えてよおーっ」

 と私にせがむので、訳そうとしたものの絶句してしまった。対応する日本語が見当たらないのである。通訳不能にはなったものの、意味が分かったのは、ロシア人の悪友たちの薫陶のおかげと秘かに感謝した。

 しばらくして、このロシア人ディレクターとカメラマンたちとのやり取りにそっくりな会話が日本のテレビで流れた。しかも、NHK。大韓航空機を撃墜する前にソ連軍が放った偵察機のパイロット同士の会話を日本の自衛隊機が傍受し、それをそのまま日本語字幕を添えて放送したのである。覚えておいでの方も多いと思うが、もちろん、罵り言葉の部分は省略した翻訳ではあった。しかし、音で聞く限り、口汚くも限りなく豊かな罵詈雑言は、自衛隊が必要としている情報を担う言葉の量を圧倒的に凌駕しているのだった。それは、文字化するならば、おおよそ次のような様相をていしていたと思われる。

「xxxxxxxxxおいxxxxxおれだxxxxx○○○○○だ。xxxxxきこえるか。xxxxxxxxxx」

「xxxxxxxxxああxxxxxxきこえる。xxxxxxxxxxxx○○○○○だ。xxxxxxxxxxxx」

「xxxxxxxxxみえたか。xxxxxxありゃxxxxxxKだぜ。xxxxxxKだ。xxxxxxx」

 つまり、xxxxx部分が全てこれ罵り言葉だったのである。それはきっと暗号だったのではないか、と思われる方もいらっしゃるだろう。99・9%違う、と私は思っている。というのは、偵察機のパイロット同士のやり取りで想定され得る内容は、量的には少ないものの罵倒語に分類されない言葉で言い尽くされていたからである。傍受されているとはゆめゆめ思わないからこそ、当人達はあれほど濃密な罵倒言葉を交わし得たのであろう。

 それよりも、こうして貴重この上ないロシア語での罵りあいの場面に接して、この種類の言葉が、親密さの表現に大いに貢献しているという感を濃くした。他人の入り込む余地のない仲間内の雰囲気を創り出してくれるのだ。なかでも卑猥な罵り言葉、紳士淑女が間違っても口にすべきでない表現にその機能が強い。実は、バレー・ボールの生中継の際のディレクターとカメラマン達との掛け合いも、自衛隊が傍受したソ連軍偵察機のパイロット同士のやりとりも、まさにこの種のボキャブラリーにウンザリするほど満ち満ちていたのだった。

 このカテゴリーのなかで比較的、あくまでも比較的なのだが、品のいい罵倒語に「雌犬」あるいは「雌犬の息子」というのがある。ロシア語にも英語にもあるこの言い回しでは、言うまでもなく、女性に対して罵るときには前者を、男性に対しては後者を使う。「雌犬」というのは、相手構わず身を任せる、つまり身持ちの悪い、ふしだらな女を意味する。要するに「ズベ公」、「ズベ女」、「あばずれ」。「あばずれの息子」とは、父親が不明、つまり「父無し子」、「どこの馬の骨かも分からない奴」ということになる。

 イタリア語やスペイン語だと、「売女」とか「売女の息子」という言い方のほうが人口に膾炙しているらしいが、主旨は同じ。

 ところで、この「あばずれ」とか「ふしだら」、言い替えれば「男に対する門戸が広い」ことが女性のマイナス・イメージに、そして「処女」や「貞淑」、すなわち「男に対する門戸の狭い」ことがプラス・イメージになっていくプロセスは、おおらかな母権制社会が崩壊し、私有財産制を基盤とする父権制社会の確立と軌を一にしている、というようなことをエンゲルス先生が「家族・私有財産・国家の起源」の中で述べていたような気がする。母権制のもとでは、どの男の子どもであるかなど全く問題にもならなかったことが、財産権や相続の発生とともに血で血を洗うような重大事になってくる。男は財産を自分の血を分けた子にのみ継承させたいという排他的願望の虜になる。これを擁護し、正当化する制度が確立する中で、男の単なる独占欲は法や道徳律に「昇格」してしまい、「あばずれ」や「ふしだら」は、この排他的財産権を侵害する侮り難い脅威として罪悪視されるようになってしまった。

 先に紹介した「りたくてしかたない女」を意味するスペイン語の慣用句「走る女」も、このカテゴリーに分類される貶し言葉であろう。

 そういえば、私の幼年時代「おまえの母ちゃん出べそ」というのがなかなかポピュラーな罵り言葉として子どもたちの喧嘩の最中に愛用されていた。かく言う私も、随分お世話になった記憶がある。母親を貶すことによって、当の相手を罵るという点では、この「雌犬の息子」というのも、同じ手法である。これは相当頭にくるものらしい。スペイン語では、「お前の母親」と言っただけで、相手は青筋がぶっちぎれるほど怒り狂うものだと伺った。ロシア語には、この母親中傷路線上に「おまえの母親を姦った」というのがある。随分と物騒で過激で、わが日本語の「おまえの母ちゃん出べそ」なんて、これに較べると実に無邪気でたわいもない。

 さて、とある年輩の日本人が中国を訪問し、滞在中大変世話になり、親しみを感じるようになった中国人の青年に心からの感謝と親愛の気持ちを込めて、「君は、私の息子だ」と言ったところ、相手は喜ぶどころか、たちどころに怒りの余り顔面蒼白になり席を蹴って出て行ってしまった、という話を中国帰りの友人に伺ったことがある。「私の息子」とは、まさに「おまえの母親を姦った」という意味であって、最高のというか、最低の侮辱なのだそうだ。

 ああ、さすが中国四千年の歴史、「おまえの母親を姦った」といういかにも下品で直截的な物言いが、こんな迂遠な言い方に変わっていくのだなあ。これこそ文化というものではなかろうかと、それを知った瞬間、私は震えが止まらなくなるような感動の波に包まれたものである。

そして、少し落ちつきを取り戻したとき、今度は一種の閃きにも似た仮説が私の心を捉えて離さなくなってしまった。「おまえの母ちゃん」が「出べそ」であるのを知るには、やはりそのような状況にならねば果たせないのではないだろうか。ということは、これもまた「おまえの母親を姦った」の一変種で、余韻を尊び、語り尽くしてしまうことを無粋とする日本文化の特徴を見事に映し出しているのではないだろうか。 

 

 以上見てきたように、慣用句、成句、熟語に機械的対応は禁物。簡単に他の言語にコード転換できないものである。なぜか。それは、その慣用句や成句や熟語が成立した背景、すなわち過去の文脈を共有していない以上、通常の語彙と文法の知識だけでは理解不可能だからだ。普通文脈というと、単語や、ひとまとまりの表現の前後関係を意味するのだが、前後関係というときに、文章の中だけの前後関係だけではなく、この言葉が発せられた全体の状況、この言い方が誕生した遠い遠い過去の背景、これをも含むことがあったりするのだ。

 そんな事情から、次の機会には「文脈」に捧げることにする。

 

 ─「罵り言葉考」。1994年『不実な美女か貞淑な醜女か』(徳間書店)に初出。新潮文庫『不実な美女か貞淑な醜女か』所収─

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 強みは弱みともなる

 

 *モスクワのインドネシア人

 最近、ドギツイものの何となく間の抜けた話を自動小銃から乱射するような友人を得た。仕事がら海外に行くことの多い人で、仮に須藤敏夫さんと名付けよう。この人は哲学徒にして神学徒で、しかも自称スパイでもあるからして、皮肉屋で偽悪的なところと、いやに説教くさく正義漢ぽいところとが奇妙なごった煮状態になっている。近頃この国ではなかなか見かけない青年で、話していて退屈しない。いつも少し気取って、普遍的抽象的命題を投げかける形で話を始める。たとえばある時、こんなことを言った。

 「人間にとって弱みとは、何だと思う?」

 いきなり、そんなこと問われて、

 「さあー」

 なんて、ちょっと困惑したふうに頭を傾げると、嬉しそうに鼻の穴を膨らませながら、物々しいテーゼを口にする。

「どの人間にも共通する弱みなんて存在しないのよ。弱みとは、その人間が弱みと思いこんだ時点から弱みとなるんだなあ」

 「アレッ、そうだろうか」

 などと、こちらが一瞬考え込んだりしようものなら、ギョロ眼を輝かせる。

 「インドネシアのスカルノ大統領がね」

 「ああ、あのデビさんを第3夫人にした、インドネシア建国の父ね」

 「そうそう。その故スカルノ大統領がモスクワを訪問したとき...」

 須藤さんは言いたくて言いたくて仕方ないのに、こちらをじらそうと勿体つけている。でも結局自分の方がじれったくなったらしく、一気に話を吐き出した。あまりに急ぐものだから、息継ぎもできない様子である。

 「ソ連のKGBが近づけた美女に引っかかって、その美女と過ごしたベットでの一部始終をバチバチ写真に撮られちゃってね。もう、ありとあらゆる狂態、尻の穴までしっかりカメラにおさめられちまった。この写真を見せてスカルノを脅し、ソ連の思い通りに動く傀儡に仕立て上げようと、KGBは考えたわけね。

 写真を見せつけられたスカルノは、震えが止まらなくなったんだけど、それは怖かったせいじゃなくて、喜びのあまりだったの。キャーキャーはしゃいじゃって、写真持ってきた男抱きしめんばかりにして言ったそうだよ。

 『いやあ、素晴らしい写真をありがとう。ほんとにありがとう。おかげで明日から今までの十倍楽しめるよ』

 これ以後KGBは、相手を脅そうとするとき、女だけでは、相手を落とせないこともある、と学んだみたいなんだ。酒に睡眠薬入れて酔い潰して、眠っているところを裸にして男と絡み合ってる写真もバチバチ撮るようになったらしい。こんな写真、本国の本社に送りつけると脅されたらビビるでしょう、普通?」

 それにしても、したたかな政治家とは、一流の脚本家兼演出家兼俳優である。たしかに、一夫多妻を公認されているイスラム教徒であり、その艶福家ぶりを自他ともに認めるスカルノではある。しかし、いやしくも一国の元首である彼が、国賓として迎えられているはずの国の政府機関に女との濡れ場の写真を撮りまくられて、内心ムッとしなかったはずはない。それでも米中ソという各大国との距離を巧みにとりながら、建国途上の自国の独立を維持していかなければならない彼は、激して我を忘れることなく、とっさの判断で巧みにKGBの矛先をかわしてしまった。さすが数えきれないほど多くの修羅場をくぐり抜けてきたスカルノは、KGBより何枚も上手だ。彼なら、男との濡れ場写真を突きつけられても、屁とも思わないんではなかろうか。

 というわけで、わが友須藤さんの導き出した、

「弱みとは、その人間が弱みと思いこんだ時点から弱みとなる」

なる戒めは、脅迫された場合の心構えとしては、実に有効と思われる。

 

 *シベリアの恨みを宇宙で晴らす

 

須藤さんのテーゼを聞きながら、わたしの脳裏には、弱みなるものに関する別のバージョンの命題が浮かんだ。その元になった経験からお話ししよう。

 

 目に見え手でつかむことのできる器官にめぐまれているため、男の子は少なくとも部分的にその個所に自己を移す(疎外する)ことができる...はじめから、女性は、男性にくらべて、自分の目にはるかに不透明で、生命の不思議な不安にいっそう深くつつまれている...男の子は、彼がその中に自己を認識する第二の自我(alter ego)をもっているということから大胆に自己の主体性を荷なうことができる。彼が自己をその中に移すところのものまでが自主と超越の権力の一つの象徴となる...少女は自己の如何なる部分にも自分を肉体化することができない。

(ボーヴォワール著『第二の性』、新潮文庫) 

 「人は女に生まれない。女になるのだ」

 という名文句で始まるこのウーマン・リブの記念碑的著作を最初に読んだのは、高校生の頃だった。

 のっけから延々とペニスの有無が男女の幼年期の自己形成に及ぼす作用が論じられていて、その論旨の余りにも大げさで滑稽なまでに生真面目であるのにいささか辟易しながらも、 

 「男の子にあっては、排尿作用は自由自在な遊びのような形で、それは自由を発揮できる遊戯につきものの魅力をそなえている。吹上げは思うままの方向に向けられ、尿は遠くへ飛ばすことができる。男の子はこのことから万能感を手に入れる」

 というくだりでは、

 「そういえば、自分も幼稚園の頃、男の子のように立ちションを旨くできないのが悔しかったっけ」

 と、いつのまにかうなずいていた。 

 もっとも幼年期に味わった男性の排尿器官に対する羨望の念は、ボーヴォワール女史の挙げる症例とは違って、わたしの場合、男性に対する劣等感にはつながらなかった(と思う)。ただし、運命の女神はその後二度、すなわち都合三度わたしに、「目に見え手でつかむことのできる器官にめぐまれて」いないことを心底悔しがらせた。

 二度目は、十歳のころ、虫垂炎で入院した時だった。手術後、隣のベッドの同年輩の少年が横になったままいとも易々と尿瓶にオシッコを流し込んでいるのが、どれほど羨ましかったことか。わたしの方は、術後の耐え難い痛みをこらえながらベッドから下りてお丸にしなければならなかったのだから。 

 

 そして、十二年ほど前にTBSテレビのシベリア取材に通訳として同行した時が三度目である。気温が零下六十度近い屋外での撮影。刺すような痛みに襲われるため、とても顔を出していられない。取材陣一同眼のところだけくり抜いた毛糸のマスク帽を被り、その上をマフラーで幾重にも覆っている。眼の表面の水分さえ凍るため、瞬きする度にシャーベットが出来ていく寒さの中で尿意は脅威となった。排泄は、わたしにとって十枚以上重ね着しているのを全部剥がし、素肌を外気に晒すことを意味した。

 ところが何ということだ。水分をなるべく控え、「排尿か恐怖の寒気か」というジレンマに身悶え苦悩するわたしをしりめに男どもは競うようにキャーキャーと奇声を発しながら嬉々として雪原に放尿しまくっているではないか。もう完全に幼児退行している感じなのだ。なかには自社のロゴを白地に黄で書いた器用な奴もいた(当時のTBSのロゴは、今のような活字体離ち書きではなく、筆記体続き書き風だったから、社員がオシッコしながらも愛社精神を表現するのに、まことに都合がよかったのである。今思えば、この優れもののロゴを変えた当たりから、TBSの社運は傾いてきた気がしてならない)。

 しかもわたしに許されていた空間が三方を申し訳程度に板っ切れで囲った凍てついた地面のまん中に掘られた直径二五センチほどの穴であったのに対して、男どもは果てしなく広がる凍土のどこをも放尿場所に選び取ることが出来た。

 プラス三六度の体温という環境から放出される琥珀色の液体は、百度近い温度差の冷気に触れてたちどころに濃密な水蒸気と化す。その乳白色の濃霧をにらんでいると、不条理の三文字がクッキリと浮かんでくるような気がした。

 ついにわたしのジレンマのバランスが崩れた。おかげでわたしは、一大発見をしたのだった。排泄欲とは、羞恥心はおろか、あの零下五九度の寒さに対する感度をはるかに凌ぐ強烈な欲求なのだということを。自慢ではないが、一日中我慢していた末のわたしのその時の排尿のかなりの勢いと速度にもかかわらず、要した時間も随分長かった。にもかかわらず、放尿中さらされていた皮膚は、まったく寒さを感じなかったのである。

 しかも、排泄により、極度の緊張から解放され弛緩した肉体と神経は、心地よい安堵感に包まれて、すっかり穏やかかつ寛大になったわたしは、

 「あんなところ構わずいつでもオシッコが出来る連中には絶対に味わえない安らぎだわ」と男どもに対する優越感さえ噛みしめたのだった。 

 

 さて、秋山豊寛さんが日本人として初めて宇宙空間を訪れてから五年半以上が経ってしまったが、この宇宙飛行士誕生に医療選抜の段階から通訳として関与したわたしは、今度は宇宙空間における排尿というテーマにぶつかった。

 無重力空間では、あらゆる水分は球状の水滴となって、空中を浮遊することになる。自分の、ましてや他人の排摂物とともに空中を遊泳するのはたまらないから、吸引器を排泄個所に当てがってするようになっている。その当てがう部分が、男性用は筒状になっていて、個人仕様なので予め宇宙飛行士は自己のサイズを申告しておかなくてはならない。それを大体が皆大きめに申告してしまうというのだ。

 宇宙開発産業という分野は軍需産業と直結しているものだから、米ソ冷戦時代は米国、ソ連ともにお互い分厚いベールを何重にも被せて極端な秘密主義をとっていた。ペレストロイカ政策が実施されるようになってからは、この部門における米ソ間の交流も活発になり、かなり細部にいたるまで公開し合うようになった。

 そして、その時になってはじめて米ソの宇宙関係者はお互いに確認しあったそうである。

 ペニスのサイズの申告については、米ソどちらの宇宙船搭乗予定者とも、大きめに申告してきたということを。冷戦時代を通じて、鉄のカーテンの両側でずーっとそうだったのと思うと、何か震えが止まらなくなるような崇高な感動を覚えるではないか。

 そういえば、ペレストロイカとグラースノスチを打ち出したゴルバチョフの当時好んで用いたうたい文句というか、キーワードに、

 「全人類的価値」

 という大層おおげさなコンセプトがあったのである。

 今までのソビエト連邦の党も国家も「階級的価値」すなわち「労働者階級の価値」を何よりも優先し、「資本家階級の価値」を敵視してきたが、核の脅威の前には労働者も資本家もない。米レーガン大統領は、ソビエト連邦を「悪の帝国」呼ばわりしていたが、核の脅威の前では、敵も味方もないじゃないか。たしかそういう意味でゴルバチョフは盛んに「全人類的価値」というフレーズを使っていた。だが、うたい文句の宿命で、一九九〇年頃には、すでにフレーズだけ一人歩きして一種の流行語になっていた。

 だから、先の話をはじめて聞いたとき、真っ先に思ったものだ。

 「ああ、ゴルバチョフのいう『全人類的価値』ってこのことだったのね。いや厳密に言うと、『人類半分の価値』か」

 

 宇宙船の壁面の外側は空漠たる宇宙が無限に広がる。だから地球上の大気とほぼ同じ組成に保たれる船内の空気は、搭乗者の命と健康に直結する貴重品だ。いくら通念上サイズは大きい方がよいということになっているにせよ、宇宙船内の居住環境を犠牲にしてまで、虚勢を張らざるを得ない男たちの、「目に見え、手でつかむことができる器官」ゆえの、女の目からすると哀れで無駄な気苦労を知るにつけ、やはり物事一長一短、楽有れば苦有り、世の中旨く出来ていると、ついほくそ笑んでしまった。いみじくもボーヴォワール先生の言うように、「第二の自我」であり「主体性を荷い」「自主と超越の権力の象徴」ともなる器官のことだから、そのサイズをめぐる男どもの一喜一憂には悲喜劇の影がつきまとう。

 

 大学を卒業し、結婚してから医大に入り直した女友達がいる。人体解剖の時間。時折、標準サイズをはるかに越えたたいへんな逸物を持った死体が運び込まれて来るそうだ。

 「す、す、すげえな!俺負けるな!」

と同級生(当然その大多数は年下)の男の子たちが口々に溜息をつく。そんなとき彼女はなるべくさりげなく、それでいながらこれみよがしに呟くのだそうだ。

「あら、こんなもんじゃなくて? わたし、こんなもんだと思ってたわ」

「へえ、Uさんの旦那さんてス、ス、スッゴイ方なんですねぇ!」

 ととたんに医学生たちの彼女を見る目が一変する。そんな風に、羨望と尊敬の眼差しで仰ぎ見られる快感がたまらなくて、

「つい見栄を張っちゃう」

 という彼女だが、どうやら逸物の大小ごときに異常にこだわる男たちをからかうのが面白くて仕方ないのだ。

 身近な男に連帯して「見栄を張る」という女のタイプは、実はイタリアの小咄が好んで取り上げるテーマでもある。

 

  「先生、今日は息子のことでご相談申し上げたいのですが」

  「おや、おいくつになりましたかねえ」

  「もう一八になりますの。困っておりますのよ。そのー、あのー、おチンチンが、五歳の男の子ほどなんですの」

  「えっ、すると、これくらい?」

   と医師は、小指を立てて見せる。

  「いやーだ、先生、だから申し上げているではございませんか、五歳の男の子ほどだって」

   というと、女は片手で、床から一一〇センチぐらいの高さを示した。

 

 とまあ、「第二の自我」のサイズをめぐる気苦労は、周辺の女まで巻き込む勢いで、まことにご苦労さんなのだ。

 そこへいくと女は、短小コンプレックスなんて無縁。自己のサイズに関する客観的な認識を持てないし、持とうともしない。そんな女の無頓着さ加減を、次のロシアの小話は実に見事に伝えている。

 

  「あなた、指を入れるときは、指輪はずすっていう約束だったじゃないの」

  「これ、腕時計だよ」

 

 話がこれ以上落ちてはならないところまで堕ちたところで、少し格調高く戒めることにする。

「強みは弱みともなる」。

 

 *肥大願望症の落とし穴

 右の戒めに通ずるようなことを、地中海世界を舞台にしたスケールの大きい歴史物語で知られる塩野七生氏が述べているのを発見したときは、夜も眠れぬほど興奮してしまった。

 

  歴史物語を書き続けているわたしの心の中には、ある仮説が確かなものになりつつある。それは、国家の興隆も衰退も、いずれも同じ要因の結果であるという仮説だ。

  ヴェネツィアは、外からの人の受け入れを拒否することで大を為したのであった。だ がまた、この方針を貫いたことによって衰退せざるをえなかったのである。

  古代ローマとて同じだ。こちらは反対に門戸を開いたことで大国になったが、衰退も 同じ要因によって起こったのである。国境を広げ人びとに均等な機会を与えたので大帝国になりえたのだが、それによって首都ローマが空洞化するのまでは防げなかったのだ。

(『再び男たちへ』 文芸春秋刊) 

 そして最近また「強みは弱みにもなる」というテーゼが、頭の隅にこびりついて妙に気にかかるようになった。それは、肥大化の一途をたどるわが国の報道機関の、肥大化すぎるゆえのあまりの無力を裏付ける事態がまたまた白日のもとに晒されてしまったからだ。

 すでにお気付きのように、オウム報道をめぐる巨大マスコミの「ウドの大木」ぶりのことだ。

 なぜ、一九八九年当時から、大マスコミのバックも警察の援護もないフリーのジャーナリストで、いかにも小柄で華奢なうら若い女性の江川紹子さんが、すでにかなり危険で怪しい兆候を見せ始めていたオウム教団を単身で取材し告発し続けていたというのに、日本全国のみならず、世界各地に支局網を有し、数千から数万の記者を擁す大新聞やテレビ局は、信じがたいほどにこの情報に対して鈍感だったのだろうか。宗教法人法や「信教の自由」の枷があって、慎重を期さなくてはならないのは分かる。でも、それなら一定期間記事にはしなくとも、記者グループ、あるいは少なくとも一人の記者ぐらい張り付かせておく配慮があっても良かったではないか。それをしなかったのは、アンテナの感度が機能していなかったのである。なぜ、オウム告発の記事を掲載する勇気を持ち得たのが、八九年当時は、『サンデー毎日』、その後は『週刊文春』という、読者数数百万から一千万前後に達する大新聞や数千万単位の視聴者を誇るテレビ局に比べれば、マスコミというよりも、せいぜい読者数百万未満のミディコミというべき週刊誌なのだろうか。

 そこには、「大男総身に知恵が廻りかね」などの成句などではとうてい説明しきれない、言論機関の規模の法則のような、一定の原理が働いているとしか思えない気がする。

 たとえば、オウムよりもはるかに巨大で現実政治に対する関与の深さでは比類ない某宗教団体の不祥事についても、巨大マスコミはまるで絶対的な不文律があるかのように報じない。これは「信教の自由」などというキレイごとではなくて、すさまじい動員力を誇るこの宗教団体の信徒による購読ボイコットや抗議の殺到という営業に直結する損失を恐れてのことだ。では、なぜより弱小なはずの週刊誌は、それを恐れる程度がより少ないのか。

 失うものが、より少ないからである。不買運動で失う読者を五%として、千万部の新聞は毎日朝夕五十万部づつの減紙であるのに対して、百万部発行の週刊誌は週一度五万部減で済む。

 物理学の初歩で習った「作用反作用の法則」のように、影響力が巨大であればあるほど、それに対する権力はじめ各方面からの圧力と監視、規制が増すということもある。

 程度の差はあるだろうが、購読者の拡大を目指さない新聞は希有だし、視聴率を無視しうるテレビ局は皆無に等しい。報道機関がより多数の受信者を求めるのは、その存在価値そのものから発する宿命みたいなものである。しかし、伝達範囲が広がれば広がるほど、第四の権力といわれるほどまでに影響力が増せば増すほど、必ずしも報道機関の存在の拠り所たる「国民の知る権利」の継続的な実現に不可欠な自由と不当な圧力をはねのける勇気が増すとは限らず、むしろ現実は逆になっている。

 先の大戦でも、大本営発表の下請けに真っ先に成り下がったのは、大マスコミだった。これは、似通った全体主義を奉じた枢軸国仲間、ドイツやイタリアでも同じだったらしい。

 この苦い教訓に学んで、大戦後イタリアでは報道機関の規模を抑えることが、報道がファッショに走らないための歯止めであるとの認識のもと、報道機関の合併や寡占化を制限する法律まで設けたという。 

 ドイツはどうだか知らないが、わが日本では、そういう教訓の生かし方はしなかった。ご存知のように、日米構造協議でも米国からの非難の的となっている日本企業の悪名高い系列化という病を報道機関も患っている。それもかなり重篤だ。放送局など、地方局を在京キー局の傘下に従えるばかりでなく、有力新聞社との提携までに及んでいる。

 加えて、そう遠くない過去に国民の圧倒的多数が水田稲作を営んでいたということから来る、それ自体はプラスマイナス両面合わせ持つ横並び意識が、それが最も相応しくない報道機関に異常に拡大再生産された形で出てしまっている。ほとんどマスコミの属性になってしまっている。先の天皇の死から「大喪の礼」にいたるマスコミ報道の一糸乱れぬ見事な画一化ぶりや、昨年三月のオウム強制捜査以降の、それまでとは打って変わったオウム報道の節度も倫理もかなぐり捨てたヒステリーぶりには、空恐ろしいものがあって、わたしは真剣に亡命を考えたものだ。

 ところで、畳と女房は古くても畳と女房であり続けるが、情報は古くなると情報ではなくなってしまう、というのは通訳業、とくに同時通訳業を飯の種にしている身にとって常識中の常識。情報の送り手が反復する情報や、すでに受け手が知っている情報、つまり古い情報は、通訳の際、時間が足りない場合はどんどんカットして構わない、その代わり新しい初耳の情報だけは取りこぼさない。これが通訳の基礎技術の背景を成す原理である。

 マスコミが流す情報には、このすでに陳腐化して言葉の真の意味での情報ではなくなってしまった情報の割合が余りにも多すぎる。

 こういう古い情報の反復の役割は何か。皆が同じ情報を共有していることを確認することに心の安定を求める、同じ共同体に属すことを確認しあうような役割ではないだろうか。

 これは、むかし文学ジャンルの歴史を少々かじった時の太古の歌に関するうろ覚えの記憶をよみがえらせてしまった。太古の歌には近代の抒情詩のように個人たる作者はいない。古代ロシアの民衆の歌を文学的時間という観点から分析したD・S・リハチョフは、聞き手による歌の感受という側面に注目して、次のように述べている。

 

 それは創作されるというよりも演じられるものだ。ここでは、歌い手だけでなく聞き 手も演者である。歌われている間、そこには歌い手(演者)のみがいて聴衆はいない。 歌には、誰もが歌の主人公(言葉の主体)となれるように、歌われるテーマも状況も極端に一般化している。

(D・S・リハチョフ著『古代ロシア文学の詩学』) 

 お気付きのように、以上のような太古の歌の特性は、今の多くの歌謡も持っている。そして驚くべきことに、ニュース性を失った情報を繰り返し報道する送り手と受け手の関係が、上の聞き手が歌い手と一体化した関係に相似してくるのだ。情報の送り手と受け手が相対峙するのではなく、同じ方向を向いているという関係。

 その後の文学ジャンルの発展の歴史をたどると、文学の言葉が、受け手の異議を前提としない、語るに足る権威ある人々や権威ある行い、万人に認められた美しきもののみを語るための共同体の意識を代表する言葉から個人たる創作者の誕生と近代的自我の確立とともに、より狭い個人の意識を代表する言葉に進化していくことが分かる。そこに表現される意識を共有できる人々の幅はせばまっていくから、当然その言葉は、受け手の異議を念頭においた言葉になる。

 共同体の意識を表現している限り、受け手の反論を前提としないかわり、表現する内容形式両面にわたってさまざまな制約があったのだが、より狭い個人の意識を表現していくとともに、表現の内容形式の自由度は飛躍的に高まっていく。

 肥大化するマスコミの言論の自由との矛盾の根源は、こんなところにある気がする。

 今も放送されているのかどうか知らないが、むかし関西方面のラジオ番組に、「近鉄アワー」という近鉄バッファローズ球団のファンのための番組があった。内容は近鉄に関する好ましい情報一色。「太田幸司物語」とか、「鈴木啓二物語」なんてのを延々やっていた。視聴者からのお便りを紹介するコーナーがあって、あるとき司会者が興奮したことがあった。

 

 ○○市の××さんからのお便りです。「いつも、楽しく拝聴しておりますが、この番組は、ちょっと近鉄に偏向しすぎとるのと違いまっか」何いうとるねん、これ。あれ、 「阪神ファンより」だと。阪神ファンなんぞに、この番組みてもらわんでもええわ!

 

 得ること失うこととはよくいったもので、巨大マスコミの辛さは、「この番組みてもらわんでもええわ」「この記事読んでもらわんでもええわ」とケツをまくる覚悟が不可能になった事ではないだろうか。

 「大量生産に適さない」ものの筆頭によく「料理と教育」があげられるが、ジャーナリズムもこの範疇に入れるべきなのかも知れない。

 

─「弱みは強みにもなる」。『魔女の1ダースミ正義と常識に冷や水を浴びせる13章 第13章』(『通訳・翻訳ジャーナル』誌1996年6月号)に初出。『魔女の1ダースミ正義と常識に冷や水を浴びせる13章』(読売新聞社、新潮文庫)に所収─。

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 アゼルバイジャン・コニャックの味

 通訳が能力不足で結果的に誤訳になるのは致し方ないが、意図的に話し手の真意をねじ曲げたりするのはご法度。ましてや話し手に向かって話の内容を云々するのは言語道断。

 「通訳は透明であれ」

 私の敬愛してやまない通訳術の師匠、徳永晴美さんは、ことあるごとに強調した。話し手の言うことを最大限忠実に、また聞き手にとって聞き取り易い自然で整った言葉にして伝えよ。要するに常に「貞淑な美女」を目指せという師匠の教えに、志だけはかなり忠実にやってきた私である。もちろん、この原則が基本的に正しいと思っているからだ。

 それでも時折、話し手の発言をはたしてこのまま訳したものか躊躇する事がある。止むに止まれず話し手の発言を「裏切る」という通訳倫理上のタブーを犯してしまったこともある。

 泥沼化の一途を突き進むチェチェン紛争にエリツィンは打つ手無しの感があるが、帝政時代からロシアはこのカフカス地域に手を焼いてきた。東側から黒海、西側からカスピ海に挟まれたカフカス山脈を中心とする地域。このあたり一帯は歴史的に民族移動の交差点でもあったから、民族と宗教の博物館と言われるほどに多数の民族が複雑に入り組んだ形で居住している。ソビエト時代に入ってから、スターリンは民族政策の名のもとに極東の朝鮮人、クリミヤのタタール人、北カフカスのチェチェン人をカザフに、リトアニア人をシベリアに、ユダヤ人を極東にという具合に、まるで将棋のコマでも動かすようにいくつもの民族全体を一夜の内に強制移住させるという愚かで残酷な暴挙を重ねた。「諸民族の牢獄」といわれた帝政ロシアの国土を引き継いだソビエト体制は、さらに民族問題を複雑化してしまったことになる。それでも全体主義的強権が幅をきかせていた時期は、何とか「諸民族の友好」という表看板を維持してきた。ソビエト帝国の綻びが目立ち始めたのは、ゴルバチョフがペレストロイカ路線を打ち出し、強権のタガが緩み始めてからだろう。

 ソ連邦崩壊直前ともなると、こっちの紛争を何とか抑え込むと、あっちの方で紛争が勃発するという具合にまるでモグラ叩きをしているようなゴルビーだったが、諸民族友好神話綻びの端緒となったのは、やはりカフカスの民族対立だった。アゼルバイジャン共和国南西部の山岳地帯に位置するナゴルノ・カラバフ自治州の人口七十五%強を占めるアルメニア人が一九八八年二月、アルメニア共和国への帰属替えを要求した運動が高揚。たちまちアルメニア共和国にも波及し国民運動の様相を呈した。当然アゼルバイジャン国民は猛反発し、緊張が一気に高まる中でスムガイトの悲劇が起こる。アゼルバイジャンの首都バクーに近いスムガイト市でアルメニア人に対する襲撃、略奪事件が勃発し、多数の死傷者が出たのだ。

 その頃、雑誌「世界」に載ったナゴルノ・カラバフ問題に関する論文を読んだ東京近郊B市の市長さんがいた。何とかB市を自国の都市と姉妹提携させたかったソ連政府は、市長さんを招待した。二週間ソ連国内どこでもお好きなところをご訪問下さいという、ずいぶん鷹揚な、「腐っても鯛、落ち目でも大国」と思わせる申し出に市長さんも心が動き、

 「では、スムガイト市に行けるのならば」

 と「世界」の論文を思い出して市長さんは応じた。ダメモトで言ってみたのに、即座に承諾したソ連に、

 「ああ、さすがペレストロイカ、さすがグラースノスチ」

 と感激した市長さんはソ連行きを決心し、私が通訳として同行することになった。

 一九八八年七月中旬首都バクー市に到着し行く先々で熱烈な歓待。ご馳走とお土産と、こちらの背中がムズ痒くなるような日本礼賛の嵐につつまれる。もっともしばらくすると、この過剰な歓待の裏に息づく、手で触れると火傷をしてしまいそうな熱い民族的自尊心に接してたじたじとなったものだ。例えば、バクー市の印象を尋ねてくる。

 「バクーの語源は『風の町』だそうですが、まことにその通り。今日も埃が眼に入って参りましたよ」

 などと市長が答えようものなら、

 「ああ、そうでしょうよ、そうでしょうよ。東京にゃあ埃なんぞ一粒も無いんでしょうよ」

 と大人げない反応をする。冗談かと思ったら本気で怒っているのには唖然とした。自尊心や誇りほど傷つき易いものはない。そして、誇るに足る歴史と文化をカフカスの人々は持っているのである。

 ギリシャ神話「アルゴナウタイ」の粗筋を覚えておいでだろうか。テッサリアの王子イアソンは全ギリシャの英雄五〇名を募り「黄金の羊毛」を求めてアルゴー船での大航海に出かける。ヘラクレスやオルフェウスなど錚々たる乗組員たちの活躍もあって、いくつもの難関を突破し、ようやく目的地アイアにたどり着く。アイアの王女メディアの助けによってイアソンは「黄金の羊毛」を手に入れ、王女を伴って帰国する。王女メディアの故郷アイアは今のカフカスであったと言われている。古代ギリシャ人がこの地域に盛んに植民していたことは、多数の遺跡によっても裏付けられている。ノアの箱船が乗り上げたのが、カフカス山脈の高峰アララト山だとも伝えられている。つまりカフカスは、まぎれもなく旧約聖書の書き手たちの視野にも入っていたわけだ。また、ゾロアスターの名で知られる拝火教は、油田を持つアゼルバイジャンを発祥の地とする。一八世紀から一九世紀にかけてロシアに征服・併合されたものの、たかだか九世紀に国家を形成し、一〇世紀に入ってようやく文字を持つようになったロシアごときに、という屈託がカフカスの人々にはある。紀元前五千年頃には青銅器文化が栄え、紀元前一千年頃にはすでに文字を持ち文学を紡いできた誇りがある。

 大国ロシアに国土を併合されロシア語とロシア文字を押しつけられて自文化を蹂躙され続けた彼らの民族的誇りは、絶望的に傷つき癒えることがない。傷つけられた誇りは過度に敏感になり、さらに傷つき易くなっている。そして極めて攻撃的になる。攻撃の矛先が、たまたまその地域の民族的少数派の市民に向けられてしまうところが、やりきれない。スムガイトの悲劇は、まさにそういう事件だった。 

 現地に足を運ばせたくないというアゼルバイジャン側の意思は、到着した瞬間から痛いほど感じられた。バクーの市長も、共産党市委員会の第一書記も

 「わが国に民族問題など一切存在しない」

 と強調し、

 「スムガイトなんて物好きもいいところだ。どうしてそんなつまらない町を訪ねようとするのか、名所旧跡が星の数ほどあるこの国に来て」

 と我々を思いとどまらせようと必死である。そうなると、逆に是非とも行ってみたくなるのが人情で、

 「首都のバクーから三〇キロの海辺の都市とは、やはり東京から同じぐらい離れているわがB市にそっくりではないか。それにそもそもスムガイトを訪問できるというので、今回訪ソしたのですから、何とか」

 と粘りに粘ってついに相手を根負けさせた。

 もっとも現地では、悲劇の現場など見せてもらえるはずがなかった。市境を越えた地点からスムガイト市当局の「歓迎要員」に取り巻かれてしまって、事件の話などしようものならあたり一面の空気がビリビリと高圧電流に貫通されたように張り詰め、殺意に満ちた眼差しに射すくめられるのである。それに悲劇など起こらなかったことになっていたのだ。少なくとも我々が連れて行かれた唯一の訪問先であった共産党市委員会で、眉まつげ濃く眼光鋭く髭の剃り後青々とした第一書記は有無を言わさぬ調子でそう言い切った。

 「でもソ連の新聞でもアゼルバイジャン人によるアルメニア市民の集団リンチがあったと報道していますよねえ」

 と恐る恐る、しかしなおも食い下がる市長をギロリと睨みつけると、

 「あれは非行少年の犯行であったことが、すでに判明しています。はるか遠方からいらした日本の市長さんにわざわざ心配していただくほどの事件ではありません」

 第一書記はピシャリと言い捨て、この話題は打ち切りといわんばかりに乱暴に立ち上がると隣室に我々を誘った。美しいホールだった。コの字型のテーブルには山のような御馳走が並べられていて、歓迎の宴が始まった。これでもか、これでもかというほどに美辞麗句を散りばめた第一書記の挨拶と乾杯に続いて、わが市長さんが返礼のスピーチをする番になった。琥珀色の液体が注がれた杯を嬉しそうに眺めながら、

 「いやあ、私はアルメニアのコニャックが大好物でしてねぇ」

 ときた。顔面がひきつるのが自分でも分かった。杯の中のコニャックは、言うまでもなくアゼルバイジャン産。平均的日本人に較べてかなりインテリ度の高い市長さん(何しろ岩波書店の「世界」である)も、やはり民族感情に恐ろしく能天気な日本人共通の特性を発揮してくれたのである。民族紛争に揺れる世紀末の世界で、日本人のこの音痴ぶりは絶滅寸前の朱鷺なみに珍だ。市長さんも知的レベルでは民族問題が分かっている。何しろまさに民族問題に並々ならぬ関心を抱いてこそ、ここまでやって来たのだから。しかし感情のレベルでは絶望的に分かっていないのだ。

 世界中で通用する英語を母語とする人々に対して常日頃歯ぎしりするほどの恨めしさと不公平感を抱いていた私だが、日本語が国際語でないことを、この時ほど天に感謝したことはない。それでも「アルメニア」と「コニャック」という音声は、アゼルバイジャン側にも伝わり、途端に空気が張りつめた。アゼルバイジャン人はイタリア人とアラブ人を足して二で割ったような、タモリ風にいうならば「顔の建坪率の高い」、肌浅黒く黒眼黒髪の、要するにメラニン色素の多そうな迫力のある容貌の人が多い。彼らは十人以上、こちらは二人。何だか「ゴッド・ファーザー」に登場する善良で気弱な市民になったような気分である。「日本人二人スムガイトで行方不明に」という新聞の見出し、そしてカスピ海に浮かんだ死体が二つ脳裏にちらついた。カスピ海は塩分の含有量が多いから良く浮くだろうなあなどと連想は勝手に展開する。

 私の訳を、固唾をのんで彼らは待っていた。そのまま訳すことは、到底出来ない。しかし、「アルメニア」と「コニャック」は落とすわけにいかないし、「アゼルバイジャン」という言葉は聞こえてないから捏造するとばれてしまう。

 「先生と一緒にここでなぶり殺しになるのは、ごめんですからね」

 と、それでも気がとがめたのか、市長の耳元に口走ると、私はこわばる頬に懸命に笑みをこしらえつつ意図的に誤訳をした。

 「いやあ、今までアルメニアのコニャックが世界一かと思っておりましたら、お国のに歯も立ちませんなあ」

 たちまち聞き手一同は相好をくずし、

 「さすが、日本の方は賢明だ。カフカス三国の中で、たしかにアルメニアのコニャックは世界一なんですよ。グルジアのはソ連一、そしてわがアゼルバイジャン・コニャックはカフカス一なんですねえ」

と上機嫌になって出来の悪い冗談を飛ばし、

 「ではカフカス一のコニャックに乾杯!」

 という無難な風向きになった。安堵のため息とともに流し込んだコニャックは、滅法きつく、苦く、舌と喉と食道を刺した。

 

─「アゼルバイジャン・コニャックの味」。『婦人公論』1995年7月号に初出。『ロシアは今日も荒れ模様』(日本経済新聞社、講談社文庫)所収─

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 モテる作家は短い!

 写真映りがいいなどという言い方があるように、写真がどれほど実像を伝えているのかは疑わしいものだ。一八四〇年代から二〇世紀初頭にかけて活躍したロシアの文豪たちの写真だって、写真技術がデビューを果たしたのは一八三九年にすぎないことを考えれば、あまり信用しない方が無難。同時代人の観察の方が、ずっと確かなのではないかしら。

 写真で見る限り、ツルゲーネフはダサくて不細工にしか映っていないのだが、同時代人たちは異口同音に、

「非の打ち所のない美丈夫」

 とか

「どんな女をも夢中にさせる美形」

 とその容貌を羨ましがっている。

 男が男を褒めるのは、当てにならないので、女の証言を探してみたら、ありました。女流作家のパナエワが『回想記』に書いている。「なぜ、あれほど教養豊かで頭脳明晰でハンサムなツルゲーネフが、醜くケチで性悪なヴィアルドー(イタリアオペラの歌姫)に入れあげるのか解せない」。

 同『回想記』によると、ツルゲーネフが他の作家たちと、「バカな美女」か「聡明なブス」かという論争をして、頑強に後者を支持した経緯が綴られている。

 彼の母親は大地主で、息子が年頃になると美貌の農奴娘を次々にあてがった。「女に美貌を求めない」と公言するツルゲーネフの女性観は、そんなところから培われたのかも。ともあれ、こういう男がモテないはずがない。だからこそ、『アーシャ』の「私」のように、魅力的な女の愛を無情にも退けたり、『春の水』のサーニンのように成り行きで女を捨てるモテ男の心の機微を描かせたらツルゲーネフの独壇場である。

 さて、パナエワは元女優。当代随一の総合文芸雑誌『現代人』の社主パナエフの夫人にして、共同社主兼編集長兼詩人ネクラソフの愛人でもあった。写真も同時代の人々の証言も、彼女が黒目黒髪のエキゾチックな美女だったことを伝えている。『現代人』は、今で言えば『文藝春秋』と『世界』と『群像』と『オール読物』を足して四で割ったようなインパクトと影響力と人気のある雑誌だったから、パナエフ家のサロンは文壇そのものだった。美しい女主人は、感受性の鋭い文士たちにとって、さぞや眩しい存在だったに違いない。『貧しい人々』を引っ提げてデビューしたドストエフスキイは、たちまち彼女に一目惚れ。一方パナエワ女史がドストエフスキイに注ぐ眼差しは容赦ない。

「やせっぽちでチビで病的な顔色をした風采の上がらない男。灰色の目はキョロキョロと落ち着きがなく、青ざめた唇は神経質にひきつっていた」

 このくだりを読みながら、ドストエフスキイの写真をながめて、思わずうなずく。たしかに、絶対に女にモテないタイプだわい。だからこそ、モテない男の魂の叫びを描かせたら、ドストエフスキイの筆は冴えわたる。処女作『貧しい人々』の若い女に片思いする五十男デーヴシキンや、『永遠の夫』の寝取られ男トルソーツキイの屈辱と忍耐、愛と憎しみ、希望と絶望のあいだを揺れ動く心理描写のリアリティーは圧巻だ。

 翁と呼ばれる年齢になってからの写真では、かなり迫力のある醜男のトルストイも、青年時代の写真を見る限り、結構いい男に映っている。でもツルゲーネフが、

「あの顔でドンファン願望を持つとは」

 と呆れているほどだから、ずいぶん写真映りが良かったのだろう。トルストイが人一倍強い性欲の持ち主だったことは有名で、生まれ故郷の領地ヤースナヤ・パリャーナからモスクワまでの道筋に、トルストイの子供が二〇〇名ほども産み落とされたと、今でも語り草になっている。伯爵家の御曹司のトルストイを拒める農奴女はいなかったからと。その罪悪感が、貴族の男にもてあそばれ捨てられて娼婦に身をやつす女を同情を込めて描いた『復活』や、享楽のためのセックスを罪悪視する『性欲論』を生んだのかもしれない。醜く野暮ったいトルストイは、自分と同じ階級の女には、絶望的にモテなかった。

 『アンナ・カレーニナ』の人妻アンナの愛人ヴロンスキイや『戦争と平和』の女主人公ナターシャの許嫁ボルコンスキイなど、女にモテる美形男が、彼の小説では決して幸せな結末を迎えられないのに対して、同じ『アンナ・カレーニナ』でも、キティにふられるレービンや『戦争と平和』の不細工なピエールには、最後に穏やかな幸福が用意されているのは、偶然だろうか。 

 ロシア文学史上、ツルゲーネフを凌ぐ美男作家といえば、チェーホフだろう。青年時代の写真は、ドキッとするほどセクシーだ。一九〇センチを越える長身で、若くして結核を患ったチェーホフは、半分人生を諦めたようなところがあって、そこがまた女心をそそった。信じられないぐらいモテたらしい。『子犬を連れた貴婦人』を読むと、さもありなんと思う。物語も登場人物も、作者の分身らしいモテ男グーロフの視点で捉えられていく。グーロフが裏切る年上妻や、「貴婦人」の寝取られ夫の描かれ方が、浮気されて当然というふうに、可哀想になるくらい残酷だ。

 同じ素材を、トルストイやドストエフスキイならどう料理しただろう、などと想像する。話が長くなるのだろうなあ。そこで、ふと気づいてしまった。醜男でモテなかった二人には、大長編がむやみに多い。逆に、美男で女にモテたツルゲーネフもチェーホフも短編、中編を得意とした。

 作品の長さと作家のモテ度は反比例する。そういえば、誰かが、

「作品の長さは、作家が女を口説き落とすまでにかかる時間に比例する」

 とか言っていたような。

 この仮説を是とするならば、十年に一作の割で超大作しかものさなかったゴンチャロフは、ひどくモテない醜男だったはずである。

 

─「モテる作家は短い!」『週刊朝日百科・世界の文学15』1999年10月24日号に初出、『ガセネッタ&シモネッタ』(文藝春秋)所収─

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 ちゃんと洗濯しようよ!

「フランス男は不潔だよー。ほとんどお風呂入らないんだから」

 と言うのは、日本人と結婚しているロシア系フランス人のS。風呂嫌いのわたしには、耳の痛いこと、この上ない。ちょっぴり、フランス男の肩を持ってみる。 

「でも、日本と違って気候が乾燥しているから汚れにくいんじゃないかなあ」

ところが、この一言が、いたく彼女を刺激してしまった。明らかに語気を強めて憤慨している。

「気候が湿ってようと、乾いてようと、パンツは汚れるのよ。日本男は、毎日パンツ取り替えるでしょう!?」

「いや、そんなこと、知りませんよ。日本男全員のズボンの中、のぞく機会は無かったし……」

「あたしだって、無いわよ。でも、あたしの知ってるフランス男は、父や弟を含めて、毎日替えてなかったわ。だけど、わたしの夫は当然のように替えてる」

「でも、それで一般論を導き出すのは、ちと乱暴なんじゃないかな。厚生省の白書にも、そんな統計数字、無いような気がするし。新聞か雑誌で、そんな調査したところ、あったかなあ……」

 わたしが言い終わらないうちに、Sは嬉しそうに瞳を輝かせて声を弾ませた。

「そうそう、思い出した、思い出した。数年前に、『ル・モンド』紙が、『フランス人の清潔観』とか銘打ったアンケート調査をやって、その結果を誌面に掲載したことがあった。その中にね、『あなたは、毎日パンツを取り替えてますか?』という質問があったの。女は半分以上が『ウイ』って答えてたけど、『ウイ』って答えた男、何パーセントだったと思う?」

「三分の一?……四分の一?……」

「そんなもんじゃないの! 三.一四パーセント。どう、信じられないでしょ。ル・モンドの読者層にしてそうなんだから、あとは推して知るべしでしょ」

 Sが、あまりにも得意気なものだから、わたしとしてもムクムクとナショナリズムが頭をもたげてきて、つい日本男児の不潔度について自慢したくなってしまった。

「でもね、日本男が毎日はき替えるパンツが、必ずしも清潔とは限らないのよ。汚れたパンツをこまめに洗っているのは、圧倒的多数の場合、その母親とか奥さんなんだから」

「……」

「というわけで、独身男なんかは、パンツを次々とはき替えていくのはいいけれど、そのうち、清潔なパンツが無くなる。母親か彼女がまとめ洗いしてくれるまで、間に合わない。どうすると思う?」

「さあ ……」

「前にはき汚したパンツの山の中から比較的汚れの少ないのを選び出して、はくのよ、裏返したりしてね」

「おお、グットアイディア! なかなか頭いいね」

Sは感激して、ついでに、こんな卓抜な連想をしてくれた。

「でも、そのパターン、日本人がよく使う手だよ。たとえば、今度の自民党の総裁選出だってそうじゃないか」

「えっ!?」

と腰を抜かしつつも、ああ、そういえば、どの総裁候補も汚れていたな、選択肢は狭く限られていたし、と今さらながら気付いたのだった。。新総裁は、前総裁の派閥の会長だったわけで、まさに汚れたパンツの裏を返したようであるな、と。ちゃんと洗濯するのは、いつのことになるのだろうか、と。

 

─「ちゃんと洗濯しようよ!」『公研』誌2001年6月号に初出、『真夜中の太陽』(中央公論新社)に所収─

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 犬猫の仲

 一九九四年の二月末、翌朝から丸二日間、原研(日本原子力研究所の略称)のセミナーで通訳することになっていたわたしは、夜七時発の特急「ひたち」で東海村へ向かっていた。上野駅のキヨスクで買った『アエラ』をパラパラめくっていると、イヌの顔写真が目に飛び込んできたのだった。小首を傾げ、黒目がちの瞳をこらしてこちらを見つめている。深い湖のようなその瞳に吸い寄せられるようにして、いつのまにか、記事を読んでいた。そのおおよその内容は、次のようなものであった(ような気がする)。

「ひと頃、シベリアン・ハスキー犬がブームとなって、猫も杓子も買い求めたものだ。ところが、実際飼ってみると、シベリア狼の遠くない親戚筋にあたるハスキー犬は、食う肉の量も必要とする散歩の量も、けた違いである。日本の住宅事情からしても、並の飼い主では対応しきれない。ブームが去った今、捨てられたハスキー犬が巷に溢れている。

 各自治体が運営する動物管理事務所に保護されるイヌのなかでも、ハスキー犬の占める割合が急増。保護されたイヌは、一週間以内に飼い主が現れない限り、処分される。つまり薬殺。処分してくれと、わざわざ飼っているハスキー犬を管理事務所に持ち込み、名も名乗らずにソソクサと逃げ帰る飼い主までいる。それも結構たくさん。

 写真の犬は、推定二歳のオスのハスキー犬で、東京都日野市の動物管理事務所で保護されたルルちゃんである。保護されるようなイヌは、一般に人間に対する不信感をつのらせ、運命を敏感に察知しているのか、おびえきっていてなつかない。ところが、ルルちゃんは、人間に対する信頼を身体中から発散させて、愛嬌をふりまく。管理事務所の職員も、ここまで自分たちを信じ、なついてくるルルちゃんを処分するにしのびない。一週間ごとに処分の期日を延期している。今日またルルちゃんの寿命が、一週間延びた」

 読み終えた時点で、決心はゆるぎないものになっていた。

「ルルちゃんを引き取ろう」

 東海村のホテルに到着すると、さっそく番号案内で教えてもらって、日野市動物管理事務所に電話した。

「本日の業務終了いたしました。明日の午前八時半から午後五時までに、おかけ下さい」

 留守番電話が抑揚のない美声で答える。明日の朝まで、この心騒ぐ気持ちをかかえて眠れるのだろうか。そう思いはじめたとき、ドアをノックする音があった。大森真梨子さんだった。

「ねえねえ、通訳の分担を決めておきましょうよ」

 言われて、明日から始まるセミナーのことをすっかり失念していたことに気付いた。真梨子さんは、通訳のパートナーである。しかし、その時のわたしの胸の高鳴りをぶつけるのに、この人ほどピッタリの人物はいなかった。わが交友範囲を見渡す限り、彼女は最高最大のイヌ好きだったのである。同居する六匹の犬に対する細やかな愛情もさることながら、世の中のあらゆる犬を、飼い犬、野良犬、書物の犬、映画の犬、犬のブローチ、とにかく犬にまつわる全てをこよなく愛していた。

 どうやら、人よりも犬をはるかに上等と考えているふしがあって、その証拠に、人間をほめるときに、やたら犬にたとえたがるところがある。このあいだも今時めずらしい好青年の小島康志くんが、

「あなたって、盲導犬みたいな人ねえ」

 と言われてムッとしていた。きっと真梨子さんは、

「他人の喜びが、そのまま自分の喜びになるような根源的本質的に親切な人」

という意味で「盲導犬」と言っているのだ。彼女にしてみれば、最高のほめ言葉なのだ。

 そんな押しも押されぬ真性愛犬家の真梨子さんだからこそ、わたしは『アエラ』のくだんの頁を開いて見せながら、少々得意げに宣言したのだった。

「このルルちゃんを引き取ろうと思うの」 

記事に素早く目を走らせた真梨子さんの反応は、しかし意外なものだった。

「あなた、遠いハスキー犬より近くの駄犬よ」

昼過ぎに東海村入りした彼女は、ホテルの周囲をうろつくなかなか見どころのある野良犬に出くわしたというのだ。

「メチャクチャ不細工なの。フフフ、でも愛嬌があって、ずいぶん性質の良さそうな犬なのよ」

 犬の鑑定にかけては自信まんまんなのだ。

「でも、ルルちゃんは……」

 ちょっと、気勢をそがれた感じのわたしは、それでも精いっぱいの抵抗を試みたのだが、真梨子さんはサッサッと書類をベッドいっぱいに拡げて仕事の割り振りを始めたので、「明日にも殺されてしまうかもしれない」と言いかけた言葉をわたしは呑み込むしかなかった。

 翌朝、一階の食堂で朝食をとっていると、背後から真梨子さんの声がした。

「ほら、あの犬よ」

 柴と秋田とシェパードを足して三で割ったようなゴツイ面立ちの、やや大きめの中型犬が、窓ガラスの向こうでこちらを見ながら目いっぱい尻尾を振っていた。朝食のパンとソーセージを紙ナプキンに包んで、真梨子さんと一緒に外に出ると、喜びを身体中からほとばしらせて駆け寄ってくる。立派なぶら下がりものからして、オスである。紙ナプキンの中味に気付いたらしく、神妙にお座りする。首輪はないけれど、飼われていたに違いない。足下にパンとソーセージを置いてやると、一瞬にして平らげた。惚れ惚れするような食べっぷりだ。

「うっちゃっとけないタイプでしょう。ついエサやって、社長に叱られてるんですよお」

 ホテルの隣のビル一階の事務員らしきおばさんが声をかけてくる。

「でも、ルルちゃんは、今日にも殺されてしまうかもしれない」

 目前のイヌは、もう一匹のイヌのことを思い起こさせてくれた。時計を見ると、ちょうど午前八時半。日野市の動物管理事務所に電話を入れる。

「『アエラ』の記事で読んだルルちゃんのことですが」

 と言い終わらない内に、電話口の声がさえぎった。

「記事が載ってから、次々に問い合わせがありましてね、安心できる里親に引き取られていきましたよ」

 そうか、ルルちゃんは幸せになったみたいだ。安堵すると同時に心の中にルルちゃんが占めていた空間がポッカリ空いて、そこに目前の放浪犬がスーッと滑り込んできた感じだった。このイヌだって、いつ野犬狩りに捕まり、毒殺されてしまうかもしれないではないか。

「遠いハスキー犬より近くの駄犬かあ」

 心の中でつぶやいていた。そして、東京の自宅までどのように運んだものか、はたしてわが家のネコどもとうまくやっていってくれるだろうか、と思いは勝手に回転していくのだった。

 9時キッカリに原研の研究者の松島さんが迎えにきた。セミナー参加のウクライナ人とわたしたち通訳を自家用のバンに乗せて研究所まで運んでくれるのだ。どこでイヌの首輪とリードを購入できるか教えてもらい、ここから東京までのタクシー代をたずねる。十万円ぐらい。ただちにタクシー・バージョンは却下。

「ののののらイヌを東京まで連れていくって、それ本気ですか」

 松島さんはあきれ返ってハンドルを握っているのも忘れ、バンは対向車線に乗り上げそうになった。

「バッキャローテメエドコミテンダア」

 軽トラの運ちゃんに憎々しげに怒鳴りつけられてしまった。

 セミナーは、チェルノブイリ事故後の環境変化に関する研究調査の報告とそれに基づく意見交換である。真梨子さんと三十分交替で通訳しながら、汚染地域のイヌやネコたちのことを思った。

 昼休みには茨城県の動物管理事務所に、こちらが保護するイヌの特徴を届け出て迷子犬の問い合わせがないか確かめておく。JR水戸駅に電話を入れ、列車で運ぶには料金は二六〇円、ただしケージに入れなくてはならないという規則を知る。

 午後六時、ホテルに戻ってバンから降りるわたしたちに向かって一目散に例のイヌが駆け寄ってくる。オーバーの裾を口にくわえて遊んでくれとおねだりだ。もう完全に気分は飼い主。自然に「ゲン」という呼び名が口をついて出てきた。原研のゲンだ。

 翌朝、迎えのバンに乗り込むときに、

「ゲン、いっしょに行こう」

 と声をかけると、イソイソと乗り込んできた。たちまち人に好感を抱かせてしまう愛想の良さで、松島さんもウクライナ人の学者五人もイチコロだ。原研に向かう道すがら、松島さんにペットショップに立ち寄ってもらって、首輪、リード、ケージを買う。

 原研の敷地は建物と建物の間隔がゆったりしていて、あちこちに芝生の植え込みがある。セミナーの最中は、そんな芝生の植え込みの立木につないでおいた。ゲンは嫌な顔など少しもせずに、落ち着き払ってペタッと腹を地面につけてくつろいだ姿勢になった。情緒安定度一〇〇%。 

 午後3時にセミナーは終了し、松島さんがバンで水戸駅まで送ってくれることになった。特急の出発時間ギリギリに到着。重いので、改札を通る直前にゲンをケージに入れることに取り決めた。わたしがケージをかかえ、切符を買いに階段をかけのぼり、真梨子さんがゲンを導いてくることになった。ところが、のどかな東海村から突然街の雑踏に放り込まれたゲンは、ショックのあまり階段の下でうずくまり、いくら引っ張っても頑として動かなくなってしまった。特急に乗り遅れると、二時間は帰宅が遅くなる。真梨子さんはゲンを抱きかかえると、階段を駆け上がり、わたしが待ちかまえる改札口に突進してきた。駅員が呆気にとられているうちに、ゲンを抱きかかえたまま改札を通過し、目的の車輌に飛び込んだ。

「ごめんなさーい、乗ってから(ケージに)入れますから」

 わたしも二人と一匹分の切符を見せて真梨子さんの後に続いた。

 列車はどの車輌もひどい込みようであったが、真梨子さんはゲンを抱き抱えたまま傲然と突き進む。

「ちょっと、そこどいて下さい」

 女王さまのような彼女がいうと、

「す、す、すいません」

 車掌さんもつい恐縮しながら道を開けるのだった。毒気に当てられてこちらの規則違反に気付きもしない。

 ようやく何両目かの踊り場に一メートル四方ほどの空間を見つけ、折り畳み式ケージを組み立てると、ゲンは勝手知ったる様子ですすんで中に入り、横座りになった。上野駅では、真梨子さんと二人がかりでケージを運び、山手線に乗り換え、五反田駅からわが家まではタクシーを利用した。長旅のあいだゲンはワンとも発することなく、かといって臆した様子は少しもなく、顔をのぞき込むとまるで、

「心配するこたあありませんよ」

とでも言うように、軽く尻尾をふる。何ていいヤツなんだろう。

ようやくわが家にたどり着き、ケージを開いて庭に放ってやると、ゲンはまるで風になったように走り回り、三時間あまりの運動不足を解消しているようだった。家の中には決して入って来ようとしない。前足は、上がりかまちに乗せるけれども、後ろ足は律儀にも絶対に踏み入れない。胴体の五分の四までは屋内に入り込んでくるのだが、後ろ足は地面につけている。前の飼い主にかなりキチンとしつけられたみたいだ。

 そのゲンが、突然身を乗り出してワンと一吠えした。振り返ると、ゲンの目線の先にネコの無理と道理が毛を逆立て背中を丸めてうなっている。猫たちは怖いものの、次第に好奇心の方が優っていき、五メートル、三メートル,一メートルと少しづつ距離を縮めてくる。ゲンは嬉しくて嬉しくてたまらない様子で、尻尾をブルンブルンふるわせて二匹に友好的なエールを送るのだが、もちろんネコには通じない。敵愾心てきがいしんに満ちた眼差しで自分たちの七〜八倍はある不思議な生き物を睨み付ける。いつのまにかオスの無理が接近し、右前足でバシッとゲンの鼻面をたたいたのだった。

「キキーン、キーン、キーン」

 ゲンが後ずさりしながら泣きわめいた。真っ黒な鼻面にスーッと赤い線が引かれて、ポタリと血が滴り落ちた。

 傷の手当をと思った瞬間、新入りを獣医に診せなくてはならないことに気付いた。真梨子さんにも、そう指導されていた。

 荒川先生は念入りに健康状態をチェックし、狂犬病の予防注射を済ませると、満足げに太鼓判を押した。

「体重は、一八キロ。フィラリアは患っていないし、腎臓も、肝臓もとてもいい状態です。それに精神的に非常に安定している。こりゃあ、素晴らしいイヌですよ」 

「でも、これ雑種ですよねえ」 

 先生はキッとこちらを睨み付けると、諭すように言った。

「雑種という言い方は、僕、大嫌いです。だいたい雑種なんて種類、どこにもないんですよ。せめて非純血種とか言って下さいよ」

「あっ、はい、すみません。ところで、年齢はどのくらいですか」

「うーん、ちょうど中学生ぐらいね」

「先生、中学生といわれても」

「生後八ヶ月ってとこかな。まだまだ大きくなります」

「ネコとはうまくやってけるでしょうか。きょうさっそく一戦交えたんですが」

「喧嘩したら、必ずネコの方が勝ちます。でも、三ヶ月もしたら、落ち着きますよ。慣れます」

 帰り道、日本語ではひどく仲の悪いのをさして「犬猿の仲」というが、英語でもロシア語でも「イヌとネコの仲」というのを思い出す。荒川先生は自信満々に言い切ったけれど、大丈夫なんだろうか。ゲンの方を見やると、

「心配するこたあありませんよ」

 という風に尻尾を振った。      

 

─「犬猫の仲」『ヒトのオスは飼わないの?』(『小説現代』1998年2月号)に初出。」『ヒトのオスは飼わないの?』(講談社)所収─

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