よみがえる日本 占領下の民主化過程

 民主主義をはばむ六つの制度  ポツダム宣言第十項には、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スルー切ノ障礙ヲ除去スベシ 言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とある。

 ここにいう民主主義的傾向の復活強化にたいして障礙となっているものとは何か。それは、いうまでもなく極端な国家主義や軍国主義の基盤となっていたもので、旧い封建時代に根をもち、明治時代に強化されたものとして考えられる六つの制度である。すなわち華族制度・地主制度・地方制度・官僚制度・教育制度・雇用制度これである。

 そもそも制度なるものは、たとえば家族制度における戸主または家長の制度のごとく、社会的習性として、また民法など法律制度として存続し、個人としての人間の自由と行動を規制して一定の枠組みの中に拘束するものである。それだけにこれら六大制度の民主化はいずれも容易でない。すでにGHQの「民主化五要求」と関連して、これらはけっきょく基本法たる憲法の改正を必要とすることだが、しかし日本政府は憲法改正をまたないで、GHQの指導のもとに、部分的にまた個別的に、これらの制度改革に着手せねばならなかった。それは当時の内外の情勢がしからしめたものであった。

 

 農地改革  真先に着手されたのは農地改革、すなわち地主制度の変革であった。まず幣原しではら内閣は、(昭和二十年 1945)十一月に入ると自作農創設・小作料の金納化を柱とする改正案を決定して第八十九議会に提出したが、そのときGHQから「耕作農民がその労働の成果をうける平等の機会を保障する措置をとる」という最初の農地改革にかんする覚書が発表されたので、ようやく第一次農地改革案の成立をみた。それは従来の自作農創設維持政策を明確にしたもので、五町歩をこえる地主の所有地を地主・小作の協議によって自作農地化をはかるということであり、主たるねらいは不在村の大地主の小作地を解放することであった。

 しかし、この法律が公布されても改革は順調にはすすまず、依然として地主は勢力をもっており、「近い将来において自作をなす」との理由で小作地の取上げが行なわれ、あるいは小作地の売逃げなどの事態が全国的に生じていた。このままでは農地改革は画餅に帰しそうであったが、二十一年(1946)五月二十九日の第五回対日理事会における論議で、農地改革がとりあげられて進展をみた。

 これよりさき、GHQの前年(二十年、1945)十二月九日付の覚書には、(翌年)三月十五日までに農地改革についての諸計画を提出することを命じてあった。しかし政府は第一次改革案をそのまま提出することになり、GHQからは、ことに農地委員会の構成が地主的であるとして、三月に予定されていた委員選挙を停止させられた。

 こうした事情のもとで、対日理事会における議論でも米ソ代表のあいだに激しい対立がひきおこされた。つまりソ連代表デレビヤンコは、二十年九月二日現在すべての小作地・不在地主所有地を国家が強制収用するという案を提出し、これにたいしてアチソン米代表が激しく非難した。ついでマクマホン・ボール英代表が、ソ連案を考慮に入れた折衷案を提出して調停に立つという一幕もあったが、けっきょく英国案を基礎に、GHQの「第二次農地改革に対する勧告」が(二十一年 1946)六月十七日に出されることになった。吉田内閣はさっそく第二次農地改革案にかんする諸法案を第九十帝国議会に提出して成立をみた。その要点はつぎのようなものであった。

 

(一) 不在地主の所有地、在村地主の所有する小作地で内地平均一町歩、北海道では四町歩をこえる分、および自作地と所有地合計が内地で三町歩、北海道で十二町歩をこえる分の小作地が強制買上げの対象となる。

(二) 自作地は原則として強制譲渡の対象とはならないが、請負小作地や不耕作地は全面的に買収可能にした。

(三) 土地の買収・譲渡は市町村農地委員会があたり、その構成は地主三、自作二、小作五の割合とした。

(四) 土地取上げを制限し、新たに最高小作料率を定めた。すなわち田では総収穫米代金の二五%、畑ではその主作物の代金の一五%以下とした。

 

 こうして二十二年三月から農地買収が始められた。各地の農地委員会を中心に改革が進められた。

 改革が一段落した三十年には、終戦当時、全農家戸数の四八・五%をしめた自小作・小作が三〇・七%になり、純小作は二八・七%から五・一%と減少し、自作が三二・八%から六一・九%とのびた。この改革は日本の民主化にとって根本的なものであるのみならず、おそらくこれによって日本の農民が共産主義運動の浸透からまぬがれたのである。大正時代の社会主義運動に小作争議が大きな比重をしめていた歴史を顧みれば、もっともなことと言えよう。

 

 労使関係の民主化  第二には、労働組合法の制定によって雇用ならびに労使関係の民主化が取り上げられた。それは早くも二十年(1945)十二月、幣原内閣のもとで第八十九議会に提出され、成立したもので、翌年三月一日に施行された。この法律により、労働者の組合結成の自由は保障され、団体交渉権・争議権が認められることになった。これも農地制度の改革と同じく、当時の情勢、すなわち産別会議のごとく共産主義者に指導される労働運動に先手を打つためであった。

 当時の情勢は、戦前抑制されていた労働組合が占領によって解放された以上、労働者の組合組織化に法的秩序を与えなければ、労働組合は共産主義者の手によって革命闘争の手段となってしまうことは明らかであった。現に終戦直後、いたるところで労働組合の結成が主として共産主義者の手で急速に行なわれ、労働争議が続発していた。労働組合の全国的組織は、まず「日本労働組合総同盟」が二十一年八月一日に第一回全国大会をひらいて名のりをあげ、つづいて八月十九日には共産党の指導のもとに「全国産業別労働組合会議」の結成大会がひらかれた。こうして二つの全国的労働組織が形成されたのである。

 しかし運動の実際面では、職場の民主化または生産管理闘争の名によって行なわれた組合運動は、使用者の不注意または無準備もあり、また当時のイタリアなど外国の先例によって影響されたとはいえ、通常な労働運動の枠からはずれていた。

 こういう情勢に対処すべく、まず労働者の経済的地位を向上せしめるための労働組合法(二十年十二月二十二日公布)、ついで労働争議を中心とする労使関係を規定する労働関係調整法(二十一年十月十三日公布)および労働時間その他の労働条件を規定する労働基準法(二十二年三月二十七日公布)など、いわゆる労働三法の制定実施が必要であった。これも幣原首相がその初会見のときマ(ッカーサー)元帥の示唆を受け、その後いずれもGHQの指令下に行なわれたものであることはいうまでもない。

 労働組合法が制定され、組合活動が保護されるや、民主化の波にのって国家主義的官僚制度の抑制下にあった下級公務員や従業員の反撥はいきおい激化した。そして官公労働者の勢力が優勢なことが、日本の労働組合の特徴となった。

 戦後も間もない昭和二十一年(1946)の終わりには、産別系労働組合の賃上げや最低賃金制の確定を要求する十月闘争があり、それについで、国鉄労働組合・全逓信従業員組合などの官公庁労働組合が、賃上げおよび越年資金を要求する闘争に入った。これらの組合は十一月二十六日に「共同闘争委員会」を組織して政府当局との交渉にうつったが、話合いのつかぬまま、翌(昭和二十二)年二月一日にゼネストに入ることをきめていた。しかしそれはGHQの指令によって直前に阻止されてしまった。その後も官公労働者の攻勢は激しく、芦田内閣はマ元帥の指令にこたえて、公務員のストライキ権・団体交渉権をとりあげる政令二○一号を公布した。

 その結果として、二十三年(1948)十一月三十日、公務員法の改正が行なわれ、ストライキ権と団体交渉権が剥奪された。つづいて十二月十二日、公共企業体等労働関係法が公布されて、国鉄・専売公社・電電公社の三公社のほか、郵便・林野・印刷・造幣・アルコール販売のいわゆる五現業の労働者のストライキ権がうばわれ、団体交渉権が制限された。

 

 その他の改革  第三は、地方自治法の制定による地方制度の民主化である。明治時代の官僚的中央集権を改めるには、民主主義の基礎といわれる地方自治を確立しなければならぬ。これは昭和二十二年(1947)四月十七日、第一次吉田内閣のもとで行なわれた。地方自治と関連して、従来の非民主的警察制度を改めるため自治体警察の制度も採用された。が、これは日本の実情に合わないため、後日一部改められた。

 第四以下の公務員制度・家族制度・教育制度の改革は、新憲法実施以後にもちこされた。これにはGHQの側でも、単に憲法の制定のみならず、日本の実情の調査が必要であり、立法技術にてまどった関係もあった。

 そのうち公務員制度については二十二年十月二十一日、片山内閣のもとで国家公務員法として公布された。しかしこれは第二次吉田内閣のとき、占領政策の行過ぎとして改定される。また家族制度にかんしては、十二月二十七日、新憲法実施に伴う改正民法の公布によって実行された。

 最後に、教員の組合化や学園の民主化の運動が起こっているにかかわらず、もっともおくれたのは教育制度の改革であった。二十一年四月、米国の使節団の調査報告の行われた後、第一次吉田内閣のもとで「教育刷新委員会」が中心となり、いわゆる六三制を検討していたためである。その実施にはいろいろの難問題があり、実施のメドが立たなかったが、総司令部の強行意見に押され、やっと二十二年三月三十一日、教育基本法および学校教育法が公布された。これは平和な国家や社会をつくる自主的精神をもった国民を育成することにあり、そのための教育制度を統一的に規定したものであった。これにつづいて芦田内閣のもとで教育制度の自主的運営のための教育委員会法が成立し、委員会公選主義が採用されたが、後に公選制も実情に合わぬとして改められた。

 このようにして、GHQの指令のもとに、日本の民主化をはばむ旧い諸制度の改革は推進された。ところが上から与えられた制度改革には、実情に合わぬ「占領改革の行過ぎ」として、後日独立恢復後、逆コース的に再改正されたものも多い。すなわち民主化は上からの制度改革だけでは、その国の土壌に根を下ろさない。ましてや外国の占領当局の指令によるばあいにおいてはなおさらである。民主化過程における混乱の一因はそこにあった。

 

 新憲法の制定と実施  占領下、民主化の波の中で昭和二十二年(1947)五月三日、いよいよ新憲法が実施されることになった。これは前年四月の総選挙においていちおう国民による批判の機会が与えられ、六月二十五日から数ヵ月にわたる憲法改正のための臨時議会の審議をへて、十一月三日に公布されたものであった。総選挙のころには憲法問題どころではなかった国民も、しだいに憲法改正の重大性を考えるようになった。議会の審議などもあり、世論も新聞・雑誌などを通して憲法問題にたいして内容的に関心をもつようになった。前に述べた旧制度の改革にしても、その基本法たる憲法の実施が必要であった。

 これよりさき二十一年六月二十五日の衆議院本会議に、「憲法改正草案」が提案された。吉田首相は提案理由の説明のなかで、国民主権、基本的人権の尊重、民主的責任政治、戦争放棄・平和主義、法の支配などのいわゆる五大原則によって組み立てられた新憲法の意味を強調し、国民の総意が至高のものであるとの原理に立脚していることをといた。

 この憲法改正案はきわめて平穏裡に審議され、若干の条項について、その原句および内容の修正をへたのみで議会を通過したが、占領下の特殊な状況にあったとはいえ、異例なことであった。審議の過程で問題になった第九条にかんするいわゆる芦田修正も、自衛権まで否定するものではないというきわめて道理ある主張にもとづいていた。本条はもともと極東委員会など国際的顧慮から規定されたものだったので、総司令部も直接第二項にさえ触れなければ差し支えないと同意したのである。

 こうして成立した日本憲法は、単に日米合作であるに止まらない。近代的世界の体験した人類普遍の原理にもとづき、当時世界を動かしていた理想と日本の特殊事情との調整の上につくられたものであり、これによって独立の一歩を築く国際誓約のような性格をもっていた。そこに国民国家の歩みを導くものは、ひとり制定当時の国民の意思のみではないことがつくづく感じられる。そのことは、憲法前文の意味と表現を仔細に玩味するならば理解しえよう。

 だが現実的には、一つの具体的な国民国家の憲法であるならば、そこには国民的自主性に欠けているという非難はまぬがれない。やがて日本の国家的独立が恢復されると、「押しつけられた憲法」という理由で「憲法を自主的に改正せよ」という政治運動が起こることは必至である。それにたいして国民はどういう反応を示すであろうか。

 それについて、わたくしの思い出すことは、芦田均の首唱してできた憲法普及会での地方講演において、聴衆のうちから新憲法にかんする二、三の疑問を訴える声をきいたことである。とくに、象徴制天皇と第九条の非武装条項と基本的人権にかんする疑問である。それらの憲法規定については国民のあいだに多くの不安・不満のあることが明らかであった。それにたいして、わたくしはこう答えたことを記憶している。

「それはまことにもっともな疑問であるが、これらの条項こそ新憲法の支柱であって、それは容易に改められない。しかし、何年かの実施の経験をへて、国民のあいだに大きな反対が出たならば、そのときはこの憲法は欽定憲法ではないのだから、改正条項によって国民の総意によって改正したらよい。」

 憲法改正問題については後段で語るが、これまた民主政治化過程の避けえないところである。

 

 戦争責任と公職追放  占領統治の二大基本方針の一つである非軍事化は、民主化方策とも関係があるが、直接には、武装解除はもちろん戦争責任者としての戦争犯罪人の処刑と、戦争協力者の公職からの追放という二つの方法によって行なわれた。

 この基本的方針はポツダム宣言第六項に規定されていたところであるが、昭和二十年(1945)九月二十日に発表された「初期の対日方針」において、具体的に示された。

 この方針にもとづいて、総司令部はまず戦争責任について、昭和二十一年一月十九日、キーナン法律顧問の起草した極東国際軍事裁判所条令を発表した。ついで米国ほか十ヵ国を原告とする起訴状が東条英機ら二十七名に発せられた。昭和三年から昭和二十年の長期にわたる犯罪について被告の責任を問い、第一類平和にたいする罪、第二類殺人、第三類通例の戦争犯罪および人道にたいする罪の三類に分かち、訴因は全部で五十五項におよんでいる。

 極東裁判は昭和二十一年(1946)五月三日から始まり、開廷以来二年、昭和二十三年(1948)四月十六日に公判は終了した。そして同年十一月四日から十二日にかけて判決がくだされた。すなわち土肥原賢二どいはらけんじ広田弘毅ひろたこうき板垣征四郎いたがきせいしろう木村兵太郎きむらひょうたろう松井石根まついいわね武藤章むとうあきら東条英機とうじょうひできの七名は絞首刑に処せられた。荒木貞夫あらきさだお橋本欣五郎はしもときんごろう畑俊六はたしゅんろく平沼騏一郎ひらぬまきいちろう星野直樹ほしのなおき賀屋興宣かやおきのり木戸幸一きどこういち小磯国昭こいそくにあき岡敬純おかたかずみ南次郎みなみじろう大島浩おおしまひろし佐藤賢了さとうけんりょう島田繁太郎しまだしげたろう白鳥敏夫しらとりとしお鈴木貞一すずきていいち梅津美治郎うめづよしじろうの十六名は終身禁錮、東郷茂徳とうごうしげのりは禁錮二十年、重光葵しげみつまもるは禁錮七年であった。松岡洋右まつおかようすけ永野修身ながのおさみは審理中死亡し、大川周明おおかわしゅうめいは精神病のため審理を受けないことになった。

 この戦争裁判については、キーナン主席検事は、「無責任なる軍国主義をただに日本から駆逐しようと意図したにとどまらず、それを世界から駆逐しようと決定した」といっている。が、はたして現代の文明にそれを要求する資格があるかどうか。この裁判に列席し、ひとり全員無罪を主張したインドのパール判事は、その『平和の宣言』の中で、「一部の者に対する法律は、法律でなく私刑リンチである」とさえいっている。どうも極東裁判には、勝者が敗者を裁いたという色彩があることはいなめない。もちろんわれわれ日本人としては、この歴史的事件のうちに、平和の国民として反省し、堅持すべき貴重な教訓を見出さねばならない。そうすることによって、これら戦争責任に問われた人々にたいする正しい評価もくだされよう。「勝てば官軍、敗ければ賊軍」といった程度に、この戦争裁判をみなしてしまうことは正しくない。

 公職の追放については、その理由はやはりポツダム宣言第六項の「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」という軍国主義勢力の一掃にあった。しかし実際には、占領政策の実施にとって好ましくないと思われる人物を、日本政府をしていろいろの点からリストにのせさせて処置する以外にない。

 昭和二十一年一月四日、追放令が出てから一年間に、政府は八八九九人を個人審査し、その中から一〇六七人を追放した。

 それは主として中央における追放である。総司令部は、さらにこれを地方自治体にもおよぼす方針をとった。これに旧軍人の追放者を加えると全国で数万名にのぼった。この追放がはたして公平なものであったかどうかについては、戦時中大政翼賛会に関係し、翼賛政治会に所属していたわたくしのような者など、はっきり追放に値していた。が、しかし鳩山一郎や石橋湛山たんざんや平野力三のばあいのように、そうでない者までが追放されたのには、おおいに政治的判断が加わっていたように思われる。

 ともあれ、わたくしのようにその動機や目的がなんであれ、戦時中活動した者が、戦後一時的にもせよ、引退して静かに日本の命運について考える機会を与えられたことは、その個人にとっても日本国家にとってもよいことであった。ただ政治評論の文筆活動さえも許されなかったのは苦しかった。しかし、わたくしはわずか六ヵ月で追放を解除された。それは友人たちが総司令部にかけ合って解除に努力してくれた結果であった。この機会に、私事にわたることではあるが、友人たちに感謝の意を表するため一言しておきたい。

 

 ゆれる片山内閣  占領下、ことに新憲法も実施されない時期にあっては、幣原内閣の後をついだ第二次吉田内閣の成立が示しているように、内閣の更迭こうてつをめぐる大きな政争もなかった。あったとしても、それは従来からのせまい旧権力層の範囲での紛糾に止まっていた。しかし政党の結成と再編成とが行なわれ、憲法の実施も迫った二十二年(1947)四月二十五日の総選挙は、これを契機としてやがて政党・政派を主体とする政争が開始され、政党政治への道をひらくものであった。総選挙の結果、日本社会党が一四三議席をえて第一党となり。社会・民主・国(民)協(同)三党の連立内閣が成立した。自由党・民主党を合わせた保守派がなお過半数の議席を制する国会事情と、占領当局との協力の必要から連立内閣方式が選ばれたのである。

 だが同時に社会党を第一党たらしめた国民大衆の意識には、近代日本の新しい要求が現われていたことを見逃してはならない。すなわち保守政党への一般的不満と、経済的・社会的な現状からの脱却的要求が社会党への大衆の期待となって現われたのである。

 占領当局に支配されていた当時の客観的な政治的状況と、経済的危機にあえぐ大衆の要求とのあいだにたって、この片山連立内閣の選びうる道はいずれか。それは大衆の民主的経済要求に傾斜していた。そこに片山内閣の性格と運命とが見出される。

 しかしながら当時の組織された労働大衆の行動は、民主化を要求するものとはいえ、とうてい憲法の規定している議会政治の枠内に秩序づけられるものではなく、わずかに占領軍の統制によって革命的暴動となることをまぬがれうる状態であった。

 二十一年に産別会議に指導された十月闘争から、二・一ストにいたるまでの労働運動は、第一次吉田内閣下のインフレ状況が日に日に進展し、いわゆる「三月危機説」が流布されるという背景のもとで計画的に進められた。こうした労働者階級の生活擁護の主張と保守政府の転覆企図とは、議会政冶のもとでは両立しえないものであった。議会政治としては、国民生活の基礎である生産復興をさまたげているインフレ対策を、まず取り上げる以外に方途はない。

 片山内閣の組閣直前に行なわれた社・自・民・国協の四党会談で、五月十六日、社会党の主張する「救国挙国政治体制」の名のもとに四党政策協定が成立した。それはつぎのような主張をふくむ十項目からなっていた。

(一) 経済危機突破のために総合的な計画にもとづき必要な国家統制を行なう。

(二) 超重点政策をとり民主化した国家管理を行なう。

(三) インフレ克服のため健全財政主義をとり、必要な金融統制を行なう。

(四) 食糧問題解決のため完全供出をはかる。

 これは片山内閣の施政方針の基本となるものであったが、これよりさき三月二十二日、マ元帥が日本経済再建にかんして吉田内閣にあてた声明と軌を一にするものであった。こうして片山内閣は、選挙のとき公約した社会主義的政策の断行から後退せざるをえず、まえの吉田内閣時代の傾斜生産方式を強化したり、賃金物価体系を踏襲した。傾斜生産方式は、鉄・石炭などの基礎産業の復興を行ない、ついで各部門の生産を確保しようとするものであった。他方、物価についても、片山内閣は組閣をおえると、安定本部を中心に経済緊急対策をきめ、「流通秩序の確立」をはかったが、当時安定本部の一員であった稲葉秀三ひでぞう氏が『激動三十年の日本経済』の中で回想しているように、社会党政権としては別に新味のある政策ではなかった。

 この経済緊急対策とほぼ同時に、片山内閣は、二十二年産の石炭三千万トンの生産計画遂行のための炭鉱国管案を、当時招集されていた新憲法下第一回国会に提出することを定めた。これは社会党の公約にも関係があるただ一つの「社会主義政策」と称せられた。それだけに、各党とくに自由党から、また与党の民主党からも強い反対を受け、大きく修正された。片山首相自身、その目的は「石炭の増産を達成することにあり、国家管理は決して他産業におよぼさない」という談話を発表さえして、しばらく国会論議の紛糾を避けた。

 

 芦田内閣の成立  最初の社会党政権として期待されながらも、保守党内閣と大差のないありさまに多くの人々は失望し、片山内閣にたいする国民の支持は急速におとろえた。そして片山内閣はわずか九ヵ月たらずで、二十三年(1948)二月十日、総辞職に追いこまれた。その直接のきっかけは、社会党左派の反対で二十四年度予算の成立見込みがたたなくなったためである。ついで三月十日、同じ連立内閣の片棒をかついでいた芦田均が、社会党右派の支持をえて首相に指名され、内閣を組織した。

 芦田内閣は、したがって片山内閣のつづきとみられるべきもので、自由党と共産党の左右両派から強く反対されながら、社会・国協両党と政策協定をむすび、三党連立内閣として成立した。このときわたくしは、すでに新憲法も実施されていたときでもあり、さきの連立内閣が倒れた後は、第一反対党たる自由党に政権を譲るべきである、という自由党からの憲法常道論にたいして、後継内閣は国会の多数で定められるのであるから、政治論としてはともかく違憲ではない、という評論を発表して自民党からうらまれたことがある。

 ところで首班指名の経過は、衆議院においては芦田が三十六票差で吉田茂を破り、参議院においては、逆に決戦投票でも二票差で吉田が勝つというきわめて不安定なものであった。けっきょく新憲法の規定で衆議院の議決が優先するということで、芦田首班が実現したのである。そのうえ、吉田は民主党から脱けていた幣原派とむすび、民自党を結成して衆議院の第一党をひきいることとなったので、芦田内閣の前途ははやくも危うくみえた。

 政争より政策へと片山内閣の遺産をついだ芦田内閣も、一に占領当局の指令のもと、その協力によって経済再建から復興計画の策定に一歩をすすめた。しかし芦田内閣の政治力は不統一かつ弱体で、とうてい当時の労働運動を統制しうるものではなかった。したがってこの方は政治権力をもっている占領当局にまかせ、日本政府としては労働運動を激化せしめる原因の一半であるインフレを抑え、経済復興を急ぐよりほかはなかった。

 インフレを抑えるために、芦田内閣は成立するとすぐ、賃金の基準ベースを前内閣時代の一ヵ月一八〇〇円から二九二〇円に引き上げる案をつくったが、これを受け入れたのは国鉄労組だけであった。全逓を中心とする全官公労の賃上げ要求は、一人当たり二四○○カロリーの栄養を保障する最低賃金制の確立であったが、これは政府の強硬な態度によって拒否され、三月二十九日には全逓東日本十五万人の組合が一斉ストにはいった。

 その朝、GHQは経済科学局長のマーカット覚書なるものを日本政府に渡した。それは「経済復興ならびに公共利益に重大な不利益を及ぼすこの罷業を防止するに必要な措置を講ずべきことを日本政府に期待する」というもので、二・一ストのさいに発せられた禁止命令が生きているという前提をとっていた。これによって全逓を中心とする争議参加者二三七万人、スト参加人員八十一万人に達したこの三月闘争も終息した。

 

 経済安定のための十原則  芦田内閣の責任ともいうべきインフレ克服を中心とする経済緊急対策はどうであったか。これも、たまたま来朝中の米国陸軍次官ドレーパー使節団が五月十八日に発表した「日本再建四ヵ年計画」によって、米国の日本占領政策の一環たる経済自立計画の基本方針が定まった。と同時に、占領後の対日経済政策も一つの転換期を迎えるにいたった。このドレーパー報告は、日本経済の詳細な分析にもとづき、復興の三大障害として、(一)原料の不足、(二)大多数の現存工場の状態の悪いこと、および、(三)輸送施設の貧弱なことをあげ、当面のインフレ抑制策として、以下の六点をあげている。

(一) 日本政府はできるだけ早く財政の均衡を図るべきこと

(二) そのために国庫支出を減らすこと

(三) 総司令部は日本における米軍の占領費を減らす努力をすること

(四) 統制物価をできるだけ速かに生産費と関連させて調整し、国庫補助金の支出をなるべく中止すること

(五) 総司令部はひきつづき日本人の納税を奨励すべきこと

(六) 日本政府は納税申告書からの所得徴収にいっそう努力し、滞納を許さないこと

 きわめて具体的な指示である。芦田内閣もインフレ克服策として、六月には片山内閣当時から安定本部を中心として策定中であった「中間安定策」なるものを発表したが、さらにGHQの勧告ともにらみ合わせて具体化し、七月二十日−二十三日の閣議をへて「経済安定のための十原則」を発表した。

(一) 国内資源の確保ならびに生産の増強

(二) 現在の割当および配給制度の有効強力な実施および闇市場の絶滅

(三) 食糧供出制度をさらに有効ならしめるよう改善し、このために供出割当の決定をいっそう現実的にする

(四) 公定価格を厳重に守り、違反者は即時処罰する

(五) 確実にして弾力性ある賃金安定方策の早急な実施

(六) 徴税を敏速強力にし、同時に脱税者には刑法上の訴追をもってのぞむ

(七) 歳入をさらにふやし、公平の原則に合うよう税負担の再配分を行なうため、新しい税手段を実施する

(八) 特別会計の赤字を組織的に減少させる

(九) 外国貿易の管理および運用を改善し、政府内に外国為替管理を行なう適当な機関を設ける

(十) 現在の資金統制を有効強力に実施する

 一方、占領軍の力をかりて労働攻撃を抑えながら、他方こうしたインフレ安定方策によって、多くの抵抗を受けながら、散発的にまた徐々に経済復興への道を歩む、それが憲法実施後において、占領下の日本政府に許された一筋の道であった。

 

 産業民主化の進展  民主化の波浪は、すでにみてきたように労働界に大きな高まりをみせてきたが、他方、企業を中心とする産業界においては、財閥解体と幹部追放その他、非軍国主義化の対象療法に力が注がれていた関係もあり、労働界のそれにおくれていた。

 いわゆる四大財閥、すなわち三井・三菱・住友・安田の本社は、昭和二十年(1945)十一月四日、つぎのような自発的解体計画を相互に調整して総司令部に提出し、その承認を求めた。

(一) 各本社を解体すること

(二) 各本社の保有する証券とその他の資産を政府の措定する機関に引き渡すこと

(三) 三井・三菱・住友・安田各家の家族は関係会社から退職すること

(四) 各本社を代表し、他支配会社・子会社に派遣された重役をそれぞれの会社から退職させること

 この共同声明は未発表に終わったが、事実上これを取り入れた政府の解体案が十一月六日、総司令部の承認をえた。

 財閥解体につづく産業民主化も二十二年七月、独禁法が実施され、同年十二月、多くの論議を惹起した過度経済力集中排除法が国会を通過した。同法の目的は経済力の過度集中を排除し、国民経済を合理的に再編することによって、民主的な経済再建の基礎をつくるにあった。そして持株会社整理委員会が中心となって解体財閥その他の整理に当たった。

 第一次の指定を受けたもの二五七社、第二次六十八社、合計三二五社であったが、その大半は指定を解除され、残りのものも子会社との関係を絶ったり、独占形態をなくすことによって再建整備された。かくて対日占領における経済復興への転換気運を反映して、産業界もその民主化の進展を早め、企業の経営管理力の増強がはかられた。これは同時に、物価と賃金との悪循環に悩み、労働界の攻勢に弱っていた資本陣営の立直りを意味するものでもあった。

 しかし産業界は、非軍事化のための集中排除や経営指導者の追放事情などによって、企業そのものの再建問題に当面していたため、企業の産業的統一ははなはだしくおくれていた。昭和二十一年、終戦直後に成立した経済団体連合会は、経済団体の中核として経済政策の樹立、経済行政の整備、経済法規の改善などを政府・国会などに提議・協力するために設けられた。これは戦後日本財界の総本山と目されていたが、前記の占領政策のためもあって、有力な指導者に欠けていた。やがて経済同友会という中堅経済人の組織も生まれ、日本経済の民主化促進に一役を買うようになった。その創立に参画した郷司浩平ごうしこうへいの提唱によって、二十一年十二月「経済復興会議」に参加した。同会議は産別会議や総同盟のごとき労働組合側から提唱されたもので、いわば全国的な労使協議組織であった。が、しかしこれはやがて経済同友会の主張によって自発的に解散してしまった。

 つまり当時の資本家経営者側の陣容は、いまだ産業別に結成された労働組合側に立ち向かってゆけるほどに固められていなかった。また当時の客観情勢からみても、労資休戦とか労使協議とか、話合いの条件は具わっていなかった。

 そこでまず労働組合と対抗しうる経営者団体の結成が必要となり、二十二年五月、関東経営者協会を中核として日本経営者団体連合会が結成され、翌二十三年四月、改組されて日本経営者団体連盟(日経連)となった。

 経済の民主化と労資の対等化の条件を具えるためには、労働組合の産別化と併行して、産業界も地域別または業種別に産別組織化する必要がある。こうした経済の民主化過程において、一時的にもせよ労働界が産業界をリードし、産業界がこれに対抗すべく自己改編していったことは、戦後における混乱の民主化過程における特筆すべき一齣ひとこまであった。

 

 経済九原則とドッジ  さて、芦田内閣は政令二〇一号で労働攻勢をしりぞけ、産業・経済の民主化を計ってきたが、根本的には閣内不統一、直接的には昭和電工への融資にからんだ栗栖赳夫くるすたけお(蔵相)・西尾末広(副総理)ら有力閣僚の疑獄事件のため、わずか七ヵ月で倒壊してしまった。社会主義政党内閣といい中道政党といっても、こうも短命に終わってしまっては、思想と政治とのあいだに大きな距離のあることを示し、進歩的な国民に大きな失望を与えた。

 このとき、国際情勢はベルリン問題や中共軍北京入城のごとく、二つの世界の冷戦的緊迫を告げていた。国内情勢はインフレ対策が進捗しんちょくせず、経済的危機は去らない。共産党の指導する労働闘争は「平和と自由と独立と民主主義のために」というスローガンのもとに、革命的な政治闘争の色彩を帯びてきた。

 翌二十三年十月十九日、芦田内閣のあとをうけて、ただちに自由党の吉田第二次内閣が登場した。ここに以後六ヵ年つづく吉田内閣時代が始まるのであるが、その秘密は一に国家の独立と経済復興のためにGHQと協力し、その指令を実行しなければならぬことを知っていた点にある。

 吉田新内閣の最初の仕事は官公労争議対策であった。そして、政令二○一号を法律化する国家公務員法の改定であった。これは、二・一ストをはじめとする官公労の争議の所産であり、吉田内閣の性格と方向とを示すものであった。ここから国内的冷戦の激化がはじまる。

 しかし吉田内閣の最大の課題は、十二月十八日、GHQを通じて米政府の指令した「経済安定九原則」にいかに対処するかにあった。芦田内閣のさいにもだいたい同様の「経済安定十原則」の指令を受けていたが、その処置には煮えきらぬものがあり、GHQを焦慮せしめていた。吉田内閣がこれとどう取り組むかは、同内閣の運命を決するのみならず、国際的冷戦のさなか、日本の経済がどう立ち直りうるかの瀬戸際でもあった。

 財政経費予算の緊縮から食糧集荷計画にいたるいわゆる九原則は、その内容において芦田内閣時代の指令と大差はない。相違はマ司令部の決意とその方法とだけであった。九原則とともに通達されたマッカーサー書簡には、つぎのような言葉がある。

「予は予の過去久しきにわたる既定計画に従い日本政府及び国民が本安定計画を出来うる限り協力且忠実に達成することを期待する。要求が如何に苛酷なものであり、個人的犠牲が如何に大きかろうとも、予は日本国民及び政府が右貴重な国民的目標を達成する能力を持って居ることを信ずる。」

 しかし吉田内閣は、組閣の当時においては、第三回臨時国会(十一月十五日)ならびに第四回通常国会(十二月四日)における施政方針演説にみられるように、このきびしい緊縮政策にたいしてじゅうぶんに取り組む気構えを示していなかった。やはり少数党内閣として成立し、その存続は来たるべき総選挙にかかっていた関係からか、わずかに緊急予算案を中心に政府の方針を述べたにすぎない。

 GHQの決意のほどを、吉田内閣がどの程度察知していたかはわからない。が、おそらくこの九原則を実施するために、米国政府から派遣されて銀行家のドッジ公使が来日し、二十四年度のいわゆる超均衡予算案の編成を中心として交渉が行なわれてから、はじめて真剣に取り組んだのではあるまいか。そこから「ドッジ予算」とか「ドッジ・ライン」とかいう言葉が生まれた。

 それは当面まずインフレの収束を実現し、経済の安定をもたらし、日本経済の復興自立化の基礎をつくろうとするものであった。ドッジは、日本経済におけるインフレの最大の原因は外国援助と国家的補給金であるとし、これを竹馬の二本の脚にたとえた。日本経済はその竹馬の上に乗っていたものだから、この脚を早急に短くすることによってインフレを克服することが、自立への道に通ずる急務であるとした。

 ドッジは「この原則によって予算を組めば、インフレは防止できる」という強い態度で命令した。そこで、ともかく二十四(1949)年度の予算は編成され、インフレはおさまり、物価は安定した。同時に、予想されたように財政の引締めは不況をよび、中小企業の倒産が続出した。時の蔵相池田勇人はやとは二十五年三月の国会で、中小企業の五人や十人自殺してもしかたがない、と放言して世間の非難をあびた。したがって財政のデフレは、金融面からの信用供与で中和する必要があった。そこで当時これをディスインフレだと評する者もいた。

 

 真相不明の三事件  このドッジ・ラインによる緊縮予算に従って吉田内閣のとった具体的処置、とくに国鉄九万五千名をはじめとする多数の職員・従業員の行政整理の断行は、官公労を中心とする労働界に大きな衝撃を与えた。この「首切り」の性格について激しい論争が行なわれ、社会党も共産党も、それぞれの立場からこの「首切り反対闘争」について声明を発した。

 いったい何がその本質であったのか。これが単に個々の企業不振による首切りでないことは明らかであった。だが、もし日本経済の再建のためにやむをえないのであったとするならば、論争は何が企業および産業を防衛するゆえんかに帰着せざるをえない。したがって論議は紛糾せざるをえない。いずれにせよ、現実はこの首切りに反対する労働闘争が、地域共同闘争の形態をもって各地に頻発し、デモ隊と警察隊との衝突が続発することになった。

 そのうちに、偶然か必然か、国鉄を中心として今日にいたるもわれわれにはその真相のわからぬ奇怪な三つの事件が発生した。二十四年(1949)七月四日の国鉄第一次人員整理発表の翌日、下山定則国鉄総裁が、常磐線綾瀬付近で轢死体となって発見されるという下山事件、同十五日、三鷹駅で入庫中の電車が運転手もなく走り出して民家に突入し、死者六名、重軽傷者十三名を出すという三鷹事件、そして八月十七日、東北本線松川駅の近くで列車が転覆するという松川事件、これである。

 三事件の連続発生は世上いろいろ論議をよび、世間には共産党と国鉄労働組合を非難する声が高まった。しかし十八年たった今日にいたるまで、その真相は不明である。こうした情勢の中で国鉄の大量首切りは実現され、さらにその他の官公庁・公共企業体・民間産業でも大幅な人員整理が行なわれた。

 

 保守政権の基盤かたまる  ところで第二次吉田内閣は、芦田内閣のあとをうけて、野党たる民自党の少数単独内閣として出発せざるをえなかったが、当面の国家公務員法の改正とインフレを抑えるための新給与法の成立をいそいで、有利な体制で総選挙にのぞもうとした。これに反して野党三派は片山・芦田の中道政治失敗の批判をおそれて、選挙の時期をおくらせようとした。こうして国会の解散をめぐって、与党と野党の対立は決着のつかないまま、二十三年(1948)十二月二十三日のGHQ斡旋で、吉田内閣の不信任案は可決され、衆議院は解散された。選挙はあけて一月に施行されることとなった。

 その結果は、中道諸派の惨敗、民自党の圧勝と共産党の飛躍的伸張であった。民自党は前回二十三年四月の選挙より一三三名多い二六四名の当選者をだし、国会の絶対多数をしめた。共産党は四名から一躍三十五名となったのにくらべて、中道三派の民主党は六十九名、社会党四十八名、国協党十四名、合計一三一名という劣勢に終わった。とくに社会党は片山哲委員長をはじめとして、多数の幹部をふくむ前議員が枕をならべて落選するという惨敗ぶりであった。

 民自党の勝因は、一に吉田内閣への国民的支持、とくに国際情勢への判断力をもち、GHQの信頼も厚い吉田茂個人への信望にあったためである。また池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎などの高級官僚出身者を多数当選させたのもこの選挙の特徴で、これは、吉田内閣の当面するインフレ抑制を中心とする経済安定政策の実行が、国民−般はもとより財界から強く要望されていたからにほかならない。ここに良きにせよ悪しきにせよ、日本の新しい政党政治は、吉田内閣(第三次)の出現による保守政権の基盤安定から始まったのである。

 しかし保守政党の基盤は、吉田内閣の今後の業績と力量にかかっていた。これまでみてきたように、吉田内閣はマ元帥の至上命令たる経済九原則を忠実に実行することによって、日本経済の復興条件の基礎をおくことができた。ここから、すでに内外に動き始めていた講和問題に取り組む資格・能力を認められるにいたった。

 ところで、国内政治の推移とともに見逃してならないのは、米国の占領政策に一転機がきたことである。トルーマン大統領の「共産主義封じ込め」のいわゆるトルーマン・ドクトリンが一九四七年(昭和二十二年)三月に発表されるようになると、ようやく二つの世界の冷戦が本格化してくる。それに応じて占領政策の重点も、民主化はいちおう終わったものとして、日本の資源および能力を利用する方向に転じた。

 マ元帥が、二十四年二月の選挙の結果をみて「アジアの歴史の重大な瞬間に、日本国民は保守的な政治哲学に決定的な委任を与えた」と表明したように、内政問題では、しだいに保守政権の発意にゆだねられるにいたった。