歌集『オリオンの剣』(抄)

オリオンはつるぎを持つや寒々と冬の夜空の漆黒ふかく

  地層断面

おだやかに星を見上げることもなくただ一心にキーボード叩く

みずからを咎むべきことある夜は顔を洗えり幾度となく

埋み火のごとき心よ日曜に日すがら読めり北欧神話

ひたむきに海を見ていた少年期青の深きは忘れ難しも

追憶はつねに美し今もなお輝きやまぬ葡萄の若葉

今日じゅうになすべきことは何と何 時計みながらネクタイ締める

美しき記憶のままに残さんか机の上の封書開かず

玉眼のもはや光らぬ仏像の古りたる指が虚空を差せり

満天星どうだんはかたくなに根を張り居たり嵐のあとの地層断面

声高に話す男ら不自然な笑みのまにまに頷いて居り

わが心日々拉げゆく思いにて朝刊夕刊ていねいに畳む

誰かれを探すにあらず窓近き座席選んで日光を浴ぶ

禍々しき事件の続く初なつに庭に咲きたるドクダミ摘まず

死がそこにあらんほどまで闇深くことさら響くミミズクの声

あら草は何をたのみに生い茂る日差まぶしき六月十日

常識的世界の及ばぬ無理数を拒めるわれを凡夫と呼ぶや

事務机に誰が置いたか紺色の賽を振りたり何するとなく

  絶滅危倶種

空調の効きたる部屋にやすやすと絶滅危倶種の獣が眠る

潮騒を聞きつつ何を偲びしやここなる国に流されてなお

      一一五六年保元の乱ののち崇徳院讃岐に流さる

失望が脱力感となりゆくを抑えて赤き林檎をかじる

わが影の映らぬほどの曇り日に菜の花の咲く傍らを過ぐ

過去すぎゆきに失いしもの一つずつ拾う心地ぞ手紙を書くは

創造の神に錯誤のありしごと蝦夷鳥兜えぞとりかぶとの紫ふかし

風強く眠れぬ夜に思い居りグレゴリオ暦のその由来など

硝子戸に映すわが顔表情の乏しき上を甲虫が這う

ひそやかに硝子ケースに並べあり高さ揃わぬ埴輪のいくつ

わが意志にそぐわざること知らしめて雨が激しく硝子窓たたく

返信のなきありようが紛れなく全てのことを言い当てており

次々と思い溢れる夜半にて原稿通りにメールを打てず

ウイルスの増殖にきざす影は何絶滅という言葉が浮かぶ

珈琲にミルク溶けゆくさまを見る蜩の声の響く日の暮れ

無造作に引き出しの中に重なれり互換性のなきフロッピーディスク

忌憚なく言うべき時が来ることを望みつつなお身構えて居る

立ち並ぶビルのあわいに太陽が沈む瞬間わが影消えぬ

  遠き雷鳴

倒木の半ば朽ちたる森のなか毒もつ茸の姿うつくし

わが涙乾かんほどに風つよく形定まらぬ雲動き居り

分たれて流るる運河その水に当たる光よ凛と輝け

限りあるものの命をまざまざと見せて倒れし公孫樹いちよう古木こぼく

あら草が夕日を受けて揺れ居たり積まれし建設残土の上に

公園の遊具とり払われし夜水銀灯の光つめたし

わが内の何かが変わりゆく思い抑えて遠き雷鳴を聞く

泣くわれと泣かざるわれが同居する心もて読む歌集一冊

蚊柱をくぐりて歩む夕暮れの道なりほかに人影見えず

蒸し暑き午後の鋪道に人間を拒まんまでに雨しげく降る

玩具店「ぽっぽ」のシャッター閉じられて色の褪せたる段ボール並ぶ

湖につよき北風吹くときに水の中なる山影うごく

真夜中にわが血流の音を聞く中指をもて耳穴ふさぎ

春浅き草はらに白く輝けりヒトリシズカの花の十字架

ひそやかに心の中に留め置いたものたしめて夕べ雨降る

テーブルに朝の光の差すところ折れた鉛筆さむざむとあれ

ぽつねんと書物読み居し君なりきその記憶さえ今は遥けく

  ダム湖の水

岩越えていともたやすく流れゆく水の光を羨しむわれか

はからずも変わり来たれる身めぐりや飾らず生きんと深く息吸う

わが耳に届く声なべて虚ろにてテーブルクロスの白きが眩し

突然に掛けられたりし言の葉のその凄絶を今は咎めず

溢れくるおもい抑えてトーストにアプリコットのジャムをぬり居り

一生に為し得る事のいかばかり楡の古木こぼくは夕映えのなか

クレソンをむとき著き匂いしてまた蘇るひとつ記憶は

物言えずうつむく人らを思わしめダム湖の水が干上がっている

埃たつ街区に夕日の差すところ見知らぬ猫が目をつむり居り

わが立てる冷たき土に根を下ろし厳かに咲く赤き椿は

みちのくの森の奥へとる真昼チゴハヤブサのき声を聞く

波高くテトラポッドの影くろし終らん冬の残照のなか

砦ひとつ落としし心地いくたりの名前をわれは書き出して居り

ぽつねんと事の帰趨を見るわれか今何ほどの執着もたず

雷鳴の響く夜なり遁世をしたりし人の伝記を読むは

言うべきを内に秘めつつ家をでてバス停留所へ急ぐこの朝

贖罪を求める如く輝けり雲間に見ゆる上弦の月

  記憶交錯

冬波の荒きに真向かう今われに鬼神のごとき心湧きくる

あらかじめ迂回路脳裏に描きつつハンドル握る首都高速路

様々な記憶交錯する日暮れとりあえず今はしばし眠らん

古書店に時間過ごしてしが夜霧が厚く視界を閉ざす

見えぬもの見えざるものを信じたし雪消え残る鋪道を歩く

散ることを美と捉えたい心なりたとえば桜たとえば紅葉もみじ

夜明け前わが目覚め居りスクーターのエンジン始動の音聞きながら

原稿を書く手を止める瞬間に携帯電話のアラームが鳴る

ある夜にひとつ言葉を思い出す外面如菩薩内面如夜叉げめんによぼさつないめんによやしや

山荘にこも一日ひとひはうら悲し雪は下より巻き上げられて

この朝は地を這う風のあるらしく降りしきる雪不意に傾く

少しずつつよまる風に降る雪は凄まじきまで渦を巻きゆく

の更けにわが耳に届く連続音ファンヒーターの回るその音

返信の封書を開く部屋のなかペーパーナイフの光するどし

夕暮れの湿れる風の重たさを顔に感じて立ちどまりたり

笠峠風待峠太刀峠 武芸の者の通いし道ぞ

まぎれなくこの世にれし一人なり靴を濡らして秋の草踏む

  雪降る予感

わがこころ磨滅してゆく感覚に耐え難くして返書を出さず

人界をしとどに濡らす雨のなか石の地蔵は表情変えず

くり返し振り払えどもぬぐえざる記憶の中に薔薇の花咲く

朝露をまといてただに動かざり精霊蝗虫しようりようばつた草生くさふの中に

信仰を持たざるわれの聖夜なり今きざし来る雪降る予感

子供には子供の悩みあるらしくわが質問に答えずに泣く

地下街の茶房をでて今しがた聞きたる言葉を反芻し居り

霧深きのバイパスを走りゆくテールランプを目印として

引き潮のすみやかなるをよしとして現れでたる干潟を歩く

ひとしきり地をたたきたる冬のあめ明けに残れる泥土の匂い

北風のやみたる丘にしばし立つ遠き落日近きわが影

アトラスの娘七人空にありそれを見ながら夜道を歩く

鳥の声に森の深きを感じ居り幾百という澄みしその声

小児科に掛かる時計は十二時を打ちて十二の鳩がとび出す

さしあたりなすべきことをすべしとの言葉を聞きて胸なでおろす

わが意志の及ばぬことが次々と起こりて冬を迎えんとする

北風に老木は未だ倒れざり大地に深く根を張りて居ん