戦争と人間-基地周辺の人々

はじめに

 すでに一年半まえになるが,筆者は沖縄国際大学・アルスタ一大学,英国北アイルランド紛争解決民族間題研究所合同の企画で開催された「戦争・民族紛争は何をもたらしたか」をテーマとした国際平和学シンポジウム(1996年10月30日-31日,於 沖縄コンベンションセンター)に参加して感動を覚えた。その後97年9月11-13日に開催された日本カトリック正義と平和全国集会の「戦争と人間」の分科会に参加して,沖縄米軍実弾射撃訓練が直前に迫っていた自衛隊王城寺原演習場(宮城県旧陸軍演習場・元進駐軍練兵・野砲地)を金網フェンス越しに見学し,戦後農業開拓者として同地域に入植,強制買収土地取得解放闘争に携わった農民リーダー(鈴木正之)を囲んだ一日学習会「沖縄でいらないものは王城寺原でもいらない」に臨んだ。筆者は上智大学学内共同研究「国際協力と憲法」(96年度-97年度,主宰・栗城壽夫・樋口陽一)に参加しながら,日本国内体制と平和についてのテーマを追いかけ軍事基地をかかえる地域住民の反戦・平和運動の新たな視点,すなわちそれが提起する地域住民の平和価値創造運動のもつ主体性とその展開,方向付けを重視してきた。今回この研究ノートでは沖縄の場合に焦点をあて要約してみたい。

「基地の中の沖縄」-県民投票の意義

 18年ぶり(沖縄復帰7年の1979年6月の日本平和学会沖縄研究大会参加,於 那覇市パシフィックホテル)2度目の沖縄を訪れ,依然として「基地の中の沖縄」の現状を目撃し,筆者は改めて厳しい状況を再認識させられた。また,当時,平和学会誌『平和研究』で感銘を与えた報告者の一人の大田昌秀氏(琉球大学)は,今や沖縄県知事に選出され県民とともに国政と県政に関わる最重要課題に日夜取組んで苦労されている。

 沖縄県で全国都道府県レベル初の住民投票が「沖縄整理・縮小と日米地位協定見直し」について実施され,県民投票者の89%,または全有権者の53.04%(投票率59%),すなわち48万2,538人が基地整理・縮小に賛成意志を表明したのは宜野湾での国際平和学シンポジウム1ヵ月前のことであった。それは同様の趣旨でのこれまでの県民大会や県議会決議とは違い,文字どおり沖縄県民127万人の大多数が基地縮小,人権の回復,自治の確立への精神的高揚を直接体験し,メディアを通じて全国の人々との連帯を促進することができたところに意味があった。沖縄県民が主体的立場からの問題提起をしたのである。「自分の運命は自分たちで決めるという自治の原理が貫かれた」(石田雄,1996年)点で新たな方向付けと展開が県民自身の選択肢として表出された画期的な出来事であったといえよう。

 同時にそれは,日本の安全保障と基地問題を「沖縄に局地化する」(坂本義和,1997年)という「本土」の人間の思考態度を真正面から問いただされたと筆者は考えたい。この点歴史的には「日本本土の非軍事化,民主化は沖縄を日本から分離すること,沖縄を基地化し,手段にしてそれを達成しようと企図された」(大田昌秀,1979年),1960年代の安保改定時期において,当時日本の施政権外にあった沖縄を「本土なみ」として安保条約で取り扱おうとする政府自民党案に反対した革新勢力は,基地のある沖縄の状況下では日本全体が戦争に巻き込まれる危険につながるとする論理を展開したが,実は「その深層心理には沖縄に被害が及んでも本土に被害が及ばなければよいという感情があった」(日高六郎,1979年),国会ではすみやかに基地の整理・縮小を行う趣旨の決議が採択されたまま今日まで具体的に実現しなかったこと(大田,最高裁判所米軍用地強制使用裁判での意見陳述,1996年),その間に基地の存在が半世紀にもわたって構造化され,かくも地域住民の生命と財産に直接的脅威となった事例は,沖縄をおいて全国のどの地域にもないなど周知の事実である。

 民衆レベルでさえ,「本土」の人間には沖縄問題は直接生活に関係がないとする思考と行動がある。国際平和学シンポジウムにおいて,「沖縄独立論」には「わしらは知らないから,お前らは独立したらいい」という意味合いがあり,日米安保体制の根幹に関わる沖縄の基地問題を,日本国民の課題から分離して「たたかいを分断」することになる(安仁屋政昭)との厳しい指摘は真摯に受け止めなければならない。沖縄県民が強く今求めていることは国民各層との「連帯のたたかい」であろう。

アジア・太平洋諸民族に対する加害者意識の欠落

 もうひとつの重要な変化を見て取ることができた。それは18年前の「1980年代の沖縄-平和と自立,内発的発展の展望」を掲げて開催された平和学会研究大会の当時は十分に研究の視野に見られなかったアジア・太平洋諸民族に対する民衆レベルでの「加害者としての意識化」が,今回の沖縄平和学国際シンポジウムをとおして明らかにされた。それは加害・被害の両側面から総合的・統一的に戦争と暴力がもたらしたアジア・太平洋地域の民衆との連帯を我々は欠落させて来たということである。それに留意した平和研究の視座には一国(Center=中心部)の民衆(Periphery=周辺部)が,なぜ他国(P)の民衆(P)を侵略し,支配するに至るかの直接的暴力もしくは構造的暴力の分析視点を明らかにすることが求められ,またその上で構造変革をどのように達成していけばよいか諸条件を提示することにある。

 シンポジウムで注目されたのは世界的平和研究者の元オスロ大学平和研究所長,現ヨーロッパ平和大学教授のヨハン・ガルトゥングであった。ガルトゥングは冒頭,平和学とは直接的暴力,構造的暴力,そしてこの二つを正当化する文化的暴力によってもたらされた人間の苦悩をどう緩和するか,また直接的平和,文化的平和の諸条件は何か,などを併せて研究することにあると概念規定を行った上で「沖縄,アルスター,ハワイ,タヒチ,北ダコタ,セミパラチンスタなどの地域が共通にもっていることは,これらの地域がすべて第二次大戦後,または冷戦後に出現した大国の最周辺部に位置し,過去または現在,強大国の戦略兵器群の実験,配備,発射地として使用されてきた」と指摘しながら,その理由を列挙した。

 1.核実験は危険が伴うし,失敗の可能性もある。従って中心部よりも周辺部に配備したほうがよい。

 2.実験と指令・配備・発射地は的が誰であれ非常な高い攻撃目標となる。従って中心部を危険から護るために周辺部に配備したほうがよい。

 3.周辺部にはまた組織や通信や知的供給源(例えば,大学がない等)からの指令が乏しく,それだけ抗議運動の可能性も低く,また軍事・基地雇用とスピンオフ効果によって金銭的解決法が容易である。

 そして,実戦という厳しいテストを経た地域にハワイ,アルスターと沖縄の三ヵ所を挙げたのである。そして「いずれの地域,すなわち周辺部の民衆は潜在的にも犠牲を強いられるまで利用され,かつ中心部と周辺部の共通の目的,すなわち愛国主義で覆い隠され得る。周辺部の指導者は割り当てられた役割に誇りを感じる者さえいる。これによって本土や中央への攻撃の可能性を減少させる一方で,本質的には自己の同胞を犠牲にするということである」と明解に分析した。それはまさに前述の「本土の人間」が安保・基地問題を沖縄に局地化するのはどうしてであろうかについての厳しい内省への一助となると,筆者は考える。初代日本平和学会会長で昨年暮れ急逝された関寛治氏は,筆者と会場近くで食事しながらそのガルトゥングの平和研究の本質的な貢献を称賛されていたことが印象的であった。

 国際平和学シンポジウムでは「基地沖縄」,すなわち基地・安保の押しつけを容認することで,県民みずからが間接的な加害者になってきたことで心が痛むとの発言(安仁屋)や朝鮮戦争における出撃,補給基地(1950年代),ベトナム戦争における出撃,補給・兵たん基地(1960年-70年),さらに湾岸戦争「1991年」における出動基地化などによってアジアの人々が命を奪われ,国土が破壊されたことの加害者的役割を引き続き日本国民が担わされているとの詳細な報告(石原昌家)が相次いだ。

 ガルトゥングや沖縄の各報告者の一致点は,まさに日米安保というこの特殊な同盟関係において,アメリカが保障問題を定義し,日本が基地費用を負担し,沖縄が大きな危険を冒している。こうした基地沖縄の現実は平和的生存権を謳い,戦争放棄の規定をもつ日本国憲法の理念にも「公益」にも合致できない現状(国は“公益”のために県民の土地を強制使用すると主張するが,軍事基地としてのそれが憲法的な意味で“公益”と言えるであろうかとの文脈)を明確に提起したことにあった。

 国防の名において一部の国民が犠牲にされたり,憲法で保障されている財産権が無視され,強制的に土地を収用される事態が「永続化」すれば当然,国の防衛自体が問われるであろう。本来守られてしかるべき対象の国民が享受しなければ,いったい何を守るための防衛であろうか甚だ誰しもが疑問に思うところであろう。とくに沖縄の民衆は沖縄戦において祖国防衛の名のもとに戦争にかり出され,死の道づれを強制された記憶は今もなお生々しく残っている。生命の尊厳(命こそ宝=ぬちどうたから)が全く踏みにじられた原体験がある。

「ぬちどうたから=命こそ宝」沖縄の内発的平和思想

 最後に筆者の着目した三つ目の大きな変化とは,地方自治の拡大を求める国民運動の枠組みで沖縄が主体的に積極的平和の担い手として,安全保障に関してもうひとつの選択肢を提示することによって今日の平和学の課題に貢献しているという事実である。地方自治の民主主義の成熟であると評価できるであろう。こうした一貫した沖縄の平和を希求する実践行動の背景にあるのは何であろうか。すべての人間の尊厳が等しく保障される上で最も大切な「ぬちどうたから」思想,人間と自然との「共生」の思想を指摘せねばならない。

 沖縄文化の根底には異民族や異文化との共生,日本本土の文化を「Warrior’s Culture=武士の文化」と規定するなら,沖縄の文化は「Absence of Militarism=非武の文化」,あるいは武に対する「文の文化」とも言われている。また,沖縄研究者によると沖縄には「太古から殺戮を意味する言葉がなかった」(仲原善中,1979年)と言う。さらに自然との共生を大切にする「共生の思想」がしっかりと根付いているとも言われている。

 このように「武器を以て争うことを忌み嫌う伝統的な生き方を大事にしてきている沖縄県に軍事基地が置かれ,前述のごとき朝鮮戦争はじめベトナム戦争や湾岸戦争時には米軍の出撃,兵たん基地として使われ,自らの意志に反して他国民を死傷せしめる加害者となっていることに多くの沖縄県民はひどく心を痛めている」と大田知事は前述の最高裁での意見陳述で述べている。

平和創出運動-沖縄県の実験

 沖縄県は前述の沖縄の内発的平和思想ともいうべき「ぬちどうたから」の具現化に主体的な役割を見い出そうとしている。今,自らの意志で,2015年を目途に計画的かつ段階的に米軍基地の返還を求める「基地返還アクションプログラム」を作成して,21世紀の沖縄を方向付ける「国際都市形成構想」,すなわち,基地のない,自然災害にも耐え得る平和で緑豊かな沖縄を築き,国内はもとよりアジア諸国などと技術,経済,文化など,「人」,「物」,「情報」の交流が図られる国際都市を目指す(大田ほか),ことが報告された。ヨハン・ガルトゥングも沖縄がアジアのジュネーブを目指すことを最重要視した。すなわち彼はスイスがジュネーブを紛争当事者の会見場所にすることに成功した事例を示しながら,具体的な提案をした。

 1.大学が協力して,研究センターを設立する。外交官,軍人,平和活動家を対象に毎年夏期コースを開講し,信頼醸成を構築し,彼らを有能な平和行動者に変身させる。

 2.沖縄県は傑出した大田知事の指導のもとに基地の跡地に平和ダイアローグ・センターを設立し,境界紛争の事例,すなわち中国と台湾,北朝鮮と韓国の紛争当事者,例えば女性代表団でもよい。それぞれを1ヵ月間共同生活させ,討論,対話を奨励する。

 3.NGOsや地方自治体にならって,隣国のネットワークを構築する。そのためには自立経済が存在することが前提である。「基地沖縄」と言う基地経済の制約要因故に復帰後も自立的な発展の基盤は依然脆弱であり,県民一人当たりの所得は211・8万円で全国最下位(1997年),失業率7.7%(1990年)で全国平均の2倍,本土との経済格差の是正が困難を極めている現状に十分留意する必要がある。

沖縄の反戦・平和運動の敷衍

 日本国憲法の平和主義は,「平和と民主主義と人権尊重の3大原則の密接な関連において政治と法,国際社会と国内社会の双方にまたがる総合的な視野と理解とを要する複合的な原則である」(深瀬忠一,1978年)が,長い米軍の異民族支配の戦争や軍備による侵害・抑圧から沖縄が脱却して日本復帰をしようとしたのは日本国平和憲法の理念にほかならないのではないだろうか。127万人を数える沖縄県民の尊い反戦・平和運動はまさにその憲法の平和主義の指針に従った諸政策が政治的,法的,制度的にも再構築されなければならないことを一貫して訴えてきている。まさに国際正義の命じるところであろう。「沖縄の心」は,平和憲法が保障する「反戦平和」,「人権回復」,「自治確立」という考えがその柱であり,その点まさに日本国民の平和に徹した基本的人権(平和的生存権)を敷衍するかけがえのない模範である,と筆者は再認識するのである。