一
私が初めて加藤周一をじかに見たのは、一九八六年十一月、大学四年の時だった。
東大教養学部の職員組合主催の講演会に加藤周一が来たのである。私は講演当日、たまたま学内の掲示板で知って、会場の定数百五十人ほどの階段教室に出かけて行った。
そのころはとにかく活動で忙しかった。授業もほとんど出なかったし、学生自治会や選挙の演説会以外、文化人の講演会などまったく行かなかった。それでも加藤周一の講演を聞きに行ったのは、幼稚な左翼学生にすぎなかった私にとっても、加藤周一は特別な存在だったからである。
私が大学に入学したのは一九八二年春。ちょうど第二回国連軍縮総会を前に、「トマホーク来るな」の運動が盛り上がっていた。「トマホーク」というと懐かしい人もいるだろうが、米軍艦搭載の巡航ミサイルのことである。高校のころから、なんとなく社会的活動のしたかった私は、入学と同時にクラスの自治委員になった。すすめられるまま自治会常任委員になり、いつの間にか学生運動のただ中に立っていたのである。
すでにかなり下火だったとはいえ、東大駒場は革マルから原理研までが覇を競う学生運動の管制高地だった。若さを灼熱させる鉄火場で、政治的音痴の私も半年もせずにいっぱしの活動家になっていたのである。
そんな私に加藤周一を印象付けたのは、「赤旗」一九八五年十一月十九日付の一面に載った「黙ってはいられない」のインタビューと、それについての宮本顕治のコメントだった。
著名な知識人文化人が政治を語る「黙ってはいられない」は、今でも「しんぶん赤旗」の恒例企画だが、この一九八五年秋の連載が記念すべき第一弾だった。第一回の串田孫一は、中曽根首相がテレビに出ると画面をスリッパでひっぱたくと話し、それは今でも語り草になっている。
加藤周一はそこで「日本の国際的責任ということがしきりにいわれていますが、実際はアメリカにたいする責任みたいになっていてね。国際的責任が、ただちにアメリカの要求にこたえることだというのは短絡的ですよ」と、いまでも通用する話をしている。
カリスマ指導者だった宮本顕治が「最近でも『赤旗』の『黙ってはいられない』欄での多数の党外のインテリゲンチアの声もあるように、正義のほとばしりがあります」(「赤旗」一九八六年一月一日付)と高く評価したことも、私の加藤周一評価を特別なものにした。
さて、くだんの講演会で加藤周一は、ワイシャツにループタイというラフなスタイルで教壇の椅子に腰かけたまま、米ソの軍拡競争の非合理性について終始落ち着いて話した。例えば「ソ連脅威論」について、米国では議会の予算審議の季節になると、国防総省がソ連側の攻撃能力の高さを強調し、予算が通ると、優勢なアメリカ側の軍事力を自慢する。次の年の予算の季節になるとまたソ連の攻撃能力が強調される、と語った。このあたりは、ユーモアがある話でいまだに覚えている。(この講演は「軍拡のメカニズム」という題で『世界』一九八七年二月号に載り、現在は『加藤周一著作集』第二十三巻で読める。記憶と違うところもあるが、加藤周一が加筆修正したせいか、私の記憶違いかはわからない)
実は一番印象に残っているのは、講演そのものよりも、その後の質疑応答だ。東大の教員らしい中年女性が厳しい口調で、「あなたはそうやって軍拡を批判するが、自分ではなにか行動していますか」と質問したのである。すごい女傑がいるものだと驚いたが、加藤周一の痛いところをついている気もした。加藤周一は別にうろたえる様子もなく「集会やデモには参加しないが、書くものを通じて、私なりにできることをしているつもりだ」と答えたような気がする。実は質問の衝撃に比べて答えの方はあまりよく覚えていない。ただ、加藤周一もたいしたことないなと不遜な感想を抱いたのだった。
二
その後、加藤周一を心底から見直したのは、都内の私立中高一貫校の国語教師になってからである。
国語科は、現代国語・古文・漢文の教師に分かれており、私はもちろん現代国語担当だった。その学校の現代国語とは、すなわち小説を教えることだった。とくに中学に顕著で、いわゆる説明文などは一つもやらない。受け持った中二では国木田独歩「春の鳥」、太宰治「走れメロス」「お伽草子」、井伏鱒二「山椒魚」「屋根の上のサワン」、川端康成「伊豆の踊子」、志賀直哉「小僧の神様」、森鴎外「最後の一句」(これは中三だったかもしれない)などを次々読んだ。もうひとつの受け持ちの高一では、さすがに評論もやるものの(夏目漱石「現代日本の開化」、柳宗悦「雑器の美」など)、やはり中心は小説で、芥川龍之介「羅生門」、葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」などを読んだ。
ところが私には、この小説の授業が難儀で仕方がなかった。
その理由はいくつかあって、第一に、小説はもともと読めばわかるもので、「この時の登場人物の気持ちは?」「主題は何か」などという授業自体がきわめてとらえどころのない行為である。しかし、これは国語という教科の抱える根本的困難であって、私だけの問題ではない。授業でなければ決して読まないような作品に一度は触れておくという意義のために目をつぶるしかない。
第二に、日本近代文学の作家・作品研究について私がずぶの素人だったことである。卒業したのは、教育史や教育哲学を学ぶ教育学科で、卒論は(恥を忍んで告白すれば)「レーニンの教育論」だった。ほかの現代国語担当教師はといえば、全員が東大か早稲田の国文科出身だった。
一つの学年を二、三人で分担して教えたので、共通の定期試験問題をつくるときの打合せはとくにきつかった。自分の読みの浅さを指摘され、顔から火の出るような思いを何度も味わった。
しかし、これだって次第に鍛えられるし、自分なりに猛勉強もした。
第三の、そして一番大きな問題は、小説の評価に関わっていた。教材として読むのだから、当然、学ぶべき価値のあるものとして扱うのだが、私にはこれらの小説の価値がよくつかめなかったのである。
いわば純粋培養の左翼だった私にとって、小説の価値は次の定式によって測られるものだった。「その作品が全体として客観的現実をどの程度発展的展望のもとで描き得ているか、また、それによって、その時代の社会発展の中でどのような役割を果たしているか」。これは、宮本顕治『文芸評論選集第一巻』の「あとがき」の一節で、「あとがき」は当時の私のバイブルだった。
おかげで「セメント樽の中の手紙」などは非常に楽しく授業ができた。しかし、授業でプロレタリア文学ばかりを扱うわけはない。前に挙げたリストを見ればわかるように、「これは社会的か?進歩的か?」と考えれば首をかしげるような小説が多かった。
それでも『黒い雨』を書いた井伏鱒二や、小林多喜二が私淑した志賀直哉などはまだいい。とくに私が評価に手を焼いたのは川端康成と太宰治だった。
太宰治はそもそも好き嫌いの別れる作家として有名なので、割り切ることもできたが、問題は川端康成だった。「伊豆の踊子」は、孤独な青春の美しいエピソードとして読むことができるけれど、ほかの川端の作品を読んでみると、全く評価のしようがなくて困った。「禽獣」はかごの小鳥を偏愛するアブナイ独身男の話だし、「雪国」はくたびれたインテリが温泉宿で芸者を買う話。薬で眠った少女のもとに夜な夜な通う老人の話とか、はっきり言って変態的な小説ばかりなのである。
ところが川端康成はノーベル文学賞を受賞した日本を代表する作家で、文学的にも高い評価を得ている。ちなみに現在のウイキペディアにも「数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺した近現代日本文学の頂点に立つ作家のひとりである」と書かれている。これだけ評価の確立した作家の小説が、変態小説にしか思えないというのは、私の感性がおかしいのだろうか。
残念なことに、川端康成が小林多喜二の作品を文芸時評で高く評価したり、共産党にアジトを提供したりしていたことは、まだそのころ知らなかった。
こういう時に、身近な文学仲間でもいれば率直な議論ができたのだろうが、残念ながら周囲は恐れ多い大ベテランばかりで、自分の恥をさらすような質問はしにくかった。その頃はまだ左翼作家・評論家の団体にも入っていなかった。
三
この時、私の目を開いてくれたのが加藤周一の「さらば川端康成」(『著作集』第六巻)だった。
この緻密で熱情的な作家論は、川端康成の死の五カ月後に毎日新聞に二日にわたって載った。ここで加藤は、川端文学の特徴である美的感覚の洗練を高く評価すると同時に、その歴史的限界を指摘し、政治的愚昧を厳しく批判している。
論の前半は『雪国』論である。この川端の代表作について、「歴史的な社会の全体から私的な人間関係の自己完結的な世界がきり離され」、「川端的」な感覚美の世界を見事に成立させたと同時に、駒子という「他者」によって「非川端的」なものにも届いたとして、彼の「もっとも優れた小説」と評価した。
川端的世界と日本の伝統文化の関係について、川端文学は感覚的美の洗練と刹那主義的感受性という日本文化の一部を体現したものだが、日本文化には「意志的な実際主義」や、超越的な絶対者や普遍性を求めた知的伝統があり、川端的なものが日本文化のすべてではないという。
川端康成の文学を総括して、「天下国家の大事に触れず、自然と社会の構造を問わず、絶えず歴史と主体としての他者から逃れようとしながら、いま此処において、眼に見、指に触れる女の肌の、冷たさと温かさ、乾きと湿り、かすかな色合のかげりに、その世界を限定しようとした」として、川端康成は大詩人ではなく「偉大な小詩人」だと判定している。
そのうえで加藤周一は、日本ペンクラブ会長、ノーベル賞受賞者として「住み慣れた私的空間から公的空間へ」引き出された川端康成の不幸に筆をすすめた。ストックホルム講演の空疎さや、東京都知事選の保守候補応援で日蓮を利用した「出まかせ」を率直に批判した。
そして最後を次のように締めくくった。
「私は生前の川端康成に何度か会ったことがある。静かで、少しも傲らず、他人への配慮に繊細なその人柄から、私は常にこの上もなくよい印象をうけた。また私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っている川端さんへの『さらば』であるばかりでなく、私の内なる『川端的』なものへの『さらば』でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――訣別の願望である。おそらくは容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの」
これを初めて読んだとき、とくに、川端康成の限界と弱点を批判した後半部分を読んだとき、本当に快哉を叫びたい気持だった。思わず椅子から立ち上がっては、うろうろ歩いて興奮をさましてから続きを読んだ。いまでも読むたびに、あの時の感動がよみがえる。
「さらば川端康成」こそ、「世間の芸術的評価と、左翼の科学的評価の対立」という私のジレンマに正面から答えてくれるものだった。当時、あれこれ読んだなかで、このように川端康成の非歴史性と政治的ご都合主義を指摘する批評はほかになかった。
加藤周一は川端文学のどこが優れているのかを分析しつつ、そこに終わらず、その特色が日本文化と社会全体のどこに位置づくかを示した。しかもその際に、社会性と歴史性(進歩性)の評価軸をきちんと据え、政治的言動も文学者を評価する上で大事な要素として扱っている。芸術的評価と科学的評価の見事な統一である。さらに言えば、芸術的才能はあったが社会性はなかったというような、長所と欠点をバラバラに捉えるのではなく、長所も欠点も〝私的世界に局限された感覚的美の追究〟という一つの事柄の表と裏の関係にあることを示している。これこそ作品の内的理解に基づく批判の見本だ。
しかもこの文章は、少し時間が経っていたとはいえ、川端康成に対する追悼文である。「死者を鞭打たない」ことが美徳とされる日本で、追悼文でこれだけの批判をいう勇気にも正直驚いた。さらに最後の「訣別の願望」には、宮本顕治が芥川龍之介を論じたデビュー作の末尾の一節「『敗北の文学』を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」を思い起こさせるものがあって、なおさら感慨を覚えるのである。
四
ものごとのプラスとマイナスの両面を見ようとする姿勢は、加藤周一の思考法に一貫している。「しかし、それだけではない」という愛用したフレーズにその特徴は凝縮されている。
例えば私が聞いた講演を原稿化した「軍拡のメカニズム」には、米ソの軍拡競争がこのまま続いたらどういうことが起こるかについて、第一の可能性は「経済的にソ連側がくたびれて、結局米国の優位で話が終わること」、第二の可能性は「(ソ連側が)あらゆる資材を全部軍事費にだけ投入し、何とかして米国との均衡を保つようにすること」と指摘し、後者の場合は「ソ連の中の締め付けはもっと強くなる」と予測していた。
またアメリカの巨額の軍事支出について「米国の経済にとっても負担が大きくなり、方針をどこかで変えようという要求も出てくる。しかし、同時に、それだけの金を使い出したら、強力な圧力団体をつくり上げるから容易に変えられないという面もある。そのどっちが表に出てくるかは、将来が決定することだろうと思います」としている。軍拡を止める力と、続けさせる力の両方を指摘しているのは加藤周一の典型的な論理展開だ。
でも、どちらが勝つかは「将来が決定すること」というのは少々傍観者的に聞こえる。「あなたはなにか行動したのか」という批判が出たのも、こういうところにカチンときたのだと思う。
文学評価でも、どんなに傑出した文学者であっても、というよりも、傑出した文学者であればあるほど、その裏で何が欠けているかを指摘するのが常だった。とくに、芸術的完成度が高い文学者が、社会発展の中で悪しき役割を演じた場合に、その指摘は鋭かった。
加藤周一の代表作『日本文学史序説』の、第十二章「工業化の時代」(大正と昭和前期)を見ると、川端康成以外にもそうした例がいくつもある。
芥川龍之介は、「反軍国主義、反国家主義、自由主義的な意見」が一貫し「江戸以来の文人趣味を継承していた」。と同時に、「その事の反面は、彼において、野性的な粘り強さと、科学的な思考の習慣がほとんど全く欠けていたということでもある」という。(ただし、芥川が社会的歴史的にマイナスの役割を果たしたというわけではない、時代の激動に耐えきれずに自殺したということである)
注目したいのは小林秀雄について語った次の一節だ。
「かくして小林はマルクス主義の客観的歴史主義に対し、主観的で超歴史的な『心』の内的経験を対立させた。彼のそういう立場は、モーツァルトについて、美しく正確に語ることを可能にしたと同時に、日本の中国侵略戦争について、冷静に客観的に語ることを不可能にした」
また次のような一節もある
「小林秀雄の文章は、おそらく芸術的創造の機微に触れて正確に語ることのできた最初の日本語の散文である。その意味で批評を文学作品にしたのは、小林である。しかしそれほどの画期的な事業は、代償なしには行われない。代償とは、人間の内面性に超越するところの外在的世界――自然的および社会的な世界――の秩序を認識するために、有効で精密な方法の断念である」
こうした小林秀雄の徹底した非歴史主義、一種の非合理性の指摘は、マルクス主義文学者たちの姿と対比的に書かれている。
「『ファシズム』が上から迫ってきたときに、彼ら(武者小路実篤や斎藤茂吉)はいわば無防備であったといえよう。宮本(百合子)や中野(重治)には、マルクス主義があり、日本共同体の境界を超越する知的道具があった」
ところが、戦争中の小林秀雄について『日本文学史序説』は明確な批判をしていない。「小林秀雄は戦時中に戦争批判の言葉を書かなかった」、それだけでなく「『戦ひは勝たねばならぬ』(「戦争について」、一九三七)。その戦いが水辺に楊柳のある村の子供に対するものであってもということになる」と指摘しているだけだ。さらに、「しかし小林は軍国主義の思想動員にも決して便乗しなかった」として、戦争中、小林が日本の古典文学について優れた文章を書いていたことを紹介する。
小林秀雄の戦争協力について、この両論併記的な書き方には煮え切らないものを感じる。
というのは、加藤周一は、小林秀雄の戦争協力への批判をずっと抱いていたことを後に書いているからだ。それは『現代ヨーロッパの精神』の同時代ライブラリー版(岩波書店、一九九二年)の追記である。そこで加藤は、一九五七年に書いた文章「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの『精神』」について、この文章で「同時に考えていたのは、小林秀雄の場合である」と初めて明らかにした。「ベンも小林も機会主義者ではなかった。彼らの芸術至上主義は、なぜナチの、あるいは日本軍国主義の、国家との『アイデンティティ』へ彼らを導いたのか。そこに働いていた内的論理は、どういうものであったか。それが私の『問題意識』であり、読者もまたベンに小林を、ドイツに日本を、重ねて読んでいただければ、幸である」と。
小林秀雄が亡くなったのは一九八三年だから、『日本文学史序説』のこの章を発表した一九八○年にまだ小林は存命だった。小林秀雄が亡くなるまでは名指しの批判を控えていたということだろうか。海老坂武『加藤周一』(岩波新書)も、この点について次のように疑問を呈している。「小林の戦争中の言動からして、加藤は当然小林にたいして多大な批判を持っていたはずだ。(中略)小林批判をもっと展開しても良かったはずだ。しかしそれはなされなかった。その理由はあきらかではないが、文壇における彼の『権威』を怖れたからとは思いたくない。(中略)加藤のこの『恭しい態度』と見えるものは私にとって謎である」
私にもこれ以上のことはわからない。もしかしたら、川端康成について、直接の好印象と読者としての愛着も語っていたように、小林秀雄にも個人的な好感を持っていて、名指しで批判したくない気持ちがあったのかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか。加藤周一は自身の文学論のすべてをつぎ込んだ『日本文学史序説』で、見かけとは逆に、小林秀雄についても書くべきことはすべて書いたのではないか。私はここまで書いてきて、そう思えてきた。
先に引用した両論併記のなかに、小林秀雄の戦争中の態度は簡潔に書かれている。機会主義者ではなかったが、戦争を批判しないことで戦争に協力したという加藤周一の見解は十分書かれているのだ。小林秀雄のそういう態度の「内的論理」が、「主観的で超歴史的な『心』の内的経験」を「客観的歴史主義」に対立させ、絶対化した点にあることも解き明かした。つまり、一九九二年の「追記」で書かれた加藤周一の「問題意識」に、『日本文学史序説』は十分答えを出している。
それを「戦争協力者」と呼ぶか呼ばないかは大きな問題ではないと加藤は考えたのではないか。あるいは、「戦争協力者」と呼ぶことで一種の思考停止に陥ることを危倶したのではないだろうか。『著作集』に「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの『精神』」を収録した際の「追記」(一九七九年)で、次のような疑問を呈していることも、私の考えを裏付けてくれるように思う。
「その頃、五○年代の末から、私は東京で読む『ファシズム』と戦争協力者の批判に、しだいに懐疑的になっていた。批判が敵か味方か、黒か白かの立場に終始しているうちに、かつて『ファシズム』を支え、戦争協力を可能にした考え方の隠れた中心部が、そのまま生きのびて、静かにその影響の範囲を拡大してゆくことが、あり得るだろう」
五
もう一人、プラス・マイナスを併せ持つ作家として、太宰治に関する加藤周一の評価に触れておきたい。前に書いたように、太宰治も私にとって評価を定めにくい作家だった。ある意味では川端康成以上であり、いまでもそれはひきずっている。
太宰治については、太宰が亡くなった翌年の一九四九年に、宮本顕治と加藤周一は『展望』四月号の対談で、冒頭から肯定論(加藤)と否定論(宮本)を激しくぶつけあっている。(『宮本顕治対談集』所収)
加藤周一は「太宰治が、戦後のひとつの心理状態を描いて多くの読者をつかんだ。太宰の描いたものが現代のある心理的な相をもし捉えたものだとすれば、それが否定的な現実であってもある種の評価は成り立つと思う」と、太宰は否定的な現実ではあるが、それ自体は真実を描いたと評価した。
宮本顕治は「本当の苦痛は自分の置かれた課題と取り組むところにあると思うが、彼には本当の意味の対決、悲劇はない。(中略)太宰の作品は真実だ、しかしだらしがない、というのでは批評の統一性がないと思う。だらしがないというのは、生き方のなかでも、彼の描写のなかでも、真実に対決する勇気が足りなかったという点がある」と、太宰治は現実との対決を避け、真実をとらえていないと批判した。
以下、次のようなやりとりが続く。
加藤「一種の自己中心主義」で「他者がないのは太宰のまちがいの根本的な点」だが、「そういう考えは太宰個人のものじゃなくて、戦争を通じてきた日本のかなり広い心理的な状態じゃないか」
宮本「要するに徹底したエゴイストであって、彼の作品は私小説」、「ほんとうの社会全体、人間関係の本質、大きな意味での客観的真実、そういうものを正確に彼自身の頭脳が反映していない」
加藤「エゴイズムをつきつめたということは認めたうえで言わないと」
宮本「それは個人主義的なつきつめ方であって(中略)結局ほかの保守的なブルジョア作家と同じ」
加藤が途中から「結局僕としても宮本さんと同じ結論になるでしょうが」と譲歩し、最後は「そうですね。あれはブルジョア的な考え方の特殊な変態ですね」と、矛を収めて終わっている。
対談でのやり取りはあくまで総論的なもので、作品の具体的検討を含んでいないから、これが太宰論の代表だということはできない。しかし、太宰治を巡る評価の対立は端的に見て取ることができる。宮本顕治はこの後、「『人間失格』その他」を書き、太宰治を徹底的に批判している。有力な評論家が「その否定論は共産主義者の真骨頂を示した」と評したのを、昔読んだ覚えがある。
私にとって太宰治を論じることは難しく、いま十分な準備もない。正直に言えば、高校時代からあまり好きになれない作家の一人だ。ナルシズムと現実逃避と自己合理化の文学だと否定したくなる気持ちもわかる。でもそうすると、いつも何かしら否定しきれないものが残る。知れば知るほど、否定しきれない要素が膨らんでいくのである。
太宰治は学生時代、非合法の共産党の活動を支援していたということもある。戦後も、疎開先の青森県で、共産党再建の打ち合わせに一度顔を見せたという証言もある。
太宰の愛弟子に、後に共産党員となり民主主義文学の有力な書き手となる戸石泰一と小野才八郎がいるという事実もある。
井上ひさしも若いときは、太宰治、坂口安吾、織田作之助を嫌いな作家にあげ、「醜さを公然とさらし、破滅無頼を気取り、それを『生きる』と称している輩」と言っていたそうだ(西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』)。しかし、晩年は『人間合格』で、太宰治を弱虫だけれど善良な愛すべき人物として描いた。遺作になった『組曲虐殺』では、なんと主人公・小林多喜二のセリフの中に、太宰治の言葉をさりげなくうめこんでいる。『津軽』末尾の「命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな」である。不屈にたたかい抜いた小林多喜二と、運動から脱落した太宰治の間に、あい通じるものがあると井上ひさしは考えていたのだろう。
本誌でインタビューした藤谷治も、震災後の短編「鷗よ、語れ。」(『新潮』二○一二年十月号)で、太宰治の戦争中の長編は、国民の不安な心に向けて「美しい人間」を示したものだと書いた。それは戦意高揚とは違う、国民の不安に寄り添うものとしてである。
宮本顕治は加藤との対談で「自分および社会の本質をつかむということが真実なんだから、そういう立場から見て彼の作品が致命的な弱点を持っていた」と述べていた。
私は教員時代からの悪戦苦闘の末、最近は「人間と社会の本質をつかむ」という評価軸を柔軟に考えるようにしている。様々な空想的な物語や、内面の主観的真実の追求も、人間と社会の理解に役立つ。時には現実客観描写の小説以上に、人間の本質に迫る場合がある。最近では、初老の男と若い女の脳が入れ替わる、中原清一郎『カノン』や、架空の日本原爆開発計画を描いた池澤夏樹『アトミックボックス』など、その例だ。そして、作品が「その時代の社会発展の中でどのような役割を果たしているか」(前出の宮本顕治「あとがき」から)に軸足を置くようにしている。それによって太宰治も評価する余地が生まれてくるし、批判すべき点も明らかになる。
太宰治について、加藤周一は『日本文学史序説』で正負双方を合わせにらみながら次のように総括した。
「太宰治の『私小説』は、津軽の旧家の自負と失敗の居直りの証言であり、挫折した人生の美化と自己陶酔の記念碑である。しかし病身で、意志薄弱で、虚栄心が強く、感受性の鋭敏な男の人格の崩壊過程を、これほど見事に描き出した小説は他にない」
加藤周一は、宮本との対談の時の「否定的な現実」をつきつめて真実を描いたという評価を、ここでも変えていない。同時に、その現実のだらしなさを指摘する厳しさには、宮本の否定論も取り込んだような趣がある。
さらに「もちろんそれは作者の私生活とのみ係り、大日本帝国の運命と係るものではなかった。しかし敗戦直後、帝国の陽が沈もうとしていた時に、太宰は『斜陽』を書き、独立の国家として日本が失格していたときに、『人間失格』を書いたのである」と、太宰が捉えた「戦後のひとつの心理状態」を象徴的に書き表している。
六
その後、私は学校をやめ、「しんぶん赤旗」の記者になった。おかげで、たった三回だが、加藤周一さんと直接お会いする機会ができた。
もちろん、二○○四年六月十日の「九条の会」の発足記者会見には、赤旗記者として取材にいったし、その後の九条の会の講演会で話を聞いたことも何度もある。しかし、膝を交えて直接話を聞いたのは、二○○三年から○七年の間に三回だけである。初めの二回は、加藤さんの自宅近くの喫茶店で、加藤さんと懇意にしていた先輩記者のお供をした。
三回目は、二○○七年七月十九日だった。その前日に宮本顕治が亡くなり、私は加藤さんに宮本顕治への追悼話を取材に行った。この時は自宅の応接室で話を聞いた。わきのテーブルの上には、ちょうど出たばかりだった『日本文化における時間と空間』が三十冊近く積んであった。その時も、くだんの先輩記者と一緒だったが、話を聞いて記事にしたのは私だった。
応接室に入ってきた加藤さんはおもむろに、手元の箱から補聴器を取り出した。耳にすっぽり入る小型のドイツ製で「日本製より調子がいいんだ」と話しながら耳につけた。それまで、私は加藤さんが補聴器をつけているのに気づかなかった。
最初は少し話しよどんだが、こちらが一九四九年の『展望』の対談の話に水を向けると、加藤さんは戦争直後のその時の思い出から、よどみなく話し出した。スピードはゆっくりだったが、記憶も言葉も鮮明だった。「宮本顕治というとまず頭に浮かぶのは戦争反対、それを貫いたということです」と述べ、宮本顕治の反戦のたたかいに対する尊敬の感情が一気にあふれ出るようだった。
加藤さんは、対談した時の宮本顕治の顔を「私がこれまで見たなかでもっとも美しい顔の一つだった」と述べ、「東大寺戒壇院の四天王の顔に似ている」と語った。天平時代、八世紀につくられた仏像である。
私は一昨年、奈良に住む元赤旗記者のOさんを訪ねたとき、東大寺を案内してもらい初めて戒壇院に行った。その時、Oさんが「加藤周一はミヤケンが戒壇院の広目天像に似ていると言っていたね」というので驚いた。加藤さんは四天王とは言ったが、四つの像のどれかまでは言わなかったからだ。
しかし戒壇院に入り、広目天像を見て私は納得した。少し四角張った顔の輪郭と細い目。仏を守る不屈の闘志を秘めた精桿な表情。本当に宮本顕治そっくりで、加藤さんが思い浮かべたのは広目天に間違いなかった。仏像に詳しいOさんにはすぐにピンときたのだ。『日本文学史序説』では、『古事記』の悲恋とワーグナーの「愛の死」をならべ、宮沢賢治の詩を柿本人麿の長恨歌になぞらえるなど、時間と場所を越えた対比を自在に操っている。そうした加藤流比較術が宮本顕治の追悼でもいかんなく発揮されていた。
加藤周一さんが戦前の宮本顕治について熱く語った後、私は戦後の宮本顕治について聞いた。加藤さんは迷うことなく、「暴力革命の放棄」と「平和とともに独立の強調」の二つを功績としてあげ、特に後者ではソ連や中国からの独立を訴えたことを高く評価した。
私は編集局に戻ってすぐに原稿をまとめ、その日の夜、ファクスで加藤さんのお宅に送った。加藤さんは折り返し数カ所の訂正を送ってきた。そのなかで、一カ所、非常に大事な訂正があった。「歴史的記念碑ともいうべき宮本顕治さんの偉大さは十五年戦争に反対を貫いたことである。(中略)宮本顕治さんはそのことによって日本人の名誉を救った」と私がまとめたところを、加藤さんは「そのこと」を消して「反戦」と直されていた。
追悼文は、「しんぶん赤旗」七月二十一日付に談話として掲載された。「宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った」という一節は、繰り返し引用されることになるが、これは加藤さん自身が最後に手を入れてできた一文なのである。
「その」や「この」であいまいにせず、決めるべき時は決め言葉でしっかり固めることが、最後に加藤さんから教わったことだ。
私が直接取材した一年半後の二○○八年十二月五日、加藤周一は永眠した。享年八十九歳だった。
追記
この原稿を書きながら、学生の時に聞いた「何か行動していますか」という質問に対する加藤周一の答えを何とか確認できないかと思い、東大職員組合に問い合わせた。当時の組合のニュースに質疑の一部でも紹介されていないかと考えたのである。
そうしたら、なんと当時の録音テープが出てきた。駒場の組合の部屋に残っていたそうである。二週間ほど後に、電話でその連絡をもらった時は私も驚いた。
二十八年ぶりに聞いた講演は、結構早口で、九条の会でよく聞いた晩年の話しぶりとは全く違っていた。加藤周一も若かったのである。
ソ連脅威論と米国の予算審議の関係のところは、私の記憶も雑誌原稿も少しずつ違っていた。
当日の講演をテープから再現すると、加藤周一は次のようにしゃべっていた。
「(ソ連優位論は)かなり頻繁に繰り返される。多少季節的です。ちょっと季節労働者に似ている。だいたい八月ごろが多いですね。九月初め。米国の予算が秋ですから。予算を決める前になると国防総省が、ソ連の軍事力が強大で我々は不安であるということを言うんですね。それは予算を取るために必要だからで、予算を取ったあとはしばらく休んで、それからまた来年になると、秋の前にそういうことを言い出す傾向がある。だからやや季節的『ソ連の脅威』ということがあります」
これが雑誌に載った原稿では次のように変わっている。
「これはかなり頻繁に、多少季節的に、米国でくり返される議論です。それが季節的なのは、米国の議会が軍事予算を決める前になると国防総省が、ソ連の軍事力が強大で我々は不安である、ということを言うからです。予算が決まれば、『ソ連の脅威』は強調されなくなるのが原則です」
実際の講演では「季節労働者的」と冗談も交じえ、多少具体的に生き生きと話している。録音を聞くと、声にも張りがあるし、何よりも加藤周一本人が講演自体を楽しんでいることがわかる。『講演集』もたくさんでているように、文章家であるとともに、講演の名手であったことも再確認できた。
さて、肝心の中年女性との質疑応答も、私の記憶と少し違っていた。
女性がたずねたのは国家秘密法についてだった。
加藤周一が反対だと述べたのに対し、女性はなおも質問した。
女性 それに対し何か行動をなさいますか、あるいはなさいましたか。
加藤 私は私の意見を述べたけどね。
女性 声明を発表するとか。
加藤 私は声明を発表しなくても物を書くのが商売だから、なるべく多くの人にアクセスするような機会をとらえて、反対だということを言ったわけなんだ。そこまでなんだ。あと、議会に出かけるとか、そういうことはしないわけ。賛成する人のところを訪ねてケンカするとかいうことはしない。もちろん、腕力は使わない。私はもともと腕力は弱いから、使っても不利だしね。だから口先で言うだけですね。行動と言っても。
女性 上程されたら通りますよ!
やり取りはここまでで、すぐ次の質問に移っている。記憶の中の印象とは違って、女性の思いつめたような質問を、加藤がうまくいなしている感じがする。私自身、当時はこの女性の危機感に近かったということだろうが、「口先だけですね」などというところに、加藤の自潮も感じられないではない。
質疑応答だけで一時間を超え、ほかにも全く忘れていた面白い話がいくつもあった。
例えば「先生の『朝日』の連載で緊急にSDI(戦略防衛構想)反対の提言をしてはどうか」という意見が会場から出て、それに対して「ときどきは核兵器の問題に『朝日』で触れるけれど、戦術上の問題として、毎月そうじゃない方が、効果があると思いますね。時々のんきな話をして、ときどき核兵器の方がいい」と答え、さらに「もう一つは、核兵器反対の文学者というと、いつも野間宏と、大江健三郎と、加藤周一というのでは、新しさがないわけね(笑い)。だからもう少し新鮮な、別の人がやった方が効果がある。あいつはどうせそう言うだろうと思ったら、また言ったというのでは効果がないから、そういう点も考慮してやります」と話している。会場でも笑いが起きていたが、加藤周一の二枚腰的「戦術」と本音が見えて面白かった。
以上、本文に取り込むべき内容なのだが、録音テープが見つかった時、すでに原稿を書き終えていた。後から修正すると全体の調子が崩れそうだったので、追記として補足しておく。