旅人憶良餘論

 萬葉集の歌風を考へる者は先づ人麿を標準として見るに慣れて居るのであるが、さてその人麿の萬葉集中に於ける位置はどうであらう。萬葉集の歌風は其の初期から前代の歌風、即ち記紀歌謠の作歌に比べると著しく現實的であり寫實的であることは近頃の評者のやうやく一般的に承認し來つた所ではないかと思ふ。記紀歌謠中にも現實的な作風寫實風が見られないことはないが、-般として民謠的歌謠的のものの方が數も多く、個人作者の寫實的な作品は稀だといふことになると思ふ。勿論それから萬葉集の寫實的歌風に移るには一般歷史の推移と同じく漸進的であるには違ひないが、其の中でも記紀から萬葉集へ移る所では一つの段をなして居る。或は急坂をなして居るといふことは言へるであらうと思ふ。岡本宮二代、大津宮、淨御原宮の時代は作品も多いとはいへないのであるが現存の作品からいへば皆歌謠風を離れて現實的作風に進んで居ること一一の作品を上げるまでもないことであらう。

 さういふ風に萬葉集初期の作品を考へると人麿の登場は全く新作風の興隆と言ふべきであらう。人麿の技巧は寫實を無視するといふよりも、當時の一般の寫實カの上に出で寫實の妙を極めて居ることは言ふまでもないが、一面には超現實的の格調技方に達して居る。つまり初期の寫實風をとり入れて其の上に到つたものと言へる。此の超越は何によつて可能であつたか、彼の天稟か、記紀歌謠の復活か、漢文學よりの暗示か、それは人麿論の中心問題となるであらうが、此の人麿の新作風が當時高く評價され廣く受用されたことは想像に難くない。人麿の後に來る者の作風は一樣に人麿の作風によつて支配された。赤人金村蟲磨等いはば專門の歌人と思はれるものはもとより、當時の一般人にして僅かに一二の作歌を殘すといふ者まで皆然りの感がある。人磨の作と人磨歌集の歌との作風を一線を以つて班つことは、出來ないことではなかりさうだが、その一線は決して明晰確實にといふ訣には行かないが、更に人麿歌集の歌と卷七卷十卷十一卷十二あたりの作者未詳作品の間にもー線を以て分つべき程の特徴の相違はなかりさうだ。以上の作者未詳の作品は多く人麿後のものであらうが、人麿の作風はしかの如く瀰漫して居るのである。

 旅人憶良の作歌がかうした情勢の下に於てなされたと考へることは彼等の評價の上には是非必要であると私は考へるのである。

 憶良は大寶慶雲時代に結松の歌、在唐憶本郷の歌等があるのであるから、人麿の活動を現前に見たに違ひない。時代の明かなものとしては神龜元年の作が最初である赤人よりは人磨に時代が近い筈である。人麿の年齡は未詳であるが憶良と同年輩とさへ考へられて居る。然るに憶良の作の中には割合に人磨の新作風に立つたと思はれるものが少い。若し强ひて求めれば七夕の歌にあるのではないかと思ふが、七夕の歌は旣述の如く寧ろ憶良の一工夫と見えない所もない。人麿歌集の庚辰年之作(天武天皇九年)はもとより人麿歌集の七夕歌の由來がも少し明かになれば七夕歌を橋として人麿憶良の關連をもつと確かにすることが出來るかも知れぬ。とに角憶良は人麿風に染まない一人であつたと云ふことは彼の大小は先づ後の問題として彼の存在の意義を肯定することが出來よう。

 憶良は同時代の流行歌人(これは惡意で言ふのではない)人磨を模すことをしなかつたが、之はどの程度の覺悟の下になされたかは今の所知ることが出來ない。けれども憶良は其の漢文學の素養よりも寧ろ日本古歌謠の知識を以て自分の作風の基礎としたらしい。漢詩乃至漢文の技巧表現法を直ちに全く語系語律の違ふ日本の歌に應用するといふことは一個人の仕事としては大きすぎ困難すぎたのであらう。憶良の漢文學からの暗示が、彼の作歌の表現乃至態度に影響したと思ふ所は吾々の豫想よりは遙かに少いやうに思はれる。七夕說話の導入は皮相に終つたと云つてよいだらう。しかしそれでも物の見方の實理的なところ、表現の合理的なところなどはさすがに彼の素養より來つたものと見てよいかも知れぬ。

 旅人は憶良と違つて歌人としてはいはば素人なのであるが、そのためかやはり人麿の影響は少い方の如く見える。旅人の作風はさういふ點で萬葉集初期の皇室御出身作者重要人臣等の作風に直接通じて居る所があるやうに私は思ふ。旅人憶良を通じて人麿をこえて萬葉集初期の作風に直接つながりを持つ如くであるが、旅人に於て殊にそれが著しいのは、前云ふ如く素人作者であつたためかも知れぬ。

 憶良旅人の作者としての先後關係については所々で私の結論を披露して置いたのであるが、もう一度繰り返して言へば憶良の方が先達であると定むべきであらう。其は年譜に擧げた作歌經歷からも推定出來ることであり、表現の技巧に於ても憶良は多くの長歌を作り、古歌謠の語句を援用し、古傳說、俚言を巧に歌句にとり入れて居る所など人磨以外に彼に匹敵すべき技巧家はないであらう。調律の佶屈になり易いのは彼の天稟、卽ち語調に對する威受性に歸すべきかも知れないが、とにかく語句を馳驅する力は大いにあるといはねばならぬ。旅人は之に反し、長歌は一首あるも極めて短く、内容單純である。旅人は枕詞などの使用も極少いこと既に注意した如くである。同一句法を繰り返すことなども素人くさい。しかし此の素人くさいといふことは決して旅人の作の品位を下すものでないことは云ふまでもない。一例について言へば大來皇女の大津皇子をかなしむ御歌の如きも「君もあらなくに」(一六三)「君もあらなくに」(一六四)「君がありといはなくに」(一六六)と同一句法語調を繰り返して居るのであるが此は御歌の疵とは決してなつて居ない。旅人の場合に於ても然りといはざるを得ない。

 短歌は必ずしも西洋流の詩の槪念に包含されないから、短歌作者は西洋的詩人たるを要しないのであるが、何と言つても詩といふ槪念は考を進めてゆくには便宜には相違ない。さう云ふ意味で憶良を考へて見ると、彼は詩人的天稟の豐かな人間であつたとは思はれない。彼は寧ろ官僚であり、官僚も事務官式であつたらう。經世家、指導者といふよりも村夫子風であり、刀筆の吏であつたことは、彼の門地よりも彼の天性によるのであらう。又そこに彼の着實な處世觀があり、確實な實行があるので吾々はそこに彼の價値を置かうとするものである。

 旅人は憶良に比すれば遙かに詩人的であり、人間の規模も大きくあつたやうに見える。之は彼の天稟にによるのであらうが、彼を成長せしめた門地の氣風による所が多いのかも知れない。家持は旅人の子であるがややせせこましい。例へば憶良は「憶良らは今は罷らむ子なくらむ其の彼の母も吾を待つらむぞ」と卽興してもどこか理が存して伸々としない。同じ卽興でも旅人の「大和路の吉備の兒島を過ぎて行かば筑紫の兒島思ほむかも」は理を絕して豁逹寛容の氣字が動いて居る。

 旅人の作風は直ちに萬葉初期の勃興的個性的作者に繋るものであることを述べたのであるが、これは生活と作品との關係、生活態度に於て兩者揆を一にして居るためであらう。從つて表現の技巧の上にも何じやうな現象があらはれて居る。枕詞の使用の少いこと、長歌よりも短歌の作の多いこと、長歌も餘り長くないことなども其の一例であらうが、大來皇女の例で述べたやうな同一表現を繰り返して居ることなども其の一と言へる。鞆の浦の作三首、敏馬埼の作二首、語句といひ内容と言ひ一つことを幾度かくりかへし、彽徊進まぬ貌であるが、其の間にたゆたふ心緒のあらはされゆくのは技巧を超絕した短歌の本然の姿ではあるまいか。

 遊於松浦河序は遊仙窟、洛神賦を模したものだと言はれる。それは構想用語皆其の通りであると言ひ得ようが、それにしても遊於松浦河序の規模小さく淡々熱意を缼いて居ることは當時の日本知識階級の一特徴なのであらうか。遊於松浦河序は更に次々と歌と文を重ねて行く計畫の初頭だけで、いはば未完成のものとも見えないことはないが、分量のみならず措辭行文すでに支那人の濃腴なる面影を止めない。國民性といふよりも作者の性格の方が直接關與して居るのであらう。讚酒歌の表現の思ひ切つて居るのに人は目を瞠るのであるが、たしかに此の方が遊於松浦河序よりは强い。それでも支那的表現に比すればどうであらうか。

 旅人と憶良との歌人としての先後は大體上述の如くであるが、二者同等に見る說も行はれて居る。私はさういふ中で尾山篤二郎氏の說が愚見に近いのを知つて力を得て居る。序ながら憶良の貧乏論についても私は尾山氏に共鳴する。尾山氏も私も貧を解するが故に憶良を解する所があると言つては尾山氏に禮を失することになるかも知れないと思ひながら。

 歌で既に然りとすれば漢文學の素養については兩者の差は相當にあつたのではないかと思ふ。當時の豪族出身者中でも史の四子の如き皆漢文學に通じ、旅人も和銅四年に文武百寮成選の者に位を敍せられた時從四位下にのぼせられたのであるから、ただ父祖の蔭によつて地位を保つたものでないことは知られるが憶良は无位(恐らくは无姓)より身を起した程の者だから此は旅人の比ではなかつたと思はれる。旅人の讚酒歌は酒を好む旅人が、憶良から酒に關する文獻を供與されて作り出した一連と想像されないこともない。それにしても創成の功は旅人にあるべきこと言ふまでもない。

 其れ故旅人の讚酒歌の基調となつて居るものは卽興的なものと見ざるを得ない。此の一連から旅人の思想を引き出し、その人生觀、生活態度までを決定して行かうとするのは少し無理であらうと思ふ。當時の官人等は詞藻の上はともかく、もつと實際的であり現實的であつたことは其の條でのベた如くである。

 それにつけても卷五中の漢文作者を推定する場合にも憶良とする說の方に多く私は傾くのである。例へば旅人の「禍故重疊云々」「伏辱來書云々」、房前の「跪承芳音云々」程度の尺牘ならば杜家立成雜書要略の如き手びき本によつても書けるであらうが、(それさへ實際は記室の手を煩したかも知れぬ。旅人の尺牘の卷五に收められて居るのは憶良が代作した時の手控と思はれぬこともない)旅人の房前に宛てた日本琴に附する文の如きは何人か文字専門家例へば憶良の如き助力者を豫想出來るのではないかと思ふ。遊於松浦河序り作者にまで愚見を披露したのもさういふ主觀的先入主があつての事であることは言ふまでもない。梅花歌の員外追和を全く憶良作はあらずと言ひ切れない氣持も起る。

 憶良の七種の歌に其一其二と註してあるのは齊明天皇御製に其一其二其三と註されてあるのと相通じて居ることは其の歌の所で述べておいた。川島皇子は天武天皇の十年に修史の詔を受けた御一人であり、憶良と皇子の關連あるべきことは「白浪の濱松が枝の」歌について記した如くであらう。さうすれば憶良も日本紀の事に少し位は與り得たかと思はれないこともない。

 憶良の作が懷風藻に収められなかつたのは如何なる成り行きのためであらうか。懷風藻と長尾王の關係深いことは一讀明かなことであるが、憶良は神龜元年左大臣長屋王宅に於ける七夕の歌を殘して居るから、長屋王とも交渉の存したことが知られる。養老三年長尾王が新羅使金長吉のために開いた詩會の時は憶良は伯耆守として任にあり在京しなかつたであらう。此の事が憶良の作の懷風藻に入らなかつた因となつたとも思はれる。いづれにしても憶良は懷風藻の編者から無視されたのではあるまい。

 无位の憶良が遣唐使少錄となつたことには執節使粟田眞人が山上朝臣と同祖の栗田朝臣であるから宗族的關係でもあるらしく思はれないこともないが、それよりも憶良の學才によつたのであらう。なほ憶良億良について假說を述べて置いたが、紀の記載法が必しも現今の戶籍簿などの如くでないのは旅人を多比等(神龜元年二月)と記して居るのでも知れる。旅人の名は東大寺獻物帳には彼の房前宛書狀の如く淡等と記されて居り、懷風藻の方が反つて旅人と記されてある。さうすれば憶良億良は意味のない異同といふことになるのである。殊に萬葉集古寫本の往々億良に作るものあるによれば、億憶の差異は前文で述べた如く重視すべきではないかも知れぬ。

 私は本書の校正中「文學」昭和十六年十一月號所載の佐佐木信綱博士の「萬葉集卷第五論」を讀むことが出來た。「萬葉集第五卷は憶良の自撰の集と考へてをる」といふその結論は私の漠然と信じて本書の出發點として居た所であるが、今博士の確論を得て一層安心して校正を進めることが出來るやうに思ふ。日本挽歌を憶良自身の妻のためとせらるる點、遊於松浦河序を旅人作とせらるる點、吉田宜の書簡を旅人宛とせらるる點等には私の述べる所は同じでないが、私のは私のとして披露のままにして置きたい。

 なほ右論文中に引かれた所により宮島弘氏がすでに宜の書簡の旅人宛にあらぬこと論ぜられて居ることを知つた。今辛うじて萬葉集硏究年報によつて宮島氏の所論の輪郭に接したのであるが、かう云ふ論が旣にあれば私の論はそれをも考慮して出發すべきであつた。硏究年報で見た所でも私の所論は宮島氏の蹤を追つたものがあるやうである。但し麻田陽春に宛てたものとしては「朝宜懷翟之化、暮存放龜之術」等の句は當りにくいのではあるまいか。この事は宮島氏の本論文を讀んで更に追記したい。又陽春と宜との交を積極的に說明するにはいかがであらう。陽春は宜よりはひどく後輩ではあるまいか。憶良なれば彼の學歷官歷殊に彼が醫術に興味を持つて居たことは方士吉田宜との交游を積極的に考へられるのである。

 又博士の右論文中には大野保氏の論文を引かれて居る。私は今その論文の所在を知らないが、本書で私の行き當つて困惑した文字用法の硏究漢文表現法の硏究がすでに大野氏によつて完成されて居る如くなのでただ無學を耻づる次第であるが、殊にその論によれば遊於松浦河序は憶良の用字法に近似せりといふのらしく、それならば私の獨斷を支援して貰へるので、私は當然大野氏の所論から出發すべきであつたと思ふ。又博士の論中卷五には「時に日本書紀の用字に相似た點が見える」と云はれて居る點は、私が前に短歌に其一其二と註することから憶良の書紀編纂への關與を想像した所を一段積極的にすることが出來るやうで大へん有りがたい。若し憶良の書紀編纂に關與したことが積極的に證明されれば、彼の遣唐使より歸來後の數年がその期間として考へられるのであらうか。それはとにかくとして憶良の古傳說を取り扱つた歌の由來あることも明かになり、又類聚歌林の性質殊にその信憑性についても再檢討を要することになるかも知れない。歌林の史實を主とする編纂法もそれで理解されるやうである。其一其二を用ゐること、由緣を重ずることから又卷十六と憶良との關係も亦一硏究題目となるかも知れぬ。

 宮島弘氏の「萬葉集卷五の編纂者附雜考」は「國語・國文」第九卷第八號で讀むことが出來た。吉田宜の尺牘中の歌の題詞の記し方によつて尺牘の旅人宛ならざることを論ぜられて居るのは、私の本書中に述べたのと同旨意のやうに思はれるから之は私の先蹤として敬意を表し、私は當然宮島氏の論から出發すべきであつた。私が本文の如き述べ方をしたのは全く私の無知のためである。但し私は旅人宛ならぬの宜の尺牘を憶良宛と考へることは宮島氏の論文を讀み終つた今も變りはない。

  後 記

後記。大正十年頃諏訪在任中、旅人の生涯につき關心をもちアララギに短文を草したことがある。其の後齋藤茂吉氏の激勵でアララギに萬葉集私見といふものを連載した時も旅人のことに觸れた。同じく齋藤氏の指導の下にアララギで開かれた種々の共同硏究に旅人憶良が題目となつたこともある。本書を成すに當つて常に座右にあつた萬葉集年表も諸友人の援助によつて成つたこと同書に記した如くである。武田祐吉博士から國學院院友會主催の講習會で憶良につき述べる機會を與へられたこと、又畏友長崎太郎氏から京都帝國大學學生課主催の月曜講義に旅人憶良につき述べる機會を與へられたことは本書の直接の成因であつたやうに思ふ。眇たる小册子ではあるがかく多數の先達友人の恩恵によつて漸く成つたことを思ひ滋に謹んで感謝の意を表する次第である。

 昨年夏から稿を起し今やうやく校正を了らむとするのであるが、編輯校正索引製作については樋口賢治君小暮政次君が專ら助力された。松原周作君は索引を手傳はれた。又長男女等も筆寫のことに當つた。深く感謝する次第である。

 今囘の稿は一切旣往の自分の言說には觸れなかつた。或は前後撞着して居る所、同じことを繰り返へして居る所も多いかと思ふが、本書を以て私の現在の見解としていただきたい。萬葉集私見は他日刊行の機があるかも知れない。又京都大學の口述簿記は同學生課から刊行されるものの中に採錄される筈に聞いて居る。昭和十七年二月二十日 土屋文明記

群馬県立土屋文明記念文学館