九月、台風が過ぎ去った後の沼島の海は荒々しかったが、どこまでも青かった。波が岩に当たっては砕け散り、青い海をバックに白い飛沫を飛散させている。何度も何度も繰り返される海辺の営み、それを何気なくぼんやりと眺めていた私の中に一筋の風が忍び込み、遠い過去の記憶を呼び起こした。目の前の海辺は何処かに消え、いつの間にか私は追憶のなかの海辺に立っていた。そういえば、あのときも海辺に佇んで海を見ていた。……。ずっと、ずっと海を眺めていた。朝の海、雨の海、夕焼けに輝く海、夜の海が目の前にあった。光、空、雲、海の色は変化し、移ろっていったが、とめどなく打ち寄せる波の音は変わることがなかった。記憶の奥底にこびりついていた波の音が蘇り、私の脳裏にこだました。
「先輩、かっこいいヨットですね」
「ああ、外洋まで出ることができるクルーザーだ。知人が貸してくれたんだ」
大学生の頃、私は養徳学舎という県人寮にいた。内陸県出身の私は海への憧れはあったが、所詮、海は遠い存在だった。寮の先輩からの思いがけない誘いに、私は他愛のない冒険心とヨットで航海できるという優越感を覚えていた。一人では心細かったので、寮の同期の西川を仲間に引き入れた。内実は怖かったけれども、それは西川には押し隠した。
「ヨットは沈まない、船底にある重厚なキールによって復元力があり、少々の風や波でも転覆しない、船の中で一番安全なんだ」と先輩に教えられていたことだけが頼りだった。平成十五年に琵琶湖でヨットが転覆し、七名も亡くなるという痛ましい事故があったが、当時、そんな未来の事故のことなど知るわけがない。湖ですら転覆するのだから、もしもこのことを知っていれば、間違いなく誘いを断っていただろうと思う。
その朝、ヨットは光を浴び、海はきらきら光っていた。心配していた台風は遠くに去っていった。目指すは答志島、風次第だが伊勢の白子からはそう遠くはない。ただ台風の影響か、海は大きくうねっていた。
「ヨットは揚力を推進力に変えているんだ。飛行機が空中に浮かぶように水の抵抗で前に進んでいるという理屈さ。このクローズホールドがヨットの醍醐味だ」という先輩を頼もしく思った。
ヨットがもっとも快適に帆走できるのは横風を受けるアビームだ。船尾から追い風を受ける帆走がランニングで、追い風を目一杯受けるよう、ジブセールとメインセールを左舷、右舷双方に張り出す。この観音開きのヨットが海に浮かぶ姿は見る者にとっては優雅で美しいが、風の向きと船の向きが同じで風が相殺されるため、クルーはあまり風を感じず爽快感は少ない。
これに較べ、向かい風を受けて風上に航行するクローズホールドは格別だ。船体は風で傾き、舳先の波飛沫が潮風とともに顔に降りかかる。聞こえてくるのは風にはためくセールの音と波を切る音のみ、私は海上まで背中を乗り出しジブセールのロープを引っ張っていた。風と闘っていることを体で感じた。
ところが風があったのは朝方だけで、太陽が高くなるにつれて風は止んだ。少し待てばまた風は吹くだろうと高をくくっていたが、風は戻って来なかった。風に見放されたヨットはただ漂うだけの物体、やがて海のうねりに皆の気分が悪くなる。仕方なくエンジンで機走することになったが、長期間、使用されていないエンジンの調子は悪く、途中で止まってしまった。原因不明、修復困難、微動だにしないエンジンと凪、それに台風の後の大きなうねり、ヨットは伊勢湾洋上で浮遊物と化した。じりじりと照りつける太陽、ひたすら風を渇望した。
ヨットは伊勢湾の大型船舶が行き交う航路に迷い込んだ。案の定、巨大なタンカーが近づいてきた。タンカーはけたたましく警笛を鳴らすが、ヨットは動かない。動けないのだ。祈るしかなかった。タンカーの方が慌てて舵を切り、ヨットを回避してくれたとき、私たちは思わず喝采していた。今更ながら冷や汗が出る。
いつまでたってもまともな風は吹かず、ほとんどお手上げ状態だった。そうこうするうちに岸が近づいてきた。今度は磯に漂着して座礁する恐怖がもたげてきたが、幸い砂浜に流れ着くことができた。すでに日は西に傾き、皮肉なまでに鮮やかな映像があった。海は黄金色に光り輝き、砂浜では若者たちが気持ちよさそうにサーフィンをしていた。私たちは真夏の太陽に晒されたまま漂流し、やっとの思いで浜に辿り着いたというのに、逆光の彼らは無表情で、砂浜に闖入してきたヨットのことなど、まるで無関心だった。彼らの世界と私たちの世界は異次元なまでに隔絶していた。夕日を背に、キールの付いたヨットが砂浜に横たえた光景が美しくも哀れだった。
「ここはいったい何処なんだ」
道路にあるバス停には「南知多」と書かれていた。どうやら私たちは伊勢湾を横断したようだ。唖然とした。南知多というと知多半島の南端、潮の流れも早く、一歩間違えば太平洋まで流されていたかもしれない。もはや帆走だけで伊勢湾を引き返す気力は萎え、臆病さばかりが膨張していた。エンジンを修理せねばならない、やむを得ず私たちは砂浜でテント生活する羽目に陥った。次第に西川と会話することもなくなり、皆が寡黙になった。そうして数日間、何をするともなく呆然と海を見て過ごした。
目の前に広がる夜の黒い海に響く波の音がたまらなく不気味だった。引き波が足下の砂を掬い去っていく沮喪感とその冷たさ……、その感触は今も残っている。エンジンは無事直ったが、帰りの海の上でエンジンの単調な音だけが惨めに響いていた。