久しぶりに自宅の机の整理をしようと、抽斗を開けた。その奥から古びた一組のトランプが出てきた。
そういえば子供の頃、遠くから従姉妹たちが遊びにくると、よくトランプゲームをした。「七並べ」「ポーカー」「神経衰弱」と続き、最後は「ダウト」。いつも決まって最後は「ダウト」だった。
人数分均等にカードを配り、時計回りに順番を決めて最初の者が手持ちの札から「1」を伏せて出す。次の者が「2」。そして順々に伏せたままのカードを重ねて行く。当然自分の持ち札に該当数字が無い時がある。そんな時でも何食わぬ顔で、別の数字を「10」とか「11」とか言って出さなければならない。嘘だと見破られた時「ダウト!」と声をかけられ、そのカードを表に返す羽目になる。
そして嘘であれば真中に重なったカードを全部もらい、本当であれば「ダウト」と声をかけた者がもらう。手持ちの札が一番早く無くなった者が勝ち。こんなルールだ。
*
「あら、居たんじゃないの。返事がないから出掛けたのかと思ったわ」
買物から戻った妻が、書斎のドアを不意に開けた。彼女の声のトーンに、微かな落胆の色が混じっていたように感じたのは、自分の悪い癖だろうか。どういう訳か、人の心のマイナス面に過敏なのだ。だから子供の時から「ダウト」には滅法強かった。
「なんだ、遅かったな」
「すぐにご飯の仕度をするわ。今夜はお刺身よ。駅前のスーパーなら、生きのいい盛り合わせが安いのよ」
自宅の近くにも一軒、小さなマーケットがあるのだが、いつも妻は徒歩で二十分もかかる駅前のスーパーに出かけていく。
「少しでも歩かないと、ほらメタボリック症候群って、恐いでしょ」
そう言って、在るか無きかのウェストラインに付けた万歩計を指さす。
「今日は八千歩か……、もう少し頑張らないと」
ブツブツと独り言を呟きながら、台所へ消えていく。私は聞き流して、窓の外を眺めた。秋のせわしい夕暮れの空に一陣の風が通り過ぎた。窓際のユリの木の葉が、鮮やかな橙色のまま、一枚二枚三枚と続けざまに空に舞った。それが順々に重なって、一箇所に落ちたような気がした。またしても私の脳裏に、トランプゲームの「ダウト」のイメージが鮮明に甦った。
──「哲っちゃんたら、ひどーい」
四歳下の従妹が、半べそをかきながら、目の前に重なったカードを自分の方に掻き集めている。「あーあ、またか」と他の従姉妹たちも呆れ顔だ。「こりゃいつになっても終らないな」「哲彦ったら、カンだけはいいのよね」「知らんぷりして、そのまま次を続けた方が、自分のためになる時もあるのよね」(子供なんだから)と、三つ歳上の姉は、心中で私を馬鹿にしたように言った。──
そんな情景を思い出した途端、微かに自分の胸の奥が疼いた。
妻の言った通り、刺身の鮮度は良かった。鮪、紅じゃけ、帆立、鰯…。鰯でさえも流通速度の早い今日では、刺身で食べられる。一昔前なら考えられなかった。家庭では鰯は丸干しと決まっていた。
「昔、新宿の西口に『鰯屋』っていうイワシ料理の専門店があってな、先輩に連れられてそこで初めて生のイワシの刺身を食べたよ」
「新宿の西口?」
「ああ、西口って言っても高層ビル街じゃなくて、もっと駅に近いガード下のような、ゴチャゴチャした飲み屋街だったけど」
「へえ、今でもあるかしら。私も一度くらいそういう所、行ってみたいわ」
妻はこの頃、私の話に妙にノリがいい。
「いや、待てよ。『鰯屋』っていうのは通称で、本当の店の名は何だったっけかな……」
私の記憶は不意に曖昧になり、後が続かない。若き日の懐かしい場所に古女房を連れて行くなんて、まるで死期を悟った老いぼれ亭主みたいで嫌な気がした。
「縁起でもない……」 ぼそりと呟くと「え?」と耳敏く妻が返す。
「失礼ね、何それ。そんなに私を連れて行くのがいやなの」
(いや、そんなつもりじゃないよ)と言う代わりに、
「ああ、どうせ行くなら独りでゆっくり行きたいね」と、つい本音を漏らしてしまった。
妻は無言のまま、鰯の刺身を三枚まとめて口の中に放り込むと、不味そうな表情を作って、自分の茶碗だけさっさと片付け始めた。
*
「何だ、水曜日は刺身の日か」
「えっ、ああ、駅前のスーパー、水曜がお魚の特売日なのよ」
台所の水を流したまま、妻が答える。
「だからって、毎回刺身にしなくとも……」
私の贅沢な不満は、妻の耳には届かない。
「あたしも日本酒、飲もうかしら」
珍しく妻が相手をするつもりらしい。刺身に何か後ろめたさがあるのだろうかと、また例の悪い癖が頭をもたげた。その鎌首をなだめながら、何食わぬ気に妻のガラスの猪口に冷酒を注いでやる。
「へえ、飲みやすいわね。日本酒って結構おいしいんだ」
若い頃はワインしか飲まなかった妻が、宗旨変えをするつもりなのか。それならそれで付きあってやるのもいいかと思いかけた。
「でもやっぱり、私はワインだわ。赤ならポリフェノールたっぷりだし、血液サラサラ…」
そんな口を叩く妻を、小憎らしさを押し殺してつくづくと眺めると、血色もよく五十半ばにしては肌にも張りがある方だろう。もうすぐ消滅しそうだと思っていたウェストのくびれも、いつの間にか復活している。ほんのわずかではあるが。
「まあ、風前の灯か…」 つい口から漏れた。
「また、何、わけの分からないこと言ってるの。あなたとあたしの間には、通訳が必要かもね」
妻は、皮肉でもなく悠然と笑うように言った。その妙に余裕ある態度に、私は何かイヤな予感を覚えた。
それから何週間か後の、やはり水曜日の夕暮れ時だった。居間の電話が突然鳴った。台所に妻はいない。外は雨だ。
「もしもし、藤森様ですか。実は奥様が突然具合が悪くなられて…」
聴き覚えのない若い男の声が、慌てたように告げた場所は、二駅隣の喫茶店の名前だった。
「すぐに迎えに来ていただけますか。救急車を呼ぶほどではないと思うのですが、私も仕事があるものですから…」
自宅を飛び出し駅まで走り、二駅間電車に乗って現場へ急行すると、喫茶店の奥のボックス席に背もたれてぐったりしている妻を見つけた。他に誰もいない。
「おい、大丈夫か!」
荒い息を押し殺して声をかけると、妻は弾かれたように目を開けた。
「えぇ。多分、貧血だと思う。もう少しだけじっとしていれば、治るはずよ」
私は周囲を見回わした。電話をくれたであろう男の姿はどこにもない。
「自宅に電話がかかってきた。その人は……」
妻はこめかみに両手を当てたまま、目をつむっている。そしてしばらくしてからゆっくりと口を開いた。
「人違いだったのよ。その人、私のことを別の人とまちがえたのよ。学生時代の先輩とよく似ていたみたい。……急に雨が降り出して傘がなくて困ってたら、その人が突然、先輩早く乗ってと、車のドアを開けたのよ。私も咄嗟のことで誰だか思い出せないまま、きっと知ってる人だと思い込んで、車に乗ってしまった」
「ええ?」
「土砂降りの雨で、ワイパーが激しく動いてた。それで、自宅まで送ると言われて、互いの名前を確認したら、人違いだったと分ったのよ。それで、お詫びの替わりにお茶をおごると言われて…、雨宿りがてら…」
「それでこの仕末か」
私は開いた口がふさがらなかった。大の大人が…。いや、待てよ、何か変だ、という暗いささやきが脳髄の奥で響いた。しかし、ともかく具合の悪い妻を、この場で問い詰め責めたてるのは、我ながら気が退けた。
「その男に、人違いだと悟らせずに、適当に話を切り上げ、帰ってくることは不可能だったのか」
自宅に戻ってから私は妻にそう質した。
「だって、名前を名乗れば分るでしょう」
「その男は、○○先輩と学生時代の呼び方で呼んだのだろう。今は藤森ですと姓を言ったところで、すぐには分らんだろう」
「相手は気付かなくとも、私の方が気付いてしまったのよ。それを平気な顔で嘘を通せると思うの」
ハッとした。もしかしたら「先輩に似ていた」と言った男の言葉は嘘だったのかも知れない。いや、そもそも突然降り出した雨で偶然という話も…。とすれば、いったい何処から嘘が始まっていたのか。それとも知らんぷりして自分のカードを重ねた方が……。
「ダウト…」 思わず呟いた。
みるみるうちに妻の顔が蒼くなった。
「何だ、お前はあの頃のままなんだな。半べそかいて、哲っちゃん、ひどいって言ってた」