漱石という人はおそろしく孤独な人間だったが、漱石の作品は不思議と読者を孤独にしない。これはどういうことだろうかと、私はこのごろ思うようになった。
私は人なみに中学生時代にはじめて漱石を読んだ。そのときは『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』、それに『こゝろ』が面白かった。大学にはいって間もなく、子供のころから弱かった胸を悪化させ、丸一年の上ひとりで寝ていたが、そのあいだにも漱石はずい分読んだ。かならずしも漱石に「道」を求めるような読みかたをしたわけではない。『門』や『道草』を読んでいると気持がしんと沈んで来る。それでいて決して凍てつくということがなく、心の奥底はむしろ豊かになごみはじめる。これは身体の調子にも精神状態にも無関係におとずれる充足感で、その当時まくら元の古ラジオでよく聴いていたモーツァルトやバッハの音楽のあたえる慰めに似ていた。
鷗外とはちがって、漱石は平気で無造作なあて字を書く人である。魚のサンマを「三馬」と書いて済ましている。中学生のころにはこの愉快な字面が象徴するような漱石の軽味が好きだったが、このごろになるとその影にかくされた作者の痛ましい孤独な表情に心を惹かれるようになった。それはわれわれの持ち得たほとんど唯一の近代小説家の顔──『明暗』の作者の顔である。私はそういう漱石の顔を思い浮べながら、『夏目漱石』という本を書いた。もう十年前のことになる。
米国に留学しているあいだにも、私はしばしば漱石とその文学について考えざるを得なかった。そして以前漱石の新しさと感じられたものが、実は漱石のなかにあった旧い文化の教養に支えられていたのではないかと思うようにさえなった。つまり私は、漱石を彼が生きた明治という時代と結びつけて考えるようになった。もっと正確にいえば、明治というあわただしい新時代のなかで崩れて行った旧い価値に根ざしているのが、漱石の文学ではないかと考えはじめたのである。漢学から英学へ、さらに作家生活へという漱石の生涯は、明治という時代の深所でおこっていた文化的秩序の崩壊を全身に体験し、その間に「孤」なる「個」の悲惨さを見てしまった人の生涯と思われた。これほど正面から時代の問題を引受け、その重味に耐えた作家は類例が少ないと思われた。
日本に帰って来ると、私はいつの間にか三十をいくつかこしていた。いくら変ったとはいえ日本の社会のなかに暮していて三十をすぎると、家族とか肉親とかいうもののきずなが、妙に生々しく具体的に感じられて途方にくれることがある。そういうときに漱石を読むと、今まではさほど印象に残らなかった彼の小説の細部に、ほっと息がつけるような安息を感じられることに気がついた。これは、近ごろになってようやく味わえるようになった漱石のよさである。
たとえば『道草』で、神経を病んで放心状態で寝ている細君を見守る不安な主人公の前で、突然われにかえった細君が「貴夫?」と微笑しかけるところ。あるいは『こゝろ』の「先生」と「私」が、大久保あたりの植木屋の庭の縁台に掛けて、「蒼い透き徹るやうな空」に映えるカエデの若葉をながめているところ。あるいは『門』の冒頭の、秋日和の日曜日、狭い縁側で日なたぼっこをしている宗助と、ガラス障子の中で針仕事をしているお米との会話。こういう個所はかならずしも小説の主題に直接結びついた劇的な個所ではないが、そこに微光のようににじみ出ている漱石の心の優しさが、私の渇望を充たすのである。
こういう優しさが、どうしてあのかんしゃく持ちで、不幸で暗い漱石のなかから流露して来るのであろうか。彼はいつもわれわれの隣にいる。彼はおびただしい知力と意志力と学識とを兼ね備えた巨人であるが、決してわれわれの上にではなく、「尋常なる士人」としてわれわれの傍にいる。つまり漱石は、いつも人と人とのあいだにいるのである。これは、道徳というものを、他人から離れることにではなく他人と交わるところに求めた儒学の教養から来た態度であろうか。儒学はそれほど深く漱石の血肉に食い入っていたのであろうか。
いずれにせよ、この大作家の頭脳を病ませていたのは、「文学」とか「芸術」とかいう観念ではなかった。神経症と胃弱に終生悩みつづけた漱石ほど、ある意味で健康な作家を、私は近代日本の文学史上ほかに知らない。だが、どうしてあの孤独な漱石が、それにもかかわらず人と人とのあいだにあえて身を投じ、その心のもっとも柔らかな部分を進んでひらくことができたのであろうか。
それは、おそらく漱石が、孤独な自己追求というものの悲惨な不毛さを身にしみて識っていたからであろう。私はこのごろ、漱石の文学のこういう特質を、彼が「帰って来た」作家であったということと結びつけて考えたいと思いはじめている。『道草』の冒頭に、次のような一節がある。
≪健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだらう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋し味さへ感じた≫
『道草』が、漱石がロンドン留学を終えて帰国した直後、ちょうど『吾輩は猫である』を書きはじめる前後の生活を素材にした自伝的な小説であることは、よく知られている。そうであれば、『猫』以後『明暗』にいたる彼の作品は、すべて「遠い所から帰って来た」人によって書かれたといってもいいすぎにはなるまい。「遠い所」とはかならずしも英国、または西洋だけを意味しない。それは他人から遠くはなれた場所、孤独な自己追求が何ものかをもたらすと信じられた場所である。
しかし漱石は、そこで孤独という状態がどんなものであるかを、自己追求の果てに待っているのが狂気と死でしかないことをかみしめることになった。その体験から彼が得た「自己本位」という信条には、つねに「一種の淋し味」がまつわりついている。それは「個人主義」が近代人の実現すべき理想だというような楽天的な思想ではない。むしろ「個人」としてしか生きられない近代人の淋しさに耐えようとする決意を託した言葉だと考えられるのである。
そういう「遠い所」から「帰って来た」漱石にとっては、小説を書くことは一方では人と人とのあいだに帰って他人に手をさしのばすことであり、他方では個体のワクを超えた生の根源に戻ろうとすることであった。これは彼を近代日本の作家のなかで特異な存在とした。というのは、日本の近代文学を支えて来た作家の大多数は、「出て来た」作家──故郷のわずらわしい家族関係や因襲をふり切ってひとりになり、そうすることによって自己を実現しようとした人々だったからである。
彼らにとっては、「自我の確立」というこの目標は、「芸術」のために、「近代」のために、あるいは日本人の精神の解放のために行われるべき大事業のはずであった。彼らには、「孤」なる「個」の悲惨さというようなことは理解の外にあった。彼らの現実の悲惨さ、道徳上の不毛さは「芸術」のために、あるいは「革命」のためにという観念にさえぎられて、その心の視野に映じることがなかった。彼らは一言にしていえば自己追求に憑かれた人々であった。
もし明治以後の文学が、こういう「出て来た」作家によって支えられていたとすれば、漱石はその無言の批判者であった。もし日本の「近代」が、「個人」をつくることを究極の目標にして来たのなら、漱石はその先にある問題を出発点として書きはじめていた。彼が生れてから百年経った今日、日本人はある意味では「近代」を実現しかけているのかも知れない。しかし、その同じ日本人のあいだで漱石がますます広く愛読されているという事実は、この過程でわれわれがいかに多くの貴重なものを失って来たかを物語っている。
われわれがさらに失うものが多ければ、漱石の作品はさらに一層身近に感じられるであろう。われわれは「自我の解放」の代償に不毛な孤独を得た。そういうわれわれの傍に漱石が来て立ち、そのストイックな、しかし優しい心をひらいて「文壇の裏通りも露路も覗いた経験のない……教育ある且尋常なる士人」に通じる言葉で語りはじめる。そのうちにわれわれの内部にはひとつの問いがわきあがる。われわれは、ずい分遠くへ来てしまったが、「帰るべき場所」はどこだろうかと、いつしか自問しはじめているのである。
(一九六六・一・四/朝日新聞)