………つい先ほどまではあたたかい春の陽射しがふりそそいでいたのですが、辺りの樹々がザワザワッと騒ぎ始めると、急に空は一転かきくもりちらほらと雪まで降ってきました。
「父さま、父さまあー」
と、舞は必死に叫びました。舞は父親の銀右衛門や店の若い衆と一緒に、近くの山へ山菜採りにきていたのですが、つい夢中になってあちこち探しているうちに、皆とはぐれてしまったのでした。雑草や灌木の生え茂る道なき道を歩き回るうちに、ますます皆から遠く離れてしまったようでした。
舞はやっと七つになったばかりの幼い女の子です。父は高津屋銀右衛門といい、大きな米問屋で両替商もやっていました。この辺りでは有名な豪商でした。大きな二つの蔵には米俵が山と積まれていました。母はお久といい、銀右衛門との間に舞の他に産まれたばかりの銀平という男の子がいます。今日は、父銀右衛門や店の番頭や手代、丁稚などの若い衆と一緒に山へ山菜採りにやってきたのでした。
雪はしだいにはげしくなり、舞の頬に突き刺すように吹きつけてきました。舞はこごえる手に息を吹きかけながら、それでもじっとしているのが怖く、また歩かなければよけい寒くなるので歩きに歩きました。身体のしんのしんまで冷えてくるようでしたが、雪嵐は容赦なく小さな舞に襲いかかってきました。舞は幾度となく倒れそうになりましたが、必死に歩き続けました。
と、その時、舞は突然、目の前に木のうろがあるのに気づきました。舞は急いでそのうろの中に入りました。中は幼い子どもには十分な広さでした。けれども、その中でじっとうずくまっていると、体はどんどん冷えていくようでした。寒くてたまらないのに、舞はしだいに眠くなってきました。寒さの中で眠り込むとそのまま死んでしまう、という話を聞いたことがありました。もう自分はこのままほんの七つで死んでしまうのだろうか、と舞はふと思いました。
その時、舞はうろの外で何かが動く気配を感じました。その何かが顔を覗かせると、目が光っているのが分かりました。それは狼の子どもでした。舞がぎょっとしてたじろぐと、狼の子どもも、また驚いたように後ずさりしました。舞と狼の子どもは、お互いうかがうようにしばらくみつめあいました。やがて狼の子どもは、「クォーン」と悲しそうな泣き声をあげ消えていきました。舞ははっとなって、急いで入り口のところへいきました。降りしきる雪の中を、狼の子どもはとぼとぼと去っていこうとしていました。
「待って!」
大声で舞は呼び止めました。狼の子どもは振り向き、心細そうな眼差で舞を見ました。
「おいで! こっちへおいで。だいじょうぶ、まだ入れるよ」
まさか、人の言葉が通じた訳ではないでしょうが、気持ちは通じたのでしょうか。狼の子どもはおそるおそる戻ってきたのでした。寄ってきて舞を見上げる目が意外にかわいらしかったので、舞は狼の子どもの頭を撫でうろの中へひきいれました。
雪嵐がヒューヒューとうなり声をあげています。外はもうすっかりまっ暗になっていました。しかし、舞がふと気づくと、うろの中はなぜか、少し薄明るいのです。すぐにそれは銀色に輝く狼の子どもの体毛のせいだと分かりました。その体毛は青味を帯びた美しい白銀色に光っているのでした。
狼の子どもは寒いのか、舞に体をすり寄せてきました。
「お前も親にはぐれてしまったの?」
舞は狼の子どもの体に手を回し抱きしめました。初めは雪で濡れていたため冷たかったのですが、しっかり抱き合っているとだんだん体温が伝わってきて舞の体はあたたかくなってきました。それはおそらく狼の子どもにとっても同様だったでしょう。あたたまってくると、舞はまたしだいに眠くなってきました。そして、深い眠りの中におちていったのです。
どのくらいの時が経ったでしょうか。舞はふと自分が呼ばれたような気がして目をさましました。うろの外はまだ小雪がちらついていましたが、すっかり明るくなっています。隣りで寄り添っている狼の子どもが、小さなうなり声をたてていました。
「舞! 舞!」
「お嬢さま! お嬢さま!」
微かにですが、遠くから確かに舞を呼ぶ声が聞こえました。
「あ、父さまの声だ」
舞はぱっと目を輝かせ起き上がりました。
舞が急いでうろの外へ出ると、遙か下の方に銀右衛門を先頭に大番頭の忠兵衛や中番頭の喜作、その他十数名の男たちの姿がみえました。
「父さまあー!!」
舞は大声で叫び、手を振りました。銀右衛門の方でもやっと舞に気づき、笑って手にしていた杖を高く振りました。銀右衛門は若い時足を怪我したため、それ以来杖を手放せないようになっていました。しかし、それ以外は大柄で頑丈な体躯でした。昨夜は一晩中、必死に山中を捜し回ったのでした。
後から、狼の子どもも外に出てきましたが、舞の様子から相手が敵ではないことをすぐに分かったようでした。こうして舞は無事、家へ帰ることができたのです。
お久は、舞が凍死してしまったのではないか、と一晩中家で心配していましたが、無事舞が戻ってきたのでほっと安心しました。
この後、その狼の子どもを飼うかどうかが大問題となりました。狼の子どもを飼うことに反対するその筆頭は、高津屋に長く働いている大番頭の忠兵衛でした。忠兵衛は髪が白くなりはじめた初老の男です。忠兵衛はきびしい口調でいいました。
「子どものうちはいかにかわいらしくみえても、狼は狼でございます。大きくなれば、いずれその本性をあらわしましょう。狼を飼うなど危険きわまりません。特に銀色の狼は後に大きな災をもたらすという不吉な言い伝えがあります」
銀右衛門も忠兵衛の忠告を聞き入れ、初めは狼の子どもを山へ返そうと思いました。けれども愛娘の舞が狼の子どもと別れたくないといって、家においてくれるよう銀右衛門に必死に懇願するのでした。狼とはいってもこの狼はただの狼ではありません。狼と出会わなければ、舞は凍死してしまっていたでしょう。銀右衛門にとっては、愛娘の命を救ってくれた大恩ある狼です。
結局、狼の子どもはしろがね(白銀)と名づけられ、銀右衛門の家で飼われることになりました。いわば番犬というか、用心棒というか、そういう役割をしろがねは期待されたのです。庭に大きく立派な小屋がつくられ、しろがねはそこに住むことになりました。首輪や鎖などは一切つけられず、屋敷の中を自由に歩き回ることができました。また場合によっては、部屋に上がることも認められました。
こうして、舞と狼の子どもしろがねは順調に育っていきました。
舞はなかなかお転婆でした。舞はよくしろがねの背にまたがって、どこまでも遠くへいきました。しろがねも舞を背に乗せ、野を山を疾走するのが大好きでした。その様子は遠くから見ると、まるで空を飛んでいるようでした。正月には、走るしろがねの背に乗って、舞は凧あげをしたりしました。
また、しろがねはとても勇敢でした。熊が食べ物を求めて人里に下りてきたことがありました。その年は天候が不順で、山の木の実などが特に不足していたのでした。
その日、銀平は庭に敷いたゴザの上で、一人で日向ぼっこしていました。少し離れた縁側にお久が座っていたのですが、ついうとうとと居眠りをしてしまっていました。突然火のついたような銀平の泣き声が聞こえました。驚いてお久が目を開けると、大きな熊が銀平に襲いかかっていました。思わずお久は悲鳴をあげ、素足のまま地面に駆け下りると、とっさに近くにあったほうきを取り上げ熊に殴りかかりました。熊は怒って「ウォーッ」とうなり声をあげ、お久の方を向き仁王立ちになったのです。お久は恐怖の余りその場に失神してしまいました。
と、その時でした。しろがねが現れ、矢のような速さで、自分の倍以上の大きさの熊に敢然と体ごとぶっつかっていったのです。しろがねは熊の手といわず足といわず体中に噛みつき、噛みつくとすぐ退き、退くとすぐにまた攻撃に転じ噛みつきました。銀右衛門や番頭たちが駆けつけた時には、すでに熊はしろがねに追い払われしっぽを巻いて逃げていくところでした。
銀平が手足に軽い怪我をして泣いているのをみると、しろがねはその傷口をなめてあやしてやりました。一方、お久はすぐに気を取り戻しました。
この頃からか銀平は、しろがねを「兄ちゃん」と呼ぶようになっていました。舞としろがねと銀平との三人で遊ぶことも多くなりました。実際に三人というのが適切な感じがするほど、しろがねは利口でした。人の言葉を話すことはできませんが、理解はしているようでした。人の中で暮らすうちに自然に覚えてしまったのでしょう。ですから三人で歌留多や双六をやって遊んだりすることも多かったのです。
そして、何年かの歳月が流れました。舞は十五歳となり、三国一と噂されるほど美しい娘に成長していました。また、しろがねはますます力強いりっぱな牡狼に成長していました。舞としろがねは、まるで人間の恋人同士のように想い合っているようにもみえました。
大番頭の忠兵衛の心配していたことが、しだいに現実味を帯びてきていたのです。忠兵衛は舞を早く嫁がせるように銀右衛門に進言しました。
この頃、銀右衛門のような豪商の娘の場合、同じような豪商の息子のところへ嫁いでいくのが一般的でした。あるいは例外ですが、奉公人の中のこれは、と思う若者を婿とすることもありました。ですが、高津屋の若い衆の中には、銀右衛門の目にかなう者はいませんでした。舞自身も自分の将来について考えてみることもありました。このままいけば、同じような豪商の息子のところに嫁入りすることになるのでしょう。しかし、それよりも野山を駈け回ってすごすような生活ができたらと、舞は内心思っていました。
銀右衛門は、お久、忠兵衛とともに、舞の縁談について話し合いました。その結果、例年行われている集団見合いの場に舞を参加させることにしたのです。それは大きな客船を借りきって、豪商の息子や娘たちが泊まりがけで瀬戸の海を旅行するというものでした。
舞はその集団見合いの場に参加することに、余り乗り気ではありませんでした。いつも一緒だったしろがねと離れることも気がかりでした。けれども、この頃十五歳という年齢は、娘はそろそろ結婚を考えねばならない時期だったのです。舞はしろがねが人間の若者だったらと、思わずにはいられませんでした。しかし、それはどうしてもかなわぬことだったのです。また、この頃、親が娘に見合いしろといえば、それはまず拒めぬことでした。一方、舞自身の心の奥でも、もしいい出会いがあればと、全く考えない訳ではありませんでした。しろがねと自分との間に明るい未来が開けているとも思えません。
舞は中番頭の喜作に連れられ、銀右衛門やお久たち皆に見送られ家を出ました。喜作は三十代前半ですが、熱意を認められ先年中番頭に昇格したのでした。まだ独身でした。
その時、しろがねは見送りに参加せず、小屋の中でふて寝していました。舞は後ろ髪をひかれる思いで出かけたのです。
舞は中番頭の喜作とともに船に乗り込みましたが、余り気は晴れませんでした。豪商の息子や娘たちには皆、番頭などが付け人としてきていました。船にはその他、船頭や料理人なども乗り込んでいました。
広い船室に集まり、皆で夕食です。夕食は白米の御飯に尾頭付きの鯛と豪華でした。夕食後、一人一人簡単な自己紹介をしました。その後、皆、何かしら歌を歌うことになりました。舞は余り気が進まなかったのですが、自分の番になった時、しかたなく流行り唄「雪嵐恋唄」を歌いました。その頃、江戸や大坂の巷で流行っていたのです。
「雪嵐恋唄」
雪嵐の夜
私たちは迷子になった
雪嵐の夜
私たちは出会った
夜は冷たく怖い
雪は吹きつけ
風はすさまじく
私は一人
あなたも一人
でも
私たちは出会った
すぐそこにみえた三途の川
出会わなければ私たちは
でも
私たちは出会った
だから
雪の日も
嵐の日も
二人でいこう
どこまでも どこまでも
一緒にいこう
いつまでも いつまでも
一通り歌い終わった後、皆で甲板に出ました。夜空には白い満月が浮かび、星々はさんざめいていました。
舞にもいい寄ってくる若旦那がいました。材木商河内屋栄三郎の一人息子栄太でした。栄太はやや太めですが、美男でした。
「舞さん、あなたの顔は今宵の月のように静かで美しい。また目は星のようにキラキラ輝いている」
舞は思わずぷっとふき出してしまいました。しかし、栄太はいたって真面目な顔で、
「どうです? 私のお嫁さんになってくれませんか。私と一緒なら必ず幸福になれると思いますよ。おカネもいっぱいあるし」
「でもね、私にはもう好きな牡がいるのです」
この頃、庶民の間では、自分の恋人のことを牡、牝といういい方が流行っていました。しかし、それは品のないものいいだったので、上層の人々は決して使ってはいけない言葉でした。二人のやりとりを暗がりから喜作がじっとみていました。それでも栄太はめげませんでした。
「でもね、好きとはいってもどうせたいしたことはないのでしょう? そうでなければこんなところにはこないはず」
「いいえ、そんなことはありません。親のいいつけでしかたなく」
「ということは、どうせやっぱりその男とは夫婦にはなれないということ。それならいっそのこと早くあきらめてしまったほうがみんなのため」
「そんなに簡単にあきらめられるようなありきたりの牡ではないのです」
「どんな牡だというのです?」
そう聞かれ、舞は少し当惑してしまいましたが、すぐに、
「その牡はとても勇敢で強いのです。何年か前、私の弟が熊に襲われた時、自分の倍以上も大きい熊に一人で素手で向かっていき、噛みついたりして撃退してしまったのです」
「ふーむ……? 素手で、そして噛みついてね?」
栄太はいぶかしそうに舞をみつめました。
「お嬢さま、もうその辺で……」
喜作でした。喜作は舞を連れ、船底への階段を下りていきました。栄太は舞の後ろ姿を未練げに目で追っていました。
その後、娘たちは娘たちで、また息子たちは息子たちで、別々の寝室で寝たのです。
娘たちは娘たち同士で、「私はあの若旦那が……」などといって、皆楽しく話が盛り上がったのでした。しかし、舞はなかなかその輪の中に入れませんでした。
夜はだんだん更けていきました。満月の前を雲が飛ぶように流れていきました。しだいに荒くなってくる波の上を、小舟が矢のような速さで舞たちの客船に向かって走っていきます。客船に寄せると、小舟の中から刀を背負った十名ほどの屈強の若い男たちが次々と現れました。男たちは先に鈎のついた綱を客船のへりに投げつけひっかけると、我先にと綱をよじ登り、客船に乗り込んでいったのです。近年、瀬戸の海に頻繁に出没するようになった海賊でした。
次の日、空が白々と明るみかける頃、銀右衛門はしろがねのうなる声と、表門をどんどんと叩き、「お頼み申す」という大声で目をさましました。何か大事が起こったのか、それともただのいたずらか、と銀右衛門はいぶかりながらも起き上がりました。玄関を開けると、いきなりしろがねが飛び込んできました。口に何かくわえています。寄ってみると、それは文でした。銀右衛門は急いでしろがねから受け取り開いてみました。それは海賊たちが客船をのっとり舞たちを人質として預かっている旨がしたためられた脅迫文だったのです。娘を無事返してほしければ一万両払えという内容でした。払わなければ命の保証はないと書いてありました。
物音を聞きつけて、お久や番頭たちも起きてきました。銀右衛門はその脅迫文をお久や忠兵衛にみせ、どう対応するか一緒に考えました。一万両といえば千両箱で十箱分のかなりの大金です。しかし、それは銀右衛門にとって払おうとして払えない額ではありません。金はまた一生懸命働けばできるでしょう。銀右衛門は一万両は払わねばなるまいと覚悟しました。人質となった豪商の息子や娘たちは皆で十名ほどいたので、海賊たちは合計十万両もの大金を狙っているのか、とも思いました。
また、銀右衛門は他の豪商たちとも連絡をとった方がよいだろうと思い、すぐに店の丁椎たちを、他の豪商たちのもとへいかせ、銀右衛門の家へ集まってもらうことにしました。
するとやはり、他の豪商たちのところへも同じような脅迫文が届けられていることが分かりました。おそらく一味の者が脅迫文を配ったのでしょう。他の豪商たちに対する要求も、皆一律一万両でした。他の豪商たちにとっても一万両は大金でした。しかし、我が子の命にはかえられません。ともかく各一万両ずつを支払わねばなるまいということに話はおちついたのでした。金の受け渡し場所は、海峡を出たすぐのところと、脅迫文の中に書いてありました。
朝日が東の空からぐんぐん昇り始めていました。海賊たちにのっとられた船では、豪商の息子たち、番頭たちなど男たちは皆、麻縄で縛り上げられ、また娘たちはそのままで甲板に座らされていました。海賊はひげ面で、刀を背に負った屈強の若い男たちでした。その中でも中心人物らしい頑強な体躯の男が前に出て大声で話し始めました。
「みんな、これから俺の話を聞いてもらう。まず、俺たちの名を名のろう。俺は太郎丸だ。
次に隣は……」
太郎丸に促され、隣の男は「次郎丸」と名のりました。背が高く痩せた男です。続いて「俺が三郎丸」「四郎丸」……などと次々に名のっていったのです。十郎丸までありました。十郎丸は背丈はそこそこありますが、まだ身体が細く、顔にはあどけなさが残っていました。太郎丸と顔立ちがよく似ていました。
その後、太郎丸と名のった男がまた続けました。
「お前たちは皆、俺たちの人質になっている。お前たちが裕福な大商人の息子や娘たちだということはすでに調べて分かっている。他に店の番頭たちなどもいるようだが……。お前たちの各々の親に身代金を要求している。もし身代金が支払われなければ、もちろんお前たちの命はない」
舞など皆、青くなりました。太郎丸はふっと笑って、
「だが、心配しなくていい。我が子の命のために金を出し惜しみする親はなかろうからな。それにお前たちの親にとっては大した額ではないだろう。以前、他のところで人質をとった時にも、金持ちは我が子のためにとちゃんと金を払ってくれた」
太郎丸の話が一通り終わった後、舞たちは皆、そのまま甲板の上に放っておかれ、そこに何人かの監視がつきました。
船は小島や大きな岩の間をすりぬけ、波をかきわけぐいぐいと進んでいきました。
その日の昼下がり、情報を洩れしった藩の城代家老坂崎時保から、豪商たちに呼び出しがかかりました。
銀右衛門など豪商たちは中庭の白砂に敷かれたゴザの上に座らされ、時保から直接話を聞かされることになりました。周りには屈強の武士が控えていました。一体どんな大切なことが話されるのだろうと、銀右衛門は緊張しました。時保は四十代後半の背の高い精悍な感じの男です。藩主の信頼も厚いといわれていました。時保が口を開きました。
「皆の衆、わざわざ御足労願い誠に御苦労である。本日ここに来てもらったのは他でもない。皆の子どもたちが海賊どもの人質となり身代金を要求されている件だ。そなたたちの心情は痛いほどよく分かる。だが──」
皆、しんとして聞いていました。
「身代金を払うことは、断じて相ならぬ」
豪商たちはおどろいて顔を見合わせ、またため息を洩らしました。
「なぜ!? なぜでございます?」
銀右衛門は叫ぶように、また懇願するように時保へ尋ねました。
「海賊どもが人質をとって身代金を要求してきたのは、これが初めてではない。半年ほど前にも、隣国で同じようなことがあった。ところがその時、隣国では海賊の要求通り多額の身代金を支払ってしまった。たしかに人質は無事戻ってきたが……」
豪商たちは皆、食いいるように時保をみつめていました。
「御家老さま! お願いでございます!」
それまで黙ってじっと聞いていた豪商の一人、材木商の河内屋栄三郎が時保の前にぱっと飛び出してきて両手をつきました。
「御家老さま、五千両、いえ、一万両藩へ献金いたしましょう。昨今は藩の財政も逼迫していると聞いております。何とぞそれで……」
栄三郎は時保の返事を待たずに、すぐに他の豪商たちの方を振り向き、
「な! 皆の衆、みんなもどうか藩へ一万両ずつ……。頼む」
豪商たちは銀右衛門をはじめ、皆肯き、栄三郎に同意したのでした。しかし、時保はかたい顔をくずさず、
「たしかに今、藩の財政は苦しい。だが、そなたたちからの筋の通らぬ金を受けとる訳にはいかぬ。よいか、ここで奴らの卑劣な要求を受け入れれば、また極悪な海賊どもは同じことを繰り返すだろう。わしはこの連鎖をどこかで断ち切らねばならぬと思っている。そのためには何とかして海賊どもを全滅させねばならぬ」
豪商たちは皆、青くなって聞いていました。
「しかも、今回要求してきた身代金の額は、前回の隣国の時より増えておる。奴らに味をしめさせてはならぬ」
「御家老さま、それではわしの息子は一体……………!?」
と、いいながら栄三郎はその場に泣き崩れました。時保はふうっと大きなため息をつき、
「やむをえぬ、あきらめてくれ。そなたたちの子を思う気持ちは尊い。わしにも子があり、親としてそなたたちの心情は痛いほどよく分かる。だが──」
時保は厳しい眼差で豪商たちをみつめ、
「だが、断じてならぬものはならぬ。海賊どもに身代金を払うことは、一切相ならぬ。もし万一破る者があれば、誰であろうと容赦なく重罪に処す」
と、きっぱりと言い切ったのでした。銀右衛門は自分の気持ちを抑えながら尋ねました。
「御家老様、ではどうするおつもりですか? 身代金を払わずに、どのようにして我が子たちを?」
「どうするかはこちらで考える。そなたたちは何もしなくてよい。また余計なことをしてはならぬ。これは藩の命令である」
と、時保はきびしく申し渡したのでした。
その後、銀右衛門たちはとぼとぼと帰ってくるより他ありませんでした。
その頃、舞たちをのせた船は金の受け渡し場所となる海峡へと向かっていました。舞たちは甲板の上に座らされていました。
その時、「あ、助けだ!」という声があがりました。栄太でした。舞は思わず立ち上がり栄太の視線のほうを見ました。小舟がかなりの速さで近づいてくるのが見えました。舞は自分たちを救出しにやってきてくれたのか、と思いました。小舟は近づいてくると、ますますその速さを増すように思えました。小舟には数名の男たちがのっていて力強くろを漕いでいるのでした。ふと気づくと、船上の海賊たちはその様子をみて、慌てるどころか、むしろ歓迎しているようです。
舞も皆、やっと気づきました。小舟の男たちは海賊たちの仲間だったのです。案の定、船がより近づくと、男たちは刀を背負っているのが分かりました。
男たちは、脅迫文を豪商たちの家に投げ込んだ後、太郎丸たちと、この船でおちあうことになっていたのでした。
「おいら、十郎丸ってんだ」
甲板の手すりから海をながめていた舞に、監視役の十郎丸が話しかけてきました。
「さっき聞いたわ」
「そうかい。お前の名は?」
「舞。蝶が舞う、の舞よ」
他の海賊たちは皆ひげ面でしたが、十郎丸は鼻の下にうっすらとうすい毛が生えているだけでした。十郎丸は太郎丸の弟でした。
「ねえ、十郎丸」
舞は自分よりも年下にみえ、人のよさそうなこの少年から色々聞き出してみたいと思いました。しかし、十郎丸はそくざに、
「呼びすてにすんなよな。お前なんか人質のくせに」
「ふうむ……? そんなこというんだ。じゃあ十郎丸さま」
「まあ、さまはちょっと………」
「本当の名前教えて」
「………え!?」
十郎丸は少し慌て、
「本当の名前はちょっといえないけどな」
「そう……。私は本当の名前いったのに」
舞はしばらく海をみていましたが、
「ねえ、どうしてこんなことするの?」
「どうしてって、お前たちは自分たちは別に何も悪いことなんかしてないって思ってるだろうけどな」
「…………」
「兄貴がいってたけど、お前たちの親はみんな悪党なんだ。本当は大悪党なんだってさ」
舞は少しカチンときて、
「どうして大悪党なんていうの?」
「お前たちの親は、米や材木を買い占めて、値段を高くつりあげたりして大もうけしてるっていうじゃないか」
「それって、そんなに悪いことなの?」
「決まってんじゃないか。兄貴がいってたけどな。飢饉の時なんかに、米を買い占めてボロもうけするなんて、真人間のやることじゃないってさ。米の買えない奴は飢え死にする他ないんだぜ」
自分の父親もそんなことをしているのだろうか、と舞はふと思いました。しかし、一方こんな年端もいかない少年にいろいろ一方的に親の悪口をいわれ、余り面白くありませんでした。
「でも──」
と、舞はいいました。
「でも、何だよ!?」
「でも、それじゃあ、あんたたちのやってることは、真人間のやることなの? 私たちを人質にとって親から大金をふんだくろうとしてるんでしょう?」
「そりゃあ、」
と、十郎丸は少し口ごもり、ちょっと考えてから、
「でも、それはそんなに悪いことじゃないと思うよ。お前たちの親の悪さに比べたら。お前たちはそんなにいい着物着て、うまいもの食ってんだろうけど、俺たちはこんなことでもしなけりゃあ、ちゃんと食っていけねえんだぜ」
「一体、どんな暮らししてるの?」
「俺たちはふだんはここから遠く離れた小島で暮らしてるんだけどな。田畑で稲や野菜つくったり、海へ漁へいったり………」
「陸地と海とで両方で稼いだら、普通の人たちの倍もうかるんじゃないの?」
「ばか。もうからないから両方やるんじゃないか。田畑のしごとっていったって、山の斜面、切り開いて段々畑にしただけだから、狭いし、土地はやせているしよ。海に漁へいってたくさんとれる場所めっけても、遠けりゃあ、もってくるまでに腐っちまう」
舞は実際のことはよく分からないので、そんなものなのか、と思いました。
「それに」
と十郎丸は続けました。
「俺たちは自分たちが食べるためにだけで、こんなことをするんじゃないんだ」
「どういうこと?」
「俺たちの夢はもっとでかいんだ。兄貴がいってたけど、世の中を変えるんだってさ。たくさんの金で人や武器を集めてお上を倒して、もっと良い世の中にするんだって」
「今の世の中って、そんなに悪い世の中なの?」
その時、
「十郎丸!」
と、鋭く咎めるような声がしました。振り向くと、少し離れた後ろに次郎丸が立っていました。
「人質とべらべらしゃべってるんじゃねえ!」
十郎丸は首をすくめました。次郎丸がぞっとするような限差で、二人を睨みつけていました。
銀右衛門は城から戻った後、お久や、番頭、奉公人たち皆を集め、どうしたら娘の舞を救えるか、相談していました。
と、その時でした。偵察に出していた丁稚が息せききって飛びこんできました。
「旦那さま、大変です。御家老やお侍たちが………」
「どうした?」
「いま、海峡の方へ大砲を……」
「何だと!?」
銀右衛門は時保が下した決断が分かりました。時保の決断は即ち、大砲を撃って船ごと海賊たちを人質もろとも海に沈めてしまおうという作戦にちがいありません。
海峡の手前は海底がすりばち状に深くなっているため、流れが速く海中にひきこまれやすいのです。またあの辺りは小島や大きな岩が多く、海流と海流がその小島や岩を回りこんでぶつかり、互いが互いをひきこむようにして沈み込むため、海に落ちて助かる者はまずいないでしょう。実際、そこで溺れたり入水したりした者で助かったという話は聞いたことがありません。自殺の名所ともなっていました。
銀右衛門は急いで杖を手に外へ飛び出していきました。銀右衛門は杖をつき足をひきずりながら、必死に 海峡へ向かいました。後から忠兵衛たちも続きました。
坂崎時保を先頭に、馬には大砲をのせた台車を曳かせ、何十名もの武士たちが海峡へと向かっていくところでした。
銀右衛門は時保の前へ出ると、杖を捨て道端に土下座し、
「御家老さま………!」
と、呼びかけました。時保は厳しい表情で銀右衛門をみて、
「何だ、高津屋」
「一体どうなさるおつもりですか?」
「見れば分かろう。海賊どもを全滅させるには船ごと撃沈させるのが、一番確実な方法なのだ」
「しかし、御家老さま、それでは娘の舞が、いや人質の皆が死んでしまいます。高津屋一生のおーいでございます。何とぞ船に砲弾を撃ち込むなどということは……」
「やむをえまい。高津屋、お前は自分のことしか考えていないのか。海賊どもに身代金を渡し、奴らにやりたい放題やらせたら、世の中は一体どうなる? また、我らが船にのりこみ戦ったとしても、それで人質の命が助かる訳ではなかろう。その方が多くの犠牲者が出よう」
「…………」
「お前にとって娘の命が大切なのはよく分かる。だが、そのために悪党どもを生かしておけば、後で多くの人々が苦しむことになる。それにこの件については、もう殿の許しも得ておる。わしには海賊どもを退治せねばならぬ責務があるのだ」
「御家老さま、そこを何とぞ」
「くどい。急がねばならぬ。そこをどけ」
側にいた武士が刀に手を掛け、銀右衛門を睨みつけました。こうして、銀右衛門はひき下がらざるをえなかったのです。
その後、銀右衛門は家へ戻ると、再び店の者を全員集めました。そして、今の状況を話した後、
「みんな、お願いだ。舞を無事助け出してくれ、そのためには手段を選ばぬ。どんなことをしてでもいい」
皆、熱心に聞いてはいましたが、率先して救出にいこうとは誰もいい出しませんでした。しろがねも隅のほうで熱心に聞いていました。銀右衛門は皆を見回し、
「そうだ、若い者たち皆で力を合わせ助けにいってはくれまいか。武器は知り合いの商人にかけあってなんとかしよう」
そういわれても、若い衆たちは皆尻ごみしました。武士とちがって刀、槍などの扱い方をしりません。また、これから十分な武器を準備できるでしょうか。しかし、他の豪商たちの所の若い衆なども集めれば人数はかなりのものとなるでしょう。銀右衛門はわらをもつかむ思いで必死になって話しました。
「舞が無事戻ってきたら金をやろう。一万両出してもいい。それを働きに応じて分配しよう」
日頃はけちにみえる銀右衛門がそういい出したので、皆驚きました。しかし、それでも率先して救出へいこうという者はいませんでした。戦いに慣れた海賊たちと戦って果たして勝ち目があるでしょうか。いくら多額の金を貰っても命を失ってしまっては、元も子もありません。銀右衛門はさらに、
「いや、金ばかりでなく、そうだ、舞を嫁にやろう。一番の働きをした者に舞を嫁にやる」
店の若い衆の中には何人も舞にあこがれている者がいるということを銀右衛門はしっていました。ですから、それを聞いて目を輝かせる者もいました。
「そればかりではない。この店からのれん分けし、自分の店を出させてやる。その後も、この高津屋銀右衛門が、ちゃんと面倒をみてやろう」
店に奉公にきている若い衆たちの夢は独立して店を出すことでした。あこがれの舞を嫁にでき、その上、のれん分けまでしてもらえるというのです。それは若い衆たちにとっては願ってもないことでした。しかし、それは殺されるかもしれない命がけの危険と隣り合わせでした。いったんは目を輝かせた若い衆たちも、また目を下へ落としたのでした。その時、突然お久が叫ぶようにいいました。
「このいくじなし!! 全く、どいつもこいつも………。日頃は大旦那に面倒みられっぱなしで、この大事を引き受けようっていう胆のすわった者は誰もいないのかい!? 毎日、腹いっぱいめしが食べられるのは誰のおかげだい」
しかし、若い衆たちは皆、肩をすぼめ、ますます下を向いてしまうばかりでした。
「こんな良い条件なんて二度とないんだよ。情けないったらありゃしない」
いい終わると、お久は目をむき失神し、その場に倒れ込んでしまいました。銀右衛門は少し驚きましたが、どうせいつものことなので、その場にお久を寝かし、その場にあったざぶとんを、枕のかわりにお久の頭にあてがいました。
と、その時でした。低いうなり声がしました。それはしろがねでした。銀右衛門はぎょっとなりました。しろがねは一生懸命しゃべろうとしているのでした。ですが、なかなかそれは人の言葉とはならず、くぐもった聞きとりづらい声でした。けれども、それはしだいに人間らしい声になっていったのです。
「俺が……俺が舞を救い出す。俺が命がけで舞を必ず救い出してみせる」
初めくぐもったようだった声は、しだいに聞きとりやすい声になっていきました。それは若い男の張りのあるりりしい声でした。ついに奇蹟が起こったのです。皆、驚いてしろがねの方を見ました。
「俺は金も何もいらん。ただ舞を俺にくれればそれでいい」
銀右衛門は日をむいたままじっとしろがねをみつめていましたが、背に腹はかえられません。すぐに、
「分かった。もし、舞を無事救い出してくれたら、舞をお前の嫁にやる。男の約束だ。二言はない」
といいきったのでした。その言葉を聞くと、すぐにしろがねは呆然としている皆をしりめに、疾風のように外へ飛び出していきました。
一方、坂崎時保の一行は、海峡のみえる浜辺にやっと着いたところでした。海賊たちはまだ海峡を通り過ぎていないようなので、一応ほっとしました。何としてもこの海峡の手前で船を撃沈させねばならない、と時保は思いました。海峡を無事通り過ぎてしまえば、水の流れは遅くなり大きな岩もなく、海は広くおだやかになり、海賊たちは逃げのびやすくなってしまいます。
こうして時保一行は、客船が来るのを今か今かと手ぐすねひいて待っていたのでした。
しろがねは丘を越え野をぬけ海峡へと、道なき道を矢のようにまっしぐらに駆けていました。雪嵐の夜、初めて舞と出会って以来、舞のことを想わない日は一日たりともありませんでした。舞とのさまざまな記憶の断片が、しろがねの脳裏に次々と蘇りました。
陽は西へ傾きかけていました。
坂崎時保一行はすでに浜辺に到着し、大砲を海に向け、客船がくるのを待ち受けていました。砲手はまだ若いのですが、南蛮人の専門家から直接大砲の操作を教わった名手でした。
陽はしだいに落ちてきていました。空はいつのまにか雲が湧き、また風も冷たく吹き始めました。
時保は舶来の望遠鏡を目に当て、じっと海の彼方を見ていました。皆、無言で緊迫した時が流れていきました。
「来たぞ!」
時保が小さく叫びました。はるか彼方の小島のかげから客船が、小さくですが確かにその姿を現したのでした。時保は何が何でも海賊どもを、ここで海に沈め全滅させねばと思いました。皆、時保の見ている方へ目をこらしました。客船は徐々に肉眼でも小さく見えるようになってきました。
「届くか」
「いましばらくお待ち下さい」
砲手が答えました。
その頃、銀右衛門はお久や忠兵衛たちと一緒に、海峡へと向かっていました。もはや時保の行動を止めることはできないでしょう。しかし、しろがねが何とか舞を助け出してくれるかもしれません。だが、どうやって? 銀右衛門はいたたまれない気持ちでした。
「撃て!」
時保は頃合いを見計らって命じました。すさまじい音がしたと思うと、砲弾は客船をめざしシュルシュルッと一直線に飛んでいきました。
しかし、砲弾は客船をわずかに飛び越え、その後方へ落ち水しぶきが上がりました。時保は唇をかみしめ、
「もう一度!」
「はい!」
砲手はかなり腕はよいはずですが、客船はかなり遠くの沖合いを進行し、またその速さも増していました。
夕闇の迫る中を、客船はその速さを増し進んでいきました。海峡が近づいてきたのか、潮の流れが速くなり、船の速度がさらに増しました。
と、その時、シュルーッという音がしたとみると、何かが船の上を飛び越し、後方の海面に大きな水柱が立ちました。舞は一瞬、何が起こったのか、分かりませんでした。海賊たちも慌てだしました。太郎丸が叫ぶように、
「もっと帆をあげろ」
帆が高く上げられ速度がまたいっそう増しました。
舞は立ち上がり海賊たちの見ている方向を見てみると、遠くの浜辺に武士たちらしい人影と大砲が小さく見えました。人質ごと船を沈めてしまおうという作戦に出たのは海賊たちにも想定外でした。身代金の話は一体どうなったのでしょう。舞には大商人の親たちが身代金の要求を拒むとは思えませんでした。とすれば、何か他の事情が生じたのでしょうか。そんなことを考えていると、ドカンと音がして船が大きく傾き、舞は投げ出され甲板にたたきつけられました。船尾に砲弾が命中したのでした。進む方向が浜寄りへ大きくねじれ、船尾からは炎があがりました。
「やったぞ!」「万才!」など、時保たちからは歓声が上がりました。砲手は二発目が命中したのでほっと胸をなでおろしました。船の進む速度が落ちました。そうなれば三発目、四発目を命中させるのが容易になります。時保は砲手の肩をたたき、
「よくやった。この調子でどんどん撃て」
砲手は晴れがましそうに肯き、また導火線に火を点けました。
一方、銀右衛門は砲弾が船に当たるのを見て、思わず悲痛なため息を洩らしました。銀右衛門たちは、同じ浜辺の時保たちからは離れたところで状況を見ていたのです。他の豪商たち、そこの番頭たちなども来ていました。
その頃船の方では、着弾した時転んでいた次郎丸が起き上がり、すさまじい形相で叫びました。
「殺せ! 人質たちを殺せ!」
それを合図のように、海賊たちは次々と抜刀し、人質たちに向かってきたのです。人質たちは逃げまどい、悲鳴が湧き起こりました。ふと見上げると、舞の前にも刀を振りかぶった海賊がいました。十郎丸でした。舞は殺されると思い、思わず目をつぶりました。一瞬の後、舞がこわごわ目を開けると、十郎丸は刀を振りかぶったまま固くこわばった表情で舞を見ていました。
「待て! 殺すな! 殺すんじゃない」
大きな声で叫ぶ者がいました。太郎丸でした。海賊たちは太郎丸の方を振り返り、人質たちを殺すのをためらったのでした。しかし、次郎丸は太郎丸に向かっていいました。
「太郎丸、こういう場合は人質を殺さねばしめしが……」
次郎丸はそういうと、なおも人質を斬り殺そうと向かっていきました。太郎丸はその前に立ちはだかって、
「待て! 次郎丸。いまさら人質を殺す必要はない。もう人質としての意味がないのだ」
船尾から上がった火の手は、風にもあおられしだいにその勢いを増していました。太郎丸は続けていいました。
「もういい。縄を切ってやれ」
こうして、人質たちは船の中では解放されたのでした。しかし、もちろん状況が好転した訳では決してありません。このままいけば海賊たちばかりでなく人質も全員、海のもくずと消える他ないのです。陽はすでに海の彼方に落ち、雲の切れ目からは星々が輝こうと待っていました。しかし一方、ちらほらと小雪が降り始めてもいたのです。
舞は結局もう自分は死ぬのが運命なのか、と思いました。十五年間という生涯は一体どのくらいのものなのか、舞自身にもよく分かりません。自分が死んでしまったら父や母はどう思うだろう。親より早く亡くなるほどの親不孝はないともいいます。また弟の銀平は? 自分が死んでも両親には銀平という男の子が残されているからまだいいのか、とも考えました。銀平が立派に成長し、ちゃんと店を継いでくれるでしょう。
またしろがねは? あの迷子になった雪嵐の日、もししろがねに出会わなかったら、その時凍死してしまっていたでしょう。ほんの七つで死んでしまっていたかもしれないことを考えれば、それよりは倍以上も生きられたのだから、十五年間という歳月は十分満足しなければいけない長さなのかもしれません。
舞はとりとめもなく、そんなことを考えていました。
その頃しろがねは海峡を見渡せる高い崖の上まで来ていました。彼方に舞たちの乗っている船が燃えているのがみえます。また崖の遙か下の方の浜辺には、数十名の藩の軍勢が集まり、大砲の筒先からは白い硝煙が立ち昇っているのがみえました。そこからまた離れたところでは、銀右衛門や他の豪商や番頭たちなど百名ほどが固唾をのんで様子をみていたのです。
「ウォーン!」
しろがねは自らを奮い立たせるため、雄叫びをあげました。その姿が夕闇の中に浮き立ってきた紅みを帯びた大きな満月に、くっきりと黒く映し出されていました。
しろがねは勢いをつけてから飛び出そうと、少し後戻りしました。それから、崖へ向かって一直線に走り出しました。しかし、崖の手前で急に止まってしまいました。しろがねは怯えた表情で「クォーン……」と心細げに小さく泣きました。しろがねはおそるおそる下を覗いてみました。波はとぐろを巻き逆まいています。冷たく暗い海面上には、ところどころ岩が鋭く突き出ています。しろがねの跳躍力は狼としても並外れています。しかし、まだ実際に空を飛んだことはありませんでした。
その頃、船の中は大混乱におちいっていました。火はしだいに燃え広がっていき、船は少しずつ沈み始めています。舞は他の豪商の娘や息子たちと一緒にひとかたまりとなって甲板の上で震えていました。
栄太は海賊たちの油断をみすまし、
「俺は泳ぎが得意なんだ。必ず助かってやる!」
と、舞たちにいうなり、甲板を駈けぬけ手すりを飛び越え冷たい海へ飛び込んだのです。
太郎丸の「やめろ! やめるんだ!」という制止の声も間に合いませんでした。舞は急いで甲板の手すりの方へいきました。下を見ると、栄太はすぐに海上へ浮かび上がり、早く船から離れようと抜き手をきって泳ぎ始めたのです。栄太は少し船から遠ざかりました。しかし、速い潮の流れが再び栄太の身体を船の方へ押し戻してしまうのでした。いったん船の方へ近づくと、船が沈んでいくためにできる水の流れが渦となって栄太を巻き込み、遂にその身体を船の下へと沈めてしまったのです。
「南無阿弥陀仏」
太郎丸は手を合わせました。それから誰にでもなく、
「もはや俺たちは助からない。覚悟しておくように」
と、はっきりいいました。それは自身に対する覚悟だったのかもしれません。
風が強くなってきたせいか、火の勢いもますます強まっているようにみえます。雪もちらちらと降り始めてきていました。舞も含め皆、炎からできるだけ離れたところへと移っていきました。けれども、どうせ間もなく船全体が炎に包まれ、海にのみ込まれてしまうのは明らかでした。
ドーンと大きな音がして、船が激しく揺れ、舞は危うく甲板から海へ投げ出されそうになりました。砲弾がまた船に命中したのでした。今度は船腹の下の方でした。しばらくすると、そこからも水がどんどん浸水してきました。その時、舞はしろがねの遠吠えを聞いたような気がしました。
しろがねは高い崖の上から、船が燃え上がり紅い炎が夜空を焦がすのを見ていました。遠くでドーンという音がしたとみると、また船に砲弾が命中したらしく、新たに火の手が上がりました。崖の下を見ると、また大砲の筒先からは白い硝煙が上がり、武士たちの歓声が聞こえました。
その時、しろがねは船の方から混乱におちいり逃げ惑う人々の、中でも舞の声をはっきりと聞いたような気がしました。
しろがねは覚悟を決めました。後方へいき、勢いよく助走をつけ崖へ向かって駈け出しました。そして、夜空へ、燃え上がる船の方へ、思いきり飛び出したのです。
「舞!」
しろがねは叫びました。しろがねは本当に宙を飛んだのです。舞に対する想いが遂に天にも通じたのでしょう。しろがねの飛ぶ勢いは増しこそすれ、決して衰えることはありませんでした。まさにまた奇蹟が起こったのです。暗闇の中を青味を帯びた白銀色の弧を描き、しろがねは船を目指して宙を飛んでいきました。それは遠くから見ると、青色の流星のようでした。
船がどんどん沈んでいく中で、炎は強い風にあおられますますその勢いを増していきました。人質たちも海賊たちも悲鳴をあげ、もはやてんでんばらばらに逃げ惑っていました。舞ももはや助かるすべはないと思いました。
と、その時、舞は「舞!」と自分を呼ぶ声を聞いたような気がしました。夜空を見上げると、小雪のちらつく月光の中をしろがねがこちらへ飛んでくるのがみえました。舞はただ呆然と、矢のような速さで飛んでくるしろがねをみつめました。しろがねは船に飛び下りると、すぐに舞の所へ駈け寄りました。
「舞! 俺の背中に乗れ」
舞はしろがねのしゃべる声を開いたのは初めてでしたが、別に違和感はありませんでした。むしろ昔からしゃべりあっていたような気さえしたのです。
舞はしろがねの背に乗ろうとして、ふと周りの視線に気づきました。豪商の息子や娘たち、また海賊の太郎丸たち、皆えもいわれぬ顔で舞としろがねを見ているのです。
「お嬢さま」
と、呼ぶ声がしました。振り向くと喜作でした。
「お嬢さま、私たちに構わず早くお逃げ下さい」
また、十郎丸とも目が合いました。十郎丸は潤んだような目で舞を見つめ、
「俺の本当の名は……」
と、いいかけた時、
「舞! 何してるんだ、急げ!」
しろがねが叫ぶようにいいました。舞が慌ててしろがねに飛び乗ると、しろがねはすぐに空へ飛び出しました。舞の長い黒髪が後ろへ後ろへと引かれるようになびきました。舞は目をつむり一度も後ろを振り返りませんでした。しろがねは舞を背に、疾風のように陸へ向かって飛んでいきました。舞の頬を風が冷たく切りました。
しろがねと舞が崖へ着き振り返ると、荒れる海の上で船は紅い炎をあげながら海の中へぐいぐいと引き込まれていくところでした。しろがねを抱きしめる舞の目に涙がにじんでいきました。雪は荒れ狂い、ますますはげしく降りつけてきました。
こうして舞は無事、高津屋銀右衛門の元へ戻ることができたのでした。けれども、海賊たちはもちろん他の人質たちも皆、結局誰一人助かりませんでした。
そうした或る晩、銀右衛門は奥座敷で火鉢を囲みお久や忠兵衛と重要な相談をしていました。それは舞を救出してくれたしろがねの処遇でした。いくら約束とはいえ、狼にかわいい一人娘をやる訳にはいきません。しろがねは早くちゃんと約束を果たしてくれと迫ってきていました。
一方舞は、自分はしろがねと夫婦になってもよいというのでした。いくら本人がそういっても、これはそう簡単に認められる問題ではありません。高津屋銀右衛門の大商人としての面子もあります。また、天と地がひっくり返っても、狼と人間の娘が夫婦になるなどということはないでしょう。しかし、また一方で銀右衛門はしろがねに「約束する。二言はない」とまでいいきってしまったことにひっかかっていました。忠兵衛はいいました。
「旦那さま、約束などというのは互いに借用できぬ者同士が、かりそめの安心を得たいがためにするものでございます。世の中には約束よりも大切な理がごまんとありましょう」
「…………」
「また世の中には守れない約束、いやもっといえば守らなくともよい約束というものもあるのではないでしょうか。約束など破ってこその約束」
行灯の灯がゆらりと揺れました。銀右衛門とお久は忠兵衛の話をじっと聞いていました。
お久が顔をひきつらせながらいいました。
「いっそのこと、しろがねを亡きものに」
「亡きものとは……!? 一体どうやってあのしろがねを?」
銀右衛門は驚いてお久をみました。
「トリカブトを用いてみては………」
トリカブトと聞いて銀右衛門ははっとなりました。トリカブトというのは草の一種ですが、その根には猛毒が含まれていました。それを食べ物に混ぜ毒殺するということが、十数年前にこの領国内でもあったということです。忠兵衛がいいました。
「しかし、奥様。狼は味覚、嗅覚にすぐれております。それではとても無理かと……」
「それに、お久。殺害しようとして、もししろがねに暴れられれば、こちら側にも死傷者が出るかもしれぬ」
「…………」
「また、もし毒殺、あるいはその他の手段での殺害に成功したとしても、それを舞がしったらどうなる?」
舞がそれをしったら大問題になることは間違いありません。何らかの方法で舞をだましたとしても、いつかは分かってしまうでしょう。それにしろがねには大恩があるのです。
銀右衛門はつぶやきました。
「しろがねが人間になれば、しろがねがりっぱな人間の男になってくれればなあ」
三人の話し合いはいきづまってしまいました。三人とも黙り込んでしまい、ただ火鉢の火だけがあかあかと燃えていました。
やがて忠兵衛が口を開きました。
「旦那さま、ここは私にお任せくださいませぬか」
「忠兵衛………?」
忠兵衛は世間をよくしっている聡明な男です。
「世の中には単なる約束以上の大切な理があることを話し、お嬢さまのことはあきらめるよう説得いたしましょう」
「できるのか?」
「必ず……」
銀右衛門は忠兵衛に任せてみようと思いました。
「そのかわり、うまくいった暁には……」
「分かっている」
「ありがとうございます」
忠兵衛は深々と頭を下げました。うまくいけばのれん分けしてくれるということです。
次の日の朝、縁側に銀右衛門、お久、忠兵衛、高津屋の若い衆たち、そして舞が居並び、その前の中庭にしろがねが呼ばれていました。空は晴れていましたが一際寒く、中庭には霜柱が立っていました。しろがねは状況をうすうす感じ、庭の中を白い息を吐きながら荒々しく走り回っていました。パリパリッという霜柱の踏みつぶされる音が響きました。一方、舞はよけいなことをしゃべらぬよういい含められていたので、ただじっと下を向いて縁側に座っていました。
銀右衛門が大きなよく通る声でいいました。
「しろがね。わしの話をよく聞いてくれ」
しろがねはようやく走るのを止め、不信の眼差で銀右衛門を見て、
「約束は約束だ。まさか約束を破るつもりじゃないだろうな? 命がけで舞を救ったのは誰だ? 俺は誰よりも舞のことを想っている」
「しろがね、お前には本当に感謝している。二度までも舞の命を救ってくれた」
「ごたくはいい。守れ、約束を!」
舞はじっと目をつむっています。銀右衛門は唇をかみしめました。
その時、銀右衛門に代わって忠兵衛がしろがねに語りかけました。
「しろがね、お前が真心からお嬢さまを愛しく想う気持ちはよく分かった。また、お前の立場に立てば、約束を守れといいたい気持ちもよく分かる」
しろがねは疑い深そうに忠兵衛を見ていました。
「だが、世の中には守ろうとしても、どうしても守れない約束というものがある。また約束以上に大切な世の中の理というものがあるのだ」
しろがねはうさんくさそうに聞いていました。
「好きだというだけでは夫婦にはなれぬ。たとえ人間であっても、お嬢さまを嫁にしようなどというのは並の男ではかなわぬ。誰にもそれぞれ分というものがあるのだ」
「…………」
「お前はお嬢さまの立場で考えたことがあるか? もし、お嬢さまがお前と一緒になったら、お嬢さまは明るい日の下を夫婦としてお前と一緒に歩けるか? お前のその姿を鏡に映してみるがいい」
「ウォーン!」
と、しろがねは怒って吠えました。忠兵衛はさらにたたみかけるように、
「しろがね、お前はそれで本当にお嬢さまのことを大切に想っているといえるのか!? 結局、お前は本当は自分を一番大切に考えているだけではないのか?」
舞はそういうやりとりを涙を浮かべて聞いていました。忠兵衛は諭すように、
「たしかにお前は並の狼ではない。空を飛び人の言葉を話す聡明な狼だ。本当にお嬢さまのことを大切に想うなら、どうすればいいのかよく考えてみろ。お前なら分かるはずだ」
しろがねは下を向きました。忠兵衛はさらに、
「どうしてもお嬢さまと一緒になりたいなら、人間になることだ。お前が人間になれば旦那さまも承諾するといっておられる」
忠兵衛のその言葉に銀右衛門も肯きました。
その時でした。
「兄ちゃん、人間になってよ。兄ちゃんならきっとりっぱな人間の男になれるよ」
銀平でした。ふだんならまだ布団の中でしたが、辺りのただならぬ様子に気づいて、後から出てきていたのでした。
「しろがね! 人間になって! そして一緒になろうよ」
目にいっぱい涙をためた舞が、しろがねを見つめていました。
しろがねは大空を仰ぐと、「ウォーン!」と、天地をゆるがすような激しいうなり声をあげました。しろがねの体毛は逆立ち、大きく波うちました。
銀右衛門も舞も皆、しろがねがりりしい若者に変身することを期待しました。そうなれば全てがうまくいくのです。しろがねはこれまでも二つの大きな奇蹟を起こしています。また奇蹟が起こっても何の不思議もありません。
しろがねは雄叫びをあげ、すさまじい形相で地べたをのたうち回りました。しろがねの白銀色の体毛は大きく波うち逆立ちました。また、地がぐらぐら揺れたように感じられました。しろがねは死に物狂いで何とか人間になろうとしたのです。
と、見ると──
しろがねの白銀色の体毛はどんどん抜け落ち、小さな竜巻のように舞い上がりました。ついに天は三度目の奇蹟を起こしてくれたのでしょう。舞も皆、しろがねが人間に変身するものと信じました。それはりりしい若者にちがいありません。
ところが──
結局、そこまででした。しろがねはなおも人間になろうと、地べたをのたうちもがき苦しみ続けました。けれども、しろがねの身体は狼のままで、人間へとは変身しませんでした。やはり天も三度もの奇蹟をしろがねに起こすことはなかったのでした。
しろがねは「クォーン!」と悲しみにあふれた泣き声をあげると、皆に背を向けとぼとぼと去ろうとしました。独りで山へ向かおうと決心したのです。ついに今生の別れの時が来たのでした。
と、その時でした。ことの成りゆきを一心に見守っていた舞が、
「しろがね!」
と、叫び、目からぽろぽろと涙をこぼしました。振り向いたしろがねの目にも涙が浮かんでいました。舞は声にもならない悲痛な叫び声をあげました。と、どうでしょう? その叫び声は人間のものではないような声に変わっていったのです。それは狼の叫び声でした。
と、見ると──
舞の身体からはしろがねと同じ青味を帯びた白銀色の狼の毛が生え始め、みるみるうちに舞は美しい牝狼へと変身したのです。着ていた衣服は引き裂け、飛び散りました。
しろがねに三度目の奇蹟は起こりませんでしたが、そのかわり今度は舞の身に奇蹟が起こったのです。
美しい牝狼となった舞は、しろがねの方へ駈け寄っていきました。しろがねは歓びの声をあげ、目からは涙があふれました。驚く皆を後に、しろがねと舞は寄り添うようにして、山の方へと駈けていったのです。
舞は途中で一度振り返り、皆の方へ軽く頭を下げました。
山にはまだ雪が残っていましたが、空には心なしかすでに春の匂いがただよってきているようです。