マハトマ・ガンディーとマザー・テレサの道

――私が捨てなければならないもの

「私たちに残るものは、人に与えたものだけ」とマザー・テレサはいう。マハトマ・ガンディーとマザー・テレサが若き日に身につけたものは、ことごとく貧しい人々のために捧げられた。

 九月八日、東京のカテドラルを埋め尽くした千五百人もの人々はマザー・テレサを追悼するミサに集い、各々静かな祈りを捧げ、最後の別れを告げた。

 不思議と輝いた清らかなマザー・テレサの遺影の前で、今は神のみもとに旅立たれたマザーのみ霊のために、私は一輪の花を手向けた。

 つい先頃、私は三十二年前の学生時代に出会った、マハトマ・ガンディーの孫の一人であるラジモハン・ガンディー氏と再会する機会があった。さっそく大学に招き講演を行った。ラジモハン氏の語るマハトマ・ガンディーの生き方に心が揺り動かされていた矢先に、マザー・テレサの訃報を聞き、私の頭の中では、インドという土壌に実った清く強靭な二本の麦への想いが交錯している。

マハトマ・ガンディー

 ラジモハン氏は、十二歳の時、最後の六ヵ月を、祖父であるガンディーと毎日一緒に過ごしたという。今はガンディーの生涯と思想の研究者になっているが、「ガンディーは非常に人間的な人であり、怒りっぽいところもあるが、優しく、あわれみ深くもある。彼のインドの貧しい人たちに捧げ尽くした生き方は、マザー・テレサと共通するものがある」と語っていた。

 ガンディーの思想とその実践を考えるとき、非暴力(アヒンムサー)とヒンドゥー教徒とイスラム教徒との融和があるが、「不可触民」(アンタッチャブル。インドの四種制の枠外に置かれた最下層の身分)の差別廃止による平等なインド家族の実現である。なんと言っても第一にあげられるのは、当時のインド社会の中でヒンドゥー教徒のうちおよそ四千万人もの人々がカースト外の階層として「不可触民」と分類され、不当に差別されていた。公共の礼拝場、井戸・水路の利用、店、食堂、宿泊施設、家屋の所有、病院、薬局、教育施設への立ち入り禁止など、今日では信じがたいほど彼らは人間として扱われていなかった。

 ガンディーは彼らを「ハリジャン」(グジャラートの詩聖で〝神の子〟の意)と呼び換えた。世界のすべての宗教の神は、友なき者の友、力なき者の助け、弱き者の保護者となっているとして、「不可触民」の存在こそヒンドゥーイズムの拭うべからざる汚点であり、インドのあらゆる不幸はこの不当の差別に由来すると、その悪しき因習を断罪した。

 一九三〇年代からガンディーは自分の精神を具現するためにハリジャンの同志、協力者とともにアシュラム(共同生活、ガンディー塾)を建設して、全生涯を賭けてすべてのインド人に意識の覚醒を訴えた。しかし、それは「仮に私が百二十五歳まで生きながらえるならば、ヒンドゥー社会全体が私の望む社会に変わっているものと強く期待する」(一九四六年)という彼の言葉からもわかるように、ガンディーは決して自分の見解を社会一般に丸ごと受け入れさせようとしたのではなく、〝ゆっくりと急ぐこと〟を信条としていた。

マザー・テレサ

 さて、私はマザー・テレサとの三度の出会いに恵まれた。二度の訪日の際、上智大学に招待されたマザー・テレサを囲んでの延べ二千人の学生たちとの「いのちと飢え」の集会(一九八二年四月、一九八四年十一月)があった。そこで彼女は、学生たちに向かって、「あなたがたは、何のために勉強するのですか。学問のための学問はいけない。学問には目的が必要だ」と話していた。

 三度目は、遠いアフリカのエチオピアで、百万人もの餓死者が出た大飢饉の真っ只中であった。(一九八四年十二月~一九八五年一月)。マザー・テレサは、飢餓に苦しむ最も貧しいエチオピアの人々を勇気づけるために、「神の愛の宣教者会」の十二人のシスターたちの懸命な援助活動の現場に当時すでに七十六歳の高齢をものともせず、飛んで来たときであった。

 イエズス会のマタイス神父と私は、偶然にも大学の難民実情現地調査でケニア、ソマリア、スーダン、エチオピアの難民キャンプを巡回訪問していた最中の出会いであった。マザー・テレサは、「神の愛の宣教者会」の修道院で、飢餓にあえぐ幾百万の人々に接しての心情を率直に私たちに語り、すぐにペンをとり、一通の手紙を当時の日本の外務大臣の安倍さん宛にしたためた。私はマザー・テレサからの手紙を預かり、帰国後、すぐに外務省の中近東アフリカ局長を通じて外相に渡した。「最も緊急を要するものは水です。日本から医者を派遣するより前に、掘削機くっさくきや技術者を早く送ってほしい。愛の実践は平和を作りだす仕事であることを心に留めてください。神の祝福があなたの上に。マザー・テレサより」というものであった。

「私の家は、貧しい人々の中に、しかも最も貧しい人々の中にある。」このマザー・テレサの言葉は、アフリカでも実践されていることを私は目撃した。

 マザー・テレサにとっては、国も、宗教の違いも関係がない。貧しい人との出会いが、彼女のすべてなのである。

 マザー・テレサの深い人間愛と実践の道は、マハトマ・ガンディーの深い人間愛の社会変革運動への道にも当てはまる。

マハトマ・ガンディーとマザー・テレサ

 一九八六年十月、私はインド南部のアラハバード大学のガンディー思想・平和研究所を訪問したことがある。そこに、同研究所の定礎式(一九七六年)において、マザー・テレサがガンディーについて話した講演記録が残っていた。

「ガンディーは、神が彼を愛されたように人々を愛した。彼は貧しい人に仕える人は、神に仕えている人であると理解している。非暴力とは決して単に銃や爆弾を使わないことではない。彼の素晴らしさは、まず第一に、自分の身近なところから、家庭や国から非暴力と貧しい人に仕え、慈しみを実践したことにある。そのお互いの愛と慈しみこそが家庭や国を越えて世界中に広がっていったのである」と。

 マザー・テレサは、彼女の創設した修道会である「神の愛の宣教者会」を支援する人たちの団体を作ろうとした際に、ガンディーの「父なる神のもとにある兄弟」とともに働く精神から団体名(共労者会コーワーカー)の名前を採ったと言われているが、ガンディーの生き方に共鳴したことを物語るもう一つのエピソードである。

インドという土壌

 マハトマ・ガンディーは、インド生まれ、学問は英国の大法学院で法律を学んだ弁護士でもある。マザー・テレサは、旧ユーゴスラビア生まれで、ダブリンにあるロレット修道会に入会後、インドに渡り、長年、地理や英語の教師であり校長でもあった。この二人に共通するのは、インドから世界に向けてメッセージを発するだけの素養があったということだけではない。決定的に彼らが世の知識人と違うのは、貧しい人に仕えるために、わが身を投げ出していく真の寛大さと謙虚さがあったということである。差別、貧困、汚辱、諸宗教の対立などがあるインドという複雑な土壌に、二人は自分の全生涯を一つぶの麦として蒔いた。