―島尾敏雄・特攻待機の体験―
「はまべのうた」
昨年の暮れでしたか、寺内邦夫さんの『島尾紀‐島尾敏雄文学の一背景』(二〇〇七年、和泉書院)を読んで、いたく心を揺さぶられたということがありました。寺内さん自らが「立体的な敏雄文学研究」とおっしゃるその実証的な方法には、以前から注目していましたが、これは氏のお仕事の集大成といってもよい労作です。寺内さんは、神戸市外国語大学時代の島尾さんの教え子ですが、今回初めて知ることができたのは、「著者略歴」にさりげなく書かれた体験の重さでした。「関西学院中学部より陸軍特別幹部候補生として従軍(十七歳)。一九四五年末までの戦死予定が果たせず、敗戦の八月十五日を迎えて復員」とあります。この略歴を考慮に入れて、その「あとがき」を読んでみます。
軍服を着て敵と戦い桜花のように散ることが、生存の目的であるとの教えに導かれ、苦しみに耐えて晴れの戦死の日の到来を待ちのぞむ日常から、敗戦という奇妙な終結で軍隊組織から放擲され、「お前らが弱兵だから負けたのだ」と復員途上、私は怒声を浴びせ掛けられた。その陸軍崩れに、はにかみながらも時折、いたわりの視線を向けたのが、特攻崩れの海軍大尉島尾敏雄であった。そこには敗残の哀しみを共有しているような光が感じられた。
もう一度初心に帰って島尾文学を読まなければ、とても寺内さん(だけではなく、父や兄たちの世代のすべての人々)と対峙することができない、と私はうそ寂しい気分に捉われたのです。しかし、そこから私は想像力を研ぎ澄まさなければならない、とも思ったのでした。
寺内さんの書物の中で、私が真っ先に注目したのは「掌編『はまべのうた』到来記」の章でした。氏の趣旨をここに紹介するかたちで進めてゆくことにします。
「はまべのうた」は、「みんなみのある小さな島かげにウジレハマとニジヌラと呼ぶ二つの部落がありました」で始まるメルヘン風の小品です。島尾さんが戦争末期の頃、海軍特攻隊長として駐屯した奄美群島加計呂麻島での、島の人たち、殊に国民学校初等科の少女と、その教師である女性との心優しい触れ合いを描いています。「その日ケコちゃんは小さなお舟にのってニジヌラの入江を出て行きました。(中略)今度は隊長さんをはじめニジヌラのへいたいさんたちがいなくなりました。どこに行ったか誰も知ることは出来ませんでした。お月夜の晩にはウジレハマでもニジヌラでも、ふくろうがやっぱりくほうくほうとないて、はまべにはちどりがちろちろとんでいたということです。」と結ばれています。さらに「(これは昭和二十年の春に加計呂麻島でつくりました。祝桂子ちゃんとその先生のために)」という付言があります。この掌編を捧げられた「先生」、つまりミホ夫人は、往時を次のように回顧しています。
「はまべのうた」を、島尾は昭和二十年五月の居待の月の晩に私に手渡しました。(中略)書院の黒檀の応接台を間に島尾隊長と私は対座しました。灯火管制下でともしびのあかりもままならず、銀の燭台の上に行燈の枠を置き、その上に絹の衣を掛けた暗い燈火の許で、ふるえながら風呂敷包みを解くと、海軍罫紙に丁寧な鉛筆文字で、
《はまべのうた》
― 乙女の床の辺に吾が置きしつるきの太刀その太刀はや ―
と書かれてあり、紙縒で綴じたのを捲ると二十五枚程の童話風な掌編でした。特攻出撃待機の緊迫した戦況下にありながら、隊長という重い責務の間に書かれたその掌編は、彼の遺書のように思えて私は胸が込み上げ、涙が降る降る零れました。(『島尾敏雄Ⅱ』かたりべ叢書30)
それから暫く日を措いた六月四日の夜、島尾隊長はミホさんを訪ねます。神風特攻機の一機が不時着し基地に避難していたのが、本土に引き返すことになり、搭乗員のN中尉が内地への手紙を預ろうと言ってくれていると聞きます。ついては「はまべのうた」を友人の真鍋呉夫のところへ手紙に託して送りたいから、出来るだけ枚数が少なくなるように清書して貰いたい、と頼むのでした。ミホさんは、「鉛筆の芯を針のように細く削いで、拡大鏡を必要とする程の細い字で『はまべのうた』を何回となく書き直し、その度毎に枚数を減らす工夫を重ねた結果、漸くにして、海軍罫紙二十五枚の『はまべのうた』を藁半紙二枚に書き納めることが出来ました」と語っています(『島尾敏雄』かたりべ叢書25)。同様のことは島尾さん自身も『幼年記』の解説に書いており、「敗戦のあと真鍋呉夫氏がそれを送り返してくれたので、N中尉があのとき本土にもどり得たことはたしかだが、そのあとふたたび特攻出撃をしたかどうかはわからない」と付け加えているのです。
昭和二十年八月十三日、島尾隊に特攻出撃下命。しかし、即時待機のまま、十五日の敗戦を迎えます。九月一日、発動船四隻に特攻兵を分乗させ、輸送指揮官として佐世保へ復員。六日、島尾部隊解散。十日、神戸の父の家に帰着。二十二日、庄野潤三氏と文学同人誌の結成を話し合っています。翌二十一年三月、ミホさんと結婚。五月、庄野潤三、林富士馬、大垣国司、三島由紀夫の各氏と同人誌『光耀』を結成、創刊号に「はまべのうた」を発表、という経緯になります。
さて、その後の追跡の仕方が、寺内さんの真骨頂なのです。再び氏の「到来記」によってみましょう。島尾さんが亡くなって十年後の一九九七年、名瀬市の新築なった島尾邸で寺内さんや新潮社の面々が、「日記」の発掘、選別の仕事をしました。そのとき発見されたものの一部が、同年の『新潮』九月号に掲載された「加計呂麻島敗戦日記」です。寺内さんはその中の、次の記述に注目します。
昭和二十年六月三日神風特別攻撃隊琴平隊ノ西村三郎中尉不時着ノ途次立寄る。
父と真鍋呉夫(『はまべのうた』同封)とに通信託す。
これでN中尉が西村三郎氏であることを特定できた寺内さんは、熱心な探索の結果、同氏が東京で健在であることをつきとめ、ついに面談するに到るのです。
尚、「はまべのうた」のサブタイトルに使われていた倭建命の辞世の歌は、発表時には林古渓の歌「あしたはまべをさまよえば昔のことぞ偲ばるる」に差し替えられています。遺稿となるはずだったこの掌編そのものも、皮肉にも戦後への出発の作品として「差し替えられた」ところに、島尾文学の特質を見るのは容易でしょう。(かつて私が島尾さんとお話したときも、軍隊へは『古事記』と伊東静雄の『春のいそぎ』を持参したとおっしゃっていました。)当時『古事記』は、戦意高揚を意図する役割も果たしていたのです。
「遺稿」について、もうひとつのエピソードも記しておきましょう。島尾さんは若い頃、詩も作っており、後に詩集として刊行されてもいるのですが、あんがい島尾詩について語られることは少ないようです。(私が所蔵しているのは限定版の『春』〔五月書房〕と、没後ミホさんの編集で贈られてきた『島尾敏雄詩集』[深夜叢書社]の二冊ですが、それらは『幼年記』に収められていて、『全集』でも読むことができます。)そのうち、「川棚の訓練所を発つ」と副題された「出陣」を紹介しておきましょう。
夕ぐるゝ木の葉がくれに
われらいま出陣
あかねさす浦里かけて
送るらし われら出陣
いのちふくるゝこの夕べはも
この詩が残ったのは、いつに林富士馬さんの意図によるものです。
島尾敏雄君とは、丁度氏が戦地に行かれる前はじめてお逢いし、(中略)その日、ポケットから出して見せて貰った小型ノートに鉛筆で走り書きしてあった詩稿の若干には、ひどく美しいと思い、『曼荼羅』には、島尾君の許可を得ず勝手に発表した。(『VIKING』15号、昭和二十五年)
島尾さんの側の証言は、次のとおり。
詩から遠くに逃げたいと心に決めたのに、軍隊生活の中でまたつい詩を書いてしまった。そうしてできた何篇かを小冊子にとじ、林富士馬氏にあずかってもらったが、東京の氏の家が空襲で灰になったときに共に焼けてなくなった。これは証拠湮滅の好運な例だが、焼けほろびるまえに、その中の三篇ばかりが当時氏が編集して発行した「曼荼羅」に掲載される事態があった。(徳間書店版『幼年記』解説)
このような運命をたどった詩稿なのでした。(林富士馬さんとは多少の縁があります。「十一月十二日の島尾君の急逝には、あなたはびっくりされたでしょう。私は既に、島尾君とも三島君とも距離を置いていましたが、やはり三島君の死以上のひとつの衝撃を受けていますので、あなたのことを思いました。あなたの島尾論を、毎日ゆっくり読み返し、あなたの「書くひととしての存在」を改めて尊く感じているところです。そのうちゆっくり島尾のはなしを、あなたとしたく思います。」『林富士馬評論文学全集』に挟んでおいたこの葉書を、いま取り出して懐かしんでいます。)いずれにしろ島尾さんは、海軍予備学生時代も、折に触れて詩作をしていたのです。
寺内さんの「到来記」に戻ります。その中の「島尾敏雄の戦記文学」の一節に、次のような記述がありました。
早い時期から『はまべのうた』に着目して論評している岩谷征捷は、これらは死を前提とした特攻隊長として、いわば島民から神格化された存在であることによって許された行為であった。自らも震洋艇を指揮して特攻死すること、それが彼の免罪符だったのだ。すべてはそのことによって免責されて
いる。(『島尾敏雄論』)
と、従軍中の島尾敏雄のいわゆる「逸脱」について言及したい希望のあることを随筆に書いていた。戦争末期混乱状態の軍隊組織の中で士官やまた各級指揮官による逸脱行為は無数に存在したことであり、島尾隊長だけが特殊例ではない。
氏のおっしゃる「逸脱」という言葉を、私は直接には使っていません。島尾さん自身の「逸脱」については、前掲「加計呂麻島敗戦日記」と同時に発見され発表された「或る特攻部隊のてん末」の次の部分に、氏は触発されたものだったのでしょうか。
私は敗戦の前年の春の頃にはすでに特攻要員の宣告を受けていたので(それは飛行機の「神風」特攻要員よりずっと早かった)ずい分長いあいだ死と契約した生活の中で暮したことになる。進級は同期の予備学生の中では一番早かったし、物のなくなった末期の頃であったにもかかわらず格別の給与が与えられた。今かえりみるとはらはらするような危険な日常生活が、未熟な私に許されているとひとりがてんして、私の精神はそうして次第にむしばまれた。(中略)敗戦までの十ヶ月を私たち第十八震洋隊員は呑ノ浦の基地で、いわば即時待機して出撃の日を待つ生活を送ったわけだが、それらの日日の悲しみや喜びやそして美しさと逸脱のことについてはここでは書ききれない。(昭和三十四年)(年号は原文のまま、傍点引用者、以下同)
寺内さんに対して直接的な答えを出すことはできないと思いますが、氏の指摘を念頭に置いて私なりの読みを続けていくことにします。ここでは誤解を懼れずに断言しますが、島尾さんの場合、作品を読むということは体験を読むということでもあると思いますので。
「はまべのうた」は島尾さんにとって(というよりも島尾夫妻にとって)、戦中から戦後への出発になった作品でした。それにもう一編、「島の果て」について少しばかり触れておかなければなりません。これは内容的に「はまべのうた」と対をなし、しかも同じようにメルヘン風の小説だからです。それに、私はこの作品の成立事情にも興味がありましたので。
「むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが―」と始まります。トエはカゲロウ島の、薔薇垣に囲まれた離れに住んでいました。その頃、隣部落に軍隊が駐屯したのです。その頭目は、朔中尉という若い「ひるあんどんのような人物」で、副頭目の隼人少尉の方が、威厳がありました。(それにしても、いつも思うのですが、島尾さんのようなひとが、どうして隊長などつとまったのでしょう。戦争という状況の恐ろしさを感じるのです。)戦雲は拡がり、大空襲後に敵が上陸するという情報が入ります。それに備えて、「たいへんなもの」がかくされている洞窟の隠蔽作業が始まるのです。しかし、朔中尉はヨチという女の子との約束が心にかかり、最後の別れを決意して会いに行きます。帰り際、ヨチが中尉にトエの誘いを伝えます。次の日、当面の危機は去ったのですが、雨で一つの洞窟の土砂がゆるみ、中尉は担当者を集めます。しかし、彼らの不満げな態度に激怒し解散させるのです。中尉はひとり夜遅くまで作業した後、トエに会いに行く。やがて二人は互いに惹かれあいますが、戦況が悪化し、自由に逢えなくなるのです。従卒を使いにした中尉の指示により、トエが夜中に塩焼小屋まで行きます。危険な岬廻りの海岸を、難渋して越えてきたトエを愛しく思う中尉なのです。しかしある晩、海に火柱が立ち昇り、彼は新たな事態を予知してトエを帰します。敵機がとぎれた日の夕方、「戦闘出発用意」の命令が下るのですが、真夜中になっても「出発」の下令がありません。従卒がやって来て、トエが逢いに来ていることを告げます。中尉は、砂浜に座り込んでいるトエに、演習だよ、とごまかして隊に戻って行く。彼女は中尉たちの「出発」を確認したら、自分も入水しようと決心していたのです。しかし、そのまま夜が明け、小説は、「ひとまずは危機が去ったことを知ったのでした」と結ばれています。
「島の果て」は、昭和二十三年一月発行の『VIKING』に発表されましたが、島尾さん自身「二十一年一月執筆」と書き留めています(『島尾敏雄作品集』第一巻、晶文社)。もう少し具体的に見ていきますと、「復員直後家内との連絡がとれなくて、なにかどっちつかずの時に書いたもの」で、「待っているあいだに書いた」と、奥野健男氏との対談で述懐しているのです(『國文學』昭和四十八年十月)。ミホさんとの結婚は二十一年三月ですから、二十年九月の帰宅から翌一月の間ということでしょう。「琉球弧から」というエッセイには「あれは二十年の年末のころです。妻が島をぬけでてくるのを神戸で待ちわびながら書きました」とあります。いずれにしろ、島尾さんにとっては、ほんとうの意味での戦後が始まる直前のことでした。つまり「島の果て」は死から生への方向軸を持ち、「はまべのうた」はその逆であったことは、書かれた時期からしても当然のことだと思います。二つの作品が姉妹のように相似しているのも、そうした時間の中で理解できるのです。(のちに公刊された『終戦後日記』によって、二十年十二月に島尾さんは九州旅行に行っており、帰宅した年末から翌年明けにかけて「童話のような」「朔中尉」の物語を書いていることが判明しました。)
私は以前、この二編のメルヘンは、死を前にした状況から目を逸らすために、隊長室の木小屋の中で紡ぎだされたフィクションであると思っていました。そう考えなければ、あまりに美しすぎるこれらの作品を理解できなかったのです。しかし、島尾文学全体を俯瞰し、そして再び〈特攻待機体験〉に還ってみると、メルヘンのオブラートに包まれてはいるものの、決して絵空事ではないことに気づかされました。(特に「島の果て」は事実に基づいて書かれたものであることを、次の章で明らかにします。)そうして、もし「逸脱」という言葉を使うなら、その意味は、軍隊生活の中で若い女性と交際するということ自体が普通には考えられない、という私の単純な思い込みにあったのです。(『終戦後日記』には、島の女性と兵隊との恋愛、そしてその後日談が書かれています。島尾さんたちの場合も、その一例であると考えることも出来るでしょう。戦争時とて、にんげんの日常であることに変わりはないと知らされました。)発見された「日記」を読んだ小川国夫氏も「驚くのは、彼が肩の力を抜いて、落ち着いていることです。(中略)いわゆる必勝の信念もなく、かといってニヒリズムも感じられません。爆撃や機銃掃射はあっても、興奮も怒号もなく、島尾さんは不思議なほど戦争を静かに受け取っていたのです」と語っています(「島尾敏雄日記を読む」『朝日新聞』二〇〇〇年六月十三日夕刊)。「日記」から一日分を挙げておきます。
午後の課業始め直後対岸の二艇隊に迄渡つて、隊内をよくみた。熊野兵曹が隧道内で間違つた考を起してゐたと云つて隊長室にやつてきて詫びた。それに対しては何事もなくすぐ皈つて艇整備をやれと云つて許した。入浴してゐると敵機がやつて来て機銃、爆弾をあちこちに落す。
夕食後たまらなくいやな気持を無理に押へて、棚の下でらくな姿勢で隊務会報を開き、最近本隊より指令のあつた事項の討議すませた。隊ムはどんなにしてでも順調にはかどらせるのだ。明日からの作業予定などもきめる。夜は作業と訓練。さそり座の星を見てゐた、流星は甚しく長い。原子爆弾の事、ソ聯の対日宣戦のこと。寝苦しいうちにねた。(「加計呂麻島敗戦日記」昭和二十年八月十一日)
島尾さんはりっぱな隊長になっています。そんな島尾さんにとっても、戦争体験が真正面から見据えられるまでには、もう暫くの時間が必要だったのです。
「那覇に感ず」(本土復帰を前に)
昭和四十五(一九七〇)年三月、島尾敏雄さんは沖縄本島に渡ります。〈『死の棘』体験〉のミホさんの治癒を意図して奄美へ移住し、すでに十五年が経っています。〈特攻待機体験〉の小説としては、「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「その夏の今は」と、八月十一日から敗戦までの濃密な時間を、その日の時点に立って書き上げているのです。十年ほど前からは、奄美・沖縄をめぐるエッセイに〈琉球弧〉〈ヤポネシア〉という語を使い始め、南島からの独特な視点を獲得もしていました。そして、その年の五月十四、五日の『朝日新聞』夕刊に「那覇に感ず」というエッセイを発表します。
この春先の十日ばかりを那覇で過ごした。まえにそこを訪れたのは四十一年の春だから、あいだに四年の歳月が流れた。
この四年間は、東欧諸国、特にポーランドを長く旅しており、小説を書くことから少しばかり離れていた時期でもありました。「四年前には北部の方にも出かけ、石垣島や竹富島にも渡った」のでしたが、今回「ほとんど那覇の町を出なかった」のは、「意識的」に「那覇に住むひとたちといっしょに日を送りたかった」から、ということです。このエッセイで「那覇に住むひとたち」は、K、A、Oというイニシアルで登場しますが、それぞれ詩人、ジャーナリスト、琉球大学教授の、川満信一、新川明、岡本恵徳の各氏を指すのは明らかです。その一人新川明氏は、後年次のように回想しています。
〝世替り〟に向けた政治の動きが大きなうねりをみせていた一九七〇年代の初頭、左右を問わず政治党派が作りだす出来合いの言葉が島々を包みこんでいた。その政治的潮流の行きつく先が予見されるだけに、そういう政治の言葉ではなく、自分の言葉でみずからに向き合い、心の渇きをいやす発言の場が痛切に求められた。その時代背景のもとで川満信一、岡本恵徳、私の三人は、同じ琉球弧の住人であった島尾敏雄さんに加わってもらって、四人だけの雑誌の刊行を計画した。(「幻の雑誌『琉球弧』始末」『新沖縄文学』71号、一九八七年)
さて島尾さんの方ですが、まず那覇の街と人々に惹かれる心情を描きます。「町のかどかどの表情のよさとかさなり、私にはいずれも造形対象の〝もの〟のように、手放しがたく息づいてきて、生の深いところで私をつきあげ、どうしようもない。なぜそうであるかを、私に説明などできるはずはなく、それは那覇の人が受けてきた歴史そのものにほかならない」と。これについては、同じ年に書かれた次の文章も参考になります。
奄美は地理的、歴史的に沖縄と共に国土の一ブロック「琉球弧」を形成し、風俗、習慣の上でも沖縄と切り離せない。違う点は、沖縄が奄美以上に試練の多い島であったために、「まともな日本でなければ単純に復帰はできない」という気概も存することだ。(『朝日新聞』鹿児島版、一月十一日)
しかし島尾さんは、那覇(あるいは沖縄という土地)の持つ歴史の重い値打ちに、うちのめされもするのです。彼らの前で「ヤポネシアと琉球弧」とか「琉球弧の視点から」などと話しても、自分の言葉が上滑りしているような虚しさを感じる。折しも沖縄は、本土復帰の論議で沸騰している時期でした。「かれらのなかにはいって行くことが許されるためには、かれらの経歴の過程を背負わなければならないはずだ。私にそれが堪えられるかどうかをためすためのかりそめの十日ではなかったか」というのです。「それらの日々の中ごろのこと」、島尾さんは地元の新聞を見て、「身の凍りつく思いに襲われる」のでした。
それはあの戦争のとき、渡嘉敷島に駐屯していた陸軍部隊の指揮官だった人が二十五年ぶりにその島に渡ろうと、那覇にやってきたことについての記事であった。「集団自決命令しなかった、抗議に青ざめる、民主団体空港で激しい詰問、A元大尉が来沖」とひとつの新聞は書き、別の新聞は、「忘れられぬ戦争の悪夢、空港に怒りの声、責任追及にうなだれる、A元大尉が来島」と見出しをつけていた。
「集団自決」について書かれたことを、即座に思い起こす島尾さんだったのです。状況が自分の体験に似すぎていると思ったからでしょう。「もし自分が彼とおなじ状況に陥ったときにどんな事態が生まれたろうか」と考え、「あんたんたる気持におそわれ慄然とした」のです。その元指揮官が、当の渡嘉敷島に二十五年も過ぎた今あらためてやって来て慰霊祭に参加する、という記事でした。島尾さんは、「いったい、これはどういうことなのか、いくら考えてもそれはもう私の想像を上まわりわからなくなった」と語っています。「彼はどのような決心のもとで、いずれにしろ彼とのかかわりあいのなかで非戦闘員が三百人余りも自決したその場所に出かけて行こうとするのだろう。ふとそこに死にに行くのではないか」とまで想像する島尾さんでした。その後も、地元の新聞には活発な意見が掲げられます。島尾さんは、それらを次のように要約しています。
彼個人への責任追及にはじまって、やがて沖縄戦の性格や沖縄の置かれた立場の凝視へとわくが広がり、さらに沖縄の人々の反応の仕方や戦争の傷痕そして戦争責任や戦争そのものの痛みの問題にまで発展していったのだが、いずれも自由で柔軟に、そして本質的に論旨が展開されて行ったのにひきかえ、私の思いが低迷しつづけたのは、どうしても私の戦時中の環境が彼のそれに似すぎていたからだ。
当時のふっとうする島の雰囲気を伝えるために、新聞記事のいくつかを挙げておきましょう。
隊長である赤松氏には責任を充分とってもらう必要があるし、渡嘉敷村民も沖縄県民も彼に責任をとらせる責任をもつものであると思う。(『琉球新報』「おち穂」欄、四月二十八日)
赤松氏は「集団自決を命じたのは私ではない」と釈明していますが、当時、同氏が渡嘉敷島の日本軍の、防衛隊長の地位にあり、軍の最高責任者であったことは事実です。同氏が直接、集団自決の命令を下したかどうかのせんさくはともかく、軍の責任者としてなんらかの形で、これに関与したことは否定できない。(『琉球新報』「話の卵」欄、三月二十七日)
赤松氏の来島によって戦争の傷痕が鋭くえぐり出された。「いまさら古傷にふれても仕方がない」と遺族の人は言う。しかし筆者は、遺族にとっては酷な言い方であろうが、あえて言う。傷痕から目をそらせずに凝視してほしい。(中略)なぜなら、そこからしか真の反戦平和の思想は生まれてこない。戦争の傷痕こそ反戦の原点であるから。(『沖縄タイムス』四月三十日、仲尾次清の記名記事)
島尾さんのおっしゃるA大尉とは、この赤松嘉次大尉のことです。赤松大尉率いる陸軍の海上挺進第三戦隊は昭和十九年秋、百隻の特攻ボートと共に渡嘉敷島に進出してきました。特攻ボートは「○の中にレ」(マルレ)艇とも呼ばれるベニヤ製モーターボートで、二発の爆雷を積んだもの。しかしすでにその存在を知る米軍の砲撃によって、「○の中にレ」(マルレ)艇は破壊されたり自沈したりして、やむなく不本意な陸戦に移らなければならなくなっていました。隊は陸上戦闘を予期していなかったこともあり、装備は貧弱で、軍刀、小銃、ピストル、手榴弾のほか、数挺の軽機関銃を持つ程度にすぎませんでした。こうした状況で悲劇が起こったのです。一方、島尾さんもまた約百八十名の海上特攻隊の指揮官、元海軍中尉でした。おなじ琉球列島中の、赤松大尉は渡嘉敷、島尾中尉は加計呂麻。あまりにも似ているではありませんか!
島尾さんの「那覇に感ず」に戻ります。自分たちの部隊の状況について語ります。
その上、私たちの部隊近くの部落の人たちは、敵軍上陸のあかつきはその中に避難集合しいずれ最後は自爆するための防空壕をそれと承知で掘りすすめていたではなかったか。たとえ、特攻艇出撃のあとの陸上の残存部隊は私の指揮をはなれてしまうとはいえ、そのへんてこな防空壕掘りには、私たちの部隊からも加勢が出て掘りすすめていたのだった。
この辺の事情は、別のエッセイでも語られています。
(八月)十三日の夜に、これはあとで聞いたんですけれども、部落では、「皆さん、最後の時が来ましたから、お集まりください」と部落長の叫んでいる声がしていたそうです。結局は、掘った防空壕には行かなかったようですが。いったんは集ったけれども、どうも何も来そうもないので解散したのかもわかりません。しかしそれがもう少し緊迫した状況であったならば、横穴に入っていたということです。(「琉球弧の感受」『新日本文学』昭和五十三年八月)
この十三日のことは、ミホ夫人の筆とも符合しますので、要約しながら紹介しましょう。従兵がミホさんのところへ、「隊長は出撃されるのです」と知らせに来ます。ミホさんはその従兵に手紙を託し、死装束をまとって、島尾隊の北門の前まで出かける。遠くからもの悲しい声が聞えてくる。「皆さーん、いよいよ最期の時が参りました。自決に行く時が来ましたー。家族全員揃ってナハダヌミャーに集まってくださーい。防衛隊員と男女青年団員は握り飯を一食分だけ持って、ほかの人は荷物など何も持たないようーに、必ず集落全員一人も残らないように集まって下さーい。」島尾隊長に逢うために通い慣れた浜辺を急いでいると、突然頭上に男の声が降りかかってくる。スパイ監視に出ている防衛隊の人たちに違いないと思う。「戦局が逼迫するにつれて人々の心を疑心暗鬼にさせる流言蜚語が流れ、スパイ詮議もやかましくなって」いたということです。また、兵士たちに気づかれないように浦を越えてゆく。両手で岩につかまり、足の指先で海の底をまさぐりながら歩くのです。珊瑚の鋭い角で手足を血に染めながら。そして入江にたどり着くと、顔見知りの番兵に見つかり、隊長に報告される。現われた隊長は、「演習なんだよ」と安心させるように言って、忙しく去って行く。ミホさんはいつ震洋艇が出撃を開始してもいいように、砂浜に正座して入江の入口のあたりを見据えています。その見送りをすっかりすませてから、ミホさんは海へ突き出ている岩の一番端に立って足首をしっかり結び、短剣で喉を突いて海中に身を投げる覚悟を決めていたのです。しかし、出発は遂に訪れず、そのまま夜が明けました。このミホさんの文章は、次のように結ばれています。
島尾部隊が特攻出撃を決行しなければ、集落の人々も集団自決をすることもないでしょう。昨夜おそらく予定の場所へ集合はしたものの、待機のままで夜が明けたにちがいありません。そうだとすれば、おっつけオサイ峠の方から、みんなほっとした顔付きで降りてくるはずです。そうであって欲しい、どうかそうであって、父も生きていますようにと切なく思いながら、しかしおどろおどろした不安も消すことができずに私は家の方へ歩いて行きました。(「その夜」 中公文庫版『海辺の生と死』より)
愛する人への思い入れがあるとはいえ、ミホ夫人の証言は詳細にして重い。くどいようですが、もうひとつ。
沖縄を失墜し、奄美の特攻隊の出撃も目前に迫った頃になると、島尾隊長や隊員と島の人々との間柄は生死をともにするという心で堅く結ばれ、その生死のほどは間近に迫った現実でもありました。搭乗員が特攻戦に出撃した後の基地隊員に協力して島の男たちは竹槍を持って、乙女たちはかねての島尾部隊の指導に従い看護婦として戦場に立ち向かい、老人や女、子供は一個所に集まって集団自決する手筈が整えられ、その場所は兵舎近くの谷間に全員入れるほどの大きなコの字型の隧道を隊員と島の人々が力を合わせて掘り進んでいたのです。(「特攻隊長のころ」 前掲書所収)
あらためてミホさんの書き物を読んでゆきますと、ここに確かな、もうひとつの〈特攻待機体験〉があったことが分かります。男が戦争という公的な世界と私的感情を分離させようとする葛藤のなかであえいでいたとするならば、女は愛する者の後を追うという情念の堅固さの中でひとつに合体するのです。島尾さん夫妻の〈戦後〉への出発は、こうした共有体験を踏まえてのものでした。類稀な固有の体験だったのです。
またもうひとつ、ここには独特の方言を持つ琉球列島の人々を、スパイとして敵に通じるおそれがあるとして監視する日本軍のあり方も見えています。住民を巻き添えにした沖縄戦の悲劇の一面です。約八十日間の戦闘で、防衛隊員などを含む沖縄県民の犠牲者は推計十五万(日本軍将兵七万三千、米軍一万二千五百を合せた人数をはるかに超える)という数字が与えられていますが、島尾さんは、「それだけのむごい国内戦でさえ、ヤマトの人々には自分たちのからだの中の出来事として、つまり正真正銘の国内戦として実感できないようなところがあった」(「琉球弧に住んで十六年」『潮』昭和四十六年十一月)と語っています。また、同エッセイの中で、「ヤマト(本土)は、南を犠牲にしてその安泰を保ってきたようなところがある。(中略)軍隊内の奄美の人々に対するある差別の感情は印象的であった。つまりこの島の人々は本土の人々とは違うから用心しろという言い方で接するという固定観念のあったことだ。だから事態が極限に近づいた場合には、むごい形となってあらわれてくる根の胚胎していたことだ。沖縄戦ではそれが現実となった」との見方もしています。
森口豁氏の『沖縄‐近い昔の旅‐非武の島の記憶』(凱風社、一九九九年刊)によると、防衛庁(当時)の戦史研究室がまとめたデータに、投降する住民を殺害百二十四人、スパイ容疑で処刑五十三人、強姦十六人、などとあります。米兵より日本兵が怖かった、という現実があったのです。加害、被害の視点で捉えていっても、その根のところで解決するわけではありませんが、「本来琉球弧が立っていたからこそ日本が立っていたのであって、そのところで私はヤポネシアの視点が期待される」と語る島尾さんです。氏の〈ヤポネシア論〉の発想もまた、戦争中の体験を凝視するところにその原点があったように思います。
「那覇に感ず」に戻りますと、島尾さんは自らをその日のA大尉になぞらえて、さらに次のように想像します。
敵艦隊が接近し、遂に特攻戦が発動されて約五十隻の特攻艇が発進したとしても、どんな偶然の下で死にそこなう破目に会うかは予測できることではない。一方せっぱつまった状況におちいった防空壕では無残な自決行為が遂行されて多くの住民が死んでしまうだろう。そして私が捕虜となって生きのこったあげくの果てに戦争が終結するとしたらどうだろう。そのあとで二十五年の安穏な小市民生活の日々が流れ去り、そしてある衝動につきあげられて島にやって来るのだ。そうだ、その通りに彼もやって来、そして私も行ったのだ。
加計呂麻島では、「集団自決」は起きませんでした。だが、寸前まで追い込まれた構図は、「集団自決」のあった島とその位相において違いはないと思います。島尾さんは、問題を自分のこととして引き寄せて考えているのです。自分がそういう立場であったなら、という「想像力」こそが氏の作家としての、というよりも「ひととしてあること」の原点でした。そんな島尾さんでも、この状況はどうしても分からないと言います。「でもいったい彼は本当になんの告発を受けることもなく、渡嘉敷に渡れて、慰霊祭に参列できると考えていたのだろうか。本心からそう思っていたのだろうか。私はどんなふうにも理解することができずに、深く暗いさけ目に落ちこんでしまうのだ」と結んでいます。
この「那覇に感ず」以後、事件に直接触れたエッセイはないようです。同じ年に書かれた「回帰の想念・ヤポネシア」の、「たとえ異和を以て迎えられても、島の珊瑚礁を抱きしめてじっとしていたい」という感慨にしても、この事件そのものというより、沖縄を愛しながらも全面的に受け入れられることなど不可能なのだ、という立場を表明しているように思います。〈異和〉については、夢に取材した小説「過程」(『海』昭和五十四年七月)が参考になるでしょう。ついには「よそ者」でしかなかった島尾さんの、一種のコンプレックスが表出されているのです。
那覇の青年たちとの集会に遅れて参加した主人公・巳一は、いきなり城辺という若者に難癖をつけられます。「たかだか旅先でお世辞の歓待を受けていい気になり、うつつを抜かしながら挨拶を返しているだけのことになりはしませんか」と。巳一は弁解しますが、いきり立った城辺は強い口調で言います。「あんたたち本土のにんげんがどうして沖縄にやって来るの。御節介じゃないの。一体何の目的があってのことだろう」と。巳一は羞恥心に青褪める。と、青年たちは口々に巳一に攻撃の言葉を投げつけます。「Sはわれわれの敵だ」、「こういうこともした、ああいうこともした」、「戦争中は軍隊の中のわれわれの仲間をこぶしで叩いて制裁を加えたりしたぞ」、「今頃どんな調子のいいことを言ったって当てになるものか」などと。―― 島尾さんの自己批判は、夢見となって噴出したものと思われます。
その後、昭和四十九年、島尾さんは夫人と娘のマヤさんを伴って当の渡嘉敷島へ渡ります。
二十余りの島々の群れの(その多くは無人島だが)慶良間は沖縄戦の端緒の場所だ。アメリカ軍はそのいくつかの島にまず上陸して来て沖縄本島上陸への足がかりとしたが、そのあと先に座間味島と渡嘉敷島で住民の約七百名が集団自決をしたという重い事実を忘れることができない。(中略)美しい海と澄明な空に囲まれたその静かな島山のたたずまいは、時の流れをとどめるほども底抜けに明るい環境を展開していて、どうしてこんなところに戦争が割り込んで来たのか納得がいかないのである。だからそこはめったなことで気軽に出かけて行くところではないと思ってきた。(「慶良間の睫」『南島通信』所収)
私もこの島尾さんの七年後、友人たちと初めて沖縄本島に行き、さらに渡嘉敷まで渡りました。その頃の私に、沖縄と太平洋戦争についての詳しい知識があったわけではありません。ただ座間味島の見える西海岸の阿波連でグラスボートに乗り、色鮮やかな魚たちを観賞し、すぐ近くの無人島で何時間かの静かな時間を過ごしました。自然の悠久さの前では、人間の時間などいかほどでもないと思いました。にんげんの音がきこえない。さらさらと鳴っているのは、波に洗われている珊瑚の死骸だけでした。そのいくつかを手にとると、人骨の断片のようでもありましたが――。一方、島尾さんはこの島に、戦時中の加計呂麻島のおもかげを見たのです。「海岸まで迫った山地に覆われたかたち」だからです。「集団自決の悲惨をかかえた慶良間の戦闘」を聞きとることには臆病になるのですが、ミホ夫人は住民から積極的に話を聞いています。例えばある男は、聞き覚えだがと断わって、「アメリカ軍上陸のとっかかりは浦という浜からだが、あとは何箇所もから、いっぱいあがって来た。座間味島とのあいだは海がかくれるほどアメリカの艦艇がひしめき集まって、兵隊は艦艇のあいだをまたいで渡っていた。あの有名な(と彼は形容詞をつけて言ったのだが)A大尉に命じられた沖縄出身の兵隊がサバニの小舟で特攻斬り込みをした」とも言っています。島尾さんは、こうした「伝承のふしぎなはたらき」にしびれるのです。私が行ったときはもちろんのことですが、島尾さんのときも、すでにキャンプ遊びと海水浴を目的とした本土からの若者が多かったということです。「女子高校生など集団自決のことなど聞いたことのない者が多かった。」慰霊塔である「白玉之塔」のある岬まで島尾さんは足を延ばし、「南の島の未だ汚れぬ自然の美しさに呆然としているだけであった」とおっしゃっていますが、私もまたその先の草の上に寝そべって、女の子たちと写真を撮りあったりしたものです。そのとき私は少しも島の惨劇を理解していなかったのだ、といまになって恥じ入っています。それでも彼女たちのグループが去ると、気のとおくなるような静けさが戻っていました。戦争がなければこんなにも自然に合一できるのです。「忘れじと/思う心は白玉の/塔に託して/永久につたえん」と刻まれた塔の向こうに紺青とエメラルドグリーンとに峻別された海が見えました。その後、私は初めての本である『島尾敏雄論』を出版し、その縁で島尾さんにお会いする僥倖に恵まれたのでした。(昭和五十八年十月のことでした。)そのときも、島尾さんが沖縄に行っておられたことをお便りで知りましたので、挨拶代わりに阿波連の海の美しさを話題にしたものです。しかし「集団自決」のことまで引き出せなかったのは、全く私の勉強不足によります。島尾さんは、先のエッセイを「沖縄に、キラマ(慶良間)は見えるがマチギ(睫)は見えぬということわざがあるけれど、私は慶良間にやって来てかえって慶良間が見えなくなった」と結んでおられます。(正確には「慶良間は見いーぃじが、どぅーのまちげは見ぃらん〔沖合の慶良間諸島は見えるのに、自分の睫は見えない〕」と言うので、灯台もと暗しを意味する。)
慶良間諸島のことを再び思い起こさせてくれたのは、そして私がこのエッセイを書くきっかけの一つになったのは、〈大江健三郎・岩波書店訴訟〉裁判でした。島尾さんの「那覇に感ず」が書かれた昭和四十五(一九七〇)年というと、大江氏が『沖縄ノート』(岩波新書)を出した年でもあります。アジア諸国に対する侵略・加害問題を直接議論することもなく、戦争肯定のふんいきが漂ってくるような時勢でした。戦友会などの結成、その中での「慰霊碑」「顕彰碑」の建設ブームもその頃です。それはさておき、大江氏が渡嘉敷の事件に触れているのは、『沖縄ノート』最終章の「『本土』は実在しない」だけです。長くはなりますが、ここで大江氏の語りを聞かなければなりません。
(新聞は)慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自決をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。(中略)
人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められた記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄のそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。
(中略)
僕はまた、集団自決をひきおこすことになった島を再訪しようとして拒まれた旧守備隊長に、おまえはなにをしにきたのだ、と問いかける沖縄の声のひきだした答が、「英霊をとむらいにきました」というものであったこと、抗議の列をすりぬけて、星条旗をつけた米民間船に乗った旧守備隊長が、ついに渡嘉敷島にいたり花束を置いていったという報道をグラフ誌に見出す。日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という暗い内省の渦巻きは、新しくまた僕をより深い奥底へとまきこみはじめる。
「旧守備隊長」とは、A大尉、つまり赤松大尉(訴訟の時点では故人)のこと。特攻艇を率いて敵艦に体当たりして死ぬはずが、既述の事情によって生き延び、「守備隊長」にならざるを得なかったひとです。大江氏のこの引用部分が、曽野綾子氏の批判するところとなり、『ある神話の背景』(PHP文庫、一九九二年)が書かれることになったのです。(裁判に合わせて改定新版が『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!―』と新聞の見出しのような長い題に改められて、「ワック」という出版社から出ました。)この本、「集団自決」を命じたかどうかという問題を抜きにしても、赤松隊の動静をよく調べて書かれています。曽野氏自身「『玉砕命令による』という言葉の部分は正
確かどうか別としても、『集団自決』が行なわれたのは事実であり、それは戦争なしに惹起されたものではなかったのである」と語っています。また、「島の人は、とにかく何も話さんでしょう。そうだ!と私は思った。それが正しいのだろう! 私は島の人たちが話してくれた、と思っていたのだが、実は誰も、何も喋ってくれなかったのかもしれない。(中略)人々は事のあまりの大きさにそれを表現する方法を初めから失っている、と見るべきかも知れない。そしてそれほど、慎ましい真摯な人間の反応と表現はない」という一方的な見方が印象的でした。しかし、この裁判をきっかけに沖縄住民が立ち上がり、新たに語り始めた人が現われたこともまた事実なのです。(『世界』〇八年一月増刊号に、多くの聞きとりが載っています。)氏のお仕事がその意図とは逆に、「集団自決」の問題を再び国民に知らしめることになったのは皮肉なことでした。
『沖縄ノート』の最初の傍点部分、「しだいに希薄化する記憶、歪められた記憶にたすけられ」なかったなら、とても日常生活を正常に営むことができません。それが凡人の凡人たるゆえんなのです。しかしわれわれ(わたし)とは違って、島尾さんは自らの体験から目を背けることなく生涯を全うしたのではないでしょうか! だからこそ次の傍点部分、「なにをしにきたのだ」という問いかけに、島尾さんは「死にに行くのではないか」と想像したのでした。
さてここで、裁判の概要に触れておくことにします。世間では〈沖縄「集団自決」訴訟〉と呼ばれているもの。二〇〇五年八月、大阪地裁に提訴された名誉毀損の民事訴訟です。原告は梅澤裕、および赤松秀一の両氏。梅澤氏は敗戦時、座間味島の海上挺進第一戦隊長、赤松氏は、赤松嘉次大尉の弟になります。被告は岩波書店、および大江健三郎氏。名誉毀損の対象となった出版物は、家永三郎氏の『太平洋戦争』(一九六八年初版、現在、岩波現代文庫)と大江氏の『沖縄ノート』で、請求は出版物の販売・頒布の禁止、謝罪広告の掲載、慰謝料の支払いを求めるものです。(当初は新崎盛暉氏の『沖縄問題二十年』なども含まれていたのですが、その本はすでに出庫停止になっていて、訴訟の対象から取り下げられました。)事件は六十四年前に起きたものです。それについて書かれた本は、約四十年前に出版されました。それが、いまなぜ訴訟となったのか。その辺に、この裁判の本質があるように思います。それにこの訴訟にはいくつかの無理があります。ひとつはすでに紹介したように、大江氏の本で「集団自決」に触れているのは最終章だけ。しかもこのことが大江氏の書物全体の主題ではないのです。また、座間味島についても具体的に触れていない。不自然なのは、訴訟の相手が曽野氏も取り上げている『沖縄戦記・鉄の暴風』(昭和二十五年)の沖縄タイムス社ではなく、岩波書店と大江氏であること、そして赤松嘉次氏は亡くなっていて、今になって訴えるということです。同じようなことは「南京事件」でも起きています。〇三年四月、本多勝一氏の『中国の旅』に収められた「百人斬り競争」の記事のため、著者や出版社などを遺族が提訴しました。やはり三十年以上経過してのこと。どう考えてもそこには政治的な狙いがあると判断せざるを得ません。
教科書検定の問題に限定しても、ことは一九八二年に始まります。「日本軍による住民虐殺」の記事削除が行なわれたのです。それが契機となり、「家永裁判第三次訴訟」(一九八二~一九九七)において、沖縄戦関係事項が法廷内で議論されることになりました。そのとき、「虐殺」よりも「自決」の方が多いということで、「集団自決」という言葉が残ったのです。当時の沖縄住民側の主張は、それでは住民自らが死を選んだ「殉国」の例として捉えられる虞がある、としていたのですが。しかし、「侵略」を「進出」と置き換える等の問題で、中国や韓国から激しい抗議を受けたことの方が前面に出て、沖縄の問題そのものはかすんでしまいました。そして、〇八年使用の歴史教科書から、「集団自決」にかかわる「軍命令」の部分が削除されるという検定が強行されたのです。それが沖縄住民の反発を招き、その結果については記憶に新しいところです。ことは沖縄戦だけではありません。中国や朝鮮、東南アジアの問題にしても同様です。〇五年の段階で、八社すべての歴史教科書から「慰安婦」の用語が消え、「強制連行」の記述も二社だけになってしまいました。このように、戦争で日本軍の犯した行為の具体が消えつつあるのが趨勢なのです。事実、否、真実はどこにあるのでしょうか?
〇五年五月、藤岡信勝氏らの「自由主義史観研究会」が「沖縄プロジェクト」を立ち上げ、渡嘉敷島の現地調査なるものを行ない、東京で報告集会も行ないました。それと表裏一体をなす「新しい歴史教科書をつくる会」の機関誌『史』(〇七年五月号)で、鈴木尚之氏は「〈南京虐殺説〉〈従軍「慰安婦」強行連行説〉〈沖縄集団自決「軍命令説」〉はすべて、日本軍を貶めようとしたものです。いわば〝自虐史観〟三点セットともいえるものです」と述べています。こうした状況を考慮するとき、沖縄プロジェクトの立ち上げと裁判の提訴は、はじめからセットになっていて、このうち彼らがまだ本格的に手をつけていなかった「集団自決、軍命令」の削除を、安倍政権のもとで一気に実現させようとしたものと考えられます。彼らのほんとうの目的は、旧日本軍、軍人の名誉回復であり、沖縄戦を含めてあの戦争は正しかったのだ、と社会に認めさせることなのです。憲法を改める政治勢力との連動であることは申すまでもありません。議論の旗色が悪くなると、「軍命令」の有無ではなく、「隊長命令」があったかなかったかに問題をすり替え、ことの矮小化と歪曲が始まるのです。〇七年十二月二十一日に最終弁論があり、結審となりました。その直後に書かれた大江氏の文章が印象に残っています。『ある神話の背景』に引用された赤松大尉のもとで中隊長だった人の、「国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか(自らは、原文のママ)。私にはそのことが理解できません」という談話を、あからさまに著者・曽野氏自身の思想を代弁させているとして、次のように語っています。
つまり渡嘉敷島と座間味島の集団自殺をとげた老若男女について、かれら彼女らのことを「国に殉じるという美しい心で死んだ人たち」だと言い張り、幼児らもふくむかれら彼女らの集団自殺が、軍の命令で強制されたものではなく、自発的に行なわれる、みずから望んだ「死の清らかさ」のものであった、と歴史に書き込み、これからの日本人をあらためてその方向へ教育しようとする者らの、退屈なほど単純な企てで、この訴訟があったこと、あり続けていること――。(「『人間をおとしめる』とはどういうことか―沖縄『集団自殺』裁判に評言して」『すばる』〇八年二月号)
やむを得ぬこととは言え、かなり本筋から外れてしまいました。ただ、「島尾さんが生きておられたらどのように感じただろうか」ということを常に念頭に置いて語ってきたつもりです。「私はどんなふうにも理解することができずに、深く暗いさけ目に落ちこんでしまう」とか、「私にどんなことができるかと思うとよけい絶望的になるし、しかしまたこの状況は醜い」との言を出るものではないかもしれません。自身とその身辺の経験が、島尾さんにとってあまりにも重かったことを意味しているのです。あるいはそうした経験が、戦後の一般の人たち(もちろん私も含めて)によって理解されることに、ほとんど絶望しておられたのかもしれません。
尚、初稿を仕上げた後で、謝花直美『証言 沖縄「集団自決」』(〇八年二月刊、岩波新書)を読むことを得ました。いまさら付言することもないのですが、強制集団死(乳幼児が自決することはできないし、肉親を喜んで殺す者もいない)を拙稿でもカギ括弧づきの「集団自決」と表記したことをおことわりしておきます。恐怖に追い込まれた住民は、死の選択肢しかなかったのです。「集団自決」の背後には、謝花氏も語っておられるように、「天皇の赤子」を育成するための皇民化教育があり、日本軍による「軍官民共生死」の方針があったことは否定できません。
「震洋発進」
「戦時中の震洋隊員としてこの眠くなるような景色の中で何日かを送ったにちがいなかった。しかし、人為の状況が一変すると、逃れようのない苛烈な現実に噛みつかれその陥穽の中に引きずり込まれて行ったのであった。宙空のどこに裂け目があるのかわからぬが、一瞬のうちにも海も山も泡立つ海濤に呑み込まれ、或いは山稜のかたちなど吹き飛ばされてしまう天変に襲われるイメージが現われ出て、ふと幻のように私の目の底をよぎって行った。」(震洋発進)
島尾敏雄さんが、海軍に志願して加計呂麻島の基地に到着するまでの時間に立ち返って、『魚雷艇学生』を執筆出版したのは、昭和六十(一九八五)年でした。亡くなる一年前のこと。ほぼ平行して震洋隊の跡地を遍歴する連作を発表しています。こちらの方は『震洋発進』の題のもとに、没後間もなく刊行されました。つまり島尾さんはその晩年、再び戦争体験に戻ってきた、というより、終生その体験に拘らざるを得なかった、その岸辺に流着した作品群であったと言うのが正確なのかもしれません。その辺の事情を語るものとして、ここにご自身も戦闘を体験し、『戦艦大和ノ最期』を著した吉田満氏との対談『特攻体験と戦後』(一九七七年の対談、翌年刊)があります。そこで島尾さんは次のように語っています。
その三十年の積み重ねの中で、なんとなく日常というものが分かってきて、そして、その時に、やっぱり日常じゃない異常な事態を自分が体験したということが、なにか、くっきりしてきたような気がするんです。ああ、こういう意味だったんだな、という。
「そのことはずっと戦後も引きずっているわけですね」という吉田氏の問いかけに、島尾さんは答えています。
戦争はその後もずっと起こっているわけなんです。自分にも周囲にも。ただ表面の形が、戦争状態でなければ戦争状態でないような状況を現わしていますけれど、もう本質のところは、似たようなことなんじゃないですか。もし神というものがいるとしたら、その神の目から見たら、戦争の状況も、このいまの状況もそう違わないんじゃないですか。
吉田氏はこの対談の翌々年、五十七歳で亡くなりました。その没後に編まれた『戦中派の死生観』(文藝春秋刊)の中の「島尾さんとの出会い」で、氏は島尾さんの人と文学の本質をみごとに看破しているのです。
島尾さんだけは、今日まで、あの時と同じ濃淡で、特攻体験を生きつづけてきた。自分が特攻体験をもったという事実を、日々新たに再体験しつづけてきた。この強靭な求心的な耐久力によって、特攻体験はここに初めて人間の体験として造型されたのである。
体験というのは、時間が経てば経つほどその記憶が薄れるのがふつうなのですが、島尾さんの場合はその逆なのです。ということは、やはり生涯自らの心と体に痛みの針を刺し続けたということなのでしょう。(ここで私は、どうしても『死の棘』の題名にもなった「コリント人への第二の手紙」の一節を思い出さないわけにはいかないのです。それによりますと、パウロは自らの持病を「高慢にならないように」肉体に与えられた「一つの棘」と呼び、その病があるために、かえって日々の信仰への心を新たにしたということです。)『魚雷艇学生』の第一章になる「誘導振」は、この対談の後に発表されました。
昭和十八(一九四三)年の九月末、二十六歳のとき九州帝国大学を半年繰上げ卒業し、海軍予備学生を志願、一般兵科に採用され、旅順の教育部に入り基礎教育を受けます。「もしかして戦闘機に乗り込むことができれば、(軍隊の)仕組みの中から抜け出せるのではないかという錯覚から、私は海軍飛行科予備学生の募集に応募していたのだが、厳しい訓練が課されるという飛行科には合格が叶わずに一般兵科に廻されてきたのだ。」(第一章) 翌二月、第一期魚雷艇学生となり、横須賀の水雷学校、長崎県川棚の臨時魚雷艇訓練所へ入所。その魚雷艇なるものも、「水冷式の航空エンジンを装備していて、爆音ばかりがやたらに高く速力はそんなに出なかった。おまけに故障が多く、予定されていた操艦訓練が中止されることも度々であった。もともと魚雷艇建造の技術が充分に進展せず、試行錯誤を繰り返している渦中であったことなど当時の私は知る由もなく」(第三章)といった状況でした。「六月後半のマリアナ沖海戦での敗北はわれわれの訓練期間とかさなるだけでなく、なお又日本海軍が壊滅的な打撃を受け、連合艦隊の組織的戦闘能力を喪失したレイテ沖海戦は目前の十月末に迫っていようという困難な時期に直面していたのである。」(第四章)そもそも魚雷艇なるものは、戦況の悪化と共に、海軍に新たに創設された兵器でした。五月、少尉に任官、「○の中に4」(マルヨン)特攻配置が決定します。ここに、小説はひとつのヤマ場を迎えるのです。「忘れることのできない一日」と島尾さんが位置づけたその日、指導教官の少佐が学生たちを集めました。そして「魚雷艇学生が特攻隊に志願することが認められたと言った。(或いは許可すると言ったのだったか)。」
長い一日の不意の休暇はそのようにして与えられた。終日よく考えて、その夜就寝前に志願するか否かの決意を紙に書きしるして出すようにと言われた。(中略)特攻隊などはるかな他人事であったのに、まさかまともに自分の頭上にふりかかってくるなど思ってもみないことであった。急に入江の海や周囲の山の姿、そして雑草や迷彩を施した学生舎の粗造りの木造の建物にまでへんないとしさを覚えた。実はS少佐の言葉を聞き終わったときに既に、私は志願してしまうにちがいない気がしていた。(第四章)
こうして島尾さんは紙に「志願致シマス」と書いて出したのでした。翌朝、少佐は全員が志願したと告げます。島尾さんは「三十数年が過ぎた今になって志願しなかった者の居たことを聞いた」と付加しているのですが――。(城山三郎氏に「一歩の距離」という作品があります。特攻を志願する者は一歩前へ出よと命令されます。自らも十七歳で海軍に志願した城山氏は、あれは「志願」と思わされたのであり、言論の自由のない当時の国家や社会が「強制」したのだと繰り返し語っています。)
その後、神戸の自宅に寄ったとき、奉天に嫁いだ上の妹とその生まれて間もない赤ん坊に会う場面が印象的に描かれています。
抱き取った赤ん坊から、やわらかい弾みのある手の指で耳をつかまれたりすると、言いようのない幸いな気分に満たされた。そしてこの赤ん坊や、妹たち、父などが先の世に生き延びるための犠牲であるのなら、自分の特攻死も諾われそうに思えたのだった。(第五章)
これが島尾さんに限らず、特攻死した若者一般の、偽りのない心情だったと思います。だからこそ、その死は重く尊かったのです。(妹・原美江さんは満州奉天で、敗戦の混乱中に亡くなりました。二十七歳。後で自決だったことが分かりました。‐『島尾敏雄事典』島尾ミホ編の年譜による‐やはり戦争の犠牲です。その語られぬ部分が痛ましいのです。)島尾さんは、天皇のことや、戦争そのものの批判、あるいは政治的な意味については全く語っていません。当の「特攻」についても大胆な批判をすることはありませんでした。それが吉田満氏との対談では珍しく声高に、全的に特攻思想を否定している、という印象を受けました。その一部分。
ほんとうに無茶じゃないですか。(中略)あんな大きな軍艦をグチャグチャにして海の底に沈めてしまうために、あなたが書いているような臼淵大尉なんていう、そういう人間が出てくるわけですからね。(『特攻体験と戦後』、臼淵大尉については「敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ、俺タチハソノ先導ニナルノダ、日本ノ新生ニサキガケテ散ル、マサニ本望ジャナイカ」という発言が紹介されています。大尉は敵機の直撃弾で斃れました。吉田氏は「臼淵の場合」‐『季刊藝術』一九七三年夏号‐というエッセイを書いています。)
さらに特攻生活と精神の頽廃について「あれをくぐると歪んじゃう」と述べたあとで、「その中からやはり水中花みたいな、非常にきれいな人間像が出てきたりなんかするんですね。(中略)だから、そういう一見美しく見えるものをつくるために、やはり歪みをくぐりぬけることが必要というふうなことになると、ぼくはやはりどこか間違っているんじゃないか、という気がしますね」とおっしゃっています。この「歪み」や「頽廃」が、寺内邦夫さんのおっしゃる「逸脱」に通じるのでしょうか。
先を急ぎます。自分の命を終焉に導く特攻艇を見るために岸壁に出向いて行く場面です。「上質の鋼鉄でよろわれた平たいミズスマシに似た」それを想像するのですが――。
しかし私が見たのは、うす汚れたベニヤ板張りの小さなただのモーターボートでしかなかった。緑色のペンキも褪せ、甲板のうすい板は夏の日照りで既に反りかかった部分も出ていた。(中略)私は何だかひどく落胆した。これが私のつい終の命を託する兵器なのか。(第五章)
島尾さんは、こうした「○の中に四」(マルヨン)艇による特攻を指揮する第十八震洋隊の隊長になったのでした。そしてしだいに、「俺は特攻要員だという免罪符」を身に付けてゆくのです。(これもまた「逸脱」の一種なのでしょうか。)その過程が『魚雷艇学生』の後半のテーマになります。
爆発物そのものを自分自身で操縦して目標の敵艦船に近づくだけのこと、いわば「単純な兵器」であり、「楽な戦法」だったのです。島尾さんは大村湾での訓練を、「真昼のモーターボートあそび」と自嘲しながらも、「指揮官としての呼吸」を体得していきます。文弱の徒が否応なく海軍に志願し、ついには百八十人もの部下を統率しなければならない特攻隊長になるのです。おそろしい時代だった、というほかはありません。
二度目に大村湾岸の川棚臨時魚雷艇訓練所にもどって来て、やがて終の部隊を組み、基地に進出するための待機のあいだを針尾海兵団で過ごすに至る約二箇月の期間に、私はそれまでとはかなりちがった人柄に変化させられたとしか思えない。(第六章)
そこには、震洋の八個部隊が待機していたのです。先に五個部隊が比島・コレヒドール島に向けて出陣していきました。しかし、そのうち三部隊は、途中で敵襲に遭って海没。残りの二部隊のうち一つは、コレヒドール島に到着できたものの、震洋艇はすべて敵襲によって爆破され、殆どの隊員は戦死。その一つの隊は、故郷の兵たちと一緒に死にたいといって強引に島尾部隊と隊員を交換したNの部隊なのでした。Nは何人かの部下を引率して斬り込みに出たまま還らなかったという。(その同期のNのことが島尾さんのわだかまりとなるのです。)島尾隊はもうひとつの部隊と共にやや遅れて佐世保を出港し、加計呂麻島の大島防備隊に着任します。昭和十九年十一月のことでした。わずか一年余で隊長に仕立て上げられたのです。『魚雷艇学生』は、次のように結ばれています。
澄み切った入江の海は、両岸の樹木の影を深々と写し、古代さながらの清らかな静けさに満ちていた。私はどれ程そこに基地の施設など作らずにいつまでもそのままにそっとして置きたい思いにかられたことか。しかし既に特攻隊の基地として定められた以上、両岸の樹木は次々と伐採され、兵舎が建てられ、特攻艇の格納壕としての三十メートルも奥行のある横穴が、十二個も掘削されなければならなかったのだ。(第七章)
島尾さんがこの美しい〈震洋の横穴〉について積極的に語りだしたのは、『魚雷艇学生』を書き始めた昭和五十五(一九八〇)年前後からのことです。ふっ切れたように、多くのエッセイでも繰り返し語っています。すでに戦後三十余年の歳月が経っています。「震洋隊員であった一年有半の日々」、そして加計呂麻島での十か月余が、「爾後の生涯を底深く規制した」ことを認める島尾さんなのでした。「震洋隊をも含めて、いわゆる特攻隊とはそもそも何であったか」ということでもあったのです。
震洋隊は、終戦時には百余隊を数えたということです。おそらく最も安価に造られる特攻兵器だったからでしょう。配置の場所は、ボルネオ島、コレヒドール島、中国大陸沿岸、海南島、台湾、朝鮮半島から琉球列島、伊豆・小笠原諸島、九州、四国、それに紀伊半島、伊豆半島、三浦半島にまで点在しました。しかし、殆ど戦果がなかったために、ゼロ戦や回天と違ってあまり知られていないのです。「各隊の実態を明らかにできたら」という思いは、島尾さんの脳裡から消えることがなかったようでした。お会いした折も、私が出たばかりの『潮』(別冊夏号、昭和五十七年)を持参しましたので、それに載っている島尾さんの「震洋の横穴」を話題にしたものです。少し前にテレビで放映していた済州島の風景のことで、そのとき特攻隊の穴という説明が入っていたのを、「あれはどうしても震洋です。土地の人は怒ってましたけど、ただで使われたって、穴を掘るのに。どきっとしましたね。かなりの年配の人が、握り飯だけ貰って掘らされたって言ってましたね。震洋艇を隠しておく穴、つまり震洋の横穴ですね」と、熱っぽく語っておられました。(のちに「震洋隊幻想」として小説化されています。)前述の渡嘉敷島でも、「兵舎づくりや特攻艇を入れる壕掘り、そのための杭木伐採から、食糧増産まで住民を動員した」(謝花直美、前掲書)ということです。島尾隊は基地隊員も抱え、木工や金工の専門の兵もいた独立した部隊だったとはいえ、これに近いことが行なわれたのではないでしょうか。
次に、同題のエッセイ「震洋の横穴」(『毎日新聞』夕刊、昭和五十五年八月十五日、『過ぎゆく時の中で』所収)がありますので、それを引用しておきます。
それから三十五年が経った。私は多くのことを知ったようだ。ともかく国が戦争に傾いて行くからくりもいくらかは見えて来たと思っている。それは心に安らぎが与えられるようなものではない。(中略)終戦直後の頃の私は特攻隊のことを思い出すさえいやであった。非戦闘員の原爆や空襲、沖縄戦の体験とくらべてもまるで無疵の体験ではないか。そのことはむしろ伏せておきたい気がしていた。しかし次第に私にとってその体験が決してそれ程軽くはないことに気づきだした。歳月が経つと共に、それが何であったかを見究めたい思いがつのるようになった。
かくして島尾さんは、自らの足で震洋基地跡を訪ねることになります。同エッセイの中で、その時点で訪れた土地を列挙しています。加計呂麻島呑之浦は当然のこととして、石垣島宮良湾、宮古島トリバー、奄美大島久慈湾、薩摩半島の坊津町泊浦、知覧町聖ヶ浦、高知県は宿毛市宇須々木、大月町柏島、土佐清水市小江、須崎市須崎港と浦ノ内湾、高知市浦戸湾、夜須町住吉。そうして、「なぜそうするのかを問われても、われながらわからないと答えるほかないが、探し求めてその穴を目の前にすると、鎮めと怯えに引きずり込まれるような戦慄を覚えるのだ」と結んでいるのです。対談の折、私が軽い気持で「巡礼する、鎮魂する、という姿勢ですね」と申し上げると、島尾さんは「やはり老化現象でしょう」とはぐらかされたが、そんな単純な言葉では表現しきれぬ心を抱えておられたのだ、と今では思うのです。島尾さんは奄美へ移ってからカトリック教会に通われ、やがて洗礼も受けるのですが、私には氏が信仰の中で安定した晩年を過ごされたとはとても思えません。〈横穴〉、それはまさに暗い精神のかようところでもあったのです。
さらにこの連作を書くにあたって、島尾さんは編集者と一緒に、意識的に、意欲的に震洋跡地の巡礼を重ねることになります。「震洋の横穴」は、高知県のそれを訪ねた記録。敗戦の翌日、土佐湾岸の震洋隊が、接近した米艦船に突撃を敢行したという情報を得て「私」は衝撃を受けます。しかし、事故による暴発だったと後で聞き、その現場を自分の目で確かめたいと思うのです。昭和四十八年夏、高知で予備学生同期のMと会い、事故現場に案内されて、目撃した二人の女に会って事情が判明したりします。
「震洋発進」。震洋隊の中で出撃したのは、コレヒドール島と沖縄本島金武湾岸に進出していた各二個隊だけです。その沖縄金武湾派遣の第二十二震洋隊の結成、戦闘、解隊のあらましをその指揮官であったTから直接聞くことで具体的に書き留めたのがこの小説です。 他に資料としてTの手記「静かなる特攻」を用いています。突撃を敢行したといっても、全うしたのは一隻だけ、基地は敵上陸軍の砲火を浴び、やむなく隊員は陸軍部隊に合流し、恩納岳の山中を根城にして、八月二十五日に敗戦を知ることになります。「生存者は部隊総員一六〇人のうち八四人であった。」と結んでいます。
「震洋隊幻想」は、「石垣島事件」(「M・事件」と呼ばれる)を取り上げています。三名の米軍捕虜を、警備隊の司令や副長の命令で処刑した事件です。敗戦直後、その第二十三震洋隊指揮官のM大尉は戦犯の容疑を受けます。軍事裁判の結果死刑判決を受け、処刑されてしまう。その顛末の詳細が、「私」と同期生のF中尉からの聞き取りで明らかにされてゆきます。捕虜を斬る三人にFも選ばれたが、用事があって波照間島へ行って戻ってくると、すでに処刑は終わっていたのでした。Fは、三人の米兵の墓を作るようM大尉に進言したが反対されたということです。戦後になって三つの十字架の墓標が建てられ、米軍が来島した折、それを見ていったんはおさまったのでした。しかし、GHQに告発する投書があって、戦争犯罪事件になったのです。FはM大尉の助命を嘆願するのですが、最終的にM大尉、警備隊の司令、副長ともに絞首刑となります。風聞として伝わる事件から実態を追究し、闡明にしてゆく過程、構成ともに優れた小説です。
「『石垣島事件』補遺」。わずか十四ページの分量ですが、「石垣島事件」に拘る島尾さんの重いこころが伝わってきます。「震洋隊幻想」執筆後、知人から関係文献資料を提供され、前作の「遺漏を補っておきたい」ということで書かれたもの。島尾さんが入手した新たな資料は、作田啓一「われらの内なる戦争犯罪者‐石垣島ケース」(『展望』昭和四十年八月号)、沖縄連盟総本部『石垣島事件‐郷土兵戦犯減刑運動報告書』(『沖縄』二十五年六月号)、小浜正昌「石垣島事件の戦犯として」(『沖縄県史』戦争体験談二集)など。前作で書いたところとの差異、とくに米兵処刑の日時の違いについての気持の動きを書きとめています。沖縄連盟による減刑運動は、単に沖縄出身被告の減刑だけでなく、本土人被告の減刑にも一定の影響を与えただろうと語っています。
以上が『震洋発進』各編の内容ですが、今回私が注目したのは、〈集団自決〉や〈捕虜虐殺〉への視点です。それに対して島尾さんはどのような有りようであったのか? ということです。そして、震洋隊の存在が与えた〈加害力〉、しいては、にんげんの本来的な〈加害力〉についても考えさせられました。
そもそも島尾さんにとって、「震洋隊基地跡の秘匿艇庫跡の壕の入口の名残りが、なおも消滅せずに在るということ」は、氏の人生そのものが「容易に解けぬ謎がかけられたままになっている」ということでもありました。その〈震洋の横穴〉に向かい立って、島尾さんは次のように感受しています。
いらだつことの多い気持が鎮まっているのに気づいて不思議な思いにかられるのだった。不如意な日常の中の渇きのために私が抱え持つ不安定に浮遊する黒点が、忘れ去られた横穴の暗黒にぴたりと重なり、そのまま消失してしまうような、一種の安らぎを覚えるのも妙であった。(「震洋の横穴」)
また、次のようにも。
端的に言えば、ただ震洋の横穴の前に立ってそれをじっと見、そしてあたりの景観から何らかの信号を感受すればそれで私は一種の充足があった。充足、と言えるかどうか、その地点を支えにして私の過去と現在は激しく交錯し、一旦はめくらめきを感ずるがそのあとで鎮静を得ることができたのだった。(「震洋隊幻想」)
もっとも、「言い知れぬ怯え」も伴っていると付加することも忘れていません。「黄泉のくにへの通い路」とも表現しています。これは単に年齢を重ねたから、ということだけではないでしょう。そこは島尾さんにとって、本来的に還って行く場所であったからです。思うに島尾さんは、〈震洋の横穴〉からついに脱出できなかったのではないでしょうか。逆説になりますが、最も充実して生きたのが、実は死と対峙していた加計呂麻島の基地での九か月だったと思います。梅崎春生氏が最後の作品『幻化』によって『桜島』に還ったように、島尾さんは『震洋発進』によって「はまべのうた」へと還って行ったのです。
高知では、かつて少女だった頃の目撃者である二人に案内されます。二人の口振りから部隊に寄せる彼女たちの柔らかな気もちを受けとめると、「私」の気分も楽になるのでした。「彼女たちと何か同じ被害者、いやむしろ加害者か共犯者とでもいった共通の立場に立たされているような感じがした」と語っています。そして、昔日の加計呂麻島の、基地周辺の集落の娘たちの姿を二人に重ね合わせもするのです。
その加計呂麻島の基地の近くの山あいには村の人々によって防空壕が掘られていた。ただの防空壕としてだけでなく、アメリカ軍の上陸が決定的になった暁には、その中に村の人々が集合して集団自決をするためのものであることは、みんな知っていた。(「震洋の横穴」)
この件については既に取り上げました。しかし、「集団自決」という観念がどうして琉球列島にだけ集中していたのか、単に地上戦の行なわれたところという点に帰するのでしょうか? それは、石垣島を訪ねた件(くだり)で、いっそうあらわになります。
それは土地の非戦闘員を巻きこんで多くの死者を生み、自然の環境を崩壊して生活を殆んど無に帰せしめたあの沖縄戦の悲惨な経験が、この土地と人の背後に厳然と横たわっているからにちがいなかった。(中略)自分も又旧軍隊の一員で近くの奄美に駐留していたという過去が負い目のように甦ってくるのが防げなかった。(「震洋発進」)
そして「戦時中の所行についてどんな告発も受けようと受身のあやしい構えになっている自分にも」気づくのです。島尾さんのこうした感受のすがたにはいつも驚かされるのですが、それを資質だと言って済ませられる問題ではないと思います。島尾さんは、声高には一度も戦争反対の言を吐いていない、といった事実と共に、島尾さんの生き方とその文学への姿勢は、問う側にではなく、問われる側に身を置こうとしたところにあったように思うのです。そのことを、最もよく示しているのは文体にあります。「罰せられている」、「験されている」、「審かれていなければならない」、「身の置き場のない羞恥に駆られた」といったかたちで、それは頻出する。そういう受身性が声高なものになっていくはずはありません。こういうことは二度と繰り返してはいけないという叫びよりも、人を圧するものに対して自分からは加担しないという無言の姿勢と行動にこそ、私は強い内的な力を感じます。先に引用した「加計呂麻島敗戦日記」の、「私ハ命令サレルコトハ何デモナイガ命令スルコトハ甚ダ苦痛デアル。何故サウナノカト言フコトヨリ、生レツキガサウナノダト言フヨリ他ナイ」(二十年七月三十一日)という記述が思い合わされます。また、次のような感受の仕方も。
たまたま済州島を主題にしたテレビのルポルタージュ番組を見ていて、海端に切り立った崖に割に大きな黒々と空虚な横穴の入口が幾つか並んでいる風景がいきなり目に飛び込んできたことがあった。(中略)アナウンサーは旧日本軍の特攻隊が作ったものだと説明していたが、あれは震洋の横穴にちがいないと思い、なぜかどす黒い怖れに襲われた感じになり、しばらくは心の動揺が納まらなかった。(「震洋隊幻想」)
私に軽く話されたことは、実はこのように重いものだったのです。そうしてこの後、島尾さんは「では一体どの震洋隊が基地周辺の人々に荒廃の種子を撒き散らさなかったと言い切れるか、という問いに対して答えに窮する怖れが湧き起こるからである」と言わざるを得なかったのでした。それはやはり、一種の「負い目」意識だと思います。丸腰の土地の人々に対して、軍隊はどのような所行をしたか? その所行についてはいかなる告発をも受けようと、「受身のあやしい構えになっている」のが島尾さんなのです。それでも基地を訪ねる心の揺れを語ります。
戦争を背負った軍隊が在地へ残した理不尽な棘は容易なことで抜き取れるものとは思えない。そのかかわりは双方共に根深くからみ合っているが故に一層にほどけにくい。私の一つの内心の声が二度とその場所へは訪れるべきではないとささやきつづけているのに、しかもなお抗し難くその現場に吸引されるのである。(「震洋隊幻想」)
やはり関連して、再び「石垣島事件」を取り上げなければなりません。それについても島尾さんは、同じように自分のこととして考えているのです。
私は私が居た基地のそばの山中に墜落したアメリカ飛行兵の死体を見たこともあったし、司令官の居た大島防備隊には落下傘で脱出したあと捕えられた二人の若い米兵捕虜が居たのも知っている。しかしその捕虜は戦争の終結を待たずに死んだ。(中略)ふとした運命のいたずらで私はどの状況にも立ち合っていたかも知れぬ頼りなさが考えられた。私に捕虜を斬るなどできることではないと思うと同時に情勢に流されて行く自分の姿も見えるような気がした。(「震洋隊幻想」)
戦犯に名指され処刑された例は、私が知る限りではこの二十三震のほかになさそうだ。しかしどの震洋隊もそんな具合にはならなかったと言い切れぬ怖れがわだかまっているように思える。(中略)南島の自然環境や、震洋隊という同じ枠組みの特攻隊生活が、私の体験と重なる所が多い点から、それはひとごととは思えぬ戦慄に満ちたものとして受け取れた。(「『石垣島事件』補遺」)
繰り返しますが、自分が同じ立場であったなら、という想像力こそがにんげんとしての存在の原点なのだ、と島尾さんは認識していたように思われます。詰めてゆくと、〈加害力〉こそがにんげんの本質であることを見抜いていたのです。更に、他者の行為を他者のものにとどまらせることなく、「自分ならば」とあくまでもおのれに引き寄せて考える。その自己の存在の全体を、根本から左右してくるような何かを肯定し、どうしてもそこに拘るほかないような精神の有りようなのです。それは執拗な自己凝視の果てに、ついには自他の区別を無化してしまう視点でもあるのです。にんげん、ひとしなみに、その根どころに隠し持つ加害力を認識すること。そしてそこからの救済を願うときに、私はキリスト教については無知ですが、どうしても原罪観のようなものを感じるのです。加害者が身につけるべき慎みと言うべきでしょうか。それを信仰あるいは宗教に関わる姿勢であるとすれば、島尾さんの文学は、それを語ることへの厳しい拒絶反応(しばしば「宗教のことはわからない」「うまく話せない」と語っておられる)にもかかわらず、「神」と相対してくる文学ではないでしょうか。そして私は、島尾さんがクリスチャンであるなしに関係なく、宗教的資質を持っていたようにも思われるのです。やはり「敗戦日記」の六月(日付なし)の、「あらゆる悪いことみにくいこと行き違ひ誤解等は総て何の能力もない私一個の身体で濾過する。さうすることだけが逆に私の唯一の能力であるかのやうに感じられたのだ。私の身体にどんなみにくい腫物が出来ても我慢する。どんなに高熱が生じても黙つてゐる、決して自分以外の者に訴へない。もし少しでもその事をしやべつてしまへば、世のみにくいものをみんな自分の身体に吸収しやうとする神通力は失つてしまふやうに思はれたのだ」の記事が気になるのです。関連して私は、名瀬の図書館構内にある「島尾敏雄文学碑」の碑文「病める葦も折らず/けぶる燈心も消さない」をも思い出しています。(「イザヤ書」第四十二章にこれに類した一節があります。)
さて、前掲の引用文(「震洋隊幻想」)の中の、「アメリカ飛行兵の死体を見た」に戻りましょう。ミホ夫人が吉増剛造氏に語っている部分に、島尾さんの美質が表われているように思います。
島尾部隊の近くの谷でも、一九四五年の四月頃にアメリカ軍の飛行機が火を噴いて落ちました。それを島尾隊長が見ていて、「搭乗員を助けにいこう」と言って隊員を連れていったそうです。でも、搭乗員の方はもう亡くなっていたので、島尾隊長はその搭乗員を担架に乗せて、遺体を呑之浦の基地のある集落のお墓の下に埋葬しました。そして大きな十字架を作りまして、「故ノーマン・ウイットレッジ君之墓」と島尾が十字架に書いて、埋葬した場所にその墓標を立てて冥福を祈りました。
そうしたら部落の人たちが「先祖代々の大切な墓地に敵兵の遺体を葬るとは何事だ」と言って大変怒りまして、その墓標が夜になると歩き回るんです。それが面白いんですの。きょうは田んぼの中にあったと思ったら、明日は川の中、また次の日は海岸に投げつけてある。そうすると島尾部隊の兵隊が来てちゃんと墓地にまた立てる。そのいたちごっこの様子を「呑之浦の人はみんな怒って墓標を捨てていますよ」って、私が島尾に申しましたら、「山の中に埋葬すると、戦争が終わってから遺族が遺骨を探しに見える時にわからなくなる。お墓だったらすぐわかるから、戦争が終わった後のことを考えてそうしたんですよ」と言っていました。そして実際に戦争が終わりましたらアメリカから人がすぐ見えて、遺体はどんな小さなお骨までもみんな納めてお帰りになったそうです。(「死者と生者・幽明のあわいに」『論座』〇四年一月号)
この後に吉増氏が、「後々わかるようにというのは、おそらく島尾敏雄さんの想像力の核心を突いていますね」と語ります。まったく私の考えを代弁していただいたようでうれしくなりました。島尾さんのそれは、ほんとうにやさしい想像力なのです。この行為について、ご自身は何もおっしゃっていません。しかし、島尾隊長の従兵をつとめた山城漢栄氏が、インタビューで次のように答えているのが傍証になるでしょう。
とにかく島尾隊長は、いっぷう変わっておったですよ。敵のグラマンが落ちたでしょう。そうすると、その搭乗員の遺体を収容し、それを全部埋葬して、墓標を立てるんです。当時は普通だと敵兵には敵愾心があって、そんなことをする人はほとんどいなかったんですが。(「山城従兵の見た島尾隊長の素顔」『新沖縄文学』七十一号)
そんな島尾さんでさえ、捕虜を斬れと言われたら流されそうになる危惧を感じる、そうした状況の中でのにんげんの加害力の問題なのです。軍隊という機構の中でひとはどれほど人道的でありうるか? 捕虜の待遇については、戦争という非人道的な状況の中でも、本来は最低限のルールだったはずです。しかし、米兵によるイラク人捕虜虐待事件が、われわれの記憶にまだ新しい。それに関しては、鶴見俊輔氏の次の文章が印象的でした。
(前半略)私は大戦中、通訳の軍属として南方に送られた際に、捕虜殺害に直面した。黒人捕虜を殺せとの命令が、隣室の同僚に下されたのだ。私は当時、もし誰かを殺せと命令されたら自殺しようと考えていた。そして戦後もずっと「もし私が命令されていたら」という問題を私なりに考えてきた。
イラク人虐待は軍の内部告発で発覚した。私は、黒人捕虜を殺害した同僚の告発をしなかった。米国による戦犯裁判を正当とは思わなかったからだ。
虐待は個人の問題だったのか、組織的行為だったのか。多くのメディアがそこに焦点を当てている。だが仮に命令だったとして不服従という道はありえないのか、という問いが提起されているようには見えない。(「イラク人虐待―異文化尊重考える契機に」『朝日新聞』〇四年五月二十二日)
もはや個人的な人道の問題ではありません。にんげんの加害力が加速され増幅する、戦争という組織悪の問題です。それに対しては、「不服従」という武器だけで戦っていけるのでしょうか? 島尾さんの絶望もそこにあったのではないかと思われます。
島尾さんには(否、誰にでも)どうしても語らない、語られない部分があります。再び触れるのですが、宗教、信仰についてです。しかし、いま振り返って考えますと、カトリック入信はミホさんのことが一つの契機にはなっていても、それだけではないように思います。前に、島尾さんには宗教的な生地があったように思うと申しましたが、その淵源はやはり戦争にあった。たとえ未発にせよ、特攻体験という歪みをくぐった人間がそれを直視し続けるときに、どうしてもそこに「神」なる存在を見なければならなかった。上総英郎氏との対談では、氏に「宗教的問題っていうのは結局、矛盾を背負うということだというふうに考えていらっしゃるんじゃないかと思って」と問いかけられ、島尾さんは「無理やり」という歯切れの悪さで応じているのが印象的でした。
なにか、自分というものが、やっぱりたまらないですね、その小ささというか、醜さというのかね。それは、自分には手に余ることだから、なにかもっと大きなものというか、あるいは超越的な原因というものに、ついていてもらうというか、まかせてしまうというか、かといって自分がなくなってしまうわけにいきませんから、やっぱりそういう矛盾をしょったままでいかなくてはならない、そういう気がするんです。(「たまらない自分を負って」『内にむかう旅』所収)
こうした問題は、言語表現では無理な部分が大きいと思います。それは深い闇の中でひろがり、沈黙のままに続けられる類のものです。戦争についても、宗教についても、自分を「分かった」と言い切れる人と、「分からない」としか言い得ない人と、果たしてどちらがものを見る目を持っているといえるのでしょう? 読者は表現されたものの彼方に、作家の沈黙のはたらきがあったことを読みとらなければならない、と思うのですが。
ここに島尾さんの未完遺稿「(復員)国破れて」(『群像』一九八七年一月号)があります。百名ばかりの震洋特攻兵を分乗させた三隻の徴用漁船を指揮して、加計呂麻島を出る場面が描かれています。
私自身は、もし輸送船指揮官などを命じられなかったら現地に留まることを秘かに考えていたし、一旦は本土に赴いても復員手続きを終え、父の生死などを確かめ得たあとは再び島にもどって来る心づもりを抱いていたから、基地や残留隊員への訣別の思いはそれ程強くはなかった。
現実にはそのようにはならなかったのですが(ひとつはブンガクにとりつかれていたせい?)、あんがい島尾さんは本心を語っているように思えるのです。すると戦後は、精神的な〈未帰還兵〉として日常を送っていたということになります。単に現象として〈生き残った者〉に過ぎなかったようです。そのような者として結婚し、家庭を営み、社会や世界に向かってこなければならなかったのです。赤松大尉と同じだった。だからこそ島尾さんは赤松氏の生残の重みを知り、そこに同化し、そして慄いたのに違いありません。
ここで私は、もうひとつの例を思い出します。それは東欧紀行である『夢のかげを求めて』(昭和五十年)の中の一節、オシヴィエンチム(アウシュヴィッツ)の収容所を訪ねての感慨です。
この収容所に入れられた者の中から生き残った人々が居ることは、やはり不思議と言うほかはない。ほとんどが殺されてしまう状況の中でなお生き残り得るということは、ほんとうに、どういうことだろう。しかしなぜか、どうしても生き残る者が出て来るものである。沖縄の離島の集団自決の中からも、孤島の全員玉砕の戦場からも生き残る者が出て、その残った生を生き続けなければならぬ。
島尾さんはどうしても、生残者の思いへと想像力がふくらむのです。声高に戦争の非を叫ぶよりも、この沈んだ表現に説得力を感じるのは、単なる身贔屓でしょうか。
ここで再び寺内邦夫さんの視点を思い出します。かつて私は島尾さんに向けて〈頽廃〉という語を使ってしまいました。単純にはそうかもしれません。しかし、そう言い切ってなお余りある感情の異和を、島尾さんはずっと直視してきたのだと思います。体験しない者が規定することば、それが論理的に筋道だっていればいるほど、そこからはみ出てしまうものがある。寺内さんはそのことを知っていて、なお「逸脱」という語に異和を感じたに違いありません。氏もまた「戦死予定が果たせず」に、「復員」した方でしたから。
いま私は、ふたたび「震洋隊幻想」の一場面、つまり加計呂麻島の基地跡に立っています。「入江の両岸の樹木、その木の間を塒にし飛び交い囀り合う鳥たちの気配、岸辺に咲く草々の花、蟹や宿借りやさまざまの貝、海の動物、月の満ち欠け、潮の満ち干」を目にし、耳にします。そうすると、「地の肌のぬくもりに融け入ってしまうかのような、或いは永劫の気配をほんのわずかながらからだ全体に振りかけられたような、何とも気だるい安らぎと充実の境域にわが身が置かれているなと感ずる」ことができるのでした。そして島尾さんの語られたように、「人間の思慮の中の高々の時の移ろいなど、どれほどの意味を支えているのかわからなくなってしまう」のです。ふと振り返ると〈震洋の横穴〉から出てこられた島尾さんとミホさんが、手をとり合って海上を歩いて行き、そして水平線の辺り、天上へと昇って行くのが見えました。それでもなお、死の棘は刺しつづけられているにちがいありません。
(二〇〇八年三月二十五日、島尾ミホさんの一周忌に)
(注)年号については、島尾さんの生前は「昭和」を、それ以降は西暦で記しました。
(付記)三月二十八日、〈 大江健三郎・岩波書店訴訟 〉裁判の判決言い渡しが大阪地裁であり、原告側の請求はすべて棄却されました。住民の証言が初めて認定されたかたちでもありました。