近代の〈光明〉-夏目漱石の夢-

作家漱石の誕生に焦点を置いて漱石を考察することは、その経歴にかんがみて、他のどんな考察よりも有効であると思う。その場合、その焦点に関連してくるものは、漱石、およびその作品を解する上で、またもっとも有効であると考える。漱石は『吾輩は猫である』(一)〔以下、(漢数字)は『吾輩は猫である』「第一」から「第十一」までの各章、またはその引用を表す〕によって作家としてのスタートを切った。晩年には、その関連として『私の個人主義』を講演している。この二者は、私にとって漱石の本然にさかのぼるという意味で、もっとも魅力的である。日本ペンクラブ電子文藝館では、漱石の作として『吾輩は猫である』(一)と『私の個人主義』の二点を掲載しており、また「読者の庭」という投稿の場もある。私は、『吾輩は猫である』(一)と『私の個人主義』を探究して漱石の本源に分け入ってみたい。

けだし、『吾輩は猫である』(一)を書いた漱石は、つづく『倫敦塔ロンドンたふ』においてその極大のテーマとおぼしき文学を追究している。『吾輩は猫である』(一)と『私の個人主義』の探究は、具体的には『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』と『私の個人主義』の考察になる。三作の本源には、近代の〈暗闇〉と近代の〈光明〉とからなる、漱石の〈暗闇の光明〉の人生観、文学観の閃きがつかめるように思う。漱石の作家活動としての〈暗闇の光明〉を、その本然たる、作家漱石の誕生、『吾輩は猫である』(一)、長篇『吾輩は猫である』、『倫敦塔』、『私の個人主義』に関する1から5の篇をとおして考察し、漱石およびその作家活動の本源、本質の探究を試みる。

(漱石作品の引用は、電子文藝館テキスト、ならびに岩波書店版〔昭和四〇~四二年刊行〕『漱石全集』による。漢字は新字体とし、振り仮名は適宜の使用である。)

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1 漱石の処女作―『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』―

教師、学者の創作

夏目漱石は近代日本の出発点である明治維新前年の慶応三年、江戸牛込(現・東京都新宿区)に名主の五男として生まれた。いわゆる江戸っ子である。歴史的に日清戦争、日露戦争への道を歩む明治日本であるが、他方、教育、学問が重んじられて近代的な学校制度が整えられ、大学も創設された。漱石は明治二十三年、東京帝国大学文科大学英文科に入学、卒業後はさらに大学院に進み、明治二十六年、東京高等師範学校の嘱託となった。しかし、明治二十八年、愛媛県尋常中学校へ突然赴任する。さらに翌明治二十九年、熊本の第五高等学校へ赴任した。熊本で四年余過ごした明治三十三年五月、英語研究のため二ヵ年の英国留学の官命が下り、同年九月英国に向けて出立した。明治三十六年一月に帰朝。東京で第一高等学校、東京帝国大学文科大学の講師となった。

その漱石が、教師のかたわら『吾輩は猫である』(一)を発表して作家としてのスタートを切ったのは、明治三十八年一月、まもなく三十八歳となる時であった。翌三十九年に発表した『坊つちやん』、『草枕』は日本近代文学史上の傑作となった。明治四十年四月、漱石は教職を辞し、東京朝日新聞社に入社して職業作家へと転身した。入社第一作の『虞美人草』、翌年から着手された『三四郎』『それから』『門』の前期三部作、明治四十三年八月、胃潰瘍の再発により死生の境を彷徨した「修善寺の大患」後の『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』の後期三部作、『吾輩は猫である』の時代を主な素材とした自伝的小説『道草』、未完の大作である絶筆『明暗』がその主な仕事である。『こゝろ』後の『道草』、『明暗』において新たな文学活動を目指したが、『明暗』執筆の半ば、六度目の胃潰瘍に倒れ、五十歳を前に死去した。半生を教師、学者として過ごした後の、一筋の作家活動のさなかであった。

伊藤整は『求道者と認識者』(昭和三十五年)で「漱石は武士的人間だつたが、やむを得ず人間認識の場に深入りした」、「人間の組み合せの認識者漱石は、最後に則天去私なる実践目標にすがりついた。大まかに言へば認識者の行きづまりは、実践的求道者の生活によらねば打開されない」と、漱石の文学活動が人間認識者から実践的求道者への一筋の道であることを「剴切かつ適切に」考察した。

伊藤整は実践的求道の文学としての『明暗』を高く評価しており、『近代日本人の発想の諸形式』(昭和二十八年)では「存在自体がたがひに有機的にそのエゴと力において組み合つたまま組み合はせ方の中に変化といふ相対的実在を描き出した明確な作品は『明暗』(大正五年)が最初ではないか」と論じている。伊藤整のいう「相対的実在」の究極の像が、『明暗』大詰めの、温泉場で再会する津田と清子との対座の像であろう。そこでは、一言にしていえば、「虚言うそ」ではなく「事実」を診る医者に「不謹慎」を冒して温泉場行きを断行する津田と、医者同様「嘘でも偽りでもない」「事実」を語る清子との「エゴと力」の「組み合はせ」の「相対的実在」が、漱石晩年の「定力」「道力」(大正五年十一月十日付け鬼村元成宛書簡)によって息をむ白熱の展開を見せている。

『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』のシンプルな奥深さ

さて、私はこの稿を、漱石の作家活動の出発点にある『吾輩は猫である』(一)と、『吾輩は猫である』と並行して書かれ、漱石の最初の短篇集となる『漾虚集やうきよしふ』にその第一作として収められた『倫敦塔』とを、あわせて作家漱石の誕生として捉えることから出立しようと思う。漱石は英文学の教師、学者であることから作家としてスタートすることによってその文学活動を開始した。東京帝国大学文科大学講師夏目金之助が、長年の教師、学者生活を経て創作の筆を執った『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』がそうであるし、その翌々年、半生にわたる教職を辞し、東京朝日新聞社に入社して小説家となった漱石もそうである。

『吾輩は猫である』(一)を発表して作家としてのスタートを切った漱石について、高橋誠一郎は『司馬遼太郎の夏目漱石観』(「異文化交流」〔第4号〕初出)で、日露戦争のさなか『吾輩は猫である』を書いた漱石についての司馬の、「漱石という人は奥の深い人です」、「明治のおもしろさというより、頼もしさを感じますね」という漱石観を紹介している。

明治三十八年一月にほぼ同時に発表された『吾輩は猫である』(一)(『ホトトギス』一月号〔一月一日発行〕)と『倫敦塔』(『帝国文学』一月号〔一月十日発行〕)は、ともに、教師、学者から作家として出立する漱石の生活や活動やその美意識、倫理がリアルに感じられる作品となっている。二つの作品は、新しく作家としてスタートする際の漱石をシンプルに語る得がたい二作品として捉えられる。と同時に、この二作品、『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』は、明治四十年春、東京朝日新聞社に入社して新たに職業作家としてスタートし、その後十年にわたる作家活動に邁進し国民的作家、文豪と称される足跡を残した小説家夏目漱石をシンプルに語る奥深い作品にもなっていることが認められるように思う。『明暗』までに至る漱石の十二年間の作家活動、文学活動の道のりは、その作家活動の出発点である『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』にすでに予見されると考えられるのである。

『吾輩は猫である』(一)創作における作家漱石誕生の情況を視野に入れつつ、漱石の処女作『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』の奥深さ、頼もしさを考察してみよう。

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2〈暗闇の光明〉―「水彩画」の夢と「倫敦塔」見物―

吾輩と教師苦沙弥先生

『吾輩は猫である』(一)は、大きな二つの物語によって構成されている。一つは冒頭から「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と登場してくる猫の吾輩の物語である。他の一つは吾輩が「吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師ださうだ」と紹介する、吾輩の主人の教師の物語である。『吾輩は猫である』(一)のこの人間以外の猫と人間の教師という物語の成立に、教師、学者にして作家としてのスタートを切った漱石の明治近代に対する鋭い洞察、言いかえれば司馬遼太郎の評する漱石の奥深さ、明治の頼もしさの源泉が認められるように思う。

吾輩の物語には、「宿なしの小猫」が、苦労の末、「遂に此家うちを自分の住家すみかめる事にしたのである」と「自分の住家」を探し当て、いうなれば「苦沙弥先生門下の猫児べうじ」(六)になるというエピソードがある。このエピソードは、(一)の末尾にも「生涯此教師のうちで無名の猫で終る積りだ」とくり返されている。無名の猫の吾輩が教師苦沙弥先生の家を「生涯」の「住家」と「極め」たことが『吾輩は猫である』(一)の一つの重要なテーマであろう。

教師苦沙弥先生の物語であるが、「職業は教師ださうだ。学校から帰ると終日書斎に這入つたぎりほとんど出て来る事がない」とその書斎生活が語られている。この書斎生活は、「教師程つらいものはないさうで」「何とかゝんとか不平を鳴らして居る」という「不平」生活である。この「不平」書斎生活について、やはり(一)の結尾で「主人は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立てこもる。人が来ると、教師が厭だ厭だといふ」と同一の主張がくり返される。『吾輩は猫である』(一)のもう一つの重要なテーマは、教師苦沙弥先生の「不平」書斎生活である。

『吾輩は猫である』(一)のこの二つのテーマは、無名の「宿なしの小猫」が、明治文明社会において、教師苦沙弥先生の「不平」書斎生活を「生涯」の「住家」に決定しているという一つの物語を浮き彫りにする。その決定は、もし「宿なしの小猫」の吾輩が「竹垣の崩れた穴からとある邸」の苦沙弥邸に「もぐり込」まなければ、「遂に路傍に餓死したかも知れん」運命においての選択であった。吾輩の際どい〈死生〉の間際に、教師の「不平」書斎生活という『吾輩は猫である』(一)の物語は成立しているのである。

苦沙弥先生の「水彩画」の夢

「終日書斎に這入つたぎり」、また「帰ると書斎へ立て籠る」という「不平」書斎生活だが、苦沙弥先生は、「俳句」「新体詩」「英文」「弓」「謡」「ヴアイオリン抔」「何にでもよく手を出したがる」先生として造形されている。「不平」の結果、苦沙弥先生は「何にでもよく手を出したがる」人間となったものらしい。長年、教師、学者として過ごした漱石が創作にあたって造形した注目すべき像であり、この「何にでもよく手を出したがる」教師苦沙弥像は、漱石の洞察による近代的人間像として捉えられる。

しかるに書斎人苦沙弥を、「家のものは大変な勉強家だと思つて居る」。また「当人も勉強家であるかの如く見せて居る」。ところで、いやしくも吾輩の際どい〈死生〉の間際に物語られる苦沙弥先生の「不平」書斎活動は、家族の鑑定や本人の見栄、虚栄のとおり、本来「大変な勉強家」の物語であるべきはずである。もし苦沙弥先生が「大変な勉強家」でなければ、〈死生〉の間際の「宿なしの小猫」が「とある邸」の苦沙弥邸をことさら「生涯」の「住家」に決定すべき理由がないともいわれるのである。

『吾輩は猫である』(一)とほぼ同時に発表された『倫敦塔』の冒頭文は、「二年の留学中たゞ一度倫敦塔を見物した事がある」である。この「二年の留学中」には、文部省の官命により留学した英国において、英文学者として真摯に鋭意に学問にとり組み、帰朝後東京帝国大学文科大学講師の任を果している立派な学者、いわば「大変な勉強家」の教師、学者夏目金之助の存在の主張がある。『吾輩は猫である』(一)は、時日をほぼおなじくして書かれた『倫敦塔』の英国留学中のの存在をあわせ持っているのである。

しかし、一方『吾輩は猫である』(一)の主なテーマは、苦沙弥先生が「不平」家で「何にでもよく手を出したがる」人間となっているその新たな、近代的な出発にある。「不平」「教師の家」を「住家」とした吾輩もまた近代的猫、「二十世紀の猫」(七)であり、苦沙弥先生同様、明治文明社会に対する「不平」をもらす。

『吾輩は猫である』(一)では、「何にでもよく手を出したがる」苦沙弥先生が、「今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心」、「水彩画」をかく決心をする。「宿なしの小猫」の吾輩が「不平」書斎生活が送られている苦沙弥邸を「生涯」の「住家」に決定したことの、いわば成果である。教師、学者の処女作『吾輩は猫である』(一)という淡白な作品がもつ淡白で美的な構想として認められるが、その主題を吾輩が「吾輩の家の主人が此我儘わがままで失敗した話」として語っていることが問題であろう。

苦沙弥先生の「水彩画」は、縁側で昼寝をしている吾輩の「熱心」な写生と、目を覚ましてのそのそ這い出した吾輩に対する「失望と怒り」、そしてその後の「急に上手になつた」水彩画を「ひとりで眺め暮らして居る」夢という形の「水彩画の未練」という経緯に置かれている。その過程が単純に「我儘」「失敗」であると考えられる。ただし、『吾輩は猫である』(一)が、漱石の奥深さ、明治の頼もしさをもつ処女作であることを顧慮すると、苦沙弥先生の「我儘で失敗した話」はそう単純には聴かれない。「我儘で失敗した話」の前後に、吾輩が〈人間の我儘〉、また〈人間の不徳〉について「不平」をもらしている情況に目を凝らせば、なおさらである。

苦沙弥先生の「水彩画」における「熱心」「我儘」とその「失望」「失敗」の経緯に、吾輩の〈人間の我儘〉、〈人間の不徳〉に対する「不平」をオーバーラップさせてみよう。「水彩画」における「熱心」という「我儘」には「不徳」という「失望」「失敗」が伴うという批判が認められる。端的に捉えれば、教師苦沙弥の「水彩画」自体、「我儘」「不徳」であるという洞察、批判である。漱石、吾輩による、「何にでもよく手を出したがる」近代的人間像がもつ危険、弱点の観察、洞察である。実際、「御馳走を食ふよりも寐て居た方が気楽でいゝ。教師のうちに居ると猫も教師の様な性質になると見える」と話す、『吾輩は猫である』(一)の吾輩は「熱心」「我儘」という近代の危険、弱点には関係せず、したがって「不徳」「失敗」という危険、弱点にも関与しない。苦沙弥先生も、もともとは吾輩が「人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寐て居て勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はない」と観察する、近代以前の「教師」であったのである。

『吾輩は猫である』終章(十一)の終盤には、「呑気のんきと見える人々も、心の底をたゝいて見ると、どこか悲しい音がする」という一節がつづられる。この一節の直後に水甕に落ちておぼれ死ぬ吾輩は、『吾輩は猫である』におけるもっとも淡白な美的なテーマ、苦沙弥先生の「水彩画」にさえ見出される近代の危険や弱点、「熱心」「我儘」、かつ「不徳」「失敗」という近代の「悲しい音」に誰よりも気づいていたにちがいない。

しかし一方、「不平」は現実であり、「水彩画」に「手を出」すことにより、苦沙弥先生はその「不平」書斎生活に新生面を切り開いたのである。ただの新生面ではない。奥の深さ、明治の頼もしさをもつ「不平」近代人としての新生面であり、敷衍していえば、東京帝国大学文科大学講師、学者夏目金之助が、『吾輩は猫である』(一)の創作に「手を出」して作家としてのスタートを切った事実そのものになる。この新たな近代的出発において、それが「熱心」「我儘」にせよ「不徳」「失望」「失敗」にせよ、近代以前の教師、学者であった作中人物苦沙弥は近代的教師、学者となり、教師、学者としておそらく「不平」書斎生活を送っていた漱石も、新しく作家として明治近代に参画したのである。

『倫敦塔』もまた、『吾輩は猫である』(一)とおなじ事情、情況のもとに創作されている。『倫敦塔』では、英国留学した「大変な勉強家」余の「倫敦塔」の「見物」が、余と漱石の近代的新生面、出立になるのである。

ところで、日露戦時下に発表され、司馬遼太郎のいう漱石の奥の深さ、明治の頼もしさの出発点となっている『吾輩は猫である』や『倫敦塔』は、近代国家、近代社会といかに関わりあっているだろうか。作家漱石誕生時の漱石に目を向けてみよう。

〈暗闇の光明〉

『吾輩は猫である』後のある時、漱石は門下生の小宮豊隆に「発句をやめてから『猫』を書き出すまでの間は、真暗な穴の中をあるいてゐる様な気がしてゐた。『猫』を書き出して初めて、先きが明るくなつた様に思はれた」(小宮豊隆「『吾輩は猫である』に就いて」昭和四年)ともらしたそうである。「発句をやめてから『猫』を書き出すまでの間」とは、二年余の英国留学中および帰朝後教師、学者に留まっている時期である。明治三十八年一月発表の『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』は、英国留学以来「真暗な穴の中をあるいてゐ」た漱石がはじめて見た〈光明〉としての意味、自覚をもっている。

ところで一方、英国留学中に漱石が「自己本位」を確立したことは、大正三年の講演『私の個人主義』でつとに有名である。「猶繰り返していふと、今迄霧の中に閉ぢ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教へられた事になるのです」と明かされている、英国で確立された「自己本位」たる漱石の個人主義は、英文学者漱石に文学を日本人夏目金之助の自己本位において論ずる『文学論』大成の決心をさせた。漱石はその『文学論』によって「日本の文壇には一道いちだうの光明を投げ与へる事が出来る」と考えたのである。

英国留学当時の『文学論』大成の決心における情況と、帰朝後の『吾輩は猫である』創作における情況とは、漱石にとってほぼ同位相のものであると考えられる。長い間の懊悩と英国での苦悩の「霧の中に閉ぢ込まれた」境遇において『文学論』という「明らかに自分の進んで行くべき道」、「一道の光明」をつかみ、なおつづいた「真暗な穴の中」という局面において『吾輩は猫である』という〈光明〉を見たのが漱石であった。

作家漱石の誕生となった『吾輩は猫である』(一)を深く理解しようとする時、漱石にこの重層する苦悩の体験があったことを顧慮すべきであろう。漱石は「細緻な思索力と、鋭敏な感応性」(『それから』)の持ち主であった。その「思索力」「感応性」はある場合徹底していた。『吾輩は猫である』(一)、『倫敦塔』により作家としてスタートした漱石の初期の成果、結実は、いうまでもなく『坊つちやん』と『草枕』であるが、『坊つちやん』に「世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか」という「正直な純粋な」決心の表明があり、『草枕』が「飽くまで此待対世界の精華をんで、徹骨徹髄てつこつてつずいの清きを知る」画工の物語になっているのはその証左である。

『坊つちやん』『草枕』『二百十日』の三作を収めて刊行された『鶉籠うづらかご』序の「著者はたゞ此三篇によつて、其脳中に漂へる或物に一種の体を与へたるを信ず」という一節は、『坊つちやん』『草枕』の産声をまだ聞かない明治三十八年一月、重層する〈暗闇の光明〉の模索を経て、処女作に『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』という「一種の体を与へた」、作家漱石誕生の明らかな経緯の一節として読めるのである。

漱石の処女作『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』は、英国留学以来「真暗な穴の中をあるいてゐ」た漱石が真に見た〈光明〉としての意味、自覚をもっている。教師、学者から作家への歩みとなるその明治二十世紀への新たな参画の〈光明〉エネルギーは、『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』以後、『坊つちやん』、『草枕』において最高潮に達し、翌明治四十年、その〈徹骨徹髄〉の〈光明〉エネルギーにより職業作家漱石がまた新たに誕生した。半生の教師、学者生活の死生の分水嶺の〈暗闇〉に見た作家漱石誕生の〈光明〉、『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』は、作家漱石誕生の最初の〈光明〉にして、小説家夏目漱石生涯の文学活動の〈光明〉の光源であることが認められるのである。

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3 真実の愛―『吾輩は猫である』(一)―

勝手な駄弁 

『吾輩は猫である』(一)の「不平」で「何にでもよく手を出したがる」近代人の〈暗闇の光明〉の物語は、(十一)まで書きつがれた『吾輩は猫である』では、はたしてどのような〈光明〉になっているだろうか。『吾輩は猫である』(一)の〈暗闇の光明〉性の深い意義、意味を考えれば、「水彩画」に「手を出した」教師苦沙弥先生の物語と等価の、やはり「不平」で「何にでもよく手を出したがる」近代人の「熱心」「我儘」、かつ「不徳」「失敗」という近代の危険や弱点の物語であると考えられる。このように考えられる『吾輩は猫である』について、漱石が「東風君苦沙弥君皆勝手な事を申候夫故に太平の逸民に候」(明治三十九年八月七日付け畔柳芥舟宛書簡)と話していることが注目される。『ホトトギス』の同年同月号に『吾輩は猫である』(十一)が発表されて『吾輩は猫である』が完結し、『新小説』九月号掲載の『草枕』をまつ時期である。

漱石が「皆勝手な事を申候」と評しているとおり、『吾輩は猫である』では、まず中学の英語教師苦沙弥先生の邸宅「臥龍窟ぐわりようくつ」の周辺で、「宿なしの小猫」が「吾輩は猫である」と突然勝手に名のり出る。その後、主人苦沙弥先生、美学者迷亭、理学士水島寒月、詩人越智東風、哲学者八木独仙ら「太平の逸民」(二)が、それぞれ勝手に教師、学者流の勝手を話す。他方、実業家金田君、鼻子夫人、富子令嬢、工学士鈴木藤十郎、法学士多々良三平君ら「実業家」勢も登場し、苦沙弥一派とは別個の実業家式の勝手をまた勝手に話す。御三、細君、とん子、すん子、めん子の三女子、姪の女学生の雪江さん、教え子の文明中学生徒の古井武右衛門ぶゑもん君といったいわば身内も登場し、苦沙弥先生とは別口の勝手を口にする。皆々「勝手」に「負けぬ気になつて愚にもつかぬ駄弁をろう」(二)しているわけである。

こうした『吾輩は猫である』の構図は、当初「駄弁家の寄合よりあひ」(六)と評され、究極には「ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない」(九)と諷されている(注「寄合」「寄り合」は本文どおり)。『吾輩は猫である』(一)の「不平」で「何にでもよく手を出したがる」近代人の危険や弱点の物語は、『吾輩は猫である』に視座を移す時、近代人それぞれの「勝手な」「駄弁」の物語という近代的造形になっていることが認められるのである。

「ほんとに笑つてる」猫

「勝手な」「駄弁」の物語という近代的造形を、もう一度苦沙弥先生の「不平」書斎活動に転回させてみよう。先生の「水彩画」のエピソードは、『吾輩は猫である』という近代的造形の〈光明〉の基点である。先生は「水彩画」によって、いわば先生の「勝手な」「駄弁」を弄しているのである。この『吾輩は猫である』の〈光明〉の基点は、『吾輩は猫である』(二)では、「僕も近頃は水彩画をやめたから、其代りに文章でもやらうと思つてね」と「水彩画をやめ」て「文章」の筆を執る〈光明〉に転じる。『吾輩は猫である』の「勝手な」「駄弁」の物語という近代的造形の〈光明〉は、焦点を合わせれば、この「水彩画」から「文章」への転変の〈光明〉になる。

さて、『吾輩は猫である』の「臥龍窟」苦沙弥邸の書斎は、苦沙弥先生とおなじく実生活において水彩画や水彩絵ハガキに熱中し、つづいて「創作の方面で自己を発揮しようとは」「別段考へてゐなかつた」(談話「処女作追懐談」明治四十一年)が、思いもよらず、「文章」、「創作の方面で自己を発揮し」た教師、学者夏目金之助の書斎に重なるに違いない。『吾輩は猫である』の〈光明〉の焦点、「水彩画」から「文章」への移行の物語は、作中の苦沙弥先生の物語であるのみならず、教師、学者夏目金之助の「水彩画」から「文章」への転変の、「勝手な」「駄弁」の〈光明〉そのものでもある。

しかして、こうした漱石自身の近代的〈光明〉をかたどっている『吾輩は猫である』について、漱石が「猫は苦しいのを強いて笑つてる許ぢやない。ほんとに笑つてるのである」(明治三十九年二月十五日付け森田草平宛書簡)と語っていることがさらに注目される。実人生において図らずも、「考へてゐなかつた」「文章」「の方面で自己を発揮し」た自己省察に立脚する『吾輩は猫である』観であろう。この作家漱石の〈暗闇の光明〉の文学『吾輩は猫である』に向ける不思議な思索力、不思議な感応性。この不可思議な感覚こそ『吾輩は猫である』という作家漱石の誕生がその奥底にもつ文学性、芸術性であるだろう。

「何にでもよく手を出したがる」「不平」な近代人の「勝手な」「駄弁」の物語『吾輩は猫である』の、猫の〈暗闇〉の悲しみや苦しみや〈光明〉の「ほんと」の笑いに耳を傾ける。そこに『吾輩は猫である』の真実はある。そうした『吾輩は猫である』は、純粋に面白くもあるし、近代を読み解いた風刺文学としても面白い。

『珍野苦沙弥伝』と『鈴木藤十郎伝』

風刺文学としての『吾輩は猫である』は、漱石が考えていた『吾輩は猫である』のもう一つの題名『猫伝』を具体的に考えてみると、その内容がつかみやすい。まずは『猫伝』を、猫の主人で「超然主義」(五)の教師『珍野苦沙弥伝』と考えてみる。水彩画を描き、そして文章に転じる文明中学の英語教師珍野苦沙弥先生の伝である。その伝は長篇の大筋にそって捉えれば、「水彩画」(一)以後、実業家金田君の「魂胆」(八)による「落雲館事件」(同)で苦沙弥先生が「逆上」(同)し、「人間の運命は自殺に帰する」(十一)という流れにおいて、「どうして死んだらよからう」(同)等、自殺の名論を吐く伝になる。この『珍野苦沙弥伝』の大要は、『吾輩は猫である』(一)から(二)の展開における、「水彩画」の「失敗」、「未練」の限界としての「逆上」から、「自殺」としての「文章」への移行の物語として解される。

その移行、変貌の伝は、しかして、苦沙弥先生が「蛇蝎だかつの如く嫌ふ」(七)「落雲館事件」の首謀者の実業家『金田伝』には決してならない。強いて考えれば、金田邸に出入りする、苦沙弥先生と同窓の工学士で「極楽主義」(四)の『鈴木藤十郎伝』になる。実業家のもつ金力、権力による「熱心」「我儘」だけが考えられ、「逆上」「自殺」や「不徳」「失望」「失敗」はもともと考慮されない伝である。

苦沙弥先生はまだしも、「実業家」勢の金田君や鈴木の藤さんに対する漱石の批判は痛烈である。しかし、苦沙弥先生の書斎は「落雲館事件」の「ダムダム弾」(八)によって砲撃され、落雲館中学の生徒がむやみやたらと球拾いと称し苦沙弥邸、いうなれば「書斎」に侵入してくる。猫の吾輩は人間社会に気焔を揚げ、苦沙弥先生やその一派は教師、学問の「太平」世界にあって実業、金力の俗社会に気焔を吐くのであるが、「落雲館事件」の「逆上」で苦沙弥先生は奔命に疲れる。

「落城」(八)、「自殺」の危機にある教師苦沙弥だが、ところで一方において『吾輩は猫である』の主要登場人物たちには、「芽生え」という逆の性格、特色の発揮が見られる。年齢の「芽生へ」(九)あり、「ひげの芽生え」(五)あり、「実業家の芽生めばえ」(同)あり、「坊ば時代」からの「萌芽はうが」(十)ありである(注 各「芽生え」はいずれも本文どおり)。「髯の芽生え」を生やしているのは苦沙弥先生が「実の弟よりも愛して居る門下生」(四)の理学士水島寒月であるが、『吾輩は猫である』執筆当時の漱石自身、帰朝以来のカイゼル髭の「髯の芽生え」の紳士であり、『吾輩は猫である』(一)で吾輩が初めて逢った苦沙弥先生も「鼻の下の黒い毛をひね」っている。その苦沙弥先生の「アムビシヨン」(九)は、「向上の念のさかんな髯を蓄へるにある」(同)。

明治二十世紀に対する諧謔、風刺として、『鈴木藤十郎伝』への変容の可能性をもつ『珍野苦沙弥伝』であるが、その変容の可能性について、実際、「髯の芽生え」の寒月君と結婚するかと思われた金田富子嬢が、「鈴木藤十郎君の後進生」(五)で「実業家の芽生」の三平君との結婚が決まり、鈴木君がその仲人をするという物語の流れがある。『吾輩は猫である』(一)は、教師苦沙弥先生の消極的な「何にでもよく手を出したがる」「芽生え」の物語であるが、『吾輩は猫である』は、より諧謔的、風刺的な、工学士鈴木藤十郎の積極的な「芽生え」の意義をもつ「何にでもよく手を出したがる」物語としてあるのである。

ともあれ、長篇の積極的「芽生え」の物語は、すでに『吾輩は猫である』(一)に予感される。苦沙弥先生の水彩画への意欲は、吾輩が「其熱心には感服せざるを得ない」ほどであり、(二)ではすぐに「文章」の筆が執られる。『吾輩は猫である』(一)による漱石の作家的出発は、消極的「芽生え」ながら、すでに『吾輩は猫である』の積極的な「芽生え」を暗示しているのである。

『鈴木藤十郎伝』の積極的な「芽生え」、勢いにあって、苦沙弥先生の教師生活は危うい。学者夏目金之助に即して語れば、夏目金之助は教職を辞して東京朝日新聞社に入社し、「朝日新聞社員」(『文芸の哲学的基礎』明治四十年)、「新聞屋」(『入社の辞』明治四十年)となった。その小説家への転身は、作中の苦沙弥先生が、作中の「実業家」勢の鈴木君になるよりも、深い覚悟、決断を要したことだろう。近代文明社会において、「正直」一徹の旧式珍野苦沙弥や「円転滑脱」(四)の新式鈴木藤十郎の誕生を、猫の〈暗闇〉の苦しみ、悲しみ、〈光明〉の「ほんと」の笑いにおいて見つめる。そこに風刺文学としての『吾輩は猫である』、別名『猫伝』の深い意義がある。

猫の孤独

英文学者、教師としての漱石は無論、小説家になっても漱石は書斎の閑静安適を愛した。「明窓浄机。これが私の趣味であらう。閑適を愛するのである。小さくなつて懐手して暮したい。明るいのが良い。暖かいのが良い。」と談話「文士の生活」(大正三年)でも語っている。『吾輩は猫である』(一)の書斎を愛し水彩画をかく苦沙弥先生の物語は、この「閑適を愛する」漱石をシンプルに純粋に語る、稀少な物語としてある。

『鈴木藤十郎伝』がもつ新式の思想に傾きそうな『吾輩は猫である』であるが、その『吾輩は猫である』には、旧式の『珍野苦沙弥伝』への回帰がある。富子令嬢との結婚話が雲散霧消となり、寒月君が「御国から奥さんを連れて来た」(十一)ことは同様の消長であろう。吾輩もまた、旧式の『珍野苦沙弥伝』への回帰か、迷亭先生によって「文明の未来記」(同)が予言される『吾輩は猫である』のはげしい文明批評の世界から離れ、(十一)結尾で水甕に落ちて一人死ぬ。「百年の間身をにしても出られつこない」(同)という甕の中の猫の苦闘に、生きるに生きられず、死ぬに死なれず、そして一人死ぬ猫の深い孤独が伝わっている。

けだし、生きるに生きられず、死ぬに死なれず、一人藻掻もがく深い孤独は、『吾輩は猫である』(一)で作家としてスタートする際の「不平」教師、学者漱石の孤独に通底しているのではないだろうか。猫の底知れぬ孤独からは、学者の閑適が孤独となり、猫を造形して作家として出立した漱石の不思議な、その神秘的な心の奥底が伝わってくるのである。「太平は死なゝければ得られぬ。南無阿弥陀佛なむあみだぶつ々々々々々々。難有ありがたい々々々」という不可思議な吾輩の死は、『吾輩は猫である』によって作家としてスタートし、「猫は苦しいのを強いて笑つてる許ぢやない。ほんとに笑つてるのである」と語る漱石の不思議な文学観、芸術観にまさしく通じているように思われるのである。

真実の愛 

『吾輩は猫である』完結一月後の談話「文学談」(明治三十九年)で漱石は、「筆はさう遅い方ではありません。其中でも『猫』などは最も速く書けます」、「『猫』などは書かうと思へば幾らでも長く続けられます」と話している。このことは『吾輩は猫である』がいかに漱石にとって自然な、漱石らしい真実の創作であるかを告げている。漱石の作品中、もっとも速い筆で書かれた『吾輩は猫である』には、近代文明社会への細緻で鋭敏な思索や感応はそれとして、「閑適を愛する」書斎人漱石の人間として持つ自由な気持ち、その自然な真実の愛がそのまま伝わっている。風刺文学として読まれる『吾輩は猫である』に、何よりもそうした漱石の人間として持つ自然な真実な愛がそのまま伝わっているところに、『吾輩は猫である』の深い意味がある。社会に抱く真実の愛への希望に、「真暗な穴の中をあるいてゐる様な気がしてゐた」漱石は〈光明〉を見いだしたのである。

『吾輩は猫である』、とくに『吾輩は猫である』(一)を「ほんとに笑つて」読むことは、明治近代の鋭意にして誠実な一つの真実な愛ある個性をとくに純粋に生きることであり、その〈暗闇の光明〉の明暗を知ることは、現代に通じる近代国家、近代社会やその人間像に対する思索や感応や洞察を根底から促す。

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4 宿世の愛―『倫敦塔』―

純粋の学者

漱石は『吾輩は猫である』(一)とほぼ同時に、英国留学した余の物語『倫敦塔』を発表した。英国留学を機として「霧の中」、また「真暗な穴の中」という二重の〈暗闇〉を体験した漱石が、『吾輩は猫である』(一)とともに〈暗闇の光明〉を見たのが『倫敦塔』であった。二つの作品は、ともに、二十世紀の近代文明社会に「不愉快」、「不平」な〈暗闇〉の感覚、思索、感応を持つ漱石が、近代社会への参画を意図した〈光明〉の作として認められる。では、漱石が日常的、散文的な『吾輩は猫である』(一)と並行して、非日常的、詩的な『倫敦塔』を発表したのはなぜだろうか。

長年英文学の道を歩んでいた漱石は、英国留学を機としてその『文学論』大成の宿志をもつに至った純粋の学者であり、創作家になることは「別段考へてゐなかつた」。その漱石が、親友で俳人の正岡子規の死後も交遊のあった高浜虚子に勧められて雑誌『ホトトギス』に日常的、散文的な『吾輩は猫である』(一)を「偶然」(前掲 談話「処女作追懐談」)創作した時、その胸に強い不安やおそれが生じたことは否めない。漱石はその強い不安や怖れを同時に書き表さずにはいられなかった。その刻印となったのが非日常的、詩的な『倫敦塔』であり、長篇となる『吾輩は猫である』と並行して書かれた、『倫敦塔』につづく諸短篇であると考えられる。そこには『吾輩は猫である』とおなじく二十世紀近代への視座をもつ作品でありながら、『吾輩は猫である』の日常的な世界とは相反する非日常的な漱石の夢がただよっているとともに、鋭敏かつ誠実にして熱情のある、心ある人間存在が発見される。

『倫敦塔』の〈暗闇の光明〉 

『倫敦塔』は、夢のごとき英国の歴史上の王城である倫敦塔とその王室の歴史に材をとった雅びやかで幻想的な物語である。漱石は、英国留学した漱石らしき余の「塔」の見物時、「塔」の見物、「塔」の見物後という構成で「倫敦塔」を語る。ちなみに、『倫敦塔』(『帝国文学』一月号)は、夏目金之助の署名で発表されている。

「塔」見物時は、英国留学「着後間もないうちの事である」、「世話になりに行く宛もな」いという身の上における孤独な余の情況が、二十世紀の倫敦のただなかにあって「前世紀の紀念を永劫えいごふに伝へんと誓へる如く見える」倫敦塔の威容と切り結び、語られる。その塔が、「一大磁石」となって「小鉄屑せうてつくづ」の余を吸収する。その余を吸収する塔は、しかしながら二十世紀の倫敦、「馬、車、汽車の中に取り残され」ているのであり、ここに塔、および漱石とおぼしき余の不安や迷い、葛藤と模索がわだかまっている。『吾輩は猫である』(一)の出発と並ぶ『倫敦塔』の〈暗闇の光明〉の在りかとして認められる。倫敦塔と余との間に介在する「一大磁石」「小鉄屑」という神秘的、超自然的テーマは、「ほんとに笑つてる」という『吾輩は猫である』の〈光明〉の不思議な感覚、思索力、感応性とあい通じる、『倫敦塔』の文学性、芸術性であろう。

『倫敦塔』の美学と「最初愛」 

『倫敦塔』の「二年の留学中たゞ一度倫敦塔を見物した事がある」という冒頭文は、「『塔』の見物は一度に限る」という美学によって括られている。「塔」見物時の「着後間もない」、「行く宛もな」いという余の孤独な情況は、この純粋の美学に相応ふさわしい時期になっている。塔の見物には、純粋で孤独な余の美学が強調されているのである。

この純粋で孤独な余の美学は、余が塔門で想起するダンテ『神曲』「地獄篇」第三歌数句中の「最初愛は、われを作る」という純粋な愛の句の重要性を浮き彫りにする。「最初愛」は漱石の訳であり、たとえば岩波文庫では「第一の愛」と訳されている。『倫敦塔』の「最初愛」とは、『吾輩は猫である』における漱石の真実の愛を純化した、最初第一の愛として認識される。「宿なしの小猫」になる前「肝心かんじんの母親」のもとにいたという吾輩、「倫敦塔」に幽閉されている二王子との面会を願う母なる王妃エリザベス、ジェーン・グレーの面立ちそのままの、男の子を連れた「あやしき女」等はその麗しき造形であろう。

『倫敦塔』の純粋・孤独の美学は「最初愛」の美学の表れとして認められるが、この美学をもつ余は、同時に、倫敦の喧騒を「丸で御殿場ごてんばうさぎが急に日本橋の真中まんなかはふり出された様な心持ちであつた」と東京日本橋の喧騒に比する余である。孤独な情況にある、由緒ある江戸っ子としての日本人夏目漱石がその比喩から発見される。「最初愛は、われを作る」の詩句は、由緒ある日本人夏目金之助の美感、美意識として注目されよう。『倫敦塔』で日本橋を力強く語った江戸っ子漱石は、翌年、正直な江戸っ子の物語『坊つちやん』、日本的美感を伝える俳句的小説『草枕』を発表した。「最初愛」の美学をもつ『倫敦塔』の余の日本人としての孤独は深く、しかしてその美学は強く希求されているのである。

「塔」の自己基盤 

『倫敦塔』の「塔」は、「我のみはくてあるべしと云はぬばかりに立つて居る」。「塔」には、『吾輩は猫である』(一)で「宿なしの小猫」が教師苦沙弥先生の家を「自分の住家と極める事にした」とその「生涯」の自己基盤を「極め」ているように、漱石の文学的出発における、「我のみは斯くてあるべし」という文学的基盤が表明されている。

この「最初愛」の自己基盤をもつ「塔」を、余は塔橋、塔門から、空濠からほり、石橋、中塔、鐘塔しゆたふ逆賊門ぎやくぞくもん、血塔、白塔、ボーシャン塔と順に見物していく。その余の見物を、作者は鐘塔、塔橋で統べ括り、糠雨が「満都の紅塵こうぢん煤煙ばいえんを溶かして濛々もうもうと天地をとざうちに地獄の影の様にぬつと」立つ倫敦塔の塔影で締め括る。「地獄の影の様」な塔影は、塔の自己基盤における「最初愛」の〈光明〉を閉ざすかのような幻想的、思索的、感応的〈暗闇〉とその〈暗闇〉に立つ塔の気分を感覚的に伝える。

ところで、漱石が倫敦塔を見物した明治三十三年十月三十一日当日の天候について、ロンドンの天文台の記録による、「この時期にしては暖かで日の光も見られ」(越智治雄「倫敦塔再訪」昭和四十八年)たという指摘がある。『倫敦塔』の神秘的、思索的、感応的「最初愛」の〈光明〉と「地獄の影の様」な幻想的、思索的、感応的〈暗闇〉とは、漱石の自己基盤における仮構の〈暗闇の光明〉である。『倫敦塔』は、『吾輩は猫である』(一)の創作に対する不安や迷いや怖れ、その葛藤と模索をあらわす、漱石の二十世紀の苦闘の自己基盤における詩想の物語である。

「塔」の〈暗闇の光明〉には、「塔」の見物後という近代社会、二十世紀への歩みがある。宿の主人は「二十世紀の倫敦人」であり、二十世紀のロンドンから「取り残されたる」塔や「取り残されたる」余の話は通じない。神秘的、幻想的な倫敦塔の〈暗闇の光明〉は日常に帰着するのだが、しかし宿の主人と余との会話を通じて、『倫敦塔』の「我のみは斯くてあるべし」という自己基盤は、「取り残されたる」空想、詩想、夢のまま現実に刻印、定着された。

飽く迄も生きよ 

物語の中心である「塔」の見物は、血塔、白塔、ボーシャン塔という厚みのあるクライマックスによって語られている。余の想像が「古今にわたる大真理」に出合うまでに巡らされるボーシャン塔の見物は、見物の白眉であり、「く迄も生きよ」というその白熱の「大真理」は、『倫敦塔』の主題として把握される。水彩画に「手を出した」苦沙弥先生が、後日「死ぬのは大嫌だいきらひである」(七)と吾輩に語られ、しかしその後「逆上」(八)し、自ら「どうして死んだらよからう」(十一)等の大議論をするに至る『吾輩は猫である』の〈死〉の意識の流れは、この『倫敦塔』の〈生〉の主題と通底している。

『倫敦塔』の物語性は、倫敦塔の「悲酸ひさんの歴史」にあって、血塔に幽閉され、後に無慈悲にも絞殺された、エドワード四世の幼く愛らしい二王子と、ボーシャン塔で罪なき命を無残に散らせた、若く美しいジェーン・グレーの切実に憐れな命を、「飽く迄も生きよ」という主題のもとに、今一度蘇らせることにある。そこに漱石や余の非日常的な「最初愛」の夢が漾っている。

しかし『倫敦塔』における漱石の夢は、ただこの夢であるだけではなかった。その夢の背後に、二王子の命を奪う刺客せきかくやジェーンを殺す首斬くびきり役を書き表すことこそ漱石の大いなる詩想であった。『倫敦塔』に、王子刺客人に関して「おほいに面白く感じた」、また首斬り役に関して「非常に面白いと感じた」、のみならず「深く興味を覚えた」という後書きがあり、作中の刺客と首斬り役についてとくに言及があるのはこのためである。

『倫敦塔』の後書きの意味は、どこにあるだろう。「飽く迄も生きよ」という「大真理」に出合うまでに想像が巡らされる『倫敦塔』の見せ場としてのクライマックスが、そこにあるとしか考えようがない。『吾輩は猫である』(九)に、「人間は吾身がおそろしい悪党であると云ふ事実を徹骨徹髄てつこつてつずいに感じた者でないと苦労人とは云へない」という一節がある。「飽く迄も生きよ」という〈生〉の切実さが、わが身を、その〈生〉として、刺客とも、首斬り役ともする。『倫敦塔』で余が空想、想像しているのはそうした〈徹骨徹髄〉の苦しみにおいて掬いあげた、怪しい、凄い,切実な夢である。

刺客、首斬り役には、漱石の徹骨徹髄の苦しみが隠されているだろう。しかし何のための徹骨徹髄の苦しみだろうか。『倫敦塔』、『漾虚集』、『鶉籠』に漾う漱石の夢が、それほどの苦を呑むほどに、徹骨徹髄に清きものだということであろう。二王子、ジェーンしかり。一心不乱に幻影まぼろしたてを見つめる『幻影の盾』のウイリアムしかり。『薤露行かいろかう』の清き乙女エレーンしかり。清き涼しき涙を流す『趣味の遺伝』の余しかり。また「正直な純粋な」坊っちゃんしかり。「徹骨徹髄の清きを知る」画工しかり。徹骨徹髄の苦と徹骨徹髄の清きとの総体において、「我のみは斯くてあるべし」という「最初愛」の自己基盤を徹する、漱石の揺るぎない文学的出発を伝えるもの、それが『倫敦塔』であるだろう。

宿世の愛 

徹骨徹髄の苦と徹骨徹髄の清きという相対的な詩想は、二十世紀文明社会に「最初愛」を徹する漱石の至誠と背信との正反二面の〈暗闇の光明〉の夢として考えられる。『吾輩は猫である』(一)で、吾輩が〈人間の我儘〉についで〈人間の不徳〉を語っていることは、その最初の表れである。背信、反逆の〈暗闇〉は、ただ刺客と首斬り役における〈暗闇〉であるのみならず、「祖を殺しても鳴らし」「ぶつを殺しても鳴らした」鐘塔、「名前からが既に恐ろしい」逆賊門、「人をぎ」「人をつぶし」「しかばねを積んだ」血塔、「帝王の歴史は悲惨の歴史である」白塔、「悲酸の歴史」に「百代の遺恨ゐこん」が結晶しているボーシャン塔という『倫敦塔』の漸層的で一貫した背徳の構想そのものとして読まれる(注「悲惨」「悲酸」は本文どおり)。

では、至誠と背信とによって貫かれる〈徹骨徹髄〉の「最初愛」の物語とは、いかなる愛の物語であるといえるだろうか。過去の体験である「塔」の見物を具体的に語り出す際、余は、純粋の「最初愛」の美学により、かつて「只一度」見物した「塔」の光景をありありと眼前に思い浮かべ、「あたかも闇をく稲妻の眉におつると見えて消えたる心地がする。倫敦塔は宿世すくせの夢の焼点せうてんの様だ」と、厳かにして極大の〈暗闇の光明〉のイメージを放つ、「宿世の夢の焼点」としての「塔」の全容を明らかにしている。『倫敦塔』に語られている〈徹骨徹髄〉の「最初愛」の物語とは、余の「倫敦塔」の相貌として伝えられている、電光、閃光の「宿世の夢」の愛の物語ではないだろうか。まさに「一大磁石」「小鉄屑」の愛である。

「我のみは斯くてあるべし」という「最初愛」の自己基盤を徹する、漱石の厳めしい、電光、閃光の「宿世」の愛の出発を、〈徹骨徹髄〉の清き至誠と苦しみの背信との揺るぎない〈暗闇の光明〉の〈夢〉において物語る作品、それが『倫敦塔』であろう。その物語は、当時純粋の学者であった漱石にとって、日常的な世界、人間的な真実の愛をつづった『吾輩は猫である』(一)の世界には収まり得ない物語だったのである。しかして、「宿世」の「愛」という愛の宿縁において、この『吾輩は猫である』(一)の真実の愛を母胎として新たに出現した『倫敦塔』の閃光の愛は、小説家夏目漱石生涯の〈暗闇の光明〉文学活動の〈光明〉の〈夢〉となったのである。

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5『私の個人主義』―生涯の〈暗闇の光明〉―

晩年の〈暗闇の光明〉

漱石の第一の〈暗闇の光明〉である英国留学時の『文学論』大成の決心、第二の〈暗闇の光明〉となった作家漱石誕生の『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』という、重層する〈暗闇の光明〉は、漱石生涯の〈暗闇の光明〉の文学活動、芸術探究となっている。その歩みの当初からの事情、情況は、大正三年の講演『私の個人主義』に始めて深く語られた。

さて、大正三年十一月に、漱石がその自己基盤、文学基盤に深くかかわる『私の個人主義』を講演したのはなぜだろう。英国留学当時の『文学論』大成の決心という初発の〈暗闇の光明〉体験に関する切実な問題意識が、大正三年の漱石にあったからであろう。より進めていえば、『吾輩は猫である』(一)、『倫敦塔』を創作し、その後、第一、第二の重層する〈暗闇の光明〉の文学、芸術の道を歩む作家漱石にまつわる切迫した白熱的な課題が、大正三年秋の漱石にあったということである。『私の個人主義』講演前の大正三年四月から八月にかけて連載発表された『こゝろ』では、教師、学者を想起させる「先生」と呼ばれる主人公が〈自殺〉という悲しい運命に導かれている。『私の個人主義』前後、漱石の〈暗闇の光明〉の自己基盤、文学活動は転化の危機に直面していたのである。

白熱的な転化の課題を秘めて講演された『私の個人主義』は、『文学論』大成の決心、『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』によるスタートにつぐ、漱石の第三の〈暗闇の光明〉模索の講演として聴かれる。それはいうなれば、第一、第二の〈暗闇の光明〉の危機を超克する新たな転化の出発である。時勢の推移に照らせば、日露戦争さなかの明治三十八年に出発した作家活動から、大正三年に勃発した新たな大きな戦争、第一次世界大戦時下の世界情勢、社会状況に新たなる出立をみる作家活動への転化、出発である。

個人主義と「他人の個性」 

では『私の個人主義』という第三の〈暗闇の光明〉の出発は、いかなる新しい文学、芸術の探究であろうか。第一篇、第二篇に分けて語られる『私の個人主義』で、第一篇では『文学論』大成の決心や創作によるスタートという、これまで考察してきた第一、第二の〈暗闇の光明〉の歩みが語られている。第三の〈暗闇の光明〉の講演として注目すべきは第二篇であり、第二篇では、第一、第二の〈暗闇の光明〉の、「自己の個性の発展」を意味する個人主義に、「他人の個性」の尊重、自己の権力に附随する「義務」、自己の金力に伴う「責任」という、「他人」「義務」「責任」の「三ケ条」を付す、一新を期した個人主義の必要が述べられる。その第三の〈暗闇の光明〉の個人主義を、漱石は「倫理的に」「修養を積んだ」、「人格のある立派な人間」の個人主義、言いかえれば「党派心がなくつて理非りひがある主義」とし、この個人主義の「裏面には人に知られない淋しさ」が潜んでいることを語る。

一体、こうした条件、倫理、裏面の消息をもつ第三の〈暗闇の光明〉の個人主義をとおして、漱石は個人主義の何を語っているのだろうか。第一次世界大戦時下の世界、社会における「他人」、「党派」の台頭、優勢、また、「個人」、「理非」の失墜、劣勢であり、その「他人」、「党派」優位における「個人」、「理非」の基盤の喪失、消滅である。「自由と独立と己れとに充ちた現代」において、「たつた一人でさむしくつて仕方がなくなつた」『こゝろ』の先生が〈自殺〉したように。漱石は『私の個人主義』において、現代にあって、もはやほとんど不可能な希望として洞察する、「倫理的」な「人格のある立派な」、「理非がある主義」としての個人主義を、「他人」、「党派」の台頭し、優勢である時代状況を凝視する中で講演しているのである。

「危急」的個人主義と「泰平」的個人主義 

こうした個人主義の実情を述べた後、漱石は最後に「国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に又個人主義でもある」個人主義に言及する。「個人の自由が其内容になつてゐる」個人主義だが、「国家の安危あんき」と個人主義には相関性がある点を論じる。一方、「国家的道徳といふものは個人的道徳に比べると、ずつと段の低いものの様に見える事」に注意をうながす。したがって、国家「危急ききゅう」時には「低級な道徳」の個人主義が、国家「泰平たいへい」時には「徳義心の高い個人主義」が、「矛盾」、「撲殺ぼくさつ」の厄介に陥ることなく、「天然自然てんねんしぜん」に成立するという。

『私の個人主義』を統べ括る総論の位置にあるこの議論だが、いかに認識されるだろうか。この点で考えたいのは、日露戦争さなかの漱石の作家的出発が、憐れな「宿なしの小猫」が〈人間の我儘〉〈人間の不徳〉を語る〈暗闇の光明〉の文学であり、また、刺客や首斬り役の登場する「悲酸」な〈暗闇の光明〉の文学であることである。漱石の重層する第一、第二の〈暗闇の光明〉の作家的出立は、『私の個人主義』において、あらためて、日露戦争という国家「危急存亡ききゅうそんぼう」の際の「低級な」「危急」的個人主義に焦点をあてた作家活動であることが把握される。ひるがえって、第一、第二の〈暗闇の光明〉の転化である第三の〈暗闇の光明〉は、日清、日露戦争につづく際限のない、第一次世界大戦という新たなる世界情勢、社会状況について、さても国家「危急」時ではなく国家「泰平」時として洞察するという、漱石晩年の円熟した新たな「徳義心の高い」「泰平」的個人主義の文学観、芸術観であると認められる。漱石はその〈暗闇の光明〉の作家活動における、初期の「危急」的個人主義と晩年に到達した「泰平」的個人主義という二様の「天然自然」の文学観、芸術観にふれることで、『私の個人主義』を終えているのである。なお、『吾輩は猫である』の「太平の逸民」は、図らずもこの際、「危急」的「個人主義」と「泰平」的「個人主義」とのせめぎあいの企ての第一の造形として認められる。

第三の〈暗闇の光明〉の、国家「泰平」時の円熟した「徳義心の高い」「泰平」的個人主義は、漱石にとって新しい意義を有する。『私の個人主義』後の『硝子戸がらすどうち』、『道草』という歩みを経て筆を執られた第三の〈暗闇の光明〉の大作、『明暗』の清子は、この点で注目される。『私の個人主義』は、絶筆となった『明暗』の文学観、芸術観の原拠としての深い意味をもつのである。

しかし、『明暗』について、その一新された文学観、芸術観のみに注目してよいであろうか。漱石の第一、第二の〈暗闇の光明〉という文学的、作家的スタートは、もともと国家「危急」時の「危急」的個人主義による出発であった。「泰平」的個人主義の新意義をもつ第三の〈暗闇の光明〉の『明暗』についてもっとも注目すべきは、その「泰平」的個人主義の新意義と並ぶ、「危急」的個人主義の新しい意義、そのスタートである。そうであればこその、〈暗闇の光明〉という〈徹骨徹髄〉の人生観、文学観、芸術観なのである。事実、『明暗』は「勢力家」「優者」である吉川夫婦と「無籍もの」「宿なし」の小林という大きな「泰平」「危急」の構想をもつ。『明暗』の津田、お延夫婦は、国家「泰平」時の「泰平」的個人主義の新文学、新芸術において、なお「危急」的個人主義の意義を探究する、第三の〈暗闇の光明〉の中心人物である。伊藤整の論じる『明暗』の「実践的求道」、「相対的実在」とは、この国家「泰平」時における、「危急」的個人主義と「泰平」的個人主義の相対の像であるともいえ、その透徹した論考は、この相対する「個人主義」の母胎としての『私の個人主義』にさかのぼるのである。

漱石の一筋の個人主義

『私の個人主義』で、漱石は、〈暗闇の光明〉の道を一筋に歩む、その真情を吐露している。この『私の個人主義』の真摯で、シンプル、純粋な心境は、第一の〈暗闇の光明〉における『文学論』大成の純粋の決心や、第二の〈暗闇の光明〉の『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』というリアルでシンプルな作品の魅力とあい通じる。『文学論』序(明治三十九年十一月)で、「長しへに」「幾多の『猫』と、幾多の『漾虚集』と、幾多の『鶉籠』を出版するの希望を有する」と、その「永続」を「祈念」していることを考えれば、第三の〈暗闇の光明〉までの漱石の歩みは、『吾輩は猫である』と『漾虚集』と『鶉籠』の「長しへ」の活動そのものである。そして転化の第三の〈暗闇の光明〉の歩みも、また転化のその「長しへ」の活動以外の何ものでもない。

『文学論』、『吾輩は猫である』、『漾虚集』、『鶉籠』には、いずれも『文学論』大成の純粋の決心や『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』のリアルでシンプルな作品性と見合う序がある。『文学論』序、『吾輩は猫である』(上篇)(中篇)(下篇)序、『漾虚集』序、『鶉籠』序は、第一、第二の〈暗闇の光明〉の序、すなわち漱石の本来の『私の個人主義』として聴かれるものである。大正三年十一月、この本来の『私の個人主義』の転化、円熟の時期において、本来の『私の個人主義』と同様にシンプル、リアルにして純粋な、しかしてより増大した、奥の深い、大正の頼もしい第二の『私の個人主義』は講演されたのである。

なお、『私の個人主義』では、「国家の安危」と「危急」的個人主義・「泰平」的個人主義という総論とともに、その導入部が重要である。「考へるのが不愉快なので、とうとう絵を描いて暮らして仕舞ました。絵を描くといふと何かえらいものが描けるやうに聞えるかも知れませんが、実は他愛たあいもないものを描いて、それを壁に貼り付けて一人で二日も三日もぼんやり眺めてゐる丈なのです」。『吾輩は猫である』(一)で「何にでもよく手を出したがる」苦沙弥先生が、「独りで眺め暮らして居る」と夢みる、「水彩画」の夢がそのまま語られている。「熱心」「我儘」、かつ「不徳」「失敗」という近代の危険や弱点の問題は、漱石生涯の一筋のテーマであったのである。吾輩が「不平」とする〈人間の我儘〉〈人間の不徳〉の問題を、「個人の自由」「個性の発展」における「道義上の個人主義」として、再度、転化の新意義のもとに講演したものが『私の個人主義』であろう。『私の個人主義』は『明暗』の原拠として考えられるが、『私の個人主義』の創作の原形は『吾輩は猫である』(一)がもつのである。その『吾輩は猫である』(一)の苦沙弥先生の「水彩画」は、「文章」へ自由に発展している。その自由な発展の歩みは、いみじくも『私の個人主義』を介して『明暗』に到達しているのである。

『吾輩は猫である』(一)と『倫敦塔』に近代の最初の〈光明〉を見た、作家漱石の「長しへ」の「水彩画」の夢は、〈暗闇の光明〉の作家活動についての希少な講演『私の個人主義』に語られる「危急」と「泰平」との二様の「天然自然」の個人主義の不思議な感覚、思索力、感応性と、そのしなやかな老熟をまって、最晩年の「則天」と「去私」、「則天去私」の文学観、芸術観、また宗教観となる。

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