高村光太郎(抄)

 戦争期

 中日戦争期にはいってからは、「道程」以来、父光雲の権威に象徴される日本の庶民社会の生活意識やモラルに反抗して、智恵子夫人との孤立した生活によってまもられてきた高村の内的な世界は、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「亡き人に」、「梅酒」、「荒涼たる帰宅」など、昭和十二年から十六年にわたってつくられ、詩集「智恵子抄」のおわりちかくおさめられた詩のなかに、かろうじてささえられているにすぎない。いわば、精神異常におちいり死んでいったこの時期の夫人との交感が、「狂瀾怒涛の世界の叫び」から高村の内部世界をまもるゆいいつの砦であった、とかんがえるのはけっして不当ではない。「あはれな一個の生命を正視する時、世界はただこれを遠巻にする。」と、ヱ゛ルハァランの詩句をまねて、高村がいいはなったのは、おもえば太平洋戦争直前、昭和十五年のことであった。

 「道程」時代、高村がじぶんの生涯の軌道をしくことができた歓喜とほこりとを、実生活のうえでうらうちしたのは、智恵子夫人との遭遇であった。中日戦争期の高村の自我の崩壊を、最後にささえたのは、狂気にいたり、死をよぎなくされた夫人との交感である。高村はこの悲惨なめぐり合わせの意味を、智恵子夫人が死んでから一年後、昭和十四年に、ミケランジェロをテーマにした「つゆの夜ふけに」のなかで、象徴し、反芻した。この詩は、高村の全詩業のなかで屈指の秀作であるばかりでなく、戦争期における高村の最後の夕映えをしめすものに外ならぬ。高村はそのなかで、ミケランジェロと愛人ヴィットリア・コロンナ夫人に託して、

  この「真理の光の一つ」なる女性もやがて死んだ。

  あらゆる悲と神への訴とに痩せ細つて

  彼は青い炎のやうなロンダニイニのピエタを彫つた。

  二月の雨に濡れながらひねもす落葉をふんで立つてゐた。

  九十歳の肉体は病み何処にも楽な居場所が無かつた。

  一日床にねて彼は死んだ。

とかいているが、わたしの推定にあやまりなければ、高村はここでひそかに自分と智恵子夫人とを、ミケランジェロとヴィットリア・コロンナとに擬している。そうすることによって、夫人の死をいたみ、じぶんの主体的な世界が、夫人の死といっしょに死ぬのをみたのである。

 戦争期の高村を論ずることは、とりもなおさず、この主体的な世界が死にいたる過程を看取るにほかならず、それは、ほぼ、動乱期における日本的自我の運命を論ずるということになるとおもう。高村の戦争にたいする屈服は、中日戦争を契機としてはじまっている。これをあきらかにするために、中日戦争直前にかかれた詩、「堅冰いたる」(註1)と直後にかかれた詩、「秋風辞」とを比較してみよう。

 「堅冰いたる」で高村は、ドイツファシズムの文化破壊にたいして、痛烈な批判をかませるとともに、西安事件を中心とする極東の危機をひとみを凝らして視つめている。

  乾の方百四十度を越えて凛冽の寒波は来る。

  書は焚くべし、儒生の口は嵌すべし。

  つんぼのやうな万民の頭の上に

  左まんじの旗は瞬刻にひるがへる。

  世界を二つに引裂くもの、

  アラゴンの平野カタロニヤの丘に満ち、

  いま朔風は山西の辺彊にまき起る。

  自然の数学は厳として進みやまない。

 昭和八年学芸自由同盟の結成、昭和九年、軍部ファシストによる日本資本主義の批判、昭和十一年、日独防共協定の成立、二・二六事件、昭和十二年、中国における西安事件を契機とする蒋介石の抗日強硬策への転換、などの情勢をくぐらせてかんがえると、ここには、昭和二年白樺派的な自然調和思想との分岐点にたって、それよりやや左にかたむいた急進的ヒューマニストの地点で確保された高村の主体的な世界が、全貌をあきらかにしているということができるだろう。

 だが、「秋風辞」では、「南に急ぐ」わが同胞の隊伍、「南に待つ」砲火のまえに、「街上百般の生活は凡て一つにあざなはれ、涙はむしろ胸を洗ひ」、

  昨日思索の亡羊を歎いた者、

  日日欠食の悩みに蒼ざめた者、

  巷に浮浪の夢を余儀なくした者、

  今はただ澎湃たる熱気の列と化した。

というように、その主体性は、庶民の熱狂のなかに崩れてしまっている。そして、すでに「太原を超えて汾河渉るべし黄河望むべし」と主張されるにいたっている。発表の月のへだたりは、「堅冰いたる」と「秋風辞」では、中日戦争の勃発を間にして、わずか九ヵ月にすぎないのである。この九ヵ月のあいだに、高村の戦争肯定のモラルとロジックが用意されていなければならないのだ。わたしは、そのきざしを「堅冰いたる」の後半にあらわれている、つよい超越的な倫理感にもとめざるをえない。

  漲る生きものは地上を蝕みつくした。

  この球体を清浄にかへすため

  ああもう一度氷河時代をよばうとするか。

  昼は小春日和、夜は極寒。

  今朝も見渡すかぎり民家の屋根は霜だ。

  堅冰いたる、堅冰いたる。

  むしろ氷河時代よこの世を襲へ。

  どういふほんとの人間の種が、

  どうしてそこに生き残るかを大地は見よう。

 堅冰というのは、高村のすきな言葉のひとつで、後に「七月の言葉」のなかで愛読書のひとつである「維摩経」の思想を要約するためにつかっている。そこでこの論旨をおしつめてみると、氷河時代がもう一度おそっていかものを絶滅してしまえというような超越的な倫理感は、現実把握の機能が低下したとき高村をおとずれる、ほとんど体質的な意味をもった思想的「故郷」なのである。それは高村の擬アジア的な思考をかたちづくっていて、その底をさぐるとどうしても高村の庶民意識にゆきあたらざるをえない。すでに猛獣篇時代に、その独特の自然調和の思想を社会化して、戦争の予感のほうへ流れてゆく庶民の動向を「自然」の運行のように必然とかんがえ、自分の出生としてある庶民を徹底して意識化していた高村には、ナチスの抬頭も西安事件の発生も、ひとしなみに歴史的な事件というよりも自然の数学のように必然とみえたのである。

 ここから、容易に「興亡幾千年の歴史に異議はない。現実そのものは押し流れる渦巻だ」(「夢に神農となる」)というような現実的でない、たやすく人間と歴史とをわりきった現実認識にたどりつき、また庶民の戦争にたいする熱狂にもすぐまきこまれてゆくのは当然であった。杉山平助は「文芸五十年史」のなかで、「本来賑かなもの好きな民衆はこれまでメーデーの行進にさへ、ただ何となく喝采をおくつてゐたが、この時クルリと背中をめぐらして、満洲問題の成行に熱狂した。驚破こそ、帝国主義的侵略戦争といふやうな紋切型の批難や、インテリゲンチャの冷静傍観などはその民衆の熱狂の声に消されてその圧力を失つて行つた。階級の問題と民族の問題について、イザといふ時日本の大衆が、どつちにより深く魂をゆり動かされるものであるかが、これで明かになつた。」(第五篇 満州事変から支那事変へ)と述べているが、高村の戦争への屈服はたんなる狂躁とはならないで一見すると思想めいた超越的な倫理感としてあらわれた庶民意識が、ちょうど杉山の指摘したとおりに内部を喰いあらしたとき、はじまったのである。それゆえ「老聃ろうたん道をゆく」のなかで高村が、「世は権勢のみで出来てゐない、綿綿幾千年の世の味ひは百姓の中に在る」と反支配者的な姿勢をとりながら、きわめて自然に「為して争はぬ事の出来る世は来ないか、ああそれは遠い未来の文化の世だらう。人の世の波瀾は乗切るのみだ。黄河の水もまだ幾度か干戈の影を映すがいい」というように、結果として支配権力にならされた庶民の意識へ同化していったのは当然であった。

 戦前派の詩人ならば、胸に手をあてればだれでもおもいあたるはずだが、現実のうごきのはげしい動乱期には、個人の自我というものが、けし粒ほどにかるくおもわれてくる。そこに執着し、暗い内部的なたたかいをつづけることが、バカらしく、みじめな、無意味なことにおもわれてくる。外からよからぬ奴が足をひっぱってそうおもわせるばかりでなく、内部から心理的にそうおもわれて崩れてゆく。動乱期の現実のおおきな圧力、おそろしさを、正面からうけとめただしく克服しえたものは、内部を現実のうごきとはげしく相渉らせ、たたかわせながら、時代の動向を凝視してはなさなかった、そういう至難の持続力をもつものだけであった。高村が反抗をうしなって、日本の庶民的な意識へと屈服していったとき、おそらく日本における近代的自我のもっともすぐれた典型がくずれさったのであり、おなじ内部のメカニズムによって日本における人道主義も、共産主義も、崩壊の端緒にたったのである。なぜ、日本でだけ、内部世界を確立し、たもちつづけるために至難の持続力が必要とされるのであろうか。そして、戦争期に、近代的自我も、人道主義も、共産主義も、もろにくずれていったのは、なぜであろうか。高村の崩壊の過程には、ひとつの暗示があるとおもう。それは、近代日本における自我は、内部にかならず両面性をもたざるをえない、ということである。それは一面では近代意識の積極面である主体性、自律性をうけつぐとともに、近代のタイハイ面、ランジュク性をよぎなくうけつがざるをえない。他面、かならず、自己省察の内部検討のおよばない空白の部分を、生活意識としてのこしておかなければ、日本の社会では、社会生活をいとなむことができないのだ。おそらくこの両面性は日本の近代社会の矛盾した両面性にアナロジカルである。これから動乱期の現実のはげしい力は、この内部の両面性にくさびをうちこむとともに、社会が要請してくる倫理性は、近代のタイハイ面を否定するようにはたらき、同時に、生活意識としてのこされた内部の空白の部分を、日本的な庶民の生活倫理から侵されざるをえなくなる。いわば、内部が、思想的な側面と、生活意識の側面から挟撃されるというのが、動乱期の日本的自我につきまとう宿命に外ならなかった。戦争期に、日本的な近代意識のタイハイ面の批判者としてあらわれたのは、日本的ファシズム、民族主義であり、実生活意識から批判者としてあらわれたのは、日本の庶民そのものである。したがってたとえば、共産主義者はおおく擬ファシズム的に転向して、日本的近代の批判者として更生(!)するか、または、擬ローマン的にうつぶして、庶民意識の変種にすぎない内部世界を露呈するにいたった。

 高村の場合、思想的にも生活意識的にも、単純な庶民的屈服となってあらわれずに超越性としてあらわれたのはいうまでもなく、自然児的な理想意識が近代性のもつタイハイ面を抑制していたからであった。だから、「戦争とヒューマニズム」とか、「戦争による素材の拡大」とか、おもに擬ファシスト、転向者によって唱えられた中日戦争期の戦争詩の素材主義的な傾向は、ほとんど、高村のこの時期の戦争詩とは無縁であった、といいうる。高村の場合、特徴的に、思想の「祖先がえり」的な退化(1)、モンスーン的風士と、思考方法の讃美(2)、日本庶民のなかの、残忍さ、非人間さ、ニヒリズムの表現(3)となってあらわれている。

(1)祖先は川に禊して穢れを祓つた

   ただ白木の柱を立てて家を築いた

   きよらかな比例そのもののみを命とした

   眼にとまる塵一つ無いのを

   一切の美の極みとした

袖を払つて今わたくしが魂にきくもの

とほく深く又まことに已みがたい (「天日の下に黄をさらさう」)

(2)決してゆるさぬ天然の気魄は

   ここに住むものをたたき上げ

   危険は日常の糧となり

   死はむしろ隣人である

   色にどぎついもの無く

   香りに鼻をつくもの無く

   鳥獣虫魚群を成し

   草木みやび

   物みな品くだらず

   決然としていさぎよく

   淡淡として死に又生きる (「地理の書」)

(3)焼夷弾の落ちた家は天災とあきらめて

   一軒犠牲になるのです

   われわれはぜつたいに延焼させませんよ

   何しろ敵の夜襲を野崎詣りとしやれる

   さういふ兵隊さんの親兄弟ですから

   少々くらゐな不体裁はむしろ気が強いです (「群長訓練」)

 これらの詩がしめしているのは、高村の社会化された自然理性が、現実社会におこるすべての矛盾や混乱と対決することをやめて、いわば伝統の花鳥風月的な「自然」の讃美にまで退化した悲惨な事実である。すでに、急流のように流されてゆく庶民の大勢は、それが天体の運行のように必然とかんがえられたとき、ここまで徹底化するのはやむをえないものであった。大事のまえに小事にこだわるのはいさぎよくないという日本的理性は、高村を完全にとらえて、現実社会との葛藤を脱落させたのである。このような高村の自然理性の退化は、生活意識上の転換によって裏うちされた。中日戦争が泥沼のような戦局におちいった昭和十四年から、太平洋戦争の敗色がこくなった時期にわたって発表された「谷中の家」、「母のこと」、「姉のことなど」、「美術学校時代」、「子供の頃」、「回想録」などの一連の回想はあきらかに高村の生活意識上の転換を象徴している。高村はこの回想群によって、父高村光雲の「光雲回顧談」に匹敵する生涯のしめくくりを思いたち、これによって、生い立ち、家、環境、芸術観などについて、残せるだけは残しておこうと企意したと推定されるのである。わたしの記憶をたどっても、昭和二十年「美術」に二回にわたって今泉篤男によって口述筆記された「回想録」をよんだとき、日本の敗北はちかく、自己の命数もおわりにきたと高村が感じているのではないかとおもい当ってハッとしたことをおぼえている。べつにそんなことは何もかかれていないのだが、それまで自己の身辺について語りたがらなかった高村が「回想」をかたったことが、それを直感させるに充分であった。まず昭和十四年の「谷中の家」には、つぎのような個処がある。「父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東斎光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが此は朝かけて夕にとり外すのが例であつた。私の少年時代の二、三年はここで過された。私は花見寺の上の諏訪神社の前にあつた日暮里小学校に通つてゐた。車屋の友ちやん、花屋の金ちやん、芋屋の勝ちやん、隣のお梅ちやん、さういふ遊び仲間と一緒にあの界隈を遊びまはつた。おとなしい時は通りの空どぶへ踏台を入れて隣のお梅ちやんなどとまま事をしたり、石置場でゴミ隠し、かくれんぼをしたりした。男の子が集まると多く谷中の墓地へ押し出して鬼ごつこいくさごつこをやつた。」当時、五十七歳の高村にしては、稚純にすぎ鮮やかすぎるこの下町庶民の子供時代のイメージの一こまは、なにを意味しているか。また、昭和二十年、「回想録」にはつぎのような個処がある。「祖父は小さい時からその父親の面倒をみて、お湯へでも何処へでも背負つて行つたと言ふ。商売の方は魚屋のやうなものだつたらしいが、すつかり零落し、清島町の裏町に住んで、大道でいろいろな物を売る商売をして病気の父親を養つた。紙を細かく折り畳んだ細工でさまざまな形に変化する(文福茶釜)とか(河豚の水鉄砲)とか、様々工夫をしたものを売つた。そんな商売をするには、てきやの仲間に入らなければならぬ。それで香具師の群に投じ花又組に入つた。このことは、父の「光雲自伝」(「光雲回顧談」のこと――吉本註)の中には話すのを避けて飛ばしてゐるが、――さうして、祖父は一方の親分になつた。祖父は体躯は小さかつたが、声が莫迦に大きく、怒鳴ると皆が摺伏した。中島兼吉と言ひ、後で兼松と改めたが、「小兼さん」と呼ばれてゐて、小兼さんと言へば、浅草では偉いものだつたらしい。」この隠微な家系のひだにまでいい及ぼうとする回想はなにを意味しているか。この回想群はいわば父の家、父の権威、そこに象徴される江戸職人的な庶民意識へ、「先祖がえり」的に屈服し、親和していった高村の戦争期の内部世界のうごきを直接的に象徴するものであった。すくなくとも、回想群をかくことによって、日本的な庶民性への回想をうながされ、うながされた内部の意識が回想を純化するといった具合であったに相違ないとおもう。したがって、やや遠隔作用的な対比をもちいるならば、父光雲が「皇居御造営の事、鏡縁欄間を彫つたはなし」、「天覧後の矮鶏のはなし」、「木像の楠公を天覧に供へたはなし」などを、「普通、庶民の注文とは異つて、宮中の御用のことで、わけて御化粧の間の御用具の中でも御鏡は尊いもの、畏きあたりの御目にも留ることで、仕事の難易は兎に角、事疎かに取掛るものでないから斎戒沐浴をする程でなくとも身と心を清浄にして早春の気持よい吉日を選んで某日から彫り初めました。」と無上の光栄をもって懐古し、誇りとし、恩寵をかんじたような「光雲懐古談」と指呼するものに外ならなかった。このとき、すでに、「天皇あやふし。ただこの一語が 私の一切を決定した。」(「暗愚小伝」)という太平洋戦争期の高村の全屈服は決定していたとかんがえてもあやまらないであろう。高村の中央協力会議への参加は、生活意識の転換に画竜点睛をそえるかのようにおこなわれたのである。

 大政翼賛会第一回臨時中央協力会議がひらかれたのは、昭和十五年十二月十六日、あたかも、タイ・仏印紛争、対蒋介石工作の打切り、日ソ国交調整の停滞というような逼迫した情勢にあたっている。席上、わたしたちにとって忘れることのできない歴史的な誓いが、長野県平戸町長岩井敬太郎によって宣読された。それは、日本における近代的自我と、人道主義と共産主義との擬似性を検出するリトマス試験紙の役割をはたしたという点でおおきな意義をもつものであった。

   誓

  我等は畏みて大御心を奉体し和衷協力以て大政翼賛の臣道を完ふせんことを誓ふ。

 この原始シャーマン教(神道)の呪文にファシズムの色あげをしたような誓いにたいして、高村はもろくも崩壊している。翌、十七日の朝日新聞に取材された談話のなかで、「誓は立派なものでした。御承知のやうに私はかういふ会議には余り出席したことがないので非常に勉強になります。それから儀式といふ意味――形式と精神との関係、さういふことが、誓や今度の会議のやり方から色々教へられる。各種の式典ももつと整備される必要がありますね。」と語っている。この談話については、いくらか立ちいってみなければならない。誓いが形式的にととのえられた重苦しいふんいきのなかで誦読されたときの、異様な情景をつとめて想像してみると、高村がそのふんいきにおどろき、圧倒せられ、ついには肯定的に納得しようとつとめているありさまがうかんでくる。この三面記事のわずかな談話でさえ、社会的現実と相わたらせ、たたかわせる意志を失った高村の内部が、メカニズムに組入れられたときのとまどいに、してやられていることをうかがうには充分である。このとき、高村のなかで、硬直して死んだものがあったのである。高村はそれを「猛獣」といっているが、高村のなかにいる「猛獣」が、つまり主体的な自我が、「官僚くささに中毒し」て、「夜毎に曠野を望んで吼えた」という「暗愚小伝」の弁明は、紙の上に書かれたものによって、現在裏うちする事ができない。やや冷静にかえった頃の朝日新聞に発表された「芸術政策の中心」(註2)のなかに、独特な美意識、一種の冷眼となって、ほのめかされているだけである。「平常、人の集まる処へあまり出たことがないので、今度急にひどく大きな家族会議といふやうな場所に並んで珍しい思ひがした。そして人間の発言本能の強さといふものを見た。この本能が社会を造つてゆくのだらう。面白いことに人はその顔立ちそつくりの発言をするものだといふことを発見した。」高村の中央協力会議への参加は、誓いは立派であるというような一点うたがいの余地のない屈服と、面白いことに人はその顔立ちそっくりの発言をするものだというようなゴウ然たる美意識との、二元的な調整のうえにたっている。「今日国家有時の時にあつても、美術家は一輪の菊花を書き、一匹の蝉を刻むことに心臆してはならない。その本来の美は必ず人の力となり、又延いては国家の力となる。この確信を抱き得ぬ者は、よろしく美術家たることを断念するがよい。(中略)この千年の見とほしの外に、美術家は今日焦眉の問題をも一方に持つ。即ち国家の危急に応じて己の能力を活用する責任である。」(「戦時下の芸術家」)というのが、戦争期をつらぬいた高村の基本的な発想であった。この発想のうしろには、高村の庶民的な挫折、屈服といえるものと、閉じられた美意識にまで追いつめられた主体的世界との、めでたからぬ分裂がかくされているのだが、中央協力会議への高村の参加をとくにあげつらいたいのは別の理由からだ。それは、高村がここで、「現下芸術政策の根本目標並に当面の緊急事項に就て」とか、「全国の工場施設に美術家を動員せよ」とか「芸術による国威宣揚」とかいう政策的な議案を提出するまでの実践活動をしたことが、高村の生涯にとって瞠目すべき事件であったということなのである。高村のかたくなな孤立と、権威にたいする反感をうらうちする単純な生活史のなかで、これは唐突な、異和感をもよおされる事件なのである。この体験がなければ、太平洋戦争期の高村の詩業は、「記録」というところまで徹底して自爆できなかっただろうということ、したがって、例えば、高村の「山本元帥国葬」という詩と、秋山清のおなじテーマの詩「国葬」と比較すれば、秋山の詩の方が、すぐれて人間的なものであること、だが、高村の詩のくだらなさも、ずばぬけていて、かえってくだらない記録に徹底しようとする意識がよみとれるため、やはり異常な印象をあたえること、などがおこらなかったろうと想定されるのである。いまここに、太平洋戦争期の高村の「記録」の骨格となっているモラルとロジックを抽出して、「異常な印象」を分析してみよう。

  充ちあふれた生の力が

  死を超えて死を死なしめない。

  わが事終れるにあらず、

  わが事無限大に入るのである。  (「われらの死生」)

  生活に「まつた」はない。

  われら民族を一貫するもの

  炳として左顧右盼さこいうへんをゆるさない。

  「まつた」を重ねるもの

  暗くして濁り、

  「まつた」を知らずに生き得るもの

  地下水のやうに清くして溢れる。  (「『まつた』を知らず」)

 「堅冰いたる」、「秋風辞」、「老耼道を行く」から中日戦争期の戦争詩をつらぬいてきた高村の超越的な倫理感は、ここに超越性の極限までおしつめられ、おしつめられたところで、積極的な主張にまで転化していることがわかる。ここにあらわれたものは、たとえば高村の三十年来の愛読書であった禅宗「無門関」のメタフィジィクにひとしかった。「無門関」を高村のように「禅学的には決して読まない。字面通りにも読まない。文字を離れるでもなく離れぬでもなく読む」(「ロダンの手記談話」)ことは、そういう素地のないわたしたちには不可能にちかい。まして、功徳をうけることも、「この事の中に生きてゐる活機によつて自分の危機を乗りこえる」ことも絶望にちかい。しかし、わたしたちが「無門関」を超論理的なロジックとしてよみ、死の想念につかれた変態的なモラルとしてよみうる任意の言葉から、高村の「記録」的戦争詩のモラルとロジックに、おどろくほど近似している概念をつかみだすことは容易である。

  仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於て大自在を得、(第一 趙州狗子)

  従前の死路頭を活却し、従前の活路頭を死却せん。(第五 香厳上樹)

  身を了ぜんよりは何ぞ心を了じて休せんには似かん。心を了得すれば身愁へず(第九 大通智勝)

  言を承くる者は喪し、句に滞る者は迷ふ。(第三十七 庭前柏樹)

 こういう超越的なモラルとロジックによって高村の内部に「道程」以来、根づよくまもられてきた近代意識は、なぎ倒されて「歯ぬけの獅子」と化した。そればかりか、

  未練をすてよ、

  おもはくを恥ぢよ、

  皮肉と駄駄とをやめよ。

  そはすべて閑日月なり。(「必死の時」)

 と主張されたとき、近代的自我が資本主義の下降期において必然的にたどらざるを得ない鬱屈は、まるでがんこ親父に叱咤されるぐず息子のように否定されたのである。こういう否定が、ファシストたちのインテリゲンチャ批判に、側面からどんな大きな力をかすものであったかは、苦しみながら戦争を肯定し、たたかいに立った若い世代のだれもが知っている。

 花鳥風月的な「自然」理念にたいし、情緒としてではなく理性として、うらから超理論的なロジックをもって目釘をいれた高村の積極的な思想は、それなりに日本的な理性の極限をさしていたかもしれない。高村はそれをインテリゲンチャ意識からではなく、庶民意識の優性遺伝を純化することによってつかみとったのである。このような超越理性は、古典アジア的なものでもなく、アジアの封鎖された孤島のなかに育てられた独特なものであったにすぎないのだが、近代日本の通念によって古典アジア的な超越感を、アジア的な典型の思想とかんがえた高村が、この超越的な倫理をうらがえして、容易に「東方は美なり。断じて西暦千幾年の弱肉強食にあらず。」(「新しき日に」)という主張に転化したのは当然であった。

  有色の者何するものぞと

  彼の内心に叫ぶ。

  有色の者いまだ悉く目さめず、

  憫むべし、彼の頤使に甘んじて

  共に我を窮地に追はんとす。 (「危急の日に」)

  アングロ・サクソンの主権、

  この日東亜の陸と海に否定さる。

  否定するものは彼等のジャパン。

  眇たる東海の国にして

  また神国たる日本なり。

  そを治しめしたまふ明津御神なり。

  世界の富を襲断するもの、

  強豪米英一族の力、

  われらの国に於て否定さる。

  われらの否定は義による。

  東亜を東亜にかへせといふのみ。

  彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。 (「十二月八日」)

 天皇制権力もまた、盗人にも三分のロジックは残されているという俚言のとおり、その開戦の詔書で「米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセントス」ということを強調した。高村は、これに追従するかのように、同胞の隊伍が進みゆく足音を、「世界に新しい理念を樹てる音」であり、「英米的な考へ方を踏みにぢる音」であり、「東方の倫理が美を致す音」であるとかんがえたのである。高村をこの方向に誘ったのは、けっしてかれが美意識上の古典主義者だからではなかった。むしろ高村が出生としての庶民の意識を徹底的につきつめたところに、このような戦争理念があらわれたのであって、庶民がえりという点で、ほとんどすべての詩人たちは、おなじ問題をまぬがれえなかったのである。

 たとえば、モダニスト村野四郎は、太平洋戦争がはじまると、ただちに「挙りたて神の裔」(註3)をかいている。

  皇紀二千六百一年

  清列な露霜の暁

  一大轟音と共に

  遂に神々の怒は爆発した

  おお吾々の父の

  吾々の祖父の万斛の怨は

  雷鳴とともに天に冲した

  見よ今

  逆巻く太平洋の怒涛のただ中に

  ガラ ガラと崩れ墜ちる

  悪徳の牙城

  立てよ 神の裔

  今こそ妖魔撃滅の時!

  挙り立て 剣を取れ

  神霊は天に在り

  千古不滅の熔岩の島嶼

  神国日本を守るは今なり

  おお神の裔 神裔

  今こそ

  わが富士の大乗巌を護れ!

 プロレタリア詩人壺井繁治は、「国民学校一年生」のようにこころを躍らせて、地図の上を侵略の「指の旅」(註4)をこころみた。

  壁いつぱいに張られたる世界地図

  地図は私に部屋の狭さを忘れさせる

  まんまんと潮を湛へたる太平洋

  おお、壁の中から浪音がきこえて来る

  地図は私に指の旅をさせる

  こころ躍らせつつ

  南をさしておもむろに動く私の指

  キールン

  ホンコン

  サイゴン

  国民学校一年生のごとく呟きつつ

  私の指は南支那を圧して進む

  私の呟きはいつしか一つの歌になり

  私の指は早やシンガポールに近づく

  おお シンガポール

  おお わが支配下の昭南島

  マレーの突端に高く日章旗は翻りつつ

  太平洋の島々に呼びかける

 このような事情は、ダダイスム−アナキスム系の詩人岡本潤においても変りなかったのである。たとえば、「路」(註5)は次の如くであった。

   本当を言へば地上にはもともと路はあるものではない、行き

   交ふ人が多くなれば万路はそのとき出来てくるのだ――魯迅

  靄の深い

  日本の街の雪どけのどろんこ路を歩きながら

  私はおもふ

  あなたの国の路なき曠野の泥濘や黄塵万丈を

  おおみいくさはひろがる

  わが荒鷲 路なき空を翔けり

  わが艦艇 路なき海を馳せ

  わが隊列は 路なきジャングルを進む

  無辺際の未来と空間にひろがる路

  あなたの前に路はなく

  あなたの後に路はつづく

  あなたの深く憂へた民国の将来

  どこか二葉亭に似てゐるあなたはひとりごとのやうに言つた

  ――行き交ふ人が多くなれば路はそのとき出来てくるのだ――

  私の歩いてゐる

  靄の深い日本の街

  雪どけのどろんこ

  あなたの国の路なき曠野

  わが同胞のたたかひ進む

  路なき空

  路なき海

  路なきジャングル

 だが、戦争権力がアジアの各地でもたらしたものは、「乱殺と麻薬攻勢」(東京裁判)であり、同胞の隊伍は、数おおくの拷問、凌辱、掠奪、破壊に従事した。このとき、詩人たちはあざむかれたのであろうか。断じてそうではない。同胞の隊伍がアジアの各地にもたらした残虐行為と、現代詩人が、日本の現代詩に、美辞と麗句を武器としてもたらした言葉の残虐行為とは、絶対におなじものである。その根がおなじ日本的庶民意識のなかの残忍さ、非人間さに発しているばかりでなく、残忍さの比重においてもおなじものだ。詩人たちもまた、日本の歴史を凌辱し、乱殺し、コトバの麻薬をもって痴呆状態におとしいれたのである。戦後、これらの現代詩人たちが、じぶんの傷あとを、汚辱を凝視し、そこから脱出しようとする内部の闘いによって詩意識をふかめる道をえらばず、あるいは他の戦争責任を追及することで自己の挫折をいんぺいし、あるいは一時の出来ごころのようにけろりとして、ふたたび手なれた職人的技法とオプティミズムをはんらんさせたとき、かれらは、自ら日本現代詩の汚辱の歴史をそそぐべき役割を放棄したのである。高村が「東方の倫理」とかんがえ、三好達治、神保光太郎ら四季派、日本浪漫派を先頭とし、壺井繁治、岡本潤らプロレタリア詩系を殿りとする現代詩人たちが、擬ファシズム的言辞を弄して強調したところのものは、「東方の倫理」でも何でもなく、たんに日本的なもの、しかも、日本の半封建的な社会構造に基盤をもつ、半封建的な庶民意識のうえに狂い咲きした擬アジア的な思想に外ならなかった。だから、庶民の流行歌的哀調の変種である四季派、日本浪漫派の詩が、神保光太郎の詩論、「国民詩の進撃」のおもな論旨である歌の奪回、韻律の奪回にのって、現代詩の崩壊の積極的な担い手となったのは、当然であった。個的ニヒリズムにたてこもって反戦詩をかいた金子光晴と、素朴な客観主義的手法にかくれて反戦詩をかいた秋山清の外に崩壊をまぬがれた詩人はなく、北川冬彦(象一)、安西冬衛ら新散文詩系をモダニズム系とプロレタリア詩系の中間におき、草野心平ら「歴程」系を四季派とプロレタリア詩系の中間におき、日本現代詩は、第一に庶民的狂躁への退化、第二に擬ローマン的な屈曲、第三に擬ファシズム的な挫折となって、完全にその崩壊の図式を決定したのである。現代詩は、はじめから自我を日本的な現実とかかわらせ、たたかわせる方法の独自さを、詩の手法的な独自さにまでみちびくための内部的な格闘をさけてきたため、現実と自我との関係を、たんに日本の庶民的な生活意識のままに疎外してしまって、形式的な新衣裳にとびついたモダニズムの詩人も、自我を庶民意識の程度にしておいて、ただちに社会的な現実にたいして倫理的に対決したプロレタリア詩人も、たんなる庶民意識への後退――いわば擬ローマン的な後退と、たんなる生活意識の放棄――いわば形式的固定化への危機を、たえずその深層にもっていたとみるべきである。それゆえ、日本のモダニズム詩も、プロレタリア詩も、内部的には、近代的自我の解体、喪失の詩的表現にすぎないという側面をもつものであった。このことを、あまりに強調しすぎれば、プロレタリア詩の単純な叫喚にすぎないものの背後に純乎としてながれている階級的ヒューマニズムを過小評価することになるかもしれない。だが一方このかんがえ方をすてて、モダニズム詩を近代的自我の解体、喪失の文学的表現とみなし、プロレタリア詩を自我意識の社会意識への止揚の過程としてとらえる文学史家の公式理論にならえば、戦争期における現代詩の全崩壊という日本的特殊性をとくカギを失わねばならないことを指摘する必要があるのだ。なぜなら、詩における戦後世代が、刻苦して克服しようとしているところは、意識的であるにしろ、そうでないにしろ、この公式理論に馴致されない日本的特殊性の問題にほかならないからである。高村の戦争期の屈服にいたる過程が、日本における近代的自我の典型的な屈服をあらわしているというのは、高村が、昭和初年、自然理性的な自我意識からやや左にかたむいて確保した主体性が、現代詩人たちの自我喪失の様相のなかで、ほとんど唯一のきわだった意味をもつものであったということを意味している。高村の主体的な自我が、庶民がえりのうえに狂い咲いた超越的な倫理、擬アジア的な思想によって戦争詩から追いおとされ、「金がはいるときまつたやうに 夜が更けてから家を出た。心にたまる膿のうづきに メスを加へることの代りに 足は場末の酒場に向いた。」(「暗愚小伝」)というような実生活的な鬱屈にまで追いつめられた地点で、現代詩人たちは、自我の解体、喪失を原因として、狂躁的な庶民そのものへ、擬ローマン的な屈曲と、擬ファシズム的な挫折へと追いこまれていったのである。そして、高村の屈服と、現代詩人たちの屈服とが交叉して指すところには、帝国主義的段階にまで組織された、半封建的な日本の社会がおおきく横たわっていたのである。

 戦後、新日本文学会が、小田切秀雄署名の「文学における戦争責任の追求」において、「ここでは特に文学及び文学者の反動的組織化に直接の有責任をする者、また組織上そうでなくても従来のその人物の文壇的な地位の重さの故に、その人物が侵略讃美のメガフォンと化して恥じなかったことが、広汎な文学者及び人民に深刻にして強力な影響を及ぼした者、この二種類の文学者に重点を置いて取上げた」戦争責任者のなかに高村光太郎をリストしたとき、それは、当然高村がうけとめなければならない責任であった。だが、残念なことに、小田切は、文学者の戦争責任を、日本の文学の崩壊の内因を質的に掘り下げることによって精確に追求する持続力をもたなかったため、(これは「文学の端緒」に収められた論文でもかわらない)戦争期の日本文学の崩壊、挫折の体験から未来への方向をくみとる貴重な道はとだえ、自己陣営の戦争責任の追求を回避することによって、空文にひとしい権威しかもちえないままで終ってしまった。(ここから、敗戦革命の挫折の責任問題がおこるわけだが、ここでは触れない。)そこでのこされた空白は、若い世代のひとりひとりが、苛酷な内部的、現実的な格闘によって背負わねばならない重荷となって、いまも、あるのである。

 註

  • (1)「中央公論」昭和十二年一月 第五十二年第一号 第五百九十号 一八八~一八九頁。この詩の所在は、高村研究家北川太一の指摘と教示によって知った。
  • (2) 「朝日新聞」昭和十五年十二月十九日。
  • (3) 「読売新聞」昭和十六年十二月十六日。
  • (4) 「文芸」昭和十七年七月 第十巻第七号 四二~四三頁。
  • (5) 「新潮」第三十九年第四号 昭和十七年四月。

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 敗戦期

 ひどく切迫した情況から追いつめられると、人間は連帯感をなくしてしまい、自分がつみかさねてきた過去の体験をくりかえし反芻し、それによって行動するほかになくなってしまう。わたしが、はじめてそれを感じたのは、敗戦期であった。都市は、空爆にさらされてほとんど廃墟にちかく、生活の機能は半ばマヒ状態になっていた。権力の分配機構をあてにできなくなった人々は、自力で生活財を手に入れ、自力で生命の危険から自分をまもらなければならなかった。廃墟のあいだに住み、苛酷な被害をうけ、先のことにあてどがない、という共通の現実にたちかえるときだけは、異常なほど連帯感をかんじたが、こころは、それぞれ自己防衛の本能に武装されて孤独なことは、何かことが起るとすぐに争いがはじまることからも、よく理解された。この体験は、わたしの人間理解に決定的な影響をあたえた。ほんとうは、世代ということも、若年ということも、じぶんのことをふくめて信じていないが、戦争の極限状況を共通の内的体験によってくぐりぬけた孤立した任意のグループという意味では、その概念を肯定しなければならないとおもう。

 戦争のような情況では、だれもその内的体験に、かならず生命の危険をかけている。だから、この体験を論理づけ、それにイデオロギー的よりどころをあたえれば、もはや他の世代にたいして和解するわけにはいかない重大な問題を提出することを意味する。わたし自身にしても、戦争期の体験にたちかえるとき、生き死にを楯にした熱い思いが蘇ってきて、もはやどんな思想的な共感のなかへも、この問題を解決させようとはおもわなくなってくる。おそらく、このような見地は、決定的な分裂と対立を拡げてゆくみちであるが、敗戦が日本の近代史にあたえた最大の意味は、この世代によってまったく異質の戦争体験をつきつめてゆかざるをえなかった意味を徹底してえぐりだすよりほかにあきらかにされえないのである。

 わたしが、高村光太郎にたいして微かな異和感をみとめたのは敗戦期であった。この感じは、戦後拡大されてゆくばかりだったが、このことを検討しなければならないとおもいはじめたのは、かつて、あの廃墟のなかの生活で、おなじ連帯感に結ばれていたと信じた人々が、ほとんどばらばらに動きだし、ばらばらに戦争体験の意味づけをやりだして、どこに共通の戦争をともにした事実があったのかを、疑わざるをえなくなったからである。ことに、戦争に抵抗したという世代があらわれたときは、驚倒した。もし、そういう世代があったとしたら、どうしても戦争期に出遇うとか風聞をきくとかすることがあってもよかったはずだ。わたしは、戦後、インテリゲンチャによって語られてきた抵抗体験というものを、内心のわずかな痕跡を拡大してみせているのだ、という以外にすこしも信じていないが、ただ、何人も、程度のちがいこそあれもっていた戦争にたいする抵抗感と、戦争にたいする傾倒感の、いずれを拡大して意味づけるかは、見解のわかれるところであろう。わたしもまた、自身の懐疑と、実行にたいして根拠を与えねばならないのである。

 もしも、高村光太郎にたいする最初の異和感が、敗戦期にやってきたのでなかったら、その思想や生活や詩業を検討してみようなどとかんがえもしなかったろう。少年のころ傾倒した一人の詩人に、ある時期から異和感をもった、などということはたいして意味があろうはずがない。問題は、やはり思想や芸術の機能が、人間の生死にかかわりをもっているところにだけあり、すくなくとも敗戦期には、わたしにとって思想や芸術は生きたり死んだりの問題であった。高村光太郎の思想と芸術とを検討しようとするとき、かれの生涯が一貫して思想と芸術とを生死の問題においてとらえた近代古典主義の最後の詩人であることを理解するのである。凡百の詩の技術家たちをこえて、高村にこだわるのは、かれが詩人だからではなく、こういう確乎たる実行者としての風貌を生涯うしなわなかった最後の一人だからだ。

 日本の敗戦は、昭和二十年(一九四五)八月十五日である。八月六日には、広島に、八月九日には長崎に、「新型」爆弾が投下され、八月八日、ソヴェト軍は宣戦を布告して、中国東北地区(満洲)に進撃をはじめていた。わたしは徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた。死は、すでに勘定に入れてある。年少のまま、自分の生涯が戦火のなかに消えてしまうという考えは、当時、未熟ななりに思考、判断、感情のすべてをあげて内省し分析しつくしたと信じていた。もちろん論理づけができないでは、死を肯定するとができなかったからだ。死は怖ろしくはなかった。反戦とか厭戦とかが、思想としてありうることを、想像さえしなかった。傍観とか逃避とかは、態度としては、それがゆるされる物質的特権をもとにしてあることはしっていたが、ほとんど反感と侮蔑しかかんじていなかった。戦争に敗けたら、アジアの植民地は解放されないという天皇制ファシズムのスローガンを、わたしなりに信じていた。また、戦争犠牲者の死は、無意味になるとかんがえた。だから、戦後、人間の生命は、わたしがそのころ考えていたよりも遥かにたいせつなものらしいと実感したときと、日本軍や戦争権力が、アジアで「乱殺と麻薬攻勢」をやったことが、東京裁判で暴露されたときは、ほとんど青春前期をささえた戦争のモラルには、ひとつも取柄がないという衝撃をうけた。敗戦は、突然であった。都市は爆撃で灰燼にちかくなり、戦況は敗北につぐ敗北で、勝利におわるという幻影はとうに消えていたが、わたしは、一度も敗北感をもたなかったから、降伏宣言は、何の精神的準備もなしに突然やってきたのである。わたしは、ひどく悲しかった。その名状できない悲しみを、忘れることができない。それは、それ以前のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲しみともちがっていた。責任感なのか、無償の感傷なのかわからなかった。その全部かもしれないし、また、まったく別物かとおもわれた。生涯のたいせつな瞬間だぞ、自分のこころをごまかさずにみつめろ、としきりにじぶんに云いきかせたが、均衡をなくしている感情のため思考は像を結ばなかった。ここで一介の学生の敗戦体験を誇張して意味づけるわけにはいかないだろう。告白も記録もほんとうは信じてはいないのだから。その日のうちに、ああ、すべては終った、という安堵か虚脱みたいな思いがなかったわけではない。だが、戦争にたいするモラルがすぐにそれを咎めた。このとき、じぶんの戦争や死についての自覚に、うそっぱちな裂け目があるらしいのを、ちらっと垣間見ていやな自己嫌悪をかんじたのをおぼえている。翌日から、じぶんが生き残ってしまったという負い目にさいなまれた。何にたいして負い目なのか、よくわからなかったが、どうも、自分のこころを観念的に死のほうへ先走って追いつめ、日本の敗北のときは、死のときと思いつめた考えが、無惨な醜骸をさらしているという火照りが、いちばん大きかったらしい。わたしは、影響をうけてきた文学者たちが、いま、どこでなにをかんがえ、どんな思いでいるのか、しきりにしりたいとおもった。そんな日、高村光太郎の「一億の号泣」は発表されたのである。

    一億の号泣

  綸言一たび出でて一億号泣す。

  昭和二十年八月十五日正午、

  われ岩手花巻町の鎮守

  鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて、

  天上はるかに流れきたる

  玉音の低きとどろきに五体をうたる。

  五体わななきてとどめあへず

  玉音ひびき終りて又音なし。

  この時無声の号泣国土に起り、

  普天の一億ひとしく

  宸極に向つてひれ伏せるを知る。

  微臣恐惶ほとんど失語す。

  ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、

  苟も寸毫も曖昧模糊をゆるさざらん。

  鋼鉄の武器を失へる時

  精神の武器おのづから強からんとす。

  真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ

  必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん。

 わずかではあるが、わたしは、はじめて高村光太郎に異和感をおぼえた。すでに、敗戦が、わたしをおそろしく孤独なところへつきおとしているのを、あらためてしった。戦争がつくっていた連帯感がもう消えかかっているのだ。

 いまでは、こんなことをいっても誰も信じまいが、わたしの異和感は、高村の天皇崇拝が、骨がらみであるのを知ったためでも、天皇の降伏放送にたいして、懺悔を天皇個人に集中しているのが異様だったためでもない。わたしがもっていた天皇観念は、高村と似たりよったりであった。わたしには、終りの四行が問題だった。わたしが徹底的な衝撃をうけ、生きることも死ぬこともできない精神状態に堕ちこんだとき、「鋼鉄の武器を失へる時精神の武器おのづから強からんとす。真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」という希望的なコトバを見出せる精神構造が、合点がゆかなかったのである。高村もまた、戦争に全霊をかけぬくせに便乗した口舌の徒にすぎなかったのではないか。あるいは、じぶんが死ととりかえっこのつもりで懸命に考えこんだことなど、高村にとっては、一部分にすぎなかったのではないか。わたしは、この詩人を理解したつもりだったが、この詩人にはじぶんなどの全く知らない世界があって、そこから戦争をかんがえていたのではないか。

 わたしは、絶望や汚辱や悔恨や憤怒がいりまじった気持で、孤独感はやりきれないほどであった。降伏をがえんじない一群の軍人と青年たちが、反乱をたくらんでいる風評は、わたしのこころに救いだった。すでに、思い上った祖国のためにという観念や責任感は、突然ひきはずされて自嘲にかわっていたが、敗戦、降伏、という現実にどうしても、ついてゆけなかったので、できるなら生きていたくないとおもった。こういう、内部の思いは、虚脱した惰性的な日常生活にかえっていたから、口に出せばちぐはぐになってしまうものであった。こころは異常なことを異常におもいつめたが、現実には虚脱した笑いさえ蘇った日常になっていたのである。わたしは、降伏を決定した戦争権力と、戦争を傍観し、戦争の苛酷さから逃亡していながら、さっそく平和を謳歌しはじめた小インテリゲンチャ層を憎悪したことを、いっておかねばならない。もっとも戦争に献身し、もっとも大きな犠牲を支払い、同時に、もっとも狂暴性を発揮して行き過ぎ、そして結局ほうり出されたのは下層大衆ではないか。わたしが傷つき、わたしが共鳴したのもこれらの層のほかにはなかった。支配者は、無傷のまま降伏して生き残ろうとしている、そのことは許せないとおもった。戦後、このときのわたしの考えが、初期段階のファシズムの観念に類似したものであることを知った。降伏という事態によって、いままで社会には貧富の差があり不合理だというところから富者に嫌悪感をもっていたわたしは、やはり、漠然とであるが、社会には支配者と被支配者があり、戦争でも、敗戦でも、平和になっても、支配者はけっして傷つかず、被害をうけるのは下層大衆だけなのではないか、とはじめてかんがえはじめた。わたしは、出来ごとの如何によっては、異常な事態に投ずるつもりであったことを、忘れることができない。

 わたしたちの少年期から青年期の前半にかけた時期は、天皇制下における右翼と軍部ファシズムの抬頭と戦争とに終始している。試みに年譜をとってみる。

  昭和 七年 上海事変 血盟団事件 五・一五事件(8歳)

  昭和 八年 神兵隊事件 (9歳)

  昭和十一年 二・二六事件(12歳)

  昭和十二年 中日戦争(支那事変) (13歳)

  昭和十三年 近衛、東亜新秩序宣言 (14歳)

  昭和十五年 新体制運動 (16歳)

  昭和十六年 太平洋戦争 (17歳)

  昭和二十年 敗戦 (21歳)

 わたしが、右翼、軍部共演のファシスト・テロ事件を、はじめて意識的にながめたのは、昭和十一年の二・二六事件からであった。これは、少年のわたしに強烈な印象をあたえた。断っておかなければならないが、日本のマルクス主義政治運動も文学運動も、余燼があったはずなのに、まったく精神的な影響を印していない。貧富の差からくる不合理にたいする反抗心は、急進ファシストが身をもって代弁してくれるようにおもわれた。学校で儀式ごとに植えつけられた天皇崇拝観念は、おなじように急進ファシスト中のある分子が、もっとも純粋な形で代弁していた。少年のわたしは、これらの右翼テロリストたちに共感のほか何もかんじなかった。これら、農村、地方出身の独学インテリゲンチャ、青年将校は、典型的に、貧困と社会的不合理に抑圧された青年期の心情を、独断的な知識を寄せ集めて論理づけ、これを偏執的な熱狂心に結びつけている。いわば、充分に成長しきれない内的な世界を強烈な実行によって覆っている封鎖的な亜インテリゲンチャの青年を代表している。わたしは、いくらか成長するにつれて、これら右翼テロリストたちの行動から異常な革命的エネルギーを感じながら、同時に、暗い偏執の匂いをかぎとり、異和感をもたざるをえなくなったが、しかし、かれらの行動は、天皇制教育下に成長したわたしたち都市下層庶民の少年の、純粋意識と反抗心におおきな影響をあたえた。右翼テロリストたちの行動は、いうまでもなく都市庶民層を本質的な意味では、しんかんさせてはいない。かれらからみれば、テロリストたちは、たんに、単純で偏執的な、世智に乏しい青年にみえただけである。利害を目算に入れず、結果を構想することを拒否し、論理的な思考と計画を欠いていた彼等の実行は、いくらかでもブルジョワ化した都市庶民を動かしえたはずがなかった。わたしは、ほとんど思想的には右翼テロリストからもっとも影響をうけ、文学的には、日本的近代主義者高村光太郎、空想社会主義者宮沢賢治、近代的−急進的ファシスト保田与重郎、庶民的インテリゲンチャ小林秀雄、横光利一、芸術至上主義者太宰治の影響下に、少年期から青年期の前半をおくった。このような思想的、文学的影響が一人の青年にとって統一的な像を結んだかどうか、という疑問は、わたしの未熟さということで解きうることである。しかし、これが無矛盾でありえた、というところからは、近代日本の文化と社会生活と思想的な伝統との間にある断層の問題を引きだしえないことはないと考えるのだ。この問題をつきつめることによってしか、右翼テロリストたちの実行が、軍部、天皇制官僚、財閥を結合させ、社会民主主義者、マルクス主義転向者、日本的近代主義者を傘下において、翼賛政治、文化運動を展開させ、労働者の組織を産業報国会に編成せしめて、戦争に突入させるに至ったエネルギーは理解できないとおもわれるのだ。

 明治以来、日本の近代社会は、政治機構から生活の末梢にいたるまで、西欧の科学、技術、文化、生活様式の圧倒的な影響をうけ、それと伝統の様式、思考方法との矛盾、衝突、混合をくりかえし体験しながら、いわゆる「日本化された近代」をつくりあげてきた。しかし、この西欧化と伝統との混和状態は、現実的な危機に直面すれば、ただちに固有の様式に分裂状態がおこらざるをえないものであった。ほとんど、西欧的な発想の影響をうけていない右翼テロリストたちの土着の思想が、太平洋戦争に突入して行く全体制の編成におおきな力を及ぼしたのは、おそらく、日本の全階級の人民は、西欧に対する劣勢意識をうらがえした点で、かれらに共感し、復讐の機会をみたのである。

 このような、封鎖された排外意識を完全にまぬかれたのは、骨肉から西欧近代主義を身につけた金融資本家の一部とマルクス主義者中の例外的少数にすぎなかったといえる。年少のわたしは、右翼ファシストたちが、擬制的に資本主義の打倒をとなえ、西欧にたいするアジアの解放をスローガンとしたとき、ほとんど他の異和感は、暗い鬱屈になって内部にとじこめられざるをえなかった。かれらの偏執的な熱狂と無智なドグマは、わたしを苦しめたが、このような苦しさは克服するのが正しいと思いきめようとした。太平洋戦争が勝利におわっても、じぶんの内部的な矛盾は解放されることはあるまいとおもったが、それを肯定した。敗戦直後、高村光太郎の詩「一億の号泣」にたいしてかんじた異和感は、分析的にかんがえれば、高村の生涯の自然法的な思想が、右翼テロリストたちと、したがってその影響下にあった少年のわたしと、まったくちがった独特な構造をもっていたためである。

 高村が欧米留学から帰国したのは、明治四十二年六月である。

 もともと高村は告白をこのまなかったし、とくに欧米留学中のことを語るのをこのまなかった。戦後になって「父との関係」などで留学中の道行きは、事実をそのまま羅列したような回想によって輪廓をあきらかにしたが、高村のこころに何がおこったのかをいう意味では、何も語っていないにひとしい。告白というものがもともと内的な確執がやんだとき成立つものだとすれば、生涯にわたって、独特な格闘をやめなかった高村が、告白をこのまず、とくに生涯のモチーフを決定した欧米留学中のことを語りたがらなかったのは当然であった。高村が身辺のことにふれるようになったのは、「母のこと」(昭和十五年五月)、「姉のことなど」(昭和十六年四月)、「美術学校時代」(昭和十七年六月)、「子供の頃」(昭和十七年七月)などがはじめである。すでに、母は死に、父光雲は死に、智恵子夫人は狂死し、高村の生活上の惨劇はすべておわったのち、はじめてこれらの回想はかかれた。高村にとっては、もはや、かたくなに「家門」に反抗し、父光雲の意にさからってきた往時の感情を、固執する理由はすべてなくなっていた。太平洋戦争にさしかかって、戦争と運命をともにするつもりになっていた高村は、近親のことにもふれておきたかったし、また庶民と戦争をともにしているという意識が、肩の荷をおろさせ、昔を談話したのである。だからこの回想は、戦争にのり出した時機の高村の内的な世界を象徴するものではあっても、生涯の精神上のドラマを再現するものではなかった。戦後、ふたたび生涯をしめくくろうとし、自分の制作品の目録にも及んだが、眼前には死がひかえていて、生涯の惨劇を掘りおこす必要はなかったのだ。戦後の回想は、力をこめてかかれているが、不安も惑いも卒業したといった調子は一貫している。

 欧米留学中のことも、「死んだ荻原君」(明治四十三年七月)、「フランスから帰つて」(明治四十三年三月)、「日本の芸術を慕ふ英国青年」(明治四十四年十月)、「彫刻家ガットソン・ボーグラム氏」(大正六年五月)、「バーナード・リーチを送る」(大正九年六月)、などによって戦前に片鱗はあきららかにされてはいた。しかし、ここにも、欧米留学の年代記を埋める資料はあっても、精神上の体験を照し出すものは、ほとんどえがかれていない。高村は、欧米留学中の物質的な基礎について回想録で語っている。「世間では沢山金でも持つて行つたやうに思つて、向ふに居ても金持の連中などで対等のつきあひをしようと思つた人達が居たりして、さういふ時は何時も仲間外れをしてゐたが、金がないと言つてもどうしても本当にしなかつた。」有島生馬が、パリ時代の高村についてかいていることは、高村の物質的な理由による「仲間外れ」と関係があるかもしれない。「南君が先に帰国してから、吾々の住んでゐたカルティエ・ラタン区のカムパーニュ・ブルミエル街の画室住ひの一人になつたが、毎日どこをどう歩きまはつてゐるのか、さつぱり分らなかつた。さうかといつてアカデミイに通つてゐるのでもなく、アトリエ内で彫刻してゐる様子もなかつた。」(「パリ時代の高村君」)留学などはもともと後進国の特産物だから、経歴に箔をつけようというのから、先進国の芸術の様式を体得してかえろうというのまで、そこに様々の動機が成立し、生活がありうる。しかし、後進国の優等生たちが、どんな精神上の惨劇をいだいて外国で生活するのかは、語ろうとしても余り語りえないであろう。滞欧中、高村が、それほど制作をのこしていないのは事実である。表現したことより表現しなかったことで、制作したことよりも制作の少なかったことで、文学史と美術史に重要な位置を占めている高村が、欧米留学中の生活の内部を、仲間に秘しおおせることくらい雑作はなかったであろう。有島生馬も知らない。梅原竜三郎も知らないのだ。もちろん、知っていたのは高村自身であり、それは、あるいは知りすぎていたといったほうがよかったのである。明治四十三年七月には、「出さずにしまつた手紙の一束」、四月には「珈琲店カフェより」が発表された。詩「根付の国」も同年にかかれた。大正十年には「巴里幻想曲の一」である「雨にうたるるカテドラル」が発表された。大正十四年には詩「白熊」、大正十五年には「象の銀行」がかかれた。記録的価値を問いうべくもないこれらの作品が、欧米滞在中の高村の内面の体験をあらわしている唯一の資料である。最初の作品と最後の作品の間には、凡そ二十年近くの年月があり、それぞれの時代的な背景によって、誇張されたり歪められたりしているが、一貫したモチーフの連関をたどることは容易である。「出さずにしまつた手紙の一束」から「珈琲店カフェより」にかけて高村が展開したのは、芸術には、西欧と日本のあいだに理解できないものも、血統的な異質さもないが、西欧の人種と日本の人種のあいだには、まったく了解できない壁があり、落差があるというかんがえである。西欧の女をモデルに制作しても、モデルのこころが石ころかなにかのようにわからない。西欧の女と交わっても、白い皮膚と、自分の黒い皮膚の色との差が、どうしようもない劣等感になってこころをさいなんでくる。この人間の世界共通の意識と了解不可能の意識のあいだで、父光雲の願いであり、高村自身も、出発のときかんがえていた西欧の芸術様式を模倣し、手に入れてかえるという無邪気な願望は、けしとんでしまったのである。父と自分との血縁にたいする嫌悪や、日本のみじめな芸術と人間意識にたいする背離は、このようなところからうまれた。「根付の国」の自嘲をこめた日本人嫌悪と、人が居なければロダンのニンフの大理石をだいて寝たいという憧憬をあらためて描いた「雨にうたるるカテドラル」のなかのカテドラルの角石に両手をあて熱い頬をつけている「酔へる者なるわたくし」の描写は、このテーマの直接の反映にほかならない。高村のこころにある、西欧にたいする心理的な憧憬と劣等感とは、不安定なまま生涯にわたって見えかくれした。或る時期には、欧米留学時代の貧困な生活と、人種的侮蔑を浴びせかけられたときの屈辱の記憶を掘りおこさねばならなかった。たとえば、ガットソン・ボーグラムの書生時代、モデルに立っているとき、客の婦人があのモデルはいい体をしているというのをきいて、身体がふるえるような屈辱感を味わった思いなどは高村を傷つけずにはいなかった。人は生涯のうちに幾度も屈辱を味わうかもしれないが、高村の欧米留学中の屈辱のようなものは報復するすべがなかった。詩「白熊」、「象の銀行」において「教養主義的温情のいやしさは彼の周囲にみちる。息のつまる程ありがたい基督教的唯物主義は夢みる者なる一ジャップを殺さうとする。」(「白熊」)とかき、「ああ、憤る者がここにも居る。天井裏の部屋に帰つて彼等のジャップは血に鞭うつのだ」(「象の銀行」)とかかざるをえなかったのは、この思いに連なるものであった。高村の生涯は、こういう見方からながめれば、一貫して西欧にたいする憧憬と反撥のあいだをゆれた。内的には世界意識と孤立意識との不安定な確執であった。(例えば、「ありがたう、フランス わけのわかる心といふものが どんなに人類を明るくする

か 朝のカフェ オオ レエをついでくれた一人のマダムのものごしにさへ あゝ、君はそれを見せてくれた」(「感謝」)は、大正十五年の作で、「象の銀行」と同年、「白熊」の一年後である。)

 戦争は、高村にはじめて欧米留学中のこころの惨劇を十全に解放させる機会をあたえたのである。

 中日戦争にかたむいていった高村は、ほとんどイデオロギー的には西欧にたいするアジアの反逆というテーマをつらぬき、ここに生涯の思い出をからめたことはあきらかであった。これが高村の自然理性の退化と相補っていったのである。

  植民地支那にして置きたい連中の貪慾から

  君をほんとの君に救ひ出すには、

  君の頭をなぐるより外ないではないか。 (「事変二周年」)

  長い間支那南北を争はせて

  漁夫の利をせしめてゐたのは誰だ

  今又日本と支那とを喧嘩させて

  同じ利をせしめようとしたのは誰だ  (「君等に与ふ」)

  むかしに変らぬ久米の子等は海を超えて

  今アジヤの広漠の地に戦ふ。

  アジヤの民の眠りをさまし、

  アジヤの自立を世界の前に建てようと

  一切をかけて血を流してゐるのだ。 (「紀元二千六百年にあたりて」)

  わが日本は先生の国を滅ぼすにあらず、

  ただ抗日の思想を滅ぼすのみだ。

  抗日に執すれば先生も亦滅ぶ。

  わが日本はいま米英を撃つ。

  米英は東亜の天地に否定された。

  彼等の爪牙は破摧される。

  先生の国にとつて其は吉か凶か。

  先生よ、沈思せよ。  (「沈思せよ蒋先生」)

 一見すると、たしかに天皇制権力と軍部ファシストの戦争スローガンをまねているようなこの語り口を、たんなる便乗と解することはできない。高村の内面的な動機や精神上の構造は、おそらく、かれらとまったくちがっていた。もし、欧米留学から骨身にきざみこんできた孤絶意識を根本からくつがえす時期がきた、とかんがえたのでなければ、この幼稚なスローガンに良心を託して戦争にのりだすようなことはなかった筈だ。このような人種的孤絶意識は高村のようにきわだったものでないにしろ、日本の都市庶民が西欧化されてゆく生活様式と伝習的な家を中心とする生活感情との矛盾あつれきのなかから明治以来蓄積してきたものにほかならなかった。右翼ファシストのイデオロギーの基盤である地方、農村の排他的な鬱屈した伝統主義が、都市庶民たちのイデオロギーと交叉したのは、文化的鎖国状態と相まって、この西欧にたいする孤絶意識という一点だけであり、これを支点にして、日本の民衆は戦争にたいして積極的な体制を組んでいったのである。

 高村のイデオロギーは、出生意識を掘り下げることによって得た、都市庶民のイデオロギーを尖鋭化した典型にほかならない。

 社会意識的にみれば、「道程」や「智恵子抄」の前期、いいかえれば、高村が欧米留学からかえった直後の問題は、日本の社会芸術界の封鎖的なつながりを西欧近代社会を原型にして否定し、独走しようとする過程におこり、智恵子夫人と死別後の問題は、日本の庶民の意識に同化、屈服する過程で、いわば庶民のなかにある西欧への孤絶感を刺激し引きだすところにあった。このまったく相反している精神上の方向は、そのまま「道程」と「猛獣篇」のなかに対照的にあらわれざるをえなかったのである。「道程」ではあきらかに高村の西欧憧憬を軸にして、日本の社会が批判され、欧米留学中に純粋培養した文化的エディプス・コムプレックスをたてにして、日本のふるい人情ははげしく噛みくだかれている。しかし、この日本的な現実との噛みあいは、白樺派の進出と平行して放棄され、自然理性のうえにたった孤立した人間肯定に転化していったのである。高村にとって、自我を確立してゆくことは、社会との通路を意識してたちきり、庶民の生活からも環境からも自己を隔離させることにほかならなかった。この「道程」のはらんだ問題は、はるかに戦争期へはいる直前の詩「猛獣篇」の性格を規定したのである。「猛獣篇」は、高村の内的な世界がしだいに生活史の破産をうけて孤独に閉じこめられていったにもかかわらず、詩自体をテーマに託して現実を裁断するように外にむかってつっかかっていった矛盾のなかに問題が集中してあらわれたのである。大正十二年九月の「明星」で、高村はつぎのようにかいている。

   「長い間の心の要求であつた自分の小さな個人雑誌が此冬あたりから出せさうなので喜んでゐます。長い間窮屈に押しつめられてゐた自分の内の生活が其処で自由に放電せられる事を思ふとうれしい気がします。どんなにすがすがしい事かと思ふ。此世に於ける自分といふ生存にどんな意味があるのかはまだ自分にもはつきり分らないでゐます。それが分かつて来るであらうとおもふ事がたのしみです。自分が草で言へば路傍の雑草、木で言へば薪になる雑木、水で言へば地中の泉である事は既に知つてゐます。しかし此の大きな自然の中では万物が自己の生活を十全に開展せしめ進展せしめて、互に其の同胞と呼びかはす事を許されてゐます。さうして微妙な因果律が万物の間に万物各自の存在理由を作つてゐます。万物は皆大きな至上律の下に自由を得てゐます。自由とは至上律の命ずるまま動く事、それに身をまかせる事であります。自分も亦此の自由が人間にとつて如何なるものであるかを知りかかつてゐます。地中の泉は地中の泉らしいはたらきと美しさとを持つて居るに違ひありません。如何に微弱であつても自分も亦或る河床に其を思のまま噴出せしめるやうになるのは自然です。自然の力にせまられるのを感じます。

 私は泥足で歩くやうな自分の芸術の事を考へ、荒蕪地の風のやうな自分の思想の事を考へて、「明星」のやうな私に寛大な雑誌にすら、思ひ存分には動く気になれなかつた事を白状します。それは大理石の階段にまつくろな足跡をつける事でありました。どんなに時々自分の其の足跡をふり返つて見て、興ざめた事か知れません。さうかといつて、でたらめに他の雑誌に自分のものを寄せる事は自分の一種の潔癖性(此は実は困つた獣類の一種です)が許しません。私は自己の内攻を感じてゐました。鬱積の圧迫をやつと堪へてゐたのです。今度こそ私の胸はすくでせう。さうして私の全裸身が、善きにせよ悪しきにせよ、動くべき処に動くでせう。」(「一隅の卓より」)

 しかし、高村は、実際は泥足で歩いたわけではなく、大理石のうえにまっくろな足跡をつけたのでもなかった。いわば自然調和的な思考にたすけられて、その生活は、単純で行儀よく、孤立的であり、その芸術は古典的、整合的であった。そのために、内心にあった鬱積は、吐け口をなくしてますますつのり、かえって必要以上に醜悪を夢みるという具合であった。たとえば、このころ、生活に窮して素描の頒布会を公告したが、注文がくれば自分の作品を金にかえられないで、弁明を公告してとりやめ、内心でますますもがくといった具合だったのである。「猛獣篇」の猛獣という意味が、高村のいうように、内心の鬱積を指しているとすれば、その原因はいうまでもなく「道程」後期や「智恵子抄」におけるデカダンスからの脱出の仕方のなかにあった。

 個人的生活の上に自然理性の思想をおき、そこからはみだす内心の鬱屈を詩から切りすてて肯定的なヒューマニズムを粧ったところに問題は萌していたのである。もともとこの詩人は、江戸職人的であり、庶民的であり、ヒューマニストというよりも、もうすこし人間にたいして非情であったから、いくらか雰囲気をつけずにはすまないヒューマニズムなどには馴らされない狂暴さをもっていた。まるで無限の競合いのように、自然調和をしんじようとするこころと、それをつきくずそうとする欲求のあいだの確執は内心でつづけられたはずであった。そして、この自然調和をつきくずそうとするこころを切り捨てようとしたため、直接には「智恵子抄」に象徴された生活史が、夫人の狂死をもって破産したにもかかわらず、美的な衣裳によってそれをおしかくさざるをえない破目におちいり、高村の内的な矛盾はそのまま「猛獣篇」時代の作品となって吐き出されるにいたったのである。「猛獣篇」は、「雷獣」にしろ、「マント狒狒」にしろ、「象」にしろ、「森のゴリラ」にしろ、「ぼろぼろな駝鳥」にしろ、「潮を吹く鯨」にしろ、すべて人間の不正と狡智にたいする憤怒の爆発であり、社会秩序のわくにたいする破壊的な意志をあきらかにしている。しかし、高村は、それを内部の主体的な表現によってではなく、アレゴリイとしての動物を「テーマ」とする詩としてしか表現できなかった。テーマ詩としての「猛獣篇」の形式的な安定感は、ふたたび高村の急迫した内心を疎外するようにはたらき、鬱屈は充分なはけぐちを見つけられないため、内面の危機感と形式的な「テーマ」の安定感との分裂は当然であった。ここに、詩の方法の問題として、高村が内心の抑圧や鬱屈をおきざりにして、次第に戦争詩へと傾いてゆき、一方では、人知れず内心の悩みをつづけるという戦争期の内部世界の分裂へゆきつく原因があらわれたのである。「猛獣篇」の問題は、高村の自然法的な思想を確立するみちすじが、日本の庶民社会の生活環境を隔離することと同義をなしたのとまったくつながるものであった。高村の現実意識は「テーマ」のなかに形式化されてゆき、内心の主体はますます孤立して作品そのものから追いだされる運命におちいった。「道程」の初期に、日本の封鎖した情緒や風物に、自己のこころをつき立てることで、シニカルな現実密着の批判を展開したこととくらべれば、「猛獣篇」はまさにその反対の過程を意味している。そして、ここに、高村が自我を確立してゆく過程を、日本の資本主義の上昇期にあわせることができた「道程」と、自我の崩壊してゆく危機感を、日本資本主義の下降期にあわせねばならなかった「猛獣篇」との差異が、はっきりとあらわれたのである。高村は、猛獣篇時代のじぶんの精神上の危機が、どうしても社会の総体の問題とつながっていることを知っていた。「猛獣篇」のけわしい現実敵視が、直接には、生活上の窮迫からきているにもかかわらず、この時期の社会不安や労働者の反抗に、かきたてられたものであることを無視できないのはそのためである。高村の生活史は、この時期に、社会の危機と内心の危機感とに十重、

二十重にとりかこまれている。「猛獣篇」前後の詩は、作品のうえでは、かなりな程度、内心のうめき声を抑えきって破綻をあらわしていないが、直接年譜は、まるで急坂を落下してゆくような生活上の破産をつたえているのだ。

  昭和六年 智恵子に精神分裂症の徴候

  昭和七年 智恵子アダリン自殺未遂

  昭和九年 智恵子精神分裂症悪化 父光雲死亡

  昭和十年 智恵子南品川ゼームス坂病院入院

  昭和十三年 智恵子死亡

 智恵子夫人の死を契機にして高村が戦争へ傾いていったのは、決して偶然ではなかった。年譜にすれば、一行くらいになってしまう夫人の精神異常、自殺未遂、死という事実は、智恵子夫人の精神病理学的な素質にだけよるものではなく、恰も高村と智恵子夫人との生活が緊張のあまり破れてしまったグラフにほかならなかったのだ。高村は作品のなかでも、回想のなかでも、智恵子夫人と出遇ってから内心のデカダンスがぴったりと止り、生涯の方向がきまったことをくりかえし記している。そして、「道程」の作品は、智恵子夫人らしい女性の影(N女史)が現われる頃を境にしてはっきりと二つにわかれているほどである。高村は夫人との結婚と生活のなかに強烈なモチーフをおいた。そして、その生活は、日本の庶民社会で通用している「家」の概念をじゅうりんするような形式と内容が必要だったのである。高村が、智恵子夫人との生活にかけた理想を実現できなかったとしたら、欧米留学からもちかえった孤絶意識は決してなくならなかったはずである。だから、生活史自体が高村にとって必死の課題であり、智恵子夫人の死によるその破綻は、この課題の挫折を意味したのである。

 高村の近代意識を、明治以後のすべての文学者からへだてている独自な性格は、この生活史自体に内面の問題をかけ、生活のくまぐまに光彩あれというようなことに必死の重さをかけた実践的なところにあった。この芸術と生活との一元論によって、夫人の死後、戦争に生活上のモラルを託し、敗戦後、指導の座にあった責任をかんじて生活自体を山林に投じたのである。高村のこういう一元論を決定したのは、欧米留学から骨身に刻んでかえってきた青年期の秘されたモチーフであった。高村にとって、西欧先進の芸術的な技法と様式を学ぶことは第二義に属し、自己のなかの社会と生活と、西欧のそれとのちがいや落差を凝視することこそ留学中のモチーフだったのだから。「検討するのも内部生命 蓄積するのも内部財宝」(「暗愚小伝」)という西欧近代の「家」の様式と感情を日本の庶民社会で孤立して培養しようとする高村の企意は、生活上の窮乏と社会通念におしまくられて、智恵子夫人の狂死となって失敗せざるを得なかった。

 高村は、しばしば雑文や詩のなかで、芸術を美の監禁に手渡すことの理不尽についてかいているが、生活を庶民社会の通念に狃れさせ、自己の芸術を通念に狃れている所以とたえず対決させながらしか均衡を保てないような芸術と生活との日本的な関係に反して、あくまでも生活と芸術との一元的な結びつきに固執し、自我を確立することが社会的通念を拒否することと同義であったような高村の発想が持続できないことは当然であった。どこかで、その閉じられた生活は、破けなければならなかったのである。智恵子夫人の狂気・自殺未遂・死は生活上の破けであり、「猛獣篇」におけるテーマと内的な欝屈との分裂は、文学的な破けであった。高村ほど、全身をこめて戦争に突入した文学者はいなかった。年少のわたしは、高村が大政翼賛会中央協力会議の委員になったとき、この孤独な詩人の一途な態度を敬愛したが、いまにしておもえば、この時こそ高村が、日本の庶民社会のなかで西欧近代の「家」の理念を打ち立てようとする企てがすべておわったことを確認した時期であった。

  主人は権威と俗情とを無視した。

  主人は執拗な生活の復讐に抗した。

  主人は黙つてやる事に慣れた。

  主人はただ触目の美に生きた。

  主人は何でも来いの図太い放下遊神の一手で通した。

  主人は正直で可憐な妻を気違いにした。 (「ばけもの屋敷」)

 夫人の死と前後して、父高村光雲も死んだ。

 うわべは優しい息子として終始しながら、内心では生涯のコースを変えるほど苦しみ、何とかして二代目的な生活と芸術とにおちいるまいとして格闘した父光雲が死んだのである。いまはもう抗うものすべてがなくなったようにおもった。家霊のようなものに招かれて、一群の回想をかき、父光雲、祖父中島兼松などの天皇に対する江戸庶民的な尊崇を内部にうけ入れた高村は、かつて青年期に欧米留学によって骨身まで泌みとおった西欧にたいする孤絶意識を逆手にとり、西欧にたいするアジア後進国の解放、復讐という、うわべは天皇制権力・ファシストのかかげたスローガンと一致するイデオロギーを唯一のよりどころとして突入したのである。

 昭和二十年三月二十六日、米軍は琉球慶良間列島に上陸した。次いで四月一日、沖縄本島に上陸した。すでに三月一日、米軍は硫黄島に上陸し、十七日には硫黄島の日本軍は全滅しており、日本の敗北は決定的になっていた。敗戦期の高村の詩は、戦争を完遂せよ敗北感に侵されるな、というアジテーションを大衆にむかって説くことに終始している。もう、いいかげんの便乗文学者では、どうしようもない局面になって、大衆の戦意に殉じようとした。おそらく、いいかげんなところで手を引かなければ損だとすすめた白樺派の文学者のふところ手の倫理をおもい起したろうが、そこまできて責任を回避できなかったのは、高村の庶民的善意によるものであった。詩「琉球決戦」は、昭和二十年四月二日、朝日新聞に発表されたが、この詩は、敗戦期の高村が力をかたむけてかいたものであった。

    琉球決戦

  神聖オモロ草子の国琉球、

  つひに大東亜戦最大の決戦場となる。

  敵は獅子の一撃を期して総力を集め、

  この珠玉の島うるはしの山原谷茶

  万座毛の緑野、梯梧の花の紅に、

  あらゆる暴力を傾け注がんとす。

  琉球やまことに日本の頸動脈、

  万事ここにかかり万端ここに経絡す。

  琉球を守れ、琉球に於て勝て。

  全日本の全日本人よ。

  琉球のために全力をあげよ。

  敵すでに犠牲を惜しまず、

  これ吾が神機の到来なり。

  全日本の全日本人よ、

  起つて琉球に血液を送れ。

  ああ恩納ナビの末孫熱血の同胞等よ、

  蒲葵の葉かげに身を伏して

  弾雨を凌ぎ兵火を抑へ

  猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。

 年少のわたしは、高村が敗戦と運命をともにするつもりだな、とかんがえ当時この詩にかなり感動したのを記憶している。敗戦期の高村は、眼前にひかえた死の決断をまえにあきらかに思想上の転機にたった。この「琉球決戦」にもあらわれているように、徹底した庶民的な意識から庶民の指導者としての意識にかわった。おそらく、この高村の転機に影響をあたえたのは、敗戦直前の焼けただれて機能をマヒした都市の現実と、傷めつけられて沈没してゆく庶民の動向であった。もう敗色はあきらかで、大衆は空爆に傷めつけられて気力をうしなっていた。高村は、この時期になって次のようにかいている。

 「罹災とは災厄によつて、最悪の場合には生命を失ひ、生命に異状ない場合でも、衣食住の突発的喪失による物的停頓を意味する。罹災とはあくまでも物の関係であつて精神の問題ではない。物が罹災するのは眼前の事実であるが、精神の罹災といふのは元来他動的にはあり得ないのである。いかなる時にも自律的に自動性を堅持しながら消長するのが精神の特質である。」(「戦災者の心理」)

 高村は、自分の罹災体験をもとにしてかいているから、この時期の高村の発想そのものをここによみとっても大過あるまい。高村は、空爆によって生活財が消滅してしまったとき、ほぼ、内部的世界を生活、環境からまったく切り離して自立させる発想に到達している。そして、そこから生活財を失って精神的に虚脱におちいり、苦んでいる庶民の意識にたいして物質と精神内部とは別個の関係ないものだ、と呼びかけている。高村は、すでにこの時期に、主体的な自我と庶民的な屈服とに分裂した自己の内部世界を完全に一元的に統一するかわりに、外部の現実と内部の世界とを全く分離せしめているのだ。この発想は、日本の近代主義者の発想と、一見ちがうようであるが実はまったくおなじもので、一層徹底した形で高村によってとらえられたのである。すでに、社会的な機能がマヒしかかった敗戦期において、高村が依然としてそこに対処する精神の方法を編み出そうと努力している様は、これらの断片的な文章によってもうかがうことができるが、その主観的な誠意によって、極端な近代性と前近代性とが背中あわせになった近代日本の社会的な特質は、思想の機能によって高村に体現されたのである。「琉球決戦」、「栗林大将に献ず」というような大衆への呼びかけをつうじて、高村は自己の内部世界を庶民の意識から切り離し、指導者的な、日本的近代意識ともいうべき一元性に到達した。この転換がおそらく最後まで高村を庶民の厭戦意識から免れさせたもので、その思考の道すじは必然的であった。この時期にいたって高村は庶民に対しても批判的、指導的になり、庶民の混乱からもはなれて、独自の一元的な精神主義に到達したのである。高村は、おなじ文章のなかでかいている。

 「低きものは罹災といふ物的関係よりも低い高度にゐる精神が衣食住といふ物の喪失に眩惑せられて恰も精神そのものが罹災したかの如き自己錯覚を起して種々の神経的病症を惹起する。そしてついには社会的共同生活の妨げとなるやうな行動を敢へてするに至るのであるが、その多くは自覚症状がない。」ここは、大体において滅私奉公という軍部ファシストのスローガンと一致するものをもっている。それは、現実のあらゆる動きに内部世界をからませることにより、内部と現実社会の通路を論理化しようとする西欧近代精神の特質とほとんど逆立する認識に外ならなかった。この認識は、一見すると戦争期の日本の近代主義者などとちがった外観を呈するが、しかしその精神構造はまったくおなじで、ただ、かれらは高村ほど徹底しきれないものにすぎなかった。ここには、現実社会の軽視、物質的基礎にたいする軽視、またはそれにたいする、羞耻感といったような日本的近代意識の特質があらわれている。このような高村の認識は、現実のどんな事態をも、おどろかずに処理する内部的な原理をつかんだことに外ならなかった。「危険挺身の民兵たれ」のなかでかいている。「日本本土は今琉球、ルソンに直結する戦場となつた。戦災にあふ度に国民の戦争意識はいやでも応でも純粋となる。国民は今こそ真の民兵となり切つてますます規律を厳格に保ち、公道の徳義を重んじ、いざといふ時は率先して危険に身を挺さなければならない。自己生活の過去にれんれんたるなかれ、むしろ御破算をこそ喜び、未来に耿々たる新生の火を焚き、敵の腰砕け、敵の気力の折れ尽きるまで戦に冷徹して、神明からうけた大和民族の真意義を完たからしめねばならない。私も老骨に鞭うつて大いにやらうと思ふ。」すでにここでは、物質的欠之、現実的な損害、が内部世界を純粋にさせる糧として逆倒してつかまえられている。この一元的な精神主義はほとんど日本的近代意識がたどりつく徹底した一極を示している。だからこれを免れることの困難は現在もまったく消滅してはいないとおもう。高村がこのような認識に到達したころ、日本の都市の大部分は灰塵に帰していた。灰塵のなかで香を焚く高村のような近代主義者はいたのだが、戦争権力に内部世界をあげて反抗する認識に到達したものは皆無だった。高村が敗戦の日「一億の号泣」のなかで「鋼鉄の武器を失へる時精神の武器おのづから強からんとす。真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ 必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」と書きえたのは、敗戦期に到達したような現実とまったくかかわりをもたないところで煮つめられた、その一元的な精神主義からして当然であった。どんな驚くべき社会的な事態がおとずれても、変る必要のない精神構造にとって、敗戦はたんに支配者の顔ぶれが変るかもしれない、ひとつの事件にすぎないのは尤だ。それは、敗戦の日を生きる目的の喪失というような地点でうけとめねばならなかった年少のわたしなどの世代的体験と異るのは自明であったのだ。わたしが、敗戦の日を境として高村に感じた異和感を分析しようとするとき、この高村の独自な一元的な精神主義が日本的近代意識の一極限としておおきな意味をもたざるをえないのである。

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 戦後期

 昭和二十年(一九四五)四月、高村は、駒込のアトリエを空襲で焼け出されて、父光雲相伝の彫刻道具一式をもって、同月、岩手県花巻の宮沢清六方に疎開し、八月、またここを戦災で焼け出されて花巻市内の知人宅に仮寓し、敗戦をむかえた。十月、近郊太田村山口の空小屋に移り住んだ。おそらくは、ここを、永住の住居とおもいきめたのである。

 戦争期に、年少のわたしが、おおくの影響をうけた文学者のうち、横光利一は、敗戦の打撃から立ちあがれないままに、病没した。太宰治は、敗戦の痛手の対症療法として自ら課したデカダンスをつきつめて自殺した。保田与重郎は沈黙し、戦後挑発的にかかれたその批評は卒読にたえぬくらい無惨のていをなしている。小林秀雄もまた然り。ひとり、高村光太郎のみは、悪びれず戦争責任に服し、改訂すべき思考を改訂し、改訂すべきではないとしんじたものを主張したまま、文学的活動をつづけ、その強靭さは、別格をなした。戦後の高村の文学的な業績が、はたして無惨なものであるかどうか、分らないところがある。ただ、そのとてつもない方向にひっぱってゆかれた文学理念と思想を、分類してみせるほかに、ほどこす術がないような気がするのだ。いつか、歳月が遠くへだたったのちに、戦後、高村が追いつづけたものが再評価されることがあるとおもう。戦後の高村の文学活動が、かならずしもたるんだものでないことは、すぐに了解できるからである。しかし、わたしなどが戦後形成した分析法や思想では、ひっかかりようのないものができてしまっていて、どうすることもできぬ。もう他からとやかくいってもはじまらないとでもいうより仕方がないようなところへ、おおきな精力をもって、高村のいわゆる「絶体絶命」のたしかな足どりで歩いていってしまった。

 戦後、横光利一が死んだとき、川端康成は、「感覚、心理、思索、そのやうな触手を閃めかせて霊智の切線を描きながら、しかし君は東方の自然の慈悲に足を濡らしてゐた。君の目差は痛ましく清いばかりでなく、大らかに和んでもゐて、東方の無をも望み、東方の死をも窺つてゐた。君は日輪の出現の初めから問題の人、毀誉褒貶の嵐に立ち、検討と解剖とを八方より受けつつ、流派を興し、時代を画し、歴史を成したが、却つてさういふ人が宿命の誤解と訛伝とは君もまぬがれず、君の孤影をいよいよ深めて、君の魂の秘密の底に沈めていつた。西方と戦つた新しい東方の受難者、東方の伝統の新しい悲劇の先駆者、君はそのやうな宿命を負ひ、天に微笑を浮かべて去つた。」 と呼びかけている。横光が、戦争期に文学的な理念とした「東方」というようなものは、モダニストの本卦がえりとして、すべてこれを了解し批判しつくすことができるが、たとえば、高村が戦後、「みちのく便り 四」でかいている「現代東洋に生まれたものが必ず持つてゐるにちがひない心の奥の悲傷は、人それぞれの生理に従つて身体的に苦悩となる。呼吸するたびに痛むわたしの肋間神経の痛みは、一語を吐くたびに傷むわたくしの精神奥処のうづきに照応する。この深因のある限り、一つの症状が治れば、又別の症状となつていつかは現はれるだらう。これは覚悟の上だ。」――というコトバは高村の思想の次元とおなじところにたって理解する力がわたしにはないのである。現代東洋に生れたものが必ず持っているにちがいない心の奥の悲傷とは、アジア的農業生産方式のうえにきずかれたアジア的貧困、ということに外ならないだろうが、この貧困のうえの文化的特質を体感、病を得るまでつきつめて、ついに肺結核でたおれたこの詩人の戦後の業績を評価することは、わたしの手に余るということを、くりかえしていっておく必要があるとおもう。いままで、戦後の高村にふれることを敬遠しつづけてきたのはそのためだが、ここで、やむをえず素描をこころみなければならない破目におちいった。

 文学者の戦争責任の問題を、もっともはげしく戦後の文学的出発にあたって自分に課した文学者をあげるとき、どうしても、高村光太郎をその筆頭にあげざるをえないとおもう。戦争責任というものに軽重があるとすれば、高村光太郎のそれはもっとも重いかも知れなかった。高村が、内的な世界にどのような過剰な要素をかくしていたとしても、公的な文学活動によって、いいかえれば大衆にたいする影響によって裁断するとき、戦争への没入は、たれよりも強く、かくれがなく、おおきな影響をあたえた。そのかぎりでは、戦後の文学的な出発を、戦争期の言動と理念にたいする自省からはじめ、それがどの文学者よりも際立っていたとしても、当然であった。すくなくとも戦後の二年余は戦争期の検討についやされたが、高村の戦争責任のつきつめかたは、これを天皇(制)にたいするもの、大衆への影響、自身の思想にたいするものに分けてかんがえることができる。第一に、天皇制の問題があった。「暗愚小伝」のなかで、「天皇あやふし。ただこの一語が 私の一切を決定した」とかいているように、高村にとって、天皇制の問題は骨がらみの問題であったために、思想の問題とはならずにおわった。思想の問題であるとするならば、かつて明治天皇の危篤の夜、天皇の死よりも自分の恋愛のほうが「いみじき事」なのだと主張した詩「涙」はどのように転換しても、天皇あやうしの一語がすべてを決定したというような単純な「暗愚小伝」の述懐につながりえないはずであった。高村が天皇制の問題を眼の上のたんこぶとして思いつめたのは、昭和初年、階級運動が興隆した時期であったが、そのときでさえ、思想の問題としてはつきつめられずに、どうにもならない骨がらみの問題として内的なコンプレックスとなり、そのまま棚上げされたのである。いわば、社会問題とは一応別個のものとして触れられずにきたため、庶民的祖先がえりをやった戦争期に、これは、ふたたび顕在化してきたのである。戦後、高村の戦争責任にたいする自省のうちで、この天皇に関するものは、きわめて特殊な様相を呈している。

(1)神聖犯すべからず。

   われら日本人は御一人をめぐつて

   幾重にも人間の垣根をつくつてゐる。

   この神聖に指触れんとする者万一あらば

   われら日本人ひとり残らず枕を並べて

   死に尽し仆れ果てるまでこれを守り奉る。

        (「犯すべからず」昭和二十年八月十八月作)

(2)聖上おん躬ら太平を開きたまふ。

   畏くも 聖上われらと共にあり、

   いかなる苦難か超え得ざらん。

   今や敗者の頭上に年あらたまる。

   この年殆どわれらを餓莩の途に追はん。

        (「武装せざる平和」昭和二十年十一月二十七日作)

(3)已んぬるかな 竜顔をおん曇らせし者ら

   身捕へらるれども巨富を子孫にのこす。

   かくの如き国情の蹣跚たるにあたりて

   方に民族の本来を開かんとする者は何ぞ。

   畏くも 聖上すでに太平を開きたまふ。

   国敗れたれども民族の根気地中に澎湃し、

   民族の精神山林に厳たり。

        (「永遠の大道」昭和二十年十二月六日作)

(4)占領軍に飢餓を救はれ、

   わづかに亡滅を免れてゐる。

   その時天皇はみづから進んで、

   われ現人神にあらずと説かれた。

   日を重ねるに従つて、

   私の眼から梁が取れ、

   いつのまにか六十年の重荷は消えた。

     (「暗愚小伝」昭和二十二年六月十五日作)

(5)よはひ耳順を越えてから

   おれはやうやく風に御せる。

   六十五年の生涯に

   絶えずかぶさつてゐたあのものから

   たうとうおれは脱卻した。

   どんな思念に食ひ入る時でも

   無意識中に潜在してゐた

   あの聖なるもののリビドが落ちた。

        (「脱卻の歌」昭和二十二年十一月二日作)

 敗戦直後、もし、占領軍が天皇の神聖に指をふれることがあれば、日本人ひとりのこらず枕をならべて仆れるまでこれを守る、とかいた高村が、聖なるもののリビドが落ちた、とかくまでに、二年余を必要とした。この間の、天皇(制)にたいする高村の自省は、それが出生としての庶民を自省することと同じであったため、徹底していたとかんがえられる。しかし、ことは、あくまでも骨がらみの問題であったから、祖父中島兼松、父光雲の江戸庶民的な天皇尊崇の伝習から脱したとき、あたかも聖なるもののリビドのように落ちたのである。もしも、思想の問題であったとしたら、かならず、天皇(制)の否定か肯定かの決着を強いられたであろうが、高村は、狐が落ちたように眼のうえのたんこぶが消えたとき、風のようなフライハイトを獲取したと信じたのである。天皇(制)にたいする思考の経路が聖なるリビドがおちる過程にほかならなかったために、戦争責任は天皇からはずされ、「天皇の名に於て 強引に軍が始めた東亜経営の夢は つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、あらゆる文化をふみにじり、さうしてまことに当然ながら、国力つきて破れ果てた。」(「蒋先生に慙謝す」)というような軍、官僚の責任に転化されてすりぬけられた。戦争責任が、社会的にとわれるとすれば、天皇がその筆頭にくることは自明であるが、高村はそれをつきぬけずに、意識の外に追い、あとは自己の意識をあざむいた日本軍にたいする非難がのこったのである。この高村の思考の経路は、天皇(制)が、思想の問題となりえずに、骨がらみの内的な問題として顕在化し、骨がらみの問題として潜在化したことを意味していた。これは、戦後の高村にとって、ひとつの撰択であった。高村の戦後の道は、あくまでも擬アジア的な脱卻の道であって、ふたたび戦後庶民社会の狂乱のなかにたちかえり、権力の動向と大衆の動向とに対峙する道をとらないことを、まず、天皇(制)にたいする責任思考の経路によってあきらかにしめしたのである。

 高村の戦争責任についての第二の自省は、「我が詩をよみて人死に就けり」という問題であった。

(1)爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

   電線に女の太腿がぶらさがつた。

   死はいつでもそこにあつた。

   死の恐怖から私自身を救ふために

   「必死の時」を必死になつて私は書いた。

   その詩を戦地の同胞がよんだ。

   人はそれをよんで死に立ち向つた。

   その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

   潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

        (「我が詩をよみて人死に就けり」)

(2)わたくしの暗愚は測り知られず、

   せまい国内の伝統の力に

   盲目の信をかけるのみか、

   ただ小児のやうに一を守つて、

   真理を索める人類の深い悩みを顧みず、

   世界に渦まく思想の轟音にも耳を蒙んだ。

   事理の究極を押へてゆるがぬ

   先生の根づよい自信を洞察せず、

   言をほしいままにして詩を献じた。

   今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。

   けちな善意は大局に及ばず、

   せまい直言は喜劇に類した。

   わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、

   自分の醜を天日の下に曝すほかない。

        (「蒋先生に慙謝す」)

 戦後、高村をほんとうに苦しめたのは、天皇(制)の問題と、このじぶんの詩をよんで人は死んでいったという問題だけであった。天皇(制)の問題は高村を駆りたてて、青年期にあれほどまで反抗した庶民的な家の情感のなかにひっぱってゆき庶民的な天皇尊崇をうけいれさせた原動力の問題であった。数年間、世界から隔離されたこともあいまって、高村は日本の庶民的意識を、積極的な思想にまで積みあげたいとかんがえて、「真理を索める人類の深い悩みを顧みず」に、思想の祖先がえりを敢行したのである。高村の生涯の思考体系からかんがえれば、世界共通性の意識を完全に脱落し、また、人は人を、人種は人種を、文化は文化を理解することができないという孤絶意識をも失って、ただ、天皇ヒエラルキイの独特なピラミッドを、「自然」をうけいれるように、うけいれたのである。このような思考の地点が、調和期の高村の自然法的な「自然」理性よりも、むしろ、花鳥風月的な「自然」情感にちかくなり、物事にこだわらず、あくせくとしない、いさぎよいなどという、日本社会の物質的貧困が、庶民にあたえた息抜きの思想を受けいれるところに、たどりつかせたのは当然であった。このような思考は、戦争責任を自省する過程で、戦後、徹底して摘出された。しかし、摘出の方向は、かならずしも、旧に復する方向ではなかったのである。詩の実作がしめしているように、たしかに、二年余をついやして高村は天皇(制)の重圧を意識のそとに追い払ったが、けっして意識のなかで扼殺したのではなかった。天皇(制)に戦争責任はなく、天皇(制)の名をかりて、残虐をおこない、侵略をおこなった官僚権力、軍隊に責任があるというところに社会的問題は転化されたのである。高村は、自分の意識のなかをおおった天皇にたいして自省をくわえずに、天皇を担いだ自己意識の退化に批判をくわえておわった。太平洋戦争期に、詩集「記録」におさめられたようなアジテーションの詩をかかなかったとすれば、「我が詩をよみて人死に就けり」という自省も、おこなわれずに済まされたであろう。天皇(制)の問題を、意識のなかで、ひきずり落としたのではなく、ただ、追いはらったにすぎない自省にとっては、本来的には戦争責任の問題は、おこりえない。高村は、ただ大衆にたいする責任という意味で、「我が詩をよみて人死に就けり」を自省したにすぎなかった。高村が、じぶんで呼んだ「自己流謫」は、ひとつには、戦争期の思想退化にたいする自己嫌悪であり、ひとつは、この、わが詩をよみて人死につけりという謝罪であり、また、ひとつは敗戦後の社会的風潮にたいする反感であった。

 おそらく、聖なるリビドが落ちたとき、高村は、さえぎるものもない無一物の自由をかんじたのだが、その思想は、戦争期に徹底してつきつめていった超越的な論理と倫理とを、さらに展開させるみちにほかならなかった。覆水は社会にふたたびかえらなかった。戦後の高村から現実社会の動乱にかかわりあう思想の論理をみつけることは不可能であり、ただ「この彫刻家の運命が 何の運命につながるかを人は知らない。この彫刻家の手から時間が逃がす その負数モワンの意味を世界は知らない。」(「人体飢餓」)というような、自信にみちた態度で超越的な高村のいわゆる「東洋的新次元」を追及する足どりをたどりうるのみである。青年期に、高村が、文学的な出発にさいして、課題としたのは、芸術のもつ世界共通性と、人種のもつ隔絶性との内的な葛藤であったが、芸術をまえにしては、人種とか地方色とかいうものは意識にのぼらず、ただ、結果としてそれがあらわれても仕方のないことだ、と主張された「緑色の太陽」の持論は、ここでは、まったく逆立ってしまって、「おれの皮膚は黍のやうに黄いろい。たとひ巴里に生れて巴里に死んでも おれは断じてパリジャンではない。君がいくら外交のエチケットを身につけも、君の赤さんには鬼斑がある。この天然は人力以上だ。しかもこの天然には叡智がある。あのくらいかなしい東洋は かかる不可避の天然から来るよりも むしろ東洋的デスポチスムの習性から来た。」(「東洋的新次元」)というように転化されていった。とってつけたようなのは駄目で、日本なら日本、支那なら支那に根をはったものでなければ世界的価値をもつことができないというように、まったく「緑色の太陽」の主張は大転回されてしまっている。高村の思想に戦争が与えた影響があるとすれば、このような青年期のモデルニスムスと全く逆立した認識をつきすすめさせたことであった。聖なるリビドにうながされて思想を祖先がえりさせ、戦争宣伝に身をのりだした愚かさは自省されたが、この愚かさを積極的に思想化することによってつきつめられた超越論理は、けっして戦後かわらなかったのである。これを裏づけたのは、世界にじぶんに匹敵するだけの芸術家は、現存していないという自信であった。元来、生粋の都会人である高村が、岩手県花巻市の郊外の山小屋に入って、農産物の自給自足をやって、人里はなれた孤絶生活をおくるというのは、不可解なことだが、高村にしてみれば思想的な眼中に何人もないかぎりそれは当然であったかもしれない。人体が恋しくて夢にみたり山中でバッハの幻聴をきいたり、というような無理な独居生活をやって飽きなかったのは、もともと人間嫌いでもあったわけだが、それよりも戦後の高村の超越思想にとって、現実社会の葛藤が不必要だったからである。

    人間拒否の上に立つ

  宗教裁判所も一寸来いといへなかつた。

  大衆の暴動が怖かつた。

  その上法王が署名しさうもなかつた。

  法王は毒殺するとしても

  次の法王も同じだらう。

  結局ミケランジェロには手が出せなかつた。

  ヴィットリア・コロンナは迫ひつめて

  尼寺に入れてさびしく死なした。

  あのサロンの連中は大分かたづけたが

  どうもこの老いぼれは手におへない。

  分りきつてゐるのだが、

  これといふ証拠が無い。

  こいつが変な物理説でもとなへれば

  申分ないこちらの勝だが、

  あの「最後の審判」ではどうにもならない。

  いくら裸が画いてあつても

  批評家アレチノの弾劾だけでは筋が立たぬ。

  歯がみをしながら遠巻きに

  見つめてゐるのはカラファであつた。

  ミケランジェロは頓着なく、

  死にかけたヴィットリア・コロンナを訪問し、

  平気でローマの街をあるいた。

  苛察カラファを手こらずらせ、

  法王とさへ喧嘩する

  この老いぼれの鼻びしやは

  美のみを信じて

  他の一切を否定した。

  人間拒否の上に立つて

  はじめて人間の美を知つた。

  怒れるクリストは怒れる彼。

  空の空なるものはすべて滅びる、

  まことの美を知る苦しめる者に幸あれ。

  苦しみのためにへし折れて

  をさな児の心にかへつた只の人こそ

  天のものなる美を知るのだ。

  法王に分るか、

  カラファに分るか、

  メヂチ、ボルヂャ、一切のけだものに

  おれの美が見えてたまるか。

  おれの作るサン・ピエトロの円屋根は

  ローマの空に高く立つて

  心まづしく又きよく

  この一切のけだものをうちのめす

  名もない賎しい只の人に

  万軍の後楯をあたへるのだ。

  さういふ魂に蘇りの天の喇叭を伝へるのだ。

  カラファの手先の眼の前で

  背中の曲つたミケランジェロは

  壁の割目をなそくつて

  誰かに似てゐる鬼を描いた。

 この詩は、戦後の高村の詩のなかで、優れたものの一つであるが、かつて「露の夜ふけに」でやったように、この作品はミケランジェロに仮託して戦後の自分の思想を告白したものに外ならなかった。「メヂチ、ボルヂャ、一切のけだもの」とか、「苛察カラファ」とかいうのは、おそらく占領軍を、「人間拒否の上に立つて はじめて人間の美を知つた」ミケランジェロというのは、いわば、聖なるリビドがおちて、怖いものがなくなった高村自身を象徴する位置で、この詩はかかれている。高村の自然理性は、はじめから、「人間」とよぶところを「人体」とよぶように、雰囲気をまったく無視して自然理法のままに生きたいというメカニカルな欲求に根ざしていた。だから、超越思想をかえなかった戦後の高村が、人間と人間とが、くすぐりあったり、いがみあったり、くるくると転身したりという現実社会に、徹底的にいや気がさしたあげく、人里離れた山小屋に独居生活をしたのも理由がないわけではなかったろう。しかし、もうここまできては、ほとんど、高村の思想について、どのような解釈も分析もなりたたない。現実ばなれだといっても空々しい感じがつきまとうし、美だけを信じて、あとは一切否定するとは、二十世紀社会ではとんだナンセンスだといってもうそ寒い感じがつきまとう。高村が、戦後立ったところは、まず、人間社会の匂いなどはどこにもなく、ただ、自分と、自然の整序があれば、その両者がスパークするとき美が成立つという思想であった。たとえば、詩「人間拒否の上に立つ」に、戦後の高村の思想の中心をたててもあやまらないだろう。この思想につきすすむために、もろもろの余りものは、すててかからねばならなかった。余りものは、とりあつめれば、ひとつの仮面をつくる。もし、高村が、戦後うまく思想の本質と仮面とをつかいわけ、自己に甘さをゆるさず、他の甘さをゆるしたことがあるとすれば、そのつきすすもうとしたいわゆる「脱卻の道」が、あまりに人間社会を拒否する非情なものにほかならなかったからである。わたしのみるところでは思想の本質からはみだしたものは、まずまずすべて詩のなかに多角的に拾いあげられた。第一に、戦後日本の社会と人とに対する批判が、その眼中にこわいものなしの超越倫理から放たれている。「ヤマト民族よ目をさませ。口の中からその飴ちよこを取つてすてろ。オッチョコチョイといはれるお前の その間に合せを断絶しろ。その小ずるさを放逐しろ。世界の大馬鹿者となつて六等国から静かにやれ。更生非なり。まつたく初めて生れるのだ。ヤマト民族よ深く立て。地殻の岩盤を自分の足でふんで立て。」(「岩盤に深く立て」)――「一切が商品、一切が金。あぶくのやうにゼニをつかんで、米粒ひとつも生産しない。頭ばかりのゴーストが すばやく、ずるく、小またをすくひ、口腹ばかりの怪物が 巷をうづめてかけずりまはる。ト・ウ・キ・ヤ・ウはどこにもない。クイズと、頓智教室と、それが山のやうにある。したり顔してぬけぬけと 名答ばかり吐いてゐる。」(「東京悲歌」)――「ニッポンのマイナア調を暫くすてよ。あの陰気な、うらかなしい、しぶい、わびしい、貧乏くさい、その代りには、つつましい、さびさびと奥ゆかしい、芥子粒に須弥山を見るといふ、さういふ美徳といはれるものを ひとまづすてて眼を上げよ。大きくバトンを宙にゑがいて このニッポンのもろもろの美をつよくメイジャアの積極調にたて直せ。あの運命が戸をたたく 壮大なマイナア調が可能な為には まづうそ寒い幽玄をすてよ。これがこの年頭のあいさつだ。」(「あいさつ」)――このような絶対的な声調は、ある種のものがきけば、まさに、予言者的であるかもしれないが、現実社会のはげしい矛盾に対峙し、微細な葛藤を吹いて社会的対立を見きわめようとするものには、素通りするほかにどうすることもできはしない。いわば、戦争期に、大衆の戦意を高揚させるためにかかれた詩篇をささえた、超越の論理が、そのままつかわれて、はげしい社会文明批評となっている。自然と内的世界のスパークからうまれたこの批判は、思想のある絶対の骨格というようなものが、現実社会の動乱や葛藤をはなれては、どこにもありえないとかんがえるものにとっては、何の意味ももちえないのだ。ただ、いうならば、戦争期に、花鳥風月的な情感にまでしりぞいた、その自然信仰はふたたび改訂されて積極的な主張に転化したとかんがえられる。戦後の高村にとって、頓智教室ばりの都会文化にはげしくかみついてみたり、うそ寒い幽玄調を積極的にたてなおせと強調したり、山林に人類社会の骨格があると説いたりすることは、政治的な発言を意味しただろうが、この政治的発言もまた、戦争期にはじめてそだてあげたものの延長にほかならなかった。高村に戦争があたえた社会的な影響があるとすれば、じぶんの思想上の本質にとってすこしも重要であるとはおもわれない街上百般の事象に、その超越論理を適用せずにはおられなかったことであろう。日常生活のすみずみに光彩あれというような、かつての高村の調和思想は、戦争によってはじめて、非日常的な事象への眼をひらかれた。高村の戦後のこの種の発言に、警世的な予言をみるのもよい、文明批評をみるのもよい、欧米文化に対決しようとする極東の詩人の自負をみようとするのもよいであろうが、高村の出生、土着民としての庶民性が、戦争を通過してはじめてこの種の社会的関心を根底からささえたにちがいなかった。

 第二に、生理機構としての性欲の問題があった。眼中に自然のメカニズムと自分とよりほかないという高村にとって、欲情のあるかぎり、ほんとの為事は苦しいな、という「吹雪の夜の独白」は、事実であった。老齢の高村にとっても自然のメカニズムに合一しようとするのをさまたげたのは、生理の残火であったろう。戦後の高村の詩に、わずかに人間臭をのこしているのは、この生理機構としての情欲であった。人体飢餓にたえかねたとき高村は、岩手の山岳の起伏に女体の起伏を想像し、晴れた空の雲に、伯爵夫人の横になった裸体を空想し、ブナの分岐に逞しい女の太股をみ、岩石に性別をかんずるという具合であった。これは、青年期の高村が、デカダンスの代償として情慾の機作を、環境社会のように設定したこととふかく対応している。自然は、高村にとって非情な無機的なメカニズムであるとともに、孤独な婚姻の相手となったのである。眼中に、聖なるリビドなく、夫人なく、両親なく、人間葛藤なし、というときになって自然が孤独な婚姻の相手となった地点から、高村の認識は大転回し、いままで人間世界から自然が、理性の模範とされていたのが、逆に、自分を自然の側において、人間世界をながめる逆立した認識に到達したのである。

    噴霧的な夢

  あのしやれた登山電車で智恵子と二人、

  ヴェズヴィオの噴火口をのぞきにいつた。

  夢といふものは香料のやうに微粒的で

  智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。

  ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは

  ガスの火が噴射機ジエツトプレインのやうに吹き出てゐた。

  その望遠鏡で見ると富士山がみえた。

  お鉢の底に何か面白いことがあるやうで、

  お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。

  智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を

  ヴェズヴィオの噴火口にふかく投げた。

  智恵子はほのぼのと美しく清浄で

  しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。

  あの山の水のやうに透明な女体を燃やして

  私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。

  そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。

  昨日までの私の全存在の異和感が消えて

  午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。

 深層心理学によれば、これは六十何歳の老人にしては、エロチックにすぎる性夢の詩である。この性夢は、高村の原始的な嗅覚と夫人の像とで複合されて、まったく「道程」前期のデカダンス時代とおなじようにあらわれてきている。しかし、ここでは、生理機構としての性欲の意味は、まったく、青年期とちがっている。夢にあらわれた夫人は、すでに、人間社会の象徴であって、いわば、高村は、自然のメカニズムの側にあって、夫人の性夢をみているのだ。自然のメカニズムに合一しようとする高村の「全存在の異和感」となっている生理機構としての情欲が、夫人の像を呼んでいる。すでに高村にとって、よほど楽になった生理機構としての性欲が、じぶんを人間社会と思想的につなげるきづなにしかすぎないことを、この詩はしめしているのだ。高村は、かつて、人は死をのぞまないが、死は前方よりくる、とかいたが、この時もう死は前方にちかくきたのではあるまいか。牧歌詩人の自然からも、花鳥風月の自然からも、自然主義者の自然からも、すでにまったくとおくへだたってしまっている。高村は、どうやら、青年期からあこがれながら、なかなか実現できなかったような、自然のメカニズムの側から人間をみるという冷眼にちかづいたらしいのである。生理機構としての情欲が絶滅したとき、高村は、自然機構を内的な機構とし、まったく人間であることをやめて、自然のほうから人間をみるところに到達しえたかもしれないが、このどうにもならない「巨大なばけ物」的な詩人が、すべてから自由になった戦後に、ひそかに望んだ思想的な到達点は、そこにあったことにうたがいはない。このような思想は、わたしには、ほとんど、実感することができない不可解としてみるよりほかないのである。

 晩年の高村をおとずれた事件といえば、昭和二十七年の青森県当局の依頼による十和田湖畔の裸婦像の制作と、昭和二十八年、日本芸術院会員の推せんを辞退したことであった。高村は、青森県から記念碑の制作の依頼をうけて、生涯の最後に智恵子夫人の像を制作する決心がついたとき、花巻郊外の小屋をひきはらって、東京中野の中西方にアトリエを定めて上京した。山林に根をはって、それについて酪農を奨励し、日本人の体格を何代かかかって改善したいという抱負さえもらしていた高村にとっては、一時的なつもりであるにしろ山小屋をひきはらって上京することは重大な決意だったろうが、生涯の最後に夫人の立像をのこすという誘惑には勝てなかったのだ。この最後の彫刻が、本郷新や板垣直子のいうような駄作とは、おもわないが、これは、自然のメカニズムと自己の内的な世界のスパークのみを信じた晩年の高村の思想の造型的な表現であることは、うたがいない。すでに、現実社会のすべての葛藤をつまらぬものとし、あぶくのように移動する愛憎を超越したとおもった、高村のこの制作が、いわゆる近代的批評のあみにかからないのは当然であった。すでに、高村の擬アジア的な思想は、極限までひっぱってゆかれていたのである。「生命の大河ながれてやまず、一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて ごうごうと遠い時間の果つる処へいそぐ。時間の果つるところ即ちねはんねはんは無窮の奥にあり、またここに在り、生命の大河この世に二なく美しく、一切の「物」ことごとく光る。」(「生命の大河」)こういうゴーストの響きをもった思想を、わたしたちは、現実社会の思想からつかまえることはできないのである。ここには現実社会のあらゆる葛藤に執着し、これを迫尋し、打開しようとする意志を、一瞬のうちに熔融して自然のメカニズムに向わせ、社会からの消極的な超越へとみちびいてゆく声があり、その声のよってきたるところは、高村の思想が究極的にさすところによれば、自然のメカニズムそのもののなかにあった。高村は、夫人の像を制作することによって、人間社会にたいするかすかな通路である生理機構としての情欲を昇華したのである。

 第三に、高村に残存したのは、美意識と生理機構の複合物としての食欲であった。もともと、美食家であった高村の美食意識は、戦後になってもけっしておとろえてはいない。たとえば、山小屋時代にも、農民たちが善意から、不潔さもかまわずにもってくる食物を、そのままでは喰うことができなかったことを、「山荘の高村光太郎」のなかで、佐藤勝治は、つたえている。そばは、上野池の瑞の蓮玉庵、サンドウィッチは、広小路の双葉、というような、さんまは目黒式の美食趣味は、死にいたるまで、高村からは、なくならなかった。わたしのかんがえでは、高村の美食趣味は、生理機構としての情欲とおなじく、デカダンスの代償として重要な意味をもっている。高村の現実社会への批判を、晩年にもなお、つなぎとめたものの半分も、おそらくこれに関係があった。性欲と食欲とは、もともと同根にすぎまいが、高村ほど徹底して、生涯、食欲をもとにして文明批評をこころみたものはなかった。「上野についたら、生さのむべ、づけさやるべ、まきさけくさろ、火の車のぢやぢや麺にも トロイカのペロシユキイにも それからゆつくりありつくさ。たべること、くらふこと、餓鬼の仁義をまづ果す。」(「餓鬼」)高村を山小屋からひきだした一半の原因は、食欲にあった、といえば誇張になるが、美食癖がでると、ひそかに夜、山小屋をぬけだして街にでて飲食をやった高村であった。デカダンスとしては、高村の美食趣味は、出生としての庶民と、西洋社会にたいする劣勢意識との複合である。晩年の文明批評の方向も、あきらかにそれを指している。

  兜町に行つた。人間の欲が集まつちやつて、惨憺たるもんだ。いくさのやうだ。この界隈全体の妙な感じが面白い。歩いてゐる人が全部、ただの人間ぢやないやうに見える。焼いもなんか売つてゐる。支那そば屋のおつさんもゐる。大建築のそばで妙な対照でね。実はあのおつさんたちも何か役目があつて立つてゐるんぢやないか。昔の芝居のやうに、あるひはまるで探偵小説のやうにね。

  このごろ世界中で一番面白い街は上海より東京だ、といふね。なるほど、無責任に見てれば、こんな面白いところはない。滅茶苦茶ですからね。笑ひ話のたねになる。だが笑はれるぼくらはやり切れない。とくに銀座は下等なとこだと思ふ。ごまかしたり、おしやれしたり、店の飾り方も本格的ぢやない。ばかに高い洋酒が本ものぢやなかつたり、カクテルの名人だといふのが味も知らないやつなんだ。銀座のそんな酒場で、難しい顔してゐる人をみると吹き出したくなる。

  場末に行くとそんなことはない。ありのまんまだから好きだ。食べものでも、悪いもんは売る方もはじめから悪いもんとして出すからいい。場末でうまい店はほんたうの意味でうまい。三河島でクジラの煮込みを食つた。しやうがか何かで味をつけて、みそで煮込んぢやつたものだが、うまかつた。そばは上野池ノ瑞でうまい店を見つけた。(「新春放談」)

 だれも、こういうふうに、いきいきと東京の食物について語りうる老文学者はいないとかんがえるとすれば、それは高村の出生としての庶民がなせる業であろうし、だれもこういう鋭利な美食家には、うっかり物を喰わせられないと感じさせるものがあるとすれば、それは高村の西欧社会にたいする劣勢感を鍛えたものにほかならない。美食趣味のようなものは、もちろん、戦後の高村の思想の本質にとって何の意味をもつものではなく、むしろ、こういう生理機構としての食欲は、高村の人間世界を拒否した思想を、人間社会にとどめるくさびのようなものであった。これによって、高村は、上京後に、独特の都会文明批判をはなったのである。デカダンスが、社会的な現実に対する社会的な反抗への通路をみつけだせないとすれば、青年期に高村がやったように生理機構としての性欲や食欲によって代償させるほかはない。けだし、戦後の高村の徹底的につきつめられた自然機構への合一意識の間に、性欲や食欲の皮膜がかかり、明滅しながら流れるさまは偉観であった。これによって、高村はうまく非情な自然合一者としての仮面と、庶民のなかにあってはつらつと受感する都会人としての仮面を、ふたつともかぶりおおせたらしいのだ。昭和二十八年、日本芸術院は、高村を会員に推せんしてきた。高村は、これを辞退した。あんな不潔なものにはいるかといい、あんなのうれしがるのは画かきか芸能人くらいのものだ、といったようなのが高村のせりふだったが、青年期以来かたくなにまもりつづけてきたアカデミズムにたいする反抗も、どうやら晩節まで全うせられたらしい。

 「私のやうにあまり真正面から考へるのは少々野暮かもしれないが、しかしかういふことをどうでもいいこととして、不問に附する習慣は本当はいけないと思ふ。面倒くさいからすてておくといふやうな小さなことがつもりつもつて日本の社会をいつまでも旧習のままで置く結果を来たしてゐると思へる。」(「日本芸術院のことについて」)

 昭和三十一年四月二日、高村光太郎は死んだ。病名は肺結核である。その晩年の思想が、ほとんど理解を拒絶するていであったために、高村の晩年に、野にある予言者をみた少数の信奉者のほかには、その死は関心をもたらさなかった。最後の作品「生命の大河」の一節はこうである。

  科学は後退をゆるさない。

  科学は危険に突入する。

  科学は危険をのりこえる。

  放射能の克服と

  放射能の善用とに

  科学は万全をかける。

  原子力の解放は

  やがて人類の一切を変へ

  想像しがたい生活図の世紀が来る。

 わたしはこの自然のメカニズムを非情な己れの「眼」とした詩人の、最後のモデルニスムスに敬意を表することにしよう。

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