自然観の転換と環境倫理学――自然と人間の調和のために

 われわれはこれまで、現代の環境危機を背景としつつ、アリストテレス、ホッブズ、ヘーゲルの自然観、およびそこにおける人間と自然の基本的な関係をみてきた。アリストテレスにとっては、自然のすべての存在はそれ自身のうちに目的を含み、その実現の過程にあったが、そのような自然の全体もある種の階層的、目的論的秩序をなしていた。そして人間はそのような秩序のなかに位置せしめられていたのであり、それゆえ自然は人間にとっての規範の源でもあった。人間の営為も自然の秩序を撹乱することなく、それと調和的に生きるべく考えられていたのである。これにたいしてホッブズは、自然を完全に客体化しながら、それを原子論的物体の機械論的結合よりなるものとし、もっぱら因果の法則によって支配されているものとした。それゆえに、人間はひと度そのような自然の因果の法則を正しく理解するならば、それを自分自身の便益のために利用しうるものとされた。のみならず、そのような科学的分析が人間自身にまで適用されていったとき、人間は欲求を求め嫌悪を逃れつつ、そのことを通じて自己保存をはかっていくものとされたから、いなそのための手段としての力の追求において飽くことを知らないものとされたから、そのような人間の社会的営為は拡大されればされるほど、それは自然に敵対的な文化の領域を拡大するものであった。このことはロックやスミスにおいても同様であり、そこではむしろ人間の社会そのものが利己心に促されながら、ある種の自然調和をもたらしていくと考えられていたのである。

 これにたいして、シェリングらの影響を受けつつ、ヘーゲルにとっては最初から機械論の批判と克服がその哲学のひとつの目的であった。啓蒙の合理主義にみられる自然像の機械論化は、自然を有限で特殊的なるものの原子論的結合にすぎないものとし、自然の有機的連関を破壊し、それをカオスのうちに放置するものでしかなかった。そこでヘーゲルは、自然の根底に生命をみながら、力学、物理学、有機学という自然認識の深まりのうちに、自然の有機的連関が姿をあらわすものとしたのである。ヘーゲルにとっては、全体としての自然も、自然のひとつひとつの部分、ひとつひとつのモメントも生命であり、それゆえにそこに有機的な相互の連関と生命の循環過程をみていたのである。自然をそのような有機的連関においてみるかぎり、そこには有限なるものと無限なるものとが相互浸透し、言葉のヘーゲル的意味で真の無限、具体的な普遍が成立するのであり、そこにおいてすべての個別的なるものが意味を与えられるのであった。いなヘーゲルは近代認識論における主観と客観の分離・対立をも克服しようとしたのである。

 もちろん、ヘーゲルはそのような主観と客観の対立を、絶対者としての精神の運動を通じて克服しようとしたのであり、そのかぎりにおいて、たしかに自然は精神の疎外態であり、「他在という形式における理念」であった。のみならず、ヘーゲルは労働を人間の本質的営為としながら、自由の獲得を一面において自然征服のうちにみていたのであるから、その理論の全体構造においては、自然と人間の宥和という点で、一定の限界をもっていたことは否めない。そしてこの点はマルクスによっても継承され、むしろ拡大されすらしていったのである。

 にもかかわらず、われわれは、近代的機械論を批判したヘーゲルの有機体的自然理解を実体化し、自然それ自体の本質と構造を示しているものととらえ返すことはできよう。そのように考えたとき機械論とは異なった人間と自然の関係が可能になるのである。たしかに機械論と有機体論との対立は古代ギリシア以来存在したところであり、それは自然をみる二つの観方の相違ということができるかもしれない。しかし自然を機械論的にみるか、それとも有機体的にみるかによって、自然の構造とその人間にとっての意味が根本的に異なったものとしてあらわれざるをえないのである。古典的物理学にかわって、むしろ相対性理論、量子力学、電磁場理論等を吸収しながら、有機体の哲学を築き上げていたA・N・ホワイトヘッドはその著『観念の冒険』(Adventures of Ideas,1933)において、機械論の特徴として二つのものをあげていた。(1)たんに位置を占めること(simple location)、すなわちあらゆる存在は自己充足的な個体として、時間と空間のある一点に独立に存在し、それを説明するためには他の何ものも必要としないということ、(2)外的な関係(externalrelation)、すなわち、それぞれの個体の他との関係は完全に外的な関係(存在するためには自分自身以外の何ものも必要としない)にあること、がそれである(Cf.p.157)。われわれはこれにこれまでの議論(とくにアリストテレス)を踏まえつつ、いまひとつのものをつけ加えることができるかもしれない。(3)目的の外在性(externality ofend)、すなわち、それ自身としては目的(目的因)はもたず、運動が外から与えられたときにのみ動くということ、がそれである。これにまったく対応する形で、有機体はつぎの三つのものによって特徴づけられるといえる。(1)相互依存(interdependency) 、(2)内的な関係(internal relation)、(3)目的の内在性(internality ofend)、がそれである。すなわち、そこにおいてはすべての個体に目的が内在し、その目的を実現するためには必然的に他者を必要とし、他者と相互依存の関係にあるということである。われわれがすでにみたところからも明らかなように、このような有機体の特徴は、ヘーゲルにもほぼそのままあらわれていたといえる(『精神現象学』におけるヘーゲルの定義によれば、有機体とは「他者と関係しながら自分自身を維持していく」存在であった)。

 もっともわれわれはここで機械論と有機体論を完全に相互に排他的と考える必要はないであろう。機械論が自然の変化を因果関係によって理解しようとするかぎり、それはたしかに有機体論を排除する(目的因は排除される)。しかし逆に有機体論は、その一部として機械論を包摂しうるのである。このことはアリストテレスが、自然の生成変化の要因を質料因、形相因、起動因、目的因という四つによって説明したことにもあらわれていたが、因果性による説明、たとえば力学の法則による説明は、その一部の変化の説明としては存在しながら、それがより高次の目的の実現、有機体の産出という目的のうちに包摂されていくのである。このことは力学→物理学→有機学というヘーゲル自然哲学の展開のうちにもそのまま示されるところであった。機械論的な運動は、それ自身としての存在は否定され、有機的な連関とその目的実現の過程に組み込まれていくのである。もちろん、カントにおいてそうであったように、機械論とは異なって、自然を有機体とみることは、論証をこえた目的性を自然のうちにみることであり、そのかぎりにおいて人間の側からの一定の期待的な読み込みにすぎないように思われるかもしれない。しかしわれわれは学の条件を必ずしも古い科学論の領域のみで考える必要はないであろう。要は、機械論と有機体論がともに自然のうちに読めるとして、どちらがよりトータルな自然の説明を可能にしているかということであり、さらにわれわれの当面の課題との関係でいえば、それらのいずれかの立場に立ったとき、自然の全体像がどうなり、人間と自然の関係がどうなるかということであろう。

 われわれがすでにみたように、機械論をとるかぎり、自然は機械論的構成のもと、因果的な連関においてあらわれざるをえないであろう。そのかぎりにおいて自然は人間にとっての有用性の体系となり、カオス化した自然にたいしてカオス的に働きかけることになる。そこにおいては人間が自然に働きかければ働きかけるほど、自然の有機的連関を破壊しカオス化を推し進めざるをえないことになるであろう。わたくしが別著『政治理論のパラダイム転換——世界観と政治』において示したように、エントロピーの法則との関係でいうならば、エントロピーの劣化を加速化せざるをえないであろう。今日の自然破壊・環境汚染がその延長線上にその帰結としてあらわれているのは当然であるといえる。もちろん、そのばあいにも、人間の生存(自己保存)という目的にそって、自然破壊や環境汚染に一定の部分的な歯止めをかけることができるかもしれない。しかしカオス化した自然認識にもとづくそのような弥縫策的な歯止めが、全体としての自然の再生にどこまでかなっているかの判断は、その前提からは出てきにくいように思われる。むしろ、部分的な改善や歯止めが、自然の真の再生にかなっていることを判断しうるためには、自然の全休についての、その生命の循環過程についての洞察が必要であるように思われるのである。

 このことは、すでにしばしば指摘されているように、人間中心主義(anthropocentrism)を超えて、むしろ生命中心主義(biocentrism,life‐centrism)への発想の転換を含意しているように思われる。自然を有機体としてみることには、すでにこのような転換が含まれているのであり、環境倫理が問題となるのはここにおいてである。

 たしかに、L・ホワイトのいうような、人間の自然支配が創世記とともに始まり、ユダヤ・キリスト数的伝統そのものに内在しているか否かという議論は別としても(Cf.LynnWhite,Jr.,“The Historical Roots of OUr EcologicalCrisis,”Western Manand Environmental Ethics: Attitude toward Nature and Technology,ed.IanG. Barbour,1973)、とりわけ西洋の倫理が人間中心的であったことは否めない。もともと倫理や道徳は、語源的にみても、人間と人間の関係を律し、人間の平和的な共同生活を可能ならしめる根本規範であった。このことは厳密にいうならば、アリストテレスにおいてすらいいうるところであり、自然の目的より導出された規範は、人間の対人間関係においてあらわれるものであり、そこにおける倫理はポリスの倫理であった。人間は自然の目的論的・階層的秩序のうちにいたがゆえに、基本的にはその秩序を撹乱しにくい存在であったとしても、自然の他の生物にたいする行為規範としての意味を倫理はもつものではなかった。もちろんホッブズにおいては、自然像の機械論化を通じて、倫理の人間中心化は極端にまで進められていったのであり、倫理(道徳)は、人間の本性のしからしむ「万人にたいする万人の戦争」の状態を逃れ、人びとが一定の平和な状態のうちに生きるために必要な一般的戒律を意味するものにすぎなかった。人間の自然的欲望の肯定より始まったホッブズに比し、カントにおいては倫理そのものの普遍化が進められていったようにみえる。しかしカントが、たとえば「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法を掲げるとき、そこでは完全に自由で自律的な道徳的主体が前提とされているのであり、そのような主体間の道徳が問われているのである。そしてヘーゲルにおいてすら、たしかに二元論は克服され、存在の有機的連関の把捉は可能となっていたとしても、「われわれなるわれ、われなるわれわれ」という意識に支えられた人倫的関係は、なおも基本的には人間と人間との間にのみ成立するものであった。

 この点において、今日初めて環境倫理学、つまり人間と他の生物、地球上の他の存在との関係を倫理の問題としてとらえる状況が現出したように思われる。そしてその前提として機械論を超えた有機体的自然観が重要な意味をもつように思われるのであり、そのことを通じて人間中心主義から生命中心主義への発想の転換も可能であるように思われるのである。もちろん、ここでひと口に環境倫理(environmental ethics)

 といっても、その対象は、痛みを感ずる感覚的主体としての動物にだけ限定するか、それとも植物をも含めてすべての生命体にまで拡大するか、さらにはおよそ大地や水を含め地球上のすべての存在にまで拡大するかにしたがって、感覚中心主義(sentience,centrism)、生命中心主義(life-centrism)、地球中心主義(earth-centrism)が区別されうるかもしれない。しかし自然のすべての存在の有機的連関をみ、生命系の保持を問題とする立場からみるならば、そのように区別すること自体が問題であり、他を手段化するという発想が含まれているように思われる。むしろ、わたくし自身がかつて言及したように、玉野井芳郎氏的な説明を用いるならば、土地、水、大気などの自然環境を基盤としながら、(1)太陽エネルギーによって無機物質を有機物質に変換していく植物、(2)他の生物体を栄養源として草食ないし肉食する動物、(3)動物および植物の排泄物や屍体を分解して無機物に還元する微生物という形で、植物→動物→微生物を貫く生命の連鎖と循環が問題なのである(玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』一九七八年、四四、七三頁参照)。いな、たとえば、森の蒸散作用によってはき出された水分が、上空に上って雲をつくり、この雲のおかげで気温が調節されつつ、さらに降雨によって生物の営みが可能となるという形で、無生物の世界をも含めて、地球それ自体のうちに、ある種の循環とそれによる浄化の生命系を考えることができるのであり、ガイア仮説のいうように、生物とその環境との間に、「地球自身が気象と化学物質の仕組みを、生物が生きるにふさわしい安定した状態に自動的に保つ能力をもつ」と考えることもできよう(福岡克也『環境破壊の構図を読む』一九九〇年、三−五頁参照)。このような生物体とその環境との関係それ自体を生態系とよび、その循環を生命系とよぶならば、それを破壊することなく、それを保持していくことが、そして破壊されているところではそれを回復し再生していくことが問題なのであり、環境倫理が問題となるのは何よりもこのレヴェルにおいてなのである。そのようにして初めて自然との共生が可能となるであろう。

 環境倫理が倫理であるかぎり、それは一定の行為規範という性格を含む。それゆえそれはたとえば、「可能なかぎり生命共同体の善と一致するように行為せよ」とすることもできるであろうし、カント的な定言命法を敷衍し、その対象をひとり人間のみならず他の生命体にまで拡大していくこともできよう。このばあいひとつ重要なことは、人間はその総体的な感覚的・知的能力において、他の生物に圧倒的に優位していることである。いわば、人間相互のばあいと異なって、人間と他の生物体との間には非対称な構造が厳存しているということである。このことはとくに二つの点において重要であるように思われる。ひとつは、まさにそれゆえに環境倫理は当為的な性格をもたざるをえないということである。もしホッブズのばあいのように、道徳的行為者が相互に平等であるならば、そこにおいては道徳規範は、お互いの利益と権利を損なわないための相互的な自己規制として働くであろう。しかし人間の他の生物体にたいする倫理は、そのような相互規制としては存在しない。むしろ人間の側からの高度な理性能力に裏付けられた一方的自己規制として働かざるをえない。そしてこの自己規制に、地球上の生命体の将来がかかっているのである。その意味では環境倫理は、理性的存在として人間の尊厳と責任のしからしめるものでなければならない。第二は、人間と他の生物体との総体的な感覚的・知的能力の相違のゆえに、人間は他の生命体を殺害し食することができるが、その逆は許されていないということ、そしてこの能力の非対称な構造のうえに人間は文化を築き上げ、発展させてきたということ、そして人間は現在この文化の世界のうちに生きるべく余儀なくされているということである。P・W・テイラーのしたように、なおもある種の人間中心主義を保持しつつ、人間の利益と他の生物体の利益とが衝突したばあいは人間を優先させ、自己防御も正当化しつつ、両立可能な利益を相互調整するという形で、環境倫理の原理と規則を定式化していくことも可能であろう(Cf.Pau1 W. Taylor,Respect for Nature :A Theory of Environmental Ethics, 1986, pp.256ff.)。しかし論理的にはともかく、実際的な行為規範としてそれがどこまで有効であるかは疑問が残るであろう。重要なのはここでも、人間の優位とそれゆえの責任を自覚しつつ、あるいはその痛みを自覚しつつ、自然の生命系を破壊しないよう、むしろそれを共有しそれと共生しうるよう、いなすでに破壊している部分は可能なかぎりそれを修復しうるよう、おのれの行為を規制しつつ、かつ文化の全体を調整していくことであろう。このように考えたとき、環境倫理学は、もはや狭義の環境倫理をこえて、環境経済学から環境法学、さらには環境政治学にまで拡大されていかなければならないように思われる。

 

 われわれがすでにみてきたように、アリストテレスにおいては、労働と生産の場は、ポリスから区別されたオイコス(家)の領域にあり、自然の必然に服するより低い人間の生のあり方として、ポリスの倫理的規範のもとにおかれるべきであった。これにたいしてホッブズにあっては、おのれ自身の欲求を満たすための労働と生産がむしろ人間の本質的な活動とされ、政治はそのような経済的活動の条件を保障するための外的なものとされていった。そしてやがてロックやスミスにおいては、そのような経済の領域にすでにある種の自然調和的法則性が認められ、各人は自分自身の私利にいそしみつつも、それが社会的分業を通じて全体の利益をもたらしていくものと考えられたのである。スミスにあっては、国家の機能は国防と司法活動と若干の公共事業に限定され、自由な市場システムを開放することが社会全体の利益をもたらすものと考えられたのである。このような状況においては、経済が発展し拡大すればするほど、それに比例して、その自然からの乖離も大きくならざるをえないものであった。これにたいして、ヘーゲルは労働と生産による「欲求の体系」としての市民社会を批判し、人倫的結合を回復しようとしたが、それは所詮市民社会を温存したままの人倫的国家による回復であった。一方マルクスは、市民社会的分裂の根本要因を私有財産のうちにみながら、その否定としての共産主義に「各個人の自由な発展が、すべての人の自由な発展にとっての条件」(『共産党宣言』)である社会を求めたのである。そこにおいてもなおも自然は、人間にとっての労働の対象であり、しかも『ゴータ綱領批判』にみられるように、たんなる労働による分配をこえて、欲望に応じた分配が可能となる高次の共産主義社会は、高度の生産力の高まりを要求するものであった。

 このようにみてきたとき、ホッブズからマルクスにいたるまで、人間と人間の関係における個人の利益を中心とする機械論的結合か、それとも個人と全体、個別的利益と全体の利益との相互浸透による共同体的結合かという相違はあったとしても、なお基本的には人間中心主義の域を出るものではなかったのである。これにたいしてわれわれはすでに、人間中心主義の倫理から生命中心主義の倫理への転換をみた。それは自然そのもののうちに生命をみ、生命の循環をみながら、人間の営為を可能なかぎり、それに調和せしめようとするものであった。経済学的にみるならば、それは自然から切り離された人間社会における生産と分配の考察から、自然と人間との全体における物質代謝を考慮の対象にすることを意味する。すなわち、自然を与件としながら、土地やそこから獲得した原材料に労働を加え、一定の製品を作り出していくという生産の過程と、市場を通じてのそれらの交換の過程にのみ焦点を合わせ、そこにおける経済合理性や分配の公正さ、あるいはそこに成立する人間関係の正否のみを問題とする経済学から、自然との物質代謝の全体、そこにおける収支決算、つまり自然から何を獲得し、自然に何を排出し還元していったかの全体を考察の対象とする経済学への転換がなされていかなければならないであろう。いな、たんにそのような量的な関係における自然との収支決算のみならず、それが自然の生命系とその有機的連関にどのように作用するか、その質的変化をも考慮の対象とする経済学への転換がなされていかなければならないであろう。そのことは、まさに、自然の生命系とその有機的連関を撹乱し破壊する経済活動を批判し、遂にその再生に寄与する経済活動を助長する方向、エントロピーの概念との関連をいうならば、自然のエントロピー劣化に歯止めをかけうるような方向への経済の転換を要求することを意味する。それは市場社会を前提とするばあいには、企業のモラルと公共性の自覚の問題でもあろうし、また公共政策の問題でもあろう。しかし同時に、公害抑止や環境保全という形をとった法的規制の問題でもあろう。それゆえここでは環境経済学は環境法学に繋がらざるをえないことにもなる。

 ここでは、法と道徳(倫理)の関係についての古いテーゼが、環境をめぐってもそのまま妥当するように思われる。すなわち、時には同じ目標をもちながら法と道徳の根本的な相違は、前者が人間の外的行為にかかわり、強制が可能なのにたいして、後者はもっぱら個人の内面的動機が問題となり、自発性が問題となることにあるといえる。それゆえに環境倫理に関しても、それが個人(あるいは企業)の価値観やライフスタイルの転換を通じて、その自発性に委ねられうる部分はそれに委ねていかなければならないであろう。しかし個人の価値観やライフスタイルが既存の社会に拘束され、企業の活動が経済的合理性の拘束を受けるかぎり、そこには一定の限界があるといわなければならないであろう。法的規制の問題が登場するのはここにおいてであり、強制力という望ましからざる手段を使っても、自然破壊に一定の歯止めをかけ、自然の再生に向けて個人の消費行動や企業の活動に一定の方向性を与えていかなければならないであろう。

 ある種のエコロジストの主張する、動物や植物のみならず森林や河川という自然物の権利ということが問題となるのもここにおいてである(Cf.K.S.Shrader-Frechette, Environmental Ethics,1981,pp.82ff.)意識もなく道徳的判断もできない森林や河川が道徳的主体たりえないことはいうまでもない。しかしそれは権利の主体たることはできる。もちろん、それはそれ自身としては、権利侵害にたいして、損害賠償を求めて訴訟を起こすことはできないであろう。しかし人間を代理人として立てつつ(禁治産者にたいする法廷代理人のごとく)、訴訟を起こし、法的手続きを通じて、汚染源(たとえば工場)にたいして賠償を請求し、汚染された森林や河川の権利回復を要求することができるというのである。それはまさに人間の関係における公害補償を自然大に拡大するものであるともいえる。もちろん、このばあい汚染の程度やそれにたいする賠償の程度を測定するのはあくまでも人間である。そしてそれには人間のための自然環境の保護という人間中心主義的立場からの一定のアプローチも可能であろう。しかしすでに述べた生命中心主義への転換がなされ、生命系とその有機的連関の維持と再生に焦点が合わされたとき、それはかなり異なった様相のもとにあらわれざるをえないように思われる。

 ここで、このように公共政策や法的規制を通じての環境保全ということを考えるとき、経済システムのあり方の問題を抜きにすることはできないかもしれない。しかし社会主義か資本主義かという体制選択の問題がこれにたいする最終的解答となりえないことはすでにみたところである。そして東欧社会主義の崩壊とその市場経済への移行は、結局——正否はともかくとして——市場経済を前提としたアプローチしか残されていないようにもみえる。しかしこの問題を考えるにあたって、注意すべきいまひとつの重要な点は、自然保護・環境保全と社会正義との関連であろう。一国内においてはもちろん、国際的視野からみても、自然保護・環境保全がそこにおける経済的・社会的不平等を温存し、時には隠蔽する形でなされてはならない。ここに開発と正義、正義と環境という困難な問題が生ずる。国内的にも国際的にも環境を保全しつつ、経済的・社会的平等を実現していくという困難な道を模索しなければならないであろう。

 もっともこのばあい、今日の道徳理論におけると同じく、善(good)と正義(right,justice)を区別しつつ、正義を物的価値の配分の規則にかかわるものと考えるならば、ここでも正義は、もはや人間と人間の関係においてのみ成立するのみならず、人間と他の生命体、動物や植物との関係においても妥当するかもしれない。けだし動物や植物もまたそれが生存のために一定の自然環境を必要とし、それを享受する権利をもつとも考えられるからである。しかし動物や植物が、自然の循環系において、自然的にそれに順応し、適用していくものをもっているとしたならば、それを撹乱し、一方的に物的環境を専横しているのは人間であるといえる。その点において、これまでその知性を自然の征服に用いてきた人間の責任が問われているのであり、その知性を自然の保護と再生のために最大限用いることが要求されているのである。

 ところで、以上のような公共政策や法的規制の主体を考えるならば、それは何よりも政府ということになり、ここに環境経済学・環境法学はさらに環境政治学に繋がらざるをえないことになる。自然と人間との関係におけるそのような転換の政治的方策はどのように考えられうるであろうか。ところで、かつて資本主義から社会主義への移行が考えられていたときには、資本主義社会において搾取の対象となり全面的に人間性を喪失しているがゆえに、その全的な解放の担い手となるプロレタリアートというものが考えられていた。しかしわれわれは、いかに搾取され撹乱されていようと、自然そのものをそのような解放と転換の担い手とすることはできない。それは一方的に人間の側の自己反省と自己修正に委ねられなければならない構造をもっているのである(もちろん自分自身の生存の危機という点からの動機づけをもちうるとしても)。この点で、われわれは現代の形式としての議会制デモクラシーの枠とその作用に全面的に与しうるであろうか。ここでかつてマルクス主義者たちがいったように、いっけん多元的要素と過程の複合よりなる議会制デモクラシーが、結局はブルジョアジーの利害の表現となり、そのために機能しているときめつける必要はないであろう。にもかかわらず、議会制デモクラシーが、各人の価値選択を各人に委ねつつ、それを選挙を通じて議会に集約し、立法化していくという手続きをとるかぎり、そこでは政治的決定は、その体制下における支配的な意見に左右されることになるであろう。そこではおおかたの意見が、たとえば公害は解るけれども、自動車はやめられないという意識、さらに豊かな生活という意識にあるかぎり、変革や転換はきわめて困難にならざるをえないといえる。そこにはすべての人が加害者でありながら受益者であるという構造が存在するのであり、もし加害者である自分を告発し自己規制をするならば、他の“freerider”を許すということになっているのである。言葉を換えていうならば、C・シュミットを引き合いに出すまでもなく、議会制デモクラシー下においては、絶えず合法性(Legalitat)が正当性(Legitimitat)に転化していくのであり、各人は選挙を通じて手続き的にその決定に参加をしているがゆえに、異議を申し立てにくいという構造が存在するのである。

 このような議会制デモクラシーのルールを否定するわけではない。しかしこのことを自覚しないかぎり、議会制デモクラシーは自己変革を阻害していくものとして機能していくであろう。ここで問われなければならないのは、たんなる合法性そのものをこえた体制や政策の正当性そのものなのである。その意味で、T・S・ターンのパラダイム論の論理を用いるならば、新しいパラダイムは変則性を自覚した少数者の運動として起こりつつ、やがてそれが多数者の支持を獲得し「正常科学」(normal science)となっていくのである。状況に埋没した実証的な意識においては、体制の矛盾にかかわるそのような原理的問いかけが困難であろう。さまざまの組織や団体によって担われる実践的運動に呼応しつつ、自然保護という目的に向かっての、そのような原理や正当性への問いかけを回復していかなければならないのである。そしてそれに従った人びとの意識や行動、政策の転換が求められていかなければならないのである。

 ところで、A・ドブソンは近著『緑の政治思想』(A.Dobson,Green Political Thought,1990)において、自由主義リベラリズム社会主義ソーシアリズムにかわる生態系主義エコロジズム(ecologism)を新しいイデオロギーとして唱えている。すなわち、かつて自由主義(資本主義)にかわるイデオロギーとして社会主義が唱えられたように、今日自由主義および社会主義にかわる新しいイデオロギーとしてエコロジズムが提唱されなければならないというのである。そしてエコロジズムの立場からみるならば、社会主義と資本主義の類似点は、その相違点よりもはるかに大であるとしながら、J・ポリット(J.Porrit)の言葉を引いている。

 「両者とも、産業の発達、生産手段の拡大、人間の必要を満たす最善の手段としての物質主義の倫理、妨げられることなきテクノロジーの発達を信奉している。両者とも集権化と大規模な官僚支配と調整をよしとしている。狭い科学的合理主義の視点から、両者とも、惑星は征服さるべきであり、大なることは疑いもなく美しきことであり、測定されえないものは重要ではないと主張している。」(p.29)

 東欧社会主義の崩壊した今日では、多少異なった表現が用いられるかも知れない。そしてエコロジズムがリベラリズムやソーシアリズムにかわって新しいイデオロギーとなりうるか否かは即断しかねるであろう。しかしこのような問題提起のうちには、たんなる「イデオロギーの終焉」や「自由主義の勝利」、あるいはその意昧での「歴史の終焉」を唱える立場よりも、時代の危機と課題に答えうるものが合まれているように思われるのである。つけ加えておくならば、ドブソンが環境主義(environmentalism)と生態系主義を区別し、あえて後者を主張するのは、後者においては、環境との関係におけるわれわれの社会、政治生活様式における根本的変化を前提としているのにたいして、前者においては、なおも環境問題にたいする「管理的」(managerial)アプローチが存続するからであり、それらの問題が現在の価値や生産と消費のパターンの根本的変革なしに解決されうると考えるからであった(Cf.p.13)。

 しかしわれわれは、このことをもって、およそ近代の科学やテクノロジー、産業を否定し排除するものとするならば、それは性急にすぎあまりにも非現実的といわざるをえないであろう。われわれの住んでいる社会は、否応なしに、科学とテクノロジーのつくり出した社会であり、産業化された社会なのである。科学とテクノロジーなしには、この社会はもはや運営できないであろうし、そもそも公害防止や環境保全、その再生も不可能であろう。要は、環境にとってマイナスの科学とテクノロジー、産業を抑制しつつ、かつそれにプラスの科学とテクノロジー、産業を助長するという形で(そのためには科学とテクノロジーを駆使しつつ)、全体の構造を変え、それとともに価値観やライフスタイルを変えていくことであろう。生態学はそのための基本的な枠組みを提供しうるものと思われるのである。

 機械論か有機体論かという問題に帰るならば、このことはすでに述べたようにこの両者を二者択一的にとらえるのではなく、有機体論が機械論を包摂していくという形でとらえることを意味する。それは機械論的な自然の運動と、自然への人間の働きかけを認めつつ、それを全体としての有機体の枠のなかに位置づけ、方向を選択していくようなあり方を意味する。それゆえ、それは全体のために個が否定されることを意味しない。個が個としての自立性をもちながら、全体との有機的連関のうちにある存在のあり方が模索されているのである。このことは自然のすべての存在をたんに人間にとっての有用性の対象とすることなく、その本質的価値を認めることをも意味するであろう。そしてそのことはまた人間と人間との関係のあり方にもはね返ってこざるをえないであろう。ウェーバーのいうようにおよそ文化そのものが、人間が自然の有機的循環から抜け出していくことを意味し、それゆえにそれは一歩一歩対象からの価値剥奪と生の意味喪失をともなわざるをえないものであるとしたならば、それは何よりも自然への機械論的アプローチにおいていわれうることであるように思われる。逆に自然のすべての存在に価値(目的)を認め、他との内的関連と相互依存を認める有機体的自然観においては、人間相互の関係においても、それぞれの価値を認めつつ、相互に内的連関と相互依存を自覚する立場に繋がり、生の意味回復にも繋がってくるように思われるのである。自然認識が、人間や社会の認識にいかにかかわり、それを規定するかは、われわれがすでにアリストテレスやホッブズやヘーゲルにおいて十分にみたところであった。