清岡卓行を論ずる際に、その核心をいくつかの極の連なる構成体として捉えることができる。
ひとつの極は、そのトポロジーである。出自としての中国大連と憧れとしてのフランスパリ、現実としての東京がその表現のうちに交響している。みずからの場所=現実としての「日本」と出自としての「大連」、憧れとしての「パリ」は、三つの大きな差異として見えてくる。現実からパリに身を接すれば、中国大連の世界は大きな幻想として浮かびあがってくる。こうした三極構造の動点の移動は、三層の重層性となって、清岡卓行という作家の世界が示す想像力と構成力のエートスとして浮かびあがっていると言えるだろう。
次の極は、作品形態についてである。その出発に際して、詩とともにいくつかの評論を書いている清岡卓行は、やがて小説へと作品形態を展開させるが、この「詩」と「評論」と「小説」へと分かれていく道筋のなかには、折り重ねられた表現としての融合を見ることができる。
三つめの極は、作品の表現に係わる方法ならびに手法である。そこには、ランボーを中心とする「シンボリズム(象徴主義)」と戦後のシュルレアリスム研究による「シュルレアリスム」の手法が、大陸の大連での生活と若き日に影響をうけた「ロマン主義」の精神と通底し、融合して表現されている点である。
さらにこうした三極の応用は、例えばダダイズムやシュルレアリスム運動と密接な関係をもつ「オブジェ」と、恩師阿藤伯海と唐詩からの影響による「中国古典詩」と、個別な体験を根源とする「個別な幻想」との合体による詩作のなかに如実に見ることができる。
このように考えると、ひとりの作家・作品を捉える場合、幾重かの重層する構成のうえに作品が表現され、しかもそうした構造が動的な動きをもちながら、その想像世界を構築し、詩人であり、作家であり、評論を書く清岡卓行という作家の姿が写し出されている。そこには文学表現をめぐり、パリと東京を結ぶ線上に、日本「近代」のかかえる問題が提出され、大連と東京を結ぶ線上にまたパリと大連を結ぶ線上に、オリエンタリズムとリバースオリエンタリズムの屈折した視点が問題となる。
清岡卓行の文学世界が提出している視座は、現代の地球上の文明圏の出会いと衝突のなかで、これまでのフレームを超える現代的主題を提出していると言えるだろう。