記憶・記録・受苦・恩寵

 書誌ノート

 この稿の底本に使用したのは『夢のかげを求めて—東欧紀行』、河出書房新社刊行の初版本で1975年3月25日発行。B6版、全552頁。装丁は駒井哲郎。本文中に著者自身の撮影した写真が、4頁分挿入されている。また、巻末には旅程図(浜田洋子作成)が付く。函とオビがあり、オビの前面に、「空気がきしり音をたてて刻々と夜を凍結させる冬のモスクワ。旅先でのそれぞれの朝に、揺れ動くためらいを鎮めてくれる、例えばひときれのパン、例えば熱いお茶—。/日本に置いてきた〈日常〉との濃密なモノローグをたずさえて白い寒気の国々、ポーランド、チェコ、ハンガリー……を経巡り、新たな紀行文学の塑像を樹てる、著者初の長篇紀行」とある。

 他に刊本としては、『島尾敏雄全集』(晶文社、全17巻)の第9巻がある。こちらは、1982年1月25日発行。四六版、カバー、函、オビ、月報付。全583頁。初版本から写真、旅程図が削除されている以外は、本文に異同はない。

全集本には青山毅作成の「初出一覧」が付いていて、本稿の執筆の上でも多大な恩恵に預かった。

『夢のかげを求めて』は、1967年10月から12月まで、島尾敏雄50歳のときの単独旅行体験を書いている。そして、翌1968年3月号から1974年1月号まで、『文藝』誌上に全41回に渡って断続連載されたものである。実に足掛け7年の歳月をかけている。連載時の題名は『東欧への旅』であった。

 以下、本文に記載されている章題と旅の日付を、順に記しておく(括弧内は発表年月)。

  ワルシャワまで       10月23~31日   (68・3)

  ワルシャワにて       10月31~11月2日 (68・4)

  墓地のにぎわい       11月1日     (68・8)

  ワルシャワの町歩き     11月2~3日   (68・10)

  ワルシャワでの日々     11月3日     (68・11)

  クラクフへ         11月4~5日   (68・12)

  クラクフにて        11月5日     (69・1)

  カメドゥウフ修道院まで   11月5日     (69・3)

  カメドゥウフ修道院にて   11月5日     (69・4)

  ヴィェリチカまで      11月5~6日   (69・5)

  ヴィェリチカにて      11月6日     (70・3)

  ふたたびワルシャワへ    11月6~7日   (70・4)

  スターレ・ミアスト界隈   11月7日     (70・5)

  ニェポカラヌフへ      11月8~9日   (70・6)

  ニェポカラヌフにて     11月9日     (71・3、4)

  またワルシャワへ      11月9~10日   (71・5)

  イェジョルナ散策      11月11日     (71・6)

  トゥウシチへ        11月11~12日   (71・7)

  トゥウシチにて       11月12日     (71・8)

  トゥウシチから       11月12~13日   (71・9)

  二人のスタニスワフ     11月13日     (71・10)

  チェンストホーヴァへ    11月14日     (71・11)

  チェンストホーヴァにて   11月14~15日   (71・12)

  オシヴィェンチムへ     11月14~15日   (72・1)

  オシヴィェンチムまで    11月15日     (72・2)

  ブジェジンカにて      11月15日     (72・3)

  さらばワルシャワ!     11月15~16日   (72・4)

  プラハまで         11月17日     (72・6)

  プラハにて         11月17~19日   (72・7)

  マジャールを越えて     11月18~20日   (72・8)

  ベオグラードのホテルにて  11月20~25日   (72・9)

  ベオグラード市街瞥見    11月20~26日   (72・11)

  人形劇場          11月20~26日   (72・12)

  カレメグダン城址      11月20~26日   (73・1)

  ラコヴィツァ往復      11月20~26日   (73・2)

  ふたたびモスクワへ     11月20~12月1日 (73・3)

  ふたたびモスクワにて    12月2~4日   (73・4)

  モスクワの凍え       12月3~4日   (73・11)

  コロミンスコエ村へ     12月3~4日   (73・12)

  さらば!モスクワ      12月3~4日   (74・1)

  1973年2月20日、奄美大島の島尾敏雄

 名瀬市小俣町20番地8号の、鹿児島県立図書館奄美分館の構内にある住宅である。二人の子供たちがそれぞれ東京と鹿児島の学校に行っている間は、この四畳半を書斎代わりに使っている。ようやく原稿仕事の続きにとりかかる気になった。北風が出てきたが、寒さは感じない。気温は二十度ぐらいか。庭でイチュバネガタが一匹たかだかと鳴いている。

 きょう読んだ「第二法の書」には、約束を守った場合の祝福と対比して、それに背いたときの神の呪いがこまごまと書きこまれていた。この主題は何度も繰り返されて示されるが、呪いのすさまじさも、考えてみるとおおむねこの世の写しのように見えてくるのだった。

 妻は早々と眠ってしまった。夕食のときにふたりで銚子に六本も飲んだせいだ。ああこんなものか、と妻は言っていた。酔った気分を味わいたかったのだそうだ。別にどれほども変わったふうではないなどと言っていたが、動作が大ぶりで緩慢となり、なげやりな陽気があらわれていた。食器を乱暴な音を立てて洗っていた。死んだジュウとアンマのことを思い出すと泣けてきて仕方ない、などと急にしめっぽくなったりもしたが、妻の感情の激変はいつものことだった。

 ふたたび「第二法の書」を開いてみた。性格でも運命でも改善されると書いてある箇所に来て、ひどく悩ましい気持ちに襲われた。運命は変えられたとしても果たして変わったかどうかは確かめようがないが、性格の変化は日常の自分をがんじがらめに規制してくる。「自分の生まれつきと過去の具体からどうしても脱け出すことができぬ」とは、『東欧への旅』にも書いたことだが。しかし、ある性格を脱け出したところでまた次の地獄に入って行くだけではないか。

 ……こうした堂々巡りの思考の中で、言い知れぬ空しさに落ち込んでいくのだった。しかし、おそらく、ひとは資質をそのまま無意識に生きるのではなく、その資質を自覚的に捉え返すなかで、自らの思想を形づくり、それによって生きるのではないか、などとも考える。その悩ましさをうち払うように書物を伏せ、原稿用紙に向かった。

 もう五年も前にひとり旅をしてきたスラヴの国々での記憶をかきたてて、それらの日々を記録する作業である。すでに過ぎ去った日々のことではあるが、同時にいまの日々と照応してきて経験が重なってくるところが味わい深く、旅をもう一度なぞるたのしみとも重なり、書く行為の面倒臭さはあるものの、気持ちが内にまぎれこむ病いをわずかずつながら剥ぎ捨てることに役立っていた。しかしこの連載も、そろそろ終わりに近づいていた。今回の章題は「ふたたびモスクワにて」、『東欧への旅』の三十八回目に充てる。連載を始めてもう五年になる。途中休みながらの気ままな仕事は、河出書房の坂本一亀の好意に甘えてのものだった。(1)ポーランドを離れる部分を書いた後、記述にいそぎのあることには気づいていた。前の章でも、「こうして私の東欧の旅は終わり、この旅行記も終末のところに来た。しかしあと先をととのえるために、横浜の港へ帰りつくあたりまでのことを余分ながら書き添えておこう」と記したものだ。

 加うるに昨年からは、『日の移ろい』と題した日録風の小説(?)の連載も持っている。鬱状態が最悪だった一昨年、中央公論社『海』の編集者・安原顕がわざわざ来島して勧めてくれたものだ。やはり気ままな連載になることを許してくれた。しかし不思議なことに、この二つの仕事が、少しずつ気鬱を剥ぎ落とす効果を持つことになったのだった。(2)

 さて、「十二月四日」と日付を入れて、モスクワを飛び立つことになる日、つまり旅の終わりの朝のことを書き始める。

 頭の中をひっかくような音がしつこく去来している。夢うつつの中でその音をふり払おうとしてもいっこうにその音は消えて行かない。なんだろうなんだろうと思いながら目がさめた。外はまだくらいが、時計を見ると五時になっていた。音は窓の外からきこえてくる。連続したひとつの摩擦音がしばらくつづくと、ちょっとのあいだがとぎれそしてまた引きずるように連続した音が続いていた。(523、ふたたびモスクワにて。以下、引用の終わりに底本の頁数を示し、その章題を併記)

 そうして、この日の原稿を「しかしなんだか怖気づいてもうどこにも行きたくない気持ちが起こっていた。どこに何が待ち伏せているかわからないような不安も芽生えていた」と結び、妻の様子を見るために机を離れる。(3)

  声・音・そして言葉

 作品『夢のかげを求めて』は、全体的に視覚的印象よりも聴覚によるそれが強い。先ず「旅のおそれ」と小見出しの付いたこの長編の冒頭を引用する。

 出帆のまえの晩、横浜の港に近いホテルに投宿した。どこかの部屋で電話の呼鈴が鳴っているのがきこえると、胸のあたりの肉が痛む。不在らしくしばらく等間隔のまを置いて鳴っていたが、軽いはき気をさそわれた。部屋の外で声高の話声が、絨毯をふむいそぎ足のにぶいもの音とともにきこえても、からだの中の力が脱けて行く。家の外に出て行くのがおそろしいのか。そのまえの晩、ようやく三度目の電話が妻に通じた。(中略)一度目の電話のときに家をあけていた理由をいっしんに述べるその声が、やさしく、そしてすきとおってたよりなげなので、このさき旅がいっそう億劫になった。東京で出発を待つ間も、行かなくてすむような事情が起きることをねがい、それまでの準備のすべてを捨てて、家に帰りたい気持に覆われていたが、そうもできずに、時の移ろいをじっと見ている状態があった。(7、ワルシャワまで)

 長編紀行はこのように電話の呼鈴、部屋の外での声高の話し声、足音に耳を傾けるところから始まる。そして「妻」との電話での対話から、置き去りにしてきた「日常」を気にかけるのである。そこにも、島尾敏雄の場合には、夫人との共生という課題が存する。《「死の棘」体験》を想起させるところである。それが先ず端的に出現するのは、モスクワでの最初の夜の、夢の情景である。

 マリンカ、マリンカ、マリンカ、マヤと、調子のついた長いスカートをまるくふくらませ活発に踊り遊ぶロシヤ娘が微線画となってはっきり目のうらに見えたり、娘のマヤが不自由なことばを押し出すように、おとうさん!と叫びながら、庭の塀に沿ってぎこちなく走ってくるすがたが見えてきたりした。「こんにちは」とドアの外でおとなう女の声がはっきり耳にきこえたように思え、まんまるい顔でにこにこ笑いながらからかうように私をのぞきこむ妻の顔が、まぶたの裏で明るく暗く、やがてその像はくずれ、かたちが欠け、しだいにしぼんで小さな黒点などに遠ざかって行く感じに襲われた。「こんにちは」と、その声はふたたびきこえ、いよいよ妻の声にそっくりなので、留守の家でなにか起こったのではないかなどと考えは走ったのだった。(26、ワルシャワまで)

 他に《「死の棘」体験》を連想させる記述としては、後のニェポカラヌフ修道院で「通ったあとでしめたドアにがちゃりと錠がかかったとき」に、「精神病棟にはいったときの感覚がよみがえっていた」というところにも見られる。

 冒頭の引用部分に戻ると、これは旅の始まりに誰しもが味わわなければならぬ感覚だとも言える。「私」も旅心が定まったのは、列車がポーランドに入ってからのこと。異国の風景に「おびやかされ拒まれつつもなおいざないを感じ、遍歴の気持が芽生えてくる」のを覚えるようになるのだ。汽車が徐行に移るとともに、「さあ、ワルシャワだ」といさみ立つ。ここに旅という《非日常の中での日常》がはじまる。

 ワルシャワでの(つまり長いポーランド滞在の)初日の目覚めを迎える。それもまた音・声によって。

 出発は昼から、と心に決め、それまでのくつろぎ、とラジオをつけたら、女の声がきこえてきて、いきなり胸もとにとびこんでくるような親密なひと打ちを受けた。それはその声が、はずんだやわらかさ、でもしんが通っていてなおいたずらっぽい感受があり、唐突に、ポーランド女の声、と思ったのだ。(47、ワルシャワまで)

 島尾にしては珍しく読点の多い文体にも、それまでとは違った弾んだ旅人の心の律動がうかがえる。しかし、その「声」も「個性的なものとしてより、この国の受苦の果てのそれ」と受けとめるのだが、その意味は別章を立てることにして、ここでは「音」と「記憶」との関わりを述べた部分を挙げるにとどめる。次は古都・クラクフでの何気ない場景である。

 むしろ私の記憶は、靄のなかからあらわれ靄のなかに消えていった荷車を引いた馬が、ひずめを石だたみにつきさしけずりとる鋭さでかつかつと高らかにひびかせて通り過ぎた場景があざやかすぎ、ほかの景色はみんなかげがうすくその音に吸いこまれ消えてしまったようなのだ。(145、クラクフにて)

 底本ではここに写真が挿入され、読者は視覚でも捉えることができるようになっている。(旅にカメラと日記帳を持参している島尾である)。この段落は、次のように結ばれる。

 それはちょうど、どこか権威の場所の方からまず音だけが耳にまつわりはじめ、やがてほんのわずか目のまえで薄絹越しにまざまざとあやしい実体をあらわし、どんな啓示も与えずにまたどこか別の権威の失墜した場所に向かいながら、いつまでもそのひずめのひびきを私の耳にのこしつづけながら消え去ってしまった、と思えた。

 まず音と映像が内的世界に焼き付けられ、そして音だけが残ってことばによって定着される。そして再び音に導かれるように読者の前に現れるのである。ある意味では「音」の映像化である。

 ところで、ポーランド語は、島尾の耳にどのように飛び込んできたのか。次にその受容の典型を紹介しよう。なによりもことばを「音」そのもの、「音響」として受けとめていることに注目したい。しかもそれを出来るだけ「精確に記録」しようとするところに、島尾敏雄らしさがある。

 もとよりことばの意味は私にはわからないけれど、あいまのないおしゃべりは、もはやにんげんの声というよりはものの音響としてきこえていた。そのせいか、おもての声のほかにもうひとつの裏の声がひそみ、腹話の声が重なり聞えてくるようであった。早口できしりの多いポーランドのことば。ときおり強い鼻音がすねるように投入され、また口中ですりつぶしたひしゃげた発音や子音ばかりがたてつづけに口をついて出るかと思うと、するどい音がつきささり、それはまたやさしい調子に移って行って、高低の変化をくりかえしながら拍子をとるようにしゃべっている。しかし休みなくつづけられると、まえのことばの残響がつぎのことばに次々とかぶさり、電線のうなりに似た連続音となってきこえてきた。(363、チェンストホーヴァへ)

 このようにしてポーランド語の内側に入り込むのであった。それによって以後、旅の中の日常が違和なく(と思えるのだが)展開されてゆく。

 ペロン(プラットフォームのこと-引用者注)ということばを、ポーランド人がそうするように二音節目を急に下げて発音すると、あの旅のにおいがなだれるようによみがえる。たったひとくぎりのことばだが、まるでそのポーランドの旅を背負いこんでいるかのように。(216、ふたたびワルシャワへ)

 この部分は、さらに次のように続く。

 つい先ごろひとつのポーランド映画を見ていた私の耳に、いきなりそのことばがとびこんできた。主人公が或る駅の構内にはいって行く画面のとき、列車の発着の様子を知らせるアナウンスが流れていたその中でだったが、とたんに私は浮きあがり、居ながらにしてポーランドに運び移されたかのごとく、からだじゅうがあつくなった。動悸まで速度を早め、ちょっと旅のかたまりにいきなり体当りされた思いがあった。

 ここでは、時を間に置いて「旅をもう一度なぞるたのしみ」を味わうべく、『東欧の旅』を書き継いでいる。つまり《書いている現在》の視点に立っての記述である。ふと耳にしたポーランド語によって、かつての旅の実行が想起され、作品の書き継ぎへと入って行く。途中の章の起こしとしては巧みな手法である。作品の空間は、これによって時間的なひろがりをも持つようになる。単なる紀行文のように旅の中の現在だけを書いているのではない。《書いている現在》の「書き手の在りよう」が常に意識されているということだ。これがこの作品の方法のひとつであると言ってよい。それはまた、六年にわたる連載という発表形態が必然として求めた方法でもあった。記述は「時」に追い着かないどころか、常に過去へ過去へと追いやられ、置き去りにされている。「記憶」を掘り起こすということは、島尾の表現を借りれば、夢の舌をつかまえてこちら側に引っ張り出す行為にも似ている。《書くことの現在性》が、夢の中の歩調のように躓きながらも歩みを止めず、さらに次の記述へと食い込みながら進行する。

 音から声へ、そして言葉へと少しずつ伝達の機能を持ってくるとき、私の設定したこの主題でのヤマ場である、ワルシャワ大学日本学科の学生たちとの交流の場に出合う。島尾の筆はそのとき最も活力に溢れているように思える。世代も国籍も違う若者たちに囲まれて、島尾はユーモアに満ちているし、彼の一面である闊達さもうかがえる。(4)他者を精確に感受し活写する筆力によって、一面ではポーランド娘との物語になっており、また数少ない男子学生であるスタシェックとの物語にもなっている。

 そのスタシェックに案内されてクラクフへ出かける場面。彼の「ワタシタチガ、チズ、ヲ、ミマショウ、モシモ、ソコニ、ユキマショウ」といった奇妙なニホンゴに読者もつき合わなければならない。しかしそれも聞きなれてくると、逆に「私」は日本人のKのことばが、いささか怪しい気分になるのでもある。

 もし私がKに話しかければ、その日本語はその場の均衡を破裂させてしまいそうに思っていた。だからKが、「ヤレヤレ、コレデタスカッタ。ワルシャワマデ、ユックリネムッテユコウ」と微笑まじりで私に言ったとき、どこか知らぬおかしな国のことばのようなよそよそしさをまとって聞えたのだ。(221、ふたたびワルシャワへ)

 このように、ひとつ、ずれるのである。そうした言葉の《ずれ》を通して、読者はまるで夢の世界に滑り込んでいくような気分になる。ところでここに登場するKとは、工藤幸雄。ポーランド文学者で、当時ワルシャワ大学日本学科の講師だった。彼の証言を借りてみよう。

 ワルシャワ大学日本学科の学生たちの群像は、島尾敏雄著の『夢のかげを求めて‐東欧紀行』にみごとに描かれている。彼らの群像ばかりではない、この本の五分の四近い三八〇ページあまりは、島尾氏の二十日間の二度目のポーランド滞在にさかれ、戦後と限らず、日本人がこれまでポーランドに関連して最も多くのインキを費やしたのは、この紀行に止めを刺します。(中略)

 その授業時間に、スタニスワフ、アンナ、イエジィと三人の学生が、つたない日本語を操りつつ、どんな話をしたかは、そのときの彼らの仕ぐさや表情、話しぐせなども含めて、この本のなかに再現されている、その精確さは不気味なほどです。(5)

 注目すべきなのは、工藤もまた島尾の観察力、文章の喚起力に驚いていることだ。その国の人々の心のかたちが、更にそれらに接する作家のそのつどの胸のなかの震えが、的確に着実に捉えられているということだ。出会った人々を(たとえそれが一度きりではあっても)、瞬時に観察する力には驚かざるを得ない。特にそれが、彼らの《言葉》に関心が向けられるとき、「甘い口調がかえって魅力となり、気づかなかった日本語の一面が現わされたようだ」とか、「日本語の現に出来つつあるあたらしい方言」とまで受けとめるのである。(6)

 ここで想起されるのは、南の島の言葉に向けられた作家の深い関心である。島尾敏雄の人生と文学を決定づけた《特攻待機体験》、島の娘との恋愛・結婚、いずれも小説『死の棘』の世界に収斂してゆく体験である。例えば、「私」はポーランドやユーゴで映画や演劇、人形芝居などを積極的に見ている。それは「芝居をひとつ見るとそれだけその町の人々が脈近く感じられてくる」からである。この姿勢は、沖縄芝居への関心の延長上にあるものだと思う。東欧への旅に相前後して沖縄への旅も増えるのだが、それを「ことばだけでなく、彼らの発想や動作のなかに、私は妻や妻の身内の者たちのおもかげを認め」(7)と語ったり、「沖縄芝居の中の娘や中年女そして老婦のすがたに私は妻の過去と現在と将来を重ねてしまうことが多かった」(8)と語るのである。沖縄方言の感受とそれへの陶酔とは、実に夫人との共生のための必然であり、必要でもあったのだ。

「私には私の環境から受けた累積があり、そのかぎりで私のかたちがあらわされているが、なぜ異質のものに、折々に心を奪われることが起こるのだろう」(48、ワルシャワまで)という島尾が、ロシアやスラブの国々の言語に(あるいは広く異質の言語に)惹かれる素因は奈辺にあるのか? 章を改めることになるが、学生時代に長崎で過した体験にそれを求めることが出来るかもしれない。しかしここでは少年期の思い出として語られる次の部分に注目しておく。

 マジャール人はヨーロッパのただ中に迷いこんだ孤独なアジア民族だという不たしかな知識が脳の中を覆っていて、なにかそのような証拠を求めたい目つきになってくるのが防げなかった。少年期の終わりのひところ私はツラニズムの運動(9)に興味を持ったことがあるが、それは膠着語をはなす諸民族の連帯幻想に基くもののようであった。(456、マジャールを越えて)

 ここでは、《周縁》といってよい民族や、その言語への関心が早くからあったことを指摘しておけば足りる。それは学問の対象として《歴史》を選んだことにも通底するのだが。

 さて、『日の移ろい』十一月十九日(1972年)の条に次のような記述がある。

 七時半に起きお茶の水駅から電車に乗って新小岩駅でおりた。身のひきしまるような寒さ。島では寒冷の感覚を経験することはまずないが、私には身に覚えのあること故、一種の感覚回帰に襲われる。なかでもモスクワやワルシャワでの晩秋の記憶が、音楽のように甦ってくることが避けられない。

 ここでも東欧への旅の記憶と感覚を引きずっているのを感じるのだが、「音楽のように」という比喩を敢えて拡大してみることにしよう。この機会に、島尾敏雄の音楽の受けとめかたを語ってみたいのである。牽強付会に過ぎるかもしれないが、島尾敏雄はすぐれて「耳の作家」である、ということで。(10)

 『日の移ろい』には、音楽を聴いている場面がいくつか記録されている。

 モーツアルトの「ヴァイオリン協奏曲」をかけた。外の息の長い音とガラス戸越しに見える庭の木の葉のゆれとうまく合っているように思えた。しかしヴィヴァルディの「四季」をかけると胸がはずみ息が大きくなった。今のところこちらの方がからだに合うらしい。(中略)夕食がすんでからモスクワで買ってきたリムスキィ-コルサコフの「シェヘラザーデ」をかけ、気持ちがらくになった。(八月十六日)

 ここには、最も素朴なかたちでの音楽の効用が語られている。それにしても、わざわざモスクワからレコードを買ってくるところに、ある種の拘りと執心とがありはしないか。

 シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第二番」をきいた。東京でYと会ったときシマノフスキが好きだと言ったら、それを持ってきてくれた。この曲も好きになれそうだ。体質が合うのかもしれない。もともと西洋の音楽はきいて気持ちが動かなかった。七年ほどまえ偶然モスクワのポーランド土産物店でシマノフスキのレコードを買ったことがあった。(11)表には「交響曲第三番夜の歌」、裏面に「スターバト・マーテル」が録音されていたが、それをきいて私の中でなにかが動いたのかもしれない。(12)ポーランド女性のソプラノの声が祈りのようにまとわりつく曲だ。交響曲の方にもその声がはいってきて、しかもただひとつの楽章で成り立っている。受苦に耐える甘美とでもいえる旋律に私はとらえられた。そのあとはすすんで西洋の音楽がききたくなったが、それはどういうことだったろう。シマノフスキのものは短いピアノ曲がほかの何人かのそれといっしょに収録された一枚を見つけただけだった。(十月六日)

 他にも「ポーランド語の甘い発音が、ふしぎの国からのことばのように私の耳をやさしくくすぐりながら」(十月二十六日)とあるが、島尾の傾きがよく表れている。次は、『夢のかげを求めて』からの引用。

 バスの乗場まえの書店には飾窓のかたすみにペンデレッキのレコードが陳列され、Passio et Mors Domininostril Jesu Christisecundum Lucam と書いてあったから、むしょうに欲しいと思った。(13)クリスティーナが日本留学のときにたずさえてきたレコードではじめてきいたときのペンデレッキのへんな音の連鎖は、ちょっと呼吸が短すぎると思いながらもかなり快くからだにしみこんでいた。「ダヴィデの詩篇」や「スターバト・マーテル」以来だ。それ以前の私の耳はいっこうに音楽を受けつけなかったのに、シマノフスキをきいて、なにかがほぐれてしまった。その「スターバト・マーテル」と「交響曲第三番」が、どうして私の耳を解いたのかははっきりしないが、そのなかのステファニア・ヴォイトヴィッチのソプラノの声が、そっくりそのまま「尼僧ヨアンナ」に扮したルチナ・ヴィンニッカにかさなってしまったからだったろうか。(14)その跡もその情緒の緒をひいていないとはいえないから、ペンデレッキはやはりシマノフスキをふまえていると思えたのだったか。(248、ニェポカラヌフへ)

 島尾の音楽に対する好みを総体として見てみると、古典派やロマン派の人口に膾炙した旋律よりも、音・響きそのものに関心があったようだ。だから、シマノフスキはともかく、ペンデレッキのようないわゆる現代音楽にも違和を覚えていない。ちなみにペンデレッキの宗教曲を聴くと、まず衝撃的な音の連続が耳に突き刺さってくる。その後に、祈りのように始まる合唱は、すぐに聖歌のようにおごそかになる。人間の声の表現力を極限まで駆使しながらの、音の流動する構造とドラマティックな精神の構造が見えてくる。キリストの受難の思想を語り歌いながら、ついには人間が人間を殺害する時代、同時に人間が神を殺害する時代でもあると訴えているかのようである。島尾は、受苦・受難のドラマの底に祈りの響きがあることに共鳴したのではなかったろうか。

 東欧への旅の中で他に島尾が関心を持った作曲家に、アルメニアの、狂死したコミタスがいる。これはエッセイから。

 他民族の侵略の重なった(中でもトルコ人による大虐殺を経験した)この国の人々には、受難の祈りの旋律がつきまとってはなれそうにない、と私には思えたのだった(この民族の作曲家コミタスの作品は祈りのモチーフに満たされている)。(15)

 これ以上語ると本論から外れてしまうが、島尾は《ことば》のある楽曲、特に女声への関心が強いことに気づいて貰えたかと思う。ミホ夫人の声もまた澄んだソプラノであるというのは穿ちすぎだろうか。夫人の声を、「やさしく、すきとおって」とあることは、すでにこの章の最初に紹介した。また宗教曲、特に「スターバト・マーテル」への関心である。悲しみの聖母に対する祈りで、「聖母マリア 七つの悲しみの祝日」のミサにおいて用いられる曲である。詞の大意は、マリアの悲しみをしのび、苦しみをともにすることを通して神の恩寵が得られるように祈る、というもの。そこに島尾の信仰と関心の在りようも伺えよう。(16)

  信仰・戦争・祈り

 島尾敏雄は信仰について、小説は勿論のこと、エッセイ・対談の類でも多くを語っていない。夫人も、「島尾は小説にはっきりとカトリック信者というのは出したくない、僕の小説を読んでもらえばわかるでしょうから、と申しておりました。表面に信者ということを出したくないようでございました」と証言している。(17)しかし、島尾は奄美に移って間もなくの一九五六年末、洗礼を受けたことは厳然たる事実なのだ。きっかけは生誕洗礼を受けていた夫人に同化するためという、すぐれて《「死の棘」体験》のもたらしたところではあっても……。長男の伸三氏は、「父はどうしてあれほどまでに謙虚に神の前に跪いたのか、いつまでも傲慢さの消えない私には不思議です」(18)とも語り、「観念の人」としての父を、「神という観念について、抽象性に富んだカトリック教会の精神に理解が及んだ」とも推測している。しかし、それだけのこと、家族の証言を紹介しても、島尾の信仰についてはその外貌が浮んでくるばかり。言うまでもなく信仰は、心の内奥の問題である。作家論としては難関のひとつであろう。いままでも島尾の信仰については、真正面から取り上げられることが少なかった。真の信仰者はその内奥を語らず、論者はその対象の奥まで入ることはできない。信仰は「文学と直接にかかわらないところでの問題」(19)というさりげない言葉の中にこそ、深く思い定めたひとの、人生と文学に対する決意が伺えるのではなかろうか。信仰を持たない筆者は、常に信仰を語ることの意味を自らに問いつつ、躊躇いながらこの章を進めて行かなければならない。筆者のカトリックに関する知識も、あくまでも外側からのものであり、見当違いがあることを惧れる。(20)

 島尾敏雄はこの東欧への旅に何冊かの書物を持参し、実際に読んでいる場面も描かれている。最初に読んだのは、この旅のモスクワでその作者にも会っている『ゾーシャ』である。「ウラジーミル・ボゴモーロフの『ゾーシャ』という小説を読むことにしていたが、それは『ソヴェート文学』の五号に島田陽氏の翻訳で掲載されたものを切りとって持ってきていたものだ」(21)とある。戦場ポーランドでのソビエト軍の若い士官と、ポーランド娘との淡い恋を描いた小説である。島尾はおそらく、太平洋戦争時代の奄美・沖縄と戦争末期のポーランドとは歴史的背景が似ていることを感じとったのであろう。そしてまた、加計呂麻島の特攻基地での自らの恋にも思いをいたしたに違いない。

 私はこの小説に快く心を奪われていた。そこに出てくるポーランド娘の描写に、これからその国に行こうとしている私が、想像をふくらませすぎなかったとは言えないが、この小説の語り手の「わたし」に、ソビエトの軍隊についてなにひとつ知らない私が、自分の軍隊体験の中での仲間の一人と出会ったような親近感としかしもう位相が変ってしまった今との対比での喪失感を抱いたからだと思う。(15、ワルシャワまで)

 この『ゾーシャ』は、やがてワルシャワで映画を見て、「原作はもっともっとふくらんでいたが、映画はずっとしぼんでしまっていた」と語ることになる。(22)映画に関しては、前章で『尼僧ヨアンナ』に触れたが、「ポーランドでつくられた映画を好んで見る」島尾でもあった。(23)当然ポーランドの人と国への関心の深さを示すものでもある。同エッセイの中でも「かつてその国の映画を見て言い知れぬ戦慄が身内を走った」と語っているが、島尾の感受の特質は「逆説に満ちたあの悲しい、はにかみのあたりに生きつづけているのか。むしろ明るく軽快でさえある彼らがどうしてこう哀愁に彩られて感じるのか」というところにある。(24)これはまさに島尾敏雄そのひとの特性を、自ら語っているように思えてならない。日本学科の学生たちと小さな旅をしたり酒を飲んだりする場面では、時に若々しく「明るく軽快」でありながら、その底には言い知れぬ哀愁があったのである。そしていま本稿は、その哀愁の部分へと移らなければならない。

 島尾が「ワルシャワにはいるリズムをつくるため」に読み始めたのは、アンジェイエフスキの『聖週間』であった。

 その小説は、ドイツ軍占領下のワルシャワの町なかでの一週間のできごと。ドイツ軍はユダヤ人居住地区の攻撃をはじめ、それがちょうど復活祭の一週間とかさなり、ユダヤ娘とそうでない青年とのかかわりを通してまわりの市民のあらわす反応の様相が描かれていた。(42、ワルシャワまで)

 このように読みとっている事変は、一九四三年四月十九日のこと。ドイツ占領軍のワルシャワ・ゲットー壊滅作戦に対して、ゲットーの住人が一斉蜂起を開始、ポーランド軍の地下組織も支援するが、結局は失敗する。その陰で、ユダヤ人女性と彼女を匿った友人一家の苦悩を描いた反戦ドラマである。共産党政権崩壊後の、一九九五年に映画化されてもいる。また、これはアンジェイエフスキの実体験ともいわれている。(25)しかし勿論、島尾はそこまでは触れていない。この読書はワルシャワ体験に入る前のウォーミングアップの役割を果たし、「町の部分や通りの名など二年まえに来たときの見聞がよみがえり、また市民の反応はこれからその町にはいって行く心構えの手がかりのように作用するところがあった」と語るだけである。

 しかし、ワルシャワの町なかでは、どうしても「その事実」の前に立ちすくまぬわけにはいかない。同行していたK(工藤幸雄)の説明でゲットー跡に立って、「その先の想像が広がら」ず、アンジェイエフスキの『聖週間』でふくらみかけたイメージも、「目のまえにその場所を見ると、なぜか、それがしぼんでしまう」のである。そして、関東大震災のあとの横浜の郊外の原っぱの様子などが光景として重なってしまったりする。それでも滞在の日数が重なるにつれ、「その事実」を、自己のフィルムに取り込んでゆかざるを得ない。「ワルシャワの町なかにはいたるところドイツ軍による被害者の記念墓が、建物の壁面にしるしつけられている」のだったから。そしてついに、自らの軍隊体験が表に出てくることになる。特に人々の何気ない風体や動作に感応するときに、それが露わになる。例えば、若いスタニスワフを見ての感受。

 彼に軍服を着せ自動小銃を持たせて橋の向こうを守らせたらどうだろう。敏捷な恰好のいい身ごなしで、こちらがわで呼吸もたえだえに、泥まみれの、たるんだ肉かぼろきれとことならない私を撃ってくるにちがいない。そしてひよわな肩と胴長で細くまがった足でかろうじて軍装に耐えながら、臨機の跳躍など考えられそうもない私に、彼を撃ちかえすことができるだろうか、などとあらぬ妄想が湧いてきたのだ。(141、クラクフにて)

 これは少しばかり過剰な連想ではある。そしてまた自らの外套姿に、「ひざにあたる感触が、いくらかソビエトあたりの軍人のそれのような感受があったから」というのも、敏感にすぎる反応であろう。続けて、「きっと戦争のさなかならこんなぐあいに大隊からおくれてしまい、ひとりぼっちで森をさまようことになるだろう」と語るのだが、それも『ゾーシャ』の印象の残映だろうか。更にニェポカラヌフの修道院の一室でも、「先の婦人は、おそらく身内の修道士に面会に来たにちがいなく、私はかつての軍隊での面会室」を連想したりしている。他にこの作品全体に特徴的なのは、比喩としての軍隊(戦争)用語の多出である。「戦場に出かけて行く兵士のように」、「払暁の襲撃をかけようとする部隊の斥候兵のように」、「小休止のあとの兵士のように」、「まるで突撃したあとのように」、「まるで初年兵のようにからだをかたくして」など、枚挙にいとまがない。いわば島尾はこの東欧の旅に、当然のことながら自らの軍隊体験をも背負って来ているのである。

 島尾敏雄は、元代ウィグル族の研究を卒業論文にしたように(26)、歴史家としても鋭い眼識の持主であった。特に、《中心》ではなく《周縁》の民族に早くから関心を抱いていたことに注目したい。そんな島尾は、ポーランドの歴史をどのように受けとめていたのだろうか。

 ポーランドという国は、周辺の国々が入れかわり立ちかわり圧力を加えてきたり、侵入してきたり、そのつど一方と妥協しては他方を牽制し、受身の姿勢で対処せざるを得ない傾きがあった。その辺の事情が、この作品では特に古都・クラクフを訪れる場面に頻出する。クラクフはワルシャワから約二百五十キロ南下したところ、現在ではポーランド第三の都市である。十世紀半ばにはポーランドの首都になり、十三世紀に何度かタタール人の奇襲を受けながらも、十六世紀末のワルシャワ遷都までその栄華を保つことになる。(27)島尾がまず注目したのは、そのタタールの侵攻であった。クラクフは、その記憶をあちこちにとどめている町でもあった。

 ポーランド人は十三世紀のモンゴルのヨーロッパ侵入を食いとめ、また十七世紀にはおなじアジア人のトルコをヨーロッパから後退させる端緒もつくっているが、トルコの場合は現在もなおその領土の一部をヨーロッパにとどめているだけでなく、あきらかな影響を東欧の南辺にのこしているのだから、現実的なあとづけもできるが、このあたりでタタールと呼んでいるモンゴルの人びとの事件は、どこか伝説じみたあいまいさが加わり、私にはつかまえにくいものとなってあらわれるのはなぜだろう。(160、クラクフにて)

 このように語りながら、続いての島尾の感受はいかにも独特である。

 トルコ人の容貌は本来のアジア人の面影からだいぶはなれてしまっているが、マリアツキ教会の尖塔の上のラッパ手を何人も殺し、ポーランドの娘たちをヴォルスキの森の方まで追いつめたタタールたちは、きっと私とどれほどもちがわぬからだつきと容貌をそなえていたにちがいない。いわば私もKもタタールにことならず、それが今、タタールを退け拒んだポーランド人の後裔のスタニスワフといっしょに、タタール侵入の伝承に点綴されたポーランド平原の一隅を歩いていることが、どうにも現実のこととは思えぬような気分に覆われはじめた。

 過剰反応だと思うのだが、被害者・ポーランド人の中にいると、自分も加害者の顔として受けとられるに違いないというのが島尾の感じ方なのである。というよりも、ひとはみな加害力を持っているということで、自分だけを特別視するわけにはいかない、という見方なのか。武田友寿はこの《加害力》を島尾文学全体から抽出し、そこにキリスト教の原罪観を見ている。(28)それはまた、《特攻待機体験》を経て、《「死の棘」体験》の中で培われた意識のように思えてならない。

 その他、十七世紀のスウェーデンの侵略にも触れているが、筆者の浅い知識の中でも、それ以降のポーランド分割の悲劇が浮んでくる。十八世紀末の年表を見ると、次のとおり。

  1772年 ロシア、プロイセン、オーストリアによる第一次分割。

  1792年 ロシアのエカテリーナ二世、プロイセンによる第二次分割。

  1794年 クラクフ決起。

  1795年 三国によってポーランド領のすべてが分割され、ポーランド王国は抹消。

 第一次大戦後に分割統治から一度は独立するのだが(1918年)、その後のナチスドイツによる悲劇は周知の通りである。島尾は、それにも長崎高等商業学校時代の「昭和十四年日記」で、いちはやく反応している。(29)

 しかし、あくまでも島尾の関心の中心は、こうした歴史の苛烈さにも関わらず、「人なつこげ」な様子を失わないポーランドの人々の生き方にある。その底には、「人間の生活にとって信仰とは何か」というように、カトリック信徒としての普遍的な問題が設定されているように思われてならない。それはまた、奄美のカトリック信徒たちにとって、信仰とは何であったのか、そしてその一人である妻や妻の身寄りの人たちにとっては何だったのか、ということにもなる。しかし、島尾は相変わらず自らの信仰については語らない。だが、次のようなところに、彼の信仰のかたちが仄見えはする。散歩の途中、「手近の教会の重い扉を引いてなかにはいる」場面である。

 修道士がひざまずき祈っている光景を目にすると、私はつらい気持になってしまうのだ。世間を歩いてきた私の衣服の襞のあちこちに付着したよごれが、急に重さを加え、ふだんの世間とは別の世界がここにひそかに展開している事実に、あらためて衝撃を受けるからだ。それがそのまま事実であるとしても、またいくらかは事実が覆われていようと、やはりよごれのない世界を思いたがり、それにふさわしい静謐がそこに感じられたのだ。(228、ふたたびワルシャワへ)

 控え目だが、信仰者の心の内の間接的な吐露がここにはある。(30)とはいえ、島尾はこの旅で信仰についてテーマを持たなかったはずがない。例えば次のような部分にそれは仄見える。

 私はいろいろな問いかけでヘンリク修道士とたとえば世間の友人とはなす調子ではなしてみたくなっていた。社会主義の政府を持っていながらカトリック信者がこんなに多いポーランドはふしぎな国だと言ってみた。そのつり合いはどうなっているのだろう。(390、オシヴィェンチムへ)

 しかし修道士からはまともな返答はない。「将来はどうなのか」と重ねて聞くと、「社会主義はしだいにゆるくなって来ている」と言い、「このごろポーランドの娘たちの中から修道女の志願者が多くなった」とも言う。しかし「私」には追いかけて訊く「その上の問い方」がわからず、このテーマは作品の中で発展することはなかった。(31)

 この訪れの中で島尾は、ナチスドイツの行為について、殊更に糾弾するような言辞を弄しているわけではない。「この村もついこのあいだの戦いのときは、ドイツ侵略軍の往きと帰りの二重の襲撃で虐殺と破壊の地ならしに遭遇したのだということだ」とか、「多くのワルシャワ市民がこの舗道と建物のあいだで血を流した。すさまじい市街戦のときはこの大通りも硝煙に覆われたはずだ」とか、事実を手短にそして控え目に語るだけのこと。そのような島尾の姿勢が際立っているのは、ブジェジンカのオシヴィエンチム(32)に立っての描写である。

 平坦な私の視点からは二百万もの人々を収容した建物の痕跡はなく、その首かしげ鉄柱と煉瓦煙突の林立がかさなって、墓標ででもあるかのように見えていた。風すさむ荒野の中、立ちならぶその遺物だけが風を切るきしりの音をたてている。そして髪の毛を思わせる葉の落ちた小枝をまっすぐ天に伸ばしたひょろ長い裸木がそのあいだを点綴していた。ところどころに簡単な木小屋の監視塔も残っていて、それはひと押しでへし折れそうなのに、武装した監視兵がそこに立てば、脱がれ行く者がその視野の外に生きて出ることはできないのである。(406、ブジェジンカにて)

 見事なまでに感情を抑えた描写である。その遺物の細密な描写がここでは生きていて、すべてが墓標のように見えてくる。私的な好みも入るが、喚起力のある名文だと思う。しかしここでも戦争をひきおこした原因としての政治的な問題や、オシヴェンチムでユダヤ人虐殺を行ったナチスの行為などを声高に批判することはない。オシヴェンチムの門の中をひとつの異界として捉えている。そこには過ぎ去った歴史の痕跡があるばかりで、時間は流れていない。この後を次のように続ける。

 しかしこの快い広さはどうだろう。目をさえぎるもののない(あの気味の悪い鉄柱や煙突や、わずかにくずれ残った煉瓦造りの建物や監視塔が目にはいっても、そこに横たわる空間の広さに呑みこまれてしまえば、雑草の存在とかわらない)野の中に置かれると、私が享けるものは、自然ののびやかな恵みでしかない。人々の悲惨は通りすぎ、残されたものは錆び行く鉄塊と崩れゆく煉瓦でしかなく、すべては土にかえってしまうことが定められている。ほろびるもののあいだにはさまれて遠からずほろび行く自分をも私は遂につかみ得ないのである。

 最後は自らの(否、ひと全体の)生の原理に立ち返っている。ポーランドとの別れが近づいている章段にふさわしい、深い寂寥感が漂う。他の部分でも、無常感とでもいった感慨が散見する。「いつかは消える」という仮象への思いや、「生涯にもう来るとも思えぬ場所」を歩くことが、「時の流れを消失させ」もする。「はかない」、「むなしい」といった語句も多々使用されている。(33)そして次の条は、島尾文学全体を解読する上で大きな意味を持つ。

 この収容所に入れられた者の中から生き残った人々が居ることは、やはり不思議と言うほかはない。ほとんどが殺されてしまう状況の中でなお生き残り得るということは、ほんとうに、どういうことだろう。しかしなぜか、どうしても生き残る者が出て来るものである。沖縄の離島の集団自決の中からも、孤島の全員玉砕の戦場からも生き残る者が出て、その残った生を生きつづけなければならぬ。(409、ブジェジンカにて)

 島尾敏雄における《いま》と《むかし》とを結びつけるものである。そしてまた、ポーランドと日本の南島を結びつけるものでもある。特攻待機のまま終戦を迎えた島尾は「生き残って」、「その残った生を生きつづけ」てきた。まるで「生き残る」ことが負い目であるかのような言い方だが、島尾だからこその感受であり表現なのだ。生き残ったことを僥倖としながらも、実際に戦闘が始まったときにどのように振舞い得たかを、たえず自らに問い続けてきた島尾である。逆に言えば、戦争で死んでいった人たちの意味を探し求めることが、島尾敏雄の《戦後》でもあったのだ。

 そもそも、敗戦の十七年目に成った小説が、「出発は遂に訪れず」であった。敗戦の日の夜明けの時刻から夜に到る刻々の生存を、回想形式ではなく、現在の感触において描いたのである。やはり体験はいまも作家を拘束している。特攻待機体験を持った戦中派として、島尾はすぐれて拘りの人でもあった。そうした自らの戦争のかげを曳いてポーランドを旅していることになる。すべてはこの一節に収斂される。小川国夫との対談で「自分としては『死の棘』を第二の、そして『東欧紀行』を第三の長編小説と思っている」(34)と語っているが、『贋学生』や『死の棘』と共に(あるいは「出発は遂に訪れず」を含めて、当時は未完の軍隊小説が念頭にあったのかもしれないが)、この東欧紀行は、それら前作をも抱え込んだ、いわば人生の総体を抱え込んだ旅であり、書き続けた長編作品でもあったのだ。

 このような、島尾敏雄を含めた「生き残り」の対極に位置しているのが、コルベ神父である。(35)この旅でも、島尾は神父所縁の地・ワルシャワ近郊のニェポカラヌフ修道院を訪ねている。その筆は躍動し、そしてまた沈潜してゆく。

 私はすでにマキシミリアン・コルベ神父が彼独特の方法で獲得した土地に立っていたのだ。彼はそこに一風かわった修道院を設立し、生涯をひたすらに献身した「けがれなき」(niepokalany)聖母マリアにあやかってニェポカラヌフと名づけた当のその場所に、まぎれもなく私は立って、そして異様にたかぶっていたのだ。彼はオシヴィエンチムで他人の身がわりを申し出て殺されるのだけれど、その死の十年ほどまえには、日本語を知らぬまま長崎にやって来、しかも日本語による雑誌の印刷と発行の仕事にとりかかりそして六年のあいだそこに留っていたのだ。長崎で彼が最初に住みこんだ家に後年私はそれと知らずに下宿した因縁がたかぶりを刺戟しなかったとは言えないが(以下略)(260、ニェポカラヌフにて)

 引用の最後の箇所は、島尾が長崎高商時代、コルベ神父が『聖母の騎士』誌発行の仕事場として使われたことのある、南山手十番地の雨森病院跡の建物に下宿していたことを指す。(36)なお、島尾は第一回目のポーランド旅行から帰国後、新聞や雑誌に、それに関連した九編のエッセイを発表しているが、うち四編でコルベ神父に触れている。特に「私の感銘した本」(37)には、マリア・ヴィノフスカの『聖母の熱愛者』を取り上げているが、これはコルベ神父の生涯を記したものである。またこのエッセイの中で「私はむかし長崎で勉学していたとき、素足にわらじのおびをしめた貧しいきわみの彼(コルベ神父‐筆者注)の後継者のポーランド人修道士たちを見た」とある。この旅立ちの因の遠い淵源を示していよう。旅の目的のひとつに、コルベ神父を主とした聖地巡礼意識があったと思われる。だから、「ここはニェポカラヌフだと自分に言い聞かせると、からだごと快いかおりにつつまれてくる」のでもあった。「コルベ神父の生涯をあとづけると、どうしても手のとどかないところでの特別なひとの歩み」と感じている島尾だが、この長い(時間ではなく記述が)章段の中で、ひとつの祈りの姿勢にあることが伝わってくる。一方で、修道院や修道士に多少の違和を感じながらの描写もある。「この世ではないところでこの世でのはたらきをくりかえしている場所」とか、「この世とも思えぬ血色のいい頬をかがやかせ死者の目つきで底抜けに寛容なほほ笑みを送ってくる」修道士に、「もう墓の中にはいってしまったかのような寂しさに落ちこんでいた」りするのである。その翌日、「コルベ記念館」を見るのだが、そこにはオシヴィェンチムでのそれそのままに、神父の入れられた餓死刑のための監房がつくられている。島尾はそこで、コルベ神父の(よく知られた)最期をあらためて語らずにはおられない。

 ほんとうにせまい四角な部屋。せますぎるから全体が細長い空間となり、ひとりでさえ身動きもできぬほどのその場所に十人もいっしょに、一切の衣服をはぎとられたすがたでつめこまれたという。はじめ逃亡者が出た見せしめに、それだけの人数が気ままに選びだされて餓死刑を言いわたされたとき、泣き叫んだひとりの男のためにコルベ神父は自分から申し出てその身がわりとなった。ワタクシハ、ソノヒトニカワッテ、シニタイノデス。そのまま彼は餓死監房に入れられ、食物はいうまでもなく水も与えられぬ幾日かを生き、一週間たってもなお生きていた四人のうちのひとりとして、一番あとに致死剤を注入され、そして死んだのだった。(286、またワルシャワへ)

 島尾のコルベ神父への関心の在りようは、戦時下でのカトリック信徒の生き方に対する関心につながる。例えばもう一人、奄美で知り合ったV神父の生き方がある。V神父はポーランドのゲリラ部隊に加わり、ドイツ軍ともソビエト軍とも戦った経歴を持っていたのだった。ニェポカラヌフでも、ヘンリク修道士に案内されながら、島尾はしきりに戦争に翻弄されたV神父の面貌を思い浮かべてもいる。

 この章はフランツ・カフカについて記して、終えようと思う。

 旅も終わりに近く、島尾敏雄はプラハの街を歩いている。ユダヤ人街の一角の、「建物のかどのまるくなったところに星のしるしと浮彫りのにんげんの胸像がくっつけられていた」(441、プラハにて)のを発見する。案内の人がそれは「カフカ」だという。そこで島尾は不意に、「この町で彼が使ったあらゆることばの背後をくぐりぬけてみたい思いがむらむらとつきあがる」のである。そこで写真機のシャッターを押してもらったのだが、帰国後現像してみると、「どうしてか、私の映像がはっきりとはうつらず、からだの線はぼやけ、顔は今にも消えそうなあやしい感じでふたつもかさなって写っていた。カフカの像が遠く小さくまるで柱時計か郵便受ででもあるかのようなかたちで画面に残ってはいたけれど」という状態であった。カフカに触れているのはここだけである。しかし、この体験を踏まえ、後日、「カフカの癒し」というエッセイが発表されることになる。次のように。

 その時の私はモスクワからワルシャワなどの旅を重ねてきていたのですが、甚だ上っ面の経験からではありましたが、スラヴや社会主義の世界の中でもユダヤ人の存在は、それほど単純な問題ではないことに気づかされていたようです。しかしどうしてかカフカのその位置は、鋭い一本の針のような強さでプラハの町を縫いあげていると思いました。(38)

 更に前述の写真の件につき、「その時はこのカメラというふしぎな器械の、有無を言わさぬ瞬間の固着のはたらきに、ちょっとぞくぞくしたきもちになった」などと、《夢の方法》を得意とする書き手らしい感受のしかたをしていることに興をそそられる。また「彼の恋人たちや三人の妹がこのあいだの戦争のさなかにポーランドのオシヴィェンチム(アウシュヴィッツ)で殺されてしまったこと」などが、カフカに惹かれた因であることを告白している。やはり、死んだ者と生き残った者と—である。

  南島論から・歩行のリズム・夢のかげ

 異国の都市・教会・修道院を訪ね歩いて得た感受をつぶさに書きとどめながら、島尾敏雄は結局読者に何を伝えたかったのか。

 島尾の軍隊小説に「国家」が描かれていない、というのは定説であり、事実そのとおりなのだが、この紀行文的作品も全く同じである。ソビエトやポーランドやチェコスロヴァキアなど、当時きわめて政治的・国家的に沸騰する地域を歩きながら、そうした事情に触れることが少ないのである。まさに「東欧紀行」は副題に押しやられ、主題は「夢のかげを求めて」になっていたのだ。題名がすべてを表象している。作品は作者・島尾の感覚と触れ合う一点だけが強く照らし出されているのであって、その他の部分は薄ぼんやりとした闇のなかに姿を没しているかのようである。だから読者は、長大な夢の記述を読んでいるような思いにさせられるのだ。(39)

 ワルシャワに落着いての、あらためての感慨として、「書いている現在」の時点に立って記述された一節を紹介する。

 今度の旅でポーランドにいちばん長い日にちをさいた私のこころの中にはなにがひそんでいたのだったか。(40)(中略)日本では淡い、異種の民族の血の混淆の中でつちかわれて行く自我のかたどりへの執心などがこの国で感受できるつもりになっていたのか。この国の度かさなる国境の移動は、まるで自分の場所を見つけるための作業にそっくりだと考えたのだったか。ときにその領域をひろげすぎたかと思うと全く居場所を失ったかの如くそのかげを失い、錯誤をかさねて二枚あわせのガラスの領域図を右にずらせ左に移しているうち、現在の立場にようやく焦点が合った様子なのだが、それがこのまま動かずにすむとも思えない。(74、墓地のにぎわい)

 ここでは、分割によるポーランドの国境の移動を語っているようでもあるが、実は自分の位置の不確かさを語っているのだった。「もともと自分はなにものなのかと、遡行を試みてもその確かなみなもとなどわかるはずもないが、しかし私が私以外のなにものでもないことは、それらの作業のあいだにいよいよ色濃くわき立ってくるようなのだ」と続けるのだから。更に「国境の移動」についても、「自分の居場所を見つけるための作業」といった次元に引き戻して感得するのである。だから、日本学科の女子学生を見ながら「彼女らの背景で数百万人が殺され、その間隙をどうくぐりぬけてその親たちが生きのびてきたのかなどと、思いがあらぬ方に走る」のだが、それは「海洋で断ち切られた日本の国境とはまるきり様相のちがう地つづきの接触の中で形づくられた人間の血のあやしい混血のこと」へと思いが結びつくのである。ここに島尾の歴史への関わり方の特色がいくらか見えている。つまり血によって民族や国の在り方を捉え直そうとすることである。また、島尾には「異民族の支配痕跡をのこしていることは、その風景に悲痛な奥行を与え、あらためて関心のそそがれてくる」という歴史認識があったことも付加しておく。

 ここまできて筆者は、第二次大戦において徹底的に被害者の位置に立たされてきたこれら東欧の地域、特にポーランドへの島尾の関心は、やはり日本の《周縁》として犠牲を強いられてきた《琉球弧》への関心と通底していることに気づく。第一回のポーランド旅行の前年、つまり一九六四年に島尾は、初めて沖縄を訪れている。そのときのエッセイが、「沖縄・先島の旅」である。(41)

 私の妻が沖縄と似た環境と歴史を持った奄美の生まれであること、しかも彼女から十世代もさかのぼったその祖先は、沖縄からやってきたという確かな伝承を思い起こすことによって、私は自分自身をなぐさめ、わきたつ心を鎮めることができた。

「言葉」の章でも触れたが、妻を通しての血の確認である。そしてまた、石垣島に震洋隊の特攻基地を訪ね、「そこからはいくら汲んでも汲みつくせない文学の泉の根が深くはりめぐらされていることを」、「確かな感受で確認」もする。その意味でもこの沖縄行は重要な旅であった。(尚、この石垣島に配置された部隊は、隊長のM大尉が捕虜虐殺の罪で、戦犯として絞首刑になった。この事件は島尾には衝撃だったようで、後に「震洋隊幻想」や「石垣島事件補遺」として小説化される。それは、この旅がきっかけになった)。

 そもそも《「死の棘」体験》以来奄美に閉じこもり、夫人の治癒を見守ってきた島尾が、芸術選奨受賞を機に島の外へ出るようになったのは、一九六一年のことである。その後アメリカ合衆国の招待旅行を経て、先島のほうへも歩を進めて行く。その後にきたのがこの東欧紀行であった。

《南島エッセイ》の執筆の方は、長男を伴っての「沖縄紀行」(42)を経て「琉球弧の視点から」(43)に到る。そこでは、日本は他の国に比べると、異質なものを内にかかえもつ度合いがずっとうすいこと。それが奄美に住むようになって、画一の日本の一隅に脱出の穴があいていたと感じたこと。そして、琉球弧の島々と東北とのあいだに類似の気分が流れていることに気づいたという。結論としては、窮屈な気持ちから脱け出すために、北海道も東北もそして琉球弧も等距離に(といっても距離の問題だけではないのだが)見渡せるような場所から日本を見たいものだ、ということであった。この辺りの脈絡については、沖縄の論者・岡本恵徳に卓抜な論考があり、氏の次の断言にとどめをさす。

 ここ(『夢のかげを求めて』のこと-引用者注)には、東北の血を確かめえた島尾の、みずからの血のありかたを「民族」や「国」のかかわりで捉え直そうとする姿が浮かんでくる。そしてそれは、遠く南の沖縄で見出した、「血すじ」のたしかめに、はるかに呼応するものに他ならなかった。(44)

 島尾敏雄がその生涯のすべてを背負って旅を続けていることは、すでに指摘した。異国を旅していても、「いつかどこかで経験した世界を、それこそ今の今じかに自分自身でたしかめ歩いている具合にだ」と感得するのである。そこにあるのは、幼時の東北の田舎であり、戦争の残像であり、家族との日常であり、それらを含めて過ぎてきた自分の生そのものであった。「夢のかげ」とはそのような意味を含んでいる。つまり『夢のかげを求めて』は、島尾文学全体を見渡すには格好のテクストなのだ。

 旅のさなか、朝の目覚めのなかで、次のように感じ、記録する島尾がいる。

 うつらうつらしながら考えることは、意味づけられようと私を襲ってくる日々の新しい経験の反芻だ。それらの経験は異様で多様な形相を装い、その日の戦闘態勢のととのわぬ枕の上のまだ覚めやらぬ私に、不意打ちをかけてくる。(352、チェンストホーヴァへ)

 目覚めに襲うさまざまな記憶や情念に身を委ねる、まさに日常そのもののはじまりである。生きているあいだは、日々に時は過ぎて逝き、日々に新しい過去がつくられ、体験として積み重なってゆく。現在とは、そうした過去の時間の重層の上に成り立っている。従って体験は、混沌の記憶でもある。その記憶を呼び戻す作業が生きるという現在であり、書くことでもある。島尾は「あやふやな印象と稀薄な記憶とがとどめ得たものを」、時を置いて、それだけを手がかりにして筆にする。『夢のかげを求めて』も、そのようにして成立した。

《紀行》といえば一般的には、事物の明確な輪郭を浮かび上がらせる努力をするはずなのに、島尾のそれは、どこか事物の正確な「名づけ」の追求を避けているところがある。かつて自らの小説の方法について、次のように語っていたのを想起する。

 あるとき、ふと感じたにおい、又は音のようなものだとか、そういうものを書きたいと思う。そういうものをはっきりつかまえないとなかなか筆をおろせないんです。そういう核のようなものができさえすれば、書いていく決心がつくんです。そこでやっと書きはじめるのですが、次の段階はことばを探すといいますか、なるべくいろんな意味を含ませずに、限定して使おうという気持と同時に非常にあいまいなままで使おうという欲望もあって、その両方のかねあいで言葉を選んでいく。(45)

 事物の正確な名づけの追求を避けながら、同時に記憶を細密に描写するという島尾独特の方法が、普遍性を、つまりリアリティを生む。島尾文学は根本として、リアリズムの文学である。たとえ《夢》を素材にしていても同じこと、ただ「できるだけ精確に記録すること」のあらわれである。

 この紀行でも、島尾は確かにある特定の時空の中を旅している。読者もまた彼の旅程に合わせて、作中の「私」と共にワルシャワやプラハの町を歩きはじめる。しかし「私」の本体(?)はいつの間にか薄明(現実と非現実とのあわい)に消え去り、読者ひとりが(あるいは「私」のかげと共に)ニェポカラヌフ修道院の石だたみを歩き、夕暮の中のオシヴィェンチムの収容所跡にたたずむのである。島尾の作品の中の「私」は、しだいに人間くさいよそおいを漂白してゆき、ついに外界、特に生命あるものとの接触にふるえおののく一片の薄膜に変貌する。おそらく島尾にとって興味があり、そして描こうとする唯一のものは、この薄膜であり、この魂のふるえである。

 だがそれは、一方では「私の視野を流れて行く物体はすべて一度かぎり。流すまいとしてそれをくりかえし目にすることのできないあせり」を生じ、「どんな微細なところまで覚えておこうと目を見張っても、時がたてばあいまいになって、実感をはなれ、たしからしさは遠ざかってしまう」ことにもなるのだった。この時の過ぎ逝きの意識の後に来るのは、一種の無常感であり、寂寥感でもある。ここに、作品としての『夢のかげを求めて』の主調音がある。「日々の消えゆく生」を自覚し、「もう生涯には二度と見ることはあるまい」という感受である。その典型的な記述を引用する。

 誰のひとかげもなく石だたみに煉瓦としっくいでかためた町並みの昧爽のなかで、どことなくななめに字体をくずしたポーランド風なネオンの看板なども、それはそのようにふだんのこととして当分は変化なく日常の風景をこしらえていることだが、私にとってはかかわることのできぬ断絶を前にし、一度かぎりの異常なものとしての存在になって、しかもふんだんにあたりいっぱいにおしげもなく展開されているのだ。(136、クラクフへ)

 引用をはじめるとなかなか止めることのできない息の長いセンテンスの中で、日常であるはずの風景が、仮象として、あるいは異象として読者に現前する。執拗に対象を描き出そうとすればするほど、主体の側の「かげ」がそれにぴったり付随し、反映して、結局、対象をも「かげ」に包んでしまう。文体のうねりが歩行のうねりに合体する。そして次のように引き継がれてゆく。

 しかし私はそれをどのように正確に記録し或いは記憶し、その日常を自分の日常にすることなどできよう。それはしかと見定めずに惜しげもなく刻々に印象のなかからふりすてて、暗い忘却の淵に沈めこみながらそのことについては絶望的な気分におおわれながら歩くだけだった。

 ここに散りばめられていることばたち—「日常」「断絶」「異常」「記録」「記憶」「忘却」「絶望」—は、いずれも島尾文学のキーワードである。旅人が出会う出来事はすべてささやかな日常的な事件だが、それを克明に(島尾流に言えば「あいまいなまま」、「正確な意味づけをしないまま」)語ってゆくうちに、一回限りしか訪れない瞬間瞬間が、貴重ないのちの連鎖としてことばの中に息づきはじめる。その「ことばの気配」のようなものを捉えて、表現してゆく。読者はその情念や肉体の厚みや重さを、視覚障害者が指先で感じるように味わいとることが出来る。だから一瞬にして視界から消え去る人々や、酒場やレストランで数刻を共にしたに過ぎぬ人々の表情や物腰が、いわば純化された姿で現前する。この作品もまた、人々が背後に引きずっているものの重さを、ごく自然なかたちで感じとることが出来るのである。意味を失って崩壊しかけようとしていることばが(だから実在が)、島尾敏雄によって復権される。東欧への旅で出会った人々は、もはや記述する行為の中にしか存在しない。もちろんこの特有の記述のかたちが、「東欧紀行」というふつうの旅行記を期待した読者を遠ざけてしまった感は否めない。そして自分自身をなぞった形をいくらも出ていないと批判され、真正面から論じられることが少なかったのである。

 いまさら言挙げするまでもなく、人生は旅そのものである。島尾敏雄の生の軌跡はまさにそのことを言い当てている。そして過ぎ去ってしまえば、うつつと夢との区別はつかない。正確にはうつつは消え、夢だけが残る。もっと正確に言えば、うつつが消えた後に残るのは、夢のさらにその影の部分ではなかろうか。うつつを歩いていても、瞬時に「夢のかげ」になってしまうような異象を、それでも出来るだけ精確に書こうとして、島尾はふたたびの旅を経験する。つまりそれが「書くという行為」である。その辺の事情を、島尾文学の同伴者だった(と自認していた)奥野健男は語る。

 このこまかいリアリズムは、視点をちょっと変えれば、すべて島尾敏雄の内部の主観的真実であり、幻影であり、夢でもあるのだ。島尾はその中に真実を求めながら、ついにいつも夢のかげしか求められないのだ。(46)

 おわりに、この紀行文的長編の中から、いかにもそれにふさわしい断章を、たのしみながら書き写しておこう。島尾の旅とその書き継ぎ(つまり《再びの旅》)が獲得した恩寵であり、《歩行》そのものをテーマにした一編の短編小説にもなり得ていると思うので。

 白人の男や女が私とすれちがうのが、おもしろく、通りに沿ってならんだ店舗の飾窓の様子もたのしく、私のこころの底のなにかをゆりうごかしてくるものを否めない。それは全く珍奇なものを見たからというのではなく、いつかどこかで経験した世界を、それこそ今の今じかに自分自身でたしかめ歩いているぐあいにだ。(94、ワルシャワの町歩き)

 まさにワルシャワの町あるきをたのしんでいる箇所である。ここでは「経験」「たしかめ」という語に注目したい。続ける。

 もちろん、人も店も日本のそれとちがっているし、まずは私がかれらと生活を共にすることなど考えられもしないが、それが胡椒のような悲哀をふりかける作用を与え、もう今度いつここを歩けるかわからないせつなさが、いっそうその時を生き生きさせてくるみたいなのだ。

「悲哀」「せつなさ」が、かえっていまこの時に活力を与えるという島尾の感受のパターンなのである。その後は景物の微細な描写に入り、「私」はそれらを通り抜けながら、「からだいっぱいにワルシャワを吸いこみ、日なた干しにしたあとのふとんのようにふくらんで」いくのである。そうしてその記述は、躓きながら歩く歩行者の足どりに似てくる。記憶への遡及もその役割を果たし、二年前の旅をも呼び戻す。しかしすでにそれは「夢」と等価になっている。ふたたびその「夢」を訪ねることはできない。できるのは、せいぜいその「かげ」をみとめることである。例えば、ナチスによって破壊された建物の復元途上のすがたに、「私」は戦争の傷痕という「かげ」を見る。

 ……にんげんのきりのない血にふるいたち血のりをしみこませて記念とするにふさわしいかたちの場所として、その赤煉瓦壁のむきだしのすがたが、私の印象に強く刻みこまれたのだった。ワルシャワ市民が六十万人も死に、蜂起のときだけでも二十万人が殺された、われわれの時代の手のとどくところでのあの戦争のときの出来事が、どうしてこんなに私のこころをとりこにするのか。

「赤煉瓦壁のむきだしのすがた」は、たとえ「かげ」ではあっても、この歴史の厳然たる事実を素通りすることは許されない。一九四四年八月一日から十月二日までのこと。ドイツ占領軍に対してポーランド民衆の地下組織がワルシャワに結集、蜂起した戦いのことである。壮絶な市街戦が繰り広げられたが失敗、ワルシャワは焦土と化した。第二次大戦中でも、最も過酷な爪痕として刻み付けられている。(47)ワルシャワはナチスに粉々に破壊されたが、ポーランド人はこれらを「壁の傷まで」精確に復興(復元)させてみせたのである。

 この章段の最後では、「ユダヤの男だ」と思った一人の人間を描写する。「思いすごし」といった言葉をはさみながら、否定と限定と留保にとり巻かれて、ついには曖昧さばかりが際立ってくる。「私」は意識してその構図を見ようとしたのではない。しかし、島尾の内部に焼き付けられた《にんげん》のかたちは、時の経過の中で、ということは島尾にとっては「私」の抑制された表現のつみ重ねの中で、ふと意表を衝いて現われてくるものであった。記憶とはそのようなものだ。「通り去った彼の影像は私の中で、一個の物体となり、それは時がたつに従っていっそうなぞられた個性の完成に近づいて行く」という具合に。あるいはこのようにも言える。「彼がうやうやしく立っていたその場所には、なにやら彼らしい影像が宙に迷っているとも見え、また彼のからだなりにそこだけ白く抜きとられているようであり」という具合に。そしてこのような「かげ」に具体性を与えるための行為こそ、「求めて」ということであった。島尾敏雄にとって体験を書くということは、おそらくそういうことなのだ。

  1972年4月1日、奄美大島の島尾敏雄

 風は吹きやまず、名瀬に寒さが戻ってきた。風のために戸や窓が騒ぎ出すと、自分の居場所を失ったように思い、いらいらして落着きを失う。昼からしばらくのあいだ眠った。眠りはらくだが、目ざめが寂しい。寒さからの連想だけではないが、「東欧への旅」のことを思い、その執筆のことを思った。連載を始めてまる四年が経ち、ワルシャワを離れてチェコのプラハに向かうところまで書き終えていた。実際の旅は勿論のこと、それをなぞるたのしみも、事実上は終わっていたのだった。目ざめのあとの落着きのなさは、ポーランド滞在中にすでにあったことだ。(48)いらいらした気分、あの落着かぬ一羽の小鳩が胸もとに巣食い、時をえらばずにせわしい羽ばたきをやめない状態をもてあましていた。その羽ばたきの音を感じると、じっとしてはおられず、といって何をする気力も湧かないから、聞くもの見るもののすべてに感動が剥離し、確からしさがなくなってきたのだった。すでに鬱のきざしがあったのだろう。

 先月、東京に送った「ポーランドの別れ」の章では、次のように書いたものだ。

 なじんだ環境からはなれる億劫な気持の底では、旅の日々を早く新しい場所に移動させたいこころも動いてくる。ポーランドのやさしさとあつかましさがからだいっぱいにつまって飽和のところまで来ているように思う。旅先の不安は、どんな些細な行為にもひるみを生じさせ、おなじ場所にすがたをさらしていることに羞恥を生んでくるのである。刻々に流転して行くさわやかさを身に浴びるには、しかしいつも新たな不安に試みつづけられなければなるまい。(418、さらばワルシャワ!)

 しかし、その底にあるのは、どうにも慰めようもない寂しさであった。出立の準備を終えた後の所在なさを、まるで自らを看とるかのように記述したものである。

 窓下の小公園のまわりのポプラの木の数をかぞえ、十二本の中の一本だけに一枚の枯れた葉っぱがなお落ちやらずにくっついているのを発見した。それはすでに一枚も残らずに落ちきってしまったものと思っていたのだったのに。熊手で掻いた落葉の下から思わぬあおさの芝生があらわれてくるのもふしぎであった。

 そしてその章は、列車の中で『クレプシドラ・サナトリウム』(49)を読み、その後「いっこうに眠りが訪れず、さまざまの思いがまざり合ってますますまぶたが冴えて」くるところで終えた。(50)再びポーランドの地を踏むことはあるまい。プラハではまだワルシャワの余韻があった。ポーランド人たちの皮膚には私のかげが写っているように思われたのに、プラハの私は乾燥した空気の中の一粒のなにかのように感じていた。

 それにしても、この長い書き継ぎは私にとってなんだったのだろう。旅行記という記録のかたちにこと寄せて小説を書いたつもりなのか、記録を手がかりにして何かを探してゆこうとしたのか、渇きみたいなものがあって、その渇きを癒すためだったのか。(51)この連載の中でも、かつて次のように書いたものだ。

 日記のつづきを書き足しにかかった。気持に緒をひくいろいろのできごとをノートに書きつけることによって自分の執着から引き離し、屑籠に投げ捨てる気分に追いこむこと、いくらかはさわやかな気持をとりもどすことができそうだったからだ。(332、トゥシチから)

 これは朝のめざめのあとの、鬱の予兆の気分の後に続けたものだ。やはり、書くことによる癒しの効果を期待していたのだったか。

 夕食まえ、小鳥のクマが死んだ。(妻は飼う小鳥にはすべてクマと名づけていたのだが)。覚悟はしていたが、はかない思いがして家の中がくらくなった。こたつの中でドストエフスキィの「悪霊」を読んで圧倒され、自分が小説を書くなど笑止、と思っていたところだ。

 安原顕の依頼で『海』に連載することにした小説は、「日の移ろい」と題することに決めた。(52)日記を下敷きにした心の日々の移ろいということになろう。そういうかたちが、いまの自分に書けるぎりぎりのものと観念していたから。それを安原に言ったら、永遠に続けて下さいよ、と冗談とも本気ともつかぬ励ましを受けた。『東欧への旅』の連載の仕事と相乗りのかたちにはなるが、そろそろ書き始めなければなるまい。奇しくも二つの《日記作品》をしばらくは同時進行させることになる。『日の移ろい』が《日常の日々》の記録ならば、『東欧への旅』は《非日常の日々》の記録ではあるが……。そして『東欧への旅』を一冊の本にするときには、《夢のかげを求めて》を表題にしようと思う。

 妻はクマを埋めるために、風の吹く庭に出て行った。さくさくと土を掘る音がしめっぽくきこえてきた。(53)

《注》

(1)坂本一亀は河出書房の編集者として、島尾敏雄の最初の長編小説『贋学生』を世に出した。野間宏、三島由紀夫、中村真一郎、小田実、高橋和巳といった作家たちの出世作を手がけ、戦後文学に一時代を画した編集者だった。田邊園子『伝説の編集者・坂本一亀とその時代』(作品社、2003年6月)に詳しい。

(2)後に島尾はこの時期を回想して次のように語っている。「やがて私は過去を呼びもどすことが或る癒しの効果があることに気づく。(中略)今は過去とかさなり合ってこそ、その意味を明らかにしてくれると思いこむことが必要であった。(中略)旅行記も日記も、そうした過去の呼びもどしには恰好の手がかりとなるようであった。私は多分本能的にその効果をかぎつけて、旅行記と日記の書きつぎに時の流れをゆだねたに違いない。」(「文学的近況」『中央公論』1977年11月号、『島尾敏雄全集』15)

(3)この章は『日の移ろい』(中央公論社、1976年11月)の「一九七三年二月二十日」の記事を中心に構成した。

(4)第一回のポーランド旅行に同行した中薗英助は、次のように証言する。「旅の間中どこに行っても、島尾がそこで触れ合った東欧の人々とのどんな小さな触れ合い、出会いもおろそかにせず、人々の心を鋭く深く感じ取り、人々と交わる縁をつくることができた。」(「夢のかげを求めて」『島尾敏雄事典』勉誠出版、2000年7月)

(5)工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮社、1977年7月)尚、島尾は『夢のかげを求めて』では「日本語学科」と表記している。

(6)島尾には「日本語のワルシャワ方言」という題のエッセイがあり、「どこかへんなその日本語が、かえって風変わりな表現の美しさを持ったことばのようにききとられたのだった」と語っている。(『新潮』1968年7月号、『全集』14)又、島尾には本来的に方言に対する順応性があった。次の評言は親戚にあたる人のものとして興味深い。「本当に感心したのは、私の方が相馬での生活が長いにもかかわらず、彼の方が数段と相馬弁がうまいということだ。あのふわっとした濃厚な親密さを持つズーズー弁、その特徴を見事にとらえてみせる。彼の作品を読んでいつも驚くのは、その会話の部分の生き生きしていることだが、なるほど、彼は耳が鋭いのである。」(佐々木孝「島尾敏雄の東北」『筑摩現代文学大系』第62巻月報、1967年6月)

(7)「沖縄・先島の旅」(『南日本新聞』1965年1月1日、『全集』17)

(8)「沖縄紀行」(『展望』1966年8月号、『全集』17)

(9)日本から朝鮮、ツングース、蒙古、トルコタタール、フィン、ウゲリヤ、サモエードといった民族をまとめたトゥルという民族を想定し、連帯しようとする運動で、二十世紀初頭に高まった。戸坂潤『日本イデオロギー論』(岩波文庫151頁)に、次のように紹介されている。「経済学士野副重次氏によるとツラン民族なるものがあって、夫はツングース、蒙古人、トルコタタール、フィン、ウゲリヤ、サモエードのことで、準ツラン民族とは北シナ人、ブルガン族を含み、ツラン系人種の祖国はアジア、中央アジア、スカンジナビア、等を含む殆ど全ユーラシア大陸に渡っているそうである(『汎ツラニズムと経済ブロック』)。そして汎ツラニズムというのは、我がツラン人を圧迫している白人に対して、ツラン民族が団結してその祖国を奪回することを指すものである。氏によると日清、日露、満州事変などは、どれもスラブ民族に対するツラニズムの宣戦に他ならなかったそうである。」

(10)中央公論社『海』で島尾を担当していた宮田毬栄も、次のように回想している。「島尾さんは非常に耳がよくて、芝居で聴いた音楽はすぐ覚えてしまうらしく、『少女仮面』(唐十郎の作品‐引用者注)に使われた曲のメロディーを何度も口ずさんでいた。島尾さんがソビエトに行けばロシア語を、ポーランドではポーランド語を覚えてしまうのも耳のよさのせいだったろう。」(『追憶の作家たち』文春新書、2004年3月)

(11)1965年のソ連、アルメニア、ポーランドへの旅を指す。

(12)ポーランドのレーベルであるMuza盤1961年録音。ソプラノは両曲とも・Woytowicz。

(13)現在手に入るペンデレッキの「ルカ受難曲」は次のもの。NAXOS‐557149、2002年8月、ワルシャワ録音。アントニ・ヴィト指揮、ワルシャワ国立フィルと同合唱団。ソプラノはIzabella Ktosinska。1962年の作曲なので、本文で言及されているのは初録音盤と思われるが、確認できなかった。

(14)この映画については、本文でも「カヴァレロヴィチの映画を名瀬の町の映画館で見た。私にとってははじめてのポーランド映画だが、なぜあれほど強い印象を受けたのだったか」(268)とある。1961年の制作で、日本初公開は翌年の四月である。主演女優は島尾も言及しているLucyna Winnicka。

(15)「ソ連とポーランドの教会」(『毎日新聞(西部版)』1965年12月13日、『全集』14)

(16)ここで取り上げた作曲家について補足・概説しておく。

Kanol Szymanowsky (1882‐1937)ヴァイオリン曲「神話」など、この中では日本で最も知られている作曲家。

Krzyzstof Pendercki (1933‐)日本に関連して「広島の犠牲に捧げる哀歌」がある。尚、オラトリオ「ウトレンニヤ(キリストの埋葬)」のオーマンディ、フィラデルフィア響盤は、ソプラノがS・Woytowiczである。島尾が好んだ澄んだ女声を聴くことが出来る。

Alexander Komitaz (1869‐1935)民謡の作曲家、司祭、哲学者、詩人。吹奏楽曲の「アルメニア狂詩曲」でも知られる。古代アルメニア音楽の旋律の特性を現代的な響きで結びつけた。

(17)石牟礼道子との対談『ヤポネシアの海辺から』(弦書房、2003年5月)

(18)島尾伸三『東京~奄美 損なわれた時を求めて』(河出書房新社、2004年3月)

(19)小川国夫との対談集『夢と現実』(筑摩書房、1976年12月)

(20)先に筆者は「島尾敏雄『死の棘』再考」の稿に「『死の棘』のカトリシズム」の一章を設けたが、勿論じゅうぶんなものではない。(『ミネルヴァ』第九集、2001年10月。『父と兄の時間』所収)

(21)『ソヴェート文学』は、当時、群像社から出ていた雑誌。

(22)この映画は一九六七年制作の、ソビエト、ポーランド合作映画。日本でも同年のソビエト映画祭で公開されている。監督はミハイル・ボーギン。尚、ボゴモーロフはタルコフスキーの「ぼくの村は戦場だった」の原作者としても知られている。

(23)「アルメニア・ポーランド紀行」(『朝日新聞(西部版)夕刊』1965年12月13、14日、『全集』14)

(24)工藤幸雄『ワルシャワの七年』推薦文

(25)イェージイ・アンジェイエフスキは、1938年「心の秩序」でカトリック作家としてデビュー。戦時の抵抗運動を経て共産主義者となり、「灰とダイヤモンド」で名声を得たが、やがて自由主義的立場に帰った。

(26)正しくは「元代回鶻人の研究一節」、その草稿が『全集』第一巻に収録されている。

(27)タタール族は歴史上「韃靼」と呼称されており、もともとはモンゴル系の一種族。やがてモンゴル民族の総称となり、モンゴル平原に入ったトルコ系民族をも含むようになった。十三世紀に蒙古人が征西したとき、西洋人にタタールと呼ばれた。

(28)「執拗な自己凝視の果てに人間の加害力の保有において同質とし、自他の区別を無化して加害力からの救済に人間探求の方向を見いだしたのは島尾氏の独創というべきであろう。被害者・加害者はひとつの加害行為をもとにして分けた形而下的な人間認識にすぎない。人間ひとしなみに根源にかくしもつ加害力、この暗い力に罪の源泉をみ、それからの解放、つまり救済を願うとき、ぼくらはこの作家の人間凝視のかげにまぎれもないキリスト教の存在観、別のいいかたをすれば原罪観を感ずるのである。島尾氏がそのような存在観を自覚的にいだいたのはカトリック入信後のことである。」(武田友寿『戦後文学の道程』北洋社、1980年5月)

(29)「何故かしら、ポーランドが分割されてしまうと云うことで、可哀想な様な気もし、ピルスズキが日本に亡命していたこと、アイヌ婦人との間に遺児があることなども思い出され、ポーランド文学を知り度くなる。」(『日記抄』潮出版社、1981年6月)

(30)夫人の次のような証言もある。「島尾もまた洗礼を受けてから十年前後の頃には、もし叶うことなら修道院に入り、神父ではなく肉体労働に携わることの多い修道士になりたい、としきりに言っていたこともありました。」(島尾ミホ「『夢日記』に寄せて」、河出文庫版『夢日記』1992年10月)

(31)最初のポーランド旅行のときすでに島尾は、「社会主義を建前とした体制をとっているその国のなかの、九割以上もカトリック信仰者だといわれる国民の日常の生活はどんなふうなのか」という関心を持っていた。(「アルメニア・ポーランド紀行」)

(32)「アウシュヴィッツ」という語が一般的になっていたが、ポーランド人にはこの響きに抵抗があるという。占領中にナチスドイツが一方的に「オシヴィエンチム」という町の名前を「アウシュヴイッツ」と変え、強制収容所にも同じ名前を付けていたからである。また一般に「ビルケナウ」と呼ばれる当時の「アウシュヴィッツ第二収容所」も、現在ではポーランド語の村の名から「ブジェジンカ」と呼ばれている。

(33)中薗英助は次のように語っている。「(私は)永きにわたる侵略と抑圧の歴史をもつというポーランドを見るときも、ただちにヨーロッパの朝鮮というような荒っぽい発想に基づいて、この国の人を計ろうとするきらいがあった。ところがそれだけでは、旅の間にふれあった人々のきめ細かな肌合いや感覚、寡黙かと思えば饒舌な、受動的と見れば能動的でもある、政治や宗教や民族のエートスがからみあってまぎれもなくヨーロッパ文明の屋根の一つが形成されてきた基盤としての、陰翳の深い、複雑な人間性や精神のヒダヒダにわけ入ることなど、とうていできない相談だったのである。」(「島尾敏雄とポーランド」『國文學』1973年10月号)

(34)前掲『夢と現実』(最初の長編は『贋学生』、この時点では『死の棘』は長編として刊行されていなかった)。

(35)コルベ神父の事蹟については、小説ではあるが、信徒としての立場も含めて曽野綾子『奇蹟』(文春文庫、1977年)に詳しい。又、遠藤周作は『女の一生(二部・サチ子の場合)』(新潮文庫、1986年)でコルベ神父を扱っており、長崎の神父の仮住まいの跡の保存を提言したのも氏で、現在は南山手町「聖コルベ館」になっている。

(36)別の箇所では、ラジオの音から喚起される記憶として次のように書かれている。「長崎での学生のころの或る気分が濃密な層となってふと空気のなかに流れこんできたと思えた。あの南山手町十二番館では、外に出て行くことが不可能なほども重い物思いにとざされることが多かった。部屋の窓の外も私の目は絵でみたヨーロッパの風景で満たされ、私の耳には亡命ロシヤ人たちのロシヤ語がいつもひそんでいた。それが私の体験の核のひとつになっていたのかも知れない。」(二二六、ふたたびワルシャワへ)

 また、長崎高商時代を描いた「南山手町」(『扶桑』83号、1940年2月)には「南山手町十二番地」(『全集』で補正)「Clif House」と書かれている。

 更に、『名瀬だより』(未来社、1960年4月)の中では「島のカトリック」というテーマで、長崎大浦天主堂における日本キリシタンを発見する端緒となった、琉球への宣教師来島から書き起こしている。

 小説では「断崖館」(『群像』1953年6月、『全集』4)がここを舞台とし、エッセイでは『私の文学遍歴』(未来社、1966年3月、『全集』14)に詳しい。島尾と長崎との関わりについては、筆者に「島尾敏雄のNANGASAKU」(『風紋だより』2004年6月)がある。

(37)『鹿児島県立図書館報・南の窓』(1966年11月)因みに『聖母の騎士』誌は、長崎・大浦天主堂で確認したところ、2004年4月号で通巻795号を数える。

(38)主婦の友社『キリスト教文学の世界』(第7巻、1977年12月、『全集』15)

(39)『東欧への旅』連載中に、島尾は次のように書いている。「私の小説には、夢の体験を書いたものが幾つかあるが、夢は、日常とは別の次元の、習慣とかきまりから解き放されている世界の体験である。私たちはこの夢の体験によって、覚めているときには味わえぬ自由を感じることができるが、外国旅行の日々には、これに似た自由を感ずることができた。逆にいえば外国を回っているときは、夢のなかの体験に似た状態だと言えるかもしれない。したがって、外国に行ってきて初めて日本のよさを発見するとか、立遅れたところを批判する、というようなことは私にはすくない。」(「奄美・沖縄の個性の発掘」『別冊・潮』1970年4月、『全集』17)

(40)四十三日中、十七日をポーランド滞在に充てている。何よりもその記述の占める割合が問題である。ワルシャワ到着までを四十七ページ、ポーランドを離れてからが八十七ページなのに比して、ポーランドには三百五十ページを割いている。

(41)『南日本新聞』1965年1月1日、『全集』17。尚、沖縄に関する初のエッセイは古く、まだ東京在住の1954年に書かれた「『沖縄』の意味するもの」(『おきなわ』10月号、『全集』16)であり、それは夫人の健康がすぐれなくなる時期と重なる。その中に「言葉の通じない素晴らしい場所がわが国の中に確かにある、ということは、普通人々が考えている以上に歴史の停滞を救って新鮮にする重要な要素であることだ」とあることに注目する。やはり、加計呂麻島における《特攻待機体験》と、その後の夫人の存在によるものであろう。

(42)『展望』1966年8月号、『全集』17。「私の場合、どんなにのぞんだところでなることができない沖縄人に、私の長男は努力しないで加わっている。彼はからだの中にその母を通して沖縄の血を持っているのだから」とある。

(43)『サンケイ新聞・夕刊』1967年1月12日、『全集』17。

(44)『「ヤポネシア論」の輪郭‐島尾敏雄のまなざし』(沖縄タイムス社、1990年11月)

(45)「小説への接近」(『九州大学新聞』1964年5月25日、『全集』14)

(46)奥野健男『島尾敏雄』(泰流社、1977年12月)。島尾は第一回の旅のとき、モスクワで、文芸家協会の代表として訪ソ中の奥野と会っている。この書の中で次のように語っているのが、本文「トウシチへ」の部分と符合する。(中薗英助も前掲書で同じことを語っている)。「一九六五年秋の旅行の際、ポーランドの列車のコンパートメントの中であったポーランドの姉妹が、ワルシャワについたとき降っていた雨に是非ともと貸してくれた雨傘を返しに行く旅なのだ。その姉娘から、自分の結婚式に是非出席してくれという招待状がとどいたこともあり、その結婚パーティーに参加することもあった。」旅の動機としては些細なことには違いないが、島尾の場合は見過ごせないことである。

(47)ワルシャワ蜂起は、アンジェイ・ワイダの映画「地下水道」(1956年)で世界的に有名になった。近年ではロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」(2002年)が評判になった。

(48)「朝の目ざめのあとなんだか気持が落着かなかった。不安な休息のようで、胸もとのあたりがざわざわする。微小な不吉の鳥が予兆におびえて胸の中で羽ばたいているような気分だ。別にはっきりした理由があるわけではないから、どうしていいかはわからない。とにかくせっかちな気分が湧きたって、なにともしれずもう手おくれかもしれないなどとあせってくる。やっぱりその日は来たか、という絶望の気持に時おり襲われるのはどういうわけだろう」(331、トゥシチから)とある。

(49)この場を借りて、島尾が東欧の旅の期間中に読んだ本を記しておく(本文では触れることが出来なかったもの)。「ポーランドの小説をポーランドで読むと行間の体臭のようなものがまっすぐしみこみ、ポーランド人の存在が私のからだの底に蓄積されてくる」(310、トゥシチへ)と語っているので。

 イヴァシュキェヴィッチ『尼僧ヨアンナ』は、本文中に「一冊の書物から破りとった工藤訳」(90、ワルシャワの町歩き)とあるが、刊本は確認できなかった。現在入手しやすい関口時正訳の岩波文庫版に「神が世界を創ったのなら、なぜこの世にこれほど多くの悪が存在するのか? 死も、病も、戦争も?」とあるのに注目した。イヴァシュキェヴィッチの小説は、島尾のそれと同じく、政治性を前面に押し出すことは殆どない。ただここでは、ヨアンナと聖職者とに、被抑圧者ポーランドと圧制者ソビエトとの関係図式をよみとる見方もある。

 「ゲイシュトル他二氏共著の『ポーランド文化史』(255、ニェポカラヌフへ)とあるのは、アレクサンデル・ギエイシュトル他著、鳥山成人訳のもの(弘文堂、1962年)。

 また最後に、工藤幸雄から現地で贈られたと思われるシュルツの『クレプシドラ・サナトリウム』を読んでいる。シュルツは、ゴンブロヴィッチと共に1933年に登場したポーランドの作家。1956、7年スターリンの名誉失墜と引きかえに非リアリズム作家として名誉が回復された。シュルツはユダヤ人であり、カフカの没後十二年、1936年に『審判』のポーランド語訳も出している。

(50)この後は記述のいそぎが見られ、「本当はそれらを私はもう思い起こすことができない」とか、「記憶の底から呼びもどすことができない」、「余分ながら書き添えておこう」といった《書いている現在》からの視点が目立ってくる。経験した現実の時間から、それを言語化する時間までのあいだにかなりの隔たりがあり、しかもその距離は末広がりに拡大してゆく、という島尾文学の特質のせいである。

(51)前掲、小川国夫との対談『夢と現実』での発言による。

(52)安原顕『まだ死なずにいる文学のために』(筑摩書房、1986年6月)に、島尾は「安原顕の受容」という文章を寄せていて、『日の移ろい』の執筆の頃の事情を語っている。

(53)この章は『日の移ろい』の冒頭、「一九七二年四月一日」の記事を中心に構成した。

『夢のかげを求めて』関連、参考文献

*中薗英助「島尾敏雄とポーランド」(『國文學』1973年10月号)

*工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮社、1977年7月15日)

*奥野健男『島尾敏雄』(泰流社、1977年12月25日)

*岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭—島尾敏雄のまなざし』(沖縄タイムス社、1990年11月26日)

*関根愛子『慰撫と焦燥—わたしの沖縄』(ロマン書房本店、1993年3月28日)

*青山毅『島尾敏雄の本』(私家版、1993年9月3日)

*久井稔子『島尾敏雄・ミホの世界』(高城書房出版、1994年3月21日)

*本村敏雄『秧鶏の旅』(ゆまに書房、1994年11月10日)

*宇波彰「島尾敏雄論—『夢の影を求めて』を読む—」(『新日本文学』1996年3月号)

*西成彦「島尾敏雄のポーランド」(『ユリイカ』1998年8月号)

*堀江敏幸「気鬱の子午線」(同前)

*他に、日本シマノフスキ協会編『シマノフスキ・人と作品』(春秋社、1991年5月20日)を参照した