1 はじめに ―「薩長史観」と「公議政体派」史観―
幕末の倒幕派すなわち薩長両藩の指導者こそ、徳川治世の封建制を打ち破って明治維新という未曾有の大変革を指揮し、我が国を近代国民国家に変容させるのに最大の貢献をした人々、すなわち新生日本建国の父である、と位置づける歴史観を「薩長中心史観」、略して「薩長史観」と呼ぶ。薩摩藩出身の西郷隆盛と大久保利通、長州藩出身の木戸孝允の三人を称して「維新三傑」と呼ぶ表現法が、この歴史観を端的に表している。
「薩長史観」では、倒幕派の薩長両藩は開明的な「善」とし、対する幕府や会津藩を中心とする佐幕派は、蒙昧な「悪」とされる。実際、戊辰戦争では、倒幕派は旧佐幕派諸藩を「賊軍」と呼んで戦いを仕掛けた。
この「薩長史観」は、倒幕派とその後継者が支配する明治政府の下で官製史観となり、長く固定化された。徳富蘇峰や早川喜代次らの貢献により、戦前の教科書の戊辰戦争の項から「官軍」と「官軍に敵対云々」との文字が削除されたのは、ようやく昭和十年代に入ってからのことである(早川喜代次『徳富蘇峰』)。
しかし、未だ現在の明治維新に対する歴史認識も、本質的には、この薩長史観が基礎になっている。すなわち、幕末、幕府や佐幕派は「私」を守るのに汲々としたが、倒幕派は「公」すなわち国家を第一に考えた。維新の英雄は「維新の三傑」その他の倒幕派の人々であり、我が国の近代化は、彼ら「明治の元勲」が指導する官僚政府によって導かれた。ゆえに、我が国の改革は、常に上(政府)から与えられたもので、市民が血の代償を払って勝ち得た得たものではない。だから我が国にはいつまでたっても民主主義が根付かない、などという記述は、明治維新と近代日本のありさまを説明する歴史書にありふれたものである。
しかし、この薩長史観は、本当に事実に立脚した、的を射たものであろうか。
筆者は本論考を通じて、この薩長史観とは対局に立つ新しい歴史の見方を提示し、それによって薩長史観は、もはや成り立つものではないことを論証する。
筆者の新しい近代日本史理解の鍵となる概念は「公議輿論(世論)」と「公議政体」である。そこで、この概念を中心に明治維新と近代日本史を眺める歴史の見方を便宜的に「公議政体派」史観と呼ぶこととする。
2 公議輿論と公議政体
公議とは公正な議論(公論)、輿論とは世間一般の議論(民意)のことである。そして、公議輿論派とは、公論や民意に基づいて政治を行おうとした人々のことである。
公議輿論という言葉自体は、幕末に一般化したものだが、それに基づいて政治を行う考え方は、決して、幕末に欧米列強から輸入されたものではない。むしろわが国は公議輿論の尊重に関して、世界屈指の歴史を誇っている。それは、今から千四百年近くも前の604年に聖徳太子が定めた十七条の憲法に「それ事は独り断むべからず、必ず衆と宜しく論ふべし」とある通りである。平安時代には、太政官における公卿らの会議によって国政が行われた。中世には、一致団結の意味の「一揆」とよばれる合議の伝統があり、徳川幕府でも老中間の合議による意志決定が行われた(坂本多加雄『明治国家の建設』)。
こうした日本の伝統的な意志決定様式を国政の最高レベルで、かつ、従来にない広範な範囲で拡張的に適用したのが実に徳川幕府であった(坂本、前掲書)。すなわち、嘉永6(1853)年のペリー来航の際、その開国要求をつきつけられた幕府では、老中阿部正弘が、多方面に意見を諮問するという従来にない措置を取った。彼は、広くアメリカの国書を示して、その要求を容れるかどうか、たとえ幕府の忌み嫌うような意見でもよいから、思う存分のことを述べるようにと意見を求めた。諮問先は単に諸大名だけではない、幕府の役人や諸藩士、はては一般の者でも、良い考えがあれば申し出よと告げ、これに応じた者は、大名だけでも約250名、幕臣ら約450名。庶民も含めて、合わせて約700名に近い答申書が集まった(小西四郎『開国と攘夷』)。それ以来、公議輿論を尊重するという考え方が急速にわが国に広がっていったのである。
この公議輿論尊重の考え方の延長線上に公武合体論が展開され、さらにそれが西洋議会制度の知識で洗練されると、公議政体論が生まれる。
公武合体論は、朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方である。この考えの下で、和宮が降嫁し、さらに、文久3(1863)年、徳川慶喜、松平容保、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、島津久光による参預会議が実現している。
一方、我が国における西洋議会制度の知識の普及は、幕府側の人物が率先してこれを行った。中国で出版され、我が国の幕末の西洋議会制度研究の二大バイブルとなった『海国図志』と『連邦志略』の翻刻出版は、いずれも、幕府お抱えの蘭学者箕作阮甫らの手によるものだし、西洋の近代文明の紹介はもとより、アメリカ、オランダ、イギリスの歴史・政治・軍政・財政などを詳細に説明し、アメリカの憲法全文まで掲げて、明治政府の新政策の拠りどころとなった『西洋事情初編』は、幕臣の福沢諭吉が、慶応2年に著して、幕末には既に、世間に広く普及していた書物である。開成所教授の加藤弘蔵(弘之)も、慶応4年に「立憲政体」の熟語を冠した『立憲政体略』を著したが、本書は明治初期の我が国の政治学の教科書となっている。
彼らの努力による西洋議会制度知識の普及によって、公議輿論による政治を実現するために、幕藩政治に代わって、公武が合体した上で議会を設けて、三権を分立させて国政を行おうとする立憲政体樹立の考え方が生まれた。
この立憲政体を唱えた人物としては、土佐の坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟、越前の橋本左内・三岡八郎(由利公正)、熊本の横井小楠らが有名であるが、最も早く唱えた人物の一人は、実は幕臣の大久保忠寛であった。大久保は、文久2(1862)年、時の政事総裁職松平春嶽に、幕府が政権を返上し、大名他臣民まで含む議員による大公議会(国会)と小公議会(地方府県会)を開設するよう建白を行っていたのである。戊辰戦争で西軍と徹底抗戦した大鳥圭介も、未だ幕臣に取り上げられる前の元治元(1864)年、幕府に上下両院の評議館を設け国政運営するよう建白を行っていた(尾佐竹猛『維新前後に於ける立憲思想』)
会津藩では、山本覚馬が公議政体論を抱いていたことが、史料によって明確に裏付けられる。王政復古後の慶応4(1868)年6月、幽囚されていた彼が薩摩藩主宛に提出した論文『管見』には、三権分立、大小議事院の二院制などが述べられていた。なお、覚馬はこの論文の中で、廃刀と徴兵制、そして、「封建」から「郡県の姿に変ずる」という廃藩置県まで唱えており(同書「国体」欄)、これらの議論は、彼をもって、我が国における嚆矢と言っても良い程早い時期のものだ。翌明治2年、森有礼は、新政府の議会である公議所に「御国体之儀ニ付問題四條」を提出、同所で初めて「郡県」制と「封建」制の是非が議論された。森は覚馬が『管見』を提出した薩摩藩の出身者で、公議所に廃刀案さえ提出しているのだから、筆者は森の政治論に覚馬の影響を強く感じるのである。その他、会津藩ではおそらく、洋学を修めていた秋月悌次郎や洋行経験者の海老名軍治、幕末の知識人と広く交際した神保修理らが、仙台藩では大槻磐渓や但木成行らが公議政体思想を抱いていたであろう。仙台藩の玉虫左太夫は実際に公儀政体論を力説した人物である。
なお、公議所とは、政府の「政体書」に従って組織された我が国最初の立法府で、後に見る五箇条の御誓文を現実政治に活かすための議会であった。これも、読んで字の如く政府の公議政体派がつくったものだ。そして、そこで議論された「郡県」制と「封建」制の是非の結果だが、郡県制を是とするもの103藩と昌平学校、封建制を是とするもの102藩であり(中村哲『明治維新』)、諸藩の藩士からなる議会であったのにもかかわらず、藩を潰して郡県を敷くべし、との郡県論が優勢となった。幕府の最高学府である昌平学校が「郡県」制を主張した意味は大きい。ところが、旧討幕派の薩長藩閥政治家が支配する新政府は、これを時期尚早として拒否し、公議所を政府の方針に反対を唱えるものと厄介視して、立法府である公議所をつぶして、集議院という単なる諮問機関に変えてしまったのである(尾佐竹、前掲書)。
3 公議政体と大政奉還
公議政体論の集大成ともいえるものが、慶応3年10月14日(1867/11/9)の徳川慶喜による大政奉還と公議政体樹立の奏上である。普通、このことを「大政奉還」の奏上とのみ言うが、大政奉還だけでは、政権を投げ出しただけの無責任な建白になり、いやしくも、それまで国政を担っていた将軍職の行う行為ではない。実際には、大政奉還の上奏文に「従来の旧習を改め、政権を朝廷へ帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、ともに皇国を保護仕り候わば、必ずや海外万国と並び立つべく、臣慶喜、国家につくすところこれに過ぎずと存じ奉り候」とあるとおり(山川浩『京都守護職始末』)、慶喜は、政権を朝廷に返したのちは、「広く天下の公議を尽くし」て、天皇の決断を仰ぎ、諸侯と心を合わせて協力し、彼らと共に我が国を安んじ守りたい、それが自分として国家につくす最大の行為である、と、公議政体による国家運営を奏上しているのである。前日、既に慶喜は、二条城に在京五十余藩の重臣を集めて、この考えを諸藩に伝え、今後の国政に対して忌憚のない意見をのべるよう指示しており、上奏文には、このことも記されている。
慶喜はあくまで公議輿論を重んじた公議政体の樹立を考え、また、それに着手していた。
この大政奉還は、直接的には、土佐藩主山内容堂が同藩の後藤象二郎と福岡孝弟をして幕府に建白させたことを契機とするが、その建白書別書には、京都に立法府として上下二院の議政所を置くべきことが述べられていた(尾佐竹、前掲書)。
同年10月3日、慶喜は、土佐藩からの建議を受けると、京都守護職・会津藩主の松平容保を召し、この建議を示して採納するつもりでいるとの意中を告げた。容保はその議に賛成し、慶喜の英断を賞揚した。すなわち、容保も公議政体派であった。それから、容保は家臣を集めて、「今や大将軍は、大義に照らし、時勢に鑑みて、断然明決された。これよりはその意を体して、ますます忠誠を尽くし、万一の報効を務めねばなるまい。汝らも、よくこの意を体し、努力して事に従え」と諭した(山川、前掲書)。ここにいう「万一の報効」とは、容保が、公議政体成立後に何らかの役割に預かった場合のことを想定して述べたものである。なお、土佐藩の後藤は、幕府に大政奉還を建議すると、会津藩にもその議に賛成してほしい旨直接告げてきた。会津藩では、外島機兵衛、手代木直右衛門らが彼を応対している。
大政奉還と公議政体樹立は、幕末の我が国が選択すべき最良の政治判断であった。なぜならそれは、幕府の政権を朝廷に返し、朝廷の下で上下両議会を設置して、議会もしくは行政府の長が、天下の公論を以て政治を行うことであるから、倒幕論の根拠は消え、戦争の惨禍を避けて平和裏に新しい政治体制に移行できるからである。この場合の上下両議会とは、当時の概ねの議論では、上院が諸侯を議員とするもの、下院が藩士の中から有能な人物を議員とするものであり、一般庶民まで下院に登用すべきとする議論もあった。
公議政体論とは現状維持論であり、大君独裁制である、従って、もし、王政復古のクーデターが無く、現実に公議政体が樹立されていたら、廃藩置県も起こらず、我が国は近代国民国家に脱皮できず、その後も依然として封建国家の暗黒世界の中にあり続けたであろう、などと主張する論者がいるが、その議論は事実に反していて成り立たない。慶喜の大政奉還の奏上を朝廷が裁可した時点で、法的には幕府は消滅するのだから、それ以後は、もはや幕藩体制は成立せず、従って、各藩が成立する根拠も無くなることになる。加えて、既に述べたように、当時は西洋の立憲政体の知識が広く知られており、その知識を持った有能な人物が公議政体に参画するのだから、早晩、封建制が自己崩壊するのは目に見えていた。事実、大政奉還と公議政体樹立を決意した慶喜は、顧問の西周に「憲法草案」をつくらせたのだが、その「憲法草案」は、慶喜の独裁を狙っておらず、アメリカ合衆国の連邦制のような三権分立と幅広い地方自治をうたっており、その将来には、各地方の国柄を活かした豊かな近代国家の姿も垣間見ることができるのである。西の「憲法草案」を論拠に慶喜の独裁制樹立の野心を主張する論者もいるが、その議論は、西の「憲法草案」全文を通読せず、都合のよい部分のみ引用した「為にする」議論である(西の「憲法草案」は尾佐竹前掲書に全文が掲載されている)。わが国の憲政史の権威尾佐竹博士が述べたように、慶喜は当時、わが国の「憲政の第一人者」であった(尾佐竹、前掲書)。さらに、これは重要なことだが、諸藩の藩士からなる明治政府の公議所では、現実に、封建制を廃止し、郡県制を立てるべし、との結論が出ているではないか。この公議所は、慶喜らによって公議政体が樹立された場合にも、下院として全く同じように組織されたはずなのである。
周知の通り、倒幕を進めていた薩長両藩は、天皇の御名を利用して「倒幕の密勅」という偽勅を作って武力倒幕を目論んだが、慶喜の方が一枚上手で、すんでのところで大政奉還と立憲政体の樹立が奏上され肩透かしを食った。
同年11月10日、大政奉還の勅許が出て、徳川の治世は終わった。そして、場面は公議政体樹立の検討へ進むはずであったが、倒幕派の薩長両藩は、公議政体では、大政奉還後も政治の実権が慶喜に帰し、自分たちがそれを握れないと判断して、岩倉具視ら倒幕派の公家と謀ってこれを潰すために「王政復古のクーデター」を起こした。それは、公議政体という、議会を開き、三権を分立させ、民意を活かした政治を行おうとする立憲政体論を否定し、天皇による直接統治(「天皇親政」)を宣言したもので、これによって、平安時代中期に藤原良房が摂政となって以来、鎌倉、室町、江戸と約一千年にわたって我が国の歴史に綿々と続いてきた「不執政の天皇」(今谷明『象徴天皇の発見』)制すなわち象徴天皇制という我が国の良き伝統は破られたのである。そして、倒幕派は、その新しい統治機構の人事を発表したが、そこには、慶喜や容保など徳川側の要人の名は無かった。新政府は、当時最大の政治的実力者である慶喜や容保を閉め出した、公議にもとる不公平で歪んだものだったのである。
もし、このとき、公議政体が樹立されていれば、象徴天皇制の伝統は継承され、為政者は国民から常に政治責任を問われながら国政運用を行うことで、我が国に健全な民主主義が発展する可能性が極めて高かった。しかし、現実には、明治新政府は、天皇の御名を利用して巧妙に政治責任を回避し、国民の権利を制限した上で近代化を強力に推し進めた。その結果、わが国における民主主義の発達は藩閥政治の打倒という歪んだ形でしか進められられないことになった。
倒幕派とその継承者すなわち藩閥政治家による権威主義的政治体制であったからこそ、我が国の近代化は達成されたのだ、との議論もあろうが、法思想史の泰斗である深田三徳教授は、各国の学者の実証的な研究を検討した上での結論として、経済発展のために人権の制約が必要であるとする主張はもはや成立しないことを明らかにされている(深田三徳「人権の普遍性をめぐる諸問題(二)」)。
筆者は、我が国の近代化には、大久保利通ら明治の元勲の強力なリーダーシップは全く不必要であった、と考える。
いったい、彼ら自身が我が国にもたらした物は何だったろう。政治的安定を挙げることはできない。戊辰戦争や西南戦争、様々な反政府運動など、数多くの戦争や混乱が引き起こされたからだ。近代政治制度?いや、郡県制や憲法は、公議政体でも生まれたし、憲法などは、むしろ現実よりも早期に制定されていたはずだ。統一国家と国民?公議政体が樹立されていれば、我が国は、アメリカ型の連邦制に似た政治体制になっていた可能性はある。しかし、そのどこが問題だろう。連邦制国家も一個の国家である。むしろ、現在の我が国のように、何でも東京、という中央集権・一極集中型国家にこそ、弊害が多い。現に、現在、地方分権化が進められているではないか。四民平等と市民的自由?確かに、士農工商の身分差別撤廃は明治政府が初期に行った優れた業績だ。しかし、この「四民平等」はスローガンに過ぎず、現実には、政府は、華族・士族・平民と新たな階級をつくり、やがては華族を特権階級化して権勢を振るい始めた(拙著、『蘇峰先生の根本精神』)。加えて、江戸末期、すでに四民の身分差別は崩れており、多くの有能な庶民が幕府や諸藩に登用されていた。そして、公議政体で民意が反映されれば、早晩、四民平等と庶民の参政は実現したはずなのである。さらに言えば、穢多非人等の賤称の廃止は、実は、加藤弘之の幕臣時代以来の持論に依るものなのである(尾佐竹、前掲書)。急速な近代化?確かに、政府の強力な主導によって我が国では急速な近代化が進んだ。しかし、それが生んだ物は、財閥の跋扈や政財の癒着など、否定すべき物も多い。すでに近代化の芽は幕末から生じていたから、公議政体下でも緩急の差はあれ、近代化は進んだのである。
一方、明治の元勲は、謀略と暴力、戦争、民衆の抑圧、官吏専制と官尊民卑の風土、近隣の朝鮮や中国を侮る「日本型華夷秩序」観、幕府の一流外交官を追放して素人外交に依って起こした隣国李氏朝鮮との関係の最悪化、地方特に東北の蔑視、道徳の崩壊などを確実にもたらした。暴力によって社会秩序を破壊し政治権力をものにした明治維新の悪例は、閔妃暗殺や昭和時代のさまざまなテロ、軍部内の下剋上などを正当化した。テロリストや軍部が「昭和維新」を唱えたことが、なによりそれを物語る。
著者はここで、「天皇制」に新たな、そして史実に即した正確な定義を与えたい。
「天皇制」とは、天皇が絶対的な権力によって国家を支配することではない。正しくは、政治の実権を握った倒幕派およびその後継者である藩閥政治家が、天皇の御名を利用して自己の政治支配を絶対化した政治の一形態であり、のちに議会はつくったものの、本質的には、常に天皇の御名を持ち出すことによって国民の政治批判を許さず、国民に対する政治責任を回避する政治システムのことなのである。それは、民意に基づく政治運営を行う象徴天皇制下の公議政体とは対局に位置する。従って、「天皇制」では、実は、天皇も利用された立場であり一種の被害者でいらっしゃる。倒幕派は、幕末から、天皇を「玉」という政治力学上の道具として扱い、私意のために偽勅を連発するなど、天皇を常に政治に利用してきた。対して、公武合体派のちの公議政体派の容保は、天皇を利用することなど一切考えず、逆に、孝明天皇の意に忠実に従って奸党を君側から追放し、彼らに利用されてお悩みであった天皇の辰襟を休ませ奉るのに大変な功績があった。しかし、そのことで、孝明天皇の存在を憎んだ倒幕派は、ついに天皇の毒殺にまで及び、幼帝という「玉」を擁することで政治権力を手中に収めた。孝明天皇の毒殺説は、天皇の崩御当時から論争が生じてが、戦後に当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が公開され、伊良子の子孫である医師がそれを分析した結果、天皇の崩御は急性毒物中毒の症状によるものと断定され、論争に決着がついている(佐々木克『戊辰戦争』)。恐れがましくも天皇を暗殺してすげ替えるまでして天皇の御名を利用し、自己の政治権力を絶対化させた倒幕派がつくった「天皇制」は、国家全体の利益よりも自己の利益を最優先させる官僚主義を国家機構の隅々まではびこらせ、ついには、我が国を亡国の淵にまで追い込んでいったのである。
従って、これらの収支決算をすれば、維新の元勲の功績は、明らかにマイナス超過で断固否定すべきものなのである。
王政親政のクーデターを起こし、慶喜を閉め出した倒幕派は、更に慶喜だけに辞官と納地を迫った。対して、慶喜は、憤激する旗本や会桑両藩の藩士を慮り、かならずそれを行うが、しばし猶予が欲しいと回答した。そして、京都での武力衝突の事態を避けるためにいったん大阪城へ下がることを決め、容保や松平定敬(桑名藩主・京都所司代)も会桑藩士を率いてこれに従った。
その後、朝堂では、山内容堂や後藤象二郎らが熱心に動いて、もともと圧倒的多数派であった公議政体派が優勢に立ち、慶喜だけに対する懲罰的扱いを取りやめさせることに成功した。そこで、慶喜が、朝命を受けて上洛し、辞官納地を受け入れることが決まった。ここに至って、もともと朝堂内で少数派だった倒幕派は追い込まれ、窮地に立った。
焦った倒幕派はとんでもない奸計を弄す。すなわち、西郷隆盛は、浪人を雇って江戸や関東各地で放火略奪など暴虐の限りを尽くさせ、徳川側を挑発したのである。実に西郷は、権謀術数に長けた人物であった。
そのため、憤懣やるかたない慶喜は、朝命の上洛の人数を増やして、薩摩の奸党を引き渡す様ご沙汰下されるべし、万一ご沙汰無き場合は、やむを得ず君側の奸に註戮を加えたい、との上奏文を提出した上で幕府軍や会桑軍を従えて慶応4年1月2日(1868/1/26)上洛の途についた。
ところが、翌3日午後、伏見と鳥羽の両口に分かれて入洛しようとする慶喜の一行を待機していた薩摩藩が阻んだ。朝命であるから通してほしい、いや確認するまで待たれよ、との押し問答の中で、突然、鳥羽口を固めていた薩摩側が発砲、徳川側は総崩れになりつつも防戦し、伏見口でも戦端が開かれ、ついに戊辰戦争の火ぶたが切られた。
非常に重要であるのに、いままでほとんど指摘されていない事実がある。実は前日、大久保利通は西郷に、慶喜が入洛しては我々に勝ち目はないから、機先を制して戦争を起こそうとの手紙を出し(『大久保利通文書二』)、当日早朝に、開戦方法を打ち合わせていたのである。すなわち、討幕派は、機先を制するために、あらかじめ伏見・鳥羽で開戦することを決めていたのである。充分作戦を練っていた倒幕派の軍と、まさか開戦になろうとは思いもよらなかった徳川側の軍との戦いだ。勝利は前者に帰するほかなかった。
すなわち、戊辰戦争は、大政奉還後に公議政体派が主流になった政治情勢の中で、公議政体の樹立を阻止し、政治の実権を掌るために倒幕派が仕掛けた戦争であった。
さらに、倒幕派は、この機に乗じて徳川側に賊軍の汚名を着せて朝堂の指導権を完全に握り、幕府軍や会桑軍の討伐に乗り出した。
事ここに至って、わが国のもう一つの近代化路線=民主的で多様な地方自治への発展をも内包した公議政体の樹立は、永久に叶わぬものとなってしまったのである。
そして、謀略と暴力を用いて政治を支配することが、維新以降終戦までの我が国の近代史の中で悪しき伝統として形成されることになった。
しかし、公議政体派は、次にみる五箇条の御誓文の精神を生み、自由民権運動、大正デモクラシー下の普通選挙と軍縮運動へと、その系譜を連ねる人々が暗澹たる我が国の近代史に光の一条を放ち続けることになる。
4 五箇条の御誓文と戊辰戦争
戊辰戦争が勃発した当時、緒戦に勝利した倒幕派軍が、いくら自ら官軍と称しても、世間の信用は低かった。どうせまた長州や薩摩が天下取りをねらったのであり、どちらかの藩から新たな将軍でも出るのであろう、などというかなり的を突いた風評も流れる。いつの時代も世間の目は確かなものだ。ただ、関ヶ原の合戦の場合と違って、薩長が表向き天下を取れなかった理由は、倒幕派の大義名分が尊皇であったことと、薩摩も長州も単独では徳川側に対抗する力は無く、徳川を倒すためには、公家や公議政体派の諸藩の力までも必要とした点にあった。
さて、王政復古は宣言しても新政府としての財政基盤は無く、新たに仕掛けた戦争も戦費の調達先となると苦しい。なにより、疑心暗鬼の諸藩を徳川から引き離し、親政府側に結集させなければならない。そこで新政府には、諸藩と豪農富商の信用が得られる大方針を立て、さらに、諸藩と軍事同盟を結んで徳川側に寝返りをさせない必要がどうしてもあった。それが御誓文発布の動機である(尾佐竹、前掲書)。そこで、横井小楠の弟子で公議政体派の由利公正が五箇条の大方針の原案をまとめ、土佐出身で同じく公議政体派の福岡孝弟が加筆し、最後に倒幕派の木戸孝允がそれを添削して国是を確定した。この三人の中では、由利公正の原案が最も優れており、「貢士(政府の役人)期限を以て賢才に譲るべし」すなわち官吏の任期を限定し、「万機公論に決し私に論ずるなかれ」すなわち公議に則る政治をおこなうことが主張されていた。このうちの「万機公論」云々が、福岡案で「列侯会議を興し万機公論に決すべし」と直され、木戸もギリギリの段階まで「列侯会議」にこだわっていた(高橋富雄「京都守護職の論理と倫理」)。ところが、既に慶喜からは、「広く天下の公議をつく」すべし、と新しい政治の理想を突きつけられている以上、新政府のそれも、慶喜と同等以上の高い理想を掲げなければ諸藩の理解は得られない。その配慮がぎりぎりの段階で働いて、「列侯会議」の文字が消えて、「広く会議を興し万機公論に決すべし」という正文が生まれたのである。
すなわち、五箇条の御誓文は、新政府の疑義を糺した慶喜・会津藩・桑名藩ら徳川側が血の代償によって政府からその発布を引き出し、慶喜を含む公議政体派がその内容を規定した、と言い得ることが出来るのである。ただし、木戸は、役人の任期の限定を定めた条文があったのでは、自分たちが政治の実権を握り続けることが出来ないと考えたからであろう、この条文を削除した。その代わりに彼は、「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」との条文を加えた。ここで言う「天地の公道」とは、「万国公法」(近代国際法)のことだ(尾佐竹、前掲書)。新政府は、弊習を捨て万国公法に基づいた国政運用を行うことを宣言して、列強に幕府時代の条約を破棄せず開国政策を堅持することを宣言したのである。旧政府が結んだ条約を維持することは、万国公法上、新しい政府が外国から承認を受けるために必要な要件であった。そこで、新政府は、手の平を返すように、今まで倒幕論の根拠としていた自説の鎖国攘夷論を放棄したのである。この点だけを挙げても、倒幕派にとって、鎖国攘夷論はまさに為にする主張であったことが分かる。
なお、五箇条の御誓文は、当初は、天皇が、軍事同盟条約として、天皇側の諸侯と取り結ぶ予定であった。しかし、岩倉などから、その形式では、武力や権謀を用いて国を治める中国の覇道政治と同じだとの批判が為されたため(尾佐竹、前掲書)、天皇が天地神明にこれを誓ったのち、公家、諸侯、百官がこれに誓約署名する、という形式に改められた。しかし、軍事同盟としての性格が変わらなかったことは、江戸城総攻撃予定日の前日(慶応4年3月14日)にこれが行われたことが物語っている。さらに、御誓文が天地神明に誓うという形式をとったためにかえって、諸侯は、その後の政府の決定に異議を唱えることが出来なくなった。同盟条約なら改訂すればよいが、天地神明への誓いとなると、容易に変更するのは難しいからである。これを版籍奉還、廃藩置県などがすんなり進んだ理由の一つに挙げることができよう。
明治政府は、五箇条の御誓文を現実政治に活かすために同年4月に「政体書」を発したが、その起草者は、慶喜に大政奉還と公議政体の樹立を建白した人物の一人、福岡孝弟であった。「政体書」には、立法・行政・司法の三権を分立させた民主的な政治が謳われていた。ところが、それによって出来た我が国最初の立法府である公議所は、前に見たとおり、薩長藩閥政治家が支配を確立した政府の当時の方針に反する郡県論を主張した。そのために、公議所は、政府によって潰されてしまった。議会が行政に異議を唱えることは、議会の大きな存在価値の一つであるにもかかわらず、新政府は、それを拒否して立法権まで掌握してしまったのである。新政府は、設立当初から、五箇条の御誓文の精神を踏みにじっていたことになる。
五箇条の御誓文は、その後、戦後に至るまで、政府が掲げるよりも、政府に対して民主主義を要求する側が、その運動の旗印として掲げることになった。昭和天皇さえ、敗戦後に五箇条の御誓文を戦後改革の方針とするよう訴えられておられたのだから、血の代償によって政府からその発布を引き出した慶喜・会津藩・桑名藩ら徳川側と、その内容を規定した慶喜を含む公議政体派の功績は非常に大きい。
5 万国公法と戊辰戦争
新政府は、五箇条の御誓文で万国公法に基づく政治を行うことを天地神明に誓い、国内外に宣言したが、戊辰戦争では、あきらかにこれに違反した行為を重ねた。
そもそも万国公法は、開国後、幕府の開成所が、アメリカの国際法学の碩学ホィートン著マーチン漢訳の『万国公法』を翻刻出版して我が国に広めたものである。さらに、幕府の西周は、オランダに留学してフィッセリングから国際法の講義を受け、帰国後の慶応2年、それを訳出した。それから西は、慶喜に招聘されて入洛し、会津藩の山本覚馬と親交を持ちつつ、翌3年、洋学所を開いて万国公法の講義を行った。その洋学所には、自らも洋学所を開いていた覚馬をはじめ、会津、桑名、越前など、公議政体派の諸藩士が通った。倒幕派が権力奪取の策謀に執心していたころ、公議政体派は、世界最新の法制度を学んでいたのである。
従って、新政府成立時、すでにホィートン版の『万国公法』の内容は、世に知られていた。討幕派が主導権を握った新政府は、その内容を了解した上で万国公法に基づくことを宣言したのである。新政府はさらに、慶応4年4月前後に、西の翻訳版を「官版」として出版までしている。
慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いの後、新政府は、徳川側を滅ぼし、あわせてその領地を朝廷領として奪うために、慶喜の所業は大逆無道であるとして「慶喜追討令」を出した。ところが、この興戦理由そのものが、万国公法違反なのである。政府の出版した前述フィッセリング著万国公法の第三巻「戦時実定法条規」第一章「興戦の権」に「昔時は、他国に対して出兵するためには、敵が野蛮であるとか、偽の宗教を奉るためとか、キリスト教に敵対するためとか、カトリックを誹謗するためとか、他国が強大になるを見て警戒心を抱いて予防戦争をするためとか、このようなよそ事の理由をもって興戦の権利としていた」、「しかし、近ごろの実定国際法では、すべてこのような事を興戦権の根拠として出兵の名目にすることは極めて排斥されるべきことである」、「近ごろの実定国際法では、国の興戦権はただ自国を守るためと、他国の同盟した国を保護救済するためだけにある」、「実定国際法において、国内の戦争にあっても、その相戦う両党双方共に、この戦時条規に準ずる内容を受け入れる」とある(西周訳述「万国公法」、拙訳)。すなわち、万国公法は、戦争は対外戦争でも内戦でも、ただ自衛と同盟相手の保護救済だけが興戦の理由として成り立つのであり、相手が大逆無道だから、などという理由は、興戦の根拠としては極めて排斥されるべきものと定めているのである。
一般的には、第一次戦争後の不戦条約の発効までは、自衛戦争以外の戦争も認められていたと言われているが、維新当時、我が国が守ると誓った万国公法では、既に、自衛戦争もしくは同盟国救済のための戦争だけを認めており、他国に攻め入って、領土、財産、人命などを奪い取るための「侵略戦争」はもちろんのこと、国際紛争を解決する手段としての戦争も明らかに禁じていたのである。ところが、倒幕派が主導権を握った新政府は、万国公法の遵守を宣言しておきながら、実際は、それを踏みにじり、徳川側を滅ぼしてその領地を奪取するための戦争を開始した。さらに、恭順した会津藩が謝罪を嘆願してもそれを容れず、ついに会津と東北に対する「侵略戦争」にまで踏み込んで行ったのである。
戊辰戦争が万国公法違反の東北「侵略戦争」(東北側からすれば「祖国防衛戦争」)であった根拠はほかにもある。すなわち、民間人に対する虐殺暴行と略奪、相手兵士に対する残虐行為である。これらはいずれも、万国公法が厳として禁じていたことであった。既に引用した官版「万国公法」第三巻「戦時実定法条規」の第二章「戦争の間遵守すべき条規」では、「敵に対すといえども、また廉恥忠信仁愛の道を失うべからざるはまさに泰西公法の要求する所なり」、「万国相交わるや平和の時に当たりては善を行う勉めてその多からんを欲し、戦争の時に当たりては悪を為す勉めてその少なからんを欲す」と明言し、軍装していない民間人に体しては、これを殺し、傷つけ、辱め、追放し、理由無く捕らえるなどを禁止し(第三章「戦権の条規人身上に係わるもの」)、兵士に対しては、負傷して戦えない者や兵器を捨て投降してきた俘虜に対してこれを殺戮または傷つけてはならないと定めている(同章)。そして、物品に関しては、敵国の国家に所属する物品は戦利品としてこれを奪ってもよいが、民間人に対する物品は奪ってはならないと定めている(第四章「戦権の条規物件上に係わるもの」)。加えて、第5章「戦争の方法策略を論ず」では、戦争目的に対して意味のない、殺戮、毀傷、屈辱、物品の略奪など強暴な作戦を禁じているし、文明国では、戦場でも仁愛の道が盛んであって、熾烈な戦いの後は、数時間もしくは数日の停戦を結んで、双方の戦死者を埋葬し、負傷者を収容することが人の踏み行うべき正しい道となっていると断言している。
ところが、新政府軍は、戊辰戦争で万国公法に違反した多くの残虐行為と略奪を行い、会津軍の戦死者に対しては、埋葬を許さず、埋葬した者を罰した。まさに文明国としてあるまじき、万国公法違反の野蛮国の所業であった。一つだけ政府軍の残虐行為の実例を挙げれば、戊辰戦争終了後、慶應義塾の福沢は、塾生の中に土佐藩出身の「恐ろしい顔色」をした男を見つけた。彼は赤い女の着物を着ている。福沢が、これはどうしたのかと尋ねると、その男は、会津で分捕ってきた着物だと言って威張ったというのである(福沢諭吉『福翁自伝』)。福沢は『福翁自伝』で、この男を「実に血生臭い恐い人物」と表現したくらいだから、この男は、会津で女子を乱暴して着物を略奪したのに間違いない。殺人さえ犯したのであろう。一方、会津軍の兵士も婦女子へ乱暴したり、民家の略奪をした、と主張されることがあるが、この根拠は概ね政府軍側の医師ウィリスの記録だ。ところが、ウィリスは実際にそれを見たのではなく、あくまで伝聞情報であるから、これは検証に耐えられない。政府軍が暴行殺害しておいてから、会津藩がやった、と風説を流したかも知れないからである。
いずれにせよ、新政府軍が、天地神明に誓って国内外に宣言した万国公法の遵法を自ら破り、会津と東北諸藩に対して暴行略奪の限りを尽くした「侵略戦争」を行ったことは否定できない事実なのである。会津藩では、多くの婦女子が自害したが、それは、籠城時に足手まといになることを避けたという面もあるが、会津に侵略してくる悪逆非道な新政府軍の乱暴狼藉の有様を伝え聞いて、彼らから節を守ろうとした面も強いし、白虎隊の自刃も、本質的には、主家に殉じようとしたのではなく、侵略者に故郷を侵されたという絶望感が引き起こしたものなのであろう。中立を訴えた長岡藩の河井継之助を侮辱したのも、明白な政府軍の万国公法違反である。
西周の万国公法の講義内容をすべて暗記していたといわれる山本覚馬は、戊辰戦争の勃発を知ると、収牢されていた薩摩藩宛てに、万国公法のように公明正大な取り扱いによって戦ってほしいと嘆願した。しかし、それも徒労に終わったのである。
なぜ、新政府は、表向き万国公法すなわち国際法の遵守を宣言しておきながら、その裏でそれを平気で破ったかといえば、まず、国際法遵守は、列強からの新政権承認の要件であったため、便宜的にそれを宣言した、という側面が挙げられるであろう。ところが、実際には、新政府は、その国際法の中身の研究はさほど行わず、兵士にもその内容を徹底しなかったのではないか。しかし、その遵守を宣言した以上、中身を知らなかったでは許されない。
しかし、筆者は、それよりも、新政府側に、国際法を軽んじ、本気で取り扱わない気風があったのではないか、と考える。木戸孝允は、まさに維新政府発足当時、「兵力が整わなければ万国公法も元より信じるべきではない。弱国に向かっては、おおいに万国公法を名として利を謀る国も少なくない。故に、私は、万国公法は弱国を奪う一道具である、と言っているのだ」と日記に記している(『木戸孝允日記第一』)。
一方、会津藩や旧幕軍は、国際法を熟知し、それを尊重した防戦を行った。秋月悌次郎が開城時に三流の白旗を掲げたのも、万国公法に従った所作であった(松本健一『開国・維新』)。
幕末、公議政体派は世界の理性を信じ、国際法を重視して真剣に研究していた。一方、討幕派は、世界は弱肉強食の世界であるとして力に頼み、国際法を軽視していた。しかし、その後、条約改正という国家目標の達成のために、しばらくの間、我が国は、国際法を真面目に遵守していたが、その目標が達せられた日露戦争後は、また元のように国際法を軽視しだし、ついには、それを明らかに破って侵略戦争を開始した。戦争の間、我が国の軍人は各地で国際法違反を起こした。さらに、現代でも、我が国の言論人の中に、国際法を尊重すべきではない、と発言する者が目立つ。
我が国の国際法軽視と違反の悪しき伝統は、まさに戊辰戦争から始まったのである。
6 戊辰戦争とシビリアンコントロール
新政府は、戊辰戦争を引き起こすと、徳川や会津を滅ぼすために、政府とは別個の軍事組織である総督府を勅命で組織した。この総督府には、軍令、軍政に関する一切の権限はもちろん、諸大名の進退、領地の処分、窮民の救済など民政一般に係わる幅広い裁量権まで与えられ、徳川に対する寛典処分の嘆願書さえ、政府にではなく、総督府へ提出することが義務づけられた(佐々木克、前掲書)。そして、総督府の長である東征大総督には新政府の長である総裁有栖川宮親王が総裁在職のまま任ぜられ、その参謀には西郷が就く。そして、戊辰戦争の推進体としてつくられた軍事組織の総督府は、後の植民地経営にも応用され、台湾総督府、朝鮮総督府として受け継がれる。
政府そのものではなく、軍事組織の総督府が、政府側における戊辰戦争の戦争遂行の全てを取り仕切った理由は、政府にはなお徳川慶喜に味方する意見や戦争反対論があったため、政府自体が戦争指導を行うと、それらの意見によって戦争遂行が妨げられる可能性があったためである(佐々木、前掲書)。薩長の討幕派は、政府軍に対するシビリアンコントロール(文民統制)を排除するために総督府という別立ての組織を整えたのである。そして、形の上では有栖川親王が政府と軍を代表したが、実際には、親王は看板に過ぎなかった。
後に藩閥政府がつくった大日本帝国憲法は、この軍・政分離の仕組みを明文化したものであった。すなわち、帝国憲法によって、軍隊を統帥し、陸海軍を編成し、宣戦を布告したり和平を結ぶ権限を天皇が独占して、議会は、予算面における関与以外、軍隊の行動をコントロールする道が閉ざされてしまったのである。これも、実際には、現実に軍事を支配する者たちが、天皇の御名を利用して、議会からの干渉を極力排除し、自分たちの軍事行動の自由を確保するために定めたものであった。
帝国憲法制定後に制度化された戦時の最高統帥機関である大本営(戦時の天皇の陸海軍最高統率機関)も、昭和に入って政治問題化した統帥権の独立の議論も、帝国憲法の軍・政分離とシビリアンコントロール排除の規定に起因するものであったが、これらは、根源的には、戊辰戦争時の総督府に由来するものだ。すなわち新政府の成立過程で既に内在化されていたものなのである。
そして、まだ日露戦争の頃までは、戊辰戦争以来、政府において政治と軍の両面を支配した薩長の藩閥政治家が存命していたから、政治と軍は一致していたが、彼らが次々とこの世を去り、官僚組織が肥大化してゆくにつれて、軍・政の一致は不可能になり、やがて軍は暴走してゆくのである。
一方、戊辰戦争時に東北と越後の諸藩が会津藩救済のために取り結んだ奥羽越列藩同盟では、諸藩は平等の原則を定めて奥羽越公議所をつくり、軍・政一致の戦略や政策を話し合った(星亮一『奥羽越列藩同盟』)。奥羽越公議所という名の通り、諸藩は、公議政体を樹立したのである。奥羽越列藩同盟と奥羽越公議所は短期間で崩壊したものの、それらは、公議政体派の諸藩がうち立てた議会主義とシビリアンコントロールの記念碑として永遠に記憶すべきものである。
7 おわりに―戊辰戦争とその後の近現代史―
これまで、「公議政体派」史観によって我が国の近代史における戊辰戦争の意味を考えてきた。戊辰戦争は決して、単なる会津藩や東北越後の諸藩に仕掛けられた地域的、部分的な戦争ではなかった。我が国の近代史の歩み全体に影響を及ぼした、とてつもなく大きな意味をもつ歴史的事件である。
戊辰戦争は、政府内で劣勢に追い込まれた倒幕派が、公議政体派の優位をひっくりかえすために、謀略によって公議政体派の慶喜や会桑藩を挑発して引き起こした万国公法違反の「侵略戦争」である。しかも、その万国公法は、新政府が自ら天地神明と国内外にその遵守を誓ったものなのだから、倒幕派の罪は極めて重い。
戊辰戦争は、公議輿論に基づく公議政体の樹立を阻み、我が国の良き伝統である象徴天皇制を破り、天皇の御名を利用して討幕派とその後継者である藩閥政治家が長く政治を支配するシステムを確立し、国民に対する政治責任を忌避し、我が国の民主主義の運動を歪めてその発展を遅らせた。そして、謀略と暴力による政権奪取、シビリアンコントロールの排除、国際法軽視と違反などの悪しき伝統を生んだ。戊辰戦争のプラス面といえば、慶喜・会津藩・桑名藩ら徳川側が公議政体論を掲げ、新政府内の倒幕派に非を唱え、まさに血の贖いによって五箇条の御誓文の発布を政府から引き出したこと。たとえ短期間で崩壊したとはいえ、会津藩と奥羽越諸藩が郷土防衛のために一致協力して侵略軍に毅然と立ち向かい、新政府の悪辣なやり方に異議を唱え、武士道の気概と誇りを天下に示したこと、奥羽越列藩同盟が公議政体を樹立し、近代日本に於けるシビリアンコントロールと議会主義の伝統の嚆矢となったこと、会津藩が主従一体となって侵略軍に対して最後まで奮戦し、我が国の武士道の誉れを百世に輝かせたこと(尾佐竹、『維新前後における立憲思想』)、などが挙げられる。
さて、歴史にifは禁物だという。しかし、常にifを考えるのが歴史家の習性であるとも言えよう。特に、歴史から教訓を得るためには、むしろifを考えることが大切な作業となろう。
そこで、もし、討幕派による「王政復古のクーデター」が失敗し、公議政体派が朝廷で政治の実権を握っていたら、従って戊辰戦争が回避されて公議政体が樹立されていたなら、我が国の近代の歩みはどう変わっていたか、少し考えてみよう。これは、可能性の議論だから、以下の事が百パーセント必ず起こっていたはず、などと断言するつもりは毛頭ない。しかし、そうなる可能性が確実に存在していたことだけは事実なのである。
まず、朝廷より、公議政体樹立の詔が発せられる。そこで、慶喜はもとより、薩摩、会津、土佐、長州、仙台、尾張、越前、桑名等々、旧討幕派を含めて、全国の諸侯と有力藩士が朝堂に一同に会する。彼らは、天皇に拝謁した後で、公議政体の具体案を議論する。具体案といっても、現実に案をまとめていたのは、「憲政の第一人者」徳川慶喜くらいだから、慶喜が仮議長となって、まずは、西周に作らせた憲法草案を検討することになる。しかし、坂本竜馬以来の公議政体派の一方の本山・土佐藩からも、後藤象二郎あたりが別に憲法草案を提出して、これも検討されることになる。それに加えて、横井小楠が堯舜の理想や大義の理想を持ち込んできて、議論は大いに盛り上がるが、大久保や木戸や西郷ら旧倒幕派の薩長は、立憲政体に対する研究が不足していて発言が出来ず、歯ぎしりをするばかりであろう。会津藩からも容保のほかに、神保修理か秋月悌次郎、山本覚馬あたりが参加して、開明的な意見を述べるであろう。
結局まとまる公議政体案は、西の原案を大きく修正した、より民主的なものになる。なぜなら、新しい政府は「公議世論に基づく政治」がモットーだから、最大の雄藩となった慶喜も、立場上強権を発動できないからだ。
さて、公議政体の内容が詰まると、さっそくそれを盛り込んだ「憲法」が制定、発布される。いくらなんでも早すぎる、という印象は間違っている。もともと、公議政体は立憲政体なのだから、はじめに憲法ありきなのである。現実の明治新政府は、幕府を滅ぼすことだけ考えて、その後のビジョンがなかったから、猫の目どころか、独楽のように、くるくると政治機構を変えていったのであり、藩閥政治家が政治を独占したかったから、憲法の制定を遅らせたのである。公議政体ができていれば、我が国は二十年も早く憲法を持ったであろう。ただし、名称は「憲法」になるか、「国憲」となるか、「大律」となるかは別の話である。いずれにせよ、「大日本帝国憲法」といういかめしい名称ではなく、「日本国大律」などというシンプルなものになったかも知れない。
これより、その憲法の内容を検討してみよう。
まずは、「立法」だが、新政体の立法府が二院制を取るのは明らかだ。上院は、諸侯からなり、下院は諸藩選出の藩士からなるだろうが、ひよっとすると、一部の庶民も下院議員に選ばれることになるかもしれない。この下院は、本文でなんどか触れた明治政府の公議所とほぼ同じ組織になったはずである。
上院の議長は最初は慶喜が選任されるが、たぶん土佐派の主張により、議長の任期は制限されていて、数年後には、別な藩主に交代することになろう。容保も何度か目の議長には選ばれたはずである。
下院の議長は、年長者の横井小楠が候補者として上がるが、彼は禁制のキリスト教臭いと批判する対抗馬も出て、結局、大政奉還と公議政体樹立の立て役者、後藤象二郎あたりが選ばれるであろう。実際、後藤は、明治政府の左院(法律審議機関)の議長になっている。
議決権は、下院は一人一票になるだろうが、上院は、各藩が平等に一票ずつ持つか、雄藩の方が票を多く持つかで議論が紛糾するだろう。しかし、東北諸藩は、奥羽越列藩同盟で示した実例の通り、一藩一票を強く主張するだろうし、他の諸藩も、徳川や薩長を牽制するため一藩一票を主張し、結局は、各藩とも、大差ない議決権を得ることであろう。この辺で、西郷が脅しすかしの裏工作を始めるだろうから、政治危機が一度や二度は訪れる。
公議政体が、その危機を乗り越えて議会が始まると、いよいよ下院では、さまざまな改革案が出てくる。すでに朝廷が徳川の大政奉還を裁可した時点で、各藩の法的な成立根拠は無くなっているから、現実の明治新政府の公議所で議論が起こった通り、さて郡県制を取るべきか封建制を維持すべきか維持するなら法的な国家構造はどうなるのか、という議論がまず起こる。たぶん、これは何度か時期尚早の結論となろうが、そのうちに展開される文明開化(「文明開化」という言葉は、明治維新後ではなく、慶応3年に福沢が著した『西洋事情外編』に出てくる言葉である)の諸施策の中で、いよいよ封建制の矛盾が出てきて、ついに上下院は廃藩置県を決するであろう。
つぎに「行政」だが、これは、今で言う議院内閣制が取られ、閣僚による合議制で政治が行われるだろう。そして、まずは慶喜が行政府の長に選ばれるが、これも任期が定められていて、数年後には他の者にその職を譲ることになる。
当初は、上院の議員でもある諸侯によって内閣は構成されるが、諸侯だけでは力不足のため、やがては、下院の有力藩士も内閣に加わるであろう。
この内閣の政務範囲は、あくまで全国に共通する外交・防衛・経済政策等に限られており、各地域の政治は、諸藩(のちに郡県)が国政と矛盾しない範囲で取り仕切ることになる。つまり、地方分権が最初から明確になるであろう。もちろん、諸藩も「条例」を制定する議会を持つはずだ。
そして「司法」だが、これは、明治政府よりも、もっと徹底した三権分立がはかれたであろう。公議政体とて、不平等条約の改正が大方針となるのは明らかだから、諸外国の近代的法制度が積極的に導入されるはずである。
そのような「憲法」に基づく政治はどのようなものになったであろうか。
まず国政だが、初代行政府長の慶喜は、公議輿論を尊重した善政をおこなうことを施政方針とするはずだ。最初の政治課題は、財政的に窮乏した諸藩から求められる救済策の検討であろう。地方分権とはいっても、この問題は、地方の行政府だけでは解決が困難だ。そこで取られる政策は、我が国の経済の近代化と輸出振興策であろう。農工商の活性化のためにも、四民平等策が取られるであろう。このとき、政府で経済政策を指導するのは、福沢諭吉である可能性が高い。福沢は、明治維新後は「やせ我慢」の節をとおして新政府への仕官を固辞したが、大政奉還当時は、純然たる幕臣であったから、公議政体が樹立された場合は、そのまま当代きっての経済通大臣として、敏腕を振るっていたことが充分考えられるのである。「封建制度は親の仇」とまで言う福沢だから、明治政府以上の改革をどしどし押し進めていったに違いない。
次に外交であるが、外交の継続は国家運営の基本であるから、幕府の老練な外交官が、ひきつづき外交を担い、開国政策を堅持するはずである。これは非常に重要な点だが、筆者の考えでは、新政府の最大の失敗の一つは、徳川時代の外交官を放逐し、素人で尊皇意識に凝り固まった素人を外交責任者に据えて、隣国李氏朝鮮国に、事実上「日本型華夷秩序」に入るよう迫る外交文書を送って、我が国に対する拭い去ることの出来ぬ不信を招き、同国との友好関係を破綻させたことにある。さらに、戊辰戦争の結果として、戦争によって新政府の発足に貢献したにもかかわらず、新政府内で必ずしも高い地位を得られないという士族一般の不満をそらすために、政府が、対外侵略を考えたことも大きな失敗である。前者に関して若干説明すれば、華夷秩序とは、もともと中国が抱いていた世界観で、中国が文明の中心で、それより遠くなればなるほど、未開で野蛮な世界になる、というものである。朝鮮国は伝統的に、この中国の華夷秩序の世界の中に自己を位置づけてきた。そこで、秀吉の朝鮮出兵で最悪の関係になった朝鮮国との関係を修復した徳川幕府は、同国との関係を対等で友好的なものとするために、特に、同国への外交文書には注意深く「皇」や「勅」の文字の使用をさけた。なぜなら、この「皇」「勅」の文字は、中国の華夷秩序の中にいる朝鮮国にとっては、中国だけが使用し得る文字であり、それを我が国があえて用いれば、朝鮮国としては、我が国が、日本側の華夷秩序の中に取り込む意思を持つ、と見なされるからである。ところが、明治政府は、発足するといきなり、この外交慣例を破って、朝鮮国に「皇」「勅」などの文字を使用した文書を送って、新政府との外交を求めた。当然ながら、朝鮮国としては、自国を隷属させる意思を宣言するような文書は受領できないとしてその受領を拒否したが、これに対して、我が国は、朝鮮国は無礼であると憤激し、征韓論まで叫ばれた。そして、それ以降、両国との対等で良好な関係は回復出来なくなったのである。また、後者に関して述べれば、西南戦争もそこから生じた悲劇であった。よく、西郷は、鹿児島の不平士族に担がれて事を起こした、と表現されるが、本質的には、士族に不平をもたらしたのは、政権を奪うために彼らを利用した西郷自身であった。一方、もし公議政体が樹立されていたなら、その外交担当者は、鍛え上げた手練で、対等な関係を維持したまま朝鮮国を開国に誘い、同国も我が国を信頼して、やがて中国の華夷秩序を離脱し、新しい国際法秩序の中で、共に手を取り合って自立し、地位を向上させてゆくことが出来た可能性があるのである。また、公議政体ができていれば、戊辰戦争は起こらなかったのだから、政府の樹立に士族の実力行使は不要であり、従って士族の不平も蓄積されず、対外侵略というはけ口も考える必要がなかったのである。その場合、西郷が名を馳せた江戸城無血開城の場面は無いが(それさえ、実はイギリスのパークスが、国際法に照らして民間人を虐殺しないよう西郷を諫めたことが大きな理由だった)、その代わり、彼は城山で自刃しないで、老後には愛犬を連れてのんびり散歩を楽しむことができたはずだ。
次ぎは軍政だが、公議政体では、当初は、アメリカ合衆国における政府軍と州兵のように、公議政体軍とともに、地方藩兵も存在することになろうが、やがて政府軍一本に統合されることになるだろう。西の「憲法草案」でもこのような趣旨が述べられている。おそらく、徴兵制は、その必要が無いため、取られないであろう。我が国の知識階級は概ね武士階級であったから、武士のある割合は国と地方の文民官僚となり、一般の武士は、そのまま、職業軍人となったであろう。その軍隊は、武士道精神が横溢し、また、行政府長が最高司令官となるシビリアンコントロールによって良く統制された、国民の尊敬を浴びるものとなるだろう。
それでは、公議政体が樹立されていれば、日清・日露戦争、満州事変、日中・対米英戦争は起きなかったかどうか。
まず、日清戦争だが、これは、朝鮮国を政治的・軍事的に直接支配しようとした清国と、朝鮮国を清国から名実共に独立させ、同国に対する清国の支配を排除しようとした我が国との戦いであった。それは、清国と我が国との間の、朝鮮国をいずれの勢力下に置くか、という勢力争いに起因するものではあったが、その一方で、明治政府は、万一、清国が朝鮮国を軍事的に支配すると、我が国の安全が脅かされると考え、それを防ぐために予防戦争を起こした意味もあった。しかし、そこに至るまでには歴史の経緯があり、朝鮮国側の明治国家に対する不信も大きな原因の一つであった。そこで、我が国に公議政体が樹立されていれば、事態がそこまで悪化することを回避できた可能性は充分にあった。もし、回避できなくとも、我が国は、万国公法に則り、国際紛争の解決のための戦争や予防戦争は行わなかったであろう。さらに、万一、清国が朝鮮国を軍事的に直接支配した場合は、我が国は断固として清国の脅威に備えるであろうが、我が国は、伝統的に中国の華夷秩序の外にあったから、清国がその秩序外にある我が国へ侵攻する可能性はきわめて低いであろう。
日露戦争の場合はどうか。これは、日清戦争の結果、韓国(李氏朝鮮国は1897年に大韓帝国と改称)が我が国の勢力圏に入ったために、韓国の安全がロシアによって脅かされた時点で現実の戦争が起こった。しかし、本質的には、この戦争はロシアの膨張主義に起因するものだから、日清戦争が起こらなかった場合でも、韓国がロシアの支配下に入り、ロシアが我が国の安全を直接脅かした場合には、我が国は断固としてロシアと戦ったであろう。この場合は、公議政体として最大の危機となる。実際の歴史では、日清戦争後の「臥薪嘗胆」の軍備拡張があって、どうにかこうにかロシアに勝利したのであるから、日清戦争を経験していなければ、我が国の軍事力の劣勢は明らかであり、到底一国だけでは勝負にならない。しかし、ロシアが直接日本に脅威を与えれば、当時、中国に権益を得ていたイギリスとしても、先の米西戦争でフィリピンを得たアメリカとしても、大変な脅威になるし、他国の直接的な侵略は当時としても国際法の許すものではない。そこで、英米は我が国を支援するのは明らかであり、公議政体も、それをにらんで英米と交渉するはずだ。そして、我が国は、英米と同盟を結んでロシアに挑み、3ヶ国連合軍はロシア軍を粉砕するであろう。そして、その後、我が国と米英との関係は強固なものとなるだろう。
満州事変は、我が国の関東軍の独走によって引き起こされた、国際法違反の露骨な侵略戦争である。それに続く日中戦争も含めて、それらは、我が国の軍部がシビリアンコントロールによって統制されていないがゆえに生じた戦争であり、我が国が日露戦争で満州(中国東北部)に権溢を得ていなければ起こらなかった戦争である。従って、公議政体が樹立されていれば、軍隊は厳としたシビリアンコントロールの下にあり、さらに、万一、ロシアと戦って勝利しても、我が国が満州の権益を得ることはあり得ないから、これらの戦争は起きるはずがなかった。仮に満州の権益を得た場合でも、それは、英米と共有されるだろうから、我が国が満州事変を起こすことは考えられないのである。
そして、対米英戦争である。それは、それ自体に限れば、自衛戦争の面も確かにあった。だが、本質的には、対米英戦争は我が国の中国侵略戦争がもたらした帰結であった。しかし、もしも我が国に公議政体が樹立されていれば、これまで述べてきたことから、中国侵略戦争は起きるはずがなかったので、対米英戦争も起こらなかったと断言できるのである。
以上、公議政体が樹立できた場合の我が国の近代の歩みを素描してみた。
公議政体下の我が国は、国際連盟で五大国の一つに列せられるような「大国」にはならなかったかもしれない。しかし、古代ギリシャが「哲学の国」とよばれ、古代ローマが「法律の国」と呼ばれ、近代フランスが「平等の国」と呼ばれ、アメリカが「自由の国」と呼ばれたように、近代日本は、世界から、「正義公道」の国と呼ばれて、重きを為した可能性はある。
現実の、薩長倒幕派がつくった「天皇制」国家すなわち大日本帝国は、1868年、戌辰戦争のさ中に生まれて、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争、日独戦争(第一次世界大戦)、シベリア出兵、山東出兵、満州事変、日中戦争、対米英戦争等、わずか78年弱の間に二桁を上回る戦争を行い、数百万の戦死者を出して、1945年に滅んだ。
「天皇制」を採った大日本帝国の時代は、我が国が千年にわたって綿々と維持してきた「象徴天皇制」の良き伝統からすれば、極めて異質の例外的時代であった。しかし、公議政体派の後継者たちは、すでに選択肢は極めて限られたものとなってしまったが、その時代の中で、自由民権運動や議会の活性化、大正デモクラシー運動などの民主主義運動を推進してきた。
そして、戦後、我が国は、我が国古来の伝統の象徴天皇制に戻り、国際法への信頼を基調とする日本国憲法を制定して、公議政体制すなわち議会制民主主義国家として再出発することになった。日本国憲法はアメリカに押しつけられた憲法だ、という議論があるが、立憲制度そのものが、我が国に固有の制度ではなく、いわば人類の共有財産であり、とりわけ、象徴天皇制は、幕末の公議政体派が抱いていた立憲思想の伝統に基づいたものだから、この説は成り立たない。
いままで述べてきた「公議政体派」史観は、薩長の倒幕派が形成してきた歴史観のパラダイムを打ち破るだけではなく、これからの我が国の進むべき道をも示すものだ。
すなわち、我々は、暴力や戦争を否定し、政府主導=民間や地方の「お上」追従意識を改め、アジアにおける日本型華夷秩序構築の夢想を完全に放擲して、象徴天皇制の下、軍事に対するシビリアンコントロールを確実にし、公議世論に基づいた政治に努め、国際法を尊重して各国の主権を重んじた外交を行うことに徹するべきなのである。
首都機能の移転も、われわれが行うべき重要な政治行為だ。それに反対する東京都の主要な論拠は、首都機能移転には莫大な金が掛かるので、その分の金を東京に回してもらった方が経済的に有効だ、つまり、金を地方に落とさず、東京に落としてくれ、という中央政府本願論であり、「地方に国会が移ると、天皇陛下が開会のたびに地方に赴かなければならず、お困りになる」という、自説のために天皇の御名を利用する藩閥政府型議論だ。そのような否定すべき「天皇絶対主義」時代の政治の残滓を一掃するためにも、ぜひとも首都機能の移転は必要なのである。
おわりに、筆者は、会津をはじめとする東北の諸大学の学生諸君に、本論考を参考にして、鹿児島や山口の大学生相手に、次のような命題に対して肯定側に立って、歴史ディベートを行ってもらう願いがある。
〈命題〉
「明治維新が無くても日本は近代的な国民国家になることができた」
「戊辰戦争は避けることができた戦いであった」
「戊辰戦争は、政府の討幕派が起こした国際法違反の『侵略戦争』であった」
相手側の学生は、我々の浄財によって戊辰戦争の舞台となった会津へ招待し、前日は、歓迎式典を行う。当日のディベートは、互いに三人か五人毎にチームを組んで公開制で行う。どちらが勝っても負けても、試合終了後は互いに握手し、皆で同地の観光を行い、親交を深める。その行事すべてをマスコミに取材していただき、できれば全国ネットのテレビ・ニュース等で取り上げていただく。会津大学をはじめとする東北の学生の士魂は、必ず相手側の学生に深い感銘を与えるはずだ。
もし、読者の中にこの企画に賛成される方がおられたら、ぜひお力をお借りしたい。この企画が実現して、学生の歴史ディベートが行われ、肯定側が勝利すれば、マスコミも大きく取り上げてくれ、「公議政体派」史観による維新史見直しのきっかけとなる。なにより、不義の戦争を仕掛けられて無念のうちに落命した戊辰戦争の東軍の犠牲者の弔いとなる。加えてそれは、参加する両地域の若人達が、真の友情をはぐくむ絶好の機会となるからである。
<参考文献(登場順)>
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深田三徳「人権の普遍性をめぐる諸問題(二)」『同志社法学252号』同志社法學会 1997年
拙著『蘇峰先生の根本精神』(財)蘇峰会 平成12年
『大久保利通文書二』(日本史籍協会叢書29)東京大学出版会 昭和2年(昭和58年復刻再刊)
高橋富雄「京都守護職の論理と倫理」『会津史談第73号』会津史談会 平成11年
大久保利謙「万国公法解説」『西周全集第2巻』宗高書房 昭和37年
西周訳述「万国公法」『西周全集 第2巻』宗高書房 昭和37年
福沢諭吉『新訂福翁自伝』岩波文庫 1978年
木戸孝允『木戸孝允日記第一』日本史籍協会 昭和42年
佐々木克『戊辰戦争』中公新書 昭和52年
松本健一『日本の近代1 開国・維新』中央公論社 1998年
星亮一『奥羽越列藩同盟 東日本政権樹立の夢』中公新書 1995年